25.『This Is the End / 人間失格 (仮)』

 

太宰に憑依された男の話

2024 予定

 

 

 

 

 

24.『Elegy / 哀歌 (仮)』

 

発狂する女の話

2024 予定

 

 

 

 

 

23.『Variations / 変奏曲 (仮)』

 

震災後の話

2024 予定

 

 

 

 

 

22.『Big Star / アレックス・チルトンを思う (仮)』

 

 

暑さのせいなのかどうかはつゆ知らぬが、毎年恒例、もはや夏の風物詩とでも言えようか、今年の夏も至極当然のごとく私はすっかり糞詰まって行き詰まっていた。

とにかく夏は暑くて暑くてかなわぬところへ、近頃じゃ加齢のせいかすぐに目がショボショボと涙目になるし(今も泣きながら書いている)、ピントも大仰にブレまくる

し、何より中老の薄らボケナス頭にぼんやりと浮かび上がる情景(イメージ)を消えてしまわぬうちに素早く捕らえて言葉に変換し、さらには誤字脱字句読点の打ち方や

その他諸々を逐一チェックしながらチビチビと書いていくのがどうにもこうにも面倒くさくてしんどくて正直やり切れぬし、それにそもそもの話、こんな場末のうら

ぶれた飲み屋の最奥、糞尿ゲロ塗れな便所の壁に書き殴られたような愚にもつかぬ文章に何か意味などあるのだろうか、いっそのこともう書くのはやめにして、この

ままこっそりフェイドアウトしてどこか遠くへ逃げて行ってしまおうかとも思ったのだけれど、私の中にはまだまだ書きたいことがいくらか残ってあって、それらは

是が非でも書かねばならぬことでもあるから、是が非でも書かねばならぬと思うことは、やはり是が非でも書かねばならぬのだ!と己の尻に鞭を打ち、男一匹(女一匹

も)一旦やると決めたことは何が何でもやり遂げねばならぬのだ!それを果たさずして死ぬわけにはどうしたっていかぬのだ!と己を遮二無二奮い立たせ、初志一貫、

これから先も書き続けていくと心に決めたところである。振り返ってみれば、2020年よりここに駄文の数々をグダグダと書き連ねてきて、当初は無謀にも「50歳まで

に小説を20篇ほど書き、その中から14~5篇を選び、本という形にまとめる」などと脳天気に息巻いていたものだが、予定はあくまでも予定であり、世の中そんなに都

合良くは行かぬもの、残念ながら「本にまとめる」という目標はいまだ叶わぬまま、めくるめく時は流れ、2023年もそろそろ終わりに近づこうという今現在の私は気

づけばすでに51歳になっているわけだけれども、果たしてここに書かれた駄文の数々が厳密な意味での「小説」と呼べるかどうかについては甚だ疑問であり検証の余

地があるとはいうものの、何とも幸いなことに「20篇ほど書く」という当初の目標だけはどうにかこうにか達成できてはいるのであった。これまで私は「他人の顔色

などは一切窺わず、自分が書きたいものを、書きたいように書いていく」「己の心ときちんと対峙し、己の心の奥底に巣食う愚劣なものや醜悪なものまで含むすべて

を正直に曝け出した上で、その中からわずか一欠片でもよいから、美しい何かを発見していく」「何とか人並みに真っ当に生きたいと願うも、どうしても愚劣にしか

生きられぬ者が、そのどうしようもない己の愚かさを藝術にまで昇華させ、まさに愚か者にしか表現し得ぬものを地を這うように死物狂いで表現していく」と腹を括

り、誰に頼まれたわけでもなく金や名声のためでもなく、ただ自分が書きたいからと書いてきて(これは絵の場合もまったく一緒)、もちろん誰か他人に「いいね!」

と褒められたいがために書いているわけでもなく、言うなれば、自分で自分に「いいね!」するためだけに書いてきたようなものであるからして、他人に読まれたな

らばどんなにか恥ずかしいと思うようなことであっても、人でなし!ろくでなし!能なし!甲斐性なし!ウジ虫!便所虫!この変態野郎!と世間から後ろ指さされよ

うとも、自分が是が非とも書かねばならぬと思ったことは、やはり是が非とも書かねばならぬのである。これは一見簡単なようで、実践するのが甚だ難しく、そして

何より甚だ恥ずかしく、でもこの大切なポイントを見失うと元も子もなくなってそもそも書く意味などまったくなくなってしまうから厳重な注意が必要なのである。

ゆえに、これから先も私は、さらに臍下丹田に力を込め、尻の穴をキュッと引き締め、己の身内にまだ残ってある、是が非とも書かねばならぬと思っておる2~3篇を

グダグダとここに書き連ねていき、一体いつになることやら皆目見当もつかぬけれども、晴れて自分の書きたいことのすべてを無事に吐き出すことができた暁に、ひ

とまずそれらを寝かせ、やがて自分で書いたことすらすっかり忘れ去ってしまった頃ふと思い出し引っ張り出してきて客観的に眺めた上で、それでもなお、他の誰で

もなく私自身が本当に心から面白いと思った時にあらためて「本にまとめる」という次のフェイズへと移っていこうかと目論んでいるところである。中途半端なもの

を無理やりまとめたところで意味はなく、それは何も表現していないに等しく、己の納得のいくレベルに達したところで1冊の本にまとめることにしたいのである。

太宰治の第一創作集の序文にあるように「これを書くために自分は生まれてきた」と正々堂々胸を張り宣言できるまで、書きたいこと、書かねばならぬと思うことを

書いていくつもりである。慌てる乞食は貰いが少ないと諺にもある通り、こういうのは焦っても仕様のないことで、たとえどんなに時間がかかろうとも、己の持てる

力を100%発揮した、正々堂々胸を張り己の作品だと主張できるような、100%己を投影させた、己自身が心底納得がいく、全身全霊、己の魂を込めたものを生み出さ

ねばならぬのである。よって、それまでのまだしばらくは表立った活動は極力慎み世捨て人のごとく隠遁生活を続けていく所存である。それはすなわちそれが書けな

ければ一生地下に潜ったまま寿命を迎えることを意味するわけであり、それならそれで別に構わぬけれども、できれば死ぬ前にもう一花咲かせたいという願望がこん

な自分にもないわけではなく、より一層頑張らねばならぬ!と己の尻を引っ叩いているところである。ちなみに本のタイトルだけは当初よりすでに決めてあって(もし

かしたら変更するかもしれぬが)、今のところは『電通 vs 坂口安吾』にする心積もりであり、それは2020年よりここにグダグダと書き連ねてきた文章の主要なテーマ

が、もう長きにわたり私自身が己の心の奥底に思い煩い続けてきたところである「日本の広告業界に対する根本的かつ生理的な不信感不快感および嫌悪感」を根底に

置いた「藝術と創作と分泌と排泄にまつわる話」であるからに他ならず、この些かあざといと取られるかもしれぬ「電通」というキャッチーな言葉は、もちろん「博

報堂」「ADK」「大広読広」「東急エージェンシー」「マッキャンエリクソン」「東北新社」その他含めた、すなわち「広告業界」の全体を象徴し、さらに「坂口安

吾」のほうは、これまた散々繰り返し書いてきた通り、私が27歳の時、たまたま読んだ坂口安吾の小説『白痴』にまんまとそそのかされ背中を押されるかのごとく、

21歳から27歳まできっかり6年間勤めてきた、フランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)を、もう広告なんてやってられっ

かよ!アホくさ!バカくさ!チンドン屋!アッカンベー!ベロンベロンバー!と唾吐きかけ、藝術家になる!と高らかに宣言し辞め広告業界から(一旦)足を洗った(がす

ぐにまた舞い戻った)経験に由来し、それら二つの言葉を上手い具合にガッチャンコと合体させて『電通 vs 坂口安吾』となるわけである。さらにもしも帯をつける場合

には「インド人もびっくり!」のごとく「糸井重里、痙攣!」「糸井重里、悶絶!」「糸井重里、失神!」「糸井重里、失禁!」「糸井重里、脱糞!」「糸井重里、

チョイ漏れ!」「糸井重里、ダダ漏れ!」「糸井重里、ヌレヌレ!」「糸井重里、ドバドバ!」などを一応候補に考えておるが、これは日本の広告業界を象徴する人

物といえば一体全体誰だろうか?と思案を巡らせた時に「氏」に匹敵する人物が他に見当たらぬからであり(これはある意味スゴイことである、もちろん褒めている)、

そんな日本の広告業界のゴッドファーザー的存在であるところの「氏」も読んで思わず漏らしてしまうほど官能的な内容であることを仄めかし、また以前どなたかの

本の帯に「糸井重里 泣き笑い」という文字をたまたま見かけ着想を得たものでもあり、おそらく実際には一面識もないため鼻にもかけられず断られるに違いがなく、

また人様の名前を勝手に使って遊ぶのはさすがに他力本願が過ぎるかとも思うから、その時はその時で再考することとして、それにそもそもの肝心の本の中身がいま

だ完成には至っておらず、そんな遠い未来のことなど今から考えておっても、捕らぬ狸の皮算用、何はともあれ、とにもかくにも、まずは書かねばならぬのである。

……

かように、ふやけてダラリと伸び切った風呂上がりの金玉袋のごとく夏の間にすっかり腑抜けてしまった己の心を一喝し、これから先も書き続けていくべし!と果敢

に決意した私であったが、ここに一つどうにもこうにも気になって仕様のない厄介な憂いごとが立ち現れてきたために、まずはそれから書いていくことにしようか。

前述の通り、2020年より私はこの場所に、もう長きにわたり己の心の奥底にわだかまり続けてきた「日本の広告業界に対する根本的かつ生理的な不信感不快感および

嫌悪感」を根底に置いた「藝術と創作と分泌と排泄にまつわる話」を自らの貴重な体験をもとにグダグダと書き連ねてきたわけであるが、それはもっと具体的にわか

りやすく言うならば、日本の広告業界に蔓延する悪しき慣習であり、私自身もその被害に散々悩まされ続けてきたところでもある、企画アイデアのパクリ問題他、パ

ワーハラスメント、コンプライアンス違反、ギャランティ未払い、不当労働問題など不正行為を中心に、もう吐き気を催すほど醜く腐り切った日本の広告業界やそこ

に蠢く魑魅魍魎、心卑しき広告屋連中を、辛辣な言葉を駆使して縦横無尽にバッサバッサと斬りつけながら正々堂々真摯に批判してきたわけであるが、そしてそれら

の文章はページの下のほうを探せばまだ消さずに残してあり、興味があれば一読してもらえば話が早いのだけれど、あらためて要約するならば「ことの発端は2000年

代初頭、私がまだ広告業界の片隅にひっそりと佇んでいた頃、フリーランスとして仕事を開始する際、営業ツールの企画サンプルとして配って回っていた『ぼつコン

テ集』(過去に仕事で提出し採用には至らずも自分では非常に気に入って保存しておいた絵コンテ約100枚ほどを1冊に簡易的にまとめた手作りの冊子で、私の広告業

界における血と汗と涙が滲む苦闘の歴史、情念や執念や怨念がぎっしりと詰まった、見る者によっては胃もたれや胸焼けや消化不良や不眠症などを引き起こしかねな

い、非常に濃ゆいディープな内容)から企画アイデアをネコババ・ヨコドリする不届者が現われ、常々私は企画アイデアを考える際は子供を産み落とす感覚でそれこそ

命懸けで臨んでいたために、あたかも腹を痛めて産んだ我が子を拐かされ嬲り殺された親が復讐を誓い卑劣な凶悪犯人を執念深く地獄の底まで追いつめていくかのご

とく徹底的に調べ上げていくと、ある特定の者たちが常習的にパクリ行為を繰り返し、私の『ぼつコンテ集』を食い物にしていることが判明、その中には広告業界で

超有名なスタークリエイターなどと呼ばれて偉そうにふんぞり返っておる者も複数含まれ、彼らのパクリ行為は常軌を逸して悪質、仕事を受注する側のフリーランス

という後ろ盾のない弱い立場であるこちらが黙っておればいい気になりおってみるみるとエスカレートしていき、挙げ句の果てには、私が自分のホームページに載せ

ている絵の作品群にまで彼らのパクリ行為の被害が及ぶようにもなってきて、物事には限度というものがあって、普段は温厚篤実なジェントルマンを自認する私も思

わず殺意を覚えるほどに悪質極まるゆえ、絶対に許してはおけぬ、悪の報いは針の先、悪事を働けばいつか必ず自分に跳ね返って来るはずだから、そのうち天罰が下

るぞよ、首を洗って待っておけ!このパクリ猿どもよ、KILL YOU! & FUCK YOU!」といった主旨の文章を、時に照れ隠しの上質なユーモアなど交えながら客観的かつ

論理的に書いたわけだけれども、もちろん誰か他人を殺めてやりたいなどと言葉にすること自体が根本的に下品な行為であるのは百も承知の上、それでも書かずには

おられぬからやむにやまれず私は書いたわけであり、私のこの殺意を覚えるほどの激しい怒りは至極真っ当な怒りであり、実際に行動に移すか否かは別の話として、

決して冗談でも何でもなく正真正銘ホンモノの殺意であり、それはたとえるならば、畑の作物を食い荒らすだけに留まらず、勝手に家にまで土足で上がり込み、冷蔵

庫を物色し食い散らかすどころか、しまいに恋女房や愛娘まで掠奪していく、悪辣非道な猿どもをいつか必ずショットガンで撃ち殺し仇を討ってやりたいと願う農夫

の怒りと哀しみにも似た感情を、私はもう20年近くも心の奥底に秘め続けてきたものだから、その積年の恨みつらみにまかせて本当にやむにやまれずに書いたわけな

のだけれども、それにもかかわらず、この期に及んで今現在も依然として卑劣なパクリ行為を続ける不届者が多数存在し、なおかつ、彼らのパクリ行為の対象が、今

度は何とも驚き呆れ返ることには、ここに書かれた文章にまで及んできているという忌まわしき事実を目の当たりにして、私は心底憂いているというわけであった。

……

私は当初よりこの場所に上記テーマで文章を書いていくにあたり、今まで私に対しストーカーのごとく常習的にパクリ行為を続けてきた不届者たちも必ずやここに書

かれた文章を読むであろうことを想定し、それを大前提として書いてきており(それはなぜかと言ったらば、前述の通り、かねてより私のホームページに掲載している

絵の作品群にも彼らのパクリ行為の被害の魔の手が及んでいるという動かしがたき事実を踏まえてであるが)、そして実際に私は「卑劣なパクリ行為は何かを表現する

者として大変恥ずかしいことであり、コンプライアンス違反やパワーハラスメントにも相当する悪質な行為でもあるから、もしも人として良心の一欠片でも持ち合わ

せておるならば、直ちにパクリ行為はやめるように」と懇切丁寧に(時に厳しく)ハッキリと言葉にして彼らに対し警告を発していたにもかかわらず、それでもなお、

いまだにコソコソとストーカーのごとく悪質なパクリ行為を続ける不届者が多数存在するというわけである。すなわち「パクリ猿どもよ、KILL YOU! & FUCK YOU!」

と書いた文章から性懲りもなく猿どもが企画アイデアをパクるという、もう何が何だかわけのわからぬ、もう笑うに笑えぬ冗談みたいな構図の予想外な展開に私はほ

とほと呆れ困り果て心を痛めているという次第であった。当初の私の目論見では、この場所に上記テーマで文章を書き彼ら猿どもに警告を与えてやれば、さすがに悪

辣非道な彼ら猿どもも当然パクリ行為を控えるか、金輪際スッパリやめるものとばかり思っていたところが、いざ蓋を開けてみれば、結局彼ら猿どもはパクリ行為を

やめなかったというわけである。彼ら猿どもの骨の髄まで染み込んだ筋金入りの「猿真似根性」「乞食根性」「ゴキブリ根性」を正直私は見くびっていたのかもしれ

ない。彼ら猿どもが私に対しストーカーのごとく続ける悪質なパクリ行為からは「意地でもパクってやるぞ、ウッキー、ウッキー、ケツの毛まで毟り取り、骨までし

ゃぶり尽くしてやるぞ、ウッキー、ウッキー」と言わんばかりの執念深い悪意をひしひしと感じるのである。それが私には心底恐ろしいのである。人間の言葉が通じ

ないこと、正論が通じないこと、善悪や美醜の区別、物事の道理を彼ら猿どもが一切わきまえていないことが私には心底恐ろしいのである。そんな厚顔無恥なインチ

キ猿どもが日本の広告業界においてスタークリエイターなどと呼ばれデカい顔してふんぞり返っているという醜悪な現実に眩暈を引き起こしながら私の中で彼ら猿ど

もに対する激しい殺意がさらに増幅されていくのである。しかし何だろうか、彼ら猿どもは他人の企画アイデアをパクらないと生きていけないのだろうか。パクらな

ければたちまち生活に困窮し死んでしまうのだろうか。私も決して鬼ではないから、もしも本当にそういう事情があるならば、慈善や動物愛護の観点から致し方ない

話と諦め、施しと割り切ることもできるのだけれども、実際のところはそうではないだろう。ただ目先の我欲に目が眩み、他人の気持ちや痛みや後先のことなど一切

顧みず、ただクライアント企業の前でいい顔して世間から注目を浴びたい一心から、安易な方法で手柄や名声を得ようとしているだけのことだろう。そんなふうに人

様のアイデアを盗まなければ成立しない仕事を生業とすべきではないのではないのか。現代社会において、もしも実際に人様の畑の作物(例えばシャインマスカットや

マスクメロンやとちおとめ)を盗めば当然犯罪者として逮捕されるのに、なぜ人様の企画アイデアを盗む場合は不問に付されてしまうのか。企画アイデアには著作権が

なく法律で保護されないことやその理由ももちろん重々承知した上で、それでも私には到底納得がいかないのである。さらには、彼ら猿どもが私の企画アイデアをパ

クって作ってTVやインターネットから流れてくるチンドン広告作品(そもそも作品ではないと思うが便宜上ここではこう表現しておく)のクオリティが相変わらず見てい

るこちらが気恥ずかしくなり哀しくなるほど低いのである。彼ら猿どもは一流の有名大学を出て一流の有名会社に入ったお利口さんであるはずなのに、なぜここまで

幼稚で下品でダサいものしか作れないのかと逆に感心するほどに、知性の欠片もなく、まるで小学生が即興で考えているのではないかと疑うほどに、幼稚で下品でダ

サいのである。40歳50歳のいい歳をした(見てくれだけは)立派な大人になっても、ここまで低俗愚劣なバカみたいなものしか作れないのか、一体今まで何をやって生き

てきたのか、結局バナナのことしか頭にないのではないのかと逆に感心するほどに、幼稚で下品でダサいのである。パクって作ったものが公共の電波に流されれば、

当然私の目に触れる可能性があると想像もできぬほど猿どもは鈍感なのだろうか。私がそれらを見てどう思うのかを察することもできぬほど猿どもは愚かなのだろう

か。他人の痛みを想像できぬ猿どもに誰か他人の心を動かせるものなど作れるはずがないだろう。他人の表現した面白いものを見て、そこで面白いと思うのはわかる

が、その次の行動が、なぜパクるになるのか、なぜ自分も同じように面白いものが作れると安易に思えてしまえるのか。表現の面白さやセンスというものは一朝一夕

で手に入れられるようなそんな生易しいものでは決してなく、何十年と長い年月をかけじっくりと培っていくものである。他人の面白さやセンスを表層的に掠め取り

茶を濁しているだけで彼ら猿どもはそれで満足なのだろうか。それは何よりも表現というものを舐めてかかっている証拠ではないのか。チンドン広告という匿名の安

全圏で、ご褒美のバナナ欲しさに、ご主人様(クライアント企業)の顔色を常に窺いながら主義主張など主体性の欠片もなくファッション感覚でハメ外しチャラチャラと

おちゃらけて我が物顔の勘違い猿どもよ、世渡り上手なお利口さんの凡人(凡猿)のくせして奇抜なことやっている自分に酔い痴れ恍惚とした表情でファッション変人(変

猿)気取りの猿どもよ、とにかく目立ちたくて目立ちたくて堪らずに闇雲にシンバル打ち鳴らすファッション気狂いの傍ら痛い猿どもよ、それすなわち、ファッション

パンクな猿どもよ、インチキチンドンパンクな猿どもよ、私がこの世に存在するありとあらゆるものの中で最も忌み嫌う人種、否、猿種である。そもそも彼ら猿ども

は人様のものを勝手に掠め盗ってはならぬと父猿や母猿からきちんと躾されて育ってこなかったのだろうか。いやいや、むしろ話は逆で、父猿や母猿からは積極的に

掠め盗れと躾されて育ってきているに違いないから、もはやなす術なしといったところで、結局とどのつまり、身も蓋もない話になってしまうけれども、所詮、猿は

猿、人間以下の畜生の猿だから、哀しいかな、彼ら猿どもに人間の言葉は一切通じぬということなのか。彼ら猿どもに人間の心は理解できぬということなのか。もう

この際ムツゴロウさんに仲介をお願いすればよいものか。いやムツゴロウさんはもうあの世に行ってしまったか。映画『猿の惑星』のフランクリン・J・シャフナー監

督に相談してみるか。ティム・バートン監督でもよいか。日光江戸村の猿軍団担当にお願いしてみるか。シャーロット・ランプリング(大島渚監督の映画『マックス、

モン・アムール』でチンパンジーと恋に落ちる人妻役を演じた女優)にお願いしてみるか。一度センズリを覚えたマスカキ猿はその刹那の快楽が忘れられず死ぬまでセ

ンズリを延々と繰り返すというではないか。つまり私は一生猿どもに付き纏われパクられ続ける人生を送ることになるのか。猿どもに付き纏われる人生、なんと悲惨

な人生だろうか。そんな人生は真っ平ご免である。もしかしたら性犯罪などと一緒で、ダメだとわかっていてもやめることができない病気なのだろうか。そういう穿

った目で見れば、どいつもこいつも猿どもは性犯罪者のような顔をしているではないか。病気だったらきちんと治療すべきである。今すぐ動物病院へ行け。しかし一

体全体どうすれば猿どもにパクリ行為をやめてもらえるのだろうか。いや、やめてもらえるなどとなぜこちらがへりくだらなければならぬのか。どうすれば猿どもに

パクリ行為をやめさせられるのだろうか。接触するのが心底気色悪いが、猿どもに面と向かってパクリ行為をやめるよう伝え諭せばよいものか。甚だ面倒くさい手間

となってしまうが、ここは一つ勇気を振り絞り猿どもに正々堂々と戦いを挑むべきなのか。何らかの手段を講じて猿どもの悪行を世間一般に告発すればよいものか。

例えば試しに猿どもが所属する広告関連団体(TCC/ADC/ACC/JAC他)の会員全員に訴え出てみようか。試しに猿どもがチンドン広告を担当するクライアント企業に訴え

出てみようか。はたまた、親猿の顔が見てみたいと猿どもの田舎の両親の猿顔でも拝みに行ってやろうか。とにもかくにも多少なりとも手荒なマネをしてでも痛い目

に遭わせてやらなければバカな猿どもは何一つ学びはしないだろう。でももちろん私は仮にも法治国家に暮らす思慮分別ある正真正銘の人間だから、たとえ相手が猿

だからといって暴力に訴えることは得策ではなかろう。でも言葉でわからなければ体でわからす他になかろう。それにそもそも暴力は本当にダメなのだろうか。建前

上暴力が禁止されているこの世の至る所には暴力が溢れているではないか。いっそのこともう一思いにやってしまおうか、相手は人間ではなく猿なのだから、仮に殺

したところで殺人罪は適用されず器物損壊罪で穏便に済まされるかもしれぬし…などなど具体的な方策を暇さえあれば頭に巡らせながら私は心底憂いているというわ

けであった。そんな下賤な猿どものことなど放っておいて、己の作品作りに全神経全精力を集中すべきであるのは百も承知の上、そう頭できちんと理解してはいるも

のの、人として許せぬものはどうしても許せぬわけである。もう吐き気を催すほど醜く腐り切った日本の広告業界やそこに蠢く魑魅魍魎、心卑しき広告屋連中に嫌気

が差し広告屋からスッパリ足を洗ったというのに、なぜにこんな不快な窮状に陥らねばならぬのか、一体全体どうしたものだろうかと私は心底憂うばかりであった。

……

もちろん、よくよく注意深く観察してみれば、今まで散々悪質なパクリ行為を常習的に続けてきた猿どもの中にも、猿から人間への進化の過程の途上にあって、さす

がに良心の呵責に苛まれ、これを機会にすっかり改心したものか、少なくとも私の確認できる範囲内においては、パクリ行為をスッパリとやめた猿どもも複数見受け

られ、またそれとは正反対に、前述の通り、あたかも私の警告をあえて無視するかのごとく、私の心をいたずらに弄ぶかのごとく、以前よりもさらに激しく正々堂々

と悪質なパクリ行為を続ける猿どもも複数見受けられ、さらに加えて、新たにパクリ行為に手を染めはじめる新参者(ニューフェイス)の猿どもさえ現れたりと、パク

リ猿ども各々の行動は、十人十色、否、十匹十色ではあるが、私自身の考え方としては、パクリ行為を金輪際スッパリとやめた猿ども(猿から人間へと進化する決意を

した猿ども)に関しては、この先もグダグダと怒りを引きずるつもりは(時間の無駄なので)さらさらなく、もちろん過去の卑劣なパクリ行為は決して許されることでは

ないとはいえども、ここは心を入れ替えたと思しき彼ら猿どもの誠意を素直に認めた上で、さしあたってこれ以上の追及はせぬ心積もりではいるのだけれども(もちろ

ん笑顔で握手し酒を酌み交わしめでたしめでたしとはどう考えても行かぬだろうが)、私が断じて許すことができず、深刻なる問題として捉えておるのは、この期に及

んでもなお悪質なパクリ行為を一切やめずストーカーのごとく常習的に続ける猿ども、および、新たにパクリ行為に手を染めはじめた新参者(ニューフェイス)の猿ど

もに関してである。私はかつてここに書いた関連の文章の中で、悪質なパクリ猿どもに対し殺意を覚えるほどハラワタが煮えくり返っているという事実をきちんと言

葉で明示しているにもかかわらず、さらに加えて、実際に過去に私に対し悪質なパクリ行為および、それに類する度し難きほどの倫理を欠いた不誠実な行為の加害者

またはその関係者のうち、すでに10数名が死に至り、死に至らずも会社が潰れたり不祥事により社会的に抹殺されたりなど、甚だ穏やかならぬ複雑怪奇、摩訶不思議

な現象が多数確認できている事実を「因果応報」「言霊」「魂」などの言葉を使って明示しているにもかかわらず、彼ら猿どもが悪質なパクリ行為を一向にやめない

というのは一体全体どういった了見なのであろうか。新たにパクリ行為に手を染めはじめるというのは一体全体どういった了見なのであろうか。人の死を無闇矢鱈と

軽々しく取り扱うのは下品なことであると百も承知の上で、脅しでも冗談でも何でもなく実際に人が死んでいるのは紛れもない事実なのである。彼ら猿どもは死ぬこ

とがまったく怖くないのだろうか。そもそも彼ら猿どもには死という概念などないのだろうか。誰もが自由に読むことができ、かつ誰が読んでいるのかもわからぬイ

ンターネット空間の一隅に、そのような甚だ穏やかならぬ正気の沙汰とも思えぬ内容の文章を実名や出自を明かして書けば、書いた人間(私のこと)の良識が疑われる

ことになるだろうことも承知の上で、世間から狂人のごとく冷ややかな目で見られようとも一切構わぬといったそれ相応の覚悟の上で、彼らへの殺意をきちんと言葉

で明示しているにもかかわらず、彼ら猿どもが悪質なパクリ行為を一向にやめないというのは一体全体どういった了見なのであろうか。新たにパクリ行為に手を染め

はじめるというのは一体全体どういった了見なのであろうか。彼ら猿どもの行動やその心が私にはさっぱり理解できず、それを私は心底憂いているのである。もしも

私が逆の立場ならば、もちろん私は猿ではなく思慮分別のある人間なので、直ちにパクリ行為の一切はやめ、過去の己の恥ずべきおこないを悔い改めるに違いないだ

ろうし、誰か他人から殺意を覚えるほどの激しい恨みを買われているという決定的な事実を知らされればなおさらのことである。もしかしたら彼ら猿どもはここに私

が書いた文章など一切目にしていないという可能性も念のため一考してみるが、彼ら猿どものパクリ行為の対象がここに書かれた文章にまで及んでいるという動かし

がたき事実を前にしては、残念ながらその考えを一蹴せざるを得ないのである。もしかしたら私は彼ら猿どもに思いっきり舐められてしまっているのだろうか。「お

前は殺してやりたいなどと軽々しく言っているけどさ、ウッキー、ウッキー、実際のところ俺たちを殺す勇気なんてないんだろう、ウッキー、ウッキー、口だけなら

誰だって言えるんだぜ、ウッキー、ウッキー、口先だけのヘタレチキン野郎のくせして、こんなところで一人喚き散らかしていたって、俺たちは痛くも痒くもないわ

い、ウッキー、ウッキー、やれるもんならやってみろって、ウッキー、ウッキー」などと木の上から高を括っているのだろうか。もしかしたら私が時に照れ隠しの上

質なユーモアなど交えながら書いているのが仇となり、私の真剣さが彼ら猿どもには十分に伝わっていないのだろうか。何度も繰り返すが、これは決して半端な気持

ちの冗談半分で書いているのとはわけが違うのである。ここに書かれた駄文の数々はどこからどう見ても誰が見ても駄文であることは百も承知の上で、私はこれらの

文章を、己の人生を賭して、己の身を削り、全身全霊、己の魂を込めた、正真正銘、己の藝術作品として胸を張り書いているのである。己の人生を大いなる実験場と

して、己の人生を無駄にして、己の命を削るかのような覚悟の上で、己の人生を一つの藝術作品とみなし、そこに全神経全精力、すなわち己の魂をすべて注ぎ込むか

のごとく、私は書いているのである。今までに一度も自らの手掛ける作品に魂を込めた経験などない彼ら猿どもには私の言っている言葉の意味がまったく理解できぬ

のかもしれぬが、私は「魂」というものはこの世に確実に存在すると信じている。もう長きにわたり冷徹ニヒリスティックな人間嫌いの成れの果てを気取る無神論者

の私は、もちろん神や仏の存在は信じておらず、幽霊の存在も半信半疑だが、藝術作品に宿る「魂」の存在だけは疑いの余地がまったくないほどにすっかり信じ切っ

てしまっているのである。彫刻家のアントニー・ゴームリーも「作品は魂の宿る場所」と語っているように、すなわち「魂の宿っていない作品は作品とは呼べない」

という意味であろう。またこれは以前にも書いたことだが、非常にわかりやすいたとえなのでしつこく繰り返すけれど、例えば、神社仏閣の賽銭箱を漁る盗人や乞食

が果たして幸せになれるだろうかと考えてみる。賽銭には人々の強い思いや願いが込められており、それらを盗むということは、すなわち結果的に人々の思いや願い

までもを踏みにじる行為となり、そのような他人の強い思いや願いが込められたものを安易に踏みにじれば、踏みにじった者にそれ相応の罰が当たるのが当然の報い

であると考えられる。いい加減な気持ちで作られたものならばいざ知らず、藝術や創作や表現の世界においては、絵や文章に限らず、作り手が真剣に心を込めて作っ

た作品/創作物に「魂」が宿るとよく言われる。他人が精魂込めて丹念に、それこそ身を削り命懸けで、自らの子供、自らの分身を産み落とすかのごとく真剣勝負の覚

悟で表現した成果を、どこぞの馬の骨とも牛の骨とも豚の骨とも知れぬ赤の他人である第三者が、敬意も配慮も仁義もへったくれもなく、己がただただ楽をしたいと

いった恐ろしく安易な軽い気持ちから勝手にネコババ・ヨコドリし、横からかっさらっていき、己の手柄にして不当に金や名声に換えるなど、目先の醜い我欲を満た

す目的に利用し弄び蔑ろにするならば、そこ(作品/創作物)に宿っている「魂」が決して黙ってはいないということである。他人に恨みを買うようなことをすれば、巡

り巡って何らかの形でいつか必ず己の身に跳ね返ってくるということである。たとえ今は無事であったとしても、それはたまたま運良く今は無事であるだけのこと

で、これから先の未来に何らかの形で必ずや己の身に跳ね返ってくるということである。それが物事の道理、自然の摂理、すなわち「因果応報」というものだと私は

考える。それにそもそも他人の才能やその成果に対し最小最低限の敬意を表したり配慮を示せぬ猿どもに何かを表現する資格など断じてない。いくらスタークリエイ

ターなどと呼ばれ広告業界の内輪のサークルで下駄履かされ身分不相応に誉めそやされ持ち上げられていたとしても、そんな下賤な人間以下の畜生猿どもに何かを表

現する資格などは断じてない。他人の痛みをまったく想像できぬ畜生猿どもにどうして人間の心を動かすものが作れるというのか。笑わせるんじゃない。冗談はその

醜い猿顔だけにしておくべきだろう。彼らチンドン猿どもが日々手掛ける幼稚で下品でダサいチンドン広告作品(そもそも作品ではないと思うが便宜上ここではこう表

現しておく)に「魂」など宿るはずもない。なぜなら彼ら猿どもには心がないのだから。どうしたって魂の込めようがないのである。書きながらどんどんヒートアップ

していく自分を妙に心地良く感じながらさらに続けていくが、もちろん私はここに書く文章にもきちんと「魂」を込めて書いている。少なくとも私は常に「魂」を込

める努力をしながら書いている。少なくとも私は常に「魂」を込める努力をしようと意識しながら書いている。これは決して口先だけのファッション感覚でそう言っ

ているのではなく、そのようにしなければ作品に「魂」が込められず、結果として己の納得のいく作品にはならぬことを過去の数多の失敗から学んだほろ苦い経験か

ら、そうしなければならぬと思って、そうする他にないから、そうしているわけである。もしかしたら端から眺めれば、私の姿はそんなふうにはまったく見えぬのか

もしれぬし、はたまた、己の人生を賭して身を削る覚悟の死物狂いの命懸けで魂を込めてその程度のものしか書けぬのかと鼻で笑われるかもしれぬが、たとえそれが

事実だとしても、私は決していい加減な気持ちで書いているわけではないのである。ゆえに、私がここに正真正銘ホンモノの殺意と書いたならば、それは正真正銘ホ

ンモノの殺意なのである。他人に誇ることなどできぬ本当にろくでもない人生をもうすでに50年も自堕落に生きてきた私が、もちろん今までの人生の中で瞬間的に誰

か他人に殺意を覚えたことは人並み以上に幾度もある私が、そしてもちろん人はそんなに容易く人を殺せないような社会のシステムになっていて、実際に人殺しの実

行を試みようと思うことなど通常ではほとんどあり得ぬことなのだと頭できちんと理解した上で、私が生まれて初めて他人に対して覚えた正真正銘ホンモノの殺意な

のである。彼ら猿どもを殺す時にはどのように殺すかその具体的な方法や場所まですでに克明詳細に決めているほどに、実際に頭の中ではもう何度も何度も何度も、

もうすでに100万回以上も彼ら猿どもを殺していさえもするほどの、正真正銘ホンモノの殺意なのである。それほどまでに長年にわたる彼ら猿どもの悪辣非道なパクリ

行為に対して私はハラワタが煮えくり返っているのである。どうしても許すことができないのである。そしてそんなことを常に頭の中で四六時中延々と考え続けてい

る自分自身のことが何とも恐ろしくて堪らぬほどに、この先自分が実際に彼ら猿どもを殺してしまいそうな気がして、もう本当にどうしてよいものやらと私は心底憂

いながら、もういかんともしがたくて書かずにいられずに書いているのである。そしてこれから先もどうにかして私が彼ら猿どもを実際に殺さないようにという強い

願いを込め、己の体内を駆け巡る彼ら猿どもに対する獰猛な殺意をどうにかこうにかして発散するつもりで、私はこの文章を書いているのである。言うなれば、実際

に彼ら猿どもを殺す代わりに書いているわけである。誰か他人を殺してやりたいというこの強い思いを藝術作品にまで昇華させるつもりで魂を込めて私は書いている

のである。なぜならばそうしなければ私は本当に彼ら猿どもを殺してしまいかねないからである。かつて1970年代に活躍したフリージャズ・サックス奏者の阿部薫

(鈴木いづみの夫としても有名)は「演奏中に何を考えているのか?」というインタビューの問いに対して「殺してやりたい奴らのことを、殺してやりたい、殺してや

りたい、殺してやりたい、とただひたすら考えながら吹いている」といった主旨の返答をしていた。つまり阿部薫も殺意を覚えるほどの激しい怒りを原動力にして音

楽を表現していたわけである。そして阿部薫はまるで死に急ぐかのようにオーヴァードーズで呆気なく燃え尽きてしまった。そして何を隠そう、私も殺してやりたい

猿どものことを、殺してやりたい、殺してやりたい、殺してやりたい、とただひたすら考えながらこの文章を書いているのである。また、かつて太宰治は第一回芥川

賞に落選した際、文藝春秋に載った川端康成の選評に過剰反応するかのごとく『川端康成へ』という愛憎半ばに揺れ動く熱い思いを込めた文章を書いた(私はこの文章

こそ太宰の最高傑作だと思っている)。おそらく太宰は川端康成を殺すつもりで書いており、実際に文中で「刺す」と表現している。また、数年前に京都のアニメーシ

ョン会社が放火され70人が死傷するという凶悪事件が起こったことはまだ記憶に新しいが、あの事件の犯人の犯行動機は奇しくも投稿小説をパクられたとする被害妄

想による逆恨みであり、正直に言えば私も決して他人事のようにも思えずに注目していた事件なのだけれども、あの事件の犯人と私との違いは何かと言ったらば、被

害妄想の逆恨みか否か、怒りの吐き出し口(人生の救い)の有無、親族との良好な関係性の有無(失うものがあるか否か)、そして幸いなことに私は今のところ(あくまでも

今のところ)まだ何とか理性が保たれているということくらいのものであり、恐ろしいことには犯人と似たようなことを私も実行しないだけで常に頭の中で想像してい

るのである。さらにあの事件で私が特に印象深かったのは、重大な事件を引き起こせばその犯行動機であるとされるパクリ行為の有無についても司法検察の手により

慎重に精査してもらえるということであった。もしもあの事件のパクリ行為が実際あったのならば犯人に同情の余地も残されるが、ただしその場合も少なくとも無関

係の他人を巻き込んで殺すべきではなく、殺すならば当事者を特定しその相手を狙い撃ちで殺すべきであったと私は思う。また、かつての秋葉原通り魔殺傷事件の犯

人は超マイナーなインターネット匿名掲示板における自己承認欲求を拗らせた末に無差別暴力殺傷へと向かったとも言われる。もしもあの犯人に例えば創作活動表現

活動藝術活動など己の怒りの吐き出し口(人生の救い)があったならば犯行を思いとどまった可能性が高いだろう。もちろん余程のことがない限り実際に人が人を殺すこ

となど容易にあり得ぬのは事実だろうが、世の中には殺人や復讐を題材とした作品(映画や小説など)が溢れて人気を博している。それはひとえに皆決して実行はせずと

も心の中では常にそんなこと(人を殺すこと)ばかり考えているという証左ではないのか。そして私の猿どもに対するこの正真正銘ホンモノの殺意が、まさに正真正銘ホ

ンモノの殺意であったことを証明できるのは、実際に私が猿どもを殺した時のみなのである。人はどんなに酷いことをしても殺されるわけないなどと高を括っておる

としたらば(何をやっても殺されまいと思ったらば)、それは大きな間違いである。こんなことを書くとまたしても私は狂人扱いされかねないが、今のところまだ私は正

気を保てている。もしかしたら、このような愚にもつかぬ厭味ったらしい不穏な文章など私は書くべきではないのかもしれない。だがしかし、何度も繰り返すが、私

はどうしても書かずにはいられぬのである。ゆえに私は書くのである。こんな愚にもつかぬ厭味ったらしい不穏な文章など書いたところで、私の心の奥底にわだかま

る憂いが根本的に解消するわけでもなく、胸が空き溜飲が下がるわけでもなく、結局書いても仕様がなく、結局書く意味などないのかもしれない。でもそんなことは

もちろん百も承知の上で、どうしても書かねばならぬと思うから私は書くのである。時々自分でもなぜこんなことを書かねばならぬのかと正直思うこともあるが、そ

れでも書くことが己の定めであると腹を括り、どうしても書かねばならぬがゆえに私は書くのである。彼ら猿どもに私のこの思いがまったく伝わっていないことを甚

だもどかしく残念に思うばかりであるが、いつか私のこの思いを彼ら猿どもがほんのわずかばかりでも理解し過去の過ちを悔い改め、猿から人間への大いなる、そし

て記念すべき第一歩を踏み出す日が訪れることを私は切に願ってやまない。そしておそらく彼ら猿どもは今ここに私がこうして書いているこの文章も必ずや目にする

ことであろう。そして彼ら猿どもがこの文章を読んだ後に、それでもなお悪辣非道なパクリ行為を続けるようであれば、その時には、私は覚悟を決めて次の行動に移

る心積もりでいる。甚だ面倒な手間がかかるし、正直なところ私自身は悪目立ちなどしたくはないのだけれども、もはや背に腹は代えられぬところまで来てしまって

いる。やはりどう考えてみても彼ら猿どもの私に対する卑劣な不正行為は世間の一般常識的に見ても明らかにおかしいことであり、どうしても許せぬものはどうして

も許しては置けぬのである。ならぬものはならぬのである。彼ら猿どもが一番やられて困るような(もちろん合法的な)嫌なことを選りすぐって実行するつもりである。

一生やるつもりのなかったTwitterもはじめるだろう。何ならパクリ検証サイトだって作るだろう。自力でできる可能な限りの効果的なあらゆるすべてをあらゆる方法

を駆使して計画的に実行するつもりである。特定の一人(一匹)を選び生贄として祭り上げ狙い撃ちにするかもしれない。やり方はいくらでもある。もちろんそれらすべ

てを記録に残して行く。もうやめておくれと猿どもが泣きついて来たって絶対に容赦はしない。さらに以前より綿密に計画していた通り、彼らパクリ猿どもの実名や

会社名を晒して世間一般に広く彼らの不正を告発し、その不正を告発していく様子を、映画『ゆきゆきて、神軍』(主人公の奥崎謙三は映画の撮影中、実際に殺人未遂

事件を起こした)のようなフィクションとドキュメンタリーの挟間の虚実ないまぜ状態を現実世界と巧妙にリンクさせた実験的な作品として書いていくつもりである。

もちろんそこにもきちんと私は魂を込めて藝術作品へと昇華させながら書いて行く。魂が宿った藝術作品は後世まできっと残るはずだから、彼ら猿どもの汚名も後世

までしっかりと残るという算段である。もしかしたらそういった内容のドキュメンタリー映画を撮るかもしれない。彼ら猿どもが日々手掛ける幼稚で下品でダサいチ

ンドン広告作品(そもそも作品ではないと思うが便宜上ここではこう表現しておく)などは場末の公衆男子便所の小便の泡沫のごとく一瞬で消えてなくなる定めであろう

が、私の藝術作品にはきちんと魂が宿っているわけだから、長年履き古したお気に入りの勝負パンツの糞染みのごとく後世までしっかりと残り続け、そして永遠に光

り輝き続けることであろう。何はともあれ、後は野となれ山となれ、もうどうにでもなれや、クソッタレ人生!この先の未来が実際にどうなるかなんて誰にも予想が

つかぬものではあるし、すべてが失敗に終わる可能性だってなきにしもあらずであるが、私が彼らパクリ猿どもに対して今後は本気で行くつもりであるという強い決

意だけはここにきちんと書き残しておくことにする。私は決して泣き寝入りするつもりはない。私の今後残り少ない人生のすべてを賭け、私に残された精力のすべて

をかけ死物狂いの命懸けで行く。知らぬ存ぜぬは絶対に許さない。パクリ猿どもよ、バナナでも食いながら、首でも洗って待っておけ!ビビって糞でも漏らしとけ!

……

かように、広告業界に蠢く魑魅魍魎、悪辣非道なパクリ猿どもの不正行為に対しては今後一切泣き寝入りなどせず敢然と立ち向かい戦うことを固く心に誓った私であ

ったが、まるでそんな私の猛り狂った心に熱きエールを送り、なおかつ、その度量を測り試すかのごとく、思いもよらぬ事件がつい先だって私の身に起こったので、

その顛末について書いていくことにしようか。甚だ恐ろしい話であり、甚だ忌まわしい話でもあり、甚だ恥ずかしい話でもあり、甚だ馬鹿げた話でもあり、にもかか

わらず、おそらく読めば誰もが不思議と胸が空き心晴れやかとなり勇気づけられること請け合いというか何というか、そしてそれを書くにあたっては相当な勇気を要

する話でもあるわけだけれど、何よりも是が非でも書かねばならぬ話と他でもない私自身が判断するため、是が非でも書かねばならぬと思う話は、是が非でも書かね

ばならぬのだ!とここは一つ男一匹腹を決め魂込めてここに書き記し、きちんと成仏させてやることにする。まったくいい歳して何やってんだい、本当に愚かな男だ

よ、まったくもう!と一笑してもらえれば幸いである。前置きはこのくらいにしておいて、それは忘れもしない11月初旬の土曜日の出来事であった。その日はちょう

ど浅草酉の市の一の酉(毎年一の酉から三の酉まであるが今年は二の酉まで)に当たる曇天の少し肌寒い一日であった。もうかれこれ10年以上も前より毎年11月になる

と私は浅草酉の市へと出向くのが慣例となっており(無神論者気取りのくせして神社かよ!といった野暮なツッコミはできれば慎み願いたい)、遡ること10数年前ふと

したきっかけからふらりと訪れて、その後思いがけず立て続けに大きな絵の賞など獲ったりと幸運が舞い込み、何となく運気が上昇したような、ご利益があったよう

な気がして、もちろん酉の市だけが幸運の因かと言えばそれも験担ぎが過ぎるというものだが、とかく人間という生き物は現金であるからして、爾来、行かないと逆

に運気が下がりそうな気もして、自然と私は毎年欠かさず浅草酉の市へと惰性で訪れていたものだった。一人ふらりと訪れてサクッと参拝し、また一人ふらりと帰る

のが常であったが、今年は珍しく同行する友人があった。その友人と土曜の午後遅く、日暮里駅前で待ち合わせ、徒歩で浅草というか浅草裏、吉原ソープ街の真横に

建つ鷲神社までトボトボと向かえば、現地は例年のごとく参拝客でごった返していたものの、思ったよりも大して時間もかからずあっけなく参拝を終え、その足で、

秋の日は釣瓶落とし、とっくのとうに日の暮れた夜道を今度は鶯谷駅までトボトボと向かい、とりあえず駅前の適当な居酒屋に飛び込み安酒を呷りながら歓談したの

ち、さて次はどうするかという段となり、そう言えば、鶯谷には昨年惜しくも急逝した最後の無頼派小説家とも称される、たまたま私も友人も共に熱心なファンであ

る西村賢太がまだ売れていない貧乏時代から死ぬまで通い詰めていた安居酒屋があったっけかとふと思い出し、スマホで「西村賢太/鶯谷」と検索し地図を頼りにその

安居酒屋Sへとフラフラと向かい、そこでも安酒を呷りながら西村賢太を酒の肴に無駄話に花を咲かせておると、時計の針はそろそろ終電かという頃合いだったので

潔くお開きにし、友人を鶯谷駅まで送り届け握手して別れたのち、私は一人自転車でフラフラと当て所もなく坂を登って行った先がちょうど上野の山の寛永寺辺りで

あったため、そのまま夜の上野公園のど真ん中を博物館、美術館、動物園、西郷さんと左に右に遣り過ごしながら突き進み坂を下れば、いつしか私は上野不忍池畔の

歓楽街へと辿り着いているのであった。昼間の肌寒さは夜になって一段と増し、夏の間は一人きりでも全然へいちゃら、むしろ一人きりのほうが暑苦しくなく好都合

だなどと嘯きながらも、季節が巡り肌寒くなるにつれ、途端に人肌が無性に恋しくなるのが人情であり、50を過ぎた中老の独り身の寂しさと秋の夜の肌寒さが絶妙に

ブレンドされた遣る瀬のない孤独感に苛まれ、誰かの温もりを求めて、とはいえインスタントな人肌は使い捨てカイロのように心の底から温まるということはなく、

とはいえ、たとえ使い捨てカイロであってでも、ないよりはあったほうが少しはマシで、直接肌と肌とを触れ合わさなくとも何かしら人の温もりを感じさせるものと

直接触れ合いたいとふと思い立った私は、酔いどれた勢いも借り一人歓楽街へと足を向けたという次第であった。その歓楽街は通称N町通りと呼ばれ、アメヤ横丁とは

正反対に位置する、新宿歌舞伎町をこぢんまりとさせたような雰囲気の、性風俗店やらキャバクラやらガールズバーやら飲み屋やら男どもの欲望を満たすためのいか

がわしい店が所狭しと立ち並び、何でも聞くところによれば昔は花街色街だったらしく、昼夜を問わずどこかしら淫猥な空気を醸し出しており、私もしょっちゅうそ

ばを通りかかるも足を踏み入れるのは年に一、二度、今回の訪問もちょうど一年半ぶりくらいか、その土曜の夜の歓楽街はみんな私と同じく温もりが恋しいのか終電

後にもかかわらず人通りは思いの外まだまだ多く、通りには呼び込みのお兄さんやお姉さんがそれぞれ店前にズラッと並び立ち、競い合うかのように道行く客に声を

掛けたり袖を引っ張ったりと忙しく、さっそく自転車をそこら辺の路上に止めた私は、できれば軽く酒を飲み陽気なおしゃべりをしながら、性器の交歓や体液の交換

を伴わぬ合法的な軽度のセクハラ紛いな行為なども金銭を介し初対面の見ず知らずの赤の他人である第三者を相手にできる適当な店がもしも見つかるならばそこで一

杯ひっかけてそのまま上機嫌で家路につきたいなどと不埒なことを酔いどれたアホ頭で考えながら通りをフラフラと彷徨っておると、突然誰かに声を掛けられ足を止

めれば、一人の中国人のキャッチ(客引き)の女が「オニイサン、サンゼンエン、アサマデ、ノミホウダイ、ウタイホウダイ、ドウデスカ?」とカタコトの日本語で私に

話し掛けてきて、もう大昔の話になるけれど、私は地元赤羽駅前で中国女のキャッチ(客引き)に「オニイサン、マッサージ、サンゼンエン」と声を掛けられ連れて行か

れた店で3万円ぼったくられるというほろ苦い経験があり、爾来、怪しい中国女には決して付いては行くまいと固く心に誓っていたために、中国女を無視するように再

び早足で歩き出せば、中国女も私と並走するように「ドコカ、イキタイオミセ、アルノ?」としつこく付いてきて「別にないけど、可愛い子がいる店で軽く飲んだり

したいかな」と適当に返せば、中国女は「ワタシダメ?ワタシカワイクナイ?サンゼンエン、アサマデ、ノミホウダイ、ウタイホウダイ、ドウデスカ?」としつこく

付き纏ってきて、私は内心しつこい女だなと思いつつも横目で無遠慮に中国女の全身を舐め回すように観察してみれば、女は、歳の頃30前後、黒ずくめの身なりでそ

こそこ長身(160半ば)のモデル体型、髪はほとんど真っ黒に近いダークブラウンに染めたロングヘアー、顔は正直私の好みのタイプとは少しばかり違ったが、気が強そ

うでクソ生意気そうな悪女タイプの狐顔、笑った時の歯茎が若干目立つも決して可愛くないわけでもなく、ギリギリ許せる境界線のちょっと上、もしもその女とSEXし

たいかしたくないかと問われたならば、積極的にSEXしたいとは思わぬし、もちろん金を払ってまでSEXしたいとも思わぬけれど、ただでSEXさせてくれるという話で

あるならば、据え膳食わぬは男の恥、あえて断る理由もこちらにはなく喜んでお相手仕り候と答えるタイプというか何というか、かなり上から目線でお前は一体何様

なんだい?という話になってしまうが、ようするに、SEXしようと思えばSEXは十分できるタイプの(少なくとも私の観点では)合格点の容姿をもつ女であったが、その

夜の私の第一希望としては、できればもう少し若めの日本人の可愛い女の子のほうがよかったというのが包み隠さぬ本音であり、いやもっとズバリ言ってしまえば、

その夜の私の第一希望は、若くて可愛い日本人の女の子と一緒に軽く酒を飲み陽気なおしゃべりをしながら、欲を言えば、性器の交歓や体液の交換を伴わぬ合法的な

軽度のセクハラ紛いな行為を金銭を介し楽しみながら、例えば「そこは触っちゃダメだよ(はーと)」とか「お店に怒られちゃうよ(はーと)」とか「もうお客さんHなんだ

から(はーと)」とかハプニング的に女体(ボディ)に軽くお触りできるような店にて、もちろん相手にもよるだろうが、できれば本物の彼女と一緒にいるような感覚でイ

チャイチャと優雅に過ごし、その余韻を残したまま上機嫌で家路につきたかったというわけだけれども、もちろんそれはあくまでも私の第一希望であって、物事は大

抵そんなに上手い具合に運ばぬものと百も承知の上で、まあ酉の市の帰り道にせっかくこうしてこんな場所でたまたま声を掛けられたのも何かの縁かもしれぬし、ま

あ絶対無理に決まってるだろうなとは思いながらも、たとえ無理だったとしてもそれが体よく断るきっかけになればそれはそれでよいかもしれぬと試しにダメ元で欲

張りさんな私が「オッパイ触れんの?」と男らしくド直球ストレートで中国女に尋ねてみれば「オッパイ、ダイジョブ、オミセデ、オッパイサワテイイヨ、オッパイ

イッパイ、サワテイイヨ、オッパイイッパイ、アサマデ、サンゼンエン」と予想外の返答に拍子抜けしながら「マジで?本当にオッパイ触っていいの?オッパイイッ

パイ触っていいの?本当にオッパイイッパイ、アサマデ、サンゼンエン?」と半信半疑で再確認すれば「ホントニホント、オッパイイッパイ、サワテイイヨ、オッパ

イイッパイ、オニイサン、トクベツ、サービス、オッパイイッパイ、アサマデ、サンゼンエン、ミセイコ、ミセイコ、ミセイコ」と私の腕を引っ張り強引に店に連れ

て行こうとするものだから、そこまで言うのならばと再び中国女の体(ボディ)を横目にムラッとクラッとよろめきながら、さらに欲張りさんな私がここは一発カマかけ

てトドメを刺してやらんと「オッパイだけじゃなくてさ、SEXもしたいんだけど」と再び男らしくド直球ストレートで尋ねてみれば、意外や意外、中国女はあっさりと

「SEXイイヨ、ミセオワテ、イショニ、ワタシノイエ、イテ、ソコデ、SEXデキルヨ、SEXシヨウ、ダイジョブ、オニイサン、トクベツ、サービス、ミセイコ、ミセイ

コ、ミセイコ」と快諾してくるものだから、もちろんさすがの私も本当にSEXなんてできっこないだろうよ、そんなのは口から出まかせに決まってるだろうよ、世の中

そんなに甘っちょろくはなかろうよ、と内心思っていたのだけれども、何度も繰り返すが、酉の市に参拝した帰り道にこんな場所で出会ったのもやはり何かの縁であ

るのかもしれず、何かの思し召しなのかもしれず、ここは一つ中国女にまんまと騙された振りでもして、三千円ポッキリ、軽くオッパイ触って上機嫌で帰ってやろう

かな、何しろ向こうさんがオッパイ触っていいって言ってきてるんだからな、断る理由も特にないし、正直に言うと別に中国女のオッパイなんて触りたくはないんだ

けど、まあ何だかよく知らんが成り行きでオッパイ触らなきゃならない流れになってしまっているみたいだし、乗りかかった船でここは一つ向こうさんのお望み通り

に、オッパイの一つでも二つでも三つでも四つでも五つでも六つでも触ってみてやろうじゃないかと酔いどれたアホ頭で考えながら、とうとう中国女のしつこさに陥

落した私は気がつけば鼻の下を伸ばし出会ったばかりの中国女と手を繋ぎ、いざ店へとフラフラ向かっているのであった。そしてそれは悪夢のはじまりでもあった。

……

11月初旬の土曜日の深夜、50を過ぎた中老の独り身の寂しさと秋の夜の肌寒さが絶妙にブレンドされた遣る瀬のない孤独感に苛まれ、中国女のオッパイとSEXに目が

眩んだ私が引っ張られ連れて行かれた店は、いわゆるスナックと呼ばれる形態の店であり、歓楽街のメインストリートに面した8階建て雑居ビル(それぞれのフロアに似

たような店がそれぞれ5~6軒ずつ入居していた)の中にあり、2台並んだエレベーターの片方に乗り込み上階へ向かい降りてすぐ右手正面の玄関扉を開けると、入ってす

ぐ右手にカウンター席が5~6席、その奥に「コ」の字を左回りに90度回転させた形にソファー席が12席ほどのこぢんまりとした、スナック特有のケバケバしさはなく

家庭的な雰囲気の店構え、時間はおそらく深夜1時前後、客は私の他にまだ誰もおらず、カウンターの中に立つチーママらしき中国女(スウェットみたいなカジュアル

な身なりの35くらいの小太りなおばさん)がイラッシャイマセ!と笑顔で迎え入れてくれ、そのまま私は右奥のソファー席へと通され、私を店に引っ張って来たキャッ

チ(客引き)の狐顔の中国女(以下、狐女と呼ぶ)が私の右隣、チーママ(小太りおばさん)が私の左隣をガッチリ固め絶対に逃がさないぞとロックオンするかのような形のフ

ォーメーションで座り、狐女が私にハイボールを作ってくれ、とりあえずみんなで乾杯したのち「オニイサン、ナンサイ?」だの「オシゴトハ?」だの「51サイニ、

ゼンゼンミエナイネ、35サイカトオモタヨ」だのといった、いつどこの店に行ってもまったく代わり映えのしない取るに足らぬ無意味なくだらぬ雑談がはじまり、聞

くところによれば、本当かどうかは知らぬが、狐女も小太りなチーママもこの店の女はみんな実は中国人ではなく台湾人であると聞いてもないのに主張してきて、狐

女のほうは年齢が28と言い張り(間近で見ると実際は30くらいか)、そしてその時点で私は財布の中に持ち合わせの現金があるかどうかハッキリ確かめていなかったので

「ここカードは使えるの?」と尋ねれば、小太りのチーママが「ウチノミセ、カード、ツカエナイ」と答えた後すかさず狐女が「ダイジョブ、アトデ、イショニ、コ

ンビニ、オロシ、イコ」と笑顔で続けて、そうこうするうちに私の他にも3~4人の客が私と同じく中国女に引っ張られ次々と店に入ってきて、徐々に店が忙しく騒がし

くなってきて、客それぞれ(冴えない中年のおっさんか死に損ないの老人ばかり)が中国女たちと会話を交わしたりカラオケを歌ったりする姿や、みんな似たように見え

るがよく見ればそれぞれ微妙に違う黒ずくめの中国女たちが店を忙しく出たり入ったりする姿を店の奥の席から酔いどれたアホ頭で眺めつつ、私が昔中国上海で半年

間働いていた経験を活かして馬鹿の一つ覚えのごとく「対不起(ドゥイブチー、中国語で「ごめんなさい」の意味)」「対不起(ドゥイブチー)」「対不起(ドゥイブチー)」

「対不起(ドゥイブチー)」「対不起(ドゥイブチー)」「対不起(ドゥイブチー)」「対不起(ドゥイブチー)」「対不起(ドゥイブチー)」となぜ自分が謝っているんだろうかと

訝りながら得意の中国語を披露しておどけて見せたりなど中国女たちとの無意味なくだらぬ会話を続けて、そのうち気づけば私の左隣に座っていた小太りなチーママ

がいつの間にやら別のチーママ(年甲斐もなくド派手な赤いドレスで若作りした鶏ガラみたいに痩せけこけた60前くらいのおばさん、以下、鶏ガラ女と呼ぶ)に変わって

いて、鶏ガラ女は「ビール、イツモ、センエン、カカルケド、キョウ、オニイサン、ハジメテダカラ、トクベツ、サービス、オカネゼンゼンカカラナイ」とグラスに

勝手に注ぎ込み私の口に乱暴に押し付けるように無理やり飲ませながら「オニイサン、カコイイ、イイオトコ、ハイユウサンミタイ、スタイルイイシ、アシナガイ、

オシャレダシ、モシカシテ、モデルサン?ファッションデザイナーサン?ハナタカイ、ハーフミタイ、チンチンモ、オッキソウ、ゼタイ、オッキイデショ?ゼタイ、

ゼタイ、オッキイデショ?ゼタイ、ゼタイ、ゼタイ、オッキイニキマテルデショ?ワタシ、チンチン、オッキイオトコ、ダイスキヨ、カミナガイ、スゴク、ニアテル

ネ、テガスベスベ、ユビナガイ、キレイ、ウツクシイ、モシカシテ、ピアニストサン?」といった、いつどこの店に行ってもまったく代わり映えのしない取るに足ら

ぬ無意味なくだらぬ雑談がまたしてもはじまり、私は「チンチンはそれほど大きくないんだけどな」と馬鹿正直に答えそうになるのをグッと飲み込ながら、時折客の

私をそっちのけに中国女同士がまったく意味の聞き取れない早口の中国語で何やら暗号めいた言葉を密かに交わし合っていることが少しばかり気になってはいたもの

の、お世辞でも嘘でも何でも褒められる分にはこちらも別に悪い気はせず心地が良いというもので、酒の酔いも手伝ってか何だかんだといって常に私は上機嫌でいる

ことができて、さらに鶏ガラ女から「アナタ、ケッコンシテルノ?」「カノジョイルノ?」と尋ねられると、こんな場所で嘘ついても仕様がないしと思って「結婚し

てないし、結婚したことないし、彼女はいたりいなかったり、いなかったりいたり、今は彼女いないよ、だから寂しくて、こんな店に来ちゃったんだよ」と私が自慢

のキレイな左手薬指を示しながら正直に答えてやれば、鶏ガラ女は狐女を指差して「コノコモ、ケッコンシテナイ、カレシモイナイ、サミシイフタリ、オニアイネ、

モウケッコンシチャエバ?」と無責任に囃し立ててきて、私も「そうだね、俺たち、この際もう結婚しちゃおうかな」と酒の酔いにまかせてノリノリのノリノリに答

えてから「そうだ、たしかこの後、俺たちSEXするんだよね、約束したもんね」と狐女に意味深な目配せを送ってやれば、狐女は一瞬その性悪そうな狐顔を困ったよう

に歪ませた(のを私は決して見逃さなかった)がすぐに気を取り直した作り笑顔で「ウン、アトデ、SEXシヨウネ」といきなり私の股間をズボン越しにいやらしく撫で回

してくるものだから、これはもしやもしかして結婚OKのサインなのかもしれぬぞと私は本気で勘違いしはじめて、もうこうなったらその場のノリのノリノリの成り行

きで、もうなるようになれや、クソッタレ人生!本気で狐女と結婚してしまおうかと酔いどれたアホ頭でぼんやりと考えながら、さらにそもそも結婚というものは本

来こんなふうに勢いにまかせてするものなのではなかろうかと酉の市に参拝した帰り道たまたま出会った相手とこんなふうに乱暴に結婚してしまうのも正直アリかナ

シかと言ったらばアリなのではなかろうかなどと今まで結婚願望など微塵もなくこの先も結婚しないとばかり思っていた私がどういう風の吹き回しか真剣に狐女との

結婚を前向きに検討しはじめていることに自分で自分に驚きながら、さならばとあらためて狐女の顔をマジマジと見つめ、二人しばらく無言のまま瞳と瞳を合わせて

いるうち、不思議なものでだんだんと私はさほど自分のタイプではなかったはずの性悪そうな狐顔が本気で可愛く思えてきたりもして、そこで私が「婚約成立の印」

に狐女の唇にキスしようとおもむろに唇を近づけると、すぐさま狐女はプイッと(それはまるで「プイッ」という効果音付きのアニメーションを見るような、嫌悪や困

惑というよりもコミカルという言葉がお似合いの漫画みたいな動きで)横を向き私のキスを器用にはぐらかし、仕方なく私は狐女のほっぺたにキスする形となってしま

ったのだけれど、それでも私は諦めずにしつこく「婚約の印」を求めて狐女の唇に再びキスしようと試みるも、狐女は再びプイッと横向き、狐女のほっぺたにキスす

る形となり、さらに私は三度目の正直と最後にもう一度だけ諦めずに「婚約の印」を求めて狐女の唇にキスしようと試みるも、やはり狐女はプイッと横向き、結局合

計三回狐女のほっぺたにキスする結果となり、致し方なく私は、唇へのキスは結婚式に大事に取っておきたいのかなと前向きに捉え「婚約の印」は諦め、気を取り直

して今度は「たしかオッパイ触っていいって言ったよね?」と狐女にきちんと確認した上で、もはや二人は婚約したのだからこれくらいは結婚へ向けこれから先の人

生を共に歩んでいく愛する二人の間でならば当然構わぬだろうと、大胆にもいきなり狐女のニットの上着の中に躊躇もなく手を突っ込んでやると、おそらく服の上か

ら軽く触る程度だと思っていたであろう狐女は「チョ、チョ、チョイ、チョイ、チョト、チョト、オニイサン、ナニヤテルノ?」と少しばかり抵抗してみせ私に背を

向け逃げるも、私は一切構わずさらに躊躇なく思い切ってブラの中にまで手を突っ込んで、体をかわし逃げる狐女の生乳(ナマチチ)を背後から鷲掴みするような形で

遠慮なくまさぐらせてもらえば、意外にも狐女の乳房は私が思っていた以上に大きくて(推定CカップとDカップの間のCより)柔らかく、そしておそらく乳首が勃起し

ていたせいだろうか若干乳首が長めにも感じて、その間正確に計っていたわけではないが、おそらく体感時間3秒ほど、両手の人差し指と中指の間に少し長めの乳首

を挟み込むような形で狐女の生乳(ナマチチ)の感触を堪能しておると、狐女は恥ずかしそうに「オニイサンノテ、ツメタイヨ、モウオシマイダヨ」と大袈裟に身をよ

じり私の両手を振りほどきながら私の狼藉を優しく諌め、そして早口の中国語で鶏ガラ女に何かぶつぶつと囁きながらそそくさと身繕いをして…そして、そこから先

の私の意識がプツリと途切れてしまい残念ながら私にはその後の記憶がまったく残っておらず、再び私が店の中で目覚め気づいた時は何と翌朝の7時なのであった。

……

目覚めた時、自分が一体全体どこにいるのかさっぱり理解できず私はまさに茫然自失といった状態であったが、私が目覚めた気配を察すると同時にすぐさま私と同じ

く両隣で仮眠していたと思しき中国女たちも機械人形のごとく次々に起き上がり再び私を挟みこむように両隣をガッチリ固め絶対に逃がさないぞとロックオンするか

のような形のフォーメーションで座り直し、そこでようやく私は、前夜に起こった出来事、すなわち上野の歓楽街の中国女に引っ張られ連れてこられたスナックで、

中国女たちと無意味なくだらぬ雑談を交わしながら、時に狐女にキスしたり、時に生乳(ナマチチ)をまさぐったりしているうちにそのまま不覚にも眠りに落ちてしまっ

たことを悟り、かつて経験したことのないような悪酔いとはまた少し違った奇妙な体のだるさに襲われ、何だか尋常でなくガンガンする酔いどれたアホ頭で、一体今

はいついつの何時何分なのだろうかとカバンを探るとスマホが見当たらず、なぜだか鶏ガラ女が「スマホナラ、ココダヨ」と私に手渡してくれて、時間を確認すれば

間違いなく朝の7時であり、さらにカバンを探ると財布も見当たらず、こちらはなぜだか狐女が「サイフナラ、ココダヨ」と私に手渡してくれて、私は眠っている間に

夢かうつつか何度も嘔吐していたような気がしたため、鶏ガラ女に「もしかして俺ゲロ吐かなかった?」と念のため確認してみれば、鶏ガラ女は「ダイジョブ、アナ

タ、ハイテナイヨ、アナタノオクサン、ハイテタ」と狐女を指差し、私は、オクサン?オクサン?オクサン?ああ奥さん、ああそういえば狐女と婚約したんだっけか

とぼんやり思い出し「でもまだ正式に結婚したわけではないから奥さんではないんだけどな」と婚約者である狐女の顔を窺えば、何だか気のせいだろうか昨夜に比べ

て婚約者である私に対する態度がバツが悪そうな印象で妙にソワソワと余所余所しいというか空々しいというか、実際に青白い顔で具合が悪そうにしていて元気がな

く、私は、もしかしたら「婚約の印」のキスを何度もしつこくせがんだせいで吐いたのかもしれぬと一瞬思いながら、そんな未来の妻となる予定の狐女を労うように

「もう朝だし、さすがにそろそろお暇しなくちゃね、キリがないもんな」と相変わらずフラフラ朦朧とした頭で今一度店内を見回してみれば、私の右斜め前のソファ

ー席にもう一人だけ小太りなおっさん客が残っており、中国女から両隣をガッチリ固められ絶対に逃がさないぞとロックオンされるかのような形のフォーメーション

で、地蔵のように身動き一つせず首を垂れており「アレハ〇〇サン、52サイ、アナタ、オオタケサン、51サイ」と鶏ガラ女はなぜだか私の名前と年齢はおろかその他

あらゆるすべての情報に精通しているかのような意味深な含み笑いをして、そして、狐女と鶏ガラ女に両側から支えられるようにフラフラと店を後にすれば、外は前

日同様に曇天だったもののすでに明るく、私は素っ裸で急に外に放り出されたような気分で目を細めて、さっさとタクシーに乗せて帰してしまおうという魂胆か一足

先に大通りに出てタクシーを捕まえようとする狐女に「俺、自転車だから」と前夜自転車を適当に止めたはずの場所を私は動物的直感でなぜだかしっかり覚えており

「そういや、お金払ってなかったよね」と狐女に尋ねれば「オカネ、ダイジョブ、サービスヨ」などと返してきて「え、マジで?お金いらないの?何だか悪いなあ」

といまだ意識朦朧のままの私は、そういえば店終わった後に狐女の家へ行ってSEXする約束じゃなかったけかとぼんやり思い出しながらも、あまりの体のだるさにすで

にそんな気など起こす気にはとてもじゃないがなれるはずもなくて、それから最後に念のため店の名前とそれぞれの名前を確認すれば「店の名前は〇〇、私は〇〇」

「私は〇〇」とそれぞれ返して来たものの、その肝心の「〇〇」の部分は馬耳東風と残念ながら丸っきり覚えてはおらず、私はフラフラの状態で自転車によっこらし

ょと跨って、小雨がパラつきはじめた少し肌寒い日曜日の朝、何だか狐につままれたような最低最悪の気分のまま「じゃあね、またね!」と中国女たちに別れを告げ

フラフラと家路を急ぐのであった。そして、これは言葉の綾でも冗談でも何でもなく、実際に狐につままれていたことに私が気づくのは、その2日後のことであった。

……

日曜日(11/12)の早朝帰宅すると私は着の身着のまますぐに布団おっ被って眠ってしまって、午後に一旦目を覚ますも、かつて経験したことのないような奇妙な体のだ

るさはまったく改善されておらず、そのまま布団の中どんより夢うつつの頭で昨夜起こった出来事を自分なりに整理してみたり、お金払わずに帰ってしまって悪かっ

たかな、何だかんだと言って結局客思いの超優良店だったんじゃないのか、そして狐女の生乳(ナマチチ)の感触を思い出し婚約者である狐女との結婚を本気で検討して

みたり、でも本当に結婚したら笑えるけどなとかアホみたいなことを考えながら、ずっと寝たきりの廃人状態で過ごし、夕方になってようやく何とか起き上がること

はできたものの、体のだるさは相変わらず続いていて、ここはひとつ気分転換にひとっ風呂浴びようかと服を脱ぎはじめると、履いていた白いジーンズの尻の部分の

表面(外側)が茶褐色に汚れていることに私は気が付いて、白いジーンズだから余計にその茶褐色がクッキリ際立って見え、もしかしてどこかで何かを踏んづけて座った

のかもしれぬとよくよく確認してみれば、白いジーンズの尻の部分の裏面(内側)はさらに激しく茶褐色に汚れており、そこでまさかまさかと思って履いていたトランク

スも脱ぎ尻の部分をじっくり確認してみれば、かなりハッキリクッキリ克明に茶褐色に汚れており、つまり私は知らぬ間に漏らしてしまっていた(寝糞を垂れてしまっ

ていた)ということになるわけで、ただし幸いなことには、漏らしたとは言ってもガッツリ固形物のものを盛大に漏らしてしまったわけではなく、少量の液体をちょろ

っとちびってしまった程度と言ったほうがより適切かと思うけれども、おそらくは眠りこけている間に屁をこいたか何かの勢いで茶褐色の液体がちょろっと門から外

へと勝手に飛び出てきてしまったものだと思われ、本当に幸いにも量的にはほんのわずかばかりではあったのだけれど、それでも私が粗相してしまったことに何ら変

わりはなく、漏らしてもちびっても結局、茶褐色の物体が門の外へと勝手に飛び出てきてしまったことに何ら変わりがなく、それが自分にとってはかなりのショック

であり、そこで、それでは一体全体私はいつ漏らしたのかと推測するに、おそらく上野のスナックで眠っている間に漏らしたのではないかと考えられたが、やはり今

までの人生で眠っている間に漏らした経験など一度もなかった私にとって、漏らしてしまったという事実はかなりのショックであり、たしかにここ最近腹の調子が悪

く緩い状態だったところへ酒を大量に飲んだのだから漏らしてしまうのも無理もなかろうと思ったりもしたが、でも今まで一度も眠っている間に漏らしことなどなか

ったことを誇りに胸を張り今まで生きてきた私としては、やはり漏らしてしまったという事実に自分でも驚くくらい相当なショックを受けてしまって、自分ももう50

過ぎのいい歳だから、人はみな年老いていくとともに尻の穴も緩んでくるとはいうものの、でもやはり漏らしてしまったという事実は事実であり、その事実は事実と

して素直に受け止めなくてはならぬわけであり、何だか自分は人間として失格なんじゃないかと思ったりして、そんなことを考えながら憂鬱な気分で私は洗濯風呂を

済ませ、夕飯時にはしっかり迎酒も飲みその日は早めに床についたものの、相変わらず奇妙な体のだるさはほとんど解消されてはおらず、しかも昼間たっぷり眠った

ためすぐには眠れず、あらためて土曜日の夜に起こった出来事を頭の中できちんと順序立てて検証していくうちにようやく私は浅い眠りへと落ちていくのであった。

……

その翌日の月曜日(11/13)も前日ほど酷くはないものの相変わらず奇妙な体のだるさが一日中続き、通常だったらばどんなに泥酔しようが少なくとも二日後には完全に

酒が抜けて平常の健康状態に戻っているはずにもかかわらず、今回は何だか少しばかり様子がおかしいなと訝りながら、そしてもちろん漏らしてしまったことに対す

るショックも相変わらず心に引き摺ってはいたものの、漏らしてしまったことはもう取り返しのつかぬことであるし、今後は漏らさぬように自分(というか尻の穴)を律

し管理し、二度と漏らさなければそれでよし、漏らしてしまった自分を反面教師として、過ちは二度と繰り返さなければそれでよし、と開き直れるほどまでには精神

的にも恢復し、むしろ酉の市の帰り道に漏らしたのであれば、それは運がついたと前向きに捉えてみてもよいのではなかろうかなどと能天気に考えてみたりもして、

もちろん時々は今でもなぜだかはっきりと鮮明に覚えている狐女の生乳(ナマチチ)の感触を思い出して、婚約者である狐女との結婚を本気で検討し一人ニヤニヤしてみ

たりと、精神的にも肉体的にも最低最悪の状態からは何とか一歩抜け出しかけたような気もしていて、そしてそこであらためて私は財布の中身を確認してみたのだけ

れど、中には千年札が一枚残されているきりであり、そもそも財布の中身を正確には把握していなかったなと思って、土曜日一日の間に実際に使ったお金をこと細や

かに計算していくと、何度計算してみてもちょうど三千円ほど足りない結果となり、そこで私は、酔っ払って眠ってしまってまったく記憶にはないけれど、おそらく

自分は店で三千円を払ったのだろうという結論に達し、そう考えてみると狐女は代金はサービスヨなんて言ってたけれども、結局サービスじゃなかったんだな、でも

酒飲んで生乳(ナマチチ)まで揉ませてもらってタダっていうわけにはどう考えてもいかんしな、世の中そんなに甘くはないよな、でもここは超優良店からただの優良店

(星5つから星4つ)に格下げしなければならなぬかもな、しかし結局のところ三千円で生乳(ナマチチ)3秒揉んだわけだから、計算すると1秒千円になるわけか、何だか高

いんだか安いんだか正直わからんけれども、まあこの一件に関してはこれ以上考えても意味がないことだし、狐女の生乳(ナマチチ)の感触は今も良き思い出としてしっ

かりと残っているわけだから、決して高い買い物ではなかったということに結局はなるのかもな、今となっては狐女の顔すらも正確にはほとんど覚えてもいないけれ

ど、今度上野に立ち寄る機会でもあったならば再び店をひょっこり訪れて狐女に正式にプロポーズしてみようかな、まあ多分というか絶対に行かんだろうけれどな、

などとほくそ笑みながら、私の中でこの一件に関してはすでに遠い過去の良き思い出となりつつあり、終わりよければすべてよし、それでめでたしめでたしとハッピ

ーエンドで収束させたいとすっかりそう思っていたのだけれど、ところがどっこい、世の中そんなに甘くはなく、そうは簡単に問屋が卸してはくれないのであった。

……

クレジットカードで身に覚えのまったくない20万円がいつの間にやら引き出されていることに私が気がついたのは火曜日(11/14)の午前中のことであった。その日もま

だまだ奇妙な体のだるさは相変わらず続いていて、頭が少しぼやっとしていたものの、以前よりはかなりマシにはなっていて、その時たまたまクレジットカードの引

き落とし情報をインターネットで確認していた私は、キャッシングの利用金額が20万円と表示されていることにたまたま気がついて、あまりに突然の出来事にまさに

口をあんぐりと唖然とするばかりであった。さしあたってクレジットカード会社のWebサイト上で確認できる情報は「11/12 愛知銀行 20万円 リボ払い」のみであり、

すなわち私のクレジットカードを利用して何者かが日曜日(11/12)に愛知銀行のATMで現金20万円をキャッシング(リボ払い)で引き出したということになるわけであり、

ただし私には日曜日(11/12)にクレジットカードで現金20万円をキャッシングで引き出した記憶も、愛知銀行のATMを利用した記憶もまったくなく、11/12という日付か

ら推測するに、おそらく私が上野の歓楽街で中国女のキャッチに引っ張られ連れて行かれたスナックで泥酔し眠りこけている間に何者かが私の財布からクレジットカ

ードを盗み出し、勝手にコンビニATMで現金20万円をキャッシング(リボ払い)で引き出したと考えられ、またコンビニATMでクレジットカードを利用しキャッシングで

現金を引き出す際には必ず暗証番号を入力しなければならず、そこで再び推測するに、私は何とも間抜けなことに今までずっとクレジットカードの暗証番号を「私の

誕生日」に設定してきており、そしてさらに重ねて間抜けなことに私は財布の中にクレジットカードと一緒に運転免許証も(鴨がネギ背負った状態で)入れていたため、

何者かが私の財布からクレジットカードと運転免許証を盗み出し、コンビニATMで暗証番号を(ダメ元で)「私の誕生日」で入力し、まんまと現金20万円をキャシングで

引き出すことに成功したか、もしくは、何者かが泥酔した私をコンビニATMまで連れて行き、意識のない私に無理やり暗証番号を押させたか、私から無理やり暗証番

号を聞き出したか、その他どういう手段を使ったのかは不明だが、まんまと現金20万円キャッシングで引き出すことに成功したと考えられるわけであった。ただし繰

り返すが私にはコンビニATMに行った記憶がまったくなく、おそらく前者が有力と考えられ、そして問題の私のクレジットカードを勝手に利用しコンビニATMで現金

20万円をキャッシングで引き出したのは一体全体何者なのかと言ったらば、それは上野のスナックの中国女たち(狐女か鶏ガラ女かもしくはその協力者である店の中国

女たちがグルになって)以外には考えられないのであった。さらにこれまた推測するに、日曜の朝から延々と続く奇妙な体のだるさは、おそらく上野のスナックで飲み

物(サービスのビールが怪しい)に変なクスリ(睡眠薬か)を混入され飲まされ眠らされたことが原因ではないかと考えられるわけであった。今まで私はどんなに泥酔しよ

うと記憶を完全に失くしたことは一度もなく、後で思い出しそういえばといった断片的な記憶は必ず残っているはずであり、また今まで睡眠中に漏らしたことなど一

度たりともなかった私が今回生まれて初めて漏らしてしまったのももちろん変なクスリの副作用と考えられるわけであった。そしてここまでの話を一旦まとめれば、

私は浅草酉の市の帰り道の土曜日(11/11)の深夜(11/12)、50を過ぎた中老の独り身の寂しさと秋の夜の肌寒さが絶妙にブレンドされた遣る瀬のない孤独感に苛まれ、た

またま立ち寄った上野の歓楽街の中国女のキャッチ(客引き)にオッパイとSEXを餌にまんまとダマされ引っ張られ連れて行かれたスナックで、中国女たちと無意味なく

だらぬ雑談に興じ、勢いで中国女と婚約まで交わしたり、「婚約の印」にと中国女のほっぺたに3回キスしたり、生乳(ナマチチ)を3秒間まさぐったりして楽しんでいる

うちに、いつしか中国女から酒に一服盛られて昏睡してしまい、その私が眠りこけている間に財布からクレジットカードを勝手に持ち出されコンビニATMで現金20万

円をキャッシングで引き出された挙げ句の果てには、いい歳こいた50過ぎのおっさんのくせして寝糞まで垂れてしまっていたということになるわけであり、また婚約

を交わし互いに愛を確認し合っていたはずの婚約者の狐女にもまんまと裏切られてしまったということにもなるわけであり、そんな複雑な事情が絡み合った藪から棒

の緊急事態に陥って頭が混乱してしまった私は、20万円を盗まれたこと、婚約者に裏切られたこと、そしてそんなふうに裏切られていたとはつゆ知らずいまだ狐女と

の結婚を密かに夢想していた愚かな自分自身に対する激しい怒りにワナワナと全身を震わせながらも、だからといって怒りにまかせ軽はずみな行動を取っても得策で

はなかろうという適切な判断から、ここはひとまず深呼吸して冷静になった上で、直ちにクレジットカード会社に電話をし、これこれこういう事情でと(もちろん生乳

3秒揉んだ云々のくだりは割愛して)説明し、現行カードの即時停止と新カード発行の手続きを速やかに依頼し、その際にクレジットカード会社の担当者からは「クレ

ジットカードを紛失したわけではなく今も手元にあって、なおかつクレジットカードで暗証番号が押された上で現金が引き出されている以上、こちらでは損害の補償

は一切できかねますので、まずは警察へ相談してみて下さい」と無情にも告げられ、その後、スナックのある住所を管轄する上野警察署へと私は自転車で片道45分か

けて直接出向き、受付でこれこれこういう事情でと(もちろん生乳3秒揉んだ云々のくだりは割愛して)説明すると、生活安全課という部署へと案内され、そこでもあら

ためてさらに詳しくこれこれこういう事情でと(もちろん生乳3秒揉んだ云々のくだりは割愛して)説明すると、生活安全課の体育会系好青年風な40前後の担当者が柔ら

かな物腰で快活に語るところによれば、今回の私のようなケース(いわゆる「ぼったくり」被害)は大昔から別に珍しくも何ともない話であり、まず被害額が20万円で済

んでいるのはむしろラッキーだと思ったほうがよい、通例では被害額50万円くらいが相場であり、中には100万円200万円の被害も珍しくない、今回のケースで被害届

を出すことは可能かもしれぬが、おそらく受理されない可能性のほうが高いだろう、今回のケースは確実な証拠がまったく存在せず、クレジットカードを紛失したわ

けではなく今も手元に残っているわけであり、店の正確な場所も店の名前もわからず、女の名前もわからず、すべてが曖昧模糊とぼんやりとはっきりせず、すべてが

状況証拠となるため、警察としても動くわけにはいかない(警察官は「被害届にはなじまない」という表現を何度も使っていた)、財布から抜かれた3000円に関しては

もしかしたら被害届が出せるかもしれぬが、やはりそれも財布に3000円入っていたという確実な証拠がないため難しいだろう、もしも酒に変なクスリ(睡眠薬など)が

混ぜられて眠らされたとしてもやはりその証拠がない、実際に誰がコンビニATMで金を引き出したかについて、コンビニの監視カメラを確認するためには警察で被害

届が受理されていることが必須条件となるため、現状ではその確認も難しいだろう、でも今回のようなケースでは大抵、客本人が絶対にコンビニATMへなど行ってい

ないと主張しても、監視カメラを確認してみるとほとんどすべてと言ってもいいほどに実際本人が暗証番号を入力している、中国女は抜け目がないから監視カメラに

絶対に映らないように店には入らず外から見守るなど細心の注意を払っている、あいつら中国女たちは台湾人を自称するけれども実際は中国人である、中国女はとに

かくズル賢さにかけては天下一品であり、チームプレイでやってるからなおさらタチが悪く、何度取り締まっても次から次とどこからともなく湧いて出てきて、たと

え逮捕したとしても大した罪にもならず、強制送還されるわけでもなく、すぐにまた復活してきて再び性懲りもなく何度でも同じような犯行を繰り返す、数年前に赤

羽にいた中国人グループが一掃されたため、そこにいた中国人グループがごっそりそのまま上野へ移動してきたようだ、何度も怪しい店に内偵捜査には入るのだけれ

ど、奴らは決して尻尾を出さない、今回の私のようなケースでは刑事事件として被害届が受理されぬ限りこれ以上警察が関与することは難しい、警察は基本的に民事

不介入の原則であるからして、店と直接交渉する以外に金を取り戻す方法はない、店でカードを利用したならば証拠も残るが、今回のケースのようにキャッシングし

て現金払いしたとなると残念ながらもうお手上げ状態で泣き寝入りする他ないかもしれない、などなどなど、警察に相談すれば何とかなるだろうと一縷の望みをかけ

ていた私は思いがけず地獄の底まで一気に突き落とされたような気分となって、もう20万円を取り返すことは無理かもしれぬと半ば諦めかけながらも、最後に藁にも

すがるような思いで、他の被害者たちはすべて泣き寝入りしているのかと私が問うと、警察官は、いやいやそんなことは決してなく、みんな店と直接交渉するなり、

実際弁護士を立て民事訴訟して取り立てるなり、弁護士を立て弁護士費用も合わせて請求してやるぞと一歩も引かぬ強い意志を店側に主張するなど、それぞれ何かし

らの行動を起こしてはいるが、いかんせんお金が戻ってくるかどうかはそれぞれの状況にもより異なるため、その保証はどこにもなく、何度も繰り返すが、民事不介

入を原則とする警察としてはこれ以上はどうすることもできず、もしも仮に今後ぼったくり店を特定できて直接店と交渉中に万が一店側がしらっばくれたり、不誠実

な対応を取るようならば、その時はその場で110番して警察を呼んで下さい、警察を呼んだところで警察としては店側に対して返金を督促するなどトラブル解決の直截

的な役には立てず何ともできぬだろうが、客側と店側との交渉をまあまあまあまあと宥めながら見守ることはできる、店側としても警察が店に入ってくることは決し

て好ましいことではなくできれば避けたいことであるだろうから、店側との交渉が客側にとって有利に運ぶ場合ももしかしたらあるかもしれない、何はともあれ、20

万円盗られて悔しいのは重々わかるが、一番悪いのは中国女のキャッチ(客引き)なんかに(下心丸出しで)ホイホイついて行ってしまった自分自身なのだから、後は言わ

ずもがなということであろうと、担当の警察官は直截そういう表現はしなかったものの、ほとんどそのような話の終わり方で締めくくり、おそらく今回の私のような

ケースの相談は過去から現在に至るまで腐るほどあるため、すべてに丁寧に対応して刑事事件にしていたらば、警察官がいくらいても足りなくなってしまうので、相

談の窓口の段階でなるべく早めに諦めさせるという方向性、すなわち、そんなの自分で解決しろという方向性に話を持って行くことを上層部から指示されているか、

もしくは警察組織全体がそう示し合わせているのであろうと何となく推測もされたが、とにもかくにも、いかんせん私のほうには決定的な証拠がまったく存在しない

わけであるからして、証拠がなければ犯罪を告訴することは基本的に不可能であり、今回ばかりは泣き寝入りすることもやむを得ずかと暗澹とした気持ちに陥るも、

やはり私はどうしても諦めきれず、もちろんこちらにも少なからず非(カードの管理方法や記憶の不確実性やマヌケな下心など)があったとはいえども、眠っている間に

他人の金を勝手に引き出して盗むことは決して許される行為ではなく、証拠がないとはいえ犯罪行為に当たり、断じて許してはならぬことであって、中国女の生乳(ナ

マチチ)を3秒揉んで20万円(1秒あたり66666円の計算となる)はどう考えてみても納得がいかぬし、客観的に見ても絶対におかしいと思って、20万円を取り返す何らか

の方法が必ずやあるに違いないと考えながら、警察への相談の帰り道、とりあえずは犯行現場である上野の歓楽街N町通りへと一人ふらりと向かってみるのだった。

……

平日昼間の上野の歓楽街N町通りは夜とは雰囲気がガラリと異なり、人通りもまばらで閑散として(夜と比べれば)まだまだ健全さはあるものの、昔の花街色街だった頃

の面影をたしかに残しており、真っ昼間から営業中の性風俗店やガールズバーもちらほらとあったり、そんな中をさっそく私は土曜日(11/11)の深夜から日曜日(11/12)

の朝方までの朧げな記憶を頼りにして、犯行現場であるぼったくりスナックを探しはじめるや否やすぐさま店が入居する8階建ての雑居ビルはいとも呆気なく見つかっ

たものの、前述の通り、その細長く空へと高く伸びる欲望に塗れた雑居ビルにはそれぞれのフロアに似たような店が鳥の巣のごとくそれぞれ5~6軒ずつ密集し入居して

いたために、また店を去り際に中国女たちに店名とそれぞれの名前をたしかに確認していたはずにもかかわらず私はすっかり忘れてしまっていたために、残念ながら

正確な店までをドンピシャで特定するまでには至らず、その時午後1時過ぎ、人気のまったくない雑居ビル内のすべての店は当然のごとく営業時間外で、夜間よりも昼

間のほうがなお暗いという世間一般の常識とはおよそ真逆の状態にあり、そんな廃墟のごとく不気味に静まり返った異空間を、エレベーター扉が閉まる際に高鳴るや

けにやかましいブザー音をブーブー何度も虚しく轟かせながら、私はまるで不審者もしくは刑事や探偵にでもなったかのごとく1階から8階まですべてのフロアをくま

なく調査/捜査して回れば、私が覚えているかすかでたしかなぼったくり店の記憶は「エレベーターで上階に向かい降りてすぐ右手にドアが正面を向いてある店」であ

り、その条件にバッチリ該当する店は3階4階5階にそれぞれ1店舗ずつたしかに存在しており、ただし実際に店内に入って確認してみないことには特定することは難し

いため、ひとまず私は調査/捜査を一旦打ち切り、20時以降(スナックの営業時間は通常20時から翌1時頃まで)を目安に再訪することにして、とりあえず帰宅し現時点ま

でに知り得た情報を整理整頓し今後の作戦を練ることに決めたのだった。自宅に戻り早速インターネット上に転がっている様々な人たちのぼったくり被害の体験談や

ぼったくり被害に遭った時にはどうすればよいのか?と謳ったWebサイト情報を読み漁っていけば、やはり上野警察署でアドバイスを受けた通り、確実な証拠が存在

しない限り金を取り戻すことは相当難しいらしく、もちろんクレジットカード会社に損害を補償してもらうことも相当難しいらしく、やはり泣き寝入りする以外にな

いのかと私は再び暗澹たる気持ちに陥りかかるも、私としてはここで諦めるわけにはどうしてもいかず、中国女の生乳(ナマチチ)を3秒揉んで20万円(1秒あたり66666円

の計算となる)はどう考えてみても納得がいかぬし、客観的に見ても絶対におかしいと思って、20万円を取り返す何らかの方法が必ずやあるに違いないと、とにかく現

時点において自力でやれるだけのこと、上野警察署でのアドバイス通り、ぼったくり店を特定した上で店に乗り込み店側と直接交渉し、それでもまったく話にならぬ

場合にはその場で110番して警察を呼び店側との交渉を見守ってもらうというところまではとりあえず何とかやってみてから、それでもしもダメだった時にはその時で

潔く20万円はスッパリ諦めて、例えばだけれども、50万円盗られる可能性もあったところを20万円で済んだのだから、それは考えようによってはある意味中国女たち

(特に婚約者である狐女)の私に対する温情(すなわち愛)であったのだ!しかもわざわざリボ払いに設定して月々の返済が少しずつで済むように細やかな配慮までしてく

れていたわけだから、私はそこまで深く愛されていたのだ!と無理やりにでも自分を納得させようと固く心に決めようとしたものの、やはりどう考えてみてもそんな

うまい具合に割り切れるわけがなかろうと再び思い直した上で、やはり世の中なるようにしかならぬのだから、とりあえずやるだけのことはやってみて結果がどう転

ぼうとその時はその時のことだから、何はともあれ全力で戦うしかないのだ!と再び固く心に決めたところで、ちょうどいい塩梅に日も暮れてきたので、景気づけに

と自宅で酒を一杯ひっかけたのち、その日はすでに上野を1往復していたためさすがに草臥果ててしまい体力の限界を感じ自転車は諦め、20時前後に現地到着を目安に

電車に飛び乗り、いざ再び現地へと舞い戻るとすぐに私は、まるで自分が黒澤明監督の傑作映画『野良犬』の拳銃を盗まれた警察官役の三船敏郎にでもなったかのご

とく、ぼったくり店を特定するべく勇足で調査/捜査を開始するのであった。その夜の私はまず現場の雑居ビルに向かう途中の同じくN町通りメインストリートに面し

た、どこの歓楽街にも必ず数軒はある風俗案内所前を通りがかりに店員とたまたま目が合ったので、試しにこれこれこういう事情でと(もちろん生乳3秒揉んだ云々のく

だりは割愛して)今までの経緯を説明してみれば、その中年のメガネ店員はさして興味もなさそうに「そういう話はよく聞きますけど、正直諦めるしかないんじゃない

ですか、20万盗られて悔しいのはわかりますが、中には50万100万盗られる人もいるわけで、20万で済んだのはむしろラッキーだったと思うべきじゃないですか、地

元の上野警察署が取り合ってくれないなら、霞ヶ関の本庁に直訴すればいいんですよ、地元警察にちゃんと仕事させろってね、それに仮にぼったくり店を見つけて乗

り込んで警察呼んだところで、しらばっくれられたら一巻の終わりですからね、そもそもそんな中国女のキャッチ(客引き)にホイホイ付いて行くのがいけないんだし、

お見かけしたところお客さんは相当遊び慣れてるように見えるのに、どうしてそんなのに付いて行っちゃったんですか、そんな無駄なことしないで、焼き鳥屋で一杯

やって帰ったほうが身のためですよ」と冷たく突き放された挙句に説教までされる始末、どうしてそんなのにホイホイ付いて行ったのかと聞かれても自分でも今だに

正直何だかよくわからず、魔が差したとしか言いようがなく、諦めたほうがいいと言われても諦めるわけにはいかず、どんなことがあっても絶対に諦めないぞと固く

心に決めた野良犬であり三船敏郎であるところの私は引き続き、片っ端から道端の日本人のキャッチ(客引き)のお兄さんたちに粘り強く聞き込み調査/捜査を進めるも、

日本人グループと中国人グループは水と油の関係でその間には明確な境界線があるようで、みんな口を揃えて中国人グループのことはまったく知らないの一点張り、

やがて自然と現場の雑居ビルへ辿り着き、ビル前の通りに立つ4~5人のガールズバーの女の子たちに声を掛け、またしてもこれこれこういう事情でと(もちろん生乳3秒

揉んだ云々のくだりは割愛して)今までの経緯を詳しく説明してみれば、女の子たちは「20万ですか?酷い話ですね」「そういう話はよく聞きますよ」「このビルにも

そういう危ない店があるって噂がありますよ」とそれぞれ返してきたので、私は些か食い気味に「その危ない店って何ていう名前だかわかるかな?」と尋ねれば「名

前まで私にはわからないけど、もしかしたら店の人なら詳しいかも」と店の男性店員をわざわざ連れてきてくれて、私はまたしてもこれこれこういう事情でと(もちろ

ん生乳3秒揉んだ云々のくだりは割愛して)今までの経緯を説明してみれば、その男性店員は「たぶん4階にあるLじゃないかな、昔からいい噂は聞かないですからね、

間違いなくLですよ、L以外には考えられないな」と店名まで特定してくれて、その4階にあるLという店は、私がその日の昼間に訪れて候補に入れていた3階4階5階に

ある、まさに「エレベーターで上階に向かい降りてすぐ右手にドアが正面を向いてある店」の一つであり、そこでようやくぼったくり店の候補がかなり絞られてきた

わけだけれども、まだ実際に店内に入ったわけではなく、中の作りを確認するまではまだまだ予断は許さず、さらにそのぼったくり店は他の店が終了時間となる深夜0

時か深夜1時頃から営業開始するらしく(基本的にスナックなど女性が横に座り酒を提供する店は深夜1時までと条例で決められているらしい)、それまでは店に突入す

ることができずにお預け状態となってしまうため、とりあえず貴重な情報を提供してくれたガールズバーの男性店員には丁重に礼を言って一旦別れたのち、私は夜の

雑居ビルの中へと潜入し、すでに営業を開始していた店々を1階から8階まで一軒一軒虱潰しに回っては、それぞれの店の作りを確認した上で、さらにはそこでもこれ

これこういう事情でと(もちろん生乳3秒揉んだ云々のくだりは割愛して)今までの経緯を説明してみると、ほとんどの店が「それはうちではない」「そんな店は知らな

い」「ウチノミセ、ソンナコトシナイ」といきなり飛び込んできた明らかに不審者であるところの私に対して警戒するように、また開店準備または開店直後で忙しく

てそれどころではないと野良犬を追い返すような冷たい対応を返してきたが(そしてまさにその時の私は黒澤明監督の傑作映画『野良犬』の拳銃を盗まれた警察官役の

三船敏郎でもあったわけだが)、そんな中にも親身になって優しく対応してくれる店のママさんや店の女の子たちや店員さんもいて、そしてそのほとんどが口を揃えて

怪しいことこの上ないと指摘するのが4階にあるLという店であったから、やはりぼったくり店は4階のLで確定ということなのかとさらに確信を強め、4階のLが営業を

開始するまでの時間をとりあえず私はその親身になって優しく対応してくれた店(スナック)に客として腰を落ち着かせ時間を潰すことに決めたのだった。本当に困っ

ている時に親身になって優しく接してもらえるのは何よりも力強くありがたいことでもあり、捨てる神あれば拾う神ありではないけれども、もう本当にろくでもない

最悪最低の状況下で出会った幸運の女神のような気もしてきて、さらに客として店のママさんや女の子たちに話をじっくり聞いてもらっているうちに、人と面と向か

って間近で触れ合いながら話すことによって心がスッキリと晴れやかになったからかもしれぬが(いや実際に私は調子に乗ってどさくさ紛れに手をニギニギ握ったり太

ももをナデナデ撫で回したりもしていた)、世の中には、他人の金を勝手に盗む悪人もいれば、突然やって来た見ず知らずのどこの馬の骨とも牛の骨とも豚の骨ともわ

からぬ赤の他人が困っている時に親身になって優しく接してくれる善人もいることを知り、まだまだ問題は全然解決したわけではなく、とにかくこの先どうなるのか

もまったく予想もつかなかったわけだけれども、世の中まだまだ捨てたものではないなと、何だかこれまで殺伐とし通しだったここ最近数日間の私の荒み切った心の

内側がほんの束の間ではあったがじわじわとゆっくりと温かく満たされていくのを感じるとともに、私が真に求めていたのは、中国女の生乳(ナマチチ)などではなく

このような心の触れ合いだったのだとようやく気づきはじめるのであった。結局その店にはちょうど閉店時間となる深夜0時まで居座り存分に癒されたところで、そ

してちょうどその頃には4階にあるLという店も営業を開始するはずの時間でもあり、私は「それじゃ、行ってくるよ、もしも生きて帰れるならば、再び会おうじゃな

いか」などと西部劇映画の主人公のごとく気取った捨て台詞吐いて店の女の子たちに別れを告げれば、女の子たちも「頑張ってね、私たちもずっと待ってるからね」

などとこちらも映画のヒロインのごとく再会を約して、そして私はいまだ映画の主人公気取りのままに意を決していざ4階にあるLへと向かい勢いよく扉を蹴り開けれ

ば、まだ照明の全点灯していない薄暗い店内にはカウンターの中に30くらいの初めて見る中国女が一人いるきりで、そして実際に店の作りをじっくりと確認してみれ

ば、たしかに私の記憶にかすかにたしかに残っている、エレベーターで上階へ向かい降りてすぐ右手扉を開けると、入ってすぐ右手にカウンター席が5~6席、その奥

に「コ」の字を左回りに90度回転させた形のソファー席が12席ほどのこぢんまりとした、スナック特有のケバケバしさはなく家庭的な雰囲気の店構えではあったもの

の、薄暗い照明の加減か何だか違う店のような気もしてきて、間違っていたら洒落にならんよなと思いつつも、思い切ってカウンター内に立つ中国女に、これこれこ

ういう事情でと(もちろん生乳3秒揉んだ云々のくだりは割愛して)今までの経緯を説明してみれば、その中国女は「ソレ、タブン、ウチジャナイデスヨ」とさらっと言

い切り、それでも粘り強く私は「土曜日にいた28歳の台湾人の女の子で、髪はダークブラウンのロングヘアーで」など婚約者である狐女の特徴を詳しく説明してみて

も、やはりその中国女は「ウチニ、ソンナコ、イマセンヨ、ウチノオンナノコ、ソンナワルイコトシナイヨ」と続け、そこまでハッキリと言い切られると、私も何だ

か本当に違う店のようにも思えてきてしまって、店の作りはたしかに私の記憶の通りであるとはいえ、私も当時相当泥酔していたわけで、そう言われてみれば店の広

さも何だか記憶の店より少し狭いような気もしてきて、これ以上粘っても埒が明かぬしそろそろ終電の時間も迫ってきていたため、釈然とせぬ思いを引き摺りながら

もとりあえず当夜のところは「ここじゃないのかもしれないな」と誰に向けてというわけでもなく自分自身に言い聞かせるかのように一言呟き、そして礼もそこそこ

に店を後にしエレベーターで下へ降りると、ビル前にはガールズバーの女の子たちと男性店員がまだ立っていて、4階のLに突入してみたけれど、確証は得られず、も

しかしたら違う店かも知れぬと告げれば、男子店員は「いやいや、L以外にありえないですって、Lに決まってますって」と相変わらずかなり自信ありげな様子で、私

はもう少しだけ現場に残って調査/捜査を続けたかったのも山々だったのだけれども、いかんせん終電の時間が迫ってきていたために、やむなく現場を立ち去ろうとし

た際、たまたま団体客を引き連れた中国女のキャッチ(客引き)二人とすれ違いざま振り返って一瞬チラリと見えた一方の女のダークブラウンに染めたロングヘアーの後

ろ姿にどことなく見覚えがあるような気がして、急いで引き返して追いかけてきちんと確認してみようと思ったところが、間一髪のタイミングでエレベーターの扉が

閉まり、そしてその行先を確認すればちょうど4階で止まっており、やはり4階のLが怪しいのではとまたしても思い直しながらも、その時はもはや終電を乗り過ごす

かどうかの瀬戸際だったため、後ろ髪を引かれながらも、私はガールズバーの皆さんに「必ずまた来ますよ」と固く約束をして上野駅へと小走りに急ぐのであった。

……

ぼったくり店の特定に後もう一歩というところでやむなく現場を後にした私であったが、あの時終電を諦めてでも、我が婚約者であり憎っくき裏切り者でもある狐女

らしき後ろ姿を追って再度店に突入すべきであったのかもしれぬと後悔しながらも、また実際に一度は店に突入し確認したのにもかかわわらず、間抜けなことに特定

には至らなかったという己の記憶の不確実性の信用のなさに呆れ返り自己嫌悪に陥りながらも、翌11/15(水曜日)は一日中仕事で潰れてしまって、調査/捜査にはまった

く手がつけられず、その翌11/16(木曜日)、翌々11/17(金曜日)も何だかんだとやることがあって、調査/捜査にはまったく手がつけられず、もしかしたらもう20万円は諦

めて泣き寝入りしてしまおうかと弱気になることも幾度かあったが、その度に、それではならぬ!それではならぬ!それではならぬ!と自分に言い聞かせ何とか気を

取り直し、やはり悪人を許すわけにはどうしてもいかぬし、ここで諦めてしまったら、私の今後の人生が20万円の無駄な借金を背負わされたまま破滅に向かってまっ

しぐらに墜っこちて行ってしまいかねない気もしてきて、それに中国女の生乳(ナマチチ)を3秒揉んで20万円(1秒あたり66666円の計算となる)はどう考えてみても納得

がいかぬし、客観的に見ても絶対におかしいと思って、必ずや20万円を取り返さねばならぬと、次にLに再度突入する機会を密かに窺いながら、強気になったり弱気に

なったりとどっちつかずの煮えきれぬどんよりとした精神的に不安定な状態がしばらく続くも、私は次にLに突入するならば、事件のあったちょうど1週間後に当たる

同じく土曜日(11/18)の同時刻である深夜1時辺りと決めてはいたのだけれど、もちろん突入した結果失敗する可能性も大いにあるわけで、失敗した時の絶望感を考える

と急に鳩尾の辺りがキュウっとなって何とも遣り切れなくなったが、ここで勝負せず逃げるようでは、本当に私はこのまま、浅草酉の市の帰り道の深夜、50を過ぎた

中老の独り身の寂しさと秋の夜の肌寒さが絶妙にブレンドされた遣る瀬のない孤独感に苛まれ、たまたま立ち寄った上野の歓楽街の中国女のキャッチ(客引き)にオッパ

イとSEXを餌にまんまとダマされ引っ張られ連れて行かれたスナックで、中国女たちと無意味なくだらぬ雑談に興じ、勢いで中国女と婚約まで交わしたり、その「婚約

の印」にと中国女のほっぺたに3回キスをしたり、生乳(ナマチチ)を3秒間揉んだりして楽しんでいるうち、知らぬ間に中国女から酒に一服盛られて昏睡してしまい、そ

の眠りこけている間に財布からクレジットカードを勝手に持ち出されコンビニATMで現金20万円をキャッシングで引き出された挙げ句の果てに、いい歳こいた50過ぎ

のおっさんのくせして寝糞まで垂れていたことになってしまって、それはそれで情けないこと切ないことこの上がなく、ここは何としてでも汚名を返上し名誉を挽回

するべく綿密に作戦を練っていくのであった。そして、とうとうその当日の11/18(土曜日)がやって来て、その日は朝からずっと暇だったので、昼間のうちに最終的な

現場の状況を偵察がてらに雑居ビル全体を一括管理する湯島駅前にある不動産屋を訪ね、これこれこういう事情でと(もちろん生乳3秒揉んだ云々のくだりは割愛して)

今までの経緯を詳しく説明し、ぼったくり店Lの情報や評判や、できれば店の電話番号や代表者の名前まで聞き出そうとしてみたところが、不動産屋の社員たちは皆口

を揃えて、そんな悪評は初めて耳にする話であり、もしも仮にLという店が実際にぼったくり行為に手を染めておるのならば、警察からの要請が入り次第、管理会社と

して協力は一切惜しまぬつもりであると嘯き、私は、何だかしらばっくれているようで嘘くさい話だなとは思いつつも、そう言われてしまえばそれまでの話になって

しまうわけで、こちらに迷惑をかけるつもりはさらさらないがもしもの時はよろしくご協力のほどよろしく頼むと丁重に礼を言いひとまず退散し、そのついでにとす

ぐ近所に建つ湯島天神に(無神論者の自分が)藁にもすがる思いで立ち寄り、ここに参拝するのはたしか大学受験の浪人中以来だったよなと懐かしく思い出しながら今回

の一件の無事解決を祈願し、でもたしかここは学問の神様だったよなとまた思い出して、一体ご利益があるのだろうかと訝りながら、でもおそらく今回は頭脳作戦で

勝利せよという思し召しなのであろう、とにかく手段は選ばず勝てばよいのだ!とさらに闘志を高め、そして私は一旦帰宅し、前々より密かに予定していた通り、そ

の夜のLへの突入へと向け、万が一徹夜仕事になることも想定し近隣のカプセルホテルを調べておくなど着々と心の準備を進めていくのであった。その夜は早めの夕食

をとった後に仮眠もとって体力を回復させ軽く腹筋もして、念のため自宅にある十徳ナイフ(万能ナイフ)や木刀などの武器の類いでも持参しようかとも思ったが、それ

はやはりどう考えてみても卑怯なことであるし、警察を呼ぶ際にこちら側に不利となりかねないと思い直して、潔く丸腰で敵に挑む覚悟を決め、そしてちょうど深夜0

時過ぎ頃に現地に到着するようにと逆算して、いざ自転車で自宅を出発し、向かい風の肌寒さに震えながらも、それに勝る闘志を胸に抱き、片道40分ちょっとの夜道

を無我夢中で自転車を漕ぎ、いざ現場に到着すると、ちょうど1週間前と同じ路上に自転車を止め、その時、時刻は深夜0時半過ぎ、しばらくは準備運動がてらに自分

の体を夜の歓楽街に馴染ませようと徒歩で徘徊しはじめれば、さっそく何人かの中国女のキャッチ(客引き)が、1週間前とまったく同じように「オニイサン、サンゼン

エン、ポッキリ、ノミホウダイ、ウタイホウダイ」と声を掛けてくるのを頑なに無視しつつ、深夜1時を過ぎた途端に、どこに潜んでいたのだろうか中国女のキャッチ

(客引き)の群れが水を得た魚のごとく次々と姿を現しては終電を逃し路頭をさ迷う酔っ払いのおっさんやヨボヨボの老人たちを毒牙にかけんと狙い撃ちするかのごとく

我先にと次々と声を掛けまくりはじめ、私はみんな同じような黒ずくめの服装のみんな似たり寄ったりで区別のつかぬマスク姿の中国女たちの中に、我が婚約者であ

り憎っくき裏切り者でもあるところの狐女を探し出そうと血眼になっておると、底冷えか緊張からか突如猛烈な便意を催してきてしまい、今回は漏らすわけにはいか

ぬ、同じ過ちは二度と繰り返してはならぬのだ!ととりあえずドンキホーテの最上階にある便所へ駆け込み用を済ませスッキリ出てきたところへ、矢庭に殺気立った

チンピラヤクザ風の怪しげな男が私に向かって突進してきて一瞬身構えれば、相手も身構え、すぐにそれが巨大な鏡に映る自分の姿だと悟り、ついでだからとマーテ

ィン・スコセッシ監督の傑作映画『タクシードライバー』の主人公(若き日のロバート・デニーロ)のごとく「俺に言ってるのか?」「俺を誰だと思ってるんだ?」「と

っとと20万円返しやがれ!」「返さないなら警察に通報してやるぜ!」などとぼったくり店へ突入時のためにあらかじめ練習しておいたセリフを鏡の中に向かって何

度か呟きさらに闘志を高め、どうせならばモヒカン頭にしてくるべきだったかと冗談まじりに苦笑しつつ、再び夜の街へと繰り出し、引き続き、映画『タクシードラ

イバー』の主人公(若き日のロバート・デニーロ)を気取って「雨は人間の屑どもを 舗道から洗い流してくれる 俺は常勤になった 勤務は夜6時から朝6時 たまに8

時迄 週に6日 7日の時もある 忙しいとぶっ通しで走る 稼ぎは週350ドル メーターを切ればもっとになる 夜 歩き廻る屑は 売春婦 街娼 ヤクザ ホモ 

オカマ 麻薬売人 すべて悪だ 奴らを根こそぎにする雨はいつ降るんだ?」ともうすっかりそらんじてしまえるほどお気に入りの有名な冒頭モノローグをぶつぶつ

口ずさみながら再び通りを彷徨っておると、とある交差点の信号脇に佇む、どこか見覚えのある我が婚約者であり憎っくき裏切り者でもある狐女らしき女を発見し迷

わず駆け寄りそのマスク姿の顔をまじまじと睨めつけてやれば、髪色が以前のダークブラウンからさらにもう一段階ほど明るくなっていたため(おそらく故意に容姿を

変えていたのではないかと推測されたが)、さらに眉毛も髪色と同じく染めていたため、もしかして別人かもしれぬと思いながらも恐る恐る「もしかして前に会ったこ

とあるよな?」と私が声を掛ければ、その狐女らしき女も私の顔をまじまじと睨めつけてきて、二人しばらく無言のまま、あの夜「婚約の印」を求めた時と同じよう

に瞳と瞳を合わせているうち、その狐女らしき女は一瞬驚いたような表情をしたかと思えば一目散にどこかへ逃げ去って行ってしまい、仕方なしに私は、現場であるL

が入る雑居ビルへと向かえば、ビル前には顔馴染みのガールズバーの男性店員や女の子たちが立っていたので、そこに私も加わり寒さに震えながら待ち伏せがてらに

しばし雑談を交わしつつ、私が「今日こそはLに突入し、何なら110番して警察を呼ぶかもしれぬ」と告げれば「おお、それは頼もしいことですね、うまくいくといい

ですね、健闘を祈ってますよ」とみんなそれぞれ応援してくれたり、さらに詳しい情報、例えば、ぼったくり中国女グループの拠点はこのビルの他にあともう1カ所別

のビルにもあるらしいこと、同じビルにぼったくり店があることは他の健全な店にとって甚だ迷惑千万な話であり、信用問題にも関わってきてしまうから、警察や管

理会社に何度も改善を要請していること(やはり不動産屋は嘘つきだった!)、また毎日ここでこうして立っているので自然とぼったくり中国女たちの顔は全員覚えてし

まっていること、そして何よりもぼったくり中国女たちは写真や映像を撮られることを極度に嫌う性癖があるから、スマホで撮影しながら店に突入すればよいのでは

といった貴重なアドバイスをもらったりと、ちょうどそんなところへ、先ほど逃げられた狐女が一人でひょっこりと戻って来たものだから、さあ大変だ!ここで会っ

たが百年目と私がスマホを構えて追いかけ詰め寄れば、狐女は駆け足で夜の街へと溶け込むように再び猛スピードで逃げ去って行ってしまい、またしても間一髪のと

ころで狐女を逃してしまうところとなったわけだが、狐女が雑居ビルに舞い戻って来たということは、それはとりもなおさず私の目指すぼったくり店がLであることに

間違いがないことの証左であり、ぼったくり店はまさしくLであると確信した私は腹を決め、いざ4階へとエレベーターで上がって行き、Lの扉を勢いよく蹴り開けよう

とすればビクともせず、どうやら内側から鍵が掛けられている模様、ただし中からは人のざわめきやカラオケの歌声などがたしかに聞こえてくるので(おそらくは私が

店の周りを彷徨いているからくれぐれも用心するようにと狡猾な狐女が店に電話したのだと推測されたが)、仕方なしに私はLの扉の前で血眼になって待ち伏せておる

と、ちょうどその時Lの扉が開き、今度は、またしてもどこかでたしかに見覚えのある鶏ガラみたいに痩せけこけた60前のおばさん、そう、すなわち、忘れるものか、

決して忘れてなるものか、まさしく鶏ガラ女がその日も相変わらず年甲斐もなくド派手な赤いドレスで若作りして、鶏ガラ女と同年代の酔客のおっさんを見送るため

渡りに船と現れたものだから、さあ大変だ!私は再びここで会ったが百年目、決して逃がしてなるものか、ここぞとばかりにスマホを構えてパシャパシャパシャパシ

ャと撮影しながら鶏ガラ女へ猪突猛進と向かっていけば、驚いた鶏ガラ女はギャーギャーギャーギャー大声で喚き散らかしながら「シャチョウサン、タスケテー!」

などと隣の酔客のおっさんに助けを求めたり、エレベーターに飛び乗ったかと思えばすぐにまた降りたり、今度は非常階段を使って上へ下へと逃げ回ったりなど、雑

居ビル内を散々逃げまどい、私はそれを「待て、コノヤロー!」「ババア、待てって!」「絶対逃さねえぞ!」「金返せ、金、20万円返せ!」「このクソババア!」

「警察呼ぶぞ、コラッ!」などと叫びながらスマホ片手に鶏ガラ女を追いかけまくる大捕物が突然はじまり、それは端から眺めれば、まるでTVの特番でよく流れてい

る『警視庁24時なんちゃらかんちゃら』みたいな、警察の俺たちちゃんと仕事してまっせと国民の皆さんにアピールするためのプロパガンダ番組の映像を見ているよ

うでもあり、実際私は鶏ガラ女を必死に追いかけながら、まるで今の自分たちは『警視庁24時なんちゃらかんちゃら』みたいだなとぼんやりと思ってもおり、そんな

間抜けな追いかけっこが5分くらい続いただろうか、そのうち鶏ガラ女が非常階段を勢いよく駆け降りて行く途中で足を踏み外し一人勝手に階段を尻で滑り降りるかの

ように踊り場まですっ転んで落ちて行って自滅したところで、ようやく大捕物は強制終了となり、私は鶏ガラ女の腕をもう二度と逃さんぞと言わんばかりに強くひっ

掴み何とか無事に鶏ガラ女を捕獲することに成功し、鶏ガラ女は階段ですっ転んで酷く打ちつけた尻を「イタイ、イタイ、イタイ、イタイヨ、イタイヨ、イタイヨ」

と摩り赤子のように泣き叫びながらも「ワカッタ、ワカッタカラ、モウコウサン、トリアエズ、オチツイテ、ミセ、ハイッテ、ハナソ、ミセイコ」と妥協してきて、

さすがにこちらも追いかけっこに疲れ果ててしまった50過ぎの中老の私も素直にそれに同意して、二人で4階にある悪の巣窟Lの店内へ入れば、中には客が3人ほどいて

それぞれに中国女たちと会話をしたりカラオケを歌ったりしており、その中には都築響一にそっくりなおっさん(もしかしたら本人かもしれぬというくらいに似ていた)

が延々と中国女といちゃつきながらキスしたり熱く抱擁し合ったりしていて、それを横目に鶏ガラ女に引っ張られるように店の奥の「コ」の字を左回りに90度回転さ

せた形のソファー席の空いている席に座らされた私は、そこであらためて鶏ガラ女に向かって「先週土曜日の夜に勝手におろした20万円を返せ!今すぐここで返せ!

さもないと110番して警察に通報するぞ!これは脅しじゃないからな!」と強い口調で脅しながらスマホで110番する素振りを見せると、鶏ガラ女は「チョ、チョ、チ

ョト、チョット、マッテ、オニイサン、マスクトッテ、チャント、カオミセテ」と言ってくるので、私がマスクを取って素顔を見せると、ようやく鶏ガラ女は私のこ

とを思い出した様子で「ドウヨウビ、アソコノセキ、イタ、オニイサン」と土曜日に私が座っていた(眠りこけていた)右隅の席を指差すので、私が「そうだよ、土曜日

の夜、俺が眠っている間に勝手にクレジットカードで金おろしただろ、もう一人若い女もいただろ、どっちがおろしたか知らんけど、その20万を今すぐここで返せ、

返さなければ警察呼ぶぞ、本当に呼ぶぞ、ちゃんと返してくれたら、警察は呼ばない」とさらに詰め寄れば、鶏ガラ女はとうとう観念したように少しばかり殊勝な口

調で「ワカッタ、ワカッタ、20マンカエス、ソノカワリ、トッタ、シャシン、ゼンブケシテ」とやはり中国女たちにとっては写真を撮られることがもっとも嫌なこと

であるのは本当らしく「わかった、20万返してくれれば、警察も呼ばない、写真も消す」と私は口約束すると、鶏ガラ女は、その時カウンターの中にいた、先週土曜

日に私が店に来た時に狐女と一緒に最初についてくれた見覚えある小太りなチーママに早口の中国語で何やら話しかけると、小太りのチーママは現金を持って私の元

へとやって来て、鶏ガラ女と二人で私の両隣をガッチリ固め絶対に逃がさないぞとロックオンするかのような形のフォーメーションで座り、その場で一枚ずつ数えた

のちに意外にも素直にハイと20万円を私に手渡してくれ、念のため私も受け取った20万円をその場で一枚ずつ20枚数えたのちに、スマホの中の写真をすべて(とはいっ

てもいっぱい撮ったはずなのに結局ブレブレの写真が1枚撮れているだけだったが)二人の中国女に見守られながら消してやり、この際だからついでにと払った覚えのな

い財布の中からいつの間にか抜かれていた3000円も返してもらおうかと思ってそう主張したのだけれど、それはお酒を飲んだ分の料金として払ったんだから返せない

と小太りのチーママに言われてしまい、さすがに中国女は抜け目ないなと思いつつも、狐女の生乳(ナマチチ)もしっかり揉ませてもらったわけでもあるし、それはまあ

もっともな話ではあるよなと私も渋々納得して、すでに私は20万円返してもらえた時点でもうすっかり満足してしまっていたものだから、その20万円を気が変わった

中国女たちに再び奪い返されないうちにさっさと店から逃げ出したい一心で、最後に中国女たちに向かって少し芝居がかった調子で「客の寝ている間に、クレジット

カードで勝手に金おろしたら、それは犯罪だからな!」とあらためて説教するように強く諭せば、鶏ガラ女と小太りなチーママは自分らもグルのくせして我関せずと

いった素振りで、今回の一件のすべての責任をたまたまここにはいない狐女におっ被せるように「マッタク、ヒドイコトスル、オンナノコダヨネ、ソンナコハ、ミツ

ケタラ、スグ、クビニシナイトネ」だの「トコロデ、ドンナオンナノコダッタ?オボエテル?ナマエハ?ソンナコ、ウチニ、イタカシラ?」だのと下手くそな猿芝居

でしらばっくれるように他人事のように話してきて、さらに小太りなチーママは「ネンノタメ、ウケトリダケ、モラットコウカナ」とか呑気に言い、こういう案件は

日常茶飯事で頻繁に何度もあるためか手慣れた要領で紙とペンを持ってきて、仕方なしに私は「20万円返金しました、日付、名前、電話番号」と(少しばかり日本語と

して表現がおかしかったが)書いて渡せば、挙句の果てに、鶏ガラ女はその痩せこけた体の線がはっきりとわかるほど私の体にいやらしく密着してきて「セッカクダカ

ラ、ソノカエシタ20マンデ、チョットダケ、ノンデカナイ?」などと媚びを売り出す始末、そんな中国女たちの挙動のあれこれを間近で眺めているうちに私はだんだ

ん愉快な気持ちになってきてもいたのだけれども、そしてそんな我々のイザコザをよそに相変わらず都築響一は延々と中国女と熱く抱擁し合い二人だけの世界にどっ

ぷりと浸っていたわけだけれども、やはりこれ以上こんなところにいたら妖気に当てられ私までもが確実に頭がおかしくなりそうな気がしてきて、中国女たちとはも

う付き合ってられんわと「二度とこんなマネするんじゃねえぞ!」最後に捨て台詞して店をとっとと後にするのであった。何とか無事に20万円取り戻すことに成功し

た私は、万が一警察に垂れ込まれないかと心配のあまり「タクシー、ヒロテアゲル」と金魚の糞みたいにしつこくくっ付いてくる鶏ガラ女に「俺は自転車だから、こ

こでいいから」と突き放し、それから今も階段ですっ転んだ時に打ちつけた尻を時々「イタイ、イタイ」と摩り続ける鶏ガラ女に「病院行ったほうがいいぞ」と吐き

捨て一人エレベーターに乗り込み一旦地上に降りたところで思い出して再び同じビルの5階にあるガールズバーへと向かい、今回色々と貴重なアドバイスをもらい大

変世話になった男性店員に無事に20万円取り返したことを報告すると、相手も大層喜んでくれて、私はあらためてきちんと礼を言い、後日挨拶がてらガールズバーを

再訪すると約し、そして一人外に出たところで、何だか憑き物がすっかり落ちて全身から一気に力が抜けていくのをしみじみと感じながら、もう20万円取り返したこ

とでもあるし、もういっそこのまま死んでしまってもよいのかもしれぬとふと思って、またしても映画『タクシードライバー』の主人公(若き日のロバート・デニーロ)

を気取り、手で拳銃の形を作り、映画の中では右手だったか左手だったかどっちだったか忘れてしまっていたものだから、念のため両手をそれぞれこめかみに当てが

い、バキュン、バキュンと2発撃ち込んだところで、でも今回こうして散々な酷い目に遭った後にあらためて考えてみるに、世の中まだまだ捨てたもんでもないのかも

しれぬし、まだまだ死んでしまうにはもったいないのかもしれぬし、もう少しだけ頑張って生きてみようかな、と私はまた思い直して、それに何よりも今夜の自分は

結構カッコ良かったし、我が人生で一番か二番か三番目くらいにはカッコ良かったし、自分もまだまだやればできる子なのではなかろうか、などと心晴れやかに自画

自賛しながら、またしても、例のモノローグ「雨は人間の屑どもを 舗道から洗い流してくれる 俺は常勤になった 勤務は夜6時から朝6時 たまに8時迄 週に6日

7日の時もある 忙しいとぶっ通しで走る 稼ぎは週350ドル メーターを切ればもっとになる 夜 歩き廻る屑は 売春婦 街娼 ヤクザ ホモ オカマ 麻薬売人

すべて悪だ 奴らを根こそぎにする雨はいつ降るんだ?」をお経のように一人ぶつぶつと口ずさみ、バーナード・ハーマンのテーマ曲を脳内再生させ、再び肌寒い夜

道をいまだ戦いが終わった興奮冷めやらぬ勝ち誇ったような上機嫌のまま自転車で家路につくのであった。その帰り道、深夜2時過ぎの巣鴨の外れで、私は酒に酔って

うずくまる80過ぎの太った老人(伊藤俊也監督の傑作映画『花いちもんめ』でボケ老人役を演じた千秋実に似ていた)にたまたま出くわし、普段ならば君子危うきに近寄

らずと華麗にスルーするところを、その時の私はとにかくもう上機嫌だったものだから、そしてもちろん心配でもあったから、大丈夫ですか?と声を掛けるとまった

く反応がなく、さらに心配になった私は、110番してお巡りさんに来てもらおうか?救急車呼ぼうか?それとも家族に電話して迎えに来てもらおうか?と再び声を掛け

ると、ようやく老人は蚊の鳴くような可愛いらしい声で「すぐ近くだから、できれば送ってほしいな」とか図々しくも言ってくるので、これは困ったことになったぞ

と声掛けしたことを早くも後悔しはじめながら、その太ったかなり重たい老巨体を支えるようにして立ち上がらせ歩かせようとするも、足が棒のようになってヨロヨ

ロと上手く歩けない様子、私は歩けないんじゃ送るにも送れないよと仕方なく適当な道端の花壇のコンクリート枠にちょうどうまい具合にちょこんと腰掛けさせてや

ると、老人はまた蚊の鳴くような可愛いらしい声で「ありがと」と言ってきて、私はしばらくここで座って休んで酔いを覚ませば後は勝手に一人で帰れるだろうと判

断し、その時、老人の手に財布など貴重品が入っていると思しき小さな巾着袋みたいなものが目に入ったので、私は老人に向かって「これ、盗まれちゃったら大変だ

からね、肌身離さずちゃんと持っているんだよ、何しろ世の中には悪い奴らがいっぱいいるんだからね」と念のため声を掛けてやると、老人はまた蚊の鳴くような可

愛いらしい声で「ありがと」と言ってきて、それから私は人助けをした後の心地良さに浸りながら、再び肌寒い夜道を相変わらず上機嫌はそのままに家路につくので

あった。そして振り返って思うに、今回の一件で何とか無事に20万円を取り返したことは、私にとっては、結局のところ、ただ単にマイナス20万がプラスマイナス0に

戻っただけ、ただそれだけの話に過ぎぬようにも見えるし、実際のところ私は損をしなかっただけで、金銭的には何一つ得をしたわけでもなく、費やした時間や労力

その他20万の利息分(約600円)とATM出入金手数料(220円+220円)など合わせればむしろわずかにマイナス勘定であったわけだけれど、けれども、たとえ端から眺めれ

ば自業自得の愚にもつかぬ馬鹿げたろくでもない話に見えようとも、私自身にとっては、決して泣き寝入りせずにたった一人で戦い抜いて勝利したという事実が、金

銭的なプラスマイナスの損得勘定よりも何よりも非常に重要なことであって、この世の中は諦めたらそこですべてが終わりであり、また諦めなくとも結局すべてが終

わってしまう可能性だってなきにしもあらずだが、少なくとも覚悟を決め勝負を挑まぬ限り、いつまで経っても負け犬は負けっぱなしの状態のままで勝つことは100%

あり得ぬわけであり、何はともあれ、今回の一件で私自身が決して諦めず泣き寝入りせずにたった一人で果敢に戦い抜いて勝利したという事実は、おそらく今後の残

り少ない己の人生を私自身がこれから先も生き延びていくにあたって、間違いなく大いにプラス勘定であって、決して金では買えぬ、とてつもなく価値のある、かけ

がえのない素晴らしい経験であったようにしみじみと思えるのであった。結局、寝糞まで垂れてしまった私は運がついたのか運がつかなかったのか。こうして終わり

よければすべてよしなのか。それにそもそもこんな愚にもつかぬ馬鹿げたろくでもない話を書くことに何か意味などあるのかないのか。でもやはりたとえそれが愚に

もつかぬ馬鹿げたろくでもない話であったとしても、私は是が非でもそれを書かねばならぬと思うから書くのである。そしてこんなふうにこれから先も愚かな私は、

己の人生を無駄にして、己の身を削り、再び己の身に性懲りもなく何度も何度も何度でも訪れることであろう愚にもつかぬ馬鹿げたろくでもない体験をもとにして、

性懲りもなく愚にもつかぬ馬鹿げたろくでもない話の数々を、もちろんそこにもきちんとできる限りありったけの己の魂を注ぎ込んで書いていくつもりである。とこ

ろで、狐女と私との間に交わされた婚約は今でも有効なのであろうか。婚約破棄したわけでもないから、まだ有効と言えるのかもしれぬし、冷静な頭になって考えて

みるに、そもそもの話「婚約成立の印」のキスをプイッとはぐらかされた時点で婚約成立などしていなかったのかもしれぬし、実際に今現在でも私が狐女と結婚した

いかといったらば、どうなんだろうか、正直よくわからない、というか、婚約者の金を勝手に引き出す相手と結婚などできるはずなかろうに。とはいえ、一生結婚す

るつもりなどなかった私が仮にも結婚しようと決意しかけたこと自体が驚くべき奇跡であって、たとえ酔狂の悪ノリであったとしても、ほんの一瞬でも私に結婚して

もよいかもと思わせた狐女はもしかしたら正真正銘本物の狐だったのかもしれない。狐女の生乳(ナマチチ)の感触は今でも、その大きさ、その柔らかさ、その乳首の長

さとともに生々しく思い出すことができる。何でこんなことだけ無駄に覚えているのかと自分でも呆れるほど克明詳細に思い出すことができる。正直顔はほとんど覚

えていない。果たして狐女は実在したのだろうか実在しないのだろうか。つい一月前に起こった出来事なのにもう何十年も前のことに思える。相手が狐女だけに私は

何だか本当に狐につままれたような不思議な心持ちなのである。そしてしつこく何度も何度も何度でも繰り返すが、狐女の生乳(ナマチチ)を3秒揉んで三千円という金

額(計算すると1秒あたり千円となる)は、結局のところそれは高いのか安いのか、正直なところ自分でもよくわからないというのが私の包み隠さぬ本音なのであった。

……

太宰治の小説に『善蔵を思う』という短篇があって、タイトルに「善蔵」とあるのに、なぜだか善蔵という人物は小説の中には一切登場せず、この善蔵というのは、

おそらく太宰と同郷青森出身でアルコール中毒でもあった破滅型小説家の「葛西善蔵」のことだと思われ、太宰が同郷の藝術関係者の会合に出席した際、自己紹介す

る段で泥酔し醜態を晒してしまったことを猛省するみたいな性もない話の内容なのだが、今回私が書いた駄文のタイトルもそれを真似して『アレックス・チルトンを

思う』にして、こちらも一時期重度のアルコール(+麻薬)中毒だったと言われる「アレックス・チルトン」は一切登場させずに「アレックス・チルトン」をそこはかと

なく感じさせながら己の狂酔の醜態を顧みて静かに終わらせる心積もりだったのだけれど、そもそもそのような高等な技術を私が持ち合わせているはずもなく、それ

ではあまりに乱暴過ぎて、読み手にとって不親切過ぎやしないかと急に思い直して、最後に「アレックス・チルトン」の話を書いて有終の美を飾ることにしようか。

大昔、私がまだ希望に満ち溢れた若者だった頃には、いつの日か一世一代の大仕事を成し遂げて、ビッグスターになって、愛人を何人も囲って、ハーレムを作り、人

も羨む華麗なる人生を送ってやらんと無謀にも思っていたものだが、今現在50過ぎの草臥果てた中老のおっさんとなった私は、そんな大それた考えを持つこともなく

なり、それに愛人を何人も囲ったところでそれは甚だ面倒な事態となるだけで、今現在の私に残るかすかな希望といっては、ただ自分の生み出す創作物や表現物を、

わかる人にだけわかってもらえればそれでよし、とにかく有名になりたいと身分不相応に思うことなどはなくなってしまって、これは私が27歳の時、たまたま読んだ

坂口安吾の小説『白痴』にまんまとそそのかされ背中を押されるかのごとく、藝術家になる!と高らかに宣言し会社勤めを辞め、紆余曲折の末、33歳の時になぜだか

理由もわからず突発衝動的に絵を描きはじめ、その後いくつかの絵の大きな賞など貰って、すなわち前述の「わかる人にだけわかってもらえればそれでよし」という

状況が実現してしまったからであるのと、もしかしたら、将来はこんな有名なスターになりたいと自分が憧憬を抱く対象が少なくとも日本にはほとんど存在しないこ

とが原因なのかもしれない。今の日本には、才能がないくせに才能がある振りをする才能だけはいっぱしにある、上っ面だけで中身スッカラカン、とにかく目立ちた

くて目立ちたくて仕方がない、目立つためならば人殺し以外何だってやる自己顕示欲の塊みたいな、声だけやたらとバカデカい無責任なインチキスターしか見当たら

ず、正直哀しくなってくる。今の私の心境は、自分がいつ死ぬかは皆目わからぬけれど、それまでの間は本当に自分が好きでやりたいことだけをやって静かに生きて

いければ他に何も望みはしないというところにまで至っているのだった。ただし欲を言うならば、自分の作品であると胸を張って主張できる何かしらの藝術作品だけ

は、自分がこの世に生きた証しとしてきちんと残してから死にたいというのはあるにはあるのだけれど、それも絶対にそうでなければならぬといったわけでもない。

何かを表現する人、特に藝術作品を作る人たちの中で、自分にとって憧れのスターは一体誰か?と問われたならば、私はアレックス・チルトンのことを真っ先に思い

浮かべることだろう。もちろんデヴィッド・ボウイやジョン・レノンやカート・コバーンと答える人もいれば、高倉健やSMAPと答える人もいれば、太宰治やゴッホ

やラモーンズやブルーハーツと答える人もいるだろう。その人にとっての憧れのスターは人それぞれにもちろん異なっていて当然であり、私にとって現時点での憧れ

のスターはアレックス・チルトンになるということである。あえてマニアックなほとんど誰も知らない人を選んで悦に入っているわけでもなく、私はそこまでひねく

れ者でもない。そしてあくまでもそれは、今のところ現時点での私にとっての憧れのスターがアレックス・チルトンというだけの話であって、人の好みや人の考える

ことなんていうのは時代や環境によってコロコロと手前勝手に変化していくものであるからして、20年前の私にとっての憧れのスターはまた別の人であったし、20年

後の私にとっての憧れのスターもおそらく変わっていることであろう。さらに、絵を描く人間ならば誰しも一度は考えたことがあるだろうが、自分の描く絵を音楽に

たとえると一体誰になるだろうか?と問われたならば、またしても私はアレックス・チルトンのことを真っ先に思い浮かべるに違いない。もちろん、ふざけんなよ、

へっぽこのお前さんの自己満足な落書きごときをアレックス・チルトンにたとえるなんておこがましいにも程があるぞと異議を唱えてくる者も現れるやもしれぬが、

これは散々真剣に考えた末に私が出した答えなのである。私は33歳でなぜだか理由もわからず突発衝動的に絵を描きはじめ、その後も衝動に任せ自由気ままに描きた

い絵を描きたい時に描くといった具合にこれまでずっと絵を描き続けてきて、さらに自分の描く絵は世間一般的にいうと一体何になるのだろうか?という問題につい

てもずっと考え続けてきて、アート?イラスト?アウトサイダーアート?落書き?分泌物?排泄物?ウンコ?おそらく一番近いのはアウトサイダーアート(少し精神に

異常をきたしている自覚もある)とウンコ(これは前に書いた)ではないかと自己分析するところであり、絵を描きはじめた33歳の頃はPUNK系の激しめの音楽をよく聴

いていて、私が絵を描く直截的なきっかけとなったのが他でもないPUNKのゴッドファーザーであるイギー・ポップの音楽であったという奇妙な因縁もあり、爾来、

PUNKを標榜し私は絵を描いたりその他表現をしてきており、当初はラモーンズの勢いで誤魔化したような絵を描いていたものだが、そのうち勢いだけでは誤魔化し

切れぬと様々な試行錯誤を重ねていった末の今現在の私が描く絵を音楽にたとえると一体誰になるのか?といえば、アレックス・チルトンになるというわけである。

さらにここからアレックス・チルトンとPUNKがどのように繋がって行くのかという話になるのだが、それはPUNKの女王と称されるパティ・スミスが「PUNKとは、

特定の格好や音楽ではなく、心の枠組み、自由であること」と語るその言葉に当て嵌めれば自ずと答えは出てくるが、アレックス・チルトンの音楽に向き合う精神は

紛れもなく自由そのものであり、すなわちアレックス・チルトンもPUNKと言えるのである。実際アレックス・チルトンがPUNKの先駆者でPUNKのプロトタイプを作

ったとみなす人もいるようだ。さらに「作品に魂を込める」「作品に魂が宿る」など「魂」の話を聞く度に、そもそも「魂」とは一体なんぞや?と考えながら、私は

またしても真っ先にアレックス・チルトンのことを思い浮かべるのである。いわゆるロックミュージックにまったく興味のないほとんどの人たちにとっては、アレッ

クス・チルトンと聞いても、アレックス・チルトンって一体誰だよ?と思うことだろう。ロックミュージック好きでも名前を知らないかもしれぬし、名前を知ってい

ても実際にその音楽を聴いたことがある人間はわずかであり、さらに好きだという人間もごく少数の音楽マニアに限定されるだろう。現に「アレックス・チルトン」

とパソコンに打ち込むと、なぜだか「チルトン」が間抜けな冷凍食品か駄菓子のごとく「チルトん」と変換されてしまう。所詮はその程度の知名度ということなので

ある。ただしそんな中でも私のように、もしくはさらに私以上に熱狂的なファンも世界中には確実に存在していて、そしてそのような熱狂的な一部のファンに支えら

れるようにしてアレックス・チルトンの音楽は決して淘汰されることなくこの世に残り続け、そしてもちろん細々とではあるが未来永劫聴き継がれてゆくのである。

……

そしてここで話は突然飛んでなぜだかブルーハーツの話になるわけだけれども、もしもブルーハーツのファンが読んだら袋叩きに遭うかもしれぬが、私は昔からブル

ーハーツがなぜだか好きになれず、もちろん過去から現在にかけ事あるごとに何とか好きになる努力もしてきているにもかかわらず、それでもどうしても好きになれ

ず、これはもう好き嫌いの問題と言ってしまえばそれまでなのだが、好き嫌いの問題でもないような気もして、これは本当は好きなくせして無理して嫌いと言ってい

るわけでは決してなく、もちろんこの先私がブルーハーツを大好きになる可能性もなきにしもあらずで、私がブルーハーツをどうしても好きになれない理由、嫌いと

いうわけではないが、好きというのも恥ずかしい、というか、そもそも好きではない、かといって、嫌いでもない、興味がないわけでもない、その証拠に何度も試し

に聴いている、おそらくブルーハーツが好きということに対しなぜだか違和感を覚えてしまうというのが私の中で一番しっくりくるのかもしれない。そしてようやく

最近になってその理由が朧げながらわかりかけてきたのだが、おそらくそれは広告業界にはブルーハーツ好きがとにかく呆れるくらい異常に多く、過去から現在にか

けてCMソングとしてもういい加減にしておくれよというくらいにとにかく頻繁に、もうお腹がいっぱいだよというくらいに、ブルーハーツの音楽そのものが使用さ

れたり、カバー曲が使用されたり、CMタレントがブルーハーツの曲を口ずさんだりと様々な形で多用されているせいであるかもしれない。もちろんそれは彼らの音

楽がそれくらい知名度があって多くの人に愛され、とりもなおさず多くの人を魅了する力があるという証左でもあって、だからこそ広告屋もCMに多用するわけであ

り、ブルーハーツ本人たちにまったく責任はなく、安易に使用する広告屋が悪いわけで、骨の髄まで身に染みて広告大嫌いを自称する私としては、もちろんひねくれ

者の穿った見方であることは百も承知の上で、広告やCMに音楽が使われるということは、商業主義に魂を売り渡すことと同義となり、もちろん広告や商業主義すべ

てを否定するつもりもなく、使われる企業や使われ方によっても印象はかなり違ってくるとはいえども、どうしても金のために魂を売っていると見えてしまい、それ

に対して強い違和感を覚えるからこそ、おそらく私はブルーハーツがどうしても好きになれないのだろうと考える。さらに仮にも彼らはパンクロックを標榜している

わけで、パンクやロックを標榜しておきながら広告や商業主義に魂を売るとは何事か、けしからん奴となるわけである。そもそも広告という仕事は金と引き換えに企

業の代理で他人の表現をすることであり、すなわち金のために魂を売ることであり、もちろん音楽使用許諾に関してはレコード会社に権限があり本人たちの意向では

ないにせよ、いかんせん金のために魂を売っているようにしか見えないのもやむを得ず、以前広告業界に身を置き広告屋として仕事をしていた頃の私は広告という仕

事のこの主体性のなさがどうにもこうにも気持ちが悪くて仕様がなく、広告業界から潔く足を洗って、今現在は自分の作品を作りながら細々と生きているのである。

ここでさらに話は突然飛んでなぜだか元国民的人気アイドルグループSMAPの話になるわけだけれども、もしもSMAPのファンが読んだら袋叩きに遭うかもしれぬが、

私は昔からSMAPがどうしても好きになれず、まだ広告屋だった時分にTV-CM撮影でメンバー全員(現オートレーサー含む)に何度か会っているけれども、その際も有名

人に会えて嬉しいなとかいった感慨は皆無で、私とほぼ同世代のスターである彼らはTVで見るのとは違って何だか妙に疲れ切った覇気のないお兄ちゃんたちだなとい

う印象だけが今でも強く残っているが、また、大昔に『世界にひとつだけの花』とかいったふざけた歌を歌って大ヒットしたけれども、あの歌の何が悪質で胸糞悪い

かと言ったらば、本人たちはナンバーワン(天下)をとっておきながら、一般大衆にはオンリーワンの普通の人でいなさいなと半ば強要し洗脳までしているところだと個

人的には考える。もちろんオンリーワンでいるのは尊いことだけれども、お前らナンバーワンが歌って気持ちよくなってるんじゃないよと、これもひねくれ者の穿っ

た見方かもしれぬが、私が広告業界に入った1990年代初頭から半ばあたり以降にかけては、SMAPに代表されるアイドルタレントにちょっと変なことをさせておちゃ

らかして失笑を買うCMや、とにかくタレントを大量に使って学芸会をさせるかのような出来損ないのコント崩れドラマ風CMが広告業界における大潮流となっていき

(残念ながらその悪しき傾向は今現在も脈々と続いているが)、一流クリエイターと呼ばれる者たちが競い合うかのようにそのような低俗なおちゃらけCMを次々と手掛

けるようになるわけだけれども、私に言わせれば、そんなものはユーモアでも何でもなくって、ただ悪ふざけして内輪で喜んでいるだけの代物であり、こんなにもレ

ベルの低い世界に身を置き続けていたらば、いつか自分も染まってしまってレベルの低い人間に成り下がってしまうのではないかと危惧するようにもなっていき、そ

して私は27歳の時、たまたま読んだ坂口安吾の小説『白痴』にまんまとそそのかされ背中を押されるかのごとく、藝術家になる!と高らかに宣言し会社勤めを辞め、

その後、紆余曲折の末の33歳の時になぜだか理由もわからず突発衝動的に絵を描きはじめ、今現在は広告業界から完全に足を洗っている状態であり、これもブルーハ

ーツ同様にSMAP本人たちに責任はなく、安易に使用する広告屋が悪いわけで、骨の髄まで身に沁みて広告大嫌いを自称する私としては昔からSMAPがどうしても好き

になれないというわけである。そして、私の憧れのスターであるところの、我らがアレックス・チルトンは決して商業主義に魂を売らずに貫き通したのである。『世

界にひとつだけの花』というタイトルの歌は、我らがアレックス・チルトンにこそふさわしく、彼こそが(もちろん自らで作詞作曲した上で)歌うべきだったのである。

……

私がアレックス・チルトンの音楽の底なし沼にズブズブと嵌り込んで行ったのは、たしか2010年代に入ってしばらく経ってからであり、その頃すでに彼はこの世にい

なかった。アレックス・チルトンが死んだのが2010年3月、私はその死に気づきもしなかった。そんな私がアレックス・チルトンに関して知り得る限りをここに書いて

みることにする。ウィキべディアに毛の生えたような情報で甚だ恐縮だが、知ったかぶりをしても、さらに詳しい人から見ればニワカとバカにされ、それはただただ

カッコ悪いだけなので、本当に知っていることのみを書いていくことにする。もしかしたら間違った情報もいくらか混じっているかもしれぬが、そこはご愛嬌という

ことで目を瞑ってもらえれば幸いである。アレックス・チルトンの音楽の魅力を言葉で説明するよりもまずは実際に聴いてみてもらうのが一番手っ取り早いだろう。

今の時代サブスクやインターネットで、かつては入手困難だった音源でさえいとも簡単に聴くことができ、それらは実際腐るほど転がっていて、おまけに聴き放題な

ので、もはや聴かないという選択肢はないだろう(ソロ重要アルバム『Cliches』だけ私はまだ断片的にしか聴けていない)。アレックス・チルトンの音楽は、世間ではい

わゆるヘタウマと称される通り、音楽演奏の素人である私の耳にも、お世辞にも上手いとは思えない。けれども歌やギターやピアノの演奏には切ないとか哀愁を帯び

ているとかいうと陳腐に聞こえてしまうが、言葉では言い表せぬような、決して計算では出せぬであろう絶妙かつ奇妙な味わいがある。歌心があるというか、歌って

いなくともギターやピアノのソロ演奏にも歌心があるというか、とにかく音楽が好きで好きで堪らぬ人間が、音楽を作らずにはおられぬから作っているというか、全

身全霊で魂込めて音楽と向き合っているというか、全然飾らずあるがままなすがままカッコつけていないのになぜだかそれがカッコいいといおうか、音楽に一生を捧

げてなりふり構わず表現しているとでもいおうか、アレックス・チルトンの作る音楽はその折々に様相を変えはするものの、根底に流れる自分のやりたい音楽を自由

気ままに追求するというPUNK精神は基本的に変わらず、時代や流行に左右されず我が道を行くと言わんばかりに首尾一貫している。一部例外(ボックストップス時代)

を除き商業ビジネス的な成功とは一切無縁であったが、今もこれからも世界中のディープな音楽マニアたちの間では、アレックス・チルトンという名前と彼が残した

音楽は決して忘れ去られることなく永遠に語り継がれ聴き続けられることだろう。(何をもってしてパワーポップなのかはよく知らぬが)パワーポップの始祖と称され、

たまにカルトヒーローと呼ばれることもあるが、作る音楽はそこまで突飛でなく些か古臭さ(特にビッグスター時代)は否めずもビートルズ直系の普遍性を持ち得るゆえ

カルトではないと個人的には考える。ここで今さらながらアレックス・チルトンの経歴を簡単に書いておく。1950年メンフィス(エルヴィス・プレスリーで有名)に生ま

れる。高校の学園祭で歌っていたところをボックストップス(ダン・ペンがプロデュースのブルーアイドソウルグループ)のリードボーカルにスカウトされ『The Letter/

あの娘のレター』(当時16歳とは思えぬほどソウルフルな野太い歌声を聴かせる)を大ヒットさせる。グループ解散後、彼の(←)大ファンだったブライアン・ウィルソン

のビーチボーイズが作ったレコード会社(ブラザーレコード)からソロデビューアルバムを出す予定だったところが頓挫する。その後、ブラッド・スウェット・アンド・

ティアーズのボーカル(アル・クーパーの後釜)に誘われるも「商業的過ぎる」と断る。その後、友人のクリス・ベルにサイモンとガーファンクルのようなユニットをや

ろうぜ!と誘うも断られ、その代わりクリス・ベルのバンドに加わり、ビッグスターと名前を変えてレコードデビューを果たす。ビッグスターというバンド名は、俺

たち絶対ビッグになってやるぜ!という切実な熱い思いを込めたわけではなく、たまたま録音スタジオ近くに同名のスーパーがあり、それをそのまま拝借し、ついで

にロゴまで拝借し少し変えてアルバムジャケットに使用したそうだ。アルバム名もこれまた、俺たち絶対No.1になってやるぜ!という切実な熱い思いを込めたわけで

はなく冗談半分でつけたそうだ。そのビッグスターの1stアルバム『#1 Record』は奇しくも私がこの世に生を受けた1972年に発売された。評論家筋からは絶賛された

ものの、さらにおそらく本人たちも相当に自信があったのではなかろうか、ところがどっこい、当時の所属レコード会社がプローモーション活動を一切行わず、その

結果さっぱり売れず(レコード店にレコードが置かれない状態なのだからそもそも売れるわけがない)、ビッグスターというバンド名で『#1 Record』というタイトルの

アルバムを出すという大宇宙レベルの壮大なボケが盛大にスベり倒したものだから、必然的にバンド内が異常に険悪な雰囲気となり(クリス・ベルが脱退)、ヤケクソに

なって酒やドラッグにどっぷり浸かり、その後に出した2ndアルバム(同郷のウィリアム・エグルストンの写真をジャケットに使用)も同様にさっぱり売れず、3rdアルバ

ムに至っては正式発売すらされずバンドは自然消滅、その後はニューヨークに行ったり、地元メンフィスに戻ったり、最終的にはニューオリンズに移り住み地道な音

楽活動を続ける。晩年のソロアルバムはカバー曲中心で、父親もジャズミュージシャンだったゆえ幼少の頃から身近に触れてきた音楽そのものに対する敬意に満ち溢

れ、とにかく音楽が好きで好きで堪らぬから、そして歌いたくて歌いたくて堪らぬから歌っているという気概に満ち溢れ大変好感が持てる。ゴッホを例に出すまでも

なく、インターネットのない時代には売れなかったが、現在ならば絶対に売れて有名になっていたに違いない藝術家たちの仲間に、アレックス・チルトンも確実に入

るであろう。イギリスのシンガーソングライターのニック・ドレイクの存在に少し近いのかもしれない。そう考えるとインターネットの発達した現在に売れて有名に

なれなければ、それは才能がないことの証左となってしまうわけだが、一概にそうとも言い切れぬだろうし、そうではないと思いたいところでもあり、実際問題とし

てどのように捉えるべきか一考の価値はありそうだ。アレックス・チルトンは決して安易に商業主義に魂は売らず、自分のやりたい音楽だけをやりたいように作って

生きてきて、もちろんすべてとまでは言わぬも、そういう人間が作る藝術作品にはきちんと魂が宿っている。酒やドラッグに溺れ、一時期レストランで皿洗いや植木

屋のバイトをしていたことも有名な話で、金がないから健康保険に加入せず、病院で治療が受けられなかったことが少しばかり早過ぎる死につながっているとも言わ

れる。金儲けや世渡りや生きることが上手ではなく、もちろん作る音楽も決して上手とは言えぬのに、ある種の人々の心を揺さぶり感動させてしまうことの不思議さ

よ、すなわち藝術とは技術的な上手い下手ではないことをあらためて思い知らされるとともに、絵が下手くそで生きることも下手くそな私のような人間には決して他

人事とも思えず強い親近感を覚える。いくら金に困っても決して音楽で魂を売るようなマネはせず、己の信念を貫き通し、己の良いと思う音楽だけを追求する姿には

アッパレ!と感動すら覚える。好きなことだけやって生きている人間がこの世にたしかに存在していたという事実は、好きなことだけやって生きていくと腹を括って

生きている私のような人間にとっては大いなる慰めとなり俄然生きる勇気が湧いてくる。同じ土俵に立たせて自分と比べるのもおこがましいのだが、人生に行き詰ま

るとすかさず私は彼の作った音楽を聴くことにしている。私の人生は行き詰まってばかりの連続だから自然と彼の音楽を聴く回数も増えていってしまうわけである。

残念ながら彼はもうこの世にいなくなってしまったが、彼の作った素晴らしい音楽はこの世に確実に残り続け、この先も私のような人間を励まし続けることだろう。

すなわちそれこそが藝術の存在意義であり、そしてアレックス・チルトンの生き様それこそが「作品に魂を込める」ということなのではないのかと漠然ながら私はそ

う解釈する。AIが絵を描いたり小説を書いたりする時代、確立された技術にのみ頼った魂のこもらぬ心ない創作は簡単にコピーされ得る。ホンモノの優れた藝術作品は

残るが、ニセモノは消費されて跡形も残らない。そしてアレックス・チルトンの音楽はまさしくホンモノの藝術作品であり、きちんと魂が込められているから、必ず

や後世に残り続け聴き継がれてゆくのである。アレックス・チルトンの音楽に触れる度、私は自身も後世に残る魂のこもった藝術作品を作らねばならぬと強く思う。

2023.12

 

 

 

 

21.『Paranoia / パラノイア (仮)』

 

 

大昔に誰だったかが、ヤギにお寿司を食べさせているみたいだなと言っているのをうっかり聞いてしまってからというもの、もうヤギにお寿司を食べさせているよう

にしか見えなくなってしまった。こういった不用意な発言を聞かされるのは本当に勘弁してもらいたい。一度聞いてしまったが最後、もう二度と忘れられなくなる。

他にも、味噌ラーメンは味噌汁に麺が入っているみたいだとか、納豆は腐っているだとか、花は植物の性器であるわけだから花見する連中など悉く変態だとか、寝起

きの口腔はウンコ並みに雑菌だらけだからキスはしないほうがいいだとか、蝿は止まった瞬間もうすでに卵を産みつけているだとか、コアラはユーカリの葉っぱでラ

リっているから動きが鈍いんだとか、ゴキブリは睡眠中の人間の口元のヨダレから水分補給するだとか、バズコックスは日本語に訳すとプルプルチンチンかチンチン

ピクピクになるだとか、スキマスイッチはクリトリスの隠語だとか、ラモーンズのライヴ演奏が10分10曲と超爆速だったのはさっさと終わらせて早く家に帰りたかっ

たからだとか、ジョン・レノンはオノ・ヨーコをぶん殴っていただとか、デヴィッド・ボウイとイギー・ポップは一時期付き合っていただとか、深沢七郎と三島由紀

夫も一時期付き合っていただとか、三島由紀夫は森田必勝の介錯が上手くいかず死に際に相当苦しんだとか、太宰治は歯がボロボロで豆腐ばかり食べていただとか、

トム・ウェイツはCMに音楽が使用されることを忌み嫌い歌い方がちょこっと似てるだけでも訴えるだとか、サウナでロッカーキーを足首に巻いている男は尻の穴GO

サインだとか、糸井重里はセルフフェラチオ経験者だとか、なんとなくクリスタル作家のアソコはもう役に立たないがそのかわりクンニリングスを3時間するだとか、

安西水〇(敬意を表して伏字)はイラストレーターの卵を食い散らかしていただとか、湯村輝彦は痔の治療のため自宅屋上で尻の穴を日光浴させていただとか、浅野U子

はイケイケだった大昔CM撮影で監督のOKが出た瞬間持っていた商品を床に投げ捨てただとか、石川啄木は田舎に妻子を残した出稼ぎの貧乏人のくせして淫売窟に入

り浸るフィストファッカーだっただとか、西郷さんは本当はあんな顔ではなく病気(フィラリア)で金玉が異様にデカかっただとか、シド・ヴィシャスのベースはアンプ

に繋がっていなかっただとか、灰野敬二はロストアラーフとしてデビュー当時武満徹の推薦でマジカルパワーマコと一緒にNHKのお昼の番組に出演したところ視聴者

から苦情が殺到しプロデューサーが飛ばされただとか、無修正ハメ撮りAVに出演している覆面被ったおっさんは全員電通マンだとか、西城秀樹は東條英機のパクリだ

とか、横尾忠則はデザイン会社勤務時代に差し入れのおはぎが自分にだけ残されていなかったことに激昂し泣きながら大暴れし同僚に殴り掛かっただとか、ピカソは

老いても精力絶倫のビンビン状態を保つためニンニクばかり食べまくっていただとか、金正恩の母親は横田めぐみさんだとか、誰某はズラだとか、誰某はヤリマンだ

とか、誰某は整形だとか、誰某はゲイだとか、誰某は宇宙人だとか、ブレーキランプ5回点滅ア・イ・シ・テ・ルのサインだとか、勘定奉行におまかせあれいだとか、

サカイ安い仕事きっちりだとか、くらし安心クラシアンだとか、世の中には余計な情報が溢れ過ぎていて辟易してしまう。そんな無意味な情報は別に知りたくもない

し、知ったところで何の役にも立ちやしない。しかしヤギのくせして一丁前にお寿司なんぞ食べさせてもらいやがってからに、一体全体何様のつもりなんだろうか、

そのお寿司にちゃんと醤油はついているんだろうか、ワサビは入っているんだろうか、口休めにはガリを食べさせ、最後はアガリを飲ませ、そして大将おいしかった

また来るよと笑顔で帰って行くんだろうかなどと見る度に思わされる。米ロックバンドのビーチボーイズが1966年に発表した傑作として名高いアルバム『ペット・サ

ウンズ』の話である。不思議なアルバムタイトルの由来は、グループ中心メンバーのブライアン・ウィルソン(ジャケット向かって左から2番目の長身おかっぱ頭)が、

作曲に専念したいから、もう金輪際ツアーには行かないよ、と駄々を捏ね、スタジオミュージシャンをふんだんに使って録音し、後は正式なボーカルを入れるのみの

ほぼ完成形をツアーから戻ったメンバーたちに聴かせたところ、当時も今もブライアン・ウィルソンとは犬猿の仲で従兄でもあるマイク・ラヴ(ジャケット向かって右

から2番目の髭面、一人だけヤギにお寿司を食べさせておらず、何となくやる気のなさが滲み出ている)から「誰がこんなもの聴くんだ?犬にでも聴かせるのか?」と

酷評されたことを逆手に取って(おそらく根に持って)命名したことは有名な話である。私がビーチボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』を初めて聴いたのはたし

か26歳の時であり、そして、私が洋楽のロックミュージックの底なし沼にズブズブと嵌まり込んで行ったのもちょうど26歳の頃からであった。その頃の私はTV-CM制

作会社に勤務し、かねてからの念願叶って制作部から企画演出部へと移動になったばかり、にもかかわらず私の心はすでに広告という仕事に対する情熱などは微塵も

なく、こんなにも醜く腐り切った幼稚で下品でダサい広告業界からは早いとこ足を洗って、己の人生をより藝術的な方面へと軌道修正していかなければならぬと模索

中の身であり、さしあたっては今まで聴いていたJ-POPやカラオケミュージックとは一旦オサラバし、藝術作品として世評の高い有名な洋楽の音楽アルバムを稼いだ

金のほぼすべてを注ぎ込み目の前に山のように積み上げては暇さえあれば片っ端から聴きまくっていたものだった。音楽雑誌で評論家にオススメされていたり、帯に

傑作や名盤などと謳われていたりするアルバムが中心で、ビーチボーイズの『ペット・サウンズ』も音楽雑誌のオールタイムアルバムベスト100特集やら有名人が選

ぶアルバムベスト10やらの常に上位に食い込む有名なアルバムであったから、もちろん素晴らしいアルバムなのだろうなと何の疑いもなく大いに期待して私も聴いて

みたわけだけれども、当時はまだ音楽通でも何でもない半可通でほぼ素人同然の私の耳には正直に言ってどこが良いのかさっぱりわからず、ビーチボーイズといえば

「サーフィンUSA」という私の先入観に反し、どことなく物寂しげな、夏の夕方、もしくは、夏休みの最終日みたいな音楽だなというのが私の第一印象であった。大

いに期待して聴いてみたもののさっぱり良さがわからず何だか肩透かしを食らったような気分のまま、でも皆が良いと言っているアルバムの良さがわからぬままでい

るのはどうにもこうにも癪だからとその後も何度も何度も繰り返しチャレンジし聴いてはみたものの、やはりその良さが私の耳にはわからずじまい、そして、わから

んもんはわからん!ととうとう匙を投げてしまった。その後、私は27歳の時、たまたま読んだ坂口安吾の小説『白痴』にまんまとそそのかされて若気の至りで無謀に

も、藝術家になる!と高らかに宣言し、もう広告なんてやってられっかよ!と広告業界から一旦足を洗ったにもかかわらず、藝術活動など一切はじめようともせず、

自堕落な放蕩無頼、無為徒食の状態でしばらくフラフラしている時期に再びふと思い出して『ペット・サウンズ』を何とはなしに聴いてみたところが、不思議なこと

に、その時の私の腑抜けた心にはこれでもかこれでもかとビンビンに響いてきて、ようやく『ペット・サウンズ』の凄さをわかりかけてきたような気がしたが、もち

ろん、あくまでもわかりかけてきた気がしただけだった。おそらく『ペット・サウンズ』制作時23歳の不安定だったブライアン・ウィルソンの繊細な心と当時廃人寸

前の自堕落な生活を送る27歳の私の不安定な心とがたまたま同調し共鳴したためだと思われた(何せ「I Just Wasn't Made for These Times/駄目な僕」なんてタイトル

の曲をヘロヘロ声で歌っているのだから、もう駄目駄目の駄目駄目だった私には堪らなかったわけである)。その後もしばらく部屋でひとり『ペット・サウンズ』ばか

り聴きまくる日々を経て、やがて至極当然の成り行きで気づいた時に私はすっかりブライアン・ウィルソン教の熱狂的な信者となっており、当時入手困難だった関連

音源を中古CD屋やレンタルCD屋をあちこち回り探しては聴きまくり、中野の中古CD屋でたまたま見かけた廃盤アルバム『サーフズ・アップ』(5000円)を衝動買いし

たこともあった。色々聴いた私見では、前々作『ザ・ビーチ・ボーイズ・トゥディ』B面と『ペット・サウンズ』がブライアン・ウィルソンの黄金期だったと思う。

自叙伝を読めば、ブライアン・ウィルソンの音楽に対する純粋な情熱や脆く壊れやすい繊細な心が垣間見られるが、フィル・スペクターを絶対に超えなければならぬ

という過剰なライバル意識がプレッシャーとなり、やがて酒やドラッグに溺れパラノイア状態に陥り(自伝によれば童心を失いたくないと部屋の中に巨大な砂場を作り

ピアノを置いて作曲していたそうだ)、さらに次作アルバム『スマイル』の制作が頓挫した挙げ句に廃人生活を余儀なくされてしまうわけだが、それは裏を返せばブラ

イアン・ウィルソンという天才が己の人生を賭け身を削り命懸けで素晴らしい音楽を何としても生み出さんともがき続ける本物の藝術家である証左とも言えようか。

そんなブライアン・ウィルソン23歳の魂の結晶『ペット・サウンズ』の魅力にまんまとやられて良い意味で人生を狂わされてしまったブライアン・ウィルソン教の熱

狂的な信者は私の他にも大勢いて、もしも『ペット・サウンズ』が世に出ていなかったら、後に山下達郎やコーネリアスやジム・オルークの傑作も村上春樹の小説も

決して生まれることはなかっただろう。今でも私はたまにふと思い出して『ペット・サウンズ』を引っ張り出してはうっとり聴き惚れており、ずっと聴き続けている

と耳が慣れてしまって気づかぬかも知れぬが、他のアーティストのアルバムをたくさん聴き続けた上で、年に数回思い出したように『ペット・サウンズ』を聴いてみ

ると、その凄さに嫌でも気づかされるはずである。聴く度に、こんなにも素晴らしい音楽がこの世に存在していること自体がもうほとんど奇跡であり、普段は、神な

んているわけない、もしも神がいるならば世の中もう少しはマシになっているはずだと冷徹二ヒリスティックな人間嫌いの成れの果てを気取る無神論者の私が思わず

十字を切り「God Only Knows/神のみぞ知る」と神に感謝してしまうほどに神々しく素晴らしく、そして美しい藝術的なアルバムであり、まだ死なずに生きていて本

当に良かったなと柄にもなく決してポーズでもなく心の底からそう思えるのである。音楽に限らずあらゆる藝術作品との幸福な出会いにはタイミングがあり、一発で

その魅力に気がつく場合もあれば、私のように後になってから気がつく場合もあり、その作品と出会った時の年齢や精神状態などにも大きく左右されるから注意が必

要である。一生ものの宝物にもなれば、ただのゴミクズにもなる。それは恋愛など人間関係にも当て嵌ることである。歯が痛い時に激しい音楽は拷問以外の何物でも

なく、何か考え事をしている時に喧しい音楽は気が散るだけであり、恋をしている時には踊り出したくなるような華やかな音楽が聴きたくなるし、昔風邪を引いて何

日も寝込んでウーウー唸っていた時に聴いたジョイ・ディヴィジョンは不思議と私を癒してくれたものであった。ともかく、音楽もTPOに合わせ臨機応変に聴き分け

ればそれでよろしいということであろう。ビートルズの『ラバー・ソウル』に触発されたビーチボーイズのブライアン・ウィルソンが『ペット・サウンズ』を作り、

その『ペット・サウンズ』を聴いたビートルズが今度は『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を作り、その『サージェント・ペパーズ・

ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を聴いたピンク・フロイドが今度は『狂気」を作りといった具合にして、優れた藝術作品はどこかしらで何かしら繋がり互いに

影響を及ぼし合いながら世界を循環している。そんな興味深い話を聞くたびになぜだか私は嬉しくなるのである。「ある騒然としたボーカル・セッションの後、マイ

クは嫌悪をむき出しにして僕に噛みついた。『誰がこんなもの聴くんだ?犬にでも聴かせるのか?』。皮肉なことに、そのマイクの辛らつな批判からアルバムのタイ

トル、『ペット・サウンズ』が生まれた。グループの中ではデニスとブルース・ジョンストン以外、僕にとってそのアルバムがどれだけ意義を持つかということを誰

も理解していないのははっきりしていた。デニスはスタジオではいつも僕の意見を支持してくれた。ブルースは何でも気に入ってくれた。僕はそのアルバムに魂を注

いでいた。心の痛み、喜び、葛藤、悲しみ、愛を。その音楽は僕のすべて、生身の僕自身だった。メンバーにわかったことは、曲が太陽や戯れやビキニのヒップのこ

とを語っていないということだけだった。しかしそれは、僕とビーチ・ボーイズの間にずっとある本質的な相違点だった。メンバーにとって、グループはおいしい仕

事だった。報酬はよかったし、特典もあった。僕が機械的に曲を作り出すことを彼らは望んだ。5セント入れてハンドルを引くと5ドル出てくるという感じだ。だが、

僕は金のことを考えて曲を書いたことはない。ただただソング・ライティングに没頭していただけだ。『ペット・サウンズ』は、僕の才能と、一途に追求してきた僕

の個人的なビジョンの円熟を表した。僕はただ人を楽しませるのではなく、心の奥から直接語りかけたかったのだ。(『ブライアン・ウィルソン自叙伝』より引用)」

……

誰にも信じてもらえぬ話かもしれぬが、かつて私はブライアン・ウィルソンだったことがあった。過去の一時期、正確に言うと、2000年秋から2012年春まで、28歳

から40歳までの約12年間、私はブライアン・ウィルソンだったのである。このトンチキ頭はまたしてもわけのわからんことを言いはじめおったわ、バカも休み休み言

いたまえよ、何をふざけたこと吐かしていやがるんだい、こんちくしょーめ、そんなことがあるわけなかろうに、お前みたいなボンクラが天才ブライアン・ウィルソ

ンであるわけがねえだろ、頭イカれてんのか、パラノイアじゃねえのか、今すぐ病院行ってこいや、などなどなど、何とでも好き放題に言ってもらっても構わぬが、

誰が何と言おうと私がかつてたしかにブライアン・ウィルソンだったことは嘘でも冗談でも何でもなく、れっきとした事実なのである。何でも聞くところによればブ

ライアン・ウィルソンもパラノイアだったそうだが、パラノイアとは偏執狂のことであり、「偏執狂」とは辞書で引くと「1, がんこな妄想にとらわれて、常識では出

来ないことを平気でする精神病。2. 一つの事に病的に熱中すること。」とある。そう言われてみれば、たしかに私はパラノイアかもしれぬが、何かを表現する人間な

らば誰しもが多かれ少なかれ一つの事に病的に熱中し妄想に浸ることもあるわけで、その結果として常識では出来ないことも平気で成し遂げてしまえるわけでもある

から、表現者や藝術家などは皆ことごとくパラノイアであると断言してしまってもよいのではなかろうか。これは私がかつてブライアン・ウィルソンだった頃のある

夜の出来事である。そして、もうすでに50年もダラダラと自堕落に生きてきてしまった私の決して他人に誇ることなどできぬ本当にろくでもない人生において、私が

最もブライアン・ウィルソンだった夜の話である。決して自画自賛するわけでもなく、あの夜の私はブライアン・ウィルソンとして最高にキラキラと輝いていた。も

うあの日に戻れないのかと思えば胸が切なくなってくる。それほどまでにあの夜の私はブライアン・ウィルソンとして抜群にイカしていたのである(もしくはイカれて

いたのである)。深夜0時、日付が変わったちょうどその日は私の33回目の誕生日であった。当時の私はまだ絵を描きはじめてはおらず、広告業界の片隅に悶々とくす

ぶりながらひっそりと佇み、その前年に上海で半年間働いていた時のギャランティの未払い問題に大いに頭を悩ませ、精神的にかなり不安定な状態にあった。そんな

もう爆発寸前にまで溜まりに溜まった鬱憤を晴らすべく誕生日プレゼントも兼ねた自分へのご褒美として、久しぶりに(あまり好きではないが)ソープランドへでも行

ってやろうかと、その時、酒をダラダラと飲みながらインターネットでスケベなお店の情報を色々と検索していた私の携帯電話に、突然1通のメールが届いた。私は

仕事柄パソコンのメールアドレスは常にオープンにしておるが、携帯電話のメールアドレスは家族親族友人知人仕事関係者を含む他人には(特例を除き)一切教えてお

らず、もしも知っている者があるとするならば、思い当たるのは、以前に交際していた女性関係か、もしくは、下の名前だけで苗字がわからぬおそらく顔もまったく

覚えてもいない飲み屋のお姉ちゃんか、今度会った時にSEXさせてくれると指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ますと固く約束を交わし連絡ちょうだいねと言われた

けれども結局連絡せずじまいの飲み屋のお姉ちゃんか、今度会った時にSEXさせてあげると指切りげんまん嘘ついたら針千本飲ますと固く約束を交わしデートの約束

まで取り付けたものの当日ドタキャンされてもう二度と連絡などするものかと縁を切った飲み屋のお姉ちゃんか、大昔に酔っ払った勢いで一度だけSEXしてあんまり

気持ち良くなくそれっきりで終わってしまった飲み屋のお姉ちゃんか、その他酔っ払った勢いで連絡先を交換しただけの数名の飲み屋のお姉ちゃんくらいのものだっ

たから、私は酔いどれたアホ頭で、もしかしたら昔の彼女か飲み屋のお姉ちゃんのうちの誰かが気を利かせてわざわざ「誕生日おめでとうメール」を送ってきてくれ

たのかもしれぬぞよとドキドキワクワク淡い期待を胸にさっそく携帯電話を確認してみれば、メールの送り主は意味不明な英数字を組み合わせた見知らぬアドレスか

らであり、件名も空欄のまま、もしも送り主が昔の彼女や飲み屋のお姉ちゃんだったならば、すでに登録済であるはずだから、はて?一体全体誰からだろうか?と訝

しげながらも思い切ってメールを開いてみれば、そこには、本文はなく、ある一枚の添付写真画像が暴力的に私の目に飛び込んで来たのだった。それは男性局部のク

ローズアップ写真画像であった。もっとストレートにくだけた表現をしてしまえば、チンポ画像であった。もっとも、チンポなどという男性の陰茎を表す下品極まり

ない汚い言葉は神聖なこの場所にはまったくもってふさわしくなく、生まれも育ちも上品で気品のあるジェントルマンを自認する私としては常々できる限り使うまい

と固く心に決めておる言葉なのだけれども、今回だけは特別にチンポという言葉がふさわしいと私が責任を持って判断するため、下品なこととは百も承知の上、致し

方なく、以下、チンポ、チンポ画像、チンポ写真などと書いていくことを何卒お許し願いたい(万が一それを少しでも不快に思うようならば、この先は一切読まず静か

にここから立ち去るのが得策であろう)。てっきり昔の彼女か飲み屋のお姉ちゃんが気を利かせて「誕生日おめでとうメール」を送ってきてくれたものとばかり思って

いたところ、蓋を開けてみれば、何とビックリ!チンポ画像が飛び出てきたのだから、「誕生日おめでとう」から「チンポ」へのジェットコースター張りの急転落下

に対する私の驚きが想像を絶するものであったことはもはや説明の必要もないだろう。さらにその驚きがすぐさまみるみると激しい怒りへ転化して行ったことも申す

までもなかろう。そしてもちろんそれは、ほんのわずかばかりでも「誕生日おめでとうメール」を期待してしまったマヌケな己の淫らな下心に対しての激しい怒りで

もあったことも言わずもがなであろう。てっきり私は「別れた今でもまーくんのことは大好きだよ、誕生日おめでとう(はーと)」とか「まーくんのことが今でも忘れ

られないよ、まーくんの33年目の1年に幸あれ、ハッピーバースデーだよ(はーと)」とか「まーくんともう一度やり直せたらどんなに素敵だろうなって毎日考えてるん

だよ、フォーエバーエンドレスオンリーラブラブまーくんだよーん、誕生日おめでとう(はーと)」とか「またお店に遊びに来てくれたらうれピーな、エチエチなこと

もっといっぱいしたいな、誕生日おめでとう(はーと)」を期待していたところ、予想のはるか斜め上というか斜め下を行くまさかまさかのチンポ画像が飛び出てきた

わけだから、私の激しい怒りは至極真っ当な怒りであっただろう。「フォーエバーエンドレスオンリーラブラブまーくん」は一体どこへ行ってしまったのだろうか、

まったくもって意味がわからない。さらには、当時の私は掌に収まる超ミニサイズの携帯電話を愛用し、その小さな液晶画面から溢れんばかりに写るそのチンポは私

に戦いを挑むかのごとくなかなかに威風堂々と立派なものに見えたのだった。野生味溢れるというかダイナミックというか荒ぶるというかスサノオというか、とにか

く好戦的なデカチンであり、ペニスでもチンチンでもチンコでもチンポコでもポコチンでもなく、まさにチンポがお誂え向きなのだった。しかし、赤の他人にいきな

りチンポ画像を送りつけてくるとは、何たる不躾者、不届者、無礼者、イカレポンチのチンポ野郎!チンポ画像を人様に送る時には、まず初めに自分はこれこれこう

いう者であり、あなた様に是が非ともチンポ画像を見ていただきたいと思いまして、つきましては今からチンポ画像をあなた様にペロッと送りたいと思うておるので

すが、チンポ画像をペロっと送ってしまっても構いませんでしょうか?と事前に一言断りを入れ相手の了承を得てから後あらためてチンポ画像を送るべきではないの

か、それが人の道、礼儀というものではないのか。もっとも、チンポ画像を送っていいですかと匿名の見知らぬ他人から突然メールが届いて、もちろんいいですよ、

遠慮なさらずじゃんじゃかじゃんじゃんチンポ画像を送って下さいませ、お待ちしてまーす!などと答える者などこの世に一人もいないと思うが、ともかく、人間同

士の円滑なコミュニケーションにおいて最低限の礼儀やモラルは当然必要であろう。人様の携帯電話に不躾にチンポ画像を送りつけてくるなど、もってのほか、何た

る無礼者、卑怯者、因業者、親の顔が見てみたい、私は匿名の安全圏でふざけたことをやって気持ちよくなっておる無責任な卑怯者がこの世で一番大っ嫌いなのであ

る。さらに百歩譲って、もしもどうしてもチンポ画像を人様に送らねばならぬ差し迫った正当な理由があるとして、チンポ画像だけをペロッと無責任に送ってよこす

のではなく、必ず顔写真や何なら履歴書も一緒に送ってよこすのが礼儀というものであろう。そんな最低限の礼節もわきまえぬチンポ野郎め!貴様を決して許してお

くものか!この辱めをどうしてくれようぞ!と怒り心頭に発した私は、勢い余って仕返しに自分もチンポ画像を送り返してやろうかとも一瞬迷うも、それをやってし

まったら人として完全に終わってしまうと何とか踏み止まり、ここは一つ深呼吸して酔いどれて怒り狂った頭を冷やしつつ、今現在の状況を一旦きちんと整理した上

で慎重に犯人のプロファイリングを試みることにした。まず、当時の私の携帯電話のメールアドレスが「brian-wilson@docomo.ne.jp」だったので、犯人は私のこと

を本物のブライアン・ウィルソンだと勘違いをして、ブライアン・ウィルソンに己のチンポを見てもらい評価してもらいたかったのではなかろうか。おそらく犯人は

熱狂的なビーチボーイズファンか、私と同じくブライアン・ウィルソン教の熱狂的な信者に違いない。だがしかしだ、ブライアン・ウィルソンはアメリカに住んでお

るわけだから、docomoの携帯電話を使用しているはずがないことくらいは少し頭を働かせて考えてみればすぐにわかることだろう。まったくバカなチンポ野郎だ!

また、犯人のメールアドレスもdocomoなので、おそらくは日本人の可能性が高いだろう。また、チンポ画像を送って来ているということはチンポを持つ男性である

可能性も高いだろう。もしくはこう考えてみるのはどうだろうか。犯人が携帯電話のメールアドレスを新規に「brian-wilson@docomo.ne.jp」で取得したいと希望を出

したところ、もうすでに使用中の人間(私のこと)がいたため、先を越されて悔しくて頭に来ていきなりチンポ画像を送りつけて来やがったという可能性である。頭に

来てからチンポ画像を送るまでの犯人の思考回路や心の動きが私にはまったくもって理解不能だが、ブライアン・ウィルソン教の熱狂的な信者であれば携帯電話のメ

ールアドレスを「brian-wilson@docomo.ne.jp」にしておきたいというのは理解できぬ話でもない。とにもかくにも、誕生日の深夜、いきなりどこの馬の骨とも牛の骨

とも豚の骨ともわからぬ相手から突然チンポ画像を送りつけられて、ハッピーバースデーな気分をすっかり台無しにされ無性に腹が立って腹が立って堪らなくなって

きた私は、そこで犯人のチンポ野郎にお灸を据えてやろうと一芝居を打つことにした。まるで私自身が本物のブライアン・ウィルソンであるかのように巧妙に装って

「I called to police! I am the real Brian!(てっめえ、警察に通報してやったからな!俺は本物のブライアンなんだぜ!)」という英文のメールを返信してやったのだ。

するとすぐさまチンポ野郎から返信があった。「I mistake adress, sorry. (俺、アドレスを間違えちゃったです。ごめんなちゃいです)」と書かれてあったので、そんな

わけないだろ!スットコドッコイ!アドレスを間違えたってことは他の誰かにチンポ画像を送ろうとしてたってことになるんだぞ!誰に送ろうとしてたんだよ!貴様

は日常的に誰か他人とチンポ画像のやり取りをしておるのか!ふざけるのもいい加減にしやがれよ!このチンポ野郎が!とますます腹が立ってきた私は、さらに追い

討ちをかけるように「Dont send mail anymore! I am the real Brian Wilson! Cant you see? Cant you see? Cant you see? (二度とメール送ってくんな!ぼけっ!俺は正

真正銘のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?わかってんのか?わかってんのか?)」という英文のメールを返信してやった。「Cant you see? (わかっ

てんのか?)」を3回繰り返したことに我ながら十分満足して少しだけ胸のすく思いがした。何だか私は本当に自分が正真正銘本物のブライアン・ウィルソンになった

ような気がしてきたが、真夜中にイタズラメールチンポ野郎相手に拙い英文でメール交換をしている自分は一体全体何者なんだろうか?何といっても今日はめでたい

誕生日なんだぜ!と素に戻り少し反省した。がしかし、残念ながら話はそこでめでたしめでたしとは終わらなかった。その時、頭脳明晰で繊細な心を持つ天才ブライ

アン・ウィルソンにすっかりなりきっていた私はある重大な事実に偶然気づいてしまったのだった。それはチンポ野郎から「I mistake adress, sorry. (俺、アドレスを

間違えちゃったです。ごめんなちゃいです)」と送られてきたメールにもしっかりとチンポ画像が添付されているという事実であった。さらにそのチンポ画像は最初の

メールに添付されていたチンポ画像とはまた別の前とはじっくりよく見ないとわからぬほど微妙に角度を変えて新たに撮影されたと思しきチンポ画像なのであった。

「I mistake adress, sorry. (俺、アドレスを間違えちゃったです。ごめんなちゃいです)」と謝罪するメールに新たなチンポ画像を添付するとは何事か!けしからん奴!

バレてないとでも思っておるのか!チンポ野郎はまったく反省などしていないではないか!これはもうケンカを売られているとしか思えんぞ!このスットコドッコイ

のチンポ野郎め!もう絶対に許してはおけぬ!と一旦収まりかけていた怒りが再燃しさらに激しく怒り心頭に発してしまった私は、またしても条件反射的に自分も仕

返しにチンポ画像を送り返してやろうかと思い立ったものの、幸いなことに、やはりそれをやってしまったら人として終わってしまうという理性が私には何とかまだ

残されていたようだ。親の躾に感謝しなければならない。というよりも、正直に告白してしまうと、チンポ野郎から送られてきたチンポ画像がかなり立派で威風堂々

たる好戦的なデカチンだったため、それと比べるに己のチンポは大きさでは明らかに負けており気後れがしてしまったというのが私の包み隠さぬ本音であった。さら

に加えて、当時の私が愛用の超ミニサイズの携帯電話にはカメラ機能が付いておらず、もしも相手にチンポ画像を送るとなれば、まずデジカメで撮影したチンポ画像

を一旦パソコンに取り込み、パソコンのメールから自分の携帯電話にチンポ画像を添付メールした上で、さらにそれを相手に返信しなければならなくなるため、甚だ

面倒な手間がかかってしまい、果たしてそこまでの苦労をしてまでもチンポ画像を相手に送り返す意味があるのかどうか、あるわけがない、あるわけがないのはわか

っているが、ケンカを売られている以上、やはり悔しいことに変わりはない、戦わずしてもうすでに負けが決定してしまうわけである、不戦敗である、それでは男と

しての名が廃る、そこで私は考えた、いや本物のブライアン・ウィルソンであるところの私はブライアン・ウィルソンとして真剣に考えた、戦わずして逃げることは

卑怯なことではないのかと、私はブライアン・ウィルソンとして、どこの馬の骨とも牛の骨とも豚の骨ともわからぬチンポ野郎にケンカを売られているわけである、

私自身がケンカを売られているだけならまだしも、ブライアン・ウィルソンの私がケンカを売られているわけである、ブライアン・ウィルソンをコケにされてブライ

アン・ウィルソン教の熱狂的な信者であるこの私が黙っていられるものか、いやいや、もうすでに私は本物のブライアン・ウィルソンそのものであると言っても過言

ではないのだ、チンポ野郎の卑劣極まりない狼藉を正真正銘ブライアン・ウィルソンであるところのこの私がブライアン・ウィルソンとして黙って見過ごすわけには

どう考えてもいかぬだろうに、私は何を言っているのか、だんだん自分でも何だかよくわからなくなってきてしまったよ、私は本当に本物のブライアン・ウィルソン

なのか?もちろん私はブライアン・ウィルソンだ!俺はブライアン・ウィルソンだ!俺はブライアン・ウィルソンだ!俺はブライアン・ウィルソンだ!俺はブライア

ン・ウィルソンだ!俺はブライアン・ウィルソンだ!と何度も繰り返し自己暗示をかけてみる、するとどうだろう、そのうち何だか本当に自分がブライアン・ウィル

ソンのような気がしてきたぞ、いや違う、気がしてきたのではなく、俺はもうすでにすっかり正真正銘本物のブライアン・ウィルソンなのだ!頭のてっぺんから足の

つま先、ケツの穴の細かい皺皺に至るまで、全身全霊、もうすっかり、俺はブライアン・ウィルソンそのものなのだ!あの天才ブライアン・ウィルソンの俺様がこれ

ほどまでにコケにされて黙っていられるものか、たしかにチンポのサイズだけで比べるならば、すでに負けは決まってしまっているよ、でも、たとえチンポの大きさ

で負けていたとしてもだよ、チンポの硬さだったら絶対に負けない自信が俺にはあるんだよ、男はデカさではなく硬さだと常日頃から口を酸っぱくして自分に言い聞

かせてきたではないか、緊張した時やSEXする前はいつも「男はデカさではなく硬さだ」「男はデカさではなく硬さだ」「男はデカさではなく硬さだ」と掌に3回書

いてゴクリと飲み干す秘密のおまじないもしているではないか、とにかく男はデカさではなく硬さなんだよ、女は柔らかさで男は硬さがすべてなんだよ、でも写真で

チンポの硬さを表現するのは至難の技ではあるよな、どうすればいいんだろう?どうすればいいんだろうか?どうする?天才ブライアン、何かいい知恵はないだろう

か、石原慎太郎の小説みたいに、チンポが障子を突き破っている写真でも撮ってやるか、いや無理だ、家に障子がない、襖ならあるけど、襖はさすがに無理だろう、

チンポで瓦割りでもしてやるか、いや無理だ、瓦がない、近所の古い家の屋根になら瓦はあるけど、他人の家の瓦をチンポで割ってたら確実に逮捕されるだろうな、

チンポで猫と血塗れで勇敢に戦っている写真を撮ってやるか、いや無理だ、猫なんて飼っていやしないし、引っ掻かれたら痛そうだ、昔のCMにあったバナナで釘が

打てます!みたいに、チンポでクギでも打ち付けている写真を撮ってやるか、いや無理だ、いくら俺のチンポが硬いとはいえども、実際にクギが打てるわけがないだ

ろう、正直そこまで硬くない、平均よりも少しだけ硬い程度だ、年齢の割には硬いといった程度だ、ならばどうする?ブライアン、もういっそのことチンポにダイヤ

モンドを埋め込んでしまおうか、でも俺はダイヤモンドなんて持っていやしない、今すぐ買いに行くか、でも深夜で店は閉まっているな、閉まってなくてもそもそも

買う金なんてありやしない、ならばどうする?ブライアン、金がないなら頭を使え、そうだ「俺のはとてつもなく硬いんだぜ!これは嘘なんかじゃないぜ!」と一言

書き添えておいてやるか、たしかに大きさでは貴様にすっかり負けてしまっておるが、その点は正真正銘ブライアン・ウィルソンの俺様も素直に認めるところではあ

るが、「硬さだけなら誰にも負けないぜ!これは嘘なんかじゃないぜ!」とビシッと一言書き添えておいてやるか、もしくは「硬さだけならそんじょそこらの同年代

の野郎どもには絶対に負けない自信があるんだぜ!これは嘘なんかじゃないぜ!」にするか、「これは嘘なんかじゃないぜ!」が取って付けたように嘘臭いかもしれ

ぬが、何だか負け犬の遠吠えに聞こえてしまうかもしれぬが、ともかく、硬いは英語で何て言うんだっけか?Hardか?Hardcoreか?Too Hardか?Very Hardか?Very

Very Very Hardか?ちょっとしつこいな、Super Hardか?Extra Hardか?Die Hardか?ブルース・ウィリスか、A Hard Day’s Nightか?それじゃビートルズだ、俺はビ

ーチボーイズのブライアン・ウィルソンだからな、Strawberry Fields Foreverか?それもビートルズだ、意味わからんし、Strawberry Hardか?それじゃイチゴが硬い

になっちまうな、イチゴはまったく関係ないし、硬いのはチンポだろうが、うーん、どうする?ブライアン、ブライアン・ウィルソンの俺、どうする?でも、あらた

めて、よくよく冷静な頭で考えてみるとだな、甚だ悔しく悩ましいところではあるのだけれども、常識的に考えてだ、やはりチンポ画像なんて人様に送るのはやめに

したほうがよさそうかもな、チンポ画像を送ってしまったら、その時点で俺は人として完全に終わってしまうだろうし、でも、送らずに諦めたらそこで俺の負けが決

まってしまうんだよな、俺の負けとはすなわちブライアン・ウィルソンの負けを意味するわけだ、それではブライアンに申し訳が立たぬだろう、どうする?ブライア

ン、ブライアン・ウィルソンの俺、どうする?もういっそのことチンポ画像をコソコソ送るのではなく、開き直って正々堂々と相手に送ってしまえばいいのかもしれ

ないな、でもその前に相手に送っていいかどうか一応きちんと確認は取るべきだろうな、俺様のほうからもチンポ画像を貴様にペロッと送ってやろうかと思っておる

のだが、貴様はどう思うかしら?ペロッと送ってしまっても構わないかしら?念の為に聞いてみるか、聞いてみて、どうぞご遠慮なくじゃんじゃかじゃんじゃん送っ

て下さいなと相手から返ってきたらば、その時は正々堂々とチンポ画像を送ることにしようかな、その際には顔写真と履歴書も送るべきだろうか、たぶん送るのが人

の道ではあるけどな、チンポ画像だけをペロッと送るなんてのは卑怯者以外の何物でもないからな、俺が許してもブライアン・ウィルソンが決して許しはしないだろ

う、送るにしてもそれが礼儀というものだ、さあ、ブライアンどうする?ブライアンどうする?ブライアン・ウィルソンの俺どうする?俺はブライアン・ウィルソン

なんだから、ブライアン・ウィルソンとしての責任をきちんと果たさねばならぬのだ、ブライアン・ウィルソンとして売られたケンカはブライアン・ウィルソンの俺

が買ってきっちり落とし前をつけてやらねばならぬのだ、それがブライアン・ウィルソンとしての俺の義務でもあるのだから、さあ、覚悟を決めろ、ブライアン、男

ならビシッと覚悟を決めてチンポ画像を送りつけてやれ!さあ、行け!ブライアン!さあ、戦え!ブライアン!さあ、行け!ブライアン!さあ、戦え!ブライアン!

……

それから、ブライアン・ウィルソンである私は試しに一枚だけでも己のチンポを写真に撮ってみようかとデジカメを引っ張り出してきて、深夜の薄暗い部屋でひとり

下半身を丸出しにして己のチンポとフォトセッションをはじめた。アラーキーやメイプルソープみたいな藝術的な写真が撮れればいいなと妙に気負って緊張してみる

みるチンポが萎縮して皮まで被ってしまった。仮性包茎だということがバレてしまうじゃないか。ブライアン・ウィルソンは仮性包茎だという噂が瞬く間に匿名掲示

板を中心に流され拡散してしまう。それは自分にとってというよりも、ブライアン・ウィルソンにとって気の毒なことになってしまうから、軽くしごいて無理やりに

でも大きくしてみる。さあ、勃て!勃つんだ!ブライアン!努力の甲斐あってか何とか大きくなってはきたが、カメラを向けるとたちまち小さく萎縮してすぐにまた

皮まで被ってしまう。このままでは負けが決まってしまうじゃないか、何とかしなければならぬぞ、何といっても俺はブライアン・ウィルソンなんだからな、ブライ

アン・ウィルソンに恥をかかせるわけにはどう考えてもいかぬのだ。さあ、勃て!勃つんだ!ブライアン!さあ、勃て!勃つんだ!ブライアン!さあ、勃て!さあ、

勃つんだ!ブライアン!毎日見ない日はないというほど散々見慣れて見飽きている己のチンポを写真に撮るという行為はもちろん私自身にとっては生まれて初めての

経験であったわけだが、あらためて写真に写った己のチンポをじっくり眺めてみるとかなりグロテクスに思えた。何だか己のチンポではないみたいだ。それでもめげ

ずに何十枚も撮っていくうち照明の加減で奇跡の一枚が偶然撮れてしまった。これならばチンポ野郎の好戦的なデカチンにも硬さに関してならば決して負けず劣らず

のようにカチンコチンに見えた。これはもう藝術だ!これならば送っても構わんだろう。でもいきなり送りつけるのは無礼だから事前に一応確認だけはしておくか。

もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?相手は一体どういう反応に出るだろうか、

おそらく遠慮なんかせずにじゃんじゃかじゃんじゃん送って来ても構わないですよと言って来るだろう、何しろ天才ブライアン・ウィルソンの藝術的なチンポの写真

なんだからな、断る理由がどこにも見当たらない、ブライアン・ウィルソン教の信者には垂涎もの、おそらく1億円出しても欲しいというファンもいることだろう、

手に入れたら家宝にして毎日拝み倒すに違いない、そのお宝をタダで送ってもらえるチンポ野郎も大した果報者であるぞよ、苦しゅうない、苦しゅうない、ちこうよ

れ、ちこうよれ、だがもしやチンポ野郎はこういう流れに当然なると予想した上で、チンポ画像を送ってよこしたのかもしれないな、虎穴に入らずんば虎子を得ず、

相手のチンポ画像が欲しければまず己のチンポ画像を送れと、まったく狡猾な奴だ、これは一本取られたか、チンポ野郎のほうが一前上手というわけか、あっぱれ、

あっぱれ、かっぽれ、その策略に私はまんまとハマっているのだろうか、ブライアン一杯食わされちゃったよ、参った、参った、なーんて、まあ、騙された振りでも

しておこうかね、それにだ、そもそもの話、チンポ画像をいきなり見ず知らずの他人に送ることは本当に失礼に当たるんだろうか?今まで自分はそんなことをすれば

人として終わってしまうとすっかりそう思い込んできたけれど、果たして本当にそうなのだろうかという疑問が私の頭に突如湧いてきた。そもそもチンポを隠す動物

は人間だけである、他の動物は服など着ていない、なめ猫たちは学ラン着てバイクに乗っていたけど、くまのプーさんも下半身は丸出しで、そもそも人間は生まれて

きた時はみんな素っ裸である、本来それが人間のあるべき自然な姿なのではなかろうか、にもかかわらず、なぜ人間はチンポを隠すのだろうか、人間は何かやましい

ことがあると隠す、チンポはやましいことなのか?たしかに人様に白昼堂々とお見せできるような美しさはない、どちらかといえばグロテスクである、でもそれは顔

だって同じことだろう、なぜ顔は隠さずにチンポは隠すのか、チンポは欲望を処理する道具であるからか、泌尿器でもあるからか、時々チンポにモザイクが一切かか

っていない藝術映画もあって、いきなりチンポが飛び出てきてビックリすることがある、ロバート・メイプルソープだってチンポの写真を撮っていた、エゴン・シー

レだってチンポの絵を描いていた、ジョン・レノンもオノ・ヨーコと素っ裸になっていた、ダビデ像だってチンポ丸出しで藝術作品として公共の場に堂々と設置され

ている、つまり藝術的に昇華させれば人間も裸が許されるのではないか、ならばチンポ画像を藝術作品の域にまで昇華させれば他人に送っても許されるのではなかろ

うか、今までの自分はチンポ画像を人様に無闇に送ってはならぬという誤った考えに洗脳されていただけなのかもしれない、そう言えば今思い出したけど、昔ファッ

ションブランドのTV-CMの企画でチンポ丸出しにしても許されるCMタレントは誰か?ということを真剣に考えたことがあった、そして高倉健、もしくは当時全盛期で

調子こいてブイブイ言わせていたキムタクだったらおそらく許されるのではないかという結論に達したが、高倉健には確実に断られるに違いなく、キムタクならば藝

術性云々と上手いこと言いくるめれば金次第でいかようにもなって喜んでホイホイとチンポ丸出しにするだろうと、アンデルセン童話の裸の王様みたいに素っ裸のキ

ムタクが「この服はバカには見えませんが、似合ってますか?」とカメラに向かって視聴者に問いかけるという内容のCM企画を徹夜までして絵コンテに描き打合せで

自信満々に提出したら問答無用に一瞬でボツになった、キムタクにバカには見えないと言われている以上、チンポ丸出しやんけ?と苦情を入れれば即座にバカだと認

定されしまうことを逆手に取り、さらにはキムタクというタレントの裸の王様っぷりをも同時に揶揄するという高度な二面性を持った素敵な企画だった、IQが高過ぎ

て時代の先を行き過ぎているがゆえに、残念ながら無下に却下されてしまったが、あれはラフォーレやベネトンの広告ならばやり方次第で、例えば「※チンポ丸出しに

なっておりますが、CM表現上やむをえずCG処理をしており、実際は本物のチンポではありません」とテロップを入れれば実現できるのではないかと今でも確信して

いる。ようするに、とどのつまり、すべては藝術性云々の如何によるのではなかろうか。チンポが藝術の域にまで昇華され藝術作品であると認められれば、チンポは

隠さなくともよいというわけである。そして、幸いなことに私は藝術的なチンポ写真の奇跡の一枚が偶然撮れてしまったわけである。もう送らずにいられるものか!

……

そして次に、ブライアン・ウィルソンである私は履歴書を書き(その際、本人とブライアン・ウィルソンとどちら名義で書くべきか迷った末とりあえず本人名義で履歴

書を、職歴に2000年秋~ブライアン・ウィルソンと記し赤で囲み)、以前に撮ってあった証明写真をペロッと貼り付け、スキャンしてパソコンに取り込み、準備万端整

えた後、あらためてチンポ野郎に対しGoogle翻訳を駆使しながら、チンポ画像を送ってもいいか?と確認の英文メールを送ってみた。「I accidentally took a picture

of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチ

ンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」返事はない。痺れ

を切らして再度送ってみた。「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I send it to you? I'm the real Brian Wilson!

Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウ

ィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」やはり返事はない。送った英文に誤りがないかどうか念の為に確認してみると「ペロッと」が翻訳されていないことに気がつ

いた。「ペロッと」を単独でGoogle翻訳してみると「Perot and」などと出てきてしまう。Google翻訳などまったくもって当てにならぬものである。仕方なしに他の

方法で色々と調べてみると「ペロッと」は「quickly」と英訳するのが適切だとわかって、今度は「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called

a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけ

ど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」と送ってみた。やはり返事はない。だんだんとイ

ラつきはじめてきて再び激しい怒りが込み上げてきてしまった私は、もう次から次と相手にメールを送りまくった。「I accidentally took a picture of an Artistic Cock

that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真

が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」返事はない。「I accidentally

took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言っても

よいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんの

か?)」返事はない。「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson!

Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウ

ィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」やはり返事はない。「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly

send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わ

ないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but

is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送

ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」もうここまでくるとどうにもこうにも止められない。次から次と

メールを送りまくるも、やはり返事はない。そのうちそもそもどっちが迷惑メール野郎なのかもわからなくなるほど続けざまに次々と私はメールを送りまくった。「I

accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡

と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わか

ってんのか?)」「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant

you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィル

ソンなんだぜ!わかってんのか?)」「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the

real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物

のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly

send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わ

ないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but

is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送

ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」やはり返事はない。送った英文に誤りがないかどうかもう一度慎

重に一言一句確認してみると、「チンポ」の英訳は「Cock」が適切なのかどうか不安になってきたので、試しに「Cock」を「Dick」に変えて送ってみることにした。

「I accidentally took a picture of an Artistic Dick that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇

跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わ

かってんのか?)」やはり返事はない。「チンポ」の英訳として「Cock」や「Dick」だと王道過ぎてパンチに欠けるのではないかと捻りを効かせて、今度は「Willy」

「Pecker」「Shaft」「Prick」「Dong」「Richard」「Jack」「Peter」「Jones」「Trouser Snake」「Cream Stick」「Bamboo Stick」「Tool」「Flute」「Dangle」

「Dingle」「Banana」「Dragon」「Fucker」「Gazoo」「Love Sausage」「Love Scud」「Magic Stick」「Middle Leg」「Third Leg」「Pisser」「Pork Sword」な

どなど、次から次と変えて送ってみるも、やはり返事はなく、一旦基本に帰り「Penis」に変えて送ってみるも、やはり返事はなく、結局「チンポ」の英訳に問題はな

いのだろうと最終的に再び「Cock」に戻すことにした。「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send

it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わない

ですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」それでもやはり待てど暮らせど返事はない。「チンポ」の英訳にまったく問題がないとす

れば、一体全体どこに問題があるのだろうか?何が問題なのだろうか?と煎じ詰めて考えていくうち、もしかしたら送り方に問題があるのではないかと思えてきた。

送り方というのは、つまり、こちら側のチンポの写真の送り方のことであり、想像するに、おそらく送られる相手側としては、私がチンポの写真を「ペロッと」送る

その送り方であるところの「ペロッと」が気に食わないのではないかという意味であり、そう思ってしまったら絶対にそうとしか思えなくなってきてしまった私は、

相手の腹具合を探るべく試しにおうかがいのメールを送ってみることにした。「Maybe you don't like the way I send a picture of an Artistic Cock? Sending a picture

of an Artistic Cock "quickly” is nothing more than an Ego on my side. I sincerely apologize for my Careless Foolishness that hurt you. Well, it's still possible to change

the way of sending a picture of an Artistic Cock to something other than “quickly”, there are various ways to send a picture of an Artistic Cock other than “quickly”, so

I'm trying to respond to your desired sending way with sincerity, so I'll leave it up to you, so if there's a way you want to send a picture of an Artistic Cock other than

“quickly”, I don't mind if you ask me without Hesitation! (もしかしてチンポの写真を送る方法がお気に召さないのかい?チンポの写真を『ペロッと』送るというのは、

まったくもってチンポの写真を送るこちら側のエゴに過ぎないもんな、もちろんチンポの写真を送る時は『ペロッと』送ってしまうのが最も適切な方法だと俺が責任

を持って判断したという次第なんだがね、相手の気持ちを慮り良かれと思っての選択だったんだがね、それが裏目に出てしまったというわけだな、でも言い訳に聞こ

えるかもしれんが、俺が『ペロッと』という言葉に込めた思いを誤解なく説明させてもらうならば、それは『さっさと』とか『テキトーに』とか『鼻ほじりながら』

とか『とりあえず送ってしまえばいいさ』とか、破れかぶれの軽はずみな気持ちなどでは決してなく、あくまでも『一刻も早く真心を込めてお客様にお届けしたい』

とか『誠意を持って迅速丁寧に』とか、言うなれば、まさに走れメロスのような熱い思いを『ペロッと』に込めたつもりでいたんだけどな、でも考えてみれば、それ

はやはり送る側のおためごかしでしかないんだよな、貴様の気分を損ねるような迂闊なマネをしてしまったことは素直に謝るよ、ごめん、この通りだよ、だから機嫌

を直してもらってさ、もしも『ペロッと』が気に入らないというのならば、チンポの写真を送る方法を『ペロッと』以外に変更することは今からでも可能だからね、

チンポの写真を送る方法は『ペロッと』以外にも色々とあるんだからさ、『ピロッと』『ヘロッと』『ドドーンと』『ガツンと』『ズバッと』『カキーンと』『バシ

ッと』『フラッと』『ズルッと』『ヌルッと』『エンヤトット』『ピロリロリン』『パラリロリン』『アイヤー』『ヒャッホー』『ヨイコラショ』『ドッコイショ』

『ウッフーン』『アッハーン』など、よりどりみどり貴様の希望する送り方に誠意を持って対応しようと思っているんだよ、何だってお任せあれだぜ、だからもしも

貴様のほうで『ペロッと』以外にチンポの写真を送る希望の方法があるのならば、何なりと遠慮なく申しつけてくれて構わないんだぜ!)」それでもやはり待てど暮ら

せど返事はない。暖簾に腕押し、糠に釘、もうどうしてよいものやらお手上げ状態だが、まだまだ諦めない。「If there is a problem with sending a picture of a Cock

by mail, why don't we meet Face to Face? Shall we meet in person and hand it over? We've only just gotten to know each other, but if I can't just mail you a picture of

a Cock, then there's no other way but to meet in person and hand it over, or If you can tell me your address, I can send you the Data burned on CD-R by Motorbike

Delivery. If we meet in person, where should we meet? In front of Shibuya Hachiko? Ikefukurou? Roppongi ABC? did that place go bankrupt? By the way, where do

you live? It would be great if you could specify a location that is convenient for you! (もしもチンポの写真をメールでペロッと送ることに難色があるというのならば、

もうこの際思い切って直接会って手渡すことにしないかい?どうだろう?俺たちはまだ出会ったばかりで、貴様のことはチンポが野生味溢れるというかダイナミック

というか荒ぶるというかスサノオというか、とにかく好戦的なデカチンの持ち主ということしか知らないし、直接会うのはちょっと気が引けるかもしれないけどさ、

チンポの写真をメールでペロッと送るのが困難だとしたら、直接会って手渡す以外に方法はないしな、それとも、もしも住所を教えてもらえるのなら、CD-Rに焼い

たデータをバイク便で届けることも可能だからね、データの形式や受け渡し方法は貴様の意思を尊重するつもりだよ、直接会う場合、待ち合わせ場所はどこにしよう

か?渋谷ハチ公前か?いけふくろうか?六本木の青山ブックセンターか?あそこは潰れてしまったんだっけか?ところで貴様はどこに住んでいるの?貴様の都合の良

い場所を指定してくれていいからね!)」それでもやはり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。「After all, it might have been premature to meet directly

and hand over a picture of a Cock. I couldn't help but want you to see a picture of an Artistic Cock as soon as possible, so I got ahead of myself. There's Juice coming

out from the tip of my Cock too. I have to seriously think about how to do it, what should I do? For example, why not actually try the Ransom Delivery method in Akira

Kurosawa's masterpiece "High and Low"? If I remember correctly, in the movie, they threw the Suitcase containing the Ransom from the window of the moving train

toward the embankment beside the tracks. I will put it in a Duralumin Suitcase, decide a specific place in advance, and throw it out of the train window, so you can go

o the place and collect the Suitcase. Maybe, we’ll have to try it to see if it works like the movie, but I think it's worth a try, or if you don't like “High and Low”, you might

as well go with Junya Sato's masterpiece "The Bullet Train, Super Express 109”. I would like to hear your opinion! (やはりチンポの写真を直接会って手渡すというのは

さすがに時期尚早だったのかもしれんな、俺のほうでは一刻も早く貴様に藝術的なチンポの写真を見てもらいたくて堪らず、思い立ったら吉日と走れメロスのごとく

一途に先走ってしまういつもの悪い癖が出てしまったみたいだよ、ついでに俺のチンポの先からも先走り汁が…なんてね、しかし貴様って奴は臆面もなく人様にチン

ポを曝す度胸はあるくせに、顔面を曝す甲斐性はないってわけだな、頭隠して尻隠さず、顔隠してチンポ隠さず、何だか順番がおかしな話であり、どういった精神構

造をしておるのか非常に興味深いところであるが、まるで男だけ覆面被りチンポ丸出しの無修正ハメ撮りAVにも通ずる不信感不快感および嫌悪感を禁じ得ないところ

でもあるが、それはまあいいや、武士の情けで突っ込まずにおいてやるよ、それに考えてみれば、そもそも直接会うのならば、もはやチンポの写真を手渡すなんて七

面倒くさいことはせず、本物の生チンポをペロッと見せてしまったほうが話が早いもんな、まあ冗談はその辺にしておき、さてと、直接会わずにメールやバイク便以

外でチンポの写真を受け渡す方法を真面目に考えなくてはいけないな、どうしようか?例えばだけど、黒澤明監督の傑作映画『天国と地獄』の身代金の受け渡し方法

を実際にやってみるってのはどうだろうか?たしか映画の中では、走行する列車の窓から線路脇の河原の土手に向かって身代金の入ったカバンを放り投げるんだった

よな、あんな具合にチンポの写真のデータをCD-Rに焼きジュラルミン製の頑丈なアタッシュケースに入れ、そのアタッシュケースをあらかじめ特定の場所を決めてお

き、そこでタイミングよく列車の窓から俺が放り投げるから、貴様がその場所に行きアタッシュケースを回収してもらえばいいのかもね、果たしてめでたしめでてた

しと行くかどうか、映画みたいに首尾よく行くかはやってみないとわからないけど、試してみる価値はあると俺は思うんだよね、もしも『天国と地獄』が気に入らな

いというのならば、佐藤純彌監督の傑作映画『新幹線大爆破』の受け渡し方法でもいいかもね、たしか首都高速を巧妙に利用するんだよな?何だかワクワクしてきた

ぞ!貴様の意見を是非とも聞きたいな!)」それでもやはり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。「If you don't like “High and Low” or "The Bullet Train,

Super Express 109”, what else can we do? Shall we follow the Ransom Delivery method of the “Yoshinobu-chan kidnapping and murder case" that occurred in Iriya in

he Showa era? That incident was a rare example of a successful kidnapping case that miraculously broke the jinx that the ransom payment would never succeed, but

what do you think? Worth a try? Iriya and Ueno area might be a good place to try it out, but now that I'm back to basics, I've come to realize that we've mimicked the

exaggerated methods of action movies and brutal crimes, and we've exchanged at most one picture of a Cock. do I have to? It's true that it's a wonderful Artistic Cock

that's worth exchanging even if it's just that much, but it's a bit too much of a Joke, and the world has become reasonably convenient due to the progress in science

and technology. In today's society, I think it's best to send a picture of your cock by mail, but of course I'll respect your wishes to the fullest! (まったくわがままな男だ

よ、貴様って奴は!『天国と地獄』も『新幹線大爆破』も気に入らないとするとだよ、他に一体どんな受け渡し方法があるだろうか?あれか?昭和の昔に入谷で起こ

った『吉展ちゃん誘拐殺人事件』の身代金受け渡し方法を踏襲してみるか?あの事件は誘拐の身代金受け渡しは絶対に成功しないというジンクスを奇跡的に破り、ま

んまと成功した稀有な例にあたるわけだけどさ、どうだろうか?試してみる価値があるかどうか?もしも試すならば場所はもちろん入谷か上野近辺で決行するのが相

応しいよな、でもさ、今ふと素に戻って思ったんだけどさ、やはり何というか、ここまでアクション映画や凶悪事件の大仰な身代金受け渡し方法までそっくり真似し

て、たかだかチンポの写真一枚をだよ、果たして俺たちはやり取りしなければならないのだろうかな?たしかにそれくらいのことをしてまでもやり取りする価値のあ

る素晴らしい藝術的なチンポなわけだけど、その点はもう自信があるんだけど、少しばかり悪ノリが過ぎているというかさ、これだけ科学技術が進歩しそこそこ便利

な世の中になっている現代社会においては、やはりチンポの写真はメールでペロッと送ってしまうのが一番の得策だと俺は思うんだけどな、もちろん貴様の意思は最

大限に尊重するつもりではいるけどね!)」それでもやはり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。「What in the world do you dislike? It's a picture of the

real Brian Wilson's Cock, and if you're a Fanatical Follower of Brian Wilson, you'll want to get it by any means, if you put it up on Yahoo Auctions, it's worth 100 million

yen. So what the hell are you thinking when you can get it for Free? And it's a picture of a Freshly Snapped Cock, and it's a once-in-a-lifetime opportunity, and you're

nothing but a Big Idiot to waste a once-in-a-lifetime chance. I don't understand at all! (一体全体何が気に入らないと言うんだい?他の誰でもないブライアン・ウィル

ソンのチンポの写真なんだぜ、ブライアン・ウィルソン教の熱狂的な信者ならばどんな手段を講じても手に入れたいと願うはずだけどな、ヤフオクに出品すれば1億

円は下らない代物なんだぜ、しかもたった今撮ったばかり撮れたてホヤホヤのカチンコチンのチンポの写真なんだぜ、それをタダで手に入れることができるというの

に、一体何を考えているんだい?一生に一度あるかないか、まさに千載一遇のこのチャンスを無下にするなんて大バカ野郎以外の何物でもないぜ!俺にはまったく理

解できないよ!)」それでもやはり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。負けてたまるか。「Seeing is Believing how Hard the Cock that I'm going to

send to you from now on, but anyway, it's unusually very very very Hard! The cock you gave me was also quite Nice, but compared to that, my Cock may be inferior in

Size, but I'm confident that I won't lose to anyone about the Hardness of the Cock! Yes, I've lived my life up until now by telling myself that men are not Big, they're

Hard! Doesn't it make you want a picture of my Cock right now? Aren't you itching? You don't have to put up with being Thin, you just have to accept one word that

you don't mind if I send a picture of my Cock quickly! it's easy, isn't it? (これから貴様にペロッと送ってやろうと思うておる俺のチンポがどれくらいカチンコチンか

は、百聞は一見にしかず、実際に見てもらってからのお楽しみなんだけど、いや待てよ、俺のチンポというよりも、ブライアン・ウィルソンのチンポというべきか、

いやいや、ブライアン・ウィルソンであるところの俺のチンポというべきか、もはや誰のチンポなんだよって複雑な話になっちまうんだけど、まあとにかくだ、それ

はそれはもう目を見張らんばかりに尋常でなくカチンコチンなわけなんだよ、貴様が先に送ってくれたチンポもなかなか好戦的で結構なイチモツだったけどさ、たし

かにそれと比べると俺のチンポは大きさでは些か見劣りするかもしれないよ、そこは素直に認めるところだよ、白旗上げちゃうよ、でもさ、自慢じゃないけどチンポ

の硬さだったら誰にも負けない自信が俺にはあるんだよね、男は大きさではなく硬さだと常々自分に言い聞かせて俺は今まで生きてきたんだよ、どれくらいカチンコ

チンかというとだな、瓦割り…おっと、おっと、危ねえ、危ねえ、前情報はこれくらいにしておこうかな、それは見てのお楽しみってことでさ、どうだい?今すぐに

でもチンポの写真をペロッと送ってもらいたくなってきたんじゃないのかい?もう居ても立っても居られないくらいウズウズしてきたんじゃないのかい?痩せ我慢な

んてする必要ないんだぜ、素直に『ペロッと送って構わない』と一言了承する旨の返信メールを送ってくれさえすりゃいいんだよ、簡単なことだろう?)」それでもや

はり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。この勝負どうしても負けるわけにはいかないんだ。「Do you want me to send you a picture of my Cock?

Don't you want me to send it? Which one? If you ask your Heart, you will understand. It's a problem, so what should I do if I, an Outfielder, pinch my beak or forcibly

force it, do you understand? But even if you don't tell me, of course I know what you want me to do, I know everything in your Heart. Please seriously ask your Heart,

the answer will come out of itself. However, there is no answer that either is fine. If I send you a picture of my Cock at my own discretion, people around you may see

it as if I sent you a picture of my Cock forcibly, and In any case, everyone is Happy that you follow your Heart, not anyone else, and I'm Happy too! (チンポの写真をペ

ロッと送ってもらいたいのか?ペロッと送ってもらいたくないのか?どっちなのか?貴様の心に素直に問うてみよとしか俺の口からは言えないよ、これは貴様自身に

関する重要な問題であるわけだからね、外野の俺がどうこう嘴を挟んだり、無理やりに強制することはどう考えたっていかないんだよ、わかるだろ?でも俺には言わ

れなくともちゃんと理解してるさ、貴様がどうしてもらいたいかをね、貴様の心の中はすべてお見通しだからね、だから今一度自分の心に、チンポの写真をペロッと

送ってもらいたいのか?ペロッと送ってもらいたくないのか?どっちなのか?真剣に問うてみてくれたまえよ、答えは自ずと出てくるはずだからさ、二者択一という

か、もう一択だよね?もちろん、どっちでもいいって答えはなしでお願いするよ、どっちでもいいと言われちゃうと、こっちもどうしていいのかわからなくなってし

まうからさ、どっちでもいいと言われているのに、俺の独断でチンポの写真を貴様にペロッと送ってしまえば、見ようによっては俺が無理やり貴様にチンポの写真を

ペロッと送りつけてしまったようにも取られてしまう可能性があるからね、それだと俺が強要しているようで、何だか俺としても心にわだかまりが生じてしっくりこ

ないからさ、まあとにかく他の誰でもない貴様の心に素直に従ってくれることが皆にとって幸福なことだし、俺自身にとっても嬉しいことだよ!)」それでもやはり待

てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。やはりこの勝負どうしても負けるわけにはいかないんだ。「Perhaps you were sent a picture of my Cock, and you

thought, 'I've been waiting!” If you give permission simply, Are you worried that it might look like a Frustrated Woman whining and begging for a Cock? You may feel a

little embarrassed by the unusual display of greed you're a Shy, Naive, and probably Only Child, but there's no need to worry! Of course, “Can I send you a picture of

my Cock?” When you’re asked, "I want you to send me a picture of your Cock as soon as possible! Please! Please! Please!” It may be the most embarrassing thing in

this world. But if you strongly want me to send a picture of my Cock, you have to trust your feelings properly, neglecting it will be lying to yourself! (もしかしてチンポ

の写真をペロッと送られることを、よっ!待ってました!色男!と言わんばかりに簡単に許可してしまえば、まるで年増の欲求不満な色気狂い女が駄々を捏ね男のチ

ンポをおねだりしているようにも見られ兼ねないことを危惧しているのかい?引っ込み思案で内弁慶でおそらくは一人っ子である貴様には珍しく己の貪欲さを曝け出

すことに幾ばくかの引け目を感じてしまっているのかい?そんな心配は無用だぜ!もちろんチンポの写真をペロッと送ってもいいか?と聞かれて、チンポの写真をペ

ロッと送って欲しいの!早くチンポの写真をペロッと送ってちょうだいよ!もう我慢できないの!チンポの写真がないと生きていけないの!お願いよ!お願いよ!お

願いよ!と年増の欲求不満な色気狂い女のごとく脇目も振らず声高に泣き叫ぶことは、この世に存在するありとあらゆる恥ずかしいことの中でも最たるものの一つか

もしれないよ、でも実際に貴様自身が己の心に問うた上で、嘘偽りのない素直な気持ちから、チンポの写真をペロッと送ってもらいたいと強く願うのならば、その自

分の気持ちを信用してあげなくちゃいけないよ!それを蔑ろにすることは自分自身に嘘をつき結局は自分自身を裏切ることになってしまうんだからね!)」それでも待

てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。ここまで来てしまった以上引き返すわけにいかないんだ。「Of course, I always think that if I send a picture of my

Cock to someone else, I'll end up as a Person, and I still feel a little Embarrassed. When you sent a picture of your Cock to me, what a Vague, Silly, Silly Fucking thing!

I honestly thought, it's a natural reaction, but I can't just let myself go, 'cause if it's just about myself, I'll endure it. But 'cause I'm the real Brian Wilson I'm being sold a

fight, I got to buy a fight and fix it. So as a test, I took a picture of my Cock with a digital camera, and a pure question suddenly popped up in my head, and I came to

the Conclusion that if it's a picture of an Artistic Cock, I don't mind sending it to others openly, but rather I should be Grateful. It's a picture of an Artistic Cock that can

be called a Miracle! So the Judging whether or not it's okay to show a Cock must depend on the Artistic Nature. Even Robert Mapplethorpe took a picture of his Cock,

Egon Schiele drew a picture of his Cock, John Lennon was naked with Yoko Ono, and the Statue of David with his Cock exposed set up in a Public Place! Why can't

Brian Wilson’s Artistic Cock be allowed? (もちろん人様にチンポの写真なんて送ってしまえば、人として終わってしまうと今まで俺自身も思ってきたし、今でも少し

恥ずかしいことだという認識はあるよ、貴様から先にチンポ画像が送られてきた時は、何てことしでかすんだ、人でなし、ふざけんな、コノヤロー!って正直俺は思

ったさ、それは当然の反応だよね、でも泣き寝入りするわけにはどうしてもいかないんだよ、なぜって、俺自身に関する問題だけなら泣く泣く我慢もするけど、俺は

ブライアン・ウィルソンでもあるわけだからな、ブライアン・ウィルソンである俺がケンカを売られているわけだからな、ブライアン・ウィルソンに売られたケンカ

はブライアン・ウィルソンであるこの俺がきっちり買って落とし前をつけてやらねばならないんだ、それで試しに自分のチンポをデジカメで撮影してみたんだけど、

撮っているうちに、素晴らしい奇跡の一枚が偶然撮れてしまい、その時、果たしてチンポの写真を人様に送りつけることは本当にいけないことなんだろうか?という

純粋な疑問が俺の頭にふと浮かび上がってきたってわけだ、そして藝術作品としてのチンポの写真ならば人様に堂々と送ってしまっても全然構わないんじゃないか、

それはむしろ感謝されてしかるべきであり、ようは、チンポを人様に見せてもいいかどうかの判断基準はその作品が内包する藝術性云々の如何によるものに違いない

という結論に至ったわけだよ、そもそも人間は生まれてきた時はみんな素っ裸であり、チンポを隠す動物は人間だけであり、他の動物は服など着ておらず、なめ猫た

ちは学ラン着てバイクに乗っていたけど、くまのプーさんも下半身は丸出しであり、ロバート・メイプルソープだってチンポの写真を撮っていたし、エゴン・シーレ

だってチンポの絵を描いていたし、ジョン・レノンもオノ・ヨーコと素っ裸になっていたし、ダビデ像だってチンポ丸出しで藝術作品として公共の場に堂々と設置さ

れているじゃないか!彼らが許されている状況下で、どうして天才ブライアン・ウィルソンであるところの俺の藝術的なチンポはダメなのか?そんな理不尽があって

たまるかよ?それくらいもう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真なんだよ、もしもこのチャンスを逃したら死んでも死に切れないぜ!)」それでもやはり

待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。この勝負は何としても勝たねばならないのだ。「It's Fun to see how Artistic the Cock is after you actually see it,

but anyway, it's an Artistic Cock that can be called a Miracle! I don’t have a better word than “Artistic” “Miracle”, and maybe you will actually have a Miracle too. Your

Mediocre, Boring, Soggy, Bastard Life could change overnight, of course “God Only Knows” if a Miracle will actually happen, but I can assure you that a Miracle will

happen. That's why it's such a picture of an Artistic Cock! A good work of Art has the Power to change other people's Lives. Maybe we call Art something that ends

up happening, why don't you turn your Life around for the better? It sounds like some sort of Bogus Religious Solicitation, but if you actually see it, you will believe me

when I say it's not a Lie! (どれくらい藝術的なチンポであるかは実際に見てもらってのお楽しみなんだけど、もうとにかく奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポな

わけさ、あまり奇跡とか藝術とかいった言葉を濫用すると言葉の持つ意味が薄れてしまうけど、もう本当に奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポという以外に適

切な言葉が見つからないんだよ、もしかしたら貴様にも奇跡が起こるかもしれないぜ、貴様の平凡で退屈でしみったれたクソッタレの人生が一夜にして一変するかも

しれないぜ、もちろん実際に奇跡が起こるかどうかは『神のみぞ知る』だけど、奇跡が起こらないわけないと断言できるほど、もうそれくらい藝術的なチンポの写真

ってわけさ、優れた藝術作品は他人の人生を変える力を孕んでいるんだ、逆に言えば、他人の人生をいとも簡単に変えてしまうものを藝術と呼ぶのかもしれないな、

貴様も人生を好転させてみないかい?何だかインチキ宗教の勧誘文句みたいだけど、実際にご覧あればきっと俺の言葉が嘘じゃないって信じてもらえるだろうさ!)」

それでもやはり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。諦めるわけにはいかないんだ。「The Beatles’ "Rubber Soul" inspired Brian Wilson of the Beach

Boys to write "Pet Sounds”, and after listening to "Pet Sounds”, the Beatles released "Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band”, and after listening to "Sgt. Pepper's

Lonely Hearts Club Band”, Pink Floyd released "The Dark Side of the Moon”. Some excellent works of Music and Art are connected and circulate in the world while

influencing each other. I vaguely think that it would be Nice if I could have a relationship with you that would allow me to exchange pictures of Artistic Cock endlessly!

(ビートルズの『ラバー・ソウル』に触発されたビーチボーイズのブライアン・ウィルソンが『ペット・サウンズ』を作り、その『ペット・サウンズ』を聴いたビート

ルズが今度は『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を作り、その『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』を聴

いたピンク・フロイドが今度は『狂気」を作りといった具合に、優れた藝術作品はどこかしらで何かしら繋がり互いに影響を及ぼし合いながら世界を循環している、

そして今、貴様が送ってくれたチンポの写真に触発されたブライアン・ウィルソンである俺が藝術的なチンポの写真を撮り今まさに貴様にペロッと送り返そうとして

いるところであり、さらに、その俺がペロッと送り返した藝術的なチンポの写真を見た貴様が再び俺に藝術的なチンポの写真をペロッと送り返すといった具合に、藝

術的なチンポの写真のやり取りが延々と持続できるような良好な関係を貴様と築けたらいいなと俺はぼんやり考えているんだよ、そんな関係を築けたらお互いにどん

なにか幸福なことだろうな!そして、ゆくゆくは世界中の皆が藝術的なチンポの写真を気軽に送り合い幸せを分かち合えるような、もちろん女性にはチンポが付いて

ないわけだから、その場合は彼氏のチンポとか旦那のチンポとか父親のチンポとか弟のチンポとかを送ることになるだろうけど、そんな素晴らしい世界が実現できれ

ば、もう本当に最高なんだけどな!もちろん、そんな世界が実現できるかどうかは『神のみぞ知る』なんだけど、すべては貴様の返答如何に左右されるわけだよ!)」

それでもやはり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。諦めるわけにはいかないんだ。「It takes a lot of Courage to send someone a picture of a Cock.

To be honest, I don't know what you thought when you suddenly sent me a picture of your Cock. Maybe just a Prank, maybe Anger at me, maybe you had some other

purpose, it's beyond my imagination, exactly It's "God Only Knows", but from now on, I'll send you a picture of my Cock with a certain amount of Determination, it's a

Sacred Act. No, in the first place, the act of exposing oneself and expressing something seriously is unimaginably Embarrassing. If you've ever expressed something

seriously, it's easy to understand, everyone who expresses it overcomes that Embarrassment and expresses something seriously with a Corresponding Resolution.

There are times when I want to run away from the Embarrassment of expressing myself. Never call an expression that doesn't exist an expression. Even if you try to

move someone else's heart with something that is expressed with such an easy feeling, but I want you to think seriously about what kind of feelings I'm going to send

you with a picture of my Cock from now on. I will send you pictures of my Cock with a Serious Determination, so I'd like you to take it seriously with a Corresponding

Resolution! (いくら藝術的なチンポであってもだ、そもそも人様にチンポの写真を送るには相当な勇気が必要なんだ、貴様が先に俺にいきなりチンポの写真を送りつ

けてきた時、貴様自身がどのような心境だったのか正直俺にはわからないよ、ただの悪ふざけだったのかもしれない、ブライアン・ウィルソンであるこの俺に己のチ

ンポを品定めしてもらいたかったのかもしれない、日々の鬱憤を怒りに任せぶっつけたかったのかもしれない、それとも何かしら別の目的があったのかもしれない、

そこは想像の域を越えないよ、まさに『神のみぞ知る』だよ、けれども、これから俺が貴様にチンポの写真をペロッと送るのは、それ相応の覚悟を伴った、もう清水

の舞台から飛び降りるような、言うなれば、神聖な行為であるんだよ、つまり神に導かれての止むに止まれぬ厳粛な儀式でもあるんだよ、そもそも人様にチンポを丸

出しにして見せつけるという行為に限らず、己を曝け出して真剣に何かを表現するという行為とは、想像を絶するほどに、とてつもなく恥ずかしいことなんだ、もち

ろんそれは歌ったり踊ったり書いたり描いたり撮ったり作ったりなど純粋な藝術作品を表現するという行為だけに留まらず、人として日々を生きる上でのありとあら

ゆる表現行為にも当て嵌るんだ、例えば、授業中急にトイレに行きたくなった時、好きな相手に告白する時、別れを切り出す時、本屋でエロ本を買う時、薬局やコン

ビニでコンドームを買う時、飲み屋のお姉ちゃんにSEXさせておくれとお願いする時、一度断られてもめげずに何度でもお願いする時、SEX中イキそうになった時、

他にも己の主義主張を表明したり、喜怒哀楽の感情表現、人はただ生きていること自体がすでに恥ずかしいことであるわけだからね、貴様自身も真剣に何かを表現し

た経験があるならば、つまり人として日々を真剣に生きているならば容易に理解するところだろうが、本気で表現する者たちは皆その恥ずかしさを何度も乗り越え、

それ相応の覚悟を担って、人として日々を真剣に生きているってわけなんだよ、時には表現する恥ずかしさから逃げ出したくなる時もあるさ、でも、その恥ずかしさ

から逃げ出してしまっては結局何も表現し得ないんだよ、俺は恥ずかしさや覚悟の伴わない表現を本物の表現とは決して呼ばないよ、それはただ表現した気になって

いるだけであり、そんな安易な気持ちでヘラヘラと表現されたもの、いや表現したように見せかけて結局は何も表現されていない軽薄なインチキ表現ごときで誰か他

人の心を動かそうたって、そうは問屋が卸さないってんだ、おととい来やがれってんだ、ゆえに俺は匿名の安全圏でハメ外してふざけたことをやって気持ちよくなっ

ている無責任な卑怯者どもがこの世で一番大っ嫌いってわけなんだ、本当に心底ムカついてムカついて信用ならないんだ、だから正直に言えば貴様のことも最初はさ

っぱり信用していなかったんだけど、もしかしたらこれも何かの縁で、神の思し召しなのかもしれぬと思えてきたりして、何とも不思議な感覚なんだけど、いつしか

俺は直感的に貴様とのこの神懸かり的で運命的な出会いに身を委ねてみようとさえ思えてきたんだよ、何を言っているのか自分でもよくわからなくなってきたけど、

ようは、これから俺が貴様にどのような思いを込めてチンポの写真をペロッと送るのかを貴様のほうでも真剣に考えてみてくれたまえということだよ、こちらがそれ

相応の覚悟を持って真剣にチンポの写真をペロッと送るんだからさ、貴様のほうでもそれ相応の覚悟を持ってガッチリ真剣に受け止めてくれということなんだよ!)」

それでもやはり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。諦められるわけないだろう。「First of all, I'll send you one picture of an Artistic Cock as a trial,

and if you thoroughly enjoy it, and if you don't like it, unfortunately, you can return it within 14 days. If you like it, I'll try to send you again and again, so first of all, I'm

going to send one. Even Domohorn Wrinkle has a trial set, so why don't you just leave yourself to me without worry! (まず試しにチンポの写真を一枚ペロッと送ってみ

て、貴様のほうでじっくり堪能してもらってだ、その上でもちろん気に入らないというのなら、残念だけどその時は14日以内だったら返品も可能だし、そうではなく

て、幸いなことにもしも貴様に滅法気に入ってもらえたならば、その時はあらためてチンポの写真をじゃんじゃかじゃんじゃん送るようにするからさ、だからまずは

試しに一枚だよ、ドモホルンリンクルにだってお試しセットとかお試し期間っていうものがちゃんとあるんだからさ、安心して俺に身を任せてみないか!)」それでも

やはり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。諦めるわけにはどうしてもいかないんだ。「Right now, I'm feeling the Difficulty of getting other people to

take Action to my bones. If you want a picture, send me a picture of your Cock first, so I’m desperate to send you a picture of my Cock, you're such a Cunning Fellow!

I'd like to say you're one better than me, but I'm also seeing through that Cunning Trick! Either way, Eyes and Noses, Weasels, Relax, Close, Viva, Viva, Kappole, well

let's enjoy this moment together! (俺は今、他人に行動を起こさせることの難しさを骨の髄まで身に染みて感じ入っているところだよ、その点、貴様は上手いことやっ

てくれたもんだよな、相手のチンポの写真が欲しければまず己のチンポの写真を送れといきなりチンポの写真を送ってきやがってさ、まんまと俺の心に火をつけてし

まったんだもんな、実際こうして今俺は貴様にチンポの写真を送りたくて堪らなくなっているんだもんな、まったく狡猾な奴だよ、貴様のほうが俺よりも一枚上手と

言いたいところだが、俺のほうでも貴様のその狡猾な策略を見抜いた上であえて騙されたフリをしているわけだからな、どっちもどっち、目糞鼻糞のイタチごっこ、

くるしゅうない、くるしゅうない、ちこうよれ、ちこうよれ、アッパレ、アッパレ、カッポレ、まあこのひと時をお互いに楽しくやろうじゃないか!)」それでもやは

り待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。諦めたらそこですべてが終わってしまうんだ。「Ping Pong Pang Pong! Ping Pong Pang Pong! I have some

important news for you! There was a Serious Error in the mails I sent so far, so I would like to sincerely apologize and correct it! Actually, I've just noticed that if I look

closely, I can see a glimpse of my Balls in a picture of an Artistic Cock that can be called a Miracle. Oops, no, just now is a Lie! I, the person who took the picture, was

aware of the fact from before. However, I carelessly forgot to tell you the important information. I lost my mind. However, if I lied to you, I'd feel sorry for you, and after

I sent you the picture, “what's with your Balls in the picture?” you must complain. But I don't think it has much of an impact on the quality of the work of Art. So before

I send it to you, I would like to confirm whether you care, so if you look closely at a picture of an Artistic Cock that can be called a Miracle, you can see a glimpse of

my Balls, but is it okay if I still send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (ピンポンパンポン!ピンポンパンポン!ここで俺のほうから貴様に重要なお知

らせがあります!今までに送ったメールの内容に決して看過できない重大な誤りがあったことを認め、謹んでお詫び訂正させていただくよ!誤りというか、送ったメ

ールの内容に説明不足があったというべきか、実は、これから貴様にペロッと送ってやろうと思うておるチンポの写真には、よく見ると金玉がチラッと写り込んでし

まっていることに俺はたった今気づいてしまったんだよ、いや、たった今というのは口から出まかせの嘘っぱちで、前々から金玉がチラッと写り込んでしまっている

ことには、撮影した本人である俺ももちろん気づいていたわけだけど、その重要な情報を貴様にうっかり伝え忘れていたという次第なんだよ、本当にお詫びのしよう

もなく大変申し訳なく思っているんだけど、このまま嘘をつき続けていると俺のほうも心苦しい限りであり、さらに、もしも貴様にチンポの写真をペロッと送ってし

まった後に、何だい!何だい!金玉もチラッと写り込んでいるじゃないか?話が違うだろ?と貴様からクレームが来るのも正直面倒くさいのでね、貴様にはきちんと

真実を伝えておこうと思ってさ、でも、たとえチンポの写真に金玉がチラッと写り込んでしまっていたとしてもだよ、藝術作品としての質にはほとんど影響がないこ

とを保証できるし、その程度のことで藝術的価値が下がるようなヤワなチンポの写真ではないという自負もあるし、逆に金玉が良い意味でアクセントとなって写真に

安定感を与えているとも言えるし、でも気になる人はとことん気になる点でもあろうから、貴様が気になるかどうかだけは俺のほうでも少し気になったので、事前に

確認だけはさせてもらうよ、これから貴様にペロッと送ってやろうと思うておる、もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真には、よく見ると金玉がチラ

ッと写り込んでしまっているんだけど、それでもペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」それ

でもやはり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。諦められるわけがないだろう。「After all, you don't like the fact that my Balls is in the picture of my

Cock, but I think that for all men, his Cock and his Balls are inseparable. But, of course, the victim of the Abe Sada incident unfortunately had his Cock and his Balls

separated, Maki Carousel had his Cock and his Balls separated at his own will, and I don't know what happened to Kiyoshi Hikawa. They are just a special case, and I

always think that for all men, his Cocks and his Balls should be considered as a set, but when I check it now, you sent it first. If I look closely at the pictures of your

Cock you sent to me, I can see a glimpse of your Balls, but what do you think about that contradiction? I would love to hear your opinion! (やはりチンポの写真に金玉

がチラッと写り込んでしまっていることが貴様は気に入らないってわけだな?でもさ、すべての男にとってチンポと金玉は切っても切れない関係だと俺は思うんだけ

どな、もちろん阿部定事件の被害者は不幸にも不可抗力でチンポと金玉が切り離されてしまったし、カルーセル麻紀は自らの意志でチンポと金玉を切り離してしまっ

たし、氷川きよしが今どういう状態なのか俺には想像もつかないけど、あくまでも彼らは特殊な事例であって、通常はすべての男にとってチンポと金玉はセットで考

えなければならないと俺は思っているけどな、それに今確認してみたところ、貴様が先にいきなり送りつけてきたチンポの写真にも、よく見ると金玉がチラッと写り

込んでしまっているわけだけど、その辺の矛盾について貴様は一体どのように考えているんだろうか?貴様の意見が是非とも聞きたいところだけどな!)」それでもや

はり待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。諦めようにも諦められるわけないだろう。「Do you have Balls? What a small man to get bent out of shape

ust by seeing Balls in the picture! Isn't it just your Cock that's big? Isn't that boasting big Cock also a tinsel, and it's actually just a useless soft Cock? It's not enough

for a man to be big! A man is Hard, not big! I'll prove it with my Cock that I'm about to send you! Be prepared and wait! (チンポの写真に金玉がチラッと写り込んでい

るくらいで臍を曲げてしまうなんてさ、貴様の股間には金玉が付いているのかい?まったく器の小さい男だよ!デカいのはチンポだけなんじゃないのかい?その自慢

のデカチンも見かけ倒しで、実際は使い物にならんただのフニャチンなんじゃないのかい?男はデカけりゃいいってもんじゃないんだぜ!男はデカさではなく硬さな

んだよ!女は柔らかさで男は硬さなんだよ!これから送る俺のチンポでそれをきちんと証明してやるからさ!覚悟して待ってろってんだ!)」それでもやはり待てど暮

らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。どうして諦められようか。諦められるわけがないだろう。「I’ll be Honest, I'm Disappointed in you! Maybe this will be the

Final Warning, It's useless to say anything to someone who won't listen, It's like Sex with a Frigid Woman who doesn't leak a Gasp no matter. Even if I have Sex with

such a Woman, I'm not happy at all, so I'll never send mail to you again. If you keep pretending to be a Frigid Woman, you’ll never be able to get a picture of an Artistic

Cock forever. Do you imagine a Life without an Artistic Cock? It's a Boring, Miserable Life, don't you feel sick to your Stomach? Don’t your Balls creak? You’d rather

bite off your tongue and die than live a Life of a Corpse, like you’re already dead while you’re still alive! (正直に言って貴様には大いに失望したよ!もうがっかりだよ!

こっちが下手に出てりゃいい気になりやがって、調子に乗るのも大概にしやがれってんだ!このスットコドッコイの腐れチンポ野郎が!世の平均より少しばかりチン

ポのサイズがデカいからって殿様商売するんじゃないよ!銭湯でもこれ見よがしに自慢してんだろ?この浮かれ上りのデカチン野郎が!たぶんこれが最終警告になる

だろうね、最後通牒といってもよかろうか、そっちのほうが洒落ていて気が利いているかもしれんよな、最後通牒っていうくらいだから本当に本当に本当に最後の最

後の最後だからな、聞く耳を持たないわからず屋相手に何を言ったって無駄だもんな、まるで何をやっても喘ぎ声ひとつ漏らさない不感症の女とSEXしているみたい

だよ、貴様はマグロ女だよ、そんな女とSEXしてもこっちは全然楽しくはないんだよ、だからもう二度と俺のほうからはメールを送らないからね、送って下さいって

頭下げてきたって、いくら大金積まれたって、俺のほうからは金輪際メールは送らないつもりだよ、つまりだ、もしも貴様がこれ以上不感症マグロ女のフリを続ける

気ならば、未来永劫、貴様は藝術的なチンポの写真を入手できなくなってしまうというわけだ、藝術的なチンポの写真のない人生、すなわち、藝術のない人生のこと

を貴様は一度でも想像したことがあるかい?それはそれはもう退屈極まる悲惨な人生だよ、考えただけでも腹がキリキリと痛んでこないかい?金玉が軋んでこないか

い?生きながらにしてすでに死んでしまっているような、屍人生さ、そんな人生を送るくらいなら、いっそのこと舌噛み切って死んでしまったほうがマシだよね!)」

それでもやはり待てど暮らせど返事はない。一体どうりゃいいかさっぱりわからなくなってきた。「If you don't answer me, I'll Bomb your house, Dynamite Bomb,

your Hovel I’ll rip it to pieces, your lovely house was bought with a 35 year loan, and the loan is due in 5 more years. Or I'll Kidnap your Bastards, imagine what would

happen to your Bastards, trembling with Fear and Pissing! (そっちがその気なら俺のほうにも考えがあるぜ!もしも貴様がこのまま返事をよこさないというのならば、

貴様の家に爆弾を仕掛けるぞ、ダイナマイトの爆弾だぜ、貴様のあばら屋なんぞ一瞬で木っ端微塵にしてみせるぜ、せっかく35年住宅ローンで購入した愛しき我が家

なのに、後5年でローンも完済できるっていうのに、まったくもったいない話だよな、それとも、もしも貴様にクソガキの1匹や2匹いるのならば、そのクソガキどもを

誘拐してやろうかな、散々甘やかして育て上げてきた自慢のクソガキどもの身に危険が迫ることを想像してみろって、恐怖に打ち震えて小便ちびっちまえばいいよ!

さらに、そのクソガキが年頃の別嬪さんだった場合は、たっぷり可愛がってやってシャブ漬けにして片田舎の場末の安ソープランドにでも沈めてやっからよ!)」それ

でもやはり待てど暮らせど返事はない。だんだん自分が何をやっているのかわからなくなってきた。「Your personal data has leaked! I am a professional Hacker and

have successfully managed to hack your operating system. Currently I have gained full access to your account. In addition, I was secretly monitoring all your activities

and watching you for several months. The thing is your PC was infected with Harmful Spyware due to the fact that you had visited a Porn website previously. Thanks to

Trojan viruses, I can gain complete access to your PC. It means that I can see everything in your screen and switch on the camera as well as microphone at any point

of time without your permission. I have made a Video compilation, which shows on the left side you are happily Masturbating, while on the right side it demonstrates

the Porn Video you were watching. All I need is just to share this Video to all people you are in communication with on your PC. I believe you would definitely want to

avoid this from happening. Here is what you need to do - You send mail to me! You just have to accept one word that you don't mind if I send a picture of my Cock

quickly! it's easy, isn't it? I will proceed with deleting this Video and disappear from your life once and for all. Trust me, I am very careful, calculative and never make

mistakes! (貴様の個人情報が漏洩しました!俺はプロのハッカーで貴様のオペレーティングシステムのハッキングに成功したんだよ、現在、俺は貴様のアカウントに完

全にアクセスできるようになっているんだ、さらに、俺は貴様のすべての活動を密かに数か月間監視していたんだよ、問題は、貴様が以前にポルノコンテンツを含む

Webサイトにアクセスしたことが原因で、コンピューターが有害なスパイウェアに感染したことなんだ、それが何を意味するのか説明してやろうか?そのトロイの木

馬ウイルスのおかげで、俺は貴様のコンピューターに完全にアクセスできるってわけさ、つまり、俺はいつでも貴様のパソコン画面内のすべてを見ることができ、貴

様の許可なしにカメラとマイクのスイッチをオンにすることもできるんだよ、さらに、機密情報や電子メールやチャットメッセージにアクセスすることもできるとい

うわけさ、そしてここからが本題だよ、そんなふうにして俺はある1本のビデオを編集してみたんだよ、そのビデオの左画面には、貴様が楽しそうにオナニーしている

シーンが表示され、一方、右画面には、その瞬間に見ていたポルノビデオが表示されているというわけさ、このビデオを貴様がパソコン上で通信しているすべてのメ

ールアドレスに共有することもできるってわけだ、そんなことは絶対に避けたいと思うだろう?そこで貴様がしなければならないことは次の通りだよ、藝術的なチン

ポの写真を『ペロッと送っても構わない』と一言了承する旨の返信メールを送ってくれさえすりゃいいんだよ、簡単なことだろう? そのメールが貴様から届いたら、

そのビデオが貴様の人生から完全に消えるってわけさ、どうか俺を信じてくれよ、俺はとても注意深く計算高く、決して間違いは犯さないからね!)」それでもやはり

待てど暮らせど返事はない。でもまだまだ諦めない。私の辞書に「諦める」という文字はないのだ。「I cursed you! Or will you take my Inheritance? Hey, it's me, me,

me, me, can't you see? Mom, it's me, it's me, it's me, it's your son, Briani! Did you forget your son's voice? So don't worry! By the way, I'm sorry for the sudden story,

I made a Big Hole of 10 million yen in the company, if I don't make up for it as soon as possible, the company will be in Big Trouble, and in the worst case, I might get

fired. It's past 2:30pm, so if you run to the nearest ATM, you’ll be able to make it by 3:00pm. I wonder if you can help my son out of a Big Pinch! (貴様に呪いをかけま

した!それとも俺の遺産をもらってくれませんか?なーんてね、俺だよ、俺、俺、わからないかな?母さん、俺だってば、俺、俺、息子のブライアンだよ、まさか息

子の声を忘れてしまったのかよ?昨夜からちょっと風邪気味でね、もしかしたら声が変な具合に聞こえるかもしれないけど、本物の息子のブライアンだから心配しな

いでいいよ、ところで急な話で悪いんだけどさ、実は会社でヘマやらかしちまって、俺のミスで会社に1000万円の大穴を開けてしまったんだよ、今はまだ会社にバレ

てないけど、できるだけ早くその穴埋めをしないと会社に大迷惑がかかって、俺は会社に居づらくなって、最悪クビになるかもしれないんだよ、そこで母さんに相談

なんだけど、今から言う銀行口座に大至急お金を振り込んでくれないかな?今14時30分過ぎだから、近所のATMまで走れば、15時には間に合うよね、金額は多けれ

ば多いほど俺のほうでも助かるってわけなんだ、愛する息子の大ピンチを救ってくれないかな?こんなこと頼めるのは母さん以外にいないんだよ!何とかならないか

な?)」それでもやはり待てど暮らせど返事はない。一体全体自分はどこへ向かっているのだろうか。「Maybe you are Mike? Is it Mike Love who is famous for having

a Dog and Monkey relationship with Brian Wilson’s me? When I played the Demo of “Pet Sounds”, You said, 'Who listens to this? Do you want your Dog to listen? Is it

Mike Love who sarcastically criticized, As a result, the Album Title was decided as "Pet Sounds"? No way, Mike lives in the USA, so he doesn't use docomo, but are

you Mike? Are you Mike Love? Please answer me! (もしかして貴様はマイクなのか?マイク・ラヴなのか?昔も今もブライアン・ウィルソンの俺とは犬猿の仲として

有名な、あのマイク・ラヴなのか?貴様らがツアーに出ている間に俺がスタジオに篭りせっせと作り上げた、俺の魂の結晶でもある『ペット・サウンズ』のデモを聴

かせた時『誰がこんなもの聴くんだ?犬にでも聴かせるのか?』と皮肉めいた辛らつな批判をしてくれたマイク・ラヴなのか?アルバムタイトルが『ペット・サウン

ズ』に決まる因縁を作ったあのマイク・ラヴなのか?まさかな?マイクはアメリカに住んでるわけだしな、docomo使ってるわけないもんな、いや、でも何だか気の

せいか、悪どい陰湿なやり口がいつものマイク・ラヴっぽいんだよな、もしかして貴様はマイクなのか?マイク・ラヴなのか?返事をしてくれないとわからないじゃ

ないか!)」それでもやはり待てど暮らせど返事はない。だんだん自分で自分がわからなくなってきた。「Who the hell are you if you're not Mike Love? Maybe you are

Carl? No, Carl is already dead. Are you Dennis? No, Dennis is already dead. Bruce Johnston? Al Jardine? Blondie Chaplin? Glen Campbell? Eugene Randy? Van Dyke

Parks? I don't know who you are because your cock doesn't have your name on it! Oh, maybe you're Phil Spector? I was Jealous of his talent and burned with Rivalry,

and as a result, I lost my mind and became a Wreck. You're Phil Spector, the one who made The Ronettes “Be My Baby”! (マイク・ラヴじゃなけりゃ貴様は一体誰なん

だ?もしかしてカールなのか?いや、カールはすでに死んでるな、デニスなのか?いや、デニスもとっくに海に飛び込んで死んでるな、ブルース・ジョンストンか?

アル・ジャーディンか?ブロンディ・チャップリンか?グレン・キャンベルか?ユージン・ランディか?ヴァン・ダイク・パークスか?チンポには名前が書いてある

わけじゃないからさ、貴様が誰だかさっぱりわからないんだよ!ああ!もしかして貴様はフィル・スペクターなのか?貴様はフィル・スペクターなんだろ?ブライア

ン・ウィルソンであるこの俺がその才能に嫉妬してライバル心をメラメラと燃やし、その挙げ句に俺の頭がおかしくなって廃人に成り果ててしまった、そのきっかけ

を作った張本人でもあるフィル・スペクターなんだろ!俺が唯一超えられないと思った名曲、ザ・ロネッツ『ビー・マイ・ベイビー』を作ったフィル・スペクターな

んだろ?だとしたら、負けてはいられないぜ!ここで会ったが百年目!今度こそ俺の藝術的なチンポで貴様をコテンパンにぶちのめしてくれようぞ!)」それでもやは

り待てど暮らせど返事はない。一体全体自分は何をやっているのやらさらに自分がわからなくなってきた。「Sometimes the blood rushes to my head and I just don't

know myself, you probably think I'm a Crazy Idiot, but actually I'm Crazy, but it seems that I lost my composure too much this time and said something unreasonable to

you, sorry!, sorry! sorry! Self-analysis, I probably have a kind of mental illness called Paranoia, but Brian Wilson was said to be Paranoid too, well, an every Artist who

expresses something can become more or less obsessed with one thing and become delusional. I wonder if it's okay to assert that everyone is Paranoid. Even though

I'm like this, I want to be with you for a long time, so please don't abandon me! (なぜだか気づいたらヒートアップしてしまっていたようだ、大人気なくみっともないマ

ネをしてしまったよ、時々、頭に血が上って怒りを制御できなくなって自分で自分がわからなくなってしまうことがあるんだよ、たぶん貴様も俺のことを頭のイカれ

たわけのわからん危ない奴だと思ってるんだろうけど、実際に昔から俺は頭のイカれた危ない奴だからな、こればっかしはもう仕様がないと諦めるほかないんだな、

でも今回は些か度を越して冷静さを失い貴様に理不尽な面倒ごとを吹っかけてしまったようだな、ごめん、この通りだよ、自己分析するにだな、おそらく俺はパラノ

イアという精神病の一種に罹っていると思うんだけど、実際にブライアン・ウィルソンもパラノイアだったと言われてるし、もちろん俺はブライアン・ウィルソンで

もあるわけだから、俺がパラノイアであることに何らの矛盾もないわけで、当然のごとく俺はパラノイアというわけさ、でもまあ何かを表現する人間ならば誰しもが

多かれ少なかれ一つの事に病的に熱中し妄想に浸ることもあるわけで、その結果として常識では出来ないことも平気で成し遂げてしまえるわけでもあるから、表現者

や藝術家などは皆ことごとくパラノイアであると断言してしまってもよいのではなかろうか、まあこんな俺だけど貴様とは末長くやってきたいと思っているんで、見

捨てないでよろしく頼むよ!)」それでもやはり待てど暮らせど返事はない。一体どうすりゃいいんだ。「Are you taking a bath by any chance? You’re covered in soap

bubbles and scrubbed all over the place, washing your Proud Big Cock with extra care, like a soldier cleaning a Big Gun? If you wash it too carefully just because it

feels good, you'll explode! Keep it in moderation! It's not good for men to overheat their Balls, so shouldn't it be about time to come out? (もしかして風呂にでも入っ

てるのかい?それにしちゃちょっと長いけどな、きっと色んなところを石鹸の泡まみれにしてゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシと洗いまくってるんだろうな、金玉

袋の裏っ側とかケツの穴とかたっぷりふやかしてゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシってさ!でもそれにしたってちょっと長風呂過ぎやしないかい?あんまり長いと

家族が心配して覗きに来るかもしれないぜ!戦場の兵隊さんが銃剣を掃除するみたいに自慢のデカチンを特に念入りにゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシと洗いまく

ってるんだろ?気持ちいいからってあんまり調子に乗ってゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシと念入りに洗い過ぎてるとそのうち暴発しちまうぜ!まあ気持ちはわか

らんでもないが、ほどほどにしておくんだぜ!それから男はあんまり金玉を温め過ぎるとよくないっていう話も聞くからな、もうそろそろいい加減に出てきたほうが

よさそうだぜ!)」それでもやはり待てど暮らせど返事はなく、万策尽き果てた私は、やがてメールの文面をわざわざGoogle翻訳してまで相手に送るという作業自体

がほとほと面倒くさいというか虚しいというかアホらしくなってしまい、さらに、メールが長文過ぎると送られた相手が読む気力を失ってしまうのではないかとも危

惧しはじめて、今度は簡潔な短文メールを送る作戦を試みることにした。「Brian Cock Quickly Please!」「I Brian Cock Quickly OK?」「Brian Cock Quickly Yes? or

No?」「Cock Understand?」「Cock Please?」「Accept Cock?」「Cock go OK?」「Love Cock?」「Need Cock?」「Cock ’n’ Roll!」「Cock together!」「I wanna

be your Cock!」「Cock forever!」「Cock is it!」「Let’s Cock! 」「Son of a Cock! 」「Cocksucker!」「Cock you!」「Cock me!」「Cock off!」「Cock it!」「Cock

up!」「Cock around!」「Cocker!」「Mother Cocker!」「Don’t give a Cock with me!」「Who the Cock!」「What the Cock!」 「Get the Cock out here!」「Go Cock

yourself!」「Cock the world!」 「Cock yourself!」「I got Cocked!」「I don’t give a Cock!」「Are you Cocking with me?」「Holy Cock!」「Cock face!」「Cock my

life!」「Cock yeah!」「I did Cock!」「Shut the Cock up!」「Silly as Cock!」「Stop Cocking around!」「You Cockin’ rock!」「Stupid Cock!」「Damn Cocker!」な

どなど、Google翻訳を使わず頭に思いついた単語を適当に組み合わせ送っているうち、もはや自分でも意味がまったく通じなくなってきて、でも逆にそのほうが自分

の虚飾ないありのままの新鮮な熱い思いが相手にダイレクトに伝わるのではないかと次から次と送り続けるも、途中から「Fuck」の使い方と混同しているような、た

だの罵倒になってしまっているなと思いながら、頑なに己の直感を信じ送りまくるも、それでも返事はなく、そしてやはりメールが短文過ぎてもこちらの本意が伝わ

りにくくなってしまって、それでは本末転倒だと思い直し初心に帰りGoogle翻訳を信頼し、再び馴染みの構文に戻すことにした。「I accidentally took a picture of an

Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的な

チンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」「I accidentally

took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (もう奇跡と言っても

よいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんの

か?)」「I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you

see? (もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソン

なんだぜ!わかってんのか?)」それでもやはり待てど暮らせど返事はない。もはや万事休すなのか。「I want to make sure! Even though an Artistic Cock that can be

called a Miracle, it’s extremely Rude to suddenly send it, so I’ll just check it in advance, I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle,

but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see? (頼むからこれ以上俺を焦らさないでおくれよ!一生のお願いだよ!もうわがままは言

わないからさ、一言返事をくれさえすればそれでいいんだよ、とにかく俺は事前にきちんと確認だけは取っておきたいんだ、ただそれだけなんだよ、きちんと確認を

取った上で正々堂々とチンポの写真を貴様にペロッと送りたいんだ、そのほうがきっと送る側にも送られる側にも双方にとって心地のよいコミュニケーションとなる

はずだからね、誠意を持って貴様と円滑な交流を図りたいんだ、後から面倒くさいトラブルになるのを避けたいという思惑も一応はあるんだがね、そりゃいくら奇跡

と言ってもよいほどに藝術的なチンポであってもだよ、いきなり赤の他人の貴様にペロッと送りつけるのは甚だ無礼なことだからね、何事も最初が肝心だからね、い

きなり何の前触れもなくチンポの写真を送ってしまっても別にいいっちゃいいんだが、さすがにそれは人としてどうなんだろうかって深刻な話にもなってきて世間に

顔向けができなくなってしまうからね、こう見えて俺は世間体を思いっきり気にしちゃうタイプなんだよね、ヤクザだってまずは仁義を切るわけだしね、そしていつ

しか反目し合うライバル同士が心を許し合い体も許し合うといった仲に変化していくみたいに貴様との良好な信頼関係を俺は心のどこかで望んでいるんだよね、そん

な将来への淡い期待も込めて、だからこそ一応事前に確認だけはしておくよ、もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペロッと

送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」やはり返事はない。最後はもうヤケクソ気味になって送った。

「Please let me repeat, it’s extremely Rude to suddenly send an Artistic Cock that can be called a Miracle, so I have to just check it in advance again, c’ause I am very

Sincere, I accidentally took a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle, but is it okay if I quickly send it to you? I'm the real Brian Wilson! Cant you see?

(本当にいい加減にしておくれよ!こっちはもうほとほと疲れ果ててしまったよ!もう何を言っても無駄なのかな?もう俺たち二人の蜜月の関係はデッドエンドなのか

な?修復不可能なのかな?何事にも必ず終わりがあるからね、ありがとう、今まで楽しかったよ、色んなことがあったよね、楽しかった思い出の数々が走馬灯のよう

に頭の中をグルグルと駆け巡るよ、でもこの期に及んで未練タラタラと貴様の良心に問いかけるつもりで、もちろん貴様が良心というものを持ち合わせていると仮定

してだけど、最後にもう一度だけ言わせてもらおうか、そりゃいくら奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポであってもだ、いきなり赤の他人の貴様に送りつける

のは甚だ無礼なことだからね、人としてどうかと思うからね、一応事前に確認だけは取っておこうと思ってさ、後で裁判沙汰になるのはご免被りたいからね、俺はこ

う見えて誠実な男だからさ、人からはよくジェントルマンですねって言われるし、電車やバスで体の不自由な人やお年寄りに必ず席を譲るし、落し物を拾ったら必ず

交番に届けるし、釣り銭が多かったら必ず返すし、公衆便所で小便する時は必ず一歩前に出るし、銭湯で泳いでいるクソガキがいたら優しく諭してやるし、そんな生

粋のジェントルマンであるところのこの俺がジェントルマンとして確認しておくよ、もう奇跡と言ってもよいほどに藝術的なチンポの写真が偶然撮れたんだけど、ペ

ロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?)」やはり返事はない。もうわけがわからなくなってきた。

「Why do you not answer me? Are you asleep yet? Do you ignore me? Don’t give me the cold shoulder! Just as Brian Wilson put his Soul into ‘Pet Sounds’, I put my

Soul into this picture of an Artistic Cock, I put my Pain, my Joy, my Struggles, my Sorrow, my Love, and this Artistic Cock is all of me, my very own self! I don't ask for

Money at all!, I was just immersed in creating Fine Art! This Artistic Cock showcases my talent and the maturity of my personal vision that I've been pursuing all my life!

Rather than entertaining you, I wanted to talk directly to you from the depth of my Heart! If you don't trust me, I'll send you a Resume with a Face Photo! Is it okay if I

quickly send a picture of an Artistic Cock that could be called a Miracle to you? I’m the real Brian Wilson! Cant you see? Cant you see? Cant you see? Cant you see?

Cant you see? Cant you see? Cant you see? Cant you see? (どうして返事をくれないんだい?もう眠ってしまったのかい?わざと俺を無視しているのかい?冷たいじ

ゃないか?それじゃあんまりだよ!ブライアン・ウィルソンが『ペット・サウンズ』に彼の魂を注いだように、ブライアン・ウィルソンであるこの俺も、この藝術的

なチンポの写真にありったけの己の魂を注いだんだぜ!心の痛み、喜び、葛藤、悲しみ、愛を!この藝術的なチンポの写真は、すなわち、俺のすべてであり、生身の

俺自身でもあるんだよ!俺は金のことを考えてチンポの写真を撮ったわけじゃないんだよ!俺はただただ藝術の創作に没頭していただけなんだよ!この藝術的なチン

ポの写真は、俺の才能と、一途に追求してきた俺の個人的なビジョンの円熟を表すんだよ!俺はただ貴様を楽しませるのではなく、この藝術的なチンポの写真で心の

奥から貴様に直接語りかけたかったんだよ!信用できないって言うんなら、顔写真付きの履歴書だってもちろん送れるぜ!履歴書以外も免許証やパスポートのコピー

だって送れるぜ!マイナンバーカードはまだ取得してないからそれは送れないけど、住民票や納税証明書だって送れるぜ!このもう奇跡と言ってもよいほどに藝術的

なチンポの写真をペロッと送ってしまっても構わないですか?俺は本物のブライアン・ウィルソンなんだぜ!わかってんのか?わかってんのか?わかってんのか?わ

かってんのか?わかってんのか?わかってんのか?わかってんのか?わかってんのか?)」そのうち気づけば私は涙を流していた。ブライアン・ウィルソンである私は

チンポ野郎に大量のメールを送り続けながらボロボロボロボロと滂沱の涙を流していた。そしてどうやらそのまま涙に暮れて眠りに落ちてしまったようだ。翌朝目を

覚ますと、私は下半身丸出しで携帯電話を握りしめていた。携帯電話には着信ありの点滅があり、1通のメールが届いていた。メールを開けてみると、チンポ野郎か

らで「No thank you! You are Crazy! You are not the real Brian Wilson! He doesnt use docomo! Dont send mail anymore! Cant you see? Cant you see? Cant you see?

(チンポの写真なんて送っていいわけねえだろ!頭イカれてんのと違うか?お前が本物のブライアン・ウィルソンのわけねえだろ!そもそもブライアン・ウィルソンが

docomo使ってるわけねえだろ!二度とメールよこすな!おととい来やがれ!おととい来やがれ!おととい来やがれ!)」と書かれてあり、チンポ画像は添付されてい

なかった。あの夜に撮ったチンポの写真はもう残ってはいない。夜中に書いた手紙を翌朝読んだようにあんな卑猥な写真を勢いに任せて撮った自分自身のことが無性

に恥ずかしくなってすぐに消してしまった。あらためて見てみると藝術性の欠片もなかった。ただ今でも一つだけたしかなことは、あの夜の私は我が人生で最もブラ

イアン・ウィルソンだったということである。あの夜の私は誰が何と言おうと正真正銘ブライアン・ウィルソンだったのだ。これだけは絶対に譲ることはできない。

2023.1

 

 

 

 

 

20.『Shanghai / 上海 (仮)』

 

 

私が21歳から27歳まで丸6年間勤めていた、フランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)がどうやらなくなってしまったよう

だ。私は27歳の時、たまたま読んだ坂口安吾の小説『白痴』にまんまとそそのかされて、藝術家になる!と高らかに宣言し(それはたとえるならば、麻薬絶対禁止主義

のフランク・ザッパのバンドを思う存分に麻薬をキメまくりたいからと逃げ出してリトル・フィートという麻薬天国なバンドを結成したローウェル・ジョージの心境

で)、もう広告なんてやってられっかよ!アホくさ!バカくさ!チンドン屋!アッカンベー!ベロンベロンバー!と思いっきり唾を吐きかけて会社勤めを辞め一旦は広

告業界から足を洗った(がしかしすぐにまた戻った)という若気の至りの頗る体裁の悪い因縁もあって、爾来、私はこの会社とは一切の関係を断ってしまったがために

詳細は定かではないが、気づいた時には会社名がフランク・ザッパのバンド名から弁当屋チェーン店のパチモンみたいなダサい名前(同じく頭文字M)に変わっていた。

会社のWEBサイトには事業を移管と記載され、おそらくは潰れかけたところをどこかの心優しい会社に手を差し伸べてもらい辛くも生き延びたといった世間でよくあ

る話なのではないかと無責任かつ手前勝手に推測するところであるが。このフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)は

今でこそすっかり零落し名前も弁当屋チェーン店のパチモンみたいなダサい名前(同じく頭文字M)に変わってしまったが、元を辿れば、あの悪名高き某大手広告代理

店(頭文字D)系列のD映画社から派生し1980年代に一世を風靡した、一昔前ならば、内田裕也がスーツ姿で海だか川だかを泳ぐデパートのCMや、ジェームス・ブラウ

ンがゲロッパ!ゲロッパ!歌う同じくデパートのCMや、勝新太郎がコカインをパンツに隠しているところを空港で捕まり一瞬でお蔵入りしたビールのCMや、井上陽

水が車の助手席からカメラに向って、お元気ですかー?と不敵に笑う車のCMをはじめ、センスのいいCMを数多く手掛けていた広告業界では知らぬ者がいないほど有

名な気鋭の実力派(ある意味ブランド)プロダクションでもあったから、37年というゴッホや太宰治とほぼ同じ短命で幕を閉じたことは少しばかり残念に思うところで

あるが、何度も繰り返す通り、私は27歳の時に藝術家になる!と偉そうに啖呵を切り、もう広告なんてやってられっかよ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!と唾吐

きかけて会社を辞めて以来一切の関係がないため、正直どうでもいい話と言えばどうでもいい話ではあるものの、やはり自分が20代初めに大学を辞め飢えた野良犬の

ごとく街をフラフラとうろつきまわっていた時にたまたま縁があって拾ってもらい一番最初に生業として就職した会社でもあるがゆえ、どうでもいい話と簡単に捨て

切れぬような複雑な心境というのが本音ではある。特に印象的な内田裕也がスーツ姿で泳ぐCMなどは今Youtubeで見てもまったく古びておらず、惚れ惚れするほどカ

ッコよく素晴らしい出来栄えで、まさに日本の広告における金字塔の一つと言っても過言でなく、内田裕也自らが企画しておきながらいざ撮影現場で怖気付きやっぱ

りやりたくねえと突然ゴネ出したところを無理やり水中に突き落として撮影したという心温まるほのぼのエピソードも含め最高であり、1980年代以前のCMの中には

もはや藝術作品と呼んでも差し支えないほどクオリティの高いCMも数多く、それらに比べバブルがはじけた後の1990年代から今現在に至っては正直正視に耐えられ

ぬほど、見ているこちらが気恥ずかしくなるほど、クオリティが劣化した「幼稚」で「下品」で「ダサい」CMばかりで(注意深く観察すれば、この悪の枢軸「幼稚/下

品/ダサい」が三種の神器のごとく三つ揃いですべてに当て嵌る)、あまりの酷さに何だかもう腹が立って仕方がなく哀しくなってきてしまうけれども(例えば内田裕也

のCM繋がりで言えば、晩年の内田裕也に対する敬意など微塵もなく色物芸人扱いで笑い者にしてバカにしたおふざけCMなどは目も当てられぬほど酷い出来であり、

本人も承諾の上で出演したのだろうが、あんな晩節を汚す姿などできれば目にしたくはなかった)、もちろん懐古主義に走る気はさらさらなく、昔のCMがすべて良か

ったわけでもなく、ダメなCMもたくさんあったはずだが、1980年代以前のCMは今見てもきちんと感動できるものもあるのに、1990年代以降のCMに心動かされるこ

とはほとんどなく、今現在に至っては良いと思えるCMが1本もない。驚くほど1本もない。もしかしたら探せば1本くらい見つかるのかもしれぬが、私はもう随分と前

から日常的にTVを視聴しておらず、CMに触れる機会は電車や街角やインターネットのみであり、それにわざわざ探してまでCMを見たいとも思わない。この差は一体

どこから来るのであろうか?理由は色々考えられるだろうが、まず1980代以前のCMはフィルムで撮影しフィルムで編集しフィルムで納品していたためその一瞬一瞬

にかける緊張感が今とは比べものにならぬほど強く深く映像に焼き付けられており、対して昨今のCMはCG技術にあまりに依存し過ぎており、CGで誤魔化したイン

チキまやかし映像から本物の驚きや感動が得られるはずもなく、つまりは制作者の本気度(真剣さ/誠実さ/切実さ/パッション)の違い、つまり作り手が本当に魂込めて

やりたいことをやっているのかどうか、本当に表現したいと思うことを覚悟を決めて身を賭して表現しているのかどうかの違いなのではないかと私は考えるが、もち

ろん今だって常に本気で真剣に仕事に臨んでいるよと反論する現役CM制作者たちも出てこようが、そういう者たちには、真剣に本気を出してその程度のものしか作

れないのかと冷徹に吐き捨てる他ない。また、最近のCM制作者たちの中には、本当は面白いものを作れるがバカな視聴者のレベルに合わせ面白過ぎないように作っ

ていると平然と嘯く者や、また、面白いと思えないのはそれはあなたに向けて作られていないからだよと論点をずらし逃げる者や、他にも、メディアにクリエイター

としてアホ面を晒しておきながら、おそらくは照れ隠しのポーズとして、もしくは本当に才能がないから予防線を張っておくため、自分には才能なんてまったくあり

ませんよ、CM制作に才能なんて必要ありませんよ、本気出してどうするんですか、そういうのは暑苦しくてカッコ悪いですよと無責任に宣う者も見受けられるが、

そんなのはただ苦し紛れの詭弁を弄し自分たちの才能のなさを誤魔化しているに過ぎず、客観的に見てCM全体のクオリティの劣化は火を見るよりも明らかである。

さらに、身も蓋もなくなるが、もしかしたらそれは映画を観たり小説を読んだり音楽を聴いたり本物の藝術作品に触れ心の底から感動した経験のない人間がCMを作

っているからなのかもしれない。心の底から本気で何かに感動した経験のない人間に誰か他人を感動させることなど臍で茶を沸かすくらい難しいことではないのか。

そもそも人間がまったく描けていない。描こうともしていない。まるでロボットやAIがオートメーションの右から左へと流れ作業で作っているかのごとく人間味に乏

しい。ただ有名だけが取り柄の流行りのCMタレント(素人アイドルお笑い芸人からハリウッド俳優に至るまで)を人形扱いし血の通わぬ軽薄で幼稚なセリフを言わせ

「お人形さんごっこ」に興じ、学芸会/お遊戯会のごとく関係者のみが内輪で喜んでいるに過ぎない。まるでオールスターかくし芸大会の寸劇や欽ちゃんの仮装大賞の

ごとく。大の大人が仮装してお遊戯会に興じる姿ほど恥ずかしいものはこの世に存在しない。それはレストランで大の大人がお子様ランチを食べているようなもので

ある。俺たち面白いもの作ろうとしてますよ!ほら面白いことやってるでしょ?このいい加減で軽薄なおちゃらけ感覚サイコーにイケてるでしょ?イェイ!イェイ!

イェイ!のイェイ!イェイ!イェイ!というのは何となく伝わってくるが、実際はまったくもって面白くも何ともなく、ただギャーギャーと喧しく迷惑千万以外の何

物でもない。そもそも広告など本来この世になくてもまったく困らぬ余計な邪魔者であり、チンドン屋や暴走族や廃品回収トラックやバニラトラックや焼き芋屋と何

らの変わりがない。あんたらの作った作品とやら(そもそも作品ではないと思うが)など見たくもない。出演者や制作者にとってはべらぼうに高額なギャランティを得

られるおいしい仕事でもあるからやり甲斐も見出せようが、それを無差別暴力的に公共の電波に垂れ流されて見せつけられる視聴者の身にもなってもらいたい。需要

と供給の関係があって誰かにとっては必要とされ誰かがやらなければならぬ仕事(文化的雪かきby村上春樹)でもあり、その存在を全否定するつもりもないが、せっか

く大金かけて作るのならばもう少しだけマシなものが作れぬものか。作り手としてのプライドは保てているのか。金さえ儲かればそれで良いのか。それで表現者とし

ての心は満たされるのか。些か言葉がキツくなり過ぎたきらいもあるが、昨今のCMのクオリティが劣化していることは誰の目にも明らかなはずであり、そこから目

を逸らし見て見ぬ振りしていればやがて行き着く先は破滅以外にない。いっそのこと滅んでしまえばよい。そんなことを言うならお前が面白いもの作ってみろ、喧嘩

売ってんのか、コラッ!と凄む手合いも現れるかもしれぬが、たしかにそこを突かれると急に声が小さくなり口ごもってしまうわけだけれども、私はすでに広告業界

とは一切無関係であり、そもそもCMなど自分が作る意味がなく、作りたくはないから、広告業界から潔く足を洗ったわけであり、私には自分の中にきちんと表現し

たいものがあり、広告の中で自己表現するのは邪道であると悟り、今後は自分の作品を作って世を渡って行く覚悟を決め、現在は自分の作品として面白いものを作る

努力を日々重ねており、本来ならば余計なことなど言わず大人しく黙っておけばよいものを、時たま目にするCMに目に余る酷さがあるがゆえ、また昔はたしかに面

白いCMを作れていたのになぜ今は作れないのかという単純な疑問を常々私は抱いてもいるがゆえ、元広告屋として負け犬の遠吠えのごとく老婆心ながらに苦言を呈

すまでである。そしてもちろん、この劣化傾向は、フランク・ザッパのバンド名から弁当屋チェーン店のパチモンみたいなダサい名前(同じく頭文字M)に変わってし

まった会社に関しても時代の流れには到底逆らえず、会社のWEBサイトを見る限り、制作するCMのクオリティが目に見えてガタ落ちしている印象を拭えず、何かし

ら深刻な問題を抱えていることが傍目にも窺えるが、私が勤めていた1990年代にはまだ優秀な社員も少なからず在籍し、一流プロダクションとして制作するCMのク

オリティを十分保てていたものの、徐々に優秀な社員が独立して辞めていった結果(現在いる社員で私の知る者はほとんどいない)、制作物のクオリティが見るも無惨

な有様となって、一流プロダクションから二流をあっさり素通りし三流プロダクションにまで成り下がってしまった哀しい姿に他人事のように心配していたところで

もあった。世の中の変化や時代の流れにより、広告という仕事がもはや花形の職業でなくなり、一昔前までならば情報操作や印象操作を駆使し視聴者を騙し通せてい

たものが、広告業界全体の衰退や広告制作物の劣化に伴い、また東京五輪一連のゴタゴタ騒動などにもより、化けの皮が剥がれ醜悪な地金が現れ、広告という活動が

本質的には詐欺師同然の賎業で、所詮は粗悪品を濫造し暴利多売で押し売りし狡賢く金儲けするインチキ商売に過ぎぬという「不都合な真実」がすっかり世間に露呈

してしまい(元広告屋の私が近親憎悪から広告が大嫌いなのは言わずもがなだが、世間の多くが実は広告が大嫌いだったと知り正直驚いたものである)、そして広告業

界が嫌われ者の斜陽産業と成り果ててしまった現在、主要な仕事は大手のプロダクショングループがごっそり独占する中で小さなプロダクションが生き残っていくの

は相当厳しい時代なのかもしれない。私はウブで世間知らずなボンクラの21歳で何かの間違いから偶然広告業界に飛び込んで以来もう長きにわたり広告という仕事に

対し根本的かつ生理的な不信感不快感および嫌悪感を抱き続けており、今現在は広告と聞くだけで拒絶反応が出てしまい、どんなに趣向を凝らした蹴たぐりも猫だま

しもこけおどしも、かりそめの美しさも感動ポルノ物語も、それが広告だとわかった時点で一気に冷めてしまい、広告なんて下品な代物は見るだけでも心が汚れ頭が

バカになると自己暗示をかけてすらいるほどに重度の広告アレルギーを拗らせてしまっているが(例えば、無料映像サイトで強引に割り込んでくるCMに殺意を覚える

ことなどは日常茶飯事で、また広告を見たくなければ有料プランに乗り換えろという手口などはまさに店の前に汚物をバラ撒かれたくなければ金寄越せと脅迫してく

るチンピラヤクザそのものであり、今まで自分は仕事で汚物を作ってきたわけか、何と恥知らずな仕事をしてきたものか、これはもう賎業や迷惑行為と呼ばれても致

し方あるまいと居たたまれなくなるばかりだが)、ただし、このフランク・ザッパのバンド名から弁当屋チェーン店のパチモンみたいなダサい名前(同じく頭文字M)に

変わってしまった会社自体に対する私の率直な思いを述べるならば、特別な恨みやつらみなど負の感情を私は一切持ち合わせておらず、むしろフリーランスになって

から出入りし垣間見た他のTV-CMプロダクションの悪辣な内情と比するに、大変社員思いで金払いの良いまともな会社であった(ただし私はまともじゃなかった)と今

ではしみじみと思うし、世話になっておきながら若気の至りの手前勝手な都合から唾吐きかけて突然辞めてしまったことに対し少なからず申し訳なさすら覚えてもい

るが、私が無責任に何かを思いここに何かを書き、なくなってしまったものを嘆いてみてもそれは詮なきことであり、いや正直に言えば実際はそれほど嘆いてもおら

ず、もちろん喜んでもおらず、怒ってもおらず、哀しんでもおらず、楽しんでもおらず、ただ少し残念に思うばかりであり、それは無理やりにたとえてみるならば、

昔小中学校時代に片思いしていた初恋のクラスメイトの女の子や、昔可愛がってもらった記憶がある近しい親戚の訃報に不意に触れたような、淡々と冷たい感覚に近

いのかも知れぬが、しかし私の中では確実に何かが終わってしまったような喪失感を少しばかり覚えたことだけは否定もできぬのだった。祇園精舎の鐘の声、諸行無

常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。

……

何をやってもさっぱり上手く行かぬ己の人生を世の中や他人に責任転嫁してばかりいるのは甚だ不恰好かつ卑怯なことであって、まったくもってそれはどうかともち

ろん私も思うから、これは決して愚痴や泣き言や、ましてや悪口陰口でもなく愚かな自分自身が体験した笑い話の一つであると明言した上で書いていくことにする。

広告業界に限らず古今東西どこの業界でも多かれ少なかれある話とは思うけれども、世の中には、フリーランスという後ろ盾のない弱い立場の人間や仕事を受注する

側の人間に対し足元を見て舐めた対応を取る、つまり権威を笠に着て弱い者イジメをする、昨今流行りの言葉で言えばパワーハラスメントやコンプライアンス違反行

為をする、社会的に強い立場の、仕事を発注する側の人間が多数存在する。もちろん、そういった対応を一切取らないフェアな人間がいるのも事実だろうが、残念な

がらフェアでない人間も現実的に多数存在するのである。次回また機会があれば必ず仕事を発注するつもりだからと口約束だけして今回だけは申し訳ないがこれでご

勘弁願いたいとギャランティを法外に値切ってきたり、むしろギャランティを払ってもらえるだけでもラッキーで一銭も払わずにトンズラ決め込んだり、企画を依頼

しておきながら通らなかったアイデアごときになぜに金を払わなければならぬのだと平然と踏み倒したり、他人のアイデアをこっそりネコババ・ヨコドリしたり知ら

ぬ間に勝手に切り貼りして利用したり、ある企画打合せで誰かが出した企画アイデアを何食わぬ顔して他の自分の仕事に流用したり、他人の営業ツールの仕事サンプ

ル集から堂々と企画アイデアをパクりまくったり、弱い立場の人間だから文句は言ってこないだろう、もしも文句を言ってきたとしても権力を使ってねじ伏せてやれ

ばいいんだ、万が一パクリがバレてもアイデアに著作権はないのだから自分で考えたと主張し押し通せばそれでよろしいなどと高を括り、法的には問題ないが倫理的

道義的には大いに問題のある絶妙な線を巧妙についてくる下品で悪賢い輩どもである。他人の才能やその成果に対し最小最低限の敬意を表さず配慮も示さず蔑ろにす

る下品で鈍感な輩どもである。驚くことにそういう輩どもは広告業界内で一流クリエイターなどと呼ばれ上位にふんぞり返っている者の中にも多数存在する。そもそ

も、広告という活動は他の純粋な藝術作品(映画/小説/音楽など)と違って匿名性を帯びているのが特徴の一つであり、外に制作者の名前が直接出ないことをいいことに

それを隠れ蓑にしてパクったとしてもバレやしないと不当な行為が平然と繰り広げられる無法地帯であり、私もフリーランスという後ろ盾のまったくない立場で広告

業界に身を置いていた間に、もう数えきれぬほど、もううんざりするほど、もう呆れるほど、もう嫌気がさすほど、散々そういう理不尽で酷い目に遭い続けてきたも

のだが、もしも文句を言おうものならば二度と仕事をもらえなくどころか業界から干される可能性すら出てくるのが目に見えているため、弱い立場の人間は怒りをグ

ッと噛み砕き飲み下し犬や奴隷のように媚びへつらう他になすすべもないのである。ただし、そういう下品で卑しいマネをする輩どもの名前と醜い顔を私は決して忘

れることはなく、人間社会における基本的なルールやモラルを守れぬ人間は(親の顔が見てみたいレベルで)心の底から軽蔑する。他人の気持ちや後先のことはまった

く思い遣れずにただ己の目先の欲を安易に満たすことだけに汲々とするような、まるで犬猫豚畜生のような者たちにどうして人間の心を動かせるものが作れるという

のか。どんなに有名な仕事を数多く手掛け、どんなに有名な広告賞を受賞し、どれだけ広告業界で誉めそやされ下駄履かされて持ち上げられていようが、そういう下

劣な品性の者たちに何かを表現する資格などは断じてない。ようするに、思いっきり舐められてしまっているわけだが、もちろん、舐められたくなければ舐められな

いようなそれ相応の舐められない結果を出し自分もそれ相応の舐められない程度の権力を持つ立場を目指せばよいだけの単純な話なわけだけれども、話はなかなかそ

うそう簡単には行かぬものであり、弱肉強食と言えば随分とカッコよくも聞こえるが、どこもかしこも権威主義が蔓延り世渡り上手な狡賢い連中が幅を利かせ大手を

振るって歩く醜く腐り切った世界においては、昔からそういう世の中の仕組みになってしまっているのだからこればかりはもうどうにも仕様がないのだと諦めて、辛

酸を舐めさせられて煮湯を飲まされてはハラワタを煮えくり返らせ続けるのみである。さらに私個人に関して言うならば、21歳の時に何かの間違いからか偶然広告業

界に飛び込んでからというもの、私はもう長きに渡り広告という仕事に対して根本的かつ生理的な不信感不快感および嫌悪感を抱き続けてきており、おそらくその私

自身の広告という仕事を一切信用せず忌み嫌っている舐め腐った醜い心が自然と表(言動や態度)にもしっかりと滲み出てきてしまっているがために、それがそのまん

ま自分自身に跳ね返ってきてさらに醜い人間たちを自分の周りに引き寄せてしまい結果としてよりいっそう他人から舐められてしまうというもう救いようもなく悲惨

なループに陥ってしまっている可能性(ようするに自業自得)があることをあながち否定もできぬのだったが。もちろん、広告という仕事が嫌ならばきれいさっぱりさ

っさと足を洗って他の業界に行くか、自分の持てる力を100%発揮できる、正々堂々胸を張って自分の作品だと主張できるような、100%自分自身を投影させた藝術作

品を生み出して世を渡っていけばよいだけの話であり、それが頭でわかっていながら、何とも煮え切らずにみっともなくも、しみったれた屈託を心に抱え、2005年夏

に絵を描きはじめる以前までの私は広告業界の片隅にひっそりと身を置き細々と仕事を続けてきたわけである。その後、私は絵を描きはじめるようになり広告業界か

ら完全に足を洗い出版業界のエディトリアルの仕事も手掛けるようになったが、出版業界の仕事は広告業界ほどべらぼうにギャランティが高いわけではないものの、

そのかわり広告業界にいた頃よりも理不尽で酷い目に遭うことも明らかに少なくなったように思う。もちろん私が見た限りではと前置きした上で、広告業界と出版業

界との根本的な違いはどこにあるかといえば、制作物におけるクレジット記載の有無による責任感や、自分の手掛ける仕事に対する矜持や、他人の才能やその成果に

対する敬意や配慮の差にあるように思う。もちろんそれは僅差であるかもしれぬが、出版業界のほうが(広告業界よりも)、自分たちは藝術作品の一端を担っていると

いう確固たるプライドを胸に仕事に臨んでいるゆえだろうか、他人の成果物(私の場合は絵になる)に対して敬意や配慮をもって大切に接してもらっている気がする。

さらにこれは邪推かもしれぬが、広告業界は(出版業界よりも)制作費として取り扱う金額が大きく、それゆえギャランティもべらぼうに高いため、その金の匂いにつ

られて、まさに道端の犬の糞にたかる糞蠅のごとく、卑しい人間がよりたくさん集まってくるのかもしれない。そして、何度もしつこく繰り返すが、私は27歳の時、

坂口安吾の小説『白痴』にまんまとそそのかされて、藝術家になる!と宣って、もう広告なんてやってられっかよ!バーカ!バーカ!バーカ!と広告業界から一旦足

を洗ったにもかかわらず、その後は藝術活動など一切はじめようとはせず、落書き1枚すらいたずらに描き散らかすこともなく、自堕落な放蕩無頼、無為徒食の生活

をしばらく続けた末、とうとう金に困って路頭に迷い、28歳の時、再びブザマにも広告業界に舞い戻ってしまい、そのバチが当たったものか、二度目に就職した映像

企画制作会社では悪徳社長とケンカをし不当解雇の憂き目にも遭い、にもかかわらず、その悪徳社長の鼻をいつの日か明かしてやらんと、はたまた、もしかしたら自

分も広告業界でいつの日にか一花咲かせ有名になって金儲けができるのではないかと不毛な夢を見て、広告という仕事を忌み嫌っているくせに、濡れ手に粟のあぶく

銭に目がくらみ、そのままズルズルダラダラと広告の仕事にしがみつき、さらにはそんなふうに広告の仕事を嫌々こなす不甲斐ない自分自身に対する嫌悪感も相まっ

て、その頃の私は日本の広告業界に対し心底うんざりしていたものであった。その私自身が長年心の奥底に抱え続け、ことあるごとに口が酸っぱくなるほど言葉にし

てきた広告業界に対する筋金入りの不信感不快感および嫌悪感は、近年の東京五輪一連のゴタゴタ騒動が見事な集大成となってようやくしっかりと可視化され世間一

般にも広く周知され、私の先見の明(いや皆大人だからわかっていてただ口に出さずにいただけか)がきちんと証明されたようにも思っているが、東京五輪一連のゴタ

ゴタ騒動を見てもわかる通り、あの恥ずかしい開会式を見せられ皆どんな気持ちでいるのであろうか、もしもあれを見て何とも感じぬのならば心がもう死んでしまっ

ているに相違なく、さらに世界中に日本の恥を晒しておきながら誰一人として責任も取らず、ある意味では広告業界の全体責任とも言える醜態にもかかわらず、なぜ

だか広告業界では一種のタブーとなってしまっているようで、批判する者もなく、総括されることもなく、うやむやのまま厚顔無恥な当事者たちは何らのお咎めもな

く(ポーズとしての辞任や謝罪はしたが)、人の噂も75日と完全には干されることもないまま、いまだ広告業界の第一線で何食わぬ顔して平常運転の仕事をしており、

たしか開会式の演出担当の女性が企画アイデアを勝手に切り貼りされ仕事を乗っ取られいつの間にか仕事から外されていたという明らかなパワーハラスメント行為の

被害に遭った際「このままでは日本は終わってしまう」と警鐘を鳴らしていた記憶があるが、それは「終わってしまう」のでなく「もうとっくの昔に終わっている」

が正解なのではなかろうか。もっとも、広告屋たちはクライアント企業から金をぶん取れなくなると商売あがったりで生活に困ってしまうから、日本の広告はとっく

の昔に終わって死んでしまっているのにもかかわらず、自分たちも本心ではそう思っているのにもかかわらず、広告はまだ終わっていない!まだ死んでいない!ドン

ギブアップ!などとメディアにアホ面晒して喚き散らかしている。どこぞの新興宗教の教祖がもうとっくの昔に死んでいるのにまだ生きていると嘘をつき続け、嘘も

100回唱えれば真実になると本気でそう信じ込んでいるかのごとく、広告はまだ終わっていない!まだ死んでいない!ドンギブアップ!とバカの一つ覚えを虚しく喚

き散らかし、聞いているこちらまで何だか虚しくてなってくる。幼稚で下品でダサい人間が権力を握ればその業界全体が幼稚で下品でダサくなるのは必然で、頭が腐

れば全部が腐るわけである。そもそも、広告屋たちは純粋に良いものを作ろうだなんて思っていやしない。口ではそう言っているかもしれぬが、私も昔はすっかりそ

う信じ込んでもいたが、実際は目立つものを作って広告賞を獲ってとりあえず有名になって仕事が途切れずさらに増えればそれでよし、心の底では金さえ儲かれば、

何でもあり、やったもん勝ち、目立ったもん勝ち、楽しんだもん勝ちのさもしい世界なのである。そんな日本の広告業界に対する私自身の筋金入りの嫌悪感が、まさ

か後年の東京五輪一連のゴタゴタ騒動によって具現化されることになるなどとは夢にも思わず、当時まだ絵を描きはじめる前(2005年以前)の私は、まさに坂口安吾が

『白痴』の中で言うところの賤業中の賎業であり、虚業中の虚業であり、その頃も今と変わらず私の目には醜く腐り切って見えもうほとんど死んでいた日本の広告業

界に対し心底うんざりしていた。そんな醜く腐り切った死に体の日本の広告業界などとっとと滅びてしまえばいいのだと私は本気で思っていた。それどころか人類や

世界など地球が爆発してみんな木っ端微塵になってとっとと滅びてしまえばいいのだとすら私は本気で思ってもいた。いつ頃から地球が爆発してしまえばいいと思っ

ていたのか、おそらくは物心つく頃からすでに私はそう思っていたような気もするが、そしてもちろん何をやってもまったく上手く行かず行き詰まりの連続の己の人

生に対しても私は心底うんざりしていた。死ぬ勇気などさらさらないくせに、自分自身をももちろん含めた人類や世界など地球が爆発してさっさと滅びてしまえばい

いのだと決して冗談でもなく私は本気で思っていた。この世に生きることがどんなにつらくとも、生きとし生けるもの皆最後はいつか必ず滅んでしまうのだと思うと

私は束の間ホッと慰められるのだった。当時20代終わりから30代頭にかけてのまさに暗黒時代にいた私は、一度足を洗いすぐにまた舞い戻ってしまった日本の広告業

界の片隅にひっそりと身を置きながら、決してメジャーな存在とはなり得ずとも、私の考え出す企画アイデアにはマニアックな独創的な面白さが満ち溢れていたため

(その独創性が却って足枷となり企画がなかなか通りづらかったのも事実だが)、単純にそこそこ面白く魅力的であったため、一緒に面白いものを作ろうと声を掛けて

くれる人たちも周りに現れ、競合プレゼンを勝利に導き結果を出し安い制作費で良質な制作物を提供し相手の信頼を得るなどしながら少しずつではあるが広告業界の

ごくごく一部においては仕事の評価もある程度は獲得できていたものの、それでもやはり私自身の心の奥底に長年巣食う広告という仕事に対する根本的かつ生理的な

不信感不快感および嫌悪感を払拭することは土台難しく、常にクライアントの顔色をジロジロと窺って主体性の欠片もなく魂を売りまくり、広告という匿名の安全圏

でCMタレントに珍奇なことをさせたり言わせたり失笑を買い自己表現した気になって気持ちよくなって自己満足しているようなこっ恥ずかしさや、あらかじめ決ま

っている枠に表現したくもないものを無理やりに表現し何千万何億という莫大な予算をかけて愚にもつかぬ薄っぺらなくだらぬものを作る虚しさや、どんなに面白い

ものを作ろうがとどのつまりは企業の手先となり大衆を洗脳し消費者の欲望をみだりに煽りまくっているに過ぎぬ卑しい世界や、別に大したものを作っているわけで

もないのに奴隷の鎖自慢大会のごとく内輪で褒め合い馴れ合い戯れ合い自分たちの才能のなさを見て見ぬ振りして誤魔化し、万が一不祥事が起これば内輪で庇い合い

傷を舐め合い互いの既得権益をがっちり守り合う無責任で卑怯な世界や、口先だけのあざとい言葉で表現される心貧しき綺麗事だらけの嘘っぱちな世界や、そもそも

の話、やはり広告という匿名の安全圏で自己表現するのはおかしいことではないのか、それは卑怯なことではないのか、それはまるで他人の褌で相撲を取るようなも

のであり、邪道ではないのか、ならばそれならば、とにもかくにも、己の持てる力を100%発揮した、正々堂々胸を張り己の作品だと主張できるような、100%己を投

影させた藝術作品を生み出し世を渡って行くべきではないのか、さもなくば自分は一生報われることはなく、生きている価値もなく、この世に生まれ落ちて来た意味

もなくなってしまうのではないのか、そんな当たり前のことはとっくの昔から骨の髄まで身に染みてわかり切っていることではないのか、だからこそ27歳の時に藝術

家になる!と宣って広告業界から足を洗ったはずなのに、再びブザマにも広告業界に戻ってきてしまうなんて愚の真骨頂ではないのか、自分の手掛けたCMがTVに流

れる瞬間は何かを成し遂げたような気にもなるが、それはただ単に他人のために他人の金を使って他人のものを作っているに過ぎず、結局は自分の表現などではなく

て、結局は何も表現していないに同じこと、結局は自分の作品でも何でもないだろう、CMなど誰が作っても結局は同じで、そんなものは別に自分が作らなくともよ

いわけで、他人が作れるものは他人に任せて、他の誰でもない自分にしか作れぬ独創的な藝術作品を自分の身を削り人生を賭して全身全霊で表現していかなければな

らないのではないのか、などなどなど、そんな数多の屈託を暇さえあれば頭の中で無限にループさせ、坂口安吾が言うところの賎業中の賎業に身をやつし、仕事を金

と割り切ることもできず半端な状態で作り手としてのプライドも保てず、私は醜く腐り切った日本の広告業界の片隅で日本の広告業界に対して心底うんざりしている

のだった。そしてもちろん、藝術家になる!と宣って会社勤めを辞めておきながらいまだ藝術活動など一切はじめようともせず広告業界の片隅で悶々とくすぶる不甲

斐のない自分自身に対しても心底うんざりしているのだった。私の心の中に住む坂口安吾が私に対し四六時中、お前は藝術家になるんじゃなかったのか?27歳のあの

時、俺の『白痴』を読んで、藝術家になる!と高らかに宣言したのはただのパフォーマンスに過ぎなかったのか?お前は藝術作品を表現しなければただの人間の屑に

過ぎず存在価値などまったくないのだぞ、お前の藝術は一体どこへ行ってしまったのだ?お前は一体どこへ向かっているのだ?としきりに責め立ててくるのだった。

……

上海行きに誘われたのはちょうどそんな頃であった。2004年正月明け、私が32歳になるかならないか、その頃の私はまだ絵を描きはじめてはおらず、何度もしつこく

繰り返すように、広告業界の片隅にひっそりと身を置き悶々とくすぶりながら醜く腐り切った日本の広告業界に対し心底うんざりしていた。上海に行ったのは別に上

海に行きたかったわけではなく、ただ単にたまたま誘われたところを何となく勢いで承諾してしまったからに過ぎなかった。でももしかしたら「上海(シャンハイ)」

という言葉の持つ異国情緒に溢れる不思議な響きにどこかしら惹かれたのかもしれない。もしかしたら上海に行けば自分の中で予期せぬ化学反応が起きて自分の人生

が良き方向へと劇的に変わるのではないかとまるで自分探しの旅のごとくに都合の良い仄かな希望を抱いていたのかもしれない。北京だったらおそらく断っていたに

違いない。南京でも天津でも大連でも西安でも武漢でも重慶でも香港でもマカオでもソウルでも平壌でも台北でもウランバートルでもおそらくは断っていただろう。

それくらい当時の私にとって上海という言葉は格別に魅力的に映ったわけである。もちろん、心底うんざりしていた日本の広告業界からしばらく遠く離れて異国の地

でのんびり息抜きしたいといったのんきなバカンス気分の思惑も当然あったかと思う。日本でのすべてをかなぐり捨てて上海という新たな異国の地で自分の人生を一

からやり直すという意味では、日本を捨てて上海という女と駆け落ちするようなそんな感覚だったのかもしれない。そして、結局この上海行きのゴタゴタに巻き込ま

れたことが巡り巡ってあとに皮肉なことに私が広告業界から完全に足を洗うきっかけとなるのだから世の中何が起こるかまったくわかったものではない。詳細は後に

書くつもりだけれども、この上海行きにまつわる金銭トラブルに巻き込まれた私は、もう本当に心の底から広告業界という虚しい世界や広告屋という卑しい職業やそ

こに蠢く金に汚い醜い人間たちのことが今までにも増してもう我慢の限界を超えるほど嫌になってしまって、さらに加えてちょうどその頃(2005年夏に)たまたまなぜ

だか理由もわからずただ突発衝動的に私は絵を描きはじめ、ようやく重い腰を上げ藝術活動と何とか呼べるような活動を開始したことも追風となり、今度の今度こそ

は広告業界から完全に足を洗う決意を固め、そして私はそれをきちんと実践し今現在に至るというわけである。もちろん、上海に行って良かった思い出も少なからず

あったはずなのだけれども、もうかれこれ20年近くも前の出来事であるゆえ今ではほとんど忘れてしまっていて、というか、記憶を無理やり消去しようと意図的に務

めたため正直に言えばあまり覚えてはおらず、おぼろげな記憶の断片を探して繋ぎ合わせて頭の中のスクリーンに映し出し再生する数少ない上海に行って良かった思

い出と言えば、たまたま上海に携えて行き現地で暇つぶしに読んだ2冊の本(武田泰淳『滅亡について』と『蝮のすえ』)を上海滞在中に読めたことであっただろうか。

この2冊の本は深沢七郎や色川武大を発掘し武田百合子の夫としても有名な小説家の武田泰淳が第二次世界大戦の敗戦を上海にて迎えた体験を題材に書いた作品であ

り、特に『滅亡について』のほうは、当時の私が心に抱えていた広告業界に対するさっさと滅びてしまえばいいのだという滅亡思考や、それどころか自分自身すらを

も含めた人類や世界など地球が爆発してとっととみんな滅びてしまえばいいのだという破滅願望とも絶妙にマッチし、さらに上海という慣れない異国の地での生活に

おけるフラストレーションとも共鳴し、当時の私の病み腐り荒み切った心にビンビンと訴えかけてきて大いに慰められ救われもしたものであった。「私個人の経験で

も、死んでもかまわない、と放言しても、やはり死にたくはない。自分自身に関するかぎり、不吉の予言より、少しは吉の方がよい。幸福などあるまいと考えても、

全くの不幸はおそろしいのである。滅亡を感じ、悲惨を予感するのは、深刻であり、哲学的であるから、深刻であり哲学的であるために、ことさらこのような思念に

溺れようとはするが、それでいて滅亡悲惨はどんな小さいものでも、顔面のカスリきず、腹中の蛔虫まで気にかかるのである。それでいて、ともすればこの不吉な言

葉にふれたがるのは何故だろうか。それを目撃し、それに直面したがる、この映画見物者的な状態は何であろうか。終戦後二、三日はまだ南京路の群衆の怒号や、バ

ンドの旗のひらめきなどに気をとられて、敗戦が身について来なかったが、フランス租界にはなれ暮らしている友人を訪ね、その苦しげな表情、どんなに無心でいよ

うとしてもつい歪んで来る表情に顔つきあわせてみると、次第に自分の内臓の動きが、一つ一つ耳にしみて来るほど、空虚なしずけさに沈み込まぬわけにはいかなか

った。ドイツ系ユダヤ人と同棲している友人のアパートは、ロシア人や中国人ばかりなので、勝利を祝ってか、隣の部屋部屋では朝から賑やかなレコードをかけてい

る。アメリカの飛行機が青黒い胴体を見せながら、何回も何回も頭上に舞いおりてくる。その爆音が近づくたび、下の緑の芝生では、金髪の少年少女が楽しげに叫び

ながら、空を見上げて旗をふる。その部屋からすぐ向うに見える十数階のアパートの窓々はみな開かれ、ぜいたくな室内の家具の間から、はなやかな服装をした各国

の男女たちが、手やハンケチをふるのが手にとるようにわかる。爆竹の音、歓声、その他色めきたった異国の街の空気が、私たちの胸の空虚なしずけさを包囲してい

る。神経質に部屋を歩きまわっていたドイツ女は『悪い月よ、早く去れ』と英語で言う。私と友人は気まずそうに顔見合わすばかりである。悪い月が去っても、悪い

日々が、悪い年々が来るであろう。月日は悪くなくなっても、我々の悪さはかわらないであろう。何故ならば、今や我々は罪人であるからだ。世界によって裁かれる

罪人であるからだ。その意識に反撥するため、私たちは苦笑し、から元気をつける。そして、歓喜の祝福からのけものにされたどうしが、冷たいしずけさ、すべての

日常的な正しさを見失った自分たちだけのしずけさの裡に、何とかすがりつく観念を考えている。するとポカリと浮び上って来たのは『滅亡』という言葉であった。

おごれる英雄、さかえた国々、文化をはな咲かせた大都会が亡び、消え去った歴史的現象を次から次へと想いうかべる。『聖書』をひらき、黙示録の世界破滅のくだ

りを読む。『史記』をひらいては、春秋戦国の国々が、滅亡して行く冷酷な、わずか数百字の短い記録を読む。あらゆる悲惨、あらゆる地獄を想像し、想起する。す

べての倫理、すべての正義を手軽に吸収し、音もなく存在している巨大な海綿のようなもの。すべての人間の生死を、まるで無神経に眺めている神の皮肉な笑いのよ

うなもの。それら私の現在の屈辱、衰弱を忘れ去らしめるほど強烈な滅亡の形式を、むりやり考え出してはそれを味わった。そうすると、少しは気がしずまるのであ

った。滅亡は私たちだけの運命ではない。生存するすべてのものにある。世界の国々はかつて滅亡した。世界の人種もかつて滅亡した。これら、多くの国々を滅亡さ

せた国々、多くの人種を滅亡させた人種も、やがては滅亡するであろう。滅亡は決して詠嘆すべき個人的悲惨事ではない。もっと物理的な、もっと世界の空間法則に

したがった正確な事実である。星の運行や、植物の成長と全く同様な、正確きわまりなく、くりかえされる事実にすぎない。世界という、この大きな構成物は、人間

の個体が植物や動物の個体たちの生命をうばい、それを噛みくだきのみくだし、消化して自分の栄養を摂るように、ある民族、ある国家を滅亡させては、自分を維持

する栄養をとるものである。戦争によってある国が滅亡し消滅するのは、世界という生物の肉体のちょっとした消化作用であり、月経現象であり、あくびでさえあ

る。世界の胎内で数個あるいは数十個の民族が争い、消滅しあうのは、世界にとっては、血液の循環をよくするための内臓運動にすぎない。この運動がなくなれば、

世界そのものが衰弱し、死滅せねばならぬのかもしれない。私たち人間は個体保存の本能、それが発達して生れた種族保存の本能のおかげで、このような不吉な真理

をいみきらい、またその本能の日常的なはげしさによって、滅亡の普遍性を忘れはててはいるが、しかしそれが存在していることはどうしても否定できない。世界自

身は自分の肉体の生理的必要をよく心得ている。それ故、彼にとっては、自分の胎内の個体や民族の消滅はべつだん、暗い、陰気くさい現象ではない。(誰が自分の食

べた食物が消化するのを悲しむだろうか。) むしろきわめて平凡な、ほがらかな、ほとんど意識さえしないいとなみの一つである。私はこのような身のほど知らぬ、

危険な考えを弄して、わずかに自分のなぐさめとしていた。それは相撲に負け、百米に負け、数字で負けた小学生が、ひとり雨天体操場の隅にたたずんで、不健康な

眼を血走らせ、元気にあそびたわむれる同級生たちの発散する臭気をかぎながら『チェッ、みんな犬みたいな匂いをさせてやがるくせに』と、自分の発見した子供ら

しからぬ真理を、つぶやくにも似ていたにちがいない。その時の彼にとっては、したがってまた私にとっては、絶対的な勝利者、絶対的な優者、およそ絶対的なるも

のの存在が堪えがたいのだ。自分がダメであり、そのダメさが決定され、記録され、仲間の定評になってしまったのに、ダメでないものが存在し、しかもその存在が

ひろく認められ、その者たちが元気にあそびたわむれていることが堪えがたいのだ。たとえその者たちが、自分の存在に気づき、自分のそばに歩みより、やさしく声

をかけてくれたところで、このあわれな小学生はソッポを向き、涙をながすまいと歯をくいしばりながら『チェッ』と舌打ちするだけである。滅亡を考えるとは、お

そらくは、この種のみじめな舌打ちにすぎぬのであろう。それはひねくれであり、羨望であり、嫉妬である。それは平常の用意ではなく、異常の心がわりである。し

かしそのような嫉妬、そのような心がわりに、時たまおそわれることなくして一生を終る人はきわめてまれなのではないか。(武田泰淳『滅亡について』より引用)」

……

もうかれこれ20年近く前の昔話であり、記憶違いや見当違い、計算間違い、言い間違い、はたまた、誤解、曲解、歪曲、邪推、などなど、多々出てくるかと思うが、

まあともかく、ことの発端はこうであった。そもそも年賀状など出したのがいけなかった。2004年の正月が明けしばらく経ったある日のこと、とある知り合いのCM

プロデューサーEという男から私の携帯電話に連絡が入った。おざなりな新年の挨拶と賀状の礼の後に相手が一方的に続けることには、このたび自分は今まで所属し

ていた会社を辞め気持ちを新たに中国の上海にCMプロダクションを設立する運びとなった、ついてはCMプランナーとして会社の立ち上がりの短期間だけでも手伝っ

てはくれまいか、急な話で恐縮だけれども契約期間はとりあえず来月2月から3ヶ月間、報酬は月給20万円也を現地レートに換算し現地通貨で支払う、現地の物価は日

本のそれよりもかなり安いから相応であろう、住居光熱費などは会社持ちで一切かからぬから心配御無用、成り行き次第では3ヶ月後に契約更新する可能性もあり、

さらにもしも上海の地が滅法気に入りそのまま骨を埋める意志があればそれもまた結構、とのことだったが、相手は過去に何度か一緒に仕事をしたことがあるだけの

特に懇意な間柄でもなく、私はそのプロデューサーEのことを率直に言ってさっぱり信用しておらず、口先だけは達者で言うことは壮大、いわゆるビッグマウス、全

体的に胡散臭いことこの上ない雰囲気を醸し出す、当時50後半から60絡みの長身で初老のいい加減なおっさんであり、おまけにこのプロデューサーEが直前まで所属

しすでに潰れかけていた某弱小CMプロダクション(頭文字B)自体がとにかく金払いの悪い、金に汚いという悪印象もあり、実際このプロデューサーEはバブル時代に

某超有名演歌歌手Sをまんまとダマくらかし出資させた金でポストプロダクションスタジオ事業を起こしていたところバブルがはじけ某超有名演歌歌手Sに責任全部お

っかぶせまんまと逃げたとか逃げなかったとかいった後ろ暗い過去があることも小耳に挟んでおり、ようするに自分の手では何一つ生み出せなやしないくせして人を

ダマくらかしたり金を誤魔化したりする技術には異常に長けた、とにかく金の匂いにだけは超敏感な世渡り上手で悪賢い人間というわけであり、また月給20万円也と

いう金額も現地の物価云々はまったく関係のない話であって正直安過ぎるのではないかと私は到底納得がいかなかったものの、プロデューサーE曰く、当初は我々プ

ロデューサーたちも月給20万円也で皆平等にいくつもりであり最初は安月給で我慢するのが当然であると力説され(ただしそれは口から出まかせだったと後で判明す

るわけだが)、何ともきな臭い話と私は直感的に見抜き、いかにしてこの話を断ろうかとさっそく思案を巡らしはじめたところを相手はさらに畳み掛けてきて、よくよ

く話を聞けば、実際に現地上海に赴くのはプロデューサーEではなくて別のCMプロデューサーKという男であり、このプロデューサーKは赤坂にある某業界最大手TV-

CMプロダクション(頭文字T)の役員だった経歴もある大変信頼のおける人間だから大船に乗ったような気分でいればよろしいとさらに力説され(だがしかしそれは大船

ではなく泥船だったわけだが)、私はあまりに唐突過ぎる話であり、また正月明けでお屠蘇の気分もまだ抜けてない状態でもあり、3ヶ月間とはいえ海外へ赴くとなれ

ばそれ相応の覚悟や準備も必要になってきて他の仕事との兼ね合いもあるため即答はしかねるが他の者とも相談した上で前向きに検討はしてみると一旦保留すれば、

プロデューサーEは私が二つ返事で快諾するとばかり思っていたものか、考える必要なんてなかろうに!一体誰に相談するというのか!と声を不機嫌に荒げ豹変する

も、私は、そんな簡単に決められる類いの話ではないと突っぱねて、しばしの猶予をもらい、それからのちしばらくは頭の中を上海まみれにし、まだ見ぬ異国の美し

い風景や中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアなどを夢想しつつ悩みに悩み迷いに迷い考えに考えた末に(やはり中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアの誘惑

には抗いきれず、まさにそれが決定打となり)、自分には失うものなど特に何もないのだから、もうどうにでもなるようになれや!くそったれ人生!と清水の舞台から

飛び降りる覚悟というよりも、スカイダイビングかバンジージャンプに挑むような覚悟というよりも、遊園地のジェットコースターに乗る覚悟というよりも、酔っ払

った勢いで怪しげな名前の性風俗店に飛び込む覚悟とでも言ったらよいだろうか、ようするに、些か邪でカジュアルなレジャー感覚の覚悟を決め、話を受けてからち

ょうど1週間後、私はプロデューサーEに上海行きを承諾する旨の連絡を入れたのだった。その後、赤坂の喫茶店で私の最終面接も兼ねた打合せを3人でした際、初対面

したCMプロデューサーKという男は、プロデューサーEと同年輩の当時50後半から60絡み(実際は70にも見えた)の初老のおっさんで、どことなく昔の軍人政治家で巣鴨

プリズンにて処刑されたあの東條英機をこぢんまりとしょぼくれさせ威厳をまったくなくしたような、全体的に覇気がなく、どことなく貧乏臭い雰囲気が漂う、ベビ

ーモヒカン頭にちょびヒゲを生やかしメガネをかけたキザな小男であり、私は、もういい歳だろうにベビーモヒカン頭に挑むとは何ともシャレオツな漢ではないか!

とよくよく観察してみれば、それはただ単にそういう特殊な禿げ方をしているに過ぎず、プロデューサーKとプロデューサーEとは江古田にある某芸術大学の同窓で、

プロデューサーEが直前まで所属しすでに潰れかけていた某弱小CMプロダクション(頭文字B)にプロデューサーKも短期間ではあるが嘱託として所属しており、二人意

気投合し上海で一旗あげる計画を立てたようで、以前に聞いていた話の通り、赤坂にある某業界最大手TV-CMプロダクション(頭文字T)に長年勤め、叩き上げで役員に

までのぼりつめたというのは出鱈目ではなく、会話の端々に「Bさん」という(頭文字T)創設者のやり手社長の名前が頻出し、手掛けた代表的な仕事としては、某ビール

会社(頭文字A)の超有名看板商品のCMシリーズを立ち上がりからずっと制作担当していたそうで、その村上龍やジーン・ハックマンや落合信彦らが出演する見るからに

金のかかったバブリーなCMシリーズならば私もよく知っており、またプロデューサーKは、私がかつて勤めていたフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられ

たTV-CMプロダクション(頭文字M)の重役だった有名な演出家とも、自殺した某映画監督Iとその妻の女優Mが出演する某ビール会社(頭文字S)の地方限定ビールCMの仕

事をしたこともあるらしく、その時プロデューサーKは、ところで、(頭文字M)という会社はまだあるのかね?昔から潰れたとか潰れそうで危ないとか良からぬ噂を耳

にするけど、そういう噂が流れる会社はそのうち本当に潰れてしまうからこの業界は怖いんだよね、ハッハッハッ!と縁起でもないこと言ってのけ空笑いした後に、

(その演出家にも)一言伝えておくよと続け、私はかつて勤めていたその会社(頭文字M)を、もう広告なんてやってられっかよ!と唾吐きかけて辞めたくせして再びこっ

そり広告業界に舞い戻っているという何ともバツの悪い十字架を背負っていたため、そのお気遣いには及びませぬ!(それは余計なお世話である!)と引き攣った笑顔

で返したが、後になって私はこのプロデューサーKがその当該地方限定ビールCMの仕事の打合せで演出家を訪ねて来社した際にお茶出しした覚えがあること、つまり

私は以前にも一度このプロデューサーKと会っていることを思い出し不思議な因縁を感じたものだが、また、プロデューサーKの不吉な預言の通り、その後フランク・

ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)は実際なくなってしまったわけであり、この世のすべての事象はどこかしらで何かしら繋

がっているのだなとしみじみと感じ入りつつ、話を元に戻せば、私はプロデューサーKが役員をしていた某業界最大手TV-CMプロダクション(頭文字T)やそのグループ

会社に対して(かなり不快なえげつない目に遭っているため)今も昔もまったく好印象は持っておらず、加えてプロデューサーKは元役員だったにしては何だか妙にしょ

ぼくれているというか草臥果てているというか、とにかく覇気がなく貧乏臭い男だなという第一印象を私はずっと引きずってはいたものの、プロデューサーKは広告

屋プロデューサー職に典型的な一見たしかに礼儀正しく腰も低く物腰も柔らかく、決して生粋の悪人とも思えず、とりあえず私はすっかり信用してしまった次第だが

(実はこれがとんだ食わせ者であったわけだが)、何はともあれ、彼らの話をまとめると大体こうであった。大阪の某大手電機機器メーカー(頭文字P)のお膝元にある某

映像プロダクション(日が昇るみたいな意味の頭文字S)の社長Nを、プロデューサーEが、これからの時代は中国でっせ!上海で一旗あげましょ!とまんまとダマくら

かし出資させ、さらにプロデューサーEとKも形式上だけ雀の涙ほど出資した上で、中国の上海にCMプロダクションを新たに設立すること、我々の取引先は日本の広

告代理店各社(DやHやA他)の上海支社であり、制作するのは日本企業が中国向けに流すためのCMであること、中国の広告業界は現在なかなかの好景気でこれから先も

上り調子でさらに繁栄していくことは間違いなく中国広告バブル到来も夢ではないこと、そして上海の広告業界は中国随一であること、現地では日本語で企画のでき

るCMプランナーが足りないらしくそこで私に白羽の矢が立ったこと、新設する会社には中国語ペラペラの日本人留学生でもある25歳の無口で優秀な青年Zもすでに雇

ってあり、彼は以前、やはり某業界大手TV-CMプロダクション(頭文字A)の元役員だったプロデューサーが上海に設立したCMプロダクション(聞くところによればカラ

オケパブの中国人美人ママを愛人に囲いうつつを抜かしている間に部下の社員である腹黒い悪徳中国人プロデューサーに好き勝手放題やられトラブルになった挙句に

莫大な借金背追い込みその時すでに潰れていた)で働いていた経験もあり、現地での会社設立の交渉や金銭の管理はすべて彼に任せてあること、会社の正式名称は「何

やら漢字がたくさんずらずら並んだ有限公司」となること、当座の現地スタッフは、CMプロデューサーK、中国語ペラペラ日本人留学生の青年Z、カタコト日本語デ

スクの中国娘Y、私を含め計4名であること、大出資者である大阪の某映像プロダクション(日が昇るみたいな意味の頭文字S)の社長NとプロデューサーEは日本にいな

がら現地の動向を随時見守ること、会社がうまく軌道に乗れば社員をどんどん増やしていくつもりであること、とにかくこれからの時代は中国である、時代はまさに

中国なのである、日本なんぞそのうち中国に追い抜かれるだろう、いやもうとっくに追い抜かれているかもしれぬ、日本の広告業界でくすぶっておっても仕方あるま

い、とにかく我々には中国しかないのである、さあバブル時代よもう一度、中国バブルよドーンと来い、中国でドーンとでっかく一山当てて一攫千金ゴールドラッシ

ュ、毛沢東のピンクの札びらバラ撒きながら美味い酒飲んで美味い料理食べてイイ女抱いてウッキウッキのウッハウッハのガッポガッポのチャリンチャリンのジュッ

ポジュッポのズッポンズッポンのズッコンバッコンのビショビショヌレヌレヌルヌルペロペロレロレロベロンベロンのヘベレケのチョメチョメのハメハメのパコパコ

の酒池肉林でみんな仲良く楽しくやって、いつか孫悟空みたいにあの雲に乗って大空飛んでもういっそのこと天竺まで飛んで行っちゃおうじゃないか、ニンニキニキ

ニキニンニキニキニキ西にはあるんだ夢の国!ニンニキニキニキニンニキニキニキとしきりに中国絶賛ゴリ押しまくり、かつて日本のバブル時代に散々甘い汁を吸い

まくりおいしい思いを味わい尽くした経験があり脳味噌が泡まみれのまま思考停止しているうちバブルがはじけ今じゃすっかり零落した、おそらくアソコもすでに使

い物にはならぬであろう初老のおっさんプロデューサー二人が大盛り上がりで話す『中国上海夢物語』に私はだんだんついていけなくなってきて、一人置いてきぼり

を食らったような気分のまま、果たして日本で成功していない人間が中国で成功できるのだろうか、そんな虫のいい話なんてあるものだろうか、と一抹の不安を抱え

つつも、とにもかくにも、心底うんざりしていた日本の広告業界から遠く離れまだ見ぬ異国の上海での新生活や中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアを夢想する

などして、さてしかし一体全体実際どうなることやら、それは箱を開けてみてのお楽しみ、とまるで他人事のように少しばかり期待に胸を膨らませもするのだった。

……

結局、私の上海行きは当初の予定より1ヶ月延び、2004年3月上旬と正式に決まり、すでに一足先に準備のため上海に赴いていたプロデューサーKが一時日本に帰国し

た2月末、高田馬場の喫茶店における出発前の最終確認打合せにプロデューサーKは妻同伴で現れ、そのおすぎとピーコを足して2で割ったような顔したKの妻は何や

ら重たい病を患っているそうで、高校生の一人息子は名門私立高校でラグビーをしていて、現在は訳あって一家で西武新宿線沿線のアパートに仮住まいであること、

新しい会社が軌道に乗ればゆくゆくはKの妻も上海に呼び寄せるつもりでKの妻もそれを楽しみに今からワクワクと中国語の勉強をはじめていることなど、ややプライ

ベートに突っ込んだ会話も交わしつつ、私は、昔の軍人政治家で戦犯でもあった東條英機をこぢんまりとしょぼくれさせ威厳をまったくなくした風貌のプロデューサ

ーKがその時着用していた休日の普段着である息子のお古らしき安っぽいフライトジャケットとケミカルウォッシュ加工されたジーンズの相乗効果により絶妙に醸し

出される貧乏臭さが初めて会った時よりもさらに一段と増幅していることが少しばかり気になってもいたが、さらには、東條英機のパチモンみたいな男がベビーモヒ

カン頭でアメリカ製フライトジャケットを着て中国なんぞへ行ったならばそれこそ中国人民たちから袋叩きの目に遇わぬだろうかと余計な心配もしていたが、もちろ

んそんなことは口に出すわけもなく、プロデューサーKは酒を飲んでもいないのに些か上気した調子で、上海の会社準備は今まさに着々と進んでいること、もうすべ

てがパッチグーのオールオッケーのドントマインドであること(このインチキ英語遣いがKの口癖だった)、みんなが私の到着を今か今かと首を長くして待ち侘びている

こと、さらに続けて、自分は病身の妻と大学受験を控えた高校生の息子を抱えていて、中国上海で是非とも成功しなければならぬこと、自分にはもう後がなく上海行

きにすべてをかけていることなどを私に熱く語り、そのプロデューサーKの言葉に嘘偽りがないことを私も直感的に悟り、ただしこれは後に判明したことだが、実は

プロデューサーKは金に滅法だらしがなく、それが原因で某業界最大手TV-CMプロダクション(頭文字T)の役員も解任された挙句に会社を追い出されたらしく、現在か

なりの額の借金も抱え込んでいて、過去に自己破産の経験もあり、とにかく金に困っていたがためにもう背に腹は代えられずなりふり構わず必死にならざるを得ず、

また某業界最大手TV-CMプロダクション(頭文字T)で盛大にやらかしてしまったために日本国内で仕事がしづらくなり上海に逃げたというのが真相であったようだが、

その時の私はまだそれを見抜けていなかった。そして最後におすぎとピーコを足して2で割ったような顔した病身のKの妻からも、くれぐれも主人をよろしくお頼み申

しますよと薄ら涙目で伝えられ、私は、軽い気持ちのバカンス気分で上海にフラリと遊びに行く感覚だったところを、何だか突然厄介な大荷物を背負わされたような

気にもなってきて、そんなに期待されてもこちとら困ってしまうんだがなあと少しばかり困惑しつつ、同時に、これから自分は日本を遠く離れ異国の上海に行き新た

な生活をはじめるということに俄然現実味が増してきて、身が引き締まるとともに、もちろん、まだ見ぬ中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアを夢想もしつつ希

望に胸を膨らませてゆくのだった。散々悩みに悩み迷いに迷い考えに考えた末、結局最後の最後は中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアへの過大な期待が決め手

となり、自分には失うものなど特に何もないのだから、もうどうにでもなるようになれや!くそったれ人生!と勢いにまかせ上海行きを決めてしまうと、何とも皮肉

なもので、私は場合によってはもう二度と帰ることもないかもしれぬ日本での生活が急に名残惜しく愛おしく思えてきて、上海行きの準備の合間合間に、数少ない友

人知人と別れの挨拶がてらの食事をしながら上海での新生活の豊富やまだ見ぬ中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアの夢を熱く語ったり、万が一現地で行方不明

になり映画『地獄の黙示録』のマーロン・ブランド状態になった時は皆で船に乗り川を遡りジャングル奥地まで自分を探しにきてくれるようくれぐれも頼んでおいた

り、簡単な日常会話くらいは覚えておこうかと本屋でバカでもアホでもマヌケでもタコでもイカでサルでもわかると謳った初心者向け中国語テキストや上海ガイドブ

ックを物色したり(そして標準中国語と上海語はまったく異なることを初めて知ったり)、ソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』を観て外

国人の異国での心境や心構えを学んだり、ブルース・リーやジャッキー・チェンやサモ・ハン・キンポーの映画を見まくったり(でも途中でこれは中国映画でなく香港

映画だと気づいたり)、上海に携えていくノートパソコンを新調しお気に入りの音楽を満載させたり(特にイギー・ポップの1977年の初ソロアルバム『イディオット』

に収録の名曲「チャイナ・ガール」を当時の自分のテーマソングにして聴きまくったり)、さらには日本男児に生まれし者としてあたかも戦地へ出征する前の新米兵士

のごとく最後に日本の女の肉体の味を思う存分に味わい尽くしておこうかと、でなければ我は戦地で死んでも死に切れぬと、ついでに欲を言えば魔除け弾除け願掛け

験担ぎにアソコのオケケの1本や2本や3本でも餞に恵んでもらえたらと、その当時交際するステディな相手もなかった喪男の私は、性風俗関連の特殊なサービスを金

銭と引き換えにつまりあんなことやこんなことえっそんなことまでもうすんごいことまでもう天国への階段を逆立ちでのぼっていってしまうような至福のプロフェッ

ショナルなサービスを皆様に提供するお店を訪れて出すもの出してスッキリサッパリもう後腐れなく日本を後にしようかと、ようするに、日本最後の思い出にいわゆ

る「ヌキ納め」と呼ばれる厳かな儀式を赤の他人である初対面の女性とともに行わんと、インターネットでもうそれこそ血眼となって色々調べて回るも、あまりにも

情報が多過ぎて目移りがしてしまい最後にふさわしい店をなかなか選べず、モザイク加工写真だらけで目ぼしい好みの相手も見つからず、さらに生来私は金と引き換

えに愛のない性的サービスを受けること自体に罪悪感を覚えてしまう人間でもあり、むしろこちらが相手を気持ちよくさせてあげているのになぜ金を払わねばならぬ

のかと常々疑問に感じてもいたため、あまり積極的にもなれず、ぐずぐずうだうだダラダラしているうちに、でもまあ焦って探してとんでもない豚をつかんで日本最

後の思い出を汚してしまうのも何だし、それに何しろこれから先の自分には中国美女との酒池肉林なラブアフェアがお待ちかねなのだからな、日本のバカでわがまま

な女など金輪際相手にしてやるものか、そもそも「ヌキ納め」など無理やりする必要もなかろうと潔く断念して、まだ見ぬ中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェア

を夢想しながら風呂場で一人身悶えて自分を慰めたりと、何だかんだと忙しく過ごして、いざ出発の当日は最寄りの駅まで父親の車で送ってもらい、駅前で「それじ

ゃ」「ああ」「行ってくる」「ああ」と普段一緒に暮らしながら互いに必要以外ほとんど口もきかぬ父親とほとんど会話になっていない会話を交わし別れ際、父親が

「入れといた」と珍しく意味ありげな言葉をぼそっと呟いて、私は何を入れといたのかその時はさっぱりわからなかったけれど、とりあえず「ああ」と返事をし「じ

ゃあ」と続ければ、父親は最後に「ああ」と呟き、そっけない別れの儀式を済ませ、いざ空港へと向かう京成電車の中で小型スーツケースの脇ポケットをゴソゴソと

探ってみれば、何やら見知らぬ封筒がいつの間にやら紛れ込んでいて、中には餞別の現金5万円也とともに「体に気をつけて頑張って下さい みんな応援してます 父」

と鉛筆で殴り書きされた手紙というかメモ書きが添えられ、母親にはもしかしたら中国に骨を埋めもう二度と日本には戻って来ないかもしれぬとそれとなく伝えてお

いたから、もしかしたら零落し逃げ帰ってから今の今までずっと世話になり続けてきた家族たちとももう二度と暮らせなくなるのかもしれぬのかと私は妙に感傷的な

思いがこみ上げてきて、散々迷惑ばかりかけ通しでいまだ何一つ親孝行もできていない親不孝な出来損ないの穀潰しのろくでなしの放蕩バカ息子であるところの不甲

斐のない自分自身の来し方と行く末を思って涙がボロボロと止まらなくなり、時々ジョイ・ディヴィジョンのイアン・カーティスが便所でこっそり咽び泣いてたみた

いにおいおいと嗚咽しそうになるのを周りの乗客の目を気にしながら、まるでSEX中にイキそうになってシーツの端っこを噛んで忍ぶ女のごとくハンケチをぐいぐい

噛んでは必死に堪えて、そして、いまだかつて東京23区の外へは長期間離れたことのない自分が今まさに長年住み慣れた日本という土地を離れて上海に赴き新たな生

活をはじめ、もしかしたらこの場所へはもう二度とは帰って来ないのかもしれぬのだなとあらためて強く実感しセンチメンタルな気持ちで胸を熱くするのであった。

……

京成電車の薄暗い地下改札を抜け長いエスカレーターで地上へ上がり成田空港第2ターミナルに到着すると待合せ場所には、遠目からでも相変わらず貧乏臭さが漂っ

てくる、もちろん旅支度も潔く貧乏臭い、そしてまさかのまさかのフライトジャケットとケミカルウォッシュジーンズでバッチリとコーデされたプロデューサーKが

すでに立っており、あらためて出発の挨拶を交わし中国東方航空のカウンターにて手荷物以外のスーツケースを預けたのち、ラウンジでコーヒーを飲みながら雑談を

交わしつつ、上海は3月でもまだまだ真冬のように寒いこと、会社のオフィスは24階建のタワーマンションの5階にあり、その最上階に我々2人の部屋もあり、入り口

は一緒だが中で部屋は別々になっていてプライベートはきちんと保たれていること、部屋には布団一式やTVやDVDプレーヤーなどさしあっての生活必需品はすでに購

入済みであること、上海での生活は日本とほとんど変わらず特に不自由することもないだろうが、生水が飲めないこと、言葉の大きな壁があること、英語もほとんど

通じないこと、中国語にも色々と細かく種類があって埒が明かないから自分は中国人に中国語を習おうかと思っていること、現地に着いたら慣れるまでのとりあえず

1ヶ月くらいはのんびりと羽根を伸ばせばいいよ、もうとにかくすべてがパッチグーのオールオッケーのドントマインドなんだからね、などなど、すでに何度も上海

に赴く経験者であるプロデューサーKは貧乏臭さも何のその、出発前の些かハイになった興奮状態で一人捲し立て、中南海(チョンナンハイ)という中国ではメジャーな

タバコをひっきりなしにプカプカとふかしながらさっそく先輩風も吹かしはじめてくるのが、昨夜興奮のあまりよく眠れず寝不足気味の私はタバコの煙とともに鼻に

つき、露骨に目を逸らし、全面ガラス越しに空港内を行き来する巨大な航空機の流線形ボディを、近くで見ると想像以上にバカでかいんだなとぼんやり眺め遣りなが

ら、日本を出発する直前に目にする最後の景色が千葉の片田舎の寂れた景色であることに何とも言えぬ物足りなさを感じていると、やがて出発の時刻がやって来て、

搭乗手続きを済ませ、禁煙席の私と喫煙席のプロデューサーKとしばし別れて、成田空港から上海浦東空港まで2時間半~3時間半、ほとんど区別はつかぬがおそらく日

本人中国人半々の乗客たちに囲まれて、窮屈なエコノミー席で靴を脱ぎイヤホンをして液晶モニターを眺め、時々キャビンアテンダント(CA)の中国人女性の体を無遠慮

な目で追いそしてケダモノのような目で犯しながら、まだ見ぬ中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアを夢想しているうち、あっという間に飛行機はいつも着陸時

にボディブロウのようにガツンと鳩尾に来る衝撃とともに上海浦東空港に到着し、日本との時差は1時間、現地はすでに日が暮れかけ、空港に降り立つとすぐにどこか

らともなく異国の香りが漂ってきて、それは心地良い香りかと言えばそうでもなく不快というわけでもなくいつかどこかでたしかに嗅いだことのある、私はまさにこ

れこそが中国の香りだなと直感的に思ったが、何となく漢方薬っぽい香りのようでもあり、それは空港内に漢方を扱う土産屋があるからか、さもなくば上海に到着し

たばかりの私の脳味噌が無理やり私にそう感じさせた幻臭(幻覚)であるのかもしれなかった。そして、空港から約1時間かけて上海中心部へと疾走するVW社製タクシー

は日本でもお馴染みのセダン型タクシーで、見た目は結構若そうな中国人運転手はノリノリでアクセルベタ踏み状態、我々の心をイタズラに弄ぶかのごとく、前を走

る車に追い付いては追い越しを延々と繰り返し、体感速度は時速200km、実際は150kmくらい出ていたろうか、それは事故ったら確実に死に至る速度であり、正直に

言えば私は金玉が縮み上がるほどビビりまくってしまっていたのだけれども、それを敏感に察知したものか、プロデューサーKは自分自身も金玉が縮み上がるほどビ

ビりまくっているくせして、何度も経験しているから自分は怖くないよ、こんなの中国では当たり前のことだよ、余裕綽々のへっちゃらの屁の河童だよと殊更にアピ

ールするかのごとくひっきりなしに中南海をふかしながら「もしかしてビビってるの?僕はもう慣れたけどね、パッチグーのオールオッケーのドントマインドだよ、

ハッハッハッ!」と私をおちょくるように大袈裟な空笑いをして、たった1ヶ月の先輩風をまたしても吹かしはじめてきて、ビビりまくった上にさらに車酔いまでして

きた私は「何言ってんですか、別にビビっていやしませんよ」と少しイラつきながらぶっきらぼうに答えて、暮れかけた高速道路を徐々に窓の外に流れる景色が田舎

の風景から近代化されていく様をぼんやり眺めていると、やがて高層ビル群が突如出現し、その日本とほとんど変わらず発展した現代的な街の風景に思わず目を見張

り、写真でよく見かける有名な上海のシンボルタワーであるところの例の不揃いの団子が近未来的に串刺しにされているような造形の電波塔を見た私は「とうとう上

海にやって来たんだな!ヤァ!ヤァ!ヤァ!」とようやく胸がワクワクと踊り出すのだった。そして、上海の中心部からはほんのわずかばかり外れた場所に聳え建つ

会社オフィスの入るさほど新しくもなく趣のある24階建のタワーマンションに到着して、そこで現地スタッフである中国語ペラペラ日本人留学生青年Z、カタコト日

本語デスク中国娘Yと初対面の挨拶を交わして、現地スタッフ4人が全員集合したところで、その日は3月だというのに真冬のように肌寒い部屋でひとり震えながら、

私は旅の疲れからあっという間に眠りに落ちていって、そして、ここから半年間にも及ぶ私の波乱万丈とも平々凡々とも言える上海生活のはじまりとなるのだった。

……

翌朝目が覚めても私はまだ上海にいて、自分が実際上海にいるということがまったく飲み込めずいまだに信じられなかったが、現実にその朝私は間違いなく上海にい

て、前夜は寒さのあまり夜中に何度も目が覚めてしまい、無理な体勢でのぞけば不揃いな団子が近未来的に串刺しにされた造形の上海のシンボルタワーの片鱗を望む

こともできる、まだカーテンの付いていない小さな窓から差し込む夜の光によってかろうじて真っ暗闇ではない部屋のベッドの上で、何だかよく知らぬアニメキャラ

クターらしきファンシーな絵が装飾された安布団に包まり震えながら、自分が一体全体今どこにいるのか夢うつつの状態で何だかぼんやりとよくわからなかったが、

朝目覚めると私はたしかに上海にいた。それから寝ぼけ眼のまま部屋を出てユニットバスへと向かい服を脱ぎシャワーの蛇口をひねるとお湯がまったく出て来ず全身

に冷や水を浴びせかけられ早くも中国という国のインチキ臭さの洗礼も同時に浴び完全に目が覚めてしまった状態で生まれたての仔羊みたいにプルプルと震えながら

かじかんだ指で何とか身繕いを済ませ5階のオフィスへ降りて行くと、すでに他のスタッフたちは集合しており、プロデューサーKが、昨夜はよく眠れたかい?と尋ね

てきたので、私は、寒くて夜中に何度も目が覚めた、と答え、さらに、シャワーのお湯が出ませんでしたよ、もうのっけからとんだ目に遭って何とも先が思い遣られ

ますね、お陰様でいい目覚めになりましたがね、と皮肉まじりに続ければ、それは災難なことだったね、僕の部屋はちゃんとお湯出るけどね、まあそのうち暖かくな

るからそれまでの辛抱だよ、とプロデューサーKはのんきに答えて、私はシャワーのお湯が出ないことも辛抱しなければならぬのかと不満に思いながらもいい加減な返

事をして、最初の1ヶ月くらいはまだ仕事も忙しくならないだろうからのんびりと気楽に上海の生活に徐々に慣れていくといいよ、何しろすべてがパッチグーのオール

オッケーのドントマインドなんだからさ、と前にも言ったことをプロデューサーKは繰り返し、またしてもたった1ヶ月の先輩風を吹かしはじめたが、私は話の通じな

いプロデューサーKの鈍感さにイラつきながら、何だか他人の家にいるようにまだ慣れず腰の落ち着かぬ自分のデスクでただぼんやりと寒さに震えるばかりであった。

……

現地スタッフである中国語がペラペラな日本人留学生の25歳の青年Zとは年齢も近いせいか、父親ほども歳の離れたプロデューサーKよりは割りかしすぐに打ち解け、

仕事以外でも大体いつもベッタリと行動を共にし慣れない上海生活でのコツや中国語やオススメの店や悪い遊びなど色々と教えてもらい大変世話になった。この中国

語ペラペラ青年Zは、中国の京都大学とも呼ばれる某F大学の当時4年だったと思うが、大学にはほとんど通わずほぼ休学状態のまま会社の仕事に専念しており、もし

かしたら大学は辞めてしまうかもしれぬとも言っており、関東地方出身で父親は離婚したか亡くなったかで母一人子一人の家庭に育ち、中国に何かしら縁のあった祖

父の勧めで中学を卒業するとすぐ思い切って高校から中国に留学し10年になり今では現地人並みに中国語がペラペラで、前述の通り、半年前か数ヶ月前まで某業界大

手TV-CMプロダクション(頭文字A)の元役員だったプロデューサーが上海に設立したCMプロダクションで働いていて、これまた前述の通り、その会社は社長であるプ

ロデューサーが日本に妻がありながら現地のカラオケパブの中国人美人ママに入れ込み愛人として囲ってウッハウッハでジュッポジュッポの酒池肉林なラブアフェア

にうつつを抜かしている間に部下の社員である腹黒い悪徳中国人プロデューサーにまんまと好き勝手放題やられてトラブルになった挙句の果てに大失敗やらかし莫大

な借金背負い込み潰れてしまったため、仕方なしにフラフラしていたところを今回たまたまタイミングよく声を掛けられたようで、プロデューサーEからは無口な青

年と聞いていたが、それはただ偉い大人たちの前では猫を被って大人しくしていただけであり、次第ににメッキが剥がれてきて、実際はかなりガツガツした積極的と

いうか強引でガサツな性格で、体つきも巨漢とまではいかぬが結構ガチガチムチムチ系で貫禄もあり、自分の都合の悪いことは一切翻訳せずに都合良く自分勝手に話

を進めていくなど時折狡猾な腹黒い本性を滲み出し漂わせてもいたものの、基本的には決して生粋の悪人ではなく、15かそこらで上海くんだりまでやって来た日本人

の若者が一人で生き抜いて行くにはそれくらいタフでなければ中国ではやっていけないという証左なのかもしれなかった。彼はオフィスに併設するワンルーム(10畳

ほどの広さでユニットバス付き)の部屋に居住しまさにオフイスの番人みたいな存在であり、中国語がまったく話せず金に滅法だらしがないプロデューサーKに代わり

現地での会社関係の交渉や金銭の管理はすべて彼が任されていた。彼には中国人の友人は多いが日本人の友人は少ないためか、私とは歳の離れた友達か兄弟みたいな

良好な関係を少なくとも上海にいる間だけは続けることができて、実際に仕事でもプライベートでも何をするにもどこへ行くにも私は青年Zと行動を共にしていた。

……

カタコトの日本語を操るデスクの中国娘Yは、私が現地で初めて直接接した中国人女性となるわけだが、松浦亜弥(あやや)という日本の有名アイドル歌手にそっくりと

までは言わぬが結構似ていて、あややを少しふっくらずんぐりむっくりちんちくりんにさせたような22歳の性格の良い田舎娘であり、上海にやって来る前から暇さえ

あれば中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアを夢想し、いやむしろそれだけを唯一の目的としてはるばる上海へとやって来たと言っても過言でない私の欲望に歪

んだ野獣のような目で見ても、彼女は性的にはまったくそそらず欲情しないタイプの小姐(中国語でお姉さん)であり、つまりはチンピクしないため、またチンピクす

る兆しもまったくなさそうなため、残念ながら私の上海における中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアの有力候補とはなり得ず、早々にその対象候補リストから

は外されることとなり、私は少しばかり拍子抜けがしたものだった。また仕事の要領も悪く失敗の連続で青年Zに叱られて泣いてばかり、お世辞にも頭はそれほど良

くはなく(つまりバカ)、日本語学校に通っているにもかかわらずいつまで経っても日本語はさっぱり上達せず(つまりバカ)、いつも我々二人の間ではカタコトの日本語

とカタコトの中国語と時々英語や身振り手振りを交えたトンチンカンな会話が繰り広げられたが、かろうじて円滑なコミュニケーションが保たれていたように思う。

……

24階建タワーマンションの最上階にあるプロデューサーKと私が住む部屋は5階にある会社のオフィスとまったく同じ作りをしており、正面玄関を開けるとまずオフィ

ス用のとにかくだだっ広い無味乾燥な30畳ほどの空間があり、その横にキッチン冷蔵庫洗濯機ユニットバスと4畳半ほどの小部屋(会議室)が併設され、さらにその奥に

オフィス空間とはドアを隔てた居住用空間として10畳ほどのユニットバス付きワンルーム(5階オフィスで言うところの青年Zが居住していた部屋にあたる)とに分かれ、

当初はプロデューサーKにその居住用空間を、私にオフィス併設の4畳半ほどの小部屋(会議室)が自室としてそれぞれに割り当てられたが、私が自室としてあてがわれた

4畳半ほどの小部屋は元々オフィスに併設のただの会議室に過ぎず、ユニットバスへは一旦自室から出てオフィス用のだだっ広い30畳ほどの空間を経由し向かわなけれ

ばならず、住居用の部屋としては甚だ使い勝手が悪く、狭苦しく、おまけに鍵すらもついてはおらず、セキュリティの面でも万全とは言えず、たしかに上海に来る前

に聞いていた話の通り住居はきちんと確保されているとはいえども、まるで召使部屋に無理やり押し込められているかのようなぞんざいな扱いにも見え、私はそもそ

もの初めからそれを相当不満に思っていたものだが、またオフィス用のだだっ広い30畳ほどの空間も自由に使用してよろしいと言われてはいたものの、そのオフィス

部分はキッチンなどと同じく共用の空間であり(いわゆるシェアハウスのラウンジみたいなのを想像してもらえばよいか)、プロデューサーKも自由に行き来することに

なるため、こちらもプライベートな空間が確保されているとは到底言えず、それにさしあたって私には何らの使い道も考えられず(もしかしたらエアロビクスダンス教

室でもはじめればよかったのかもしれぬが)、ただ誰の目も気にせずに安心して生活ができるプライベートな空間を欲していた私としては何とも落ち着かず、具体的に

は、例えば、私が自室から風呂に入るためユニットバスへと向かい風呂上がりに素っ裸もしくはタオル1枚腰に巻いた状態で自室に戻る際に、たまたま冷蔵庫のビール

を取りに来たプロデューサーKと偶然鉢合わせをし、そのあられもない姿をバッチリと拝まれてしまう可能性がなきにしもあらずというわけであり、それくらいは男同

士なのだから裸の付き合いで我慢しとけ、むしろバッチリ見せ合っておけ、たまに握り合っておけと言われるかもしれぬが、生来私は細かいことが異常に気になる繊

細で敏感な性質でもあり、プライベートな空間がしっかりと確保されていなければまったく落ち着かず、それではプライベートは完全に確保されるから心配するな、

すべてがパッチグーのオールオッケーのドントマインドだと最初に聞いていた話とくい違ってきてしまうことになり、まったく納得がいかぬも、まあ3ヶ月の辛抱だと

自分に言い聞かせてしばらくは文句も言わずに大人しく暮らしていたものだったが、ある時、真夜中に泥酔したプロデューサーKが共用部分のキッチンにある冷蔵庫に

ビールを取りに行った帰り道に、何を血迷ったものか、いきなり鍵のついていないドアを開け私の部屋に闖入して来て、襲われるのではないかと一瞬身構える私に、K

は、あれれれ、なんであなたがここにいるの?とボケたことを吐かしてきて、なんででいるのかって、ここは自分の部屋だからですよ、何言ってるんですか、ボケち

ゃったんですか、Kさんの部屋はあっちでしょ!と私がイラつきながら部屋から追い出すと、Kはまだ釈然といかぬようなポカンとしたマヌケ顔のまま、あれれれ、そ

うだったっけかなあ、おかしいなあ、おかしいなあと何度もぶつぶつ首を捻りながら千鳥足で自室へと引き返して行ったこともあって、徐々に私は自分にあてがわれ

た甚だ使い勝手の悪い召使部屋に対する不満が募っていき、もうこれ以上は我慢ができなくなってきてしまったところで思い切ってプロデューサーKに、外でも狭くて

も遠くても臭くても何でもかんでも構わないからきちんとプライベートな空間が確保できるユニットバス付きの部屋をどこかに新たに借りて私にあてがってくれない

かとぶつけてみると、プロデューサーKは渋々ではあったが素直に部屋の交換を申し出てくれて、そして実際我々二人は部屋を交換し、私のほうはこれで万事快適パッ

チグーのオールオッケーのドントマインドで無事にプライベートを確保することができるようになったものの、逆に今度はプロデューサーKのほうが納得がいかずパッ

チグーのオールオッケーのドントマインドではなくなってしまったに違いなく、この一件により我々二人の間にわだかまりが生じて、それはいつまでもしつこく残り

続け、私も上海に来て早々に不満を抱くことになるとは思いもよらず、こんなことではこの先も何かと思い遣られるのではなかろうかと不安になるばかりであった。

……

そもそもプロデューサーKと私は正直あまり相性が良いとは言えず、加えて私は生来誰とでもすぐに仲良くなれるような社交的タイプの人間では決してなく、結局最

後まで互いに親密な信頼関係を築けることなく最悪の結末を迎えてしまったことが今振り返って少しばかり残念に思うところであるけれども(詳細は後述する)、プロ

デューサーKは普段は東條英機のパチモンで貧乏臭いとはいえ基本的には至極温厚でまじめなおっさんなのだが、酒を飲むと途端に豹変しベラベラペラペラよくもま

あと感心するくらいによくしゃべった。大抵は広告屋のおっさん特有のバブル時代に甘い汁吸いまくった自慢話や与太話であり、中南海をひっきりなしにプカプカと

ふかしながら嘘か実かわからぬような眉唾物語をベラベラペラペラと延々しゃべっているうちに自分でも何が嘘か実かわからなくなってしまうようで、そのうち目が

虚ろになってしどろもどろになってきて、最後はフラフラになりながら這々の体で部屋に帰るとそのままベッドに倒れ込むように眠ってしまうといったもうすでにア

ルコール中毒のような症状も現れていて、さらにプロデューサーKの場合は、アルコール中毒に加え、昼間もコーヒーを何十杯も湯水のようにがぶ飲みするカフェイ

ン中毒でもあり、さらにタバコもひっきりなしに吸いまくるニコチン中毒でもあり、つまりアルコール、カフェイン、ニコチンの3大毒に冒されて、それらの過剰摂

取とその相乗効果の荘厳なハーモニーにより脳味噌がほとんど正常には機能しておらず、違法な薬物に手を出さないだけまだマシとはいえども、もうほとんど人間的

には崩壊しかけた、つまり廃人寸前の抜け殻状態と言ってもよく、アルコール、カフェイン、ニコチンの3大毒の過剰摂取がもたらす束の間の虚しい高揚感により、

己の過去の失敗や転落や不甲斐ない現実から目を背け誤魔化しながら何とか息だけはしている、それはあたかも緩慢な自殺を試みているようにも私の目には映ったも

のだった。プロデューサーKが酔っ払って繰り返すバブル時代の思い出話のレパートリーはほぼ決まっていて、前述の通り、赤坂にある某業界最大手TV-CMプロダクシ

ョン(頭文字T)時代に手掛けた己の一世一代の代表的仕事であるところの某ビール会社(頭文字A)の超有名看板商品CMシリーズ(村上龍やジーン・ハックマンや落合信彦

が出演)の話であり、落合信彦にはその後も本が出る度に献本してもらっていたが、最近は彼もすっかり落ちぶれてしまって本を贈って寄越さなくなったと、でもそれ

はプロデューサーKのほうこそが金のだらしなさが原因で某業界最大手TV-CMプロダクション(頭文字T)の役員を解任された上に会社を追い出され落ちぶれて見限られ

てしまったからに他ならぬのではないのか、などと青年Zは陰口を叩いていたが、そんなことには思いも馳せず中南海をひっきりなしにプカプカとふかしながらビール

片手にのんきにせせら笑っているのだった。また、ある時など、かつてはすべての大陸に愛人が3人ずついて、年がら年中ペニスの先が乾く暇がなかった、世界中の女

とペニスで国際交流をしていた、歳をとるにつれてペニスの角度と硬度が徐々に衰えていくのがカサノバ/ドンファンの自分としては無性に哀しく切ないことだったと

も豪語していたが、実際には世界各地で娼婦を買いまくっていただけの話に過ぎぬのではという疑念も拭えぬだろう、それに南極大陸にも愛人が3人いたのだろうか、

愛人とはペンギンとアザラシとシャチのメス3匹ではなかったのか、などと青年Zはまたしても陰口を叩いていたが、それもさもありん、なぜならば東條英機をこぢん

まりとしょぼくれさせ威厳をまったくなくし貧乏臭くしたベビーモヒカン頭のチョビ髭の小男であるプロデューサーKにカサノバ/ドンファン的な器があるようにはと

てもじゃないけれど見えなかったからに他ならず、また、ある時など、夕食後に立ち寄ったバーでたまたま出会った現地で働く若い日本人カップルと歓談中、彼らが

もうすぐ結婚する予定であると知るや否やプロデューサーKは青年Zにこっそり耳打ちし花束を買ってくるよう命じるなど、東條英機のパチモンにしてはたしかにキザ

なロマンティストの一面もあり、それが却って鼻につくこともあったが、おそらくプロデューサーK本人は酒を飲み酩酊状態にある時だけは自分が相当イケている(イ

ケていた)バッチグーのオールオッケーのドントマインドなカサノバ/ドンファンだと本気で錯覚している節もあり、グラスの氷をカランと傾けウィスキーの美味さにつ

いての蘊蓄をキザに語り目を細め陶酔に浸るカサノバ/ドンファン気取りのKは、24階のだだっ広い30畳ほどのあのオフィス空間をゆくゆくはおしゃれなバーに改装し

上海中のクリエイターやモデルたちがわんさか集まり最先端の情報を交換し合えるような文化サロン的空間にしていきたいなどと熱き夢を語ってもいたが、私が上海

にいた半年間そこはずっとただだだっ広いだけが取り柄の無味乾燥な空間のままであり、それは酒と金に溺れ破滅に向かってまっしぐらに堕っこち続ける転落人生を

着実に歩みつつあるプロデューサーK本人の心をそのまま映し出した空虚な空間のようにも見えるのだった。また、プロデューサーKは北九州出身で父親がかつてY製

鉄所に勤めていた生粋の九州男児でもあり、マルタイ棒ラーメンは海外ロケの際に必ず携帯し、これさえあればどこでだって生きていけるタイ!(もしくは生きていけ

るバイ!もしくは生きていけるケン!だったか忘れたが)、これさえあればバッチグーのオールオッケーのドントマインドだと嘯き、さらに酔っ払って口が軽くなった

KはプロデューサーEのことを、己の金のだらしなさはすっかり忘れてしまったかのように棚に上げて、Eは金の匂いにだけはとにかく敏感で金に汚い調子のいい出鱈目

なおっさんであり、超有名演歌歌手Sをまんまとダマくらかし金を出させて結局失敗に終わったポストプロダクションスタジオ事業のことを失敗したのにもかかわらず

いまだに過去の己の一世一代の実績として自慢話にしているとんだ大バカ野郎だともせせら笑いし、さらに前述の通り、江古田にある某芸術大学の同窓でもあるEのこ

とを、学生運動をやっていて途中で逃げ出した卑怯なヘタレだと中南海をひっきりなしにプカプカとふかしながらビール片手にEのことを親の仇と目の敵にして散々口

汚く罵ってもいたが、何でも青年Zに聞くところによれば、金に滅法だらしがなくそれが原因で赤坂にある某業界最大手TV-CMプロダクション(頭文字T)を追い出された

黒い過去を持つプロデューサーKには上海での金の管理は一切任せてはならぬとプロデューサーEからも口を酸っぱくしてキツく言われていたようで、実際Kは会社に

おける現地での代表的立場にあるにもかかわらず金を一銭たりとも(中国通貨で言うと一毛たりとも)自由にすることはできず、どうやらそれを根に持っての発言らしか

ったが、経営者であるプロデューサー同士が互いに信頼関係の欠片もなくバカにし合っているような会社が果たして成功できるのだろうかと私はまたしても一抹の不

安を抱きつつ、この先一体どうなることやらとまるで他人事のように心配していたものだった。さらにプロデューサーKは、私に気を遣ってか、先輩風を吹かせマウン

トを取りたいからか、自分もまだまだ初心者のくせして私を頻繁に上海案内に連れ出しては食事を一緒にし家族同然のように振る舞うことを心掛けていたものだが、

それが徐々に私には鬱陶しく思えてきてしまい、また、ことあるごとに、酔っ払ったプロデューサーKは、私と青年Zに対して、自分のことを父親だと思ってくれたら

いい、何ならお父さんと呼んでもらっても構わない、オヤジでもパパでもファーザーでもダディでも何でも構わない、何しろ僕らはもう家族同然なんだから、世界は

一家人類は皆兄弟、もうすべてがバッチグーのオールオッケーのドントマインドのノープロブレムであるから、大船に乗ったようなつもりでいなさいと、キザなセリ

フを口にしてもいたが、そもそも私から見てプロデューサーKには父親としての威厳や貫禄や信頼感が何一つ備わっているようには見えず、まったく敬意を抱くこと

などできず、私は失礼ながら、この酔っ払いのおっさんは自分の父親には到底なり得っこないな、家族ごっこなど誰も望んでいやしないのにまったく傍迷惑な話だよ

と、日本にいる私の本当の父親の出発前の例の手紙を思い出しては、日本にいる家族たちはみんなそれぞれ元気でやっているのかな、あなたたちの親不孝な出来損な

いの穀潰しのろくでなしの放蕩バカ息子は今こうして上海の空の下で東條英機のパチモンみたいなまったく頼りにもならぬただの酔っ払いのカサノバ/ドンファン気取

りのおっさんとどうにかこうにか元気に頑張っておりますよと面と向かっては決して言えぬだろう言葉を胸に抱き、ほんの一瞬間、郷愁にかられもするのであった。

……

中国という国は東西南北にだだっ広い国であり、日本人から見た典型的な中国人はもとより、東南アジア系の浅黒い人種、ロシア系の色白な人種、西方トルコアラブ

系、北方モンゴル系、東方コリアン系まで、とにかく多種多様な人種が街を行き交い、片田舎から一生に一度は大都会上海へとはるばる一家揃って観光に訪れたと思

しき貧乏臭い家族連れも多く、中国という国が多民族国家であることを私は上海に来て早々に理解したものだが、上海の街は、中国は黄砂や大気汚染が酷いという私

の勝手な思い込みから空気が汚れているような気も若干したものの、地震が少ないためか、現代的な建物と古めかしい歴史ある建物とがちょうどいい塩梅で共存し、

映画『ブレードランナー』を彷彿とさせる近未来的高層ビル群もあれば、常に生ゴミの臭いが漂う汚い路地裏もあり(まあこれは日本も同じか)、大通りは綺麗に舗装整

備され、その側道を(どこで売っているのやら)例のゴツい黒い自転車に乗った中国人たちが列をなして先を急ぎ、それは昔教科書で見たことのある自転車でマラソンス

タートしているような雰囲気では全然なかったものの、とにかく次から次とひっきりなしに忙しく、中国に来て10年になる青年Zなどは「こいつら一体どこに向かって

走ってるんですかね、もしかして政府から金もらって一日中自転車で街を徘徊するように命令されてるんじゃないですかね」と露骨にバカにしていたが、それを話半

分に聞き流しながら、中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアを第一の目的としてはるばる上海へやって来たといっても過言でない私は、街ですれ違う中国人女性

たちを片っ端からいやらしくねちっこい目付きで無遠慮に舐め回し、その候補者選びに余念がなかったが、実際に酒池肉林なラブアフェアをしっぽりと是非ともお願

いしたくなるような中国美女と呼べる女性にはなかなかお目にかかれず、みんな全体的に日本人の女性とほとんど変わらぬ最先端のお洒落なファッションに身を包ん

ではいるものの、どことなく田舎臭いというか芋臭いというか貧乏臭いというか小便臭いというか、つまり垢抜けてないというか何というか、会社デスクの中国娘Y(チ

ンピクしないあやや)と同様に、性的にはまったくそそられず欲情することもなく、中国美女たちとの酒池肉林を夢想し期待が大きかった分だけ裏切られたような残念

な気持ちも大きかったが、上海滞在中私は酒池肉林なラブアフェアの対象相手の中国美女を探し続ける努力を決して諦めることはなかった。私自身も中国人とほとん

ど見分けがつかぬ同じ東洋人であるからか、西洋の国に行った時ほどの緊張感や違和感は覚えず、余計なコンプレックスを抱くこともなく気楽に過ごせたことは大変

助かったが、昔から人が大勢いる場所が大の苦手なはずの私がなぜだか上海の人混みでは日本ほどイライラせず、おそらくそれは遠い異国の地に来ている開放感と言

葉が通じないせいではないかと思われた。上海での移動手段は基本的に徒歩かタクシーか地下鉄であり、地下鉄は市内を縦横無尽に張り巡らされ、日本の地下鉄とよ

く似た清潔で便利な快適さもあり、上海にやって来たばかりの3月は真冬のように寒くて寒くて正直やり切れなかったものの、4月に入ると徐々に暖かくなってきて、

晴れた日などは特に外を散歩するのがとても気持ちよく、また上海中心地はそれほど広くもなく、私はできるだけたくさんの外の景色や中国美女たちを眺めたいがた

めに、極力徒歩で移動することを常に心掛けていたものだった。街にはベンツを乗り回す新興の成金もいれば、路上でゴミを仕分けする乞食もいて、貧富の差が激し

く、時々明らかに日本人だとわかる観光客と街ですれ違うと、目が死んでいるから日本人だとすぐにわかり、一方の中国人たちは貧乏臭さを漂わせながらも目がギラ

ギラと光り輝き全身に貪欲さがみなぎり、それはまるで昔の高度成長期の日本を彷彿とさせ、そのうち日本など中国に追い抜かれてしまうのだということを私は現地

にいて肌で実感し、以前にバブル脳患者であるプロデューサー連中が、これからは中国の時代だ!と浮かれ上がっていたのも無理もない話だと思われたが、それと同

時に中国という国全体に漂う少なからぬインチキ臭さにも私は早々に気づいてもいたものだった。日本や海外の有名な企業もすでにたくさん進出して来ていて、街に

は(共産主義国であるにもかかわらず)、ローソン、ファミマ、吉野家、マクドナルド、スタバ、伊勢丹、ユニクロが何らの違和感もなく存在し、スーパーやコンビニの

棚には、アサヒスーパードライ、サントリー烏龍茶、日清カップヌードルなど日本商品も並び、さらに日本のヤクザもとっくの昔に進出して来ているようで、上海で

日本人相手のキャバクラを経営しているとか、某暴力団事務所が入居すると噂されるビルも実在し、大通りを飾る看板や広告は日本とほとんど変わりなく、世界中ど

こに行っても大衆の欲望を無闇に煽り無駄金を使わせることが主目的である広告という仕事は存在し確実に需要があるのだということを、自らも広告屋の端くれであ

るという多少の後ろめたさとともにあらためて実感し(それは性風俗産業が世界中どこにでも存在するのと同じことでもあり)、当時2004年の中国の全人口は約13億人、

中国で成功するということは、莫大な儲けになることを意味し、たしかに壮大なロマンがあり、どでかい夢のある話でもあり、輝ける未来があり、またしても私は、

これからは中国の時代だ!と浮かれ上がって喚き散らしていたプロデューサー連中の『中国上海夢物語』を思い出し、彼らの金に対する嗅覚の鋭さに苦笑しつつ、言

葉が通じぬこと以外は特に日常生活に不便を感じることも少なく、不便といえば、女性関係、つまり中国美女との酒池肉林なラブアフェアの相手探しくらいのもので

あり、ただし繰り返すが、全体的に見れば中国という国はたしかに貧乏臭く、そして何よりもインチキ臭いハリボテ感が漂うインチキ大国であり、同じくインチキ臭

い私にとっては頗る居心地よく感じられたとはいえ、それにも限度というものがあり、特にこの過度なインチキ臭さに私はしばしば閉口させられ、例えば、相手が中

国語が通じないことがわかってもさらに煽って、中国語がわからないなんて考えられないといったふうに中国語でさらに捲し立ててきたり、こちらが中国語がわから

ないとわかった途端に値段を10倍くらい釣り上げてふっかけてきたり(街角のおかず屋でご飯一人分パックは通常は日本円で10円なのに100円ぶん取られたり)、街の中

心地には扱う商品すべてが偽物だらけの巨大な偽ブランドパチモン市場まで堂々と存在し、大勢の観光客でごった返し、シャッチョサン、ミルダケ、オニイサン、ミ

ルダケ、トモダチ、ミルダケ、ヤッスイヨ、トモダチ、シャッチョサン、ヤッスイヨ、トモダチ、ミルダケ、と道ゆく日本人観光客に声を掛けていたりなど、中国人

の商魂の逞しさに私は常に圧倒され舌を巻いていたものだが、そんな私も習うよりも慣れろの精神で上海に半年間滞在し日常生活を送っているうちに、青年Zの助け

もあり次第に中国語にも自然と慣れていき、日常の移動や買い物などにはまったく困らなくなり、挨拶、数字、はい、いいえ、その他代表的な単語とハンドサインや

手振り身振りだけで無理やり押し通し、やがては携帯メールで中国語で簡単なやり取りもできるくらいには中国語に馴染んでいき、例えば、ある夜など、暇にまかせ

てカタコト日本語デスクの中国娘Y(チンピクしないあやや)に「今夜は部屋で一人寂しくオナニーでもして寝ることにするよ」という意味の中国語でセクハラ紛いなメ

ールを送れば、すぐさま「加油!」と返信が来て、この時、中国語で「加油!」とは「がんばって!」を意味することを私は初めて知りまた少し賢くなるのだった。

……

上海での普段一日のスケジュールは特にかっちり決まっていたわけではないが大体こんな感じであった。平日は朝起きて10時くらいに24階の自室から5階のオフィス

へ降りて行き(通勤がエレベーターのみで頗る便利だった)、自分のデスクでコーヒーを飲んだりメールをチェックしたりダラダラと仕事をして過ごし、昼はご飯とお

かずを外で買ってきてもらい会議室で皆で分け合って食べることが多く(日本円で一人100円も出せば腹一杯食べられた)、午後も引き続きダラダラと仕事をし、夜はカ

タコト日本語デスク中国娘Y(チンピクしないあやや)は定時に帰宅し、それ以外のプロデューサーKと青年Zと私の3人で外へ食べに行くか、それぞれ別々に食べるか、

その時々の予定や気分により臨機応変で、会社の近くにある行きつけの2000円ポッキリ時間無制限飲み食べ放題の居酒屋風の店で食べたり、日本のいわゆる町中華

(中国にあるからこの呼び方は少しおかしいか)で食べたり、食事の味は特別おいしくもなければ不味くもなく可もなく不可もなく、食べられぬほどではないが特に美味

くもなくと言ったところで、あらゆる料理が同じ料理でも日本の味とはどこかしら微妙に違っていて、それは上海浦東空港に降り立った時に漂ってきた異国の香りで

もあり、私はまさにこれこそが中国の香りだなと直感的に思ったものだが、おそらくは中国独特の調味料の香りだと思われ、何となくそれは漢方薬っぽい香りのよう

でもあり、もしかしたらそれは上海に滞在している私の脳味噌が勝手に作り出し無理やりに私にそう感じさせる幻味(幻覚)であったのかもしれなかった。また上海は硬

水なので生水は飲めず(飲むと腹をこわすらしいが普通に料理に使っている店もあり)、基本的に飲み水は金を出して買うものであり、独特な風味のする美味くも不味く

もない中国料理に飽きると私は、日系の弁当屋や定食屋(日本料理は概ね高い)や、スーパーで冷凍食品を買ってきてレンジでチンして食べたり、吉野家で牛丼を食べた

り、マクドナルドでハンバーガーを食べたり、スタバでコーヒーを飲んだり、ローソンでおにぎりや日清カップヌードルを買ってきて会社で食べたり、中国でも大人

気なサントリー烏龍茶には、日本で売られている無糖のものと中国限定の砂糖入りのものと2種類あって、間違えて買って初めて飲んだ砂糖入りのサントリー烏龍茶

は砂糖入りの紅茶にどこか味が似ていてそれほど甘過ぎず個人的には大いに気に入り、烏龍茶の本場中国でもシェアを獲得できてしまえるサントリーの商魂に感嘆し

つつ、日本でも砂糖入り烏龍茶を発売すればいいのにと思いながら愛飲していた。上海滞在中は平日も休日もほとんど区別がなかったが、土日も大体昼前に起きて24

階の自室から5階のオフィスへと降りて行き自分のデスクでコーヒーを飲んだりメールをチェックしたりのんびりダラダラと過ごし、仕事以外の時間は、犯罪や麻薬

や車の運転を除き基本的には何をやってもどこへ行っても誰と遊んでも自由であり、一人で散歩に出かけたり、近所のスーパーに買い物に出かけたり、街のあちらこ

ちらの路上で1枚100円程度で叩き売りされている違法DVD映画を買ってきては部屋で一人鑑賞したり、違法DVDは途中で何度も止まってしまい結局最後まで観られな

かったり最初から観られなかったり、洋画には日本語字幕が付いていなかったり付いていても間違っていたりと結構当たり外れも多くて、その度にまったくインチキ

臭い国だと私はいちいちイラついていたものだが、ちなみに『レザボア・ドッグス』は中国語で『落水狗』『バッファロー’66』は『流氓本色』『BLOW-UP 欲望』は

『放大』『タクシードライバー』は『的士司機』『イージー・ライダー』は『逍遙騎士』『レイジング・ブル』は『憤怒的公牛』『パルプフィクション』は『低俗小

説』『マグノリア』は『心霊角落』『グッドフェローズ』は『盗亦有盗』『泥棒野郎』は『掌了銭就足包』『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』は『癩才家族』、また

黒澤明監督の『七人の侍』は字幕なしだとセリフが聞き取りづらくて(特に志村喬)イライラしながらも何とか1枚目を観終わり、これから面白くなってくるぞという2

枚目の頭から再生不能となり続きが気になってモヤモヤしたり、小津安二郎監督の『東京物語』は普通に再生できたものの、ジャケットのデザインが映画の中にはま

ったく登場してこないどこの誰だかわからぬ見ず知らずのアジア系の女性が一粒の涙を流して泣いてる顔のアップ写真で、あなたは一体どこのどなたさんどすか?と

ツッコミを入れたり、深作欣二監督の『蒲田行進曲』の原作者が「つかこへてぃ」と誤記載されていて「つかこへてぃ」って一体どこの誰やねん?とまたツッコミを

入れたり、他にも1回60分1000円程度の健全なマッサージや足ツボマッサージに行ったり、たまに青年Zと日本のスーパー銭湯みたいな施設に行き汗を流しリクライ

ニングチェアで優雅に寝そべり一晩過ごしたり、インターネットには常時繋がっていたので日本にいる家族友人知人との連絡には何らの不便もなく、たまに日本の仕

事もこっそり引き受けてメールでやり取りしたり、日本のニュースはヤフーニュースなどで日本にいる感覚でリアルタイムで知ることができ、日本ではどうやら韓流

ドラマ冬のなんちゃらかんちゃらとかいうメロドラマが大ブームになっているらしかったが、もちろん私はそんなものにはまったく興味はなかったけれども、私のい

ない日本という国で韓国のドラマが流行っているというニュースを中国の上海に滞在中の日本人である私がリアルタイムで知るという一昔前ならば到底考えられぬよ

うなインターナショナルな構図に不思議な気分になったり、あまりにもクサクサした気分になる時は、街へ酒池肉林なラブアフェア相手の中国美女を探しに出かけた

り、青年Zと連れ立って怪しげな店に鬱憤を晴らしに行ったり、ごくまれに日本映画を観た時などに日本での生活を懐かしく思い出して軽度のホームシックにかかる

こともあったものの、何だかんだといっては思っていたよりもストレスもなく気楽な上海生活を満喫しながらのんびりダラダラと過ごしており、何度も繰り返すが、

一緒にいると言葉に困らぬから頗る便利であるという理由から何をするにもどこへ行くにも中国語ペラペラな青年Zと私は行動をほとんど共にしていたものだった。

……

プロデューサーKが予言した通り上海に来てからしばらくの間はまったく仕事が入らず、取引先の広告代理店への挨拶回りや雑用ばかりの日々が続き、こんなペース

の仕事のやり方で会社として正直やっていけるのだろうかと私は他人事のように心配していたものだが、そんなことはもちろん口には出さず、流れにまかせのんびり

ダラダラと過ごし、そのうち一体全体自分は何をしに上海にやって来たのかすらもすっかり忘れてしまうほどあまりにも暇過ぎてさすがに暇疲れもしてきてしまった

が、そもそも自分がはるばる上海へやって来た当初の第一の目的とは、中国美女との酒池肉林なラブアフェアであることをはたと思い出し、それに安月給20万円也な

のだから仕事は楽に越したことはなかろうと腹を括り、お言葉に甘えましてとさらにのんびりダラダラと過ごしていた。上海に来る前までは、人生を賭けて上海に行

きそして必ずや成功を果たすのだ!自分には中国以外もう何も残されていないのだ!と血気盛んに熱く語っていたプロデューサーKは、上海に到着した当初こそ散々

私に先輩風を吹かしまくっていたものの、そのうち慣れない異国の地での生活に戸惑っているのか、本人も東條英機のパチモンであるという自覚があり中国人を密か

に恐れているのか、まるで萎びたナスの漬物か借りてきた猫みたいにすっかり意気消沈してしまって、もしかしたらプロデューサーKにはそもそもの初めからやる気

などまったくなくあれはただのポーズに過ぎなかったのではと勘繰ってしまうほどに、実際、仕事に精を出すわけでもなく、仕事をまったく取ってこようともせず、

かといって仕事以外のことに精を出すのかと言えばそんなこともなく、中国人に中国語を習うと息を巻いていたくせして、積極的に中国語を学んで中国に馴染もうと

もせず、四六時中、中南海をプカプカとふかしてはコーヒーを湯水のようにがぶ飲みし夜になればなったで酒を飲んではくだをまいてばかりいた。その後、日本のゴ

ールデンウィーク明けの5月半ば、戦地激励の陣中見舞いのため、プロデューサーEが、大出資者である大阪の某映像プロダクション(日が昇るみたいな意味の頭文字

S)の社長Nが多忙につき代わりの社員1名を伴い上海へやって来て一緒に北京ダックや火鍋を囲み、その数日間は現地スタッフの我々も観光客になったかのような饗宴

が続き、私はその時初めて本場の北京ダックを食べたのだけれども、ただ油っこいだけでさほど美味いとも思えず、北京ダックはもう生涯食べなくてもよいくらいに

腹一杯になって胸焼けがしてしまって、実際に今現在も北京ダックという言葉を見るだけで私は胸焼けがしてしまうほどである。プロデューサーKは日本にいるプロ

デューサーEに現地の状況を逐一報告している様子で、私が早々に部屋に不満を持ちプロデューサーKと部屋を交換したことをすでにプロデューサーEも知っており、

まあ色々あるとは思うけれど、我々の未来は君の肩に乗っかっているのだから、頑張ってくれたまえとヘラヘラ笑っていた。プロデューサーKは昔のツテを頼りに上

海での仕事を斡旋してもらうべく頻繁に日本にも帰国していて、Kには昔のよしみで某大手広告代理店(頭文字H)に太いパイプがあるらしく、上層部のお偉いさん経由

で紹介してもらった上海支社の日本人クリエイティヴ・ディレクターGから徐々にポツポツと仕事を回してもらえるようにもなってきた。中国のTVはCCTVと呼ばれる

国営放送局が独占しケーブルテレビのように専門チャンネルがいくつもあり、国営放送にもかかわらず企業CMが流れ(日本のNHKに企業CMが流れるようなもの)、中国

のCMは基本的に15秒だったら15秒、30秒だったら30秒、目一杯にナレーションを入れうるさく捲し立てるタイプが多く(日本のビックカメラCMやジャパネットタカタ

の通販番組に近い)、中国語なので何を言っているか正確には理解できぬも言わんとしていることは何となく伝わってきて、口喧しい女のごとくあまりにうるさ過ぎて

見ているだけでどっと疲れてきてしまい、他にも飲料系のCMは日本とさほど変わらず美しいイメージ映像をバックに美しいモデルが美味しそうにゴクゴク飲み最後に

笑顔で一言みたいな類型的なものが多く、総じてさすがはインチキ大国の中国だけにインチキ臭いCMばかりが溢れ、結局広告は世界中どこへ行っても迷惑行為以外の

何物でもなく余計な邪魔者に過ぎぬのだとあらためて私は思い知らされ、さらに、私の広告という仕事に対する積年の根本的かつ生理的な不信感不快感および嫌悪感

は、たとえ中国に場所が移ったとて、結局世界中どこへ行っても拭うことはできぬことを痛感するばかりであり、中国の広告業界で成功したいという野望も私には微

塵もなく、でも上海での仕事の成果を何かしら残しておきたいとだけは何とはなしに思ってはいて、さもなくば何のために上海に行っていたのかと誰かに真面目に問

われた時の建前上のカモフラージュの回答として、まさか中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアが主目的だったと真っ正直に答えるわけにもいかず、また、当時

の私はまだ絵を描きはじめてはおらず、自分のこれから先の未来がどうなって行くのか皆目見当もつかず、この先何をなすべきかもわからず、いや、やらなければな

らぬこと(藝術家を目指すこと)はきちんと頭でわかっていても、何をどうしてよいものやら実際行動に移せずもがき苦しんでいる真っ只中にあり、日本にいたならばお

そらくすぐにでも嫌気がさしてきてしまったことだろうが、何度も繰り返すように、私は上海へは中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアを第一の目的として来て

いたわけであるからして、仕事は仕事と割り切り、上海での仕事の中身の質に対しては正直何らの期待もしておらず、ただ向こうからたまたまやって来て与えられた

だけの仕事を何らのやり甲斐も見出せぬまま主体性の欠片もなく言われるままなすがままロボットや売春婦のごとく虚しく淡々とこなしているに過ぎなかった。そん

な具合に上海での仕事を淡々とこなすうちに、月日も淡々と過ぎて行って、そして、気がつけば当初の契約3ヶ月が満了する5月末がもうすぐそこまで近づいていた。

……

そこから突如暗雲が立ち込めてきた。それは何となく予想していたことでもあったが、やはり来たかといったところの金にまつわる問題であった。上海に来てから現

地での私の報酬である月収20万円也は毎月末に青年Zからその時の換算レートの現地通貨を手渡しでつつがなく支払われていたが、ある時、雑談の流れから、プロデュ

ーサーK、青年Z、私の3人で月収の話になり、前述の通り、私は上海行きを持ちかけられた当初プロデューサーEから聞いた月給20万円也という金額に関して、一人の

人間を1ヶ月間海外に拘束し仕事に従事させる報酬としては、現地の物価などはまったく関係のない話であって、どう考えても安過ぎるのではないかと正直納得がいっ

ていなかったものの、プロデューサーE曰く、当初は我々プロデューサーたちも月給20万円也で皆平等にいくつもりであり最初は安月給で我慢するのが当然であると力

説され、皆同じ月給20万円也ならば致し方ないかと渋々承諾したわけだが、それはまったくの出鱈目でプロデューサーEの口から出まかせの嘘八百だったことが判明し

たのだった。よくよく確認してみれば、たしかに現地スタッフの月収はプロデューサーK、青年Z、私の3人共々皆平等に月収20万円也であったが(デスクの中国娘Yはお

そらくその半分以下)、プロデューサーKに限っては現地での月収20万円也とは別にさらに日本でも月収20万円也を追加で支払われているらしく、つまりプロデューサ

ーKは月収20万円也+月収20万円也=合計40万円也となるわけで、それだと当初に私が聞かされていた話とは違ってきてしまい、話が違うのではないかとプロデュー

サーKに詰め寄れば、Kは私に、そんな話は自分も今初めて聞く話であり、そもそも年齢や経歴や役職など立場により報酬が違ってくるのはどこの会社でも当たり前の

ことであると返してきて、私も、それはまったくもってその通りなのだけれども、それは百も承知の上でやはり最初に聞いていた皆平等に月収20万円也という話とく

い違ってきてしまうために納得がいかないとしつこく食い下がれば、それはプロデューサーEが勝手にあなたに話したことであり自分には一切関係がないとまた返して

きて、さらには、当初プロデューサーEは現地でのCMプランナーの選定にあたり私に白羽の矢を立てたその理由として、この人物(私のこと)ならば金に関してはまった

く文句は言わない(バカな)人間であり、こいつ(私のこと)ならタダでもホイホイ喜んで犬みたいに尻尾振って上海へ行くよ(何しろ世間知らずのバカだからね)」とも吹聴

していたと続けたため、私は騙されていた上にバカにされコケにまでされていたことに対して怒りが心頭に発してしまって、人を一体全体何だと思っているのだ、自

分は奴隷や犬やロボットなどではなく一人の人間なんだぞ、一人の人間が決死の覚悟で(実際はそれほどでもなかったが)人生を賭けてはるばる上海までやって来ている

というのに、その気持ちを勝手に弄び蔑ろにするのは人としてはいかがなものであろうかとプロデューサーKに対して声を荒げて詰め寄ると、私の剣幕に慄いたKは、

あなたの言わんとすることはもっともな正論であり、わからなくもないけれど、何度も言う通り、お金の問題には自分は一切関知していないので何と言っていいかわ

からないと繰り返し、その後、結局プロデューサーKからプロデューサーEにその発言の真意について確認してもらう運びとなり、それに対するEの答えは、自分はそん

なことは言っていない、断じて言った覚えなどないとしらっばっくれ、確かにそう聞いていた私はさらに怒りが増してきてしまい、その後Eと直接国際電話で話し合う

ことになってもまだ、そんなこと自分は言っていない、聞き間違えたか夢でも見て寝ぼけていたのではないのかとヘラヘラとシラを切り通し冗談に紛らわせてうやむ

やに誤魔化そうとするものだから、たしかに中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアを夢見て寝ぼけていたことは事実であったが、たしかにこの耳でプロデューサ

ーKも月収20万円也で皆平等と聞いていた私はとうとう電話越しにプロデューサーEに対してブチ切れてしまい「寝ぼけてんのはそっちだろうが!ふざけんな!舐めて

んじゃねえぞ!」と一喝し電話を一方的にガチャリと切り、その後Eからもう一度私と直接きちんと冷静に話し合いたいと何度も電話をかけてくるのを一切拒否し続け

て、その時点で私とEとの関係は完全に決裂する結果となり、爾来、私はプロデューサーEと直接話す機会を持つことは二度となく、それどころか、もう二度と会うこ

ともなく、すべての話はプロデューサーKを通して進めていくこととなるのだったが、その後に青年Zに聞いた話によれば、私に罵倒されたプロデューサーEも怒り心頭

に発してしまって、私のことを、雇われの身のプランナーごときが生意気な口をききやがって、舐めてんじゃねえぞ!と散々罵っていたようだが、この一件に関して

はプロデューサーKも青年Zも一貫して私に対し同情的な立場で味方についてくれて、おそらくそれは前述の通り、金にだらしがないため金の管理を一切任されずに蔑

ろにされていたプロデューサーKもプロデューサーEに対しては常日頃からかなりの不満を抱いていたためであるのと、加えて、この一件をきっかけにして会社内での

主導権をプロデューサーEから奪取し少しでも優位な立場に立ち、できれば現地での金の管理の主導権も握りたいと目論んでいたためであると私は推測するところだ

が、客観的に見ても誰が見ても私が騙し討ちに遭って上海に奴隷のごとく連れて来られたみたいなあまりにえげつのない酷い話であったため、ただ単に上海の父親と

して息子の私を哀れに思っての行動だったのかもしれなかった。そして、この一件をきっかけにしてその後もなぜだか知らぬが、まるで疫病神に取り憑かれたかのご

とく私の身には災難が続き、プレゼンボード制作作業中ぼんやりして左手親指の先端をカッターで3mmほど切り落とし大量の血が噴き出るわ、携帯電話をタクシーの

車内に忘れるわ(結局後に見つかる)、ある日突然私の自室のドアが内側から開かなくなり半日部屋に閉じ込められてしまい、この時は青年Zと連絡がつかずプロデュー

サーKの携帯電話に連絡し外からドアを蹴破って助けてもらい事なきを得るなど(助け出された瞬間だけはKのことが映画『ダイハード』のブルース・ウィリスのように

頼もしく思えたものだ、ついでに髪型もちょっと似てる)、やがて当初3ヶ月の契約期間が切れる5月の終わりが目前となり、私自身は、まるで奴隷のごとく騙し討ちに

遭って上海まで連れてこられたようなものでもあり、またプロデューサーEとの関係もすでに決裂してしまった以上もはや上海にいる理由などほとんどなくなってしま

い、当初の3ヶ月間という契約期間満了のこの時点で速やかに日本に帰国しても別に良かったわけだけれども、そしてプロデューサーKも(もちろんプロデューサーEも)

本心ではある意味腫れ物とも言える私にさっさと日本に帰国してもらいたいらしいことにも薄々気づいてもいて(あまり仕事がなかったことが一番の理由であり)、それ

となく打診もされていたのだけれども、だがしかし、その時点での私はいまだ上海で何一つ成し遂げてはおらず、このまま日本に帰っても中途半端になってしまい、

もちろん相変わらず日本の広告業界には心底うんざりしており、日本に戻ってもまた同じことの繰り返しとなるわけであり、かといってこのまま中国で行方をくらま

せて映画『地獄の黙示録』状態になる勇気もなく、それよりも何よりも当初の上海に来た私の第一の目的である中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアがいまだ果

たせぬままの状況であり、それを実現させずしてなぜに私が大人しく日本へ帰ることなどできようか、日本へ帰るわけには何としてもいかぬと駄々を捏ね、そのまま

上海に居残る腹を決め、依然私の再契約にぐずるプロデューサーKを、もしもここで私の契約を無碍に打ち切る気でおられるならば、社員を蔑ろにするとんでもなく卑

劣な会社であるという良からぬ風評を関係各所に触れ回る可能性もなきにしもあらずだが、実際どうなさるおつもりであろうかとさりげなく脅しをかけるなどした上

で、そのまま契約期間をさらに3ヶ月引き延ばすことに見事成功し、引き続き私の上海での生活がダラダラとはじまることとなり、そして季節は夏へと向かっていた。

……

些か強引な手段を用いて卑怯ではあったものの、当初の目標である中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアは何としても実現させなければ日本男児として男が廃る

と背に腹は代えられず何とか再契約を果たしさらなる3ヶ月を上海の地で過ごすこととなった私であったが、季節は6月に入り、上海にも梅雨があるのかどうかはつゆ

知らぬが雨もだんだん多くなってきて、街で驟雨に遭い知らない民家の軒先に避難したことも幾度かあり、私はストレスやフラストレーションの捌け口としてプロデ

ューサーKと同じ中南海をプカプカと吸いはじめ、途中でマイルドセブンに変えたり、また中南海に戻したり、かわりばんこに吸ったり、マイルドセブンは中国で七

星(シーチン)と呼ばれ、さすがはインチキにかけては超一流国だけあってパッケージはそのままに中身がすべて偽物の商品も出回っているらしく、私には偽物だろう

が本物だろうが正直どちらがどちらかよくわからず、実際はどちらでも別によく、そもそも私自身も偽物だか本物だか正直どちらかよくわからず、インチキ臭い中国

のインチキ臭い上海にあるインチキ臭い会社で働くインチキ臭い自分にはインチキ臭い偽物タバコがお誂え向きだと自虐的にむしろ偽物の七星(シーチン)を探し求め

ては吸いまくり、その頃から仕事の制作も実際に少しずつ動き出し(私は企画作業のみで実際の制作にはほとんど関与しなかったが)、会社では新規に中国人プロデュ

ーサーを臨時で雇うことにもなって、私は、もう仕事にならなくなるくらい常にチャイナドレスが脇の下まで割れ乱れまくった感じの例えば中国人女優コン・リーみ

たいな超セクシーな美人プロデューサーが入ってくることを夢想して大いに期待したのだけれども、実際に雇うことに決まったのは北京原人みたいな中年のおばさん

プロデューサーで、またしても私は肩透かしを食らってしまい、実際私はその北京原人とは口もきかなければ目も合わせることすらもなかった。さらに、仕事の制作

が実際に動き出すにつれて、元々あまり上手くいっていなかったプロデューサーKと青年Zとの関係も次第にギクシャクとなってきて、私はプロデューサーKと青年Z

双方の不満や愚痴や悪口陰口をそれぞれの口から耳にしながら、こんなにも社員が互いにいがみ合った雰囲気の悪い状況でこの先この会社は果たして上手くやってい

けるのだろうかとまたしても他人事のように心配していたものだが、そもそも彼ら二人の確執の根本的な原因は、どちらが会社の代表なのかという問題であり、会社

のオフィスでは本来社長が座るべき上座に青年Zがドカンと陣取り社長面して偉そうに座っており、下座というか一般席に座るプロデューサーKはおそらくプライドが

許さず、常々そのことについて不満を抱いていたようでもあり、また前述の通り、金に滅法だらしがなくそれが原因で赤坂にある某業界最大手TV-CMプロダクション

(頭文字T)を追い出された黒い過去を持つプロデューサーKには上海での金の管理は一切任されてはおらず、実際Kは会社における現地での代表の立場にあるにもかか

わらず金を一銭たりとも(中国通貨で言うと一毛たりとも)自由にはできず、中国語がまったく話せず学ぼうともしないため現地での会社経営にもほとんど実質的には

関与できず、単に飾りだけの雇われ社長のような扱いであり、そのことに対しても相当根に持っているようであり、またこれも前述の通り、半年前か数ヶ月前までは

某業界大手TV-CMプロダクション(頭文字A)の元役員だったプロデューサーが上海に設立したCMプロダクションで働いていた青年Zは、その会社が潰れる原因となっ

た腹黒悪徳中国人プロデューサーの狡猾で汚い仕事の進め方の薫陶を確実に受け継いだかのごとく、自分に都合の悪いことは故意に翻訳せずにミスリードし、プロデ

ューサーKそっちのけで自分に都合のいいよう好き勝手に強引に仕事を進めており、そんな青年Zの狡猾さや腹黒さに対しても、彼はそれほど仕事の経験や実績もない

くせに偉そうで、どこかしら山師的なところもあり危なっかしくて見ていられない、このままでは会社の存続に関わってくる、そもそもどっちが社長なんだかわかっ

たものではない!とプロデューサーKは陰でZを罵り、仕事は徐々に入ってきてはいたものの、会社に制作費が入金されるのは実際にCMを制作して納品後のさらに何

ヶ月も先となるため、徐々に会社にストックしてある当座の資金が尽きかけてきて経営も怪しくなってきて、比例的にプロデューサーKと青年Z二人の関係もさらにギ

クシャクと険悪になってきてしまい、青年Zは積極的に仕事を取ってこずに飲んだくれているプロデューサーKに対して、もう仕事取ってきて下さいよ、このままだと

この会社潰れちゃいますよと面と向かって露骨に嫌味を言ったり、はたまた、プロデューサーKが普段愛用し掛けているメガネがどうやら東条英機とお揃いのモデル

であると突然主張しはじめ、ちゃんと調べましたよ、メガネの模様までもうそっくりですよ、これは確信犯です、たぶんKさんは昔の日本の軍人みたいに中国を侵略

しに来ているような感覚でいるんですよ、上から目線で内心では中国を下に見てバカにしてるんですよ、中国語も一切勉強しようともしないし、いつまで経っても日

本から来たお客さん気取りで中国に馴染もうともしないし、こないだなんか酔っ払って「中国語でありがとうって何て言うんだっけ?」って冗談じゃなく真面目な顔

で聞いてきたりして、そんな態度で中国で成功しようなんて甘いと思うんですよねと散々陰口を叩いたり、社内の空気がみるみる険悪になっていくのを目の当たりに

しながら、私は、青年Zの言うことももっともな話であり、悪運につきまとわれた金に汚くだらしない人間の屑ども(もちろん私自身やプロデューサーEも含め)が肩寄

せ合ってガラクタの寄せ集めで急遽即興の出来合いで作ったインチキ会社が果たしてこの先成功するのであろうかとまたしても他人事のように心配しつつ、いがみ合

うプロデューサーKと青年Zをよそに、私は中国娘Y(チンピクしないあやや)と二人、昨日は何を食べただの、今度あそこの店に行こうだの、どこかに可愛い中国美女

はいないかだの、今度可愛い子紹介してよだのと、また、私の日本語の苗字「大竹」を中国語にすると「ダージュ」と読み「ダージュ」の「ジュ」は中国語で「猪」

つまり「豚」を意味するらしく、すなわち私は中国では「大きな豚」となり、それを中国娘Y(チンピクしないあやや)から揶揄されるなど、カタコトの日本語とカタコ

トの中国語と時々英語や身振り手振りを交えた何ともトンチンカンな会話をコソコソと続けてはたまに二人顔を見合わせ呑気にニヤニヤしてばかりいるのであった。

……

肝心な話を私はまだ書いていなかったような気がする。そろそろ私が上海へと赴く決め手となり、そして実際に私が上海へとはるばるやって来た唯一の目的でもある

ところの、皆様お待ちかね中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアの話へと移っていくことにしようか。私が上海に来てから覚えた中国語の単語は数え切れぬほど

あれど、その中でも特に印象的なのは、やはり「舒服(シューフー)」であろうか。意味は「気持ちいい」とか「心地いい」である。その次は「換(ファン)」で「交換す

る」とか「チェンジする」という意味である。他にも「口交(コージャオ)」→「フェラチオ」「性交(シンジャオ)」→「SEX」「ロ丕(ペーイ)」→「バーカ」「発票(ファ

ーピャオ)」→「領収書」などなど。海外へ行って外国語を手っ取り早く覚えたいならば現地の女と付き合えとよく言われるように、人は緊急な必要に迫られなければ

何一つ学ぼうとはしないものである。必要は発明の母であり、習うより慣れろの精神である。ある夜、たしか月末の給料日頃だったろうか、夕食後のオフィスで青年

Zが金庫に保管する会社の当座の資金である毛沢東の顔が印刷されたピンクの札束を取り出してきてうちわみたいに扇ぎながら「なんだかムラムラしてきませんか?

スケベなこととかしたくないっすか?」と酒に酔った怪しい目付きのニヤケ顔で誘ってきた。同じく酒に酔った私は、青年Zにだけは包み隠さずに自分が上海にやっ

て来た真の目的を話してあったから「もちろん男なら誰しもスケべなことはしたいに決まってるさ、でも金を介して中国美女たちと酒池肉林するのは邪道じゃないか

ね、俺が真に求めているのはあくまでも純粋な中国美女とのラブアフェアであり、つまりそこには必ず愛がなければならないんだ、ただでさえ広告屋なんていう愛の

ないSEXをする売春婦じみたインチキ稼業に身をやつしているわけだからね、恋愛くらいはやっぱり本気で行きたいじゃないか、ちゃんと相手の目を見てウォーアイ

ニーと囁きたいんだよ」と返せば「そんなに都合よく中国美女なんて簡単に見つかりっこありませんて、中国に来て10年のこの僕が言うんですから間違いないっす

よ、随分前の話ですけど、外灘(バンド)辺りで、もう目を見張らんばかりの絶世の中国美女に声を掛けられたことがあって、知ってる店があるからと食事に誘われ連

れて行かれた店で法外なぼったくり料金請求されそうになって、便所に行く振りして全速力で逃げたことありましたもん、上海に来てあんなにも本気を出したのはそ

の時くらいですね、ともかく純粋な中国美女なんてどこにもいやしませんて」と青年Kが突き放してくるのを、あくまで中国美女とのラブアフェアは金を介さず行わ

んことにこだわり続ける私がまだぐずぐず渋っておると、青年Zは「会社の金使っちゃいましょう、これだけあるんですから、金かからないですから、行かないとい

う選択肢はないですよね、今回だけ特別に会社の金でパーッと遊んじゃいましょう」となおも強引に勧めて来るものだから「まあ金がかからないのなら、やぶさかで

はなく、物は試しと一遍くらい話のネタに行ってみてもよかろう」と私も渋々同意し二人タクシーに乗っかり中心部から少し離れた郊外へといざ向かったのだった。

詳しく聞いていないが青年Zもステディな相手のない喪男らしく、そんな中国に来て10年になる上海SEX事情にも精通したベテラン青年Zが語るところによれば、上海

でごく一般的な日本人が手っ取り早く性欲を満たす方法はいくつかあり(2004年時点の話)、まずはサウナであり、上海でサウナというと2種類あり、それは一般的な

健全なサウナと性的なサウナであり、日本でもソープランドのことを個室サウナと呼ぶように、日本でいうところのソープランドや個室ヘルスみたいな形態の店であ

り、上海の日本人向けの雑誌に堂々と広告を出しサウナと明記されてはいるが、ただのサウナでないことは皆よく理解していて、その店でのサービスは基本的に普通

の健全なマッサージからはじまり徐々に性的なマッサージへと移行し最終的にフェラかSEXで終わるという流れであり、ほとんどの店はSEXまで可能だが、店や女の

子によってどこまでできるか異なる場合もあり、それは店と相手の女の子次第の運任せといったところであり、料金は90分で2万〜3万〜4万円也くらいだったかよく

覚えてないが、日本とさほど変わらぬ値段だったような、女の子が気に入らぬ場合には「換(ファン)」と言って女の子をチェンジできる場合もあり、店は中心地から

タクシーで20~30分ほど離れた郊外や昔の日本人居住地だった場所に多い。次にカラオケ、これは日本のキャバクラやスナックパブみたいな形態の店であり、店内で

性的なサービスを受けるのは難しいが、気に入った相手が見つかれば指名して金次第で店外デートや自分の部屋に連れ込んでSEXや、愛人として囲うことも可能であ

り、日本語が達者な女の子ばかりで、ここではすべてが金次第であり、たとえモテない醜男でも金次第で何でもありなのですっかりハマってしまう日本人も結構多い

らしい。次に床屋であり、上海の床屋にもサウナ同様に散髪屋としての健全な床屋と性的なサービスを行う怪しい床屋の2種類があり、街を歩くと日本と同じような

店構えの床屋を多く見かけるが、よく見ると店の雰囲気がガラリと異なり、怪しい床屋はピンクのお色気ムード満点な薄暗い照明で、その怪しさは一目瞭然、どちら

かに間違えて入ってしまうことはなく、店内は散髪用の例のイスが何台も並び、そこで性的なサービスが行われ、店によっても異なるが、基本は手コキであり、こち

らから女性の体に触れてよい場合もあれば拒否される場合もあり、相手を選べる店もあれば選べない店もあり、別料金でフェラやSEXまでできる店もあり、料金は手

コキのみでたしか3000円也くらいだったか、フェラはプラス4~5千円、SEXするにはプラス1万か2万、中国語しか通じず、中には悪質なぼったくり店もあり、玄人向

けであり、青年Zも一時期は怪しい床屋にすっかり嵌り上海中をくまなく探し回って利用していたという。そんな青年Zは日本からやって来た日本人のお偉いさん連中

を得意の中国語を駆使し上海を案内して回り性風俗サービスを行う店へアテンドするSEXコーディネーターみたいな仕事もたまにしていたようで(村上龍の小説『イン

・ザ・ミソスープ』の上海版か)、案内する代わりにおこぼれにも与っておいしい思いも結構していたようである。そして、その夜、我々二人が向かったのは郊外へと

タクシーで20分ほどの場所にあるサウナと呼ばれる店であり、建物の外観は怪しい雰囲気はなく至って健全、一見、日本の銭湯かスーパー銭湯のようであり、レスト

トランかスポーツジムのようでもあり、まずは日本語の通じない受付で料金(日本円でたしか1人2~3万円也くらいだったか)をこの時は青年Zがまとめて支払い、ロッカ

ールームで服を脱ぎ、普通のサウナで一汗流し洗い場で体を清め、備え付けのガウンを着て待合室のリクライニングチェアに寝そべり待っておると、客はほとんど見

分けがつかぬが日本人もいれば中国人もいて、順次呼ばれてプレイルームである個室へと向かい、やがて私の順番も巡って来て、洞窟みたいな薄暗い部屋に案内され

ると、そこには水着というか下着姿の南方系で少し顔の長いそしてかなり毛深い細身の女の子が笑顔で立っていて、簡単に中国語で挨拶を交わし、その女の子はウォ

ン・カーウァイ監督の映画にも出演していたカレン・モクという香港女優にどことなく雰囲気が似ていて(私は昔仕事でカレン・モクに会ったことがあるから間違いな

い、もちろんSEXはしたことはない)、日本語はまったく通じず、にもかかわらず、カレン・モクは、あなた、まさか中国語がわからないわけがないわよね、信じられ

ないわと一方的に中国語で捲し立てきて、それはおそらくガウンを脱げと言っているようであり、私が素直に従い素っ裸になると、カレン・モクは、さっきサウナに

入って体もすでに洗い済みであるのにもかかわらず再び石鹸で私の全身をくまなく特に私の股間にぶら下がっている奇妙な果実を重点的にがさつな手つきで、一体い

つまで洗ってるんだよ、いい加減にしろというくらい念入りに、これでもかこれでもかこれでもかとしつこく洗いまくり、私は、俺のペニスはそんなに汚くはないぞ

と皮肉めいた冗談の一つでも言ってやりたくもなったものだが、その微妙なニュアンスを中国語でどう言えばよいものやらさっぱりわからず仕方なく黙ってされるが

ままにようやく洗い終わると、部屋の中央には病院の診察室にあるような小型簡易ベッドが1台が置いてあり、カレン・モクは再び、あなた、まさか中国語がわから

ないわけがないわよね、信じられないわと一方的に中国語で捲し立ててきて、それはおそらくそこに寝転がれと言っているようであり、私が素直に従いうつ伏せに寝

転がると、カレン・モクは私の全身にまずは普通の健全なマッサージをはじめ、私がこれからはじまるお楽しみの時間を期待して胸と股間を膨らませつつ身を任せて

おると、徐々にカレン・モクの手指が私の股間へと向かって行き、ぎこちない手つきで私のペニスをまさぐりはじめ、さらにギュウっと握って上下にしごきはじめ、

やがて私のペニスが適度な硬さになると、おもむろに口に含みペロペロと舐めはじめ、そのフェラのやり方が何とも独特であったために私はいまだに忘れずに覚えて

おるが、それはペニスを1~2回舐めるごとにすぐさまうがいをして床にぺっと吐き出し、またペニスを1~2回舐めるごとにすぐさまうがいをして床にぺっと吐き出し

を延々と繰り返すといった独特なフェラのやり方であり、またしても私は、俺のペニスはそんなに汚くなんかないぞと皮肉めいた冗談の一つでも言ってやりたくもな

ったものだが、やはり中国語でどう言えばよいものやらさっぱりわからず仕方なく黙ってされるがままになっていると、カレン・モクはその独特なフェラの合間合間

に、私に向かって中国語でしきりに「ソフマ?」「ソフマ?」「ソフマ?」と繰り返し尋ねてきて、私にはまったくその意味がチンプンカンプンであったが、そんな

ことはまったく関せずといった具合に、あなた、まさか中国語がわからないわけがないわよね、信じられないわと一方的に「ソフマ?」「ソフマ?」「ソフマ?」と

捲し立ててきて、正直に言えばカレン・モクの特殊なフェラは1回おきにすぐさまうがいをするものだから、その都度フェラが中断されて快楽が長続きせず、私はで

きればフェラはもうやめていただきそろそろSEXに移行したいなと思いつつも、やはり中国語でどう言えばよいものやらさっぱりわからず仕方なく黙ってされるがま

まになっていたが、何度もカレン・モクから「ソフマ?」「ソフマ?」「ソフマ?」と謎の言葉を呪文のように一方的に繰り返されているうちに、何だか魔法にかか

ったかのような気分でやがて呆気なく絶頂を迎えた私が、カレン・モクの口に向かって発射しかけるや否や、カレン・モクはその口を私のペニスから瞬く間に離し、

と同時にすぐさま手コキに切り替え、私がすっかり果て一滴残らず搾り取られた後も引き続きカレン・モクは私に何度も「ソフマ?」「ソフマ?」「ソフマ?」と一

方的に繰り返しながら、再び私の全身を石鹸で洗いはじめて、今回は股間にぶら下がっている奇妙な果実は念入りではなく簡単に済ませて、そして、そんな具合に私

は上海における記念すべき第1発目の射精を何とか無事に終えることができたというわけであるが、出すもの出してとりあえずスッキリして再び服を着てロビーに出

てみると、すでに自分もスッキリして些か上気した満足顔の青年Zが待っていて、さっそく「どうでした?SEXできましたか?」と尋ねてくるから、私がフェラのみ

で終わったことを告げると「相手の女の子によって、SEXできる時とできない時があるんですよね、僕もできませんでした」と青年Zは返してきて、そして帰りのタ

クシーの中、私が「ところでさ『ソフマ?』ってどういう意味なのかな?女の子が俺のペニス舐めながら『ソフマ?』『ソフマ?』『ソフマ?』ってずっと聞いてく

るんだよね」と先ほどからの疑問を投げかけると、青年Zは「あ、もしかして、それは『シューフーマー?』じゃないですかね、中国語で『舒服(シューフー)』は気持

ちいいとか心地いいって意味なんですけど、『マー?』は疑問系だから、たぶん気持ちいいか?って聞かれてたんですよ」「そっか『ソフマ?』じゃなくて『シュー

フーマー?』って言ってたんだ、気持ちいい?って意味なんだ」「そうですよ、だから『シューフーマー?』って聞かれたら『シューフー!』って答えてやればいい

んですよ、ところで今日は『シューフーマー?』だったですか?」「もちろん『シューフー!』だったよ」「本当に『シューフーマー?』でしたか?」「本当に『シ

ューフー!』だったさ」「シューフーマー?」「シューフー!」「シューフーマー?」「とりあえずシューフー!だったよ」「シューフー!だったんなら良かったで

す、僕もシューフー!でした、またシューフー!しに行きましょうね」「うん、またシューフー!しに行こう」とトンチンカンな会話を続ける我々日本人のことをタ

クシーの中国人運転手がフロントミラー越しに「こいつら頭大丈夫か?」といった蔑んだ目で一瞥してくるのも何のその、一切関せず「シューフーマー?」「シュー

フー!」「シューフーマー?」「シューフー!」「シューフーマー?」「シューフー!」とうとう部屋に着くまで二人アホみたいに延々と繰り返し続けるのだった。

……

他にも上海で性的なサービスを受ける方法は探せばまだまだたくさんあるかとは思うが、私が上海滞在中に実際に経験したのは上記の3形態の店のみであり、さらに

私は病気をもらうのが怖いのと、あくまでも普通の素人の中国美女との純粋なラブアフェアを切実に希望し、やはり金銭を介したラブアフェアは純粋なラブアフェア

では断じてないと考え、そういう系のお店に嵌ってしまうことなどはなく、青年Zに誘われて冷やかし半分の物見見物の話のネタとして行く以外にはあまり積極的に

は利用せず、これは別に清純ぶっているわけではなく(今さら清純ぶったところでもうすでに手遅れであり)、どうしても欲望を抑えきれず我慢できなくなり自らの意

志で行ったこともほんの数えるほどであったが、印象的な話は他にもいくつかあり、ある時、青年Zに無理やり誘われて行った怪しい床屋の硬い椅子の上で野生味溢

れる風貌の女の子と一戦を交えたことがあったが、その女の子はSEXの最中にケダモノじみた喘ぎ声を始終あげ続け、顔はすっかり忘れてしまったがそのケダモノじ

みた喘ぎ声だけは今でも私はしっかりと覚えており、その風貌も相まってもしかしたら私は人間ではない何かケダモノや物の怪の類いとSEXをしているような不思議

な気分を味わっていたものだが、言葉のわからぬ異国での言葉のまったく通じぬ相手とのSEXは私にとって生まれて初めての経験であり、言葉が通じないと心も通じ

ていないかのように何だか物足りなさを感じてしまい、さらにその時の私は芥川龍之介が中国で娼婦を買い帰国後もしかしたら自分は性病に罹っているのではないか

と疑いはじめそれを苦にして自殺したことをぼんやりと思い出してもいたものだった。これは私の勝手な印象だけれども、概ね中国の女性はガサツで繊細さに欠ける

ところがあるのが特徴のように思っていて、たとえそこに愛がなくとも言葉のきちんと通じる日本人の女性とのSEXのほうがあらゆる意味で断然気持ちがいいと身を

もって思い知らされもしたものであった。青年Zは日本人のスケベなおっさん連中が金に物を言わせて中国女にフェラを散々仕込んだから結果として中国女はすっか

りスケベになってしまったみたいなトンチンカンな理論を主張していたが、私は中国四千年の歴史というくらいだから太古の昔から中国にもフェラはあったに違いな

いと主張して、二人でアホみたいな論争に発展したこともあった。また、ある夜、青年Zのお気に入りの女の子がいるというカラオケパブに無理やり連れて行かれた

ことがあって、青年Zはそのお気に入りの女の子を部屋に呼んで大金積んで一度だけSEXさせてもらったことがあると吹聴していたが、私はたまたまその時付いてく

れた日本語が達者なそこそこ美形で細身の中国娘リンリンと後日に1日デートをしたことがあり、デートの最中に私はSEXできないかと何度か交渉してみたものの、

今日はダメよ、まだダメよ、SEXはもっと仲良くなってから、でもあなたのことは大好きだよと体よく断られ、結局デートの最後は店に連れて行かれる羽目となり、

ようするに、それは日本のキャバクラでいうところの「同伴デート」であり、純粋な意味でのデートなどではなく、その日は店でしこたま酔っ払って、リンリンは可

愛いよ、リンリンはすごくセクシーだよ、リンリンはすごく美人だよ、リンリンはピャオリャン(中国語で綺麗)だよ、リンリンとSEXしたいよ、リンリンとSEXしたい

よ、リンリンとSEXしたいよ、リンリンとSEXしたいよ、リンリンとSEXしたいよ、リンリンとSEXしたいよ、リンリンとSEXしたいよ、と延々リンリンの耳元で甘い

言葉を囁き続け褒めそやし持ち上げるだけ持ち上げておきながら最後の最後に「ロ丕(ペーイ)!」(中国語でバーカ!)と言い放って落とすという冗談遊びを3時間ほどし

たり、リンリンからも耳元で何度も「精神病(セイシンビョー)!」だの「神経症(シンケイショー)!」だのと甘く優しく罵倒され続けて変態を自認する私はもう上海に

来てから一番というくらいに大興奮したりと存分に楽しんで、そして帰り際エレベーターの中「今日はとっても楽しかったよ、欲を言えばリンリンとSEXしたかった

けどね、今日はもうリンリンとSEXする気満々で来たんだけどね、というより、俺はリンリンとSEXするためだけに日本を飛び出してはるばる上海までやって来たよ

うなもんなんだけどね、いやいやいや、もっと言ってしまえばだ、俺はリンリンとSEXするためだけにこの世に生まれ落ちて来たようなもんなんだけどね、この次会

った時はもちろんSEXできるよね?」と私がダメ元で尋ねてみれば、リンリンは「何言ってんのか、よくわかんなーい、でもあなたのことは大好きだよ」と答えて、

私は、本当に大好きだったらSEXさせてくれるだろうに、まったく何言ってんだ、お前が大好きなのは毛沢東の顔が印刷されたピンクの札びらだろうが、この腹黒性

悪中国女め、ロ丕(ペーイ)!ロ丕(ペーイ)!ロ丕(ペーイ)!ロ丕(ペーイ)!と心の中で罵りながらも、そのリンリンの言い方が何とも可愛らしく思えて、もう我慢できなくな

ってしまった私はリンリンに3回キスして(舌は入れさせてくれなかった)、再見(ザイジェン)!と笑顔で別れたのだけれども、部屋に帰って酔いが覚めると同時に心も

一気に冷めてきて、何だかすべてがもうバカらしくなってきてしまって、一体自分ははるばる上海までやって来て何をやっておるのだろうか、中国人商売女から「精

神病(セイシンビョー)!」だの「神経症(シンケイショー)!」だの散々罵られてニヤニヤと大喜びしておる自分は正真正銘の精神病か神経症なのではなかろうか、それ

にそもそも金を出してSEXするのは純粋なラブアフェアとは呼べぬだろうよと自己嫌悪に襲われて、そんな愚かな自分に対しても、ロ丕(ペーイ)!ロ丕(ペーイ)!ロ丕(ペ

ーイ)!ロ丕(ペーイ)!それっきりリンリンから携帯電話に連絡が入っても一切無視したまま、リンリンとは二度と会うこともなく、カラオケパブという形態の店に二度

と行くこともなかった。やはり私自身の考え方としては、たとえ相手が中国美女であっても金銭を介さないラブアフェアでなければ純粋なラブアフェアと呼ぶことは

できず、その点だけは私は絶対に譲ることができず、さらには中国人商売女の金に汚いところや卑しいところや腹黒さや、口先だけのいい加減なところなどに徐々に

私は幻滅していくようにもなって、それとともに中国美女との酒池肉林なラブアフェアの夢自体も次第に冷めていき、挙げ句の果ては、何とも現金なもので、いつし

か私は今度は逆に上海にいながら日本美女との酒池肉林なラブアフェアを夢想している自分に気づくのだった。そんなふうに若い青年Zや私が上海で時々悪い遊びに

耽っている一方で、プロデューサーKはどのように異国の地にて性処理していたのか、当時は考えたこともなくそんなことにはまったく興味もなかったが、日本に病

身の妻を抱えおそらく性的にはすでに枯れてしまっていたと思われるKは、かわりに酒とタバコとコーヒーに嵌まり、自分を慰めていたと言ったところであろうか。

……

やがて、私の半年間に渡る上海滞在もそろそろ終わりに近づいてきた8月のある日のこと、藪から棒に、日本語カタコトデスク中国娘Y(チンピクしないあやや)の遠い

親戚でたまに会社に出入りして仕事も手伝っていたヤクザ風な中国人男と青年Zとの間に金銭的ないざこざが起こり、会社が密告されるという事件が起こった。詳し

いことは忘れてしまったが、何でも労働許可関係の密告であり、日本から来た私とプロデューサーKおよび日本人留学生である青年Zの3人は当初から労働ビザは取得

せずに会社で労働し報酬を得てきており、実際に労働ビザが必要だったのかどうかは不明だが、少なくとも長期に渡り会社に所属し上海で労働する外国人は何人たり

とも国に登録が必要であったらしく、にもかかわらずその登録を一切行わずに(故意に怠り?)我々3人は会社で働いていたことになり、それだと国に目をつけられて、

そのままだと会社の存続が危ぶまれる事態となってしまうため、その登録作業を早急に行わなければならなくなり、その許可が下りるまでの当分の間、我々日本人は

オフィスに立ち入ることが許されず、自室での軟禁生活をしばらく送らねばならなくなり、またしても会社組織としてのいい加減さを目の当たりにした私は、こんな

調子でこの会社はこの先ちゃんとやっていけるのかと他人事のように心配しつつ、やがて登録作業も無事済んで、再び通常の業務に戻っていって、その頃の仕事とし

ては、ヒラヒラ衣装を身に纏いレコード大賞受賞経験もある台湾出身の女性歌手にオリーブオイルがどうたらこうたらとしょうもないインチキ臭い宣伝文句を言わせ

る、某通販化粧品売上No.1会社のCM企画を私は担当しており、おそらく日本でならば確実に断っていたであろう類いの愚にもつかぬ仕事であったが、上海では仮に

も会社に所属している身である以上断るわけにもいかず、私はもう心のない企画マシーンと成り果てて仕事に臨んでいたものだが、どうやらこのクライアントはいわ

くつきの会社であるらしく、この仕事に関しても色々なCMプロダクションを散々たらい回しになった末の最後の最後に我々の会社になぜだか巡って来た胡散臭い仕

事であったらしく、何度も何度もダメ出しくらってはやり直しプレゼンしまたダメ出しくらってはやり直しプレゼンしを延々と繰り返し、私は心底うんざり頭がおか

しくなりかけてしまい、その鬱憤を解消するべくたまに青年Zに誘われるがままに怪しい店に足を運ぶなど、相変わらずダラダラと月日は過ぎて行き、すでに季節は

真夏に入っており、その年の真夏の上海はとにかく異常に暑くて、気温が40度にのぼる日もあり、あまりに暑すぎて昼間は迂闊に外も出歩けず普段つけないエアコン

ディショナーの効いた部屋にこもり切りダラダラと過ごし、8月15日は日本では終戦記念日にあたるが(それは敗戦を終戦と誤魔化しているに過ぎず)、中国にとっては

まさに戦勝記念日であり、TVからは中国万歳!毛沢東万歳!中国共産党万歳!とその関連のプロパガンダ映像が嫌がらせのように頻繁に流れてきて、はるばる日本か

らやって来て東條英機のパチモンであるプロデューサーKの下で働く日本人の私としては甚だ肩身の狭い居心地の悪さを感じていたものだが、さらに、2004年夏はアテ

ネオリンピックも開催され、上海は中国なので基本的にTVから流れる競技映像では中国人選手のみがフィーチャーされ、たまに日本人選手をTV画面の隅に小さく見つ

けた時などに、普段は国際スポーツ大会で日本が勝とうが負けようが一切我関せずと無関心を決め込むスポーツにまったく興味のない私が珍しく手に汗握り日本人選

手を応援しており、自分自身の中に潜む愛国心に驚きもしつつ、この時すでに私は8月いっぱいで上海に別れを告げ日本に帰国することが決まっており(プロデューサー

Kもあえて引き留めようともせず、私も居残る意志は微塵もなく)、日本に帰ってからも再び日本の広告業界に身を置かなければならぬ我が身を思い、さらにこれから

先の我が人生の行く末を思い、再び私の心の中には、日本の広告業界などさっさと滅びてしまえばいいのだという滅亡思考や、それどころか自分自身すらをも含めた

人類や世界など地球が爆発してとっとと滅びてしまえばいいのだという破滅願望が再燃してきてしまい心底うんざりとした気分になるも、ちょうどその頃、私はたま

たま上海に携帯してきていた武田泰淳の『滅亡について』と『蝮のすえ』を読み、束の間、私の病み腐り荒み切った心が大いに慰められ救われもしたものであった。

そんな具合に私は残りわずかとなった上海での生活をダラダラと送りつつ、ふと気づけば、今度は来る時とはまったく逆に日本の美女たちとの酒池肉林なラブアフェ

アを暇さえあれば夢想し、早く日本へ帰りたい、早く日本へ帰りたい、日本に帰ったらまず何をしようか、何を食べようか、誰と会おうかと胸をドキドキワクワクと

躍らせ、ようするに、隣の芝生は常に青く見えるもの、結局どこに行っても同じこと、結局逃げてばかりの人生であり、逃げ回り続けるだけの人生であり、されどそ

れも我が人生、次第に私は日本人の女の肉体が無性に恋しくてたまらなくなってきたところに、ちょうど私の欲望も爆発寸前にまで高まってしまっていて、とうとう

日本に帰るまで我慢しきれそうもなくなり、残り少ない上海生活の華麗なる締めくくりとして、中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアの儚い夢を見続けた愚かな

自分の淫らな下心という厄介な奴にもきっちりと落とし前をつけてやらんと、それをせずしてどうして自分は日本へ帰れようか、それでは自分の帰りを今か今かと案

じて待つ家族たちにも顔向けができぬだろうに、それにこれでもう本当に本当の最後だし、上海最後の最後の思い出に、たとえ純粋な意味でラブアフェアとは断じて

呼べずとも、最後の最後に中国上海の清き思い出に、中国女の肉体の一生モノの思い出に、もう居ても立ってもいられずに、私はいざ一人タクシーに飛び乗って前に

も一度青年Zとともに訪れたことのある郊外のサウナへと一目散と向かって、まずは日本語の通じない受付に立つ結構可愛い中国人女性に恥ずかしげにカタコトの中

国語と身振り手振りを交えて金を支払い、ロッカールームで服を脱ぎ、普通のサウナで一汗流し洗い場で体を清め、備え付けのガウンを着て期待に胸と股間を膨らま

せながら待合室で待っておると、やがて私の順番が巡って来て、狭い部屋に案内されしばらくすると、一人の女の子が部屋にやって来て、その女の子は残念ながら正

直私のタイプでなくて、私はここぞとばかりに「換(ファン)」とチェンジし、次にまた別の女の子が部屋にやって来て、その女の子も残念ながら正直私のタイプでな

くて、私はここぞとばかり「換(ファン)」とチェンジし、その後も次々と女の子はやって来るものの、残念ながら私の好みに適う女の子でなくて、私は「換(ファン)」

「換(ファン)」「換(ファン)」とビーチボーイズ並みにチェンジを繰り返し、その後も、せっかく上海最後のお楽しみなのだから、せっかく最後の最後に味わう中国最

後の女体なのだから、自分好みのとびっきりの相手と是が非でも楽しみたいものだと、私は「換(ファン)」「換(ファン)」「換(ファン)」「換(ファン)」「換(ファン)」

「換(ファン)」「換(ファン)」と繰り返し、するとそのうちマネージャーらしき中年の中国人男性が部屋にやって来て、さっきから黙って聞いておれば、お前は「換(フ

ァン)」「換(ファン)」「換(ファン)」「換(ファン)」「換(ファン)」「換(ファン)」「換(ファン)とビーチボーイズ並みにとチェンジしまくりやがって、いい加減にしと

けよ、このスケベでワガママな倭猿ジャップ野郎め、一体全体お前はどんなタイプの女の子が好みなんだよ?みたいな意味の中国語を一方的に捲し立ててきて、その

時、私は頭の中で受付に立っていた可愛い女の子のことをふと思い出し、その女の子をもしも指名できるのならば是非ともその子を指名したいと伝えようと思ったも

のの、それを中国語でどう言えばよいのやらさっぱりわからず仕方なしにとりあえず再び「換(ファン)!」と力強く告げれば、男は一旦引き返し、再び今度はなんと

女の子を総勢20人ほど引き連れて現れ、私に中国語で、これで店にいる女の子全員だからな、この中から選んでくれないと困るぞ、これ以上は「換(ファン)」「換(フ

ァン)」「換(ファン)」は絶対に無理だからな、ビーチボーイズじゃないんだからな、みたいな意味のことをもう勘弁しておくれとうんざりしたような呆れ顔で捲し立

ててきて、私はずらっと並んだ女の子たちを順々に品定めしていき、その品定めを3周ほど行って、散々迷いに迷った末に一人の女の子を「この子だ!」と指差して

選び、それからその子と二人きりになって、いつもの要領でまずは普通の健全なマッサージからはじまり徐々に性的なマッサージに移行していき、いつの間にやら女

の子も全裸になっていて、私のペニスをいじくり回しペロペロ舐めはじめ、フェラで終わるのかと思いきや、いきなり寝そべる私の体に騎乗位の形で跨ってきて、ち

ゃんとコンドームしたのかしてないのか不安だったが、女の子はよがりながらも切ない声で何度も「シューフーマー?」「シューフーマー?」「シューフーマー?」

と尋ねてくるから、もちろん私はその都度「シューフー!」「シューフー!」「シューフー!」と答えて、やがて私に絶頂の瞬間が訪れて、私は最後に上海中に響き

渡るほどの一際大声を張り上げて「シューフー!!!!!」と切なく大絶叫して果てて、そして、それが私の上海における記念すべき最後の射精となるのであった。

……

私が日本へと帰国する数日前のこと、会社のオフィスで青年Zから相談があると言われその詳しい話を聞くところによれば、何でも、会社を設立し約半年が経過した

現時点において会社の資金繰りが相当厳しくなってきており、たしかに仕事はポツポツ入って来てはおるが、それらの対価の入金は早くとも何ヶ月も先となり、正直

に言えば明日明後日明明後日の近々に会社を維持していくための当座の金がまったくもって足りておらず、日本にいるプロデューサーEや大阪の某映像プロダクショ

ン(日が昇るみたいな意味の頭文字S)社長Nなど経営陣にも金を回してもらうよう何度も相談してはいるものの、なかなか色良い返事がもらえず、ついては、もしもす

でに月収として支払い済みの現地通貨の持ち合わせが多少なりとも手元に残ってあるならば、それを一旦会社に返してもらうことはできぬものか、もちろん後日きち

んと責任を持ってあらためて支払うつもりであり、これは会社の窮地でもあるゆえ何とかならぬものだろうか、とのことであり、私は、プロデューサーKやEのことは

正直さっぱり信用していなかったが、青年Zには上海滞在中に大変世話になりそこそこ信用もしていたため、また、その時の私の心は久方ぶりに日本へ帰国できる喜

びで満ち溢れ、正直頭の中では日本の女たちとの酒池肉林なラブアフェアのことしか考えられず、心ここに在らず、もうすでに肉体より先に私の心は上海を飛び立ち

日本へと猛スピードで向かっている最中であり、不安などまったくなく後先のことなど何も考えず二つ返事でOKし、その時私が懐に持ち合わせていた現地通貨の日

本円に換算して約120万円也(現地ではほとんど金を使わず上海で働いた分のほぼ全額に当たる)を一旦会社に返した上で、その年の年末を返済期限として必ず支払う旨

を記した借用書も作り、もしも期限が過ぎるような場合には最大限の利息(たしか年利29.2%)も追加で支払うことも明記され、借用書は会社の代表であるプロデュー

サーKと私との間で取り交わされる形とになったわけだが、この一件がその後に厄介な問題へと発展していくとはその時の私は思いもよらなかった。そして、私の上

海滞在最後の夜、みんなで盛大に送り出してくれるのかと思いきや、社内の空気はすでに冷え切っていてそんな余裕もなく、プロデューサーKからは、明朝は見送り

に行けぬが、半年間ご苦労であった、例の金は必ず支払うつもりだから安心してくれろ、機会があればまた上海に遊びに来ておくれ、日本に帰ってもバッチグーのオ

ールオッケーのドントマインドのノープロブレムで頑張ってくれたまえと力なくそしてすげなく別れを告げてきて、青年Zも仲良くしていた私が日本に帰ってしまう

ことを少しばかり寂しそうにしていたが、こちらも、例の金は必ず支払うから信用しておくれ、いつかまた会えることを願っておると力なくそしてすげなく別れを告

げてきて、結局、最後の晩餐は日本語カタコトデスクの中国娘Y(チンピクしないあやや)と私と二人きりとなり、その夜はザリガニを食べに行き、中国では皆ごく普通

にザリガニを食べるらしく、夏になると道端に大量の殻が捨ててあり酷い悪臭を放っており、ザリガニと言っても大きなアメリカザリガニではなくて、日本でもよく

見かける小さなザリガニで、お世辞にも美味そうだとも思えず、日本人ならばザリガニを食べようなどと夢にも思わぬけれども、実際に軽く湯掻いて醤油だれをつけ

て初めて食べるザリガニの味は、甘エビから甘さをとったような味とでも言えばよいか、不思議な食感で、特別美味くもなければ不味くもなく可もなく不可もなく、

食べられぬほどではないが特に美味くもなくと言ったところで、ザリガニを食べながら二人いつものカタコトの日本語とカタコトの中国語と時々英語や身振り手振り

を交えたトンチンカンな会話を繰り広げ、日本語教室に通ってるくせしてこの半年間で中国娘Y(チンピクしないあやや)の日本語はまったく上達しておらず、かろうじ

て私の名前を「オウッテッケサン」と呼べるようになったレベルで、ようするに、この娘はたしかにいい娘には違いないけれど地頭は賢くはないんだなと私は大変失

礼な感想を抱きつつも、上海に持って来たけれど結局使わなかった物やもう必要のない物(カバンや帽子や服など)をプレゼントしてやるともう飛び上がらんばかりに

大喜びしてくれて、そんな姿を眺め遣りながら私はほぼ毎日顔をつき合わせていたのにもう会えなくなるのかと少し切なくなってきて、さらに酔っ払って歪んだ私の

頭の中に不意にYと最後にSEXさせてもらおうかという自分でも信じられないような愚かな下心が湧き上がってきたものの、おそらくOKしてくれそうな気もしたが、

もしも万が一断られた時は甚だバツが悪くカッコ悪いことこの上なく上海最後の思い出を醜く汚してしまうのも何だよなとすぐに思い直して、それにそもそも性的に

は何らそそられることもなくチンピクしないのだからSEXしようにもできないではないか、自分は一体何を考えておるのかとその愚かな下心は店に置き去りにして、

別れ際、もしも日本に来る時は案内してあげるよと日本で使用している名刺を手渡し、再見(ザイジェン)!と手を振ると、彼女も再見(ザイジェン)!と手を振り互いに

笑顔で別れ、最後に中国人の女の子から再見(ザイジェン)!と言われて、私は、これが本場の正真正銘の再見(ザイジェン)!なんだなとその思いをしんみり噛み締め、

そしてそう言われてみてあらためて私は半年間滞在した上海の地を今まさに後にしようとしていることを実感して感慨に耽るのだった。結局、再見(ザイジェン)!と

別れたのち彼女を再び見ることはなく、その後しばらく経ったある日、たしか2005年のことだったか、一度だけ自宅にカタコトの日本語を操る怪しげな外国人女性か

ら連絡があり、てっきりイタズラ電話とばかり思って私はイライラと乱暴に切ってしまったことがあったが、もしかしたらあの時の電話は彼女だったのかもしれない

(だとすれば相変わらず日本語はさっぱり上達していなかった)。帰国当日の朝はかなり早起きしてまだ動き出していない人気の少ない静かな街をタクシーで上海浦東

空港へと向かい、途中、もう何度も見過ぎて目が慣れてすっかり景色に溶け込んでしまっている例の不揃いな団子が近未来的に串刺しにされた造形の上海のシンボル

タワーをその朝だけは妙に感慨深く眺め遣りながら缶コーヒー片手に車窓から別れを告げ、相変わらず中国のタクシー運転手は洒落にならぬほど半端なく飛ばしまく

るなと半年前初めて上海に到着した日のことをぼんやり思い返しつつ、すでに慣れてしまったせいか、来た時のように金玉が縮み上がってビビりまくることもなく、

空港の荷物検査では上海で購入し日本に持ち帰ろうとスーツケースに忍ばせていたハチミツがなぜだか引っかかり、別室に連れて行かれ、ラベルが剥がしてあるから

中身が何なのか説明が難しく「ハニーか?」「ハニーだ」「ホントにハニーか?」「ホントにハニーだ」「ホントにホントにハニーか?」みたいなバカげた間抜けな

やり取りを現地で接する最後の中国人であるところの空港職員と交わし、飛行機の中ではキャビンアテンダント(CA)の中国人女性の体を無遠慮な目で追いそしてケダ

モノのような目で犯すことなどなく、私は静かに目を閉じて、来た時とはまったく逆に日本の美女たちとの酒池肉林なラブアフェアを夢想しながら、さらばインチキ

臭い国、インチキ臭い自分には頗る居心地がよく、お誂え向きの国だったけれど、これ以上自分がインチキ臭くなるとさすがに洒落にならなくなってしまうからな、

さらばインチキ臭い会社、さらば上海、さらば中国、再見(ザイジェン)!と約半年間に及んだ上海生活に未練などさらさらなくすげなく帰国の途へとつくのだった。

……

その後に起こったことはあまり思い出したくない記憶であり、できることならば抹消してしまいたい記憶でもあり、ここから先はかなり駆け足でさっさと片付けてし

まうことにする。日本に帰国して間もなくは日本という国が妙によそよそしくも感じられたが、しばらくのんびりダラダラと過ごしているうちに日本の生活習慣をす

っかり取り戻し、上海での生活に言葉以外の不便を感じたこともほとんどなかったとはいえ、日本に帰って来てみてあらためて日本での生活のほうが格段に便利で快

適であることに嫌でも私は気づかされたものだった。日本を離れてみなければ日本の本当の良さやありがたみを理解することなど到底できぬということであろう。そ

して、日本の広告業界の片隅にひっそりと身を置き悶々とくすぶりながら醜く腐り切った日本の広告業界に対し心底うんざりする日々が再びはじまった。そうこうし

ているうち季節は流れて、夏から秋、そして冬へと変わり、上海の例の金の支払い期限である年末が間近に迫ってきた。2004年のクリスマス頃、しばらく音沙汰のな

かった青年Zからメールが届き「支払い予定の120万円也は期限の12月末日までには支払うことができなくなった、ただし利息を付けて必ず支払うので信用して待って

いておくれ」と書かれてあり、私が「いつぐらいになるのか」と返せば「今のところいつになるかはわからぬが、必ず支払うので信用して待っていておくれ」とまた

返ってきて、それ以降はこちらが何度メールしても一切返信はなくなってしまった。もしやこれは大事になるのではという一抹の不安が私の頭をよぎるも、その時点

ではまだまだ楽観視していた。年が明け2005年のバレンタインの頃、青年Zからメールが届き「来月(3月)あたりに支払い予定の120万円也のうち半分に当たる60万円

也を何とか支払えそうだ」と書かれてあり、さらに、2005年のひな祭りの頃、再び青年Zからメールが届き「先日の件、やむを得ぬ事情により支払えなくなった、た

だし必ず支払うので信用して待っていておくれ」と書かれてあり、私が「支払う支払うと言うて一体いつ支払うのか」と返せば「今のところ見通しはまったく立たぬ

が、必ず支払うので信用して待っていておくれ」とまた返ってきて、私が「それでは困る、いつになるか明確にできぬのならば法的機関もしくは公的機関に訴えるか

もしれぬぞよ」と返せば、青年Zは「支払えないものは支払えないのだ、支払いたくとも支払えないのだ、こちらにも事情があるのだから仕方がないではないか、大

人しく待っておれ(お前しつこいんだよ)」と開き直り、それ以降はまたこちらが何度メールしても一切返信はなくなってしまった。これはきっと大事になるに違いな

いという確信に私は至るも、今後いかなる行動に出ればよいのかわからず、各種相談機関に赴き色々とアドバイスをもらうも、日本における金銭問題ならばすぐにで

も法的機関に訴えることもできたが、相手が中国にいるため話がややこしくなるばかりで私のイライラはみるみると募って行った。その後も何らの音沙汰がなくとう

とう痺れを切らした私は、その頃怒りのあまり少しばかり頭がおかしくなりかけていて、そして何を血迷ったものか、2005年5月のゴールデンウィーク明け、支払い

の督促を青年Zの実家の母親に依頼しようとふと思い立ち、日本の関東地方にある青年Zの実家を思い切って訪ねてみることにした。上海でした雑談の会話のおぼろげ

な記憶を頼りにしてまるで自分が借金取りにでもなったかのごとく(いや実際借金取りに違いなかったが)血眼になり散々探し回った末にようやくたどり着き発見した

青年Zの実家の母親はたしかに青年Zに顔がそっくりだったが、青年Zが上海で何をしているのかさっぱり把握しておらず、長らく連絡すらも取ってもいない様子で、

結局無駄骨に終わり、自分は一体何をしておるのかと私は大いに落胆したものであった。2005年6月、珍しくプロデューサーKより電話が入り「来月(7月)に120万円也

のうち半分の60万円也、再来月(8月)に残りの60万円也+利息分を全額支払う予定でいる」とのこと、私は「それはよかった」とひとまず安心するも、2005年7月、再

びプロデューサーKより電話が入り「先日の話はなかったことにしてけれ、やむを得ぬ事情により支払えなくなってしまった、会社の存続も危なくなってきた、自分

はもうすぐ日本に帰国する」とのことであり、私が「何があったのかは知らぬが、それでは困るから責任を持って必ず支払っておくれ、さもなくば法的機関に訴える

ぞよ」と伝えると、プロデューサーKは「大いに結構だ、もう勝手にしやがれ!」と一方的に電話を切り、その後は音信不通となってしまった。2005年8月、上海で取

り交わした借用書を証拠として東京地方裁判所にプロデューサーKに対し訴訟を起こすことにした。弁護士は雇わずにすべて自力で行う。この時ばかりは大学(法学部)

をきちんと卒業しておくべきだったと少し後悔した。その後まもなく、日本にすでに帰国し訴状を受け取ったプロデューサーKから直接私に電話連絡が入り「自分は

青年Zと揉めに揉めて会社を追い出された、上海の会社は青年Zにまんまと乗っ取られた、青年Zはとんでもない悪党だ、青年Zを絶対に許さない、青年Zを殺してやり

たい、言葉の通じぬ上海で放り出されて路頭に迷い金がないから仕方なしに上海での唯一の仕事関係者であった某大手広告代理店(頭文字H)上海支社の日本人クリエイ

ティヴ・ディレクターGに結婚指輪を預け恥を忍んで頭を下げ飛行機代を借り這々の体で日本に帰国してきたところだ、ゆえに自分には支払いの義務は一切なく、支

払うべきなのは青年Zである」とかなり憔悴しきった様子で主張してきた。その後、東京地方裁判所の職員からも電話連絡が入り、プロデューサーKの言っていたこと

とほぼ同じ話(プロデューサーKが自分には支払い義務はなく支払うのは青年Zだと主張している旨)を聞き、借用書は日本でも有効であるから間違いなく裁判には勝て

るだろうが、たとえ裁判に勝ったところで金のないプロデューサーKからは金を一銭も取れないことが判明、やむを得ず私はプロデューサーKに対する訴訟を取り下げ

ることにした。私は上海の会社がその時どのような状況にあるのかまったく把握しておらず、おそらくは私が日本へ帰国したのちプロデューサーKと青年Zの確執がさ

らに激しくなっていき、プロデューサーKが中国や中国語に疎いことをいいことにそこにつけ込んだ青年Zがいつもの狡猾なやり口で自分の思うまま好き勝手放題にや

らかした末の成れの果てなのだろうと容易に推測されたが(そしてもちろんそれは青年Zが以前勤めていてすでに潰れた会社の腹黒悪徳中国人プロデューサーの日本人

を騙す狡猾なやり口をそのまま踏襲し今回実践したと思われたが)、私は上海の会社の代表者であるプロデューサーKとの間に借用書を取り交わしており、そのプロデ

ューサーKが会社を追い出され支払い能力もなく金を取れないとなると、この金銭問題の責任の所在が一体どこにあるのかさっぱりわからなくなってきてしまって、

そもそもの上海行きの発端であったプロデューサーEに話を持って行こうにも我々二人の関係はすでに決裂しており、おそらく上海の青年Zと直接交渉せねばならなく

なるわけだが、青年Zに支払わせるにも中国における交渉となり甚だ面倒臭いことになってきてしまうため、一体どうしたものやらと途方に暮れほとんど諦めかけて

いたところの、2005年10月、長らく音信不通だった青年Zから突然「約束の金を支払う算段がついた」とのメールが届き、些か面倒なやり取りを何度か交わした後、

2005年11月、日本に帰国し雰囲気がガラリと変わった青年Zから秋葉原駅前の喫茶店で未払金120万+利息分30万=合計150万円也を現金にて支払ってもらうことにど

うにかこうにか成功し、一件落着その後は仲直りして万事めでたしめでたしかと思いきや、私が2005年5月に青年Zの実家に押し掛けて母親に勝手に会っていたことが

バレて大ゲンカとなり(昔から「お前の母ちゃん出臍」「お前の母ちゃんのフェラ最高だったぜ」など母親ネタは荒れる原因であり、たしかに私の突飛な行動も軽率で

あったが)、私のほうも青年Zの要領を得ない説明や、散々迷惑をかけておきながら支払ってやるんだから文句言うなやという上から目線の太々しい傲慢な態度や、交

渉過程のメールにおける「舐めたマネするようなら自分には錦糸町のヤクザに知り合いがいるからな」と含めて凄んできたことなど(これは犯罪に当たる)に対しブチ

切れてしまい、その場で青年Zとは今後一切の縁を切ることとなり、金は何とか回収できたものの何とも言えぬ後味の悪い幕切れとなるのだった。そんな上海行きに

まつわる金銭問題のゴタゴタの渦中の2005年8月、私は長引く金銭問題が引き金となって今までに積もりに積もっていた醜く腐り切った日本の広告業界に対する怒り

を大爆発させるかのごとく突発衝動的に絵を描きはじめ、藝術活動と何とか呼べるような活動を開始し、今後は広告業界から完全に足を洗う決意をし、そして私はそ

れをきちんと実践し今現在に至るというわけである。当時渦中の私は相当怒り狂っていて精神的にもかなりヤバい人間不信の状態にあり、でもそのヤバいくらいの怒

りの感情がなぜだかは知らぬが巡り巡って結果的に私に絵を描かせてしまったわけであり、さらには心底うんざり忌み嫌っていた広告業界からも完全に足を洗う決心

をさせたと思えば、散々な酷い目にあったことにも存分の価値があったのではなかろうかと今では客観的に捉えることもできる。高々120万円也ごときでなんと大袈

裟な話だ、約束より1年近く遅れたとはいえ利息分30万円也もきちんと回収できたのだから御の字でむしろラッキーだったのではないかと思われるかも知れぬが、他

人の労働の対価を約束通り責任を持ってきちんと支払うのは社会人として至極当たり前のことであり、人それぞれに様々な事情があったとはいえ、その当たり前のこ

とすらも当たり前にできぬ人間がこの世には(特に広告業界には)多過ぎて甚だ残念な気持ちを禁じ得ない。結局最後の最後には皆すべてが決裂して終わってしまった

けれども、その中で唯一約束を守りきっちりと仁義を通したのは皮肉なことに日本を離れ10年余りの半分中国人みたいな存在である青年Zであったという事実は非常

に興味深いところである。日本の広告屋のおっさん連中(特にバブル時代に散々甘い汁を吸いまくった勘違い連中)は決して信用してはならぬと私はこの一件によりあ

らためて身をもって骨の髄まで思い知らされたものであった。インチキやズルはしない、嘘はつかない、相手の気持ちを思い遣り自分がされて嫌なことは相手にもし

ない、自分の言葉にはきちんと責任を持って行動する、間違ったことをした時は素直に相手に謝るなど、人間の尊厳を保つために必須な基本的ルールすら守れぬモラ

ルのない人間が多過ぎる。親の顔が見てみたい。この上海行きのゴタゴタに関係した人間たちがその後どうなったのかについて、上海の会社が空中分解し結局失敗に

終わったこと以外に、私は詳しくは知らない。彼らが生きているのか死んでいるのかすらもわからない。別に知りたいとも思わない。時々上海行き直前にイギー・ポ

ップの「チャイナ・ガール」を聴きまくりながら、これから日本を離れ異国の地で新たにはじまる生活のことや中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアを夢想して

心ときめかせていた頃の自分を懐かしく思い出すことがある。結局何もはじまりはしなかったけれども、あの何かがはじまりそうなドキドキワクワク感を経験できた

だけでも良かったのかもしれない。ちなみに「チャイナ・ガール」が収録されたアルバムのタイトル名『イディオット』とは『愚か者/痴れ者』といった意味である。

とまれ、私がこの上海行きのゴタゴタにまつわる何ともほろ苦い経験から身をもって学んだ教訓とは、バブル脳患者の広告屋連中は総じて金銭感覚が狂っているとい

うこと、それどころか、バブル脳患者の広告屋連中に限らず、有名無名問わず、巨匠から雑魚に至るまで、すべての広告屋を見たら詐欺師か泥棒かゴキブリだと思え

ということ、もう一度繰り返す、すべての広告屋を見たら詐欺師か泥棒かゴキブリだと思えということ、とっても重要なことだから何度だって繰り返す、すべての広

告屋を見たら詐欺師か泥棒かゴキブリだと思えということ、もちろん、すべての広告屋を見たら詐欺師か泥棒かゴキブリだと思えとはいえども、実際にすべての広告

屋が詐欺師か泥棒かゴキブリであるはずもなく、すべての広告屋と接する際には、すべての広告屋を見たら詐欺師か泥棒かゴキブリだと思えと常に肝に銘じておくべ

きということ、一瞬たりとも気を許してはならぬということ、すべての広告屋の話は嘘八百と鼻ほじりながら聞き流せということ、すべての広告屋と会った後には財

布の中身をしっかり確認しろということ、家に招いた後には何か物がなくなっていないか確認しろということ、子供を会わせた後には何か変なイタズラをされていな

いか問い詰めて確認しろということ、出された飲み物は一服盛られている可能性が高いから絶対に口にするなということ、母屋をぶん取られるから庇は貸すなという

こと、川で溺れていたらすかさず棒でぶっ叩けということ、駅のホームで見かけたら迷わず背中を押して突き落とせということ、1匹見つけたら100匹はいると思えと

いうこと、見つけたら直ちにダーティーハリーのごとくしつこく追い回し必ず頭を狙い撃ちして仕留めろということ、液体洗剤をぶっかけてやるとみるみる小さくな

ってコロっと逝くから一度お試しあれということ、それから、結局どこへ行こうが自分自身が変わらなければ何も変わらず、一生隣の芝生は青く見えるということ、

そして、結局中国美女たちとの酒池肉林なラブアフェアなんてものはどこにもなくて、歪んだ欲望に目が眩みバカな夢を見てお気楽なバカンス気分で上海なんかへ行

けば散々な酷い目に遭い必ず失敗するということ、あらかじめこういう結果になることは予測できていたはずであり、なるべくしてなったとも言え、起こるべくして

起こったことでもあり、飛んで火に入る夏の虫、もう笑い話である。そして、今現在まさに日本の広告業界は滅びかけているところであるが、何度ぶっ叩いても絶対

に死なない不死身の巨大ゴキブリのごとくなかなかしぶとくて、この先も完全にはまだまだ滅びそうにもなさそうである。でも東京五輪一連のゴタゴタ騒動などを見

る限りでは、そのうち完全に滅びてしまう可能性もなきにしもあらずである。いずれにせよ、私はもう日本の広告業界とは一切関係がなく、どうでもいい話である。

時々私がふと思うのは、もしも万が一私が広告業界で成功していたとしたならば、私は広告のことがもっと好きになれていたのだろうかということである。人は何と

も現金な生き物であるからして、それはあながち否定もできぬが、今現在広告業界からきれいさっぱりと完全に足を洗った私は何とも清々しくきれいさっぱりといい

気分である。中国語で言うならば「舒服(シューフー)」である。もう思わず「シューフー!」と叫んでしまいたくて堪らぬほどに「シューフー!」である。広告に比

べて絵はさっぱり金にもならぬが、やりたくないことをやらないということは精神衛生上すばらしく健全なことである。やりたいことだけをやって食べていけるほど

世の中そんなに甘っちょろくはなかろうが、この世に生まれ落ちて来たからには、とにもかくにも、己の持てる力を100%発揮した、正々堂々胸を張り己の作品だと

主張できる、100%己を投影させた藝術作品を生み出し世を渡って行くべきだと私はきちんと腹を括って生きている。私は犬猫や家畜や奴隷やロボットではなくて一

人の人間であるからして、これから先もできることならばやりたくないことはやらずに生きていきたいと思っている。もしかしたら自分は一生報われることなく終わ

ってしまうのではないかと時々不安になることもあるが、やるだけやってダメならダメでそれはそれで仕様がない。地球など爆発して人類や世界など皆まとめてさっ

さと滅びてしまえばいいのだと今でも私は本気で思っている。これから先もずっと私はそう思い続けることだろう。とはいえ私も本気で能動的に死ぬ勇気などはなく

て、とにかく寿命が尽きるまでの間は生き続ける他ない。滅亡するのが今から楽しみだなんて言うと真面目に生きている人たちや、生きたくとも生きられぬ人たちに

対し大変失礼にあたり、あまり大きな声では言えぬけれども、人は皆いつか必ず滅びることは決まっている。私自身もいつか必ず確実に滅びる定めである。自分が一

体どんな滅び方をするのか今のところはまったく予想もつかぬけれども、できることならば苦しむことなく呆気なく滅びてしまいたいものである。でも少なくともそ

の日が来るまで私は確実に生きていなければならず、どうせならばその間だけでも楽しく生きていたいとは思う。他人に誇ることなどできぬ本当にろくでもない人生

をもうすでに50年もダラダラと生きてきてしまった今現在の私はドキドキワクワクすることももうほとんどないけれども、かといって悲観してばかりいるわけでもな

く、それなりに楽しい日々を過ごしている。武田泰淳の『滅亡について』は今でもたまに読み返してはその度に慰められている。人生は無限に続くわけではなく必ず

終わりがあると思えばこそ、それを頼りにして何とか頑張れてしまえるものでもある。有終の美を飾ろうなどとは夢にも思っていない。今でも地球が爆発してしまえ

ばいいと思っているが、なかなか爆発しそうにもなくて、いつまでも爆発しそうもないから、とりあえず寿命が尽きるまでの間は私もきちんと生き続けようと思う。

2022.12

 

 

 

 

 

19.『Stranger / 異邦人 (仮)』

 

 

調子に乗ってウンコの話など書いたのがやはりいけなかったのだろうか。8月初頭のうだるような酷暑のある昼下がり、相も変わらずエアコンディショナーの類いは

一切使用せず焼け石に水のごとく扇風機が虚しく回り続ける、まるでサウナ風呂の中にでもいるかのようなむさ苦しい部屋の中、ウーウーヒーヒー言いながら私が作

業に没頭しておると、突然何の前触れもなしに愛用のノートパソコンの電源がストンと落ち、その後は揺すっても摩っても叩いても嬲っても、うんともすんとも反応

しなくなってしまった。愛用していたパソコンは2010年製造の、最早まともなネットサーフィンにも適応できていない時代遅れなオンボロのポンコツのろくでなし

であったから、さすがにそろそろ買い替えねばならぬともう随分前から頭の片隅で意識はしていたものの、パソコン本体を買い換えるとなれば中身のソフトウェア諸

々も一新せねばならず、そこまでの予算を捻出するつもりもさらさらない、常日頃から物持ちのいい清貧を気取る私は半ばやけくそ気味に、もうここまで来たらば、

一蓮托生、地獄の底までも!とオンボロのポンコツのろくでなしを宥めすかしつつ這々の体で何とかここまでやり過ごしてきたものだった。ここ最近少しばかり創作

意欲を取り戻し全身にやる気がみなぎり心がギンギンに勃起していた私は、この調子で波に乗り、次は子供の頃に体験した不条理な夏の思い出話のひとつでも書いて

やろうかな、どうせ夏の話を書くならば、やはりうだるような夏の暑い日に書くに限るな、と密かに目論み、実際もうすでに少しずつ書きはじめていた矢先の不意の

出来事であったから、私の喪失感や絶望感は筆舌に尽くし難いほどであり、これは本当に困ったことになったぞ、年甲斐もなく半べそ顔の私は部屋でひとりパンツの

中まで汗まみれになってオロオロと狼狽するばかりであった。パソコンの中にはこの10年余りに渡る思い出の数々(昔描いた絵のスキャンデータやら、アイデアノー

トやら、創作メモやら、他にもお子様たちにはとてもじゃないけれどお見せできぬような淫猥な画像や映像やそのブックマークなど)もぎっしりと詰まっていたもの

だから、私の心は夏の終わりの浮き袋のごとく全身からどっと空気が抜けていくように一遍にやる気を失い、その喪失感や絶望感をずるずると引きずったまま、腑抜

けのような不毛な生活をしばらく続けるうち、気づけば季節はすっかり秋へと移ろい、朝晩はいくらか肌寒くもなってきて、そして今年も残すところわずかとなって

いるのだった。宿題をやったんだけど、家に忘れてきました、宿題をやったんだけど、兄が間違えて持って行ってしまいました、宿題をやったんだけど、朝起きたら

すべて消えてなくなってました、宿題をやったんだけど、登校途中に見知らぬオヤジにひったくられました、宿題をやったんだけど、登校途中に腹を空かした哀れな

野良犬にくれてやりました、宿題をやったんだけど、登校途中に大きいほうがしたくなり、宿題のノートでケツを拭きました、などなどなど、まるでアホな子供の稚

拙な言い訳のごとく聞こえるかもしれぬが、ここ最近の私の中に珍しく創作意欲が満ち溢れ、この夏の間に子供の頃に体験した不条理な夏の思い出話のひとつでも書

いてやろうかと躍起になっていたところに私のパソコンが突然壊れてしまったことは決して作り話でも何でもなく、でもまあ壊れてしまったものはどうにもこうにも

仕様がなく、覆水盆に返らず、去るものは追わず、なけなしの虎の子崩し大枚叩いて新調したピッカピッカのパソコンで気を取り直し今書きはじめたところである。

……

世間では「不条理」という言葉をよく耳にするし、私自身も正式な意味を理解しているのかいないのかあやふやなまま何とはなしに「不条理」という言葉をよく使用

するけれど、そもそもの話、この「不条理」という言葉には一体どのような意味があるのだろうかとふと思い立ち、あらためて辞書で引いてみれば、「1. 物事のすじ

みちが通らないこと。道理に合わないこと。」「2. 人間と世界とのかかわり合いの中に現れる、人生の無意義・不合理・無目的な絶望的な状況を言った語。また、人

間がそのような状況を克服しようと努力してゆく存在であることを強調して言った語。」とあり、特に2のほうは、フランスの文学者アルベール・カミュの言説を参

照した哲学的な意味合いが強いとのこと。ところで、そのカミュと言えば、私が生まれて初めて読んだ海外の小説(教科書に載ってるものを除き本という形で読んだ

もの)はまさにカミュの書いた不条理小説の傑作『異邦人』であり、読んだ時期はおそらく高校の時分か、もしくはもう少し後だったか定かではないが、ともかくカ

ミュの『異邦人』が私の初めて読んだ海外の小説であることに間違いはなく、当時の私は「不条理」という言葉の意味などさっぱり理解できておらず、主人公が夏の

海岸で自身と無関係のアラビア人(異邦人)を殺してしまう話だから、題名が『異邦人』なんだろうなというレベルのお粗末な理解であり、主人公が現実世界とは相容

れない生まれながらの「異邦人」である、もしくは、現実世界にうまく馴染めない「よそ者」であるという深い意味を持つゆえ、題名が『異邦人』なのだときちんと

理解できたのは恥ずかしながら大分後になってからであったものの、その時カミュの『異邦人』を読みはじめるや否や私は一気に物語世界に引きずり込まれていき、

殺人の理由を太陽のせいにするくだりや、死刑宣告されたのち御用司祭に対して秘めていた感情を一気に大爆発させるシーンなどでは大いに心を揺さぶられ、薄い本

なのであっという間に読み終えて、頭をガッツンとぶん殴られたかのような衝撃を受けて茫然自失となりかけながら私は、しかしなぜに自分はこの主人公のムルソー

という男にここまで強く深く感情移入できてしまえるのだろうかとあらためて真剣に心に問うてみたところ、まずは、おそらく私自身も主人公と同様に現実世界とは

相容れない生まれながらの「異邦人」であり、現実世界にうまく馴染めない「よそ者」であるため、小説世界の中にまさしく自分自身の姿そのものが描かれていると

直感的に悟ったからに違いなく、さらには、主人公が殺人の理由にした「焼けつくような太陽の光」を私がそれ以前の子供だった頃のいつかどこかで体験したことが

あると確信したからでもあり、やがて私は自然とその太陽の光を媒介にして、私が子供の頃に起きた不条理な夏の出来事をぼんやりと思い出している自分に気がつく

のであった。「男は私を見つけると、少しからだを起こし、ポケットに手を突っこんだ。もちろん私は、上着のなかで、レエモンのピストルを握りしめた。そこでま

た、彼はポケットに手を入れたまま、あとずさりして行った。私はかなり離れて、十メートルばかりのところにいた。彼の半ばとじた瞼の間から、時どき、ちらりと

視線のもれるのが、わかった。でも、ひっきりなしに、彼の姿が私の眼の前に踊り、燃えあがる大気のなかに踊った。波音は正午よりもっともの憂げで、もっとおだ

やかだった。ここにひろがる同じ砂のうえに、同じ太陽、同じひかりがそそいでいた。もう二時間も前から、日は進みをやめ、沸き立つ金属みたいな海のなかに、錨

を投げていたのだ。水平線に、小さな蒸気船が通った。それを視線のはじに黒いしみができたように感じたのは、私がずっとアラビア人から眼をはなさずにいたから

だった。自分が回れ右をしさえすれば、それで事は終わる、と私は考えたが、太陽の光に打ち震えている砂浜が、私のうしろに、せまっていた。泉の方へ五、六歩歩

いたが、アラビア人は動かなかった。それでも、まだかなり離れていた。恐らく、その顔をおおう影のせいだったろうが、彼は笑っている風に見えた。私は待った。

陽の光で、頬が焼けるようだった。眉毛に汗の滴がたまるのを感じた。それはママンを埋葬した日と同じ太陽だった。そのときのように、特に額に痛みを感じ、あり

とある血管が、皮膚のしたで、一どきに脈打っていた。焼けつくような光に堪えかねて、私は一歩前に踏み出した。私はそれがばかげたことだと知っていたし、一歩

体を移したところで、太陽から逃れられないことも、わかっていた。それでも、一歩、ただひと足、わたしは前に踏み出した。すると今度は、アラビア人は、身を起

こさずに、匕首を抜き、光を浴びつつ私に向かって構えた。光は刃にはねかえり、きらめく長い刀のように、私の額に迫った。その瞬間、眉毛にたまった汗が一度に

瞼をながれ、なまぬるく厚いヴェールで瞼をつつんだ。涙と塩のとばりで、私の眼は見えなくなった。額に鳴る太陽のシンバルと、それから匕首からほとばしる光の

刃の、相変わらず眼の前にちらつくほかは、何一つ感じられなかった。焼けつくような剣は私の睫毛をかみ、痛む眼をえぐった。そのとき、すべてがゆらゆらした。

海は重苦しく、激しい息吹きを運んで来た。空は端から端まで裂けて、火を降らすかと思われた。私の全体がこわばり、ピストルの上で手がひきつった。引き金はし

なやかだった。私は銃尾のすべっこい腹にさわった。乾いた、それでいて、耳を聾する轟音とともに、すべてが始まったのは、このときだった。私は汗と太陽とをふ

り払った。昼間の均衡と、私がそこに幸福を感じていた、その浜辺の特殊な沈黙とを、うちこわしたことを悟った。そこで、私はこの身動きしない体に、なお四たび

撃ちこんだ。弾丸は深くくい入ったが、そうとも見えなかった。それは私が不幸のとびらをたたいた、四つの短い音にも似ていた。(カミュ『異邦人』より引用)」

……

それは私が小学生だった夏休みに体験した何とも不条理な出来事であり、当時の私は子供ながらになんて不条理な出来事なんだ!とプンプン憤ってしまい(とはいえ

もちろん当時ガキンチョだった私が「不条理」などという言葉やその意味についてきちんと理解しているはずもなく、大人になってから「不条理」という言葉の意味

を何となく理解したのちに、あの時の出来事はまさしく「不条理」以外の何物でもなかったなと思い返して認識した上で「不条理」という言葉を使用しているが)、

ともかく、それはどこからどう見ても誰が見てもあまりにも不条理な出来事であったものだから、まったくもって不条理にも程があるだろうよ!と私は小学校の卒業

文集に書き殴った覚えがおぼろげながらにあったので、さっそく物置の奥から小学校の卒業文集を引っ張り出してきて確認してみれば、そこには不条理な夏の出来事

は一切書かれてはおらず、そのかわりに退屈極まりない修学旅行の思い出話がダラダラと、ガキンチョだった頃の私のアホバカマヌケ面写真と共に掲載されてあるば

かりで、卒業文集に書いたというのは私のまったくの記憶違いであり、それならば私は一体どこにそれを書いたのだろうかと考えを巡らせた末に、おそらくは小学5

年の学年末の文集にでも書いたのであろうという推測に至るも、その肝心の学年末の文集が残念ながら手元に残っておらず、どうにも確認の仕様がなく、もしも残っ

ていたならばそれを参考にして当時ガキンチョだった私の繊細に揺れ動く心模様をより克明詳細にここに再現できたのにと悔やまれるところではあるけれども、ただ

幸いなことと言っては何だが、それはあまりに不条理な出来事であったものだから今でも私は決して忘れず、というより、忘れたくとも決して忘れられぬほど鮮明に

私の心に深く刻み込まれ記憶にしっかりと残されているゆえ、その記憶を頼りにこれから先『私が小学5年の夏休みに体験した何とも不条理な出来事』の顛末につい

て書き記していこうかと思う。どれほど不条理かは読めば誰もが一目瞭然かとは思うが、あまりにも不条理な話であるところに加えてさらには卑猥な話でもあるがゆ

え(私の書く文章が卑猥なのは毎度毎度のことなれど今回の卑猥さはいつにも増して磨きがかかり直截的であるがゆえ)、もしも妙齢の女性が読まれた場合などには、

あまりの卑猥さにビックリ仰天してお嫁に行けなくなってしまう可能性をあながち否定もできず(もちろん妙齢の男性の場合にはお婿に行けなくなってしまう可能性

があり)、将来お嫁さんお婿さんになりたいという願望を胸に秘めておられる方々は、読むなと言われればさらに読みたくなるのが世の常であるのは百も承知の上、

心を鬼にして、本当に悪いことは言わないから、後悔先に立たず、読まないほうが得策であろうと事前に忠告だけはしておいて、いざ書きはじめることにしようか。

……

その当時10歳の私は小学5年生で、今も昔も変わらずに協調性の欠片もなく、物心つく頃よりすでにいっぱしの「異邦人」を気取っていたと言っても過言でないほど

に、現実世界やそこに住まう人間たちとは上手に心を通い合わせることが大の苦手で、我ひとり我が道を行くといった具合にいつもぼんやりと考えごとばかりして、

己の空想世界の中に閉じこもり、授業中もほとんど窓の外ばかり眺めて先生の話などてんで耳に入らず、にもかかわらず、なぜだかテストは満点、常に成績はクラス

で1番か2番、先生や大人たちからはあまり好かれないタイプの可愛げのないひねくれたガキンチョで、何となく周囲からは少し浮いてしまっていることを自覚してい

るような、まさに「異邦人」と呼ぶにふさわしい存在で、そして、その頃の私はまだ剥けていなかった。こんなことを事細かに書いてわざわざ説明する必要が果たし

てあるのかどうか甚だ疑問であるが、ここは後後、話の重要なポイントにもなってくるところであるがゆえ、恥を忍んで私は書かねばならぬのである。恥ずかしさを

乗り越えることにより人は皆、一皮剥けて、さらに数多の困難や試練を乗り越えて、さらに一皮剥けて、二皮剥けて、大人への階段をのぼり、輝ける未来へと向かっ

て成長していけるのだから。一皮向けるためには、たとえ恥ずかしくとも、書かねばならぬのである。昨今は頗る便利な世の中で、巷では『甘栗むいちゃいました』

みたいなお茶目な名前の商品が流通し結構な人気を博しているそうだが、その頃の私が剥けていなかったものとは一体何かと言えば、その『甘栗むいちゃいました』

に似た形状の部分がまだ剥けていなかったのである。それは男性に生まれたならば誰しもが股間にぶら下げている1本の竿と2個の玉との奇妙かつ絶妙なコンビネー

ション(夢の共演)で形成される器官のうち竿の先端の甘栗に似た形状の部分がまだ剥けていなかったのである。一緒に風呂に入った時こっそり確認した1歳上の兄の

甘栗もまだ剥けていなかったが、クラスメイトの中にはすでに『甘栗むいちゃいました』状態の強者も何人かいることを便所で盗み見て知っていたし、私の父親の甘

栗は常時ズルムケの完全『甘栗むいちゃいました』状態(しかもデカチン!)であり、いつの日にか私も必ずや『甘栗むいちゃいました』状態にならねばならぬ定めで

あることを何となく理解はしておって、ひとり風呂に入っている時などにふやかした状態で思い切って己の甘栗の皮を剥く努力を試みたことも幾度かあったものの、

いつも甘栗の先っちょ5分の1くらいのところまでは何とか剥けて甘栗がコンニチハ!と元気よく顔を覗かせるも、それ以上は皮が突っ張って強烈な痛みが走るため

怖気付き、そのままさらに剥き続ける勇気が当時10歳のガキンチョの私にはなくて、そんな根性なしの不甲斐ない己を情けなく思って密かに涙することもあった。

……

かように、当時10歳のガキンチョの私のアソコがまだ剥けていなかったことは弁解の余地のまったくない事実ではあったものの、当時の私は己のアソコがまだ剥けて

いないくせして、小学校に入学した6歳の頃から早くもコソコソとおっぱじめていた秘密の手慰み(マスターベーション、オナニー、センズリ、自慰、手淫など)の味は

しっかりと覚えておって、その道にかけては10歳にしてもうすでに「一丁前」を通り越し「ベテランさん」の域にまで達しており、もっとも、当時の私はまだ精通し

ておらず、私の秘密の手慰みは、世間で俗に言う「イク」ことはあっても精液が発射されない空鉄砲のドライオーガズムであり(もちろん気持ちよいことは通常の射精

とほとんど変わらず)、精液が発射されないことをいいことに私は、常日頃どうしても現実世界やそこに住まう人間たちと上手に心を通わせ合うことが大の苦手な「異

邦人」であるところの己に対するフラストレーションや、さらにはまだアソコが剥けておらず、また剥く勇気もない己の不甲斐なさを八つ当たり気味にぶっつけて解

消するかのごとく暇さえあれば所構わずコソコソと己のアソコを弄りまくって遊んでいたものだった。もちろん、秘密の手慰みの後にいつも必ず訪れる例のお馴染み

の虚無感(俗にいう賢者タイム)からは誰しもが逃れられぬ定めゆえ、その虚無感を媒介にして子供心にどこかしら背徳的ないけないことをしているのではないかという

罪の意識は当時10歳のガキンチョの私のアホバカマヌケ頭の片隅にも常にどんよりと確実にあって、秘密の手慰みの快楽を知れば知るほど、その後の虚無を知れば知

るほど、さらに自分が「異邦人」であることを骨の髄まで身に染みて思い知らされていくという何とも皮肉な結果ともなり果てて、秘密の手慰みをやめないといけな

いと思いつつも、わかっちゃいるけどやめられず、ずるずると続けることすでに5年近くの頑固なベテラン職人風情すらも醸し出しているといった有様なのであった。

もっとも、秘密の手慰みが背徳的であろうが何だろうが、人は皆、体のどこか一部分に触るととっても気持ちよくなれる場所が存在すると知ってしまったが最後、自

然とそこに手が伸びてしまうのは致し方のないことであり、それは人間という動物(ケダモノ)の哀しい性でもあり、大人になった今現在、他の男性たちが秘密の手慰み

をどのように行なっているのか(いたのか)などの詳細な情報や知識を身につけるにつれ、少しばかり自分は早熟であったのかもしれぬと反省するところがないわけでも

ないが、かの太宰治も幼少の頃から「按摩(あんま)」と称して夜毎布団の中で秘密の手慰みにせっせと励んでいたことを後に読んだ小説の中で知って少しばかり私の罪

の意識が軽減されたようにも思ったものであった。当時の私は日常的に繰り返していたその秘密の手慰みのことを、男性ならば皆に備わっているごく普通の機能で、

男性ならば皆が自然に行なっている作業だとは夢にも思わずに、10歳のガキンチョのアホバカマヌケ頭で、この秘密の手慰みとそれに伴う快楽は天から自分だけに授

けられた特別なご褒美であり、自分は選ばれた特別な人間なのかもしれぬとすらのんきに考えていた節もあるのだった。今でこそ私はその秘密の手慰みのことをマス

ターベーション(オナニー、センズリ、自慰、手淫など)という言葉できちんと認識できているが、当時10歳のガキンチョでまだアソコも剥けていなかった私はその手慰

みの作業自体のことを一体全体何と呼ぶべきか知る由もなくて、己の心の中で密かに「ティコティコ」と命名して呼んでおり、それは当時まだアソコが剥けていなか

った私が、己の剥けていないペニスを包み込む皮の先っちょ(小便の出口で仔象の鼻みたいにシワシワになってキュッと締まっている部分)を右手の親指と人差し指で器

用にちょこんとつまんで、ティコティコ、ティコティコ、ティコティコ、ティコティコ、とリズミカルに軽妙な刺激を与える方法で手慰みしていたことに由来するの

であった。また、当時はまだインターネットやAVなど存在せず、10歳のガキンチョがエロ画像やエロ映像を入手する手段など皆無に等しく、必然的に当時の私が手慰

み(ティコティコ)する際に興奮を高めるために使用する素材(ズリネタ)は想像力に頼るよりほかにすべもなく、夜毎就寝前に布団の中で手慰み(ティコティコ)して身悶え

る私の頭の中では、往年の日活ロマンポルノさながらのハレンチかつロマンティックなストーリー性に富んだ、10歳のガキンチョがこんなことまで考えてしまえるも

のなのか!悪魔の子!鬼畜ガキめ!とPTAで大問題となるような、めくるめく官能的かつ変態的世界が展開されていくのだった。子供は天使みたいな存在だから純粋で

健全なことしか考えていないと主張するウブな親御さんたちもいるかもしれぬが、そう信じたい気持ちもわからぬでもないが、それはとんだ大間違い、多少の個人差

こそあれど子供にだってもうすでに性欲はしっかりとあって頭の中では常にすんごいスケベことばかり考えているものであり、それは己の胸に問うてみれば容易に理

解するところであろう。そして、そんな具合に私が子供の頃に行なっていた秘密の手慰み(ティコティコ)において、持てる限りのあらゆる想像力を駆使していた経験が

今現在に至る私の藝術活動や創作活動や表現活動に良い意味でも悪い意味でも大いに影響を与えていると断言できるのだった。そんな当時10歳のガキンチョでその道

にかけてはもうすでに「一丁前」を通り越し「ベテランさん」の域にまで達していた私は、通常のありきたりな手慰みだけでは飽き足らず、その頃さらに特殊で変態

的な手慰み(ティコティコ)にも新たにいくつか挑戦しておって、まずは、名付けて「ジカンヨトマレ・ティコティコ」であり、これは読んで字のごとく今ではAVや映画

の題材にもなっていて若干オリジナリティに欠けるところがあるかもしれぬが、時間が止まってしまった世界を、なぜだか自分ひとりだけ自由に動き回り、言葉には

できぬような、例えばクラスメイト女子の家々を次々と訪問して回っては(もちろん回る順番も事細かに決めていた)、もうやりたい放題、卑猥な狼藉の限りを尽くすこ

とを頭の中で想像しながら手慰み(ティコティコ)する方法である。次に、名付けて「ジショ・デ・ティコティコ」であり、これも読んで字のごとく辞書で卑猥な言葉を

引きながら手慰みする方法で、今現在はまったく興味などないが、当時ガキンチョの私は女性の下着にもう興味津々で、辞書で【ブラジャー】→「乳を包むような形

の女性用の下着。胸の形を整えるために用いる。乳当て。乳押さえ。ブラ。」【パンティー】→「婦人用の短い下ばき。」【シュミーズ】→「婦人の洋装用の下着の

一つ。ひもで肩からつり、胸から股までをおおうもの。ふつう、そでがない。」【スリップ】→「婦人の洋装用の下着の一つ。肩からつってひざの上までおおう。」

【ガードル】→「女性の下着の一種。伸縮性のある材料で作られており、腹部から腰部にかけて体型をととのえるために用いる。」など、婦人用下着関連の言葉を引

き、それぞれの意味を読みながら手慰み(ティコティコ)するのである。次に、名付けて「スイチュウ・パニック・ティコティコ」であり、これはあまりにマニアック

過ぎてさすがの私もここに書いてよいものやら思わず躊躇してしまうけれども、この手慰み(ティコティコ)は女体や婦人用下着など性的な事物を対象にして興奮を得

るのではなく、己の置かれたシチュエーションによって興奮するというかなり特殊な方法で、それは主に夏の間だけ開放される近所の区民プールにて行われるもので

あった。当時私の家の近所の公園の片隅に25m屋外区民プールがあって、夏休みになると私も1歳上の兄や近所のごく親しい友人たちと毎日のように遊びに行ってい

たものだった。通常区民プールでは1時間に1度10分の休憩時間を挟まなければならないことがおそらく規則で決まっていて、そして、その特殊でマニアックな手慰

み「スイチュウ・パニック・ティコティコ」はその休憩時間に入る間際の短い時間にいつも決まって密かに行われるのだった。やり方は概ね以下の通りである。1時

間に1度訪れる休憩時間は監視員の笛の合図からはじまる。笛の合図とともにプールで泳いでいた人々は一斉にプールサイドへと各自上っていく。もちろん私も監視

員の笛の合図を聞いて早くプールサイドへ上がらなければならないと考えるものの、だがしかし、私はなかなかプールサイドへ上がろうとはせずにわざとグズグズと

ギリギリの限界までプールの中にひとり居残り続けようと努力するのである。できる限り粘って粘って粘った末に意図的にプールサイドへ上がる最後の人を目指すの

である。早くプールサイドへ上がらなければならないとわかっていながらギリギリの最後の最後までひとりだけプールに残されているという背徳的なシチュエーショ

ンに私はまるでパニック映画の悲劇の主人公にでもなったかのような極度のパニック状態に意図的に己を陥らせて性的な興奮を覚えるのである。そのわずか20~30秒

長くても1分弱の短い間に私は水中で己のペニスを海水パンツ越しにこっそりティコティコするといった次第である。そして最後までプールの中にひとり残されてい

るという背徳的なスリルと興奮によるパニック状態の中で大興奮した私はいつもあっという間に絶頂を迎えるのである。今思い出して書きながら自分でも救いようも

なく変態的だと思うし、なぜそのような方法をどのようなきっかけでいつ編み出したのか(おそらく偶然のたまものだろう)まったく自覚がないのだけれども、当時の

私は近所の区民プールを訪れるたび特殊な手慰み「スイチュウ・パニック・ティコティコ」に興じていたわけである。ただし、念の為付け加えておくならば、前述の

通り、当時の私はまだ精通しておらず、発射される精液によってプールの水を汚す心配もなく、女性に対して性的に興奮を覚えているわけでもなく、性器を露出する

わけでもなく、特に他人に迷惑をかけるわけでもなく、ある意味子供の一時の気まぐれ遊びと笑って済ますこともできるのではないかなどと私は都合よく考えてみた

りもするが、もちろん「スイチュウ・パニック・ティコティコ」の後にも、いつも必ず訪れるあの例の虚無感からは誰しもが逃れられることなどは決して許されてお

らず、事を済ましプールサイドに上がって腰を下ろした私は気怠い倦怠感の中、心なしかいつもよりもまぶしく感じられる真夏の焼けつくような太陽の光を全身に浴

びながら、さらに自分が周囲から浮いてしまったような、まさに「異邦人」と呼ぶにふさわしい存在であることを骨の髄まで身に染みて思い知らされるのであった。

……

そして、ここからが本題である。かように、当時まだアソコが剥けていないくせして、秘密の手慰みにかけてはもうすでに「一丁前」を通り越し「ベテランさん」の

域にまで達し、日々の秘密の手慰みをやめなければならぬと頭で思いながらも体が言うことを聞かずになかなかやめられず、ずるずると深みに嵌まり込み、挙げ句の

果てに、特殊でマニアックな「スイチュウ・パニック・ティコティコ」に興じるまでの超絶変態的な「異邦人」へとみるみる成熟して行っていた、そんな私が10歳の

小学5年生だった夏休みのある日のこと、くだんの不条理な出来事が起こったのだった。私の母親の妹(おばさん)が横須賀に嫁いでいた関係で、毎年夏休みになると私

たち家族や母方の親戚一同は横須賀のおばさんの家を訪れ横須賀の海で1日を過ごすことがいつの頃からか夏の恒例の行事となっていた。当時10歳の私には1歳上の兄

と5歳下の妹がいて、さらにその時母親のお腹の中には10歳下の妹もいた。私の母親には兄弟姉妹が5人いたため、その子供である私にとっていとこに当たる同世代の

子供たちもたくさんいて、特に横須賀のおばさんの家には私の1歳上の兄と同い年の双子の姉妹がいて、彼女らとは夏休み冬休み春休みなど長期の休みになると互いの

家を行き来するほどに頗る仲睦まじき関係であり、私の中では夏休みに横須賀の海で皆に会うことが普段の秘密の手慰み以外の数少ない楽しみのひとつにもなってい

た。その日も親戚一同が横須賀のおばさんの家に集結し、おばさんの夫である地元横須賀生まれのおじさんが穴場だと薦めるH海岸へとタクシー数台に分乗して向かっ

た。そのH海岸は有名なK灯台近くにある、お世辞にも小綺麗とは呼べない海岸で、カモメの糞やら、クラゲの死骸やら、ワカメに似ているが少し変な色味の不味そう

な大量の海藻やら、空き缶、ガラス瓶、石ころ、貝殻が散在し、ゴツゴツとした岩場には気色の悪い大量のフナムシが蠢き、潮と生ゴミと安化粧品の混ざったような

腐臭が漂い、そして、いつも焼けつくような太陽の光が燦々とまぶしかった。目を細めて斜め前方へ目を遣れば、沖には猿島という名の昔軍事施設でもあった無人島

がポッカリと浮かび、そのさらに遠くの水平線を貨物船らしき船が何台か行き来しているのが小さく見えた。横須賀のおじさんは、昔泳いで猿島まで渡ったことがあ

ると自慢げに話してくれたが、私は子供ながらに、本当だったらすごいな、でも自分には土台無理な話だなとも思っていた。途中足のつかないほど深い場所で溺れて

しまったらと思うと少し怖くなって、そしてその時私は一瞬だけ頭の中で「スイチュウ・パニック・ティコティコ」のことを思い出したけれど、焼けつくような太陽

の光がまぶしすぎて、そんなことはすぐに忘れてしまった。それから大人たちは大人同士でビーチパラソルの下さっそくビールを飲みはじめ上機嫌となって、子供た

ちは子供同士で遠浅の海で泳いだり水を掛け合って戯れ合ったり水着を脱がせ合ったり溺れさせごっこをしたりして遊んでいると、すでに酩酊気味で赤い顔した横須

賀のおじさんが私のそばまでやって来て、ハマグリがたくさん捕れる秘密の場所があるとこっそり教えてくれたので、私は横須賀のおじさんの後をのこのこついて行

き、そこで横須賀のおじさんは私にハマグリの捕り方を懇切丁寧に教えてくれた。まず水中の底の砂を踵を使ってグリグリすると踵に何か石のような硬いものが当た

るから、そこを手で掘ってみればハマグリが捕れるとおじさんは言って、実際私の前でそれを実演して見せてくれた。それに習って私も水中の底の砂を踵でグリグリ

するとすぐに何か石のような硬いものに当たってそこを手で掘るとハマグリがいとも簡単に捕れたので、おじさんは、うまいうまいその調子だよと言って褒めてくれ

て、私も褒められて嬉しくて調子に乗って水の底の砂を踵でグリグリしまくれば本当に面白いくらいいとも簡単にハマグリが捕れるものだから、さらにおじさんは、

うまいうまいもしかしたらまもるくんはハマグリ捕りの名人かもねとふざけておだててくれたので、私ももしかしたら自分はハマグリ捕りの名人かもしれないと満更

でもなく思えてさらに嬉しくなってきて、私は早くビーチパラソルの下でビールを飲んでいる大人たちに捕まえたハマグリを見せてあげてビックリさせて、さらには

親戚一同からも、まもるくんはハマグリ捕りの名人だよねと褒めてもらいたいなと思いはじめていたのだけれども、次から次と面白いくらいいとも簡単にハマグリが

捕れてしまうものだから踵グリグリハマグリ捕りをやめるきっかけがなかなかつかめずに、瞬く間に私の両手はハマグリでいっぱいなっていって、とうとう私の両手

はハマグリでふさがってしまって、もうこれ以上はハマグリを捕っても手に持っていることができなくなってしまって、こんなことならばバケツを持ってくればよか

ったなと少しばかり後悔しながら、すでにおじさんは再びビーチパラソルの下へビールを飲みに戻ってしまっていたからおじさんを頼るわけにもいかず、ひとり残さ

れた両手をハマグリいっぱいにして苦悩するハマグリ捕り名人であるところの私は、これは一体全体どうしたものだろうか?と思案を巡らせると、すぐさま私の頭に

グッドアイデアがパッと閃いてきて、それはその時私が履いていた紺色のスクール水着である海水パンツの中に捕れたハマグリを入れておいたらいいのではないかと

いう素晴らしいグッドアイデアであり、私は我ながら自分はもしかしたら天才なんじゃないかと自画自賛しながら、ハマグリ捕り名人でグッドアイデアの天才でもあ

るところの私はさっそく両手をふさいでいた大量のハマグリを履いていた海水パンツの中へごっそり移してやると、すぐに私の海水パンツは童話の中の王子様が履い

ているかぼちゃパンツみたいにパンパンにふくらんで、その自分のまぬけな姿にほくそ笑みながら、私はこのまぬけなかぼちゃパンツ姿も早くビーチパラソルの下の

大人たちに見せてみんなの笑いを取ってやりたいなとも思いはじめていたのだけれども、ハマグリを海水パンツの中にすべて移してしまった結果ふさがっていた両手

が空いて自由になったのでさらにハマグリを捕ることができるなと判断した私は、そこで再び踵グリグリハマグリ捕りをはじめれば、やはり面白いくらいいとも簡単

にハマグリが捕れるので瞬く間に私の両手は再び大量のハマグリでふさがっていって、そこでようやくさすがにそろそろ潮時かなと判断した私はハマグリ捕りを終了

させる決断をくだして、早くパンパンのかぼちゃパンツ姿で両手にハマグリいっぱいの私の勇姿をビーチパラソルの下の親戚一同に見せてビックリさせて、しかし本

当にまもるくんはハマグリ捕りの名人だよねさすがだよねと大絶賛され浜辺の人気者になりたいなとはやる気持ちを抑えながら、さあハマグリ捕りの名人であるかぼ

ちゃ王子の帰還ですよ!と言わんばかりに意気揚々と浜辺のビーチパラソルを目指して一目散に突進している途中に何だか私はパンパンの海水パンツの中に嫌な違和

感を覚えはじめて、そしてその嫌な違和感は意識すれば意識するほどどんどん強くなっていくようにも思われて、さらにその嫌な違和感はどこからやって来るのかと

言ったらば、それはどうやら当時まだ剥けていなかった私のアソコの先っちょからやって来るようでもあり、つまり私はその時童話の中の王子様が履いているかぼち

ゃパンツみたいにパンパンにふくらんでいた海水パンツの中の私の皮を被ったアソコの先っちょにピリッとした嫌な違和感を覚えたわけであり、一体全体、今私の海

水パンツの中ではどんな事態が起こっているのだろうか?とまさに青天の霹靂の恐ろしさのあまり私は思わず勇ましい歩みを一旦止めて、とりあえずは両手をふさい

でいた大量のハマグリを最早もったいないなどという気持ちは微塵もなくあっけなく水中にすべてばら撒いて捨ててしまうと、晴れて自由となった両手を使ってかぼ

ちゃパンツのようにふくらんでいた私の海水パンツの中を勇気を振り絞り覗き込んでみれば、そこではなんと!大量のハマグリの奥に垣間見える私の皮を被ったペニ

スの先っちょ(小便の出口で仔象の鼻みたいにシワシワになってキュッと締まっている部分)に1匹の不良ハマグリがちゃっかり噛みついているのであった!それまで

にペニスの先っちょをハマグリはおろか何物かに噛みつかれた経験など一度もなかったウブな私は突然の思いもよらぬ事態にビックリ仰天!腰が抜けかけるも、でも

その時はまだそれほど深刻にも受け止めてはおらず、何とかなるだろうというかすかな希望は捨ててはおらず、私のペニスの先っちょの皮の部分を(ちょうどハサミ

式のクリップで開け口を留めるような要領で)うまい具合にちゃっかり噛みついている直径5~6cm大ほどの不良ハマグリを何とかして私の皮の被ったペニスの先っち

ょから引き剥がそうと無理やり引っ張ってみたり、指を使って無理やり不良ハマグリの口をこじ開けようと懸命に努力してみるものの、それは『北風と太陽』の北風

のような、焼け石に水の無駄な努力であることをさすがの私も徐々に理解しはじめてきて、というのも私の皮の被ったペニスの先っちょから不良ハマグリを引き剥が

そうと無理やり引っ張れば引っ張るほど、無理やり不良ハマグリの口をこじ開けようと力を入れれば入れるほど、逆に不良ハマグリの噛みつきはさらにさらに強く深

く確実になっていくようにも思えてきたからであり、まったくもって手の施しようもなく途方に暮れてしまった私は、もしかしたら自分はこのまま一生ペニスの先っ

ちょを不良ハマグリに噛みつかれたままの状態で生きてゆかねばならないのだろうか?こんなまぬけな姿を他人に見られたら恥ずかしくて生きていけないだろうよ!

それにこのままだともう二度とティコティコもできなくなるのではないのか?いやティコティコどころかもう一生オシッコもできなくなるのではないのか?ともう本

当に恐ろしくて恐ろしくて堪らなくなってきてしまって、私の皮の被ったペニスの先っちょに噛みついている不良ハマグリ以外のハマグリを海水パンツの中からすべ

て取り出して水中に乱暴に投げ捨てた上で、不良ハマグリ1匹と一対一で対峙する形であらためて最後にもう一度だけダメ元で無理やり引っ張ってみれば、やはり案の

定というか引っ張れば引っ張るほど噛みつきがどんどん強く深く確実になってきたため、あああああああ、もうダメだ!もうおしまいだ!と絶望感にとうとうパニッ

ク状態に陥った私は、半べそかきながらビーチパラソルの下でビールを飲んで上機嫌の大人たちの元へと無我夢中で走っていき、一体どう話を切り出せば良いものや

ら見当もつかずオロオロしながらも、とりあえずは気持ち良さげに眠っていた妊娠中の母親を叩き起こして、その時私が陥ってしまっている絶望的な窮地について、

ハマグリがとかちんちんにとか先っちょにとか噛みついてとか取れないよとかどうしようとか途切れ途切れに懸命に説明しようと試みるも、パニックに陥った私の言

葉が足りないせいか、寝ぼけ眼の母親はすぐには理解してくれず、一体この子は何を言ってるんだろうか?とうんざりと猜疑の目すら向けはじめてきたので、これは

言葉で説明するよりも実物を見せてしまったほうは話が早いだろうと判断した私は、母親の前で履いてた海水パンツをペロッとずらして、不良ハマグリに先っちょを

噛みつかれている私の皮の被ったペニスを丸出しにして見せてやると、母親はギャー!っと物凄い叫び声を上げて、その母親の叫び声に驚いた親戚一同さらにはその

時その場に居合わせたその他大勢の海水浴客たちが不良ハマグリに先っちょを噛みつかれている私の皮の被ったペニスを中心にしてわんさかわんさかと集まってきて

大騒ぎとなって、キャー!とか、ギャー!とか、スゲー!とか、ヤベー!とか、どうしたのー?とか一体何があったのー?とか、酔っ払った誰かはニヤニヤ笑いなが

ら、オシッコ!オシッコ!オシッコ!オシッコしなさい!オシッコすれば取れるって!オシッコ!オシッコ!オシッコ!と大喜びしていて、私も一応試しにオシッコ

してみようと力んでみるも、でもそういう状況で都合よくオシッコなんてもんは出てきてはくれないもので、そんな大群衆のギャラリーの無責任な声を遠くに近くに

聞きながら私はまぶしすぎるほど焼けつくような真夏の太陽の光を全身に浴びてまるで白昼夢のさなかにでもいるかのような現実味をちっとも感じさせない絶望的な

気分でだんだんとわけがわからなくなってきて、もうどうしようもなくなって、気がつけば大声で泣きはじめているのであった。そんな私を見るに見かねた横須賀の

おじさんが私をフナムシが蠢く岩場へと連れていき、海水パンツを脱がせて私を全裸にし、もちろんそこにも無責任な大群衆のギャラリーはわんさかわんさかと一緒

に移動して来たわけだけれども、横須賀のおじさんはちょうど良い高さの岩の上に不良ハマグリが先っちょに噛みついた状態の私の皮の被ったペニスをちょこんと乗

せるようにと指示した上で、どこからか赤ん坊の頭くらいの大きさの適当な石を拾ってきて、私の皮の被ったペニスの先っちょに噛みついている不良ハマグリ目がけ

て一二の三で振り落とすと、かなりの衝撃とともに不良ハマグリの片側の貝殻が粉々に砕けて、そして、何とか無事に私のペニスは解放されましたとさというわけで

あり、大群衆のギャラリーからは、よかったね、ほんとによかったよかったよかった!と拍手喝采の雨あられ、その中心に全裸で呆然と立ち尽くすアホバカマヌケ面

の私に横須賀のおじさんは、早く履きなさいと海水パンツを手渡してくれて、それから片側の貝殻が粉々になった瀕死の不良ハマグリを無造作にその辺にほっぽり捨

てて、何だか全身の力が一気に抜けてしまったような、ティコティコしたわけでもないのにいつもティコティコした後に訪れるあの例の虚無感に襲われたような朦朧

とした気分でいる私の全身には相変わらず真夏の焼けつくような太陽の光が容赦無く降り注いでいて、その焼けつくような些かまぶしすぎる太陽の光を私は生涯忘れ

ることはないだろうとその時ぼんやりと思っているのだった。その日の夕飯の食卓にはハマグリのお吸い物が出され、親戚の誰かが、このハマグリはまもるくんのお

ちんちんに噛みついた不良ハマグリかなー?と冗談を言うと、親戚一同がどっと笑ったけれど、私は、何が面白いんだろうか、面白くなんてあるもんか、だってあの

不良ハマグリは石を振り落とされて粉々になったはずじゃないかよとプイっと不貞腐れた顔して少しイライラしながら、もしかしたら、ハマグリ捕りの名人だなんて

おだてられて調子に乗った挙げ句の果てに海水パンツの中にハマグリ入れてかぼちゃ王子の帰還ですよ!などと他人にいいところを見せてやろうと欲をかいたのがい

けなかったのかもしれないな、いや、そもそもの話、もしかしたら、ティコティコをやめなければならないとわかっていながらずるずるとやめられず、調子に乗って

区民プールで「スイチュウ・パニック・ティコティコ」なんてやっていたから、そのバチが当たったのかもしれないな、と子供ながらにぼんやりと思っているのだっ

た。以上が、私が子供の頃に起きた不条理な夏の出来事のすべてであるが、今振り返ってみても、ペニスの先っちょをハマグリに噛みつかれている状況とはまさしく

不条理以外の何物でもなく、あまりに不条理極まりない出来事だったと思うけれども、果たして人がペニスの先っちょをハマグリに噛みつかれる可能性というのはど

れくらいの確率なんだろうか、1億人に1人くらいか、もっと天文学的数字か、それは様々な偶然的要素が重ならなければ起こり得ない奇跡であり、まずペニスが剥

けていない状態であることが大前提となるわけであり、さらにはペニスとハマグリが密接な関係性を持つ機会が与えられなければならぬわけであり、つまり、あの当

時の私がすでにバッチリ剥けていたならばあのような不条理な出来事は起こらなかったというわけであり、あの時アソコが剥けてさえいたらばと悔やんでも悔やみき

れないところでもあり、しかも何が最悪かと言えば、それは私が生まれて初めてフェラされた相手がハマグリだったという事実であり、これはその後の私の人生にお

ける数多の女難の華麗なる幕開けだったと言えるのやもしれぬが、とまれ、子供の頃にこのような不条理な体験をした私が、爾来、現実世界に対して「異邦人」であ

ることにさらに自覚的になっていき、みるみると拍車がかかっていったことはまったく想像に難くなく、そして実際に今現在の私は相も変わらず「異邦人」のままで

ある。人生は不条理な出来事の連続であり、いやむしろ生きることそのものが不条理であるとも言えるけれども、これから先も私は「異邦人」である自分から決して

目を逸らすことなく、自分が「異邦人」であるという現実を乗り越えていく覚悟をもって「異邦人」として死ぬまで生きてゆかなければならぬのである。もしかした

ら世界中を探せばどこかに私と同じような不条理な体験をした人がいるのかもしれない。もしもそんな数奇な体験をした人が実際にいるのならば、是非とも共に語り

合ってみたいものである。その時どんな気分だったのか、その後の人生は変わってしまったのかどうかなど。ハマグリの磯焼きを肴に夏の海岸で酒でも飲みながら。

2022.11

 

 

 

 

 

18.『Today's Art / 藝術とは一体なんぞや? (仮)』

 

 

私の母方の祖父は私が生まれてすぐに亡くなったため、私の頭の中に祖父のリアルな記憶は一切存在せず、昔の古びたアルバムの中に赤ん坊の私を抱いて家の門前に

無表情で立つ祖父の色褪せた写真が1枚残されているきりだが、母親や親戚たちから伝え聞くところによれば、祖父は死の直前に自宅で最後の力を振り絞るかのごと

く巨大なウンコを一発ひり出してまもなく息を引き取ったそうであり、親戚一同が会し祖父の話になるたび、皆口々に「出すものしっかり出してスッキリあの世へ旅

立って行ったのだから、さぞかし幸せだったのだろうね」と死にゆく者が実際に何を考えていたかなど本人以外は知る由もないところへ手前勝手なオチをつけるのが

慣例であり、それゆえに、私の中で母方の祖父は「死に際に巨大なウンコを置土産にしてスッキリ死んで行った人物」といった印象で常に思い起こされるのだった。

また、幼少の頃より私は母親から「ウンコを我慢しているとそのうち全身にウンコの毒が回って大変なことになってしまうから、ウンコは溜めておかずにさっさと出

しておしまいなさいよ」と散々脅かされて育ったため、ウンコを出さずにいる状態とは人間の身体にとっては大変よろしくないという認識で常にいるのだけれども、

幸いなことに私はこれまでの50年に及ぶ決して他人に誇ることなどできぬ本当にろくでもない人生を自堕落に生きてきた中でいわゆる便秘の症状に悩まされた経験は

一度たりともなく、どうやら肉体的には快便体質であるように思われるが、その反面、精神的な便秘には常に悩まされ続けてきたと言っても過言ではないのだった。

次は必ずウンコの話を書き上げるつもりだ!と固く心に誓ってから早1年の月日が経とうとしている。もちろん、その間にも私は毎日必ず最低1回尻の穴からウンコを

ひり出し続け、ウンコのことを考えない日は1日たりともなかったが。もっとも、33歳の時(あたかも猛烈な便意に襲われウンコをひり出すかのごとく)突発衝動的に

絵を描きはじめてからというもの、私は暇さえあればウンコのことばかり考えてきたような気がする。もうかれこれ15年以上(20年近く)も毎日毎日飽きもせずウンコ

のことばかり考え続けてきた計算になるわけである。まさに「我ウンコを思う、ゆえに我あり」のごとく、もう脳みそはウンコ塗れなのである。世間ではウンコの話

が書けるようになったらもう一人前だよねとよく言われるように、私も早く皆に一人前と認められたいがために果敢にウンコの話に挑んでみたものの、実際にウンコ

の話を書こうとすればすぐにわかると思うが、ウンコの話なんて簡単にチョロっとウンコするみたいに書けるだろうと思い上がっていた過去の自分が恥ずかしくなる

ほどに、ウンコの話を書くのはなかなかに難しいものだと今回あらためて私は骨の髄まで身に沁みて思い知らされたものであった。世間を見回してみれば、私よりも

さらに長きにわたりウンコについて熱心に考え続けているベテランの先輩方もたくさんおられるわけで、私などはまだまだ素人同然ペーペーの分際であるわけだが、

ともかく、27歳で藝術家になる!と宣言して会社勤めを辞め、33歳で実際に絵を描きはじめ本格的に藝術の道へと足を踏み入れた私にとって、ウンコという存在は藝

術作品であり、かつ、藝術作品はウンコであり、かつ、藝術活動は排泄行為であり、かつ、排泄行為は藝術活動であり、なおかつ、私の人生とは、排泄行為や排泄物

(ウンコ)、分泌行為(SEX射精)や分泌物(精液)その他諸々をも含めた一つの総合藝術作品であるとも言えるわけで、すなわち、私にとってウンコの話を書くことは、私の

人生という総合藝術活動の一環に他ならぬわけである(自分でもちょっと何を書いているのかわけがわからなくなって混乱してきたが、私のウンコと藝術に対する熱い

思いはきっと皆にも伝わることだろう)。世間にはウンコの話を書く者など私の他にも探せばいくらでも(それこそ道端のウンコにたかる蠅のごとく)腐るほど見つかる

だろうし、また、大昔から「究極の選択、ウンコ味のカレーとカレー味のウンコだったらどっちを選ぶ?」みたいな言葉遊びもあり、私はその手のふざけた質問を受

けるたび「俺はウンコなんて食べたことがないので判断のしようもない」とキッパリと答えながら「ところで、そういうお前さんたちはウンコ食べたことあるんだよ

な?そういうふざけた質問はウンコ食べてからにしろ、ウンコ食べたこともないくせにウンコの味なんてわかるわけないだろうが、そういうふざけた質問はウンコに

対してものすごく失礼だぞ、ウンコ舐めてんのか!まったくもってクソ喰らえだよ!」と決して口には出さぬも内心いつも不機嫌にイラついていたものだが、それら

世に溢れ返るウンコの話のうちのほとんどすべてが実際には読むに堪えないふざけたウンコの話ばかりで正直失望や落胆や憤りを隠せず、おそらくその理由はそれら

ウンコの話を書く作者であるところの彼らがウンコという存在を自分自身とは一切無関係の醜く卑しい存在と蔑視しウンコに対して敬意が微塵も感じられぬ上に、さ

らには彼らが実名や出自を一切明かすことなく匿名の安全圏においてウンコの話をいい加減な気持ちで無責任に書き散らかして悦に入っているからに他ならず、そう

いう覚悟のない卑怯者の書くふざけたウンコの話などは、公衆便所の壁にウンコと落書きしたことをあれは自分の作品だと主張したり、他人の家の門前にこっそりウ

ンコをして逃げていく変質者(いやもうすでに犯罪者だ!)と何ら変わりがなく、これは別にウンコの話を書くなと言っているわけでは決してなく、今こうしてウンコの

話を書いている私がそんなことを言える筋でもなく、ウンコの話を書きたいと是非に思うのならば大いに書けばよろしいし、書くと決めたからには腹を括りウンコと

真摯に向き合い正々堂々胸を張ってウンコの話を書けばよいだけのただそれだけの話であり、己のひり出したウンコ(象徴的な意味)に対しては人間として最小最低限の

責任を持つことが一般常識であり(幼稚園児や小学生の作文にだって自分の名前はきちんと書いてあるし、百歩譲って内輪のサークルで匿名のニックネームで呼び合い

褒め合い馴れ合いふざけ合い盛り上がる分には別に構わないのかもしれぬが、公の場に出てきてはいけない)、そんなモラルも度胸もない胸糞の悪い文章には何らの魅

力が備わっているはずもなく、そんな無責任な文章を書いたところでそれは何も表現していないに等しく、そんな無責任な人間も存在していないに等しく(もしかした

ら人間ですらなくロボットやAIなのかもしれず)、そんな無責任な方法でしか己を表現できないのならはなから何も表現しないほうがマシであり、これはウンコの話だ

けに留まらず、バンクシーとか、電車男とか、SNS匿名アカウント(特にネカマ)、匿名掲示板の書き込み(コテハン含む)、新聞雑誌読者投稿、ラジオ番組ハガキ職人、

覆面イラストレーター、男だけ覆面して顔を隠したハメ撮り無修正AV(下半身は丸出し)などに対する不信感不快感および嫌悪感とも通底し、つまり私が心底忌み嫌う

のは覆面を被り己の正体を一切明かすことなく何かを表現し結局何も表現していないのにもかかわらず何かを表現した気になって気持ち良くなっている面々であり、

ゆえに私はインターネットにおける匿名行為や己が何者であるかについての情報を一切明かさぬ無責任極まりないあらゆるすべての表現行為は法律で厳しく禁止すべ

きとすら思っているが、支配層/権力者も少なからずその恩恵に与っているためなかなか難しいところではあろうか。一方、私が書くべく目指すウンコの話とは、それ

ら一山いくらのふざけたウンコの話とはハッキリと一線を画す、もうガチンコ真剣勝負でウンコという存在と対峙し(とはいえさすがの私もウンコを食べた経験はなく

これから先食べる予定もないので無責任と言えなくもないが)、ためつすがめつきちんと自分の頭でじっくりとウンコについて考え尽くし脳みそをウンコ塗れにした末

に正々堂々と実名や出自を明かした上で身を削って書く正真正銘まじめなウンコの話であり、そして、私にとっては「藝術=ウンコ」ゆえに、すなわち、それはウン

コの話をカモフラージュとした正真正銘まじめな藝術の話ともなるわけである。そもそも、ウンコというのはまさしくあの例のウンコのことであり、つまり、糞便、

大便、便、糞、くそ、クソ、ウンコ、うんこ、ウンチ、うんち、大、大きいの、大きいほう、関西弁でババ、英語でShit/Poopなどなど、他にも呼び名は古今東西数

え切れぬほど多種多様なれども、健康な人間や動物の尻の穴から飛び出てくる排泄物としてのあのウンコのことであり、念のため辞書で調べてみるならば「だいべん

【大便】消化された食べ物のかすが肛門から出るもの。くそ。うんこ。」「くそ【糞】肛門から出る、消化されたあとの食べ物のかす。ふん。」「ふん【糞】動物が

肛門から外へ出す、食物のかす。くそ。大便。」などと書かれてあって、普段私が好んでよく使用するのはカタカナの「ウンコ」であり、正直ひらがなの「うんこ」

も甲乙付け難いところではあるが、ここではすべてカタカナの「ウンコ」に統一することにする(ただし便宜上「クソ」「糞」「一本糞」「くそったれ」などと書く場

合もある)。いい歳した立派な大人がウンコの話なんて下品で汚らしい、どういう躾けをされて育ったのかしら、親の顔が見てみたいものだわ、などと眉を顰める手合

いも現われるやもしれぬが、その彼らにしたところで毎日必ず1回(人によってはそれ以上以下の頻度で)尻の穴からウンコをひり出し続けて生きてきたわけである。一

体、世の中の醜いものや汚いものから都合良く目を逸らし美しいものだけを見て生きていきたいというふざけた態度はいかがなものであろうか。あまりにも無責任過

ぎやしないか。そんなものは見せかけだけの表面的な美しさであって本質的な美しさなどでは決してない。そんなものはSEXシーンのまったく出てこない子供だまし

の恋愛映画のようなものである。かの岡本太郎も『今日の芸術』という本に書いているように「芸術はきれいであってはならない」のである。我々人間にとって排泄

物(ウンコ)や分泌物(精液)までもを含めた生きることのすべてが藝術作品そのものと捉えるならば、自分の尻の穴からひり出したウンコに対しても人間としてきちんと

責任を持たなければならぬのである。生まれてこのかた一度たりとも尻の穴からウンコをひり出した経験がないというのなら話は別だが、米が異なると書いて糞とな

るように、人間というケダモノに生まれてきた以上毎日必ず1回(人によってはそれ以上以下の頻度で)尻の穴からウンコをひり出さずにはおられぬわけである。それに

そもそもこの世にウンコのことが嫌いな人間など存在するのであろうか。生きとし生けるもの、老若男女、古今東西、モーツァルトも、フロイトも、スウィフトも、

ラブレーも、マルキ・ド・サドも、ザッパも、ゴダールも、ブコウスキーも、バーホーヴェンも、ディヴァインも、モリッシーも、マット・デイモンも、ギルバート

&ジョージも、五味太郎も、寅さんも、●●●●も、他にも大勢、みんな頭の中ではウンコのことばかり考えているのではないのか。脳みそはウンコ塗れなのではないの

か。その証拠に人は皆ひとたびウンコの話になると途端に目が爛々と輝き出し水を得た魚のごとく生き生きとしてくるではないか。特に藝術的才能に恵まれた藝術家

たちの間にウンコ好きが多いように見受けられるが、おそらくそれは彼らも私同様ウンコという存在を藝術作品として捉えているからに違いない。もっと世の中の皆

が己の心に素直になって、ウンコを醜いものや汚いものとして目を逸らしたり蛇蝎のごとく忌み嫌うのではなく、ウンコという存在に対し敬意や寛容の心や責任感を

持って接したり、もっと皆がカジュアルにファッショナブルに、そしてまじめにウンコの話ができるようになれば、もっと皆が生きやすい世の中に変化していくので

はないか、なるわけないか、なってみないとわからないか、なってみてもわけわからないか、などと時々私は考えてみたりもするが、例えば、週末の昼前、青山辺り

のカフェテラスにて、今風のオシャレな女性2人の会話「私、今朝すんごいぶっといウンコぶちかましちゃってさ、さっそくインスタにあげてあるから、リョウコも

チェックしてみてよ、良かったら、いいね!とかしてくれたら嬉しいかも、今朝のはあまりにぶっといウンコだったから、思わずケツ拭く前にインスタにあげちゃっ

た、ウンコぶちかましてからインスタにあげるまでに要した時間、たったの7秒、もちろんこれは自分史上最速記録で、100メートル走の世界記録よりも3秒近く速い

んだよ」「あ、見た見た見たよーん、うっそーん、ヤバい、ヤバすぎ、ぶっとすぎ、これぞインスタ映えってやつですねー、さすがはトモヨさん、うちらの中ではウ

ンコと言えばトモヨさんだもんねー、私も今朝結構ヤバめのウンコぶちかましたんだけどさー、さすがにトモヨさんほどぶっとくなかったけど、バケツ一杯分くらい

大量にぶちかましたんだよーん、私もインスタにあげてみたから、チェックしてみてね、お粗末で恥ずかしいけど、良かったら、いいね!とかしてよね」「あ、見た

見た、悪くないよ、全然悪くない、ちゃんとインスタ映えしてるし、すっごい大量のウンコだね、リョウコらしいっていうか、リョウコにしかぶちかませないメガ盛

りMAXウンコだよね、これだけメガ盛りMAXだとすぐにリョウコのウンコってわかるもんね、ウンコにリョウコって名前が書いてあるみたいな」「ありがとー、嬉し

いよーん、正直インスタにあげるかどうかすっごーく迷ったんだよね、インスタにウンコの写真あげるなんて人としてどうなのかなーとか頭抱えちゃって、トイレに

こもってケツ拭くのもすっかり忘れてメガ盛りMAXウンコとにらめっこすること、小1時間、でもトモヨさんも素敵なぶっといウンコの写真を毎日インスタにあげて

るし、たまたま今朝はインスタ映えしそうないい感じのメガ盛りMAXウンコ盛り盛りぶちかませたから、私も思い切ってインスタにあげてみたんだけど、あげて良か

ったなーって今では思ってるんだよーん、うちらの間ではウンコと言えばトモヨさんだし、そのトモヨさんからウンコを褒められるってことはさ、私のウンコもそん

なに捨てたもんじゃないのかなーとか思ったり、なんだか自信ついちゃうなー、少しくらいは自惚れてもいいのかな?」「全然全然、自惚れて構わないよ、自惚れま

くって部屋で一人トップレスになっておっぱいブルンブルンボヨンボヨンさせながらヘンテコな創作ダンスとか踊ってくれても全然構わないよ、それくらいインスタ

映えする素敵なメガ盛りMAXウンコだよ、これだけ大量のメガ盛りMAXウンコ盛り盛りにぶちかませる人なんて滅多にいないんだからさ、リョウコももっと自信持ち

なよ」「うん、自信持っちゃう、明日からも毎日インスタにメガ盛りMAXウンコ盛り盛りあげちゃうぞー!」「すっごく楽しみだね、私も毎日インスタにぶっといウ

ンコの写真あげるようになってかれこれ10年になるんだけどさ、毎日が充実してくるんだよね、朝も目覚ましなしでパッチリ起きれちゃう、今の私はインスタにぶっ

といウンコあげるために生きてるようなもんなんだ、私のぶっといウンコ目当てのフォロワーさんも世界中にたくさんいて、今現在の私のフォロワーさん数は大体14

億人前後なんだけど、ウンコあげる前まで50人前後だったのが、ウンコあげるようになってからあれよあれよと爆発的に増えていって、今じゃ14億人、みんなウンコ

のことが大好きなんだなあって、恐るべしウンコパワーだよね、毎日あげるウンコの色や形やぶっとさによって、フォロワーさん数が1000万人単位で増減したりね、

みんなウンコに対してわがままな拘りを持ってるみたいね、でも私が毎日あげるぶっといウンコを見て、世界のどこかの誰かさんが、毎日色々辛いこともあるけど希

望を持って生きていこうって勇気づけられたり元気になったりしてるとしたら、私も嬉しくなって部屋で一人トップレスどころか全裸になっておっぱいブルンブルン

ボヨンボヨンさせて陰毛ワッサワッサさせながらヘンテコな創作ダンスとか踊りたくなっちゃうけどね、あ、ごめん、勢いで嘘ついちゃった、私ド貧乳だったわ、お

っぱいブルンブルンボヨンボヨンはどう考えても無理だわ、でもそれくらいの気持ちってことだよ」「何だかんだで結局みんなウンコが大好きなんだよねー、人はウ

ンコの何に魅了されるんだろう、不思議だよね、私も今日初めてウンコをインスタにあげた5分後に、いきなりフォロワーが1億人になってて、もうビックリだよ、ウ

ンコあげる前まではたったの6人だったのに、でもトモヨさんのフォロワー14億人ってMAJIすごすぎない、14億人とかもう中国の人口くらいだよ、中国全人民が毎日

トモヨさんのぶっといウンコに熱い視線を送って一喜一憂してるってことになるわけだよね、チャン・イーモウとかコン・リーとかチェン・カイコーとかトニー・レ

オンとかチャン・ツィイーとかファン・ビンビンとかジャッキー・チェンとかサモ・ハン・キンポーとか習近平とか江沢民とか胡錦濤とか毛沢東とか周恩来とか蒋介

石とか孫文とか魯迅とか孔子とか孟子とか始皇帝とか阿片戦争とかラストエンペラーとか満州事変とかチンギスハーンとか三国志とかシルクロードとか万里の長城と

か北京原人とかジャイアントパンダとか、まさに中国4千年の歴史がトモヨさんのぶっといウンコに大注目してるんだねー、リットン調査団にじっくり調査されたり

匈奴に襲撃されたりしてるわけだねー、コメント欄にも、便便來了(ウンコキター)!臭(くっさーwww)!好ロ巴(よっしゃ)!我一直在等(待ってました)!多好(いいね)!謝

謝(ありがと)!加油(がんばれ)!太厚(ぶっとすぎでしょ)!臭(くっさーwww)!漂亮(美しい)!精彩的(素晴らしい)!多少銭(いくらですか)?臭(くっさーwww)!可以發送

給ロ馬(送ってもらうことできますか)?讓我們用它來交換我的便便(僕のウンコと交換してよ)!臭(くっさーwww)!我可以吃ロ馬(食べられますか)?好吃ロ馬(おいしいです

か)?我絶対想吃(是非とも食べたいです)!我想吃很多(いっぱい食べたいです)!臭(くっさーwww)!請補充(おかわり下さいな) !我吃飽了(もうお腹いっぱい)!我想發生

性関係(SEXしたいです)!臭(くっさーwww)!我真的很想發生性関係(マジでSEXしたいです)!請給我口交(フェラチオして下さい)!臭(くっさーwww)!請深喉(イラマチ

オお願いします)!成為情婦(愛人になって下さい)!嫁給我ロ巴(結婚して下さい)!とか好意的な言葉がずらっと並んでるし、なんだかトモヨさんすごく輝いてるもん、

年の割には全然若く見えるし、お肌もツヤツヤしてるし、トモヨさんのぶちかますぶっといウンコみたいにキラキラ輝いてまぶしいもん、私もトモヨさんを見習って

これから毎日インスタ映えする素敵なメガ盛りMAXウンコ盛り盛りぶちかませるよう頑張るぞー!」「リョウコならきっと大丈夫だよ、お互い頑張ろうね、しかし、

ぶっといウンコぶちかます時の昂揚感といったら他ではなかなか味わえないもんがあるよね、神懸かってるっていうか、ぶっといウンコがバットホールさんを通過す

る時のあの何とも言えぬゾクゾク感は嵌まったら抜けられないよね、私は今生きてるんだなあって心からそう思えるもん、産卵するウミガメみたいに時々涙流したり

してるもん、ぶっといウンコがバットホールさんを通過する時間が長ければ長いほどそれだけ気持ち良さも増幅して、Fly Me To The Moon、このまま別世界へぶっ飛

んで行けちゃいそうっていうか、普段は意識高い系のインテリオシャレさん気取ってるこの私がウンコする時だけは一匹のケダモノに戻っちゃうっていうか、ウアオ

ごおアオおオおアオおアおウごおオ!とか地響きみたいな野太い唸り声を気づいたらあげてたり、お隣りさんやご近所さんや町内会長さんにもバッチリ聞かれちゃっ

てるかもとか想像したら興奮してきて唸り声をさらに大きくしてみたり、その極端なギャップも自分では意外と気に入ってたりするんだよね、今度Youtubeで脱糞ラ

イヴ配信とかにもチャレンジしてみようかな」「わかる、わかる、わかりみー、私も今朝メガ盛りMAXウンコ盛り盛りぶちかました時はかれこれ30分くらいかかった

んだけどさー、全然止まらない、ヤバい、止まらない、止まらない、ヤバい、ヤバい、ウンコ止まんねえよーってもうMAJIで失神する5秒前だったもんねー、気づい

たらバットホールさんを竜巻みたいに高速回転させて『バットホール・トルネード』っていう即興で作った自作の歌口ずさんでたり、ほんとヤバかったんだよねー」

「あ、ところで今かかってる音楽、モーツァルトだよね?全然関係ないけどさ、私モーツァルト聴くと必ずウンコぶちかましたくなるんだよね、何でかな?今朝もモ

ーツァルト聴きながら気づいたらぶっといウンコぶちかましてたんだ、今もぶちかましたくて若干催しかけてるし」「え?モーツァルト?モーツァルトでしょ?あの

モーツァルトだよね?ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトだよね?全然関係なくないよー、関係ありありの大アリクイのありありありーだよーん、だってモ

ーツァルトはウンコ大好きさんで有名な人じゃん、ヴォルフガングっていう名前の響きからしてもうウンコ大好きって言ってるようなもんだし、ウンコといえばモー

ツァルト、モーツァルトといえばウンコ、ウンコ界の巨匠的存在じゃん、うちらの間でウンコと言えばトモヨさんが知らないはずないと思うんだけどな、もしかして

私カマかけられてるのかな?ウンコ検定3級みたいな感じで、でもさすがはトモヨさんだよね、モーツァルト聴きながらぶっといウンコぶちかますなんてさー、まさ

に意識高い系のインテリオシャレさんって感じだよねー」「ありがとう、リョウコにそう言ってもらえて私も私のぶっといウンコも大喜びだよ、畏れ多いことだよ、

さすがにウンコ好きの間でモーツァルトの話を知らないとかニワカ扱いされちゃうからね、お察しの通り一発カマしてやりましたよ、リョウコさん、ウンコ検定3級

見事合格でーす、おめでとう!ところでリョウコは最近どんな音楽聴いてるの?」「えっとねー、私は最近フランク・ザッパとか聴いてるよーん、最近付き合いはじ

めたギタリストの彼氏にオススメされて聴いてみたら意外とよくって、Freakyでサイケな感覚がたまらねえーみたいな、ザッパ聴くたんびにいつもメガ盛りMAXウン

コ盛り盛りしたくなっちゃう、これは彼氏に聞いた話なんだけどね、ザッパは昔ステージでウンコ食ってたみたいだし、本当だったらヤバいよねー、さすがの私もウ

ンコは食べれないなー」「あ、その話なら私も聞いたことあるあるのあるあるかもかもの鴨長明あるかもだよ、超有名な話だよね、でもザッパは、俺はウンコ食って

ないってハッキリ否定してるんだよ、神に誓って俺はウンコなんて食ってないって、ウンコ食ったのはアリス・クーパーだって、昔読んだ自伝の冒頭にわざわざそう

書いてたから、たぶんザッパはウンコ食ってないんじゃないのかな」「へー、そうなんだー、その話知ってからザッパって聞くと自動的にウンコを思い出しちゃって

たんだよねー、そっかー、ザッパはウンコ食ってないんだー、アリス・クーパーに流れ弾、笑えるねー、ギタリストの新しい彼氏なんか、俺もウンコ食えばギター上

手くなるのかなー、俺もウンコ食おうかなー、ウンコなんか別に食いたかないけど、ギターが上手くなるんならウンコ食わないっていう手はないよなーとか言い出す

からさ、お願いだからそれだけはやめてーって私慌てて止めたんだよー、ウンコなんか食べる人とは絶対絶対別れるからーってもう号泣しながら私止めたんだよー、

でもものすごく勉強になるなー、こうやってトモヨさんとウンコの話をすればするほど確実に私も賢くなっていってるような気がするんだよねー、さすがは意識高い

系のインテリオシャレさんでウンコぶっとい系のトモヨさんだよねー、感謝してまーす、あ、そうそう、ところで今日のランチ何食べるー?」「うーん、私今日はカ

レーの気分かなって朝からずっと思ってたんだよね、モーツァルト聴いてぶっといウンコぶちかましながら、今日のお昼は絶対カレー食べようって」「うっそーん、

うっそーん、信じられなーい、奇遇だねー、私も今日のお昼は絶対カレーって心に決めてたんだよーん、今朝もザッパ聴いてメガ盛りMAXウンコ盛り盛りぶちかまし

ながらさー」「これはもうカレー以外の選択肢はないってことですね」「もうカレーで決まりだね」「あ、ところでカレーと言えばさ、もしもの話だよ、もしもカレ

ーにウンコが混ざっていたとしても全然バレないような気がしない?」「え?カレーにウンコ混ぜるの?何それー、やだー、思わず想像しちゃったよー、ヤバいね、

ヤバいね、さすがは意識高い系のインテリオシャレさんでウンコぶっとい系のトモヨさんだよねー、そんなことまで考えちゃうんだー」「いやいや、さすがの私も年

がら年中そんなことばかり考えてるわけじゃないよ、ウンコにカレー混ぜる系の話は1日2時間くらいだよ」「1日2時間かー、ギリギリセーフかなー、それ以上いっ

ちゃうと、さすがにこれから先のトモヨさんとの付き合い方とか真剣に見直さないといけなくなっちゃうしねー、ドン引きだよー、いくら意識高い系のインテリオシ

ャレさんでウンコぶっとい系のトモヨさんであってもさー」「さすがに1日2時間以上はウンコにカレー混ぜる系の話なんて考えてないよ、いくら意識高い系のインテ

リオシャレさんでウンコぶっとい系の私であってもだよ、それだけは神に誓って言えるよ、でもさ、ちょっとだけ想像してみてくれるかな、もしもの話だけど、もし

もカレーの100%全部がウンコだったとしたら、それはさすがにすぐバレちゃうと思うんだけどさ、でも仮に10%だけウンコが混ざってたとしても、それは全然バレ

ないと私は思うんだよね、そして徐々にウンコを混ぜる比率を20%30%40%50%60%とどんどん上げていってさ、通常何%超えた時点でカレーにウンコが混ざって

るってバレちゃうと思う?私は76%くらいまでは全然いけそうな気がするんだよね」「76%かー、また絶妙な細かい数字出してくるよねー、さすがはうちらの中では

ウンコと言えばトモヨさん、意識高い系のインテリオシャレさんでウンコぶっとい系のトモヨさん、インスタに毎日ウンコの写真あげ続けて10年になるトモヨさんだ

けのことはあるよねー、そうだねー、たしかに10%とか20%とか少しくらいならウンコ混ぜてもバレないような気もするけどさ、さすがに30%超えたあたりから、

あれれれ、このカレーなんか変な味がするぞー?ってみんな気づきはじめると思うんだよねー」「30%か、それ以上だとさすがにバレちゃうかな」「さすがの私もウ

ンコなんて食べたことないからね、ウンコがどんな味なのか想像もつかない世界だけどさー、あの独特のウンコのニオイで絶対バレちゃうと思うんだよねー、トモヨ

さんの主張する78%なんて夢のまた夢の夢物語、竹取物語、子猫物語、武士道残酷物語で、実際50%も厳しいんじゃないのかなー、トモヨさんの78%って数字の根

拠は一体どこから出てきたわけ?」「私は実際ウンコ食べたことあるし、普段自分で作るカレーにもそれくらいの比率で自分のウンコ混ぜてるし、たまに彼氏にも食

べさせてるし、彼氏も、おいしいおいしい、トモヨの作るカレーはスパイスが利いてて、いつもおいしいおいしい世界一だよ!ってペロリと平らげてくれるからね、

あ、それから78%じゃなくて76%だよ、76%ね、78%は私もまだ試したことない未知の領域だよ」「澄ました顔してさらっとすごいこと言っちゃってるけどさー、

トモヨさんはウンコ食べたことあるんだー、もうビックリだよー!さすがはうちらの中ではウンコと言えばトモヨさん、意識高い系のインテリオシャレさんでウンコ

ぶっとい系のトモヨさん、インスタに毎日ウンコの写真あげ続けて10年になるトモヨさん、インスタフォロワー数が中国の人口とほぼ同じ14億人だけのことはある

よねー、14億って数字は伊達じゃないんだねー、トモヨさんならウンコ食べてても全然不思議じゃないもんねー、むしろウンコ食べてないほうがおかしいっていうか

さ、でもそう考えてみるとさー、もうすでにトモヨさんみたいに実際カレーにこっそりウンコ混ぜて客に提供している行列のできる人気店とかとかあったりしてね、

まさかねー、ほんとにあったらヤバいけど、さすがにそんな店はないとは思うけどさ、想像してみるとかなりヤバいことだよねー」「そうかな、カレーにウンコ混ぜ

ることってそんなにヤバいことなのかな、100%ウンコだとさすがにすぐにバレちゃうしヤバいと私も思うけど、しかも100%ウンコだとそれはもうすでにカレーの

要素が0%で、もはやカレーではなくて純粋にウンコだけど、でもそこまではいかずとも隠し味としてスパイス代わりに軽いノリでカレーにウンコ混ぜる分には私は全

然ありの大ありありのモハメッド・アリーだと思うけどね、問題はウンコを混ぜる%と煮込む時間だと思うんだよね、じっくりコトコト煮込めばくさみがとれてまろ

やかになるっていうかさ、とにかく、実際にみんながみんな私みたいに日常的にカレーにウンコ混ぜて食べてるかどうかはわからないけどさ、カレーにウンコ混ぜて

みようかなって思ったことある人なら結構いると思うんだよね、100人中76人くらいは過去に一度くらい思ったことあるんじゃないかな、もうカレーの形状や見た目

からしてさ、やいウンコ混ぜてみろや、混ぜられるもんならウンコ混ぜてみろや、根性なし、コラッ!ってカレーに喧嘩売られて挑発されてるようなもんじゃない?

私も、だったらウンコ混ぜたるわい、コラッ!って思わずウンコ混ぜちゃった口だからさ、私みたいに実際に76%まで混ぜちゃう人はさすがにまだまだ少数派だとは

思うんだけど、出来心でひとつまみ隠し味でウンコ混ぜちゃおうかなみたいに思ったことある人は絶対いると思うんだよね、たぶん100人中76人くらいはさ、それと

今までずっと隠してたんだけど、実を言えば、あんまりここで大きな声では言えないような話なんだけど、何を隠そう、この私こそがカレーにウンコを隠し味で混ぜ

る比率のギネス記録保持者なんだよね、ギネスブックに私の名前載ってるんだよね」「マジでー!トモヨさん、ギネスブックに載ってるんだー?すっごいねー!さす

がはうちらの中ではウンコと言えばトモヨさん、意識高い系のインテリオシャレさんでウンコぶっとい系のトモヨさん、インスタに毎日ウンコの写真あげ続けて10年

になるトモヨさん、インスタフォロワー数が中国の人口とほぼ同じ14億人だけのことはあるよねー、14億って数字は伊達じゃないんだねー、それってつまりトモヨ

さんがウンコの世界ではテッペン、つまりウンコ世界一ってことになるわけだよねー?」「まあね、でもウンコ世界一と言っても、私の持ってるギネス記録はカレー

にウンコを隠し味で混ぜる比率部門のギネス記録であって、他にも、味噌ラーメンのスープにウンコ混ぜる部門とか、バレンタインに彼氏に渡すチョコレートにウン

コ混ぜる部門とか、ハンバーガーのパテにウンコ混ぜる部門とか、ウンコ関係のギネス記録は様々な部門がたくさんあって、私がウンコで世界を制覇したってわけで

はないんだよ、でもつまり現時点で私の持つカレーに隠し味でウンコ混ぜる比率76%って数字がこの部門でのギネス記録ってことに一応はなるんだけどね、まあみん

なに自慢して回りたいってほどではないにせよ、自分でもそこそこ畏れ多いことかなと思ってはいて、たまに家でぶっといウンコぶちかましながらギネスブックに載

ってる自分の名前見てニヤニヤしてたりね、でも私はまだまだ記録伸ばせるって確信してるし、まだまだこの程度では終わらないし、終わらせないし、終わらせるわ

けがないし、他のウンコ関係のギネス記録にもどんどんチャレンジしていきたいし、それにギネスと言ってもいかんせんウンコ関係なわけだから、なかなか大っぴら

にも話しにくいわけで、親とか親戚くらいにしかまだ話してないんだよ、彼氏にもまだ話してない、つまり彼氏はいつも食べるカレーに私のウンコが76%混ざってい

ることに気づいてないってわけ、いつか打ち明けようとは思ってるんだけどね、近親者以外に打ち明けたのは今日が初めてだよ、それに、私の持つカレーにウンコ混

ぜる比率76%が本当にギネス記録かどうかも正直かなり怪しいところではあるんだよね、もうすでに80%くらい混ぜてる強者も世界中探せばどこかしらにいるとは思

うんだよね、インドとかネパールとかスリランカとかチベットとかタイとかメキシコとかハイチとかタンザニアとかにさ、だから未知のライバルたちに負けないよう

私も家でカレー作るたんびにウンコを混ぜる比率を0.1%ずつとかでも少しずつ上げていって、将来は100%ウンコカレー、いや100%だとすでにカレーじゃなくてた

だのウンコだけど、とにかく100%ウンコカレーを目指して絶賛奮闘中ってわけなんだよ、こう見えて私も陰ながら努力してるんですよ」「全然知らなかったよー、

トモヨさんがさらに輝いて見えるよ、でも私に思い切って打ち明けてくれたこと嬉しかったよーん、そのうちトモヨさんがうちらの手の届かない遠い場所まで行って

しまって、こんなふうにトモヨさんとも気安くウンコの話もできなくなっちゃうのかなーって考えると何だか少し寂しくなるけど、私も陰ながらトモヨさんのことも

トモヨさんのぶっといウンコのことも応援してるからねー、毎日インスタにあがるトモヨさんのぶっといウンコに必ずいいね!するからね、約束するよーん」「あり

がとう、そう言ってもらえて私も私のぶっといウンコも嬉しいよ、畏れ多いことだよ、たとえ私がウンコで世界のテッペンとってウンコ世界一として世界へ羽ばたい

て行ったとしても、私たちの友情は決して変わらないよ、私もリョウコがインスタにあげるメガ盛りMAXウンコに必ずいいね!するからね、リョウコも興味があった

ら1回にぶちかますウンコの量がメガ盛りMAX盛り盛り部門のギネス記録とかに応募してみればいいよ、ファイト、いつまでもお互いこうやって気軽にウンコの話が

できる仲のいい友達でいようね」「うん、ずっと友達でいようねー、トモヨさんも100%ウンコカレー目指して頑張ってね、ファイト」「いつか100%ウンコカレーが

実現できた暁には、部屋で二人全裸になっておっぱいブルンブルンボヨンボヨンさせて陰毛ワッサワッサさせながらヘンテコな創作ダンスとか踊りまくろうね」「ま

たまたまたまたー、トモヨさんはド貧乳なんだから、どう考えたっておっぱいブルンブルンボヨンボヨンは無理だよ」「ごめん、ごめん、ごめん、また勢いで嘘つい

ちゃった、私ド貧乳だったわ、おっぱいブルンブルンボヨンボヨンはどう考えても無理だわ、でもそれくらいの気持ちで頑張ろうね」「しかし、今日はまさかの展開

でもうビックリだよー、なんとうちらのトモヨさんがカレーにウンコを隠し味で混ぜる比率のギネス記録保持者だったなんてさー、うちらの中ではウンコと言えばト

モヨさん、意識高い系のインテリオシャレさんでウンコぶっとい系のトモヨさん、インスタに毎日ウンコの写真あげ続けて10年になるトモヨさん、インスタフォロワ

ー数が中国の人口とほぼ同じ14億人だけのことはあるよねー、14億って数字は伊達じゃないんだねー、何かしらウンコ絡みでいつかやらかしてくれるだろうなーと

期待してたんだけど、まさかトモヨさんがカレーにウンコを隠し味で混ぜる比率のギネス記録保持者だったとはねー、もう嬉しくて思わずまたメガ盛りMAXウンコ盛

り盛りぶちかましたくなってきちゃうよー」「リョウコに褒められて私も嬉しいよ、畏れ多いことだよ、嬉し過ぎて私も思わずまたすんごいぶっといウンコぶちかま

したくなってきちゃうよー、まあ、ともかくさ、そう考えるとカレーにウンコ混ぜる系の話に限らずだけど、何が真実かなんて実際は誰にもわからないってことなん

だよね、もうすでにカレーにスパイスや隠し味としてウンコ混ぜて出してる店も確実にあると思っておいたほうがいいのかもしれないよね、カレーにウンコ混ぜてる

確実な証拠がないのと同じように、カレーにウンコ混ぜてない確実な証拠もないわけだからさ、悪魔の証明って言うんだっけ?まあ細かいこと疑いはじめたらキリが

なくなってきて一体全体世の中の何を信用していいのかわからなくなって疑心暗鬼になっちゃうけどね、もうすでに世界中のみんなが知らず知らずのうちに誰かのウ

ンコを一度は食わされたことがあるって思っておいたほうがいいかもしれないよね、なんかもう本当にクソ喰らえな世界だよね、あ、ギネスの話は他のみんなにはく

れぐれもオフレコでお願いしまーす、それじゃ、そろそろカレー食べに行きますか?」「あ、トモヨさん、ごめーん、私、急に大事な用事思い出しちゃったかもかも

ー」などなど、書き出したら調子に乗って止まらなくなってきて相当悪趣味に走り過ぎてもう下品極まりないけれども、果たしてファッション感覚でウンコの写真を

気軽にインスタにあげたり(実際もうすでにウンコの写真をあげてはいないもののウンコの写真をあげているのと比喩的に何ら変わりないことをしている人々もたくさ

んいるが)、カレーにウンコを隠し味として混ぜて食べたり、スタバみたいなオシャレなカフェで今時の女性たちがカジュアルにウンコの話を嬉々としていたりするよ

うなそんな世の中が我々人間にとって真に幸福なのかどうか、かの岡本太郎もさすがにウンコ食べろとは書いてないし、藝術のためならウンコ食べてもいいとも言っ

てないし、かのウンコ好きで有名なフランク・ザッパも自伝の冒頭に「俺はウンコなんて食ってない、ウンコ食ったのはアリス・クーパーだ!」とわざわざ書いてい

るくらいだし、私もできれば一生ウンコは食べたくないと思っているし(1万では確実に断り100万だと大いに迷い悩み1億払うと言われれば食べてしまうことだろう)、

もちろん今現在もウンコを食べることは法律で禁じられているわけでもなく、食べたい人は好きに食べればいいとも思うが、人間は犬猫豚畜生ではなく、人間の尊厳

を損い畜生道に堕ちるような愚かなマネはできる限りするべきではなく、それらの行為はさすがにクソ喰らえであり、人間の尊厳を守るための一線を少しばかりいや

かなり越えてしまっていて正直やり過ぎの感も否めないところであり、もしかしたら人間はウンコという存在に対してどう向き合うかによってその度量を試されてい

るのではないかと考えたりもするけれども、とまれ、何度も言うように、ウンコをただの醜い汚い排泄物として忌み嫌うだけではなく(ウンコを藝術作品として捉える

ことは極端過ぎるのかもしれぬけれども)、ウンコを見て見ぬふりして触らぬ神に祟りなしとスカした大人の対応をとるだけではなくて、ウンコという存在に対し皆が

もっと自分の中から生み出されたものであるという自覚と責任感をしっかりと持ち、あらゆる角度からじっくりまじめに考えてみることは我々人間にとって決して無

駄なことではなく大いに意義のあることであり、まさにそれこそが今の綺麗事だらけの世の中に一番足りていない重要な要素であるように私には思えてならないが。

……

さて、今年の正月も私は、新しい年も明けたことだし、今年は寅年でイメージカラーは黄色だし、景気よく縁起よくそろそろウンコの話でも書きはじめるとするかと

思い立ったものの、同時に、いい歳した立派な大人が何が哀しくて新年早々ウンコの話など書かねばならぬのか、正月にわざわざウンコの話を書くのは人としてどう

なのか、そもそもウンコの話など書くことに何か意味があるのか、などと少なからぬ葛藤に見舞われたのも事実であったが、思い立ったら吉日、今ウンコの話を書か

ずして一体いつウンコの話を書くのだ、今ウンコの話を書かずんば一生ウンコの話を書く機会など我に訪れぬやもしれぬぞよ、ウンコの話を書かずには死んでも死に

切れぬだろうに、今この一瞬にすべてを賭けながら今まで何とか生き延びてきて、これから先も今この一瞬にすべてを賭けながら死ぬまで生き延び続けていく気満々

の私にとって、ウンコの話を書くならば今しかないのだ、生きとし生けるものすべてが日々尻の穴からウンコをひり出しながら生きている以上ウンコの話を書くこと

は決して避けては通れぬのだ、それに何より私にとってウンコの話を書くことは他ならぬ藝術活動の一環なのだ!と新年一発目の脱糞(初ウンコ、クソ初め、おとしぐ

そ、おせちもいいけどウンコもね)をつつがなく終えスッキリ爽快な気分に浸っているところへさらにお屠蘇の力も借り、いざ我ウンコの話を書くべし!と威勢よく決

意したものの、たちまち酔いが回ってしまって、まあ何だな、ウンコの話を書きはじめるのは正月三が日が過ぎてからでもまだまだ全然遅くはないかもしれぬよな、

などとまたしても気力が削がれ結局ウンコの話は書けずじまいのまま松の内も過ぎ、そこからさらに3ヶ月があっという間に過ぎ去って、もちろん、その間にも私は

毎日必ず最低1回は尻の穴からウンコをひり出し続け、ウンコのことを考えない日は1日たりともなく、今年も春が訪れて、気がつけば現在2022年4月なのであった。

おそらく思春期の頃からだと思うが、私には軽度の鬱のような症状が時々現われるようになり、朝目覚めても体に力が入らず蒲団から出られず、そんな時はいつも過

去の忌まわしい不吉な記憶の数々が私の頭の中に次々と呼び覚まされ自己嫌悪に陥ってやる気がまったくなくなってしまうのだったが、今まで特に精神科などでの治

療の経験もなく、しばらく放っておけばいつも自然にまたケロッと元通り元気になるので、さほど気にも留めておらず、人は皆よっぽど能天気で頭の中がお花畑状態

でもない限り、程度の差こそあれ、時として鬱々とした気分になるのもごく一般的な生理現象の一つと言ってよいのかもしれぬが、そのような症状に見舞われるのは

決まって季節の変わり目、夏から秋に変わる頃、冬から春に変わる頃、この二つの時期には厳重な注意が必要で、それにはきちんと理由もあり、夏の間はとにかく暑

いので暑い暑い暑い暑い暑い、もう暑くて死にそうだよ、夏のクソバカヤロー!と暑さばかりに自分の意識が向かって他の煩い事に囚われて頭を拗らせることもほと

んどないわけだが、季節が秋へと変わり暑さが和らぎ過ごしやすくなるにつれ、今まで暑さにばかりかまけていた自分の意識が他の煩い事へ自然と一気に向かってし

まうからに他ならず、これは冬から春に変わる頃も同様、こちらの場合さらに気をつけなくてはならぬのは、昔から私にとって春という厄介な季節は、何か新しいこ

とがはじまる季節、もしくは、何か新しいことをはじめなくてはならない季節であるという強迫観念があって、春になっても新しいことなど何一つはじめようとはし

ないナマクラな自分自身をダメな奴だと勝手に決めつけ自己嫌悪に追い込んでしまうからに他ならず、春は桜が咲き乱れ、桜の下では人々が乱痴気騒ぎするのが世の

習わしで、ただでさえ都会は人が多いというのに何とも迷惑千万な季節であるが、私にとっては自分自身との戦いに忙しく正直それどころの騒ぎではないのである。

そして、今年の春も私は鬱々とすっかり行き詰まっているのだった。そんなふうに行き詰まること自体、私の人生においては日常茶飯事、もう慣れっこになってしま

ってはいるものの、今年の春の行き詰まりはいつもの春とは何だか少し事情が異なるのだった。何か表現したいことが己の中に存在するにもかかわらず、それを外に

吐き出せない苦しみは、便意を催しているのにもかかわらず、ウンコが出ない状態(糞詰まり)と何ら変わりがなく、すなわち、私は今すぐにでもウンコの話を書きは

じめねばならぬのに一向にウンコの話を書けずじまいで糞詰まってしまっているという冗談みたいな状況のまっただなかでもがき苦しみのたうちまわっているわけで

あった。やはり人間というケダモノに生まれてきた以上は出すもの出してスッキリしないと肉体的にも精神的にもまったくもって健全な状態とは呼べないのである。

毎度毎度、絵が描けないだの、文章が書けないだの、行き詰まっただの、糞詰まっただの、いい歳してみっともない泣き言ばかりを書いている自分がほとほと嫌にな

ってくるが、書けないものは書けないのだから仕様がない。ウンコも藝術作品も無理やり出そうと思ってもおいそれと都合よく出てきてくれるようなものでもなく、

コントロール不能で気まぐれなところがとてもよく似ている。マクドナルドのハンバーガーのようにいつも同じ形状のものが注文通り出てきてくれるわけでもなく、

蕎麦屋の出前のように、今出ました!と出たんだか出てないんだか、出そうでなかなか出てこなかったり、ガチャガチャのように実際に出してみないことには何が出

てくるのやらまったく予想もつかぬギャンブル的なところもとてもよく似ている。いくら踏んばってみたところで出ないものを無理やり出そうとしても出てきやしな

い。屁しか出ない。いや屁すらも出ない。鳴かぬなら鳴くまで待とうホトトギス、出てくるまで気長に待ち続ける他ないのである。今回またしても私が行き詰まって

しまった理由も、毎度毎度のごとく、春だから、春なのに、まったくやる気が出ない、何もかもが面倒くさい、疲れがとれない、肩が痛い、腰も痛い、頭も痛い、お

腹も痛い、すべてが嫌になった、ほとほと嫌になった、もうどうにでもなれや、寂しい、寂しい、寂しい、寂しい、本当に寂しい、寂しくて寂しくて震えてる、寂し

くて寂しくて子ウサギみたいに震えてる、寂しくて寂しくて子ウサギみたいに震えてて死にたい、寂しくて寂しくて子ウサギみたいに震えてて死にたいけれど死ねな

い、そもそも私は子ウサギなんかじゃないし死ぬ勇気なんてない、などなど、枚挙に暇もないけれど、その中でも特筆すべき理由の1つは何かと言ったら、それは、

2020年より一念発起しここに文章を書き記すようになってからというもの、私はこんな場末のうらぶれた飲み屋の糞尿ゲロ塗れな便所の落書きじみた愚にもつかぬ

厭味ったらしい文章を読む者などほとんどいないだろう(いてもせいぜい2~3人の頭のイカれた物好きな変態くらいだろう)と高を括り、それにかこつけて他人の顔色

などは一切窺わず好き放題に愚にもつかぬ厭味ったらしい文章をせっせとここに書き記してきたわけだけれども、ある時、ふとしたきっかけから、どうやら相当結構

な数がここに書かれた愚にもつかぬ厭味ったらしい文章を読んでいるらしいという事実に思いがけず突き当たって、どうにもこうにも驚いている次第なのであった。

散々広告業界や広告屋の悪口を書き散らかしているため検索で飛んで来るのか、はたまた、この世には私の熱狂的ファンというものが多数存在するのか、おそらく前

者だろう、いずれにせよ顔が見えず誰が読んでいるのか見当もつかぬが、てっきり誰も読んでいないとばかり思っていたところ、相当結構な数が読んでいる事実を知

ってしまってからというもの、情けないことに私は他人の目が突然気になりはじめ思うように文章が書けなくなってしまったという始末であった。他人の顔色など一

切窺わず一気呵成と書きはじめたところ、皮肉なことに他人の顔色が突然気になりはじめ安全ブレーキが作動してしまったわけである。たとえるならば、誰も聞いて

なかろうと風呂場でチンコマンコウンコチンコマンコウンコなど幼稚で卑猥な歌詞の替え歌を大声でがなり立てておったら、家族はもとよりご近所中にスピーカーを

通して一部始終をすっかり聞かれて録音までされてしまってもう死にたくなるほど恥ずかしいみたいな心境か、もしくは、公衆便所の壁に他人の悪口を落書きしまく

っていたら勢い余って署名サインまでしていて後でバレてしまって何ともバツが悪くてもう死んでしまいたいみたいな心境であろうか。もっとも、実際ここに書かれ

てあるのは紛れもなく糞尿ゲロ塗れな便所の落書きじみた愚にもつかぬ厭味ったらしい文章であるとはいえども、私はきちんと実名や出自を潔く明かした上でそれ相

応の覚悟をもって正々堂々と文章を書いているのであるからして、本来ならば後ろ暗いところなどは何一つないわけだけれども、己を素っ裸にひんむいて尻の穴まで

おっぴろげて己のすべてをあけっぴろげに曝け出し身を削るかのような覚悟をもって何かを表現するという行為は、実際にやってみれば容易に理解できようが、何と

も恥ずかしいことこの上なく、そもそも他人に読まれたくないのなら鍵の付いた日記帳にでも書いてインターネットに公開しなければよいだけの話ではあるのだが、

誰にも読まれていないと思えばそれはそれで何だか無性に寂しくなってきて逆に書く気力が失せてしまうものでもあり、人間という愚かな生き物のいやらしい承認欲

求というものは、取り扱い要注意なメンヘラ女の気まぐれのごとく、なかなかに厄介な代物であると痛感するばかりではあるが、とまれ、人生は自分が思っているほ

どそうそう長くは続かないのであるからして、本当に悪いことは言わないから、こんな糞尿ゲロ塗れな便所の落書きじみた愚にもつかぬ厭味ったらしい文章など読む

暇があったらば(そのうち『ウンコ思考』が伝染し脳みそがウンコ塗れになっても私は一切責任が持てぬゆえ)、青空文庫で夏目漱石や芥川龍之介の名作の一篇でも読

んで限りある時間を有意義に使ったほうがよっぽど健全かつ建設的だと私には思われるが。さらに加えてもう1つ今回私が行き詰まってしまった特筆すべき理由があ

るとするならば(そしておそらくこれこそが最も核心的な理由でもあるわけだけれども)、それは『スタークリエイター連続殺人事件』が不幸にも現実に起こってしま

ったからに他ならない。『スタークリエイター連続殺人事件』についてはあらためて詳細を説明するつもりもなく、以前に書いた文章を下のほうを探して読んでもら

えればよいけれど、とにもかくにも『スタークリエイター連続殺人事件』が不幸にも現実に起こってしまったのである。すなわち、2020年6月に私が『スタークリエ

イター連続殺人事件』という不吉なタイトルの愚にもつかぬ厭味ったらしい文章をここに書き記してからさほど時間を置かずして、実際に2名の日本の広告業界を代

表するスタークリエイターと呼ばれる人物が連続して亡くなってしまったわけである。自分が書いた文章の影響によって誰か他人が死に至ってしまった可能性がほん

のわずかばかりでもこの世に存在するという事実は、正常な頭で考えればあまり気持ちのよいものではなく、決して冗談半分の生半可な覚悟で書いたわけではなくと

も、本来ならば冗談でもそんな文章は書くべきでなかったのかもしれぬが、常日頃より私が標榜する創作姿勢は「己の心ときちんと対峙し、己の心に巣食う愚劣なも

のや醜悪なものや駄目なものまで含めたすべてを正直に曝け出した上で、その中からほんの一欠片でもよいから美しい何かを発見していく」と腹を括ってもいるがゆ

え、たとえそれが他人から見て不謹慎で不愉快であろうとも、自分自身にとっていかに都合が悪くとも、やはり自分が書かねばならぬと思ったことは是が非とも書か

ねばならぬと思った上で、もうやむにやまれずに、書かねばならぬことを実際に書いたわけであったのだが。さらに詳細を書いて行ってもよいのだけれど、それはあ

まり意味がなく、ここで重要なのは、1.『スタークリエイター連続殺人事件』が現実に起こってしまったという事実、2.実際に亡くなった人物がまたしても悪意のな

い間接的な関係者であったという事実、3.私が自分の書く文章に宿る「言霊」の存在をすっかり確信してしまったという事実、計3点であろう。私は以前書いた愚に

もつかぬ厭味ったらしい文章の中で「もしも将来『スタークリエイター連続殺人事件』が不幸にも現実に起こったとしても、その犠牲者が私と無関係の赤の他人であ

る限り、嬉しいとも哀しいとも何とも思わない」とまるで他人事のように無責任に嘯き、そして、その言葉に嘘偽りはまったくないつもりだったが、実際に『スター

クリエイター連続殺人事件』が不幸にも現実に起こってしまったという事実を前にして、今現在の私が何を思うかと言えば、前述の通り「無関係の赤の他人が死んだ

ところで嬉しいとも哀しいとも思わない」のは嘘偽りないところではあるものの、さすがに「何とも思わない」というわけにはいかず(冷徹ニヒリスティックな人間嫌

いの成れの果てを気取る私も完全に心が死んだサイコパスではない)、本音を言えば、気味が悪くて仕方ないのである。自分が書いた文章に宿る「言霊」のパワーにま

んまと当てられすっかり茫然自失、意気銷沈していると言ってもよかろうか。何とも思わないというわけにはどう考えてもいかないのである。加えて、今回の犠牲者

も、前回Oさん同様に、私が長きにわたり殺意を覚えるほどの激しい怒りを向け続けてきた相手ではなく、明確な悪意をもたず本人の与り知らぬところで無意識のう

ちに間接的に悪事に加担してしまっていた関係者(ネットで拾った断片的な発言を読んで判断するに、前回Oさん同様、現在の日本の広告業界の窮状を憂う意識の高い

批評精神を持ち合わせていた好人物であったようにも見受けられる)がトバッチリを食う形で亡くなってしまったわけであり、私が殺意を覚えるほどの激しい怒りの感

情を抱き続ける相手が亡くなったのならばともかく、またしてもまるで言霊が暴走したかのごとく斜め上へと向かって牙を剥いてしまったわけであり、それは私の本

望では決してないのである。そして、爾来、私は、やはり『スタークリエイター連続殺人事件』などという不吉なタイトルの愚にもつかぬ厭味ったらしい文章など書

くべきではなかったのではないか?他人の顔色など一切窺わず書きたいと思ったことを書きたいように書いていくと腹を括っているとはいえ、物事には限度というも

のがあり、書いていいことと悪いことがあったのではないか?もしかしたら自分は連続殺人鬼に成り果ててしまったのではないか?などなど、堂々巡りの自問自答を

繰り返しながら思い煩っているうち、何とも情けないことにいつしか私は自分の書く文章に宿る「言霊」が心底恐ろしくてたまらなくなってきてしまって、何とも間

抜けで皮肉なことには、自分で自分の首を絞めるかのごとく、文章がまったく書けなくなってすっかり行き詰まってしまったという始末であった。本来ならば今後も

さらにアグレッシヴに実名を晒して不正を告発し、その不正を告発していく様子を映画『ゆきゆきて、神軍』(主人公の奥崎謙三は映画撮影中実際に殺人未遂事件を起

こした)のようなフィクションとドキュメンタリーの挟間の虚実ないまぜ状態を現実世界と巧妙にリンクさせた実験的作品へと昇華させて書き、それらを50歳の誕生

日までに1冊の本にまとめ上げる計画も密かに進めていたところが、すっかり予定が狂ってしまい、ほぼ1年という時間を丸々棒に振ってしまった次第である。人生は

思い通りに行かぬものだと痛感するばかりである。かように、自らの書いた文章に宿る「言霊」にまんまとやられ恐れおののき行き詰まり、自分は一体全体何をやっ

ているのか、何をやっていないのか、そして、自分は一体全体何がやりたいのかすらもさっぱりわからなくなって愚図愚図とくすぶりながらモヤモヤとスッキリしな

い糞詰まり状態のまっただなかでもがき苦しみのたうちまわっているうち、気がつけば私の人生の節目とも言える50歳(知命)の誕生日はとっくのとうに過ぎ去ってし

まっていて、それからしばらく経ったある春の日の午後のこと、私はナマクラな中老の体に鞭打つかのごとく、ふと思い立ってふらり浅草方面へと向ったのだった。

……

昔から私は、最近何だか運気が下がっているようだとか、鬱憤が溜って精神が参っているなとか、少しばかり金回りが悪くなってきたなとか、生きることつまり人生

に行き詰まっていると実感する度に訪れる場所があった。それは自宅から自転車をゆっくり漕いで1時間、ビュンビュン飛ばせば50分、正確な住所は台東区浅草ではな

く隅田川を挟んだ対岸の墨田区吾妻橋に位置する某ビール会社本社に隣接の主にイベントなどが行われる多目的ホールやレストランの入った集合ビルディング屋上に

設置された不思議な形をしたオブジェであり、隅田川に架かる吾妻橋の浅草側たもとが私のお気に入り絶景ポイントであった。浅草という街はひと昔前ならば今でい

う渋谷のように若者がわんさか集まる最先端の盛り場だったと聞くが、今ではそんな面影はほとんどなく、チャラチャラした若者も観光客以外はほとんど見かけず、

お世辞にもお洒落とは言い難い時代に取り残されたその寂しげな風情が逆に私の気に入り、また行きつけの飲食店も数軒あったため頻繁に訪れていたものだが、昔か

ら桜の花にはほとんど関心がなく美しいと思った試しもほとんどない私は、4月の初め、最盛期を過ぎてもなお散り際の艶姿を道ゆく人々にバッチリ見せつけてやるぞ

と言わんばかりに咲き乱れる桜の花には目もくれず、一心に目的地へと自転車を走らせていた。私の50年に及ぶ決して他人に誇ることなどできぬ本当にろくでもない

人生は常に行き詰まってばかりの連続ゆえ行き詰まる度しつこいほど訪れているが、はやる気持ちを抑えながら自転車ギコギコいつもの道を目的地の方角へふと目を

遣り近隣の雑居ビルや木立の隙間から金色に光り輝くその片鱗がチラホラと見え隠れしはじめるにつれ、私の心は否が応でもウキウキワクワクと踊り出し、やがて目

的地に到着し空中にポッカリ浮ぶその堂々たる全貌がつまびらかとなり晴れてご対面を果たす瞬間はいつも決まって「なんじゃこりゃあー、どこからどう見たって、

まるっきりウンコじゃねえか!」と毎度お約束の野暮なツッコミを入れつつ、私の頬は初孫を抱くジジババのしわくちゃのそれのごとくすっかり緩んでしまっており

「すぐ目の前の空には巨大なウンコが気持ち良さそうにポッカリ浮んでいるというのに、自分は一体何をくだらないことで愚図愚図と思い煩っているのだろうか?」

とついさっきまでの糞詰まりの憂鬱な気分など遥か彼方へとふっ飛んでしまって、もう何だかこの世のあらゆるすべてがバカらしく思えてくるほどに、まるで素晴ら

しい一本糞をひり出した直後のような晴れやかな気分となって、しばらくは時間も忘れただニヤニヤと上機嫌のままいつまでもその勇姿にうっとり見惚れてしまうの

だった。「しかし、よりによってなぜ巨大なウンコが空に浮んでいるんだろうか?おまけに太陽の光を燦々と浴びキラキラと輝いていやがるぜ、まったく意味わから

んわ」とニヤニヤ怪しげな者など周りを見渡しても私の他に誰一人見当たらず、道ゆく人々は皆一様に桜の花には時折目を遣るものの、目の前の空に巨大なウンコが

ポッカリ浮んでいるというその異様な風景には一切頓着せず、それはすでに目が慣れてそこにあるのがあまりにも当たり前過ぎて何の感動も得られないためであるの

かもしれぬが、空中にポッカリ浮び光り輝く巨大なウンコなどまったく存在しないかのごとく「私たちは日々の仕事や生活に忙しくウンコに構っている暇なんてない

のですよ」と顔に書いてあるかのごとく、憂鬱な表情で通りを行ったり来たり、私は「なぜみんな平然としていられるのだろうか、少しばかし鈍感過ぎやしないか、

何と言っても目の前の空には巨大なウンコがポッカリ浮んでるんだぜ、花より団子よりウンコだろうよ」といつも不思議な気持ちを禁じ得ないのだけれども、実際の

ところ、その不思議なオブジェを初めて目にする人々にその第一印象を問うてみるならば、おそらく100人中70人が「ウンコ」100人中30人が「ウンチ」と躊躇なく答

えることであろう。もしかしたら「スケベなオタマジャクシ(精子)」と答えるひねくれ者も1人や2人いるかもしれない。私自身も生まれて初めてその実物の異様な姿を

目の当たりにした瞬間「なんじゃこりゃあー、どこからどう見たって、まるっきりウンコじゃねえか!」と正直驚いたものであるが、その後も繰り返し何度目にして

もやはりその印象はまったくもって変わらずに「なんじゃこりゃあー、どこからどう見たって、まるっきりウンコじゃねえか!」のままである。もしも都内を走るタ

クシーに乗車し「ウンコビルまで」と運転手に告げれば「はい、かしこまりました、(浅草の)ウンコビルですね」と平然と通じてしまうほどに、このどこからどう見て

も誰が見ても紛れもなくウンコ以外の何物でもない不思議なオブジェの正式名称はフランス語で「フラムドール(金の炎)」などと気取って呼ぶらしいが、このウンコの

作者であるフランス人デザイナーのフィリップ・スタルクは某建築雑誌のインタビューにて「ウンコではないのか?」という質問に対しニヤニヤと誤摩化していたよ

うだ。この日本大嫌いとも噂される外国人デザイナーを擁護するつもりはさらさらないが、最初からどこからどう見ても誰が見ても紛れもなくウンコ以外の何物でも

ないものを目指し嫌がらせでウンコにしたわけではないことは制作過程の裏話などを調べてみればよくわかる。依頼者側と制作者側に見解の相違もあって真偽のほど

は定かではないが、当初はビール会社の燃え盛る炎のような並々ならぬ心意気をイメージした縦置きの聖火台をモチーフにしていたところが、縦置きだと耐震強度の

問題が出てきたためやむを得ず横倒し、さらに色も赤い炎だったところが、赤い炎だと遠くから火事と見誤るバカが現れる恐れがあると金色に変えた結果、どこから

どう見ても誰が見ても紛うことなきウンコ以外の何物でもなくなってしまったらしいが、しかし、デザイナーはじめ制作に携った者ならば誰しもが自分たちはをどこ

からどう見ても誰が見ても紛れもなくウンコ以外の何物でもないものを作っていると認識していたに違いなく、それほどまでにどこからどう見ても誰が見ても紛れも

なくウンコ以外の何物でもでもないのである。また、このウンコを設置後、長らく低迷していたビール会社の業績が(看板商品の大ヒットも追風に)急回復しトップシェ

アに踊り出たことは有名な話で、金運に恵まれるとウンコ様々!崇拝するウンコ信者もいると聞く(よくSMクラブなど性風俗産業においてウンコ関連サービスのことを

「黄金」と隠語で呼んだり、昔から金銀宝石の類いなど光る物体を目にすると運気が上昇すると言い伝えられているように、私自身も実際にウンコを見に訪れる度、

新たな仕事が突然舞い込んだり、思いがけず臨時収入にありついたり、ある時などウンコを拝んだ5分後に新規の仕事依頼の電話が鳴ったこともあり、たしかにこのウ

ンコただ者ではないようだ)。また、一時「ウンコビル」とばかり呼ばれることに嫌気が差したビール会社が「ウンコビル」の俗称を払拭しようとビルの愛称を募集し

たところ、送られてきたハガキの中で一番多かったのが「ウンコビル」、次に多かったのが「ウンチビル」だったため、断念したとかしないとかいった噂もあるよう

だ。他にも過去のある時、超巨大台風の影響でウンコが隅田川にポトリと落っこちてドンブラコドンブラコとお台場辺りまで流れ着き、同じくポトリと落っこちた某

テレビ局の銀の玉と仲睦まじくプカプカ浮かんでいたとかいないとかいった噂もあるようだが、ウンコが水に流れるという意味では道理にかなっており、実際のとこ

ろ純金製ではなく軽量素材に金メッキしたマガイモノに過ぎぬため絶対にあり得ぬと断言はできぬものの、そんなニュースは聞いた試しもなくさすがにこの噂はデマ

であろう。私の知り得るウンコに関する知識は大体以上であるが、見に訪れる度いつも私は「やはりウンコで大正解だったのではないのか、藝術作品としては堂々た

る大成功、大傑作の部類に入るであろう、しかし、よくもまあこんなデザインにOK出したもんだよな、誰か止めなかったんだろうか、どこからどう見ても誰が見ても

ウンコ以外の何物でもない紛れもないウンコが空にポッカリと浮かんでるんだもんな、ウンコにもほどがあるだろうよ、こんなことが許されてもいいんだろうか、怪

我の功名といおうか、成功と失敗は紙一重、天才とバカも紙一重、世の中何が起こるかなんて誰にも予想がつかぬものであり、まあウンコに文句言っても仕様がない

だろうみたいな、何だか笑って許せてしまうというか、体の力が一気に抜けていくというか、一瞬であらゆるすべてが無力化されてしまうというか、ウンコの何がこ

こまで人を惹き付けるのだろうか、恐るべしウンコの破壊力、殺傷力、ウンコのくせに何食わぬ顔してしれっと空にポッカリ浮んでこの世に存在しているというその

不条理さに何とも救われるんだよな、ウンコ好きにはたまらんもんがあるよな、見ているだけで元気になれて嫌なことなんてすべて忘れてしまえるんだもんな、つま

りウンコは人間を幸福にするってわけなんだよな、ウンコは世界を救う、つまり藝術は世界を救う、ウンコは地球を救う、つまり藝術は地球を救う、そして、とどの

つまり、藝術はウンコみたいにとにかく自由でいいというわけなんだよな」などと常日頃から「ウンコは藝術であり、藝術はウンコである」を標榜する私自身の藝術

的理論にも俄然説得力が増してきてニヤニヤとさらに確信するばかりであった。かの岡本太郎も『今日の芸術』という本に書いているように、藝術は「なんじゃこり

ゃあー!」と見る者の度肝を抜かせ、その心の奥底にいつまでもいつまでも忘れたくとも忘れ難き強烈な印象をしっかりと残さなければならぬというわけであろう。

「『今日の芸術』って本に書いたけど、芸術はきれいであってはいけない。きれいなもの、『あら、いいわね』っていうものは芸術じゃないんですよ。みんなが芸術

を誤解している。芸術が芸事になっちゃってるんだ。手先ばっかり器用になって、きれいな線を描くんだけど、その線が全部死んでるんですよ。『あら、いいわね』

っていうのは、それっきりおしまいで世界観は変わらない。『何だこれは』と思いながら、ワーッと目を惹き付けられるのが芸術ですよ。(岡本太郎 インタビューよ

り引用)」「岡本太郎さんが亡くなった時、太郎さん(と呼ぶほど親しくはなかったが、対談したり、個展のオープニングに来られたことがあった)の『今日の芸術』を

想い出した。この本に何が書いてあったかはすっかり忘れてしまったが、大きい影響を受けたことだけは覚えている。それまで芸術はこうあるべきだということに呪

縛されていたのが、この本を読んでからは『ナントカであるべきだ』ということから解放されて、もっと自由でいいんだ、太郎さんの言葉を借りれば、『芸術はここ

ちよくあってはならない』とか『芸術は「うまく」あってはいけない』、『無条件でなければならない』というようなことであったと思う。(横尾忠則『今日の芸術』

序文より引用)」私の所有する岡本太郎『今日の芸術』(文庫版)の奥付には「2006年7月30日21刷発行」と記載されてあり、おそらく私は『今日の芸術』を2005年8月

33歳で絵を描きはじめて以降に購入して読んだものと思われ、私も読んだ内容は横尾忠則同様すっかり忘れてしまっているが、岡本太郎といえば有名な太陽の塔以外

ほとんど興味も関心もなく、大昔にTVコマーシャルの中で「芸術は爆発だ!」と叫んでいた少し頭のイカれたヤバいおっさんという印象しか持ってはいなかったもの

の、その突飛で奇抜な印象に反して『今日の芸術』に書かれてある文章は意外にも理路整然として大変にわかりやすく、絵を描きはじめたばかりでおまけにヘタクソ

でいくら頑張って描けども描けどもさっぱり上達する兆しを見せない私も、もちろん大きい影響を受けたことだけはしっかりと覚えている。何しろ「芸術はここちよ

くあってはならない」だとか「芸術は『うまく』あってはいけない」などと目から鱗の内容が忌憚なく書かれてあったわけであるからして、絵が尋常でなく洒落にな

らぬほどヘタクソな私が勇気づけられなかったわけがないのである。そして、絵を描きはじめてまもなく『今日の芸術』を読みガツンとすっかりやられてしまった私

は、爾来、絵を上手に描こうとするなどといった土台無理な無意味な努力は潔く断念し粗大ゴミと一緒にまとめて捨ててしまって、自分は絵が尋常でなく洒落になら

ぬほどヘタクソだという逃れようのない事実から決して都合良く目を逸らすことなく、尋常でなく洒落にならぬほどヘタクソな絵を描く自分自身をそっくりそのまま

ありのままに受け入れて、ただしセンスだけは目一杯にとことんこだわり抜き磨きに磨いて追求して行くという方向性へと大きく舵を切り替え、とにかく自分自身の

心と素直に対峙し他人の評価などまったく気にしないと言えばそれは嘘になってしまうが、なるべく他人の顔色などは窺わず自分の描きたいと思う絵を描きたいと思

うまままっすぐ自由に描いて描いて描きまくってがむしゃらに突き進んで行こう!と腹を括り、そして、その時の私の決断はまったくもって間違いではなく、私がこ

れまで時に気が触れかけたり時に絶望しかけたりすることは幾度となくあったものの、何とかギリギリのところで正気を保ちながら藝術活動を続けて来られたのも、

そして、今の私の絵が今こうしてあるのも、すべてはあの時岡本太郎の『今日の芸術』を読んだお陰であると言ってしまっても過言ではなく、岡本太郎(今はあの世に

いるのか)には決して足を向けては寝られぬと多大なる感謝を胸に秘め今も私は絵を描き続けているのだった。そんなふうに岡本太郎『今日の芸術』の中の言葉を頭の

片隅にぼんやりと思い出して、今も目の前の空にポッカリと浮び太陽の光を浴びてキラキラと光り輝く巨大なウンコをうっとり眺め続けながら私は、今回の訪問でも

すっかり元気をもらってしっかり勇気づけられている自分自身を確と感じて「しかし、藝術っていうのは一体全体何なんだろうか?考えに考え続けてもいまだにさっ

ぱりわからず、考えれば考えるほどさらにわけがわからなくなってきてしまうんだよなあ、ウンコが空に浮んでいても藝術なんだもんなあ、そもそも藝術とウンコは

どこに違いがあるんだろうか?藝術はウンコのように自由でいいとはいえど、自由というのは耳障りはいいが、その実、相当厄介な食わせ者でもあり、本来人間とい

う生き物には生きる意味や目的などはまったくなく、すべての物事を自分の頭で考え自分の意志でもって生きていかなければならず、かつてサルトルが『人間は自由

という刑に処されている』と言ったように、自由というのは甚だ罪深いものでもあり、誰か他人に何もかも決めてもらって隷属的に生きていくほうがよっぽど楽であ

り、実際に自由に生きようとしてみれば誰もがすぐに思い知るところだろうが、何でも自由にやっていいよと言われるとほとんどの人は何をしていいものやら皆目見

当もつかずたちまち路頭に迷って行き詰まってしまうものであり、藝術というのはウンコのように自由であり、だからこそ、自由であるからこそ、厄介で難しいもの

でもあるんだよなあ」などといつしか私自身の永遠の研究テーマである『藝術とは一体なんぞや?』という本質的な問いへと静かに考えを巡らせていくのであった。

……

私は27歳の時、たまたま読んだ坂口安吾の小説『白痴』にそそのかされ背中を押されるかのごとく、それまできっかり6年間勤めてきた(本人は自伝の中で「巷では俺

がウンコ食ったという話が勝手に一人歩きしておるが、俺はウンコなんて食ってない、ウンコ食ったのはアリス・クーパーだ!」とキッパリと否定しているものの世

間一般的にウンコ好きとして有名な)フランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)を、もう広告なんてやってられっかよ!と

偉そうに啖呵を切り、藝術家になる!と高らかに宣言し突然辞めたものの、その当時の私には藝術家になるためのツテやアテなどはまったくなく、そもそもの話、藝

術系の学校で藝術を学んだ試しもなく、ましてや藝術家になるための才能など私は一切持ち合わせてはおらず、さらに最悪なことには、藝術とは一体なんぞや?とい

う本質的な問いに対しても、私はまったくもって明確な答えを持ち合わせてはおらず、藝術家というものは明日から藝術家になりますよ!と言ってすぐになれるよう

なそんな生易しいものでは決してなく、また藝術家というものは藝術家になろうと思ってなるようなものでもなく、己の内から湧き上がり溢れ滲み出てくる表現衝動

を藝術作品へと昇華させ(まるでウンコをひり出すかのごとく)生み出したのち、その藝術作品(ウンコ)を専門家など目利きに、これは紛れもない藝術作品である(素晴

らしいウンコである)と太鼓判を押されて初めて藝術家と呼ばれるに値することも知らず、藝術家になる!と能天気に宣言し会社勤めを辞めたはいいけれど、一体全体

自分はこの先何をどうやって生きていけばよいものやら皆目見当もつかずいきなり路頭に迷い、こんなことならば、藝術家になる!などと大それた妄言を吐いて会社

勤めを辞めなければよかったと勢いにまかせ身の程知らずにも藝術家への道を志したことを早くも後悔しはじめている自分に気づくのであった。そして、振り返って

思えば、私が広告業界から尻尾を巻いて逃げ出した理由のうち「藝術家になる!」というのは虫のいい口実に過ぎなくて、すなわち、当時の私は広告という仕事及び

会社勤めに心底嫌気が差していたに過ぎず、何か都合良く見栄えの良い会社を辞める口実はないものかと探している途中たまたま手にして読んだ坂口安吾の『白痴』

にそそのかされ口からでまかせに咄嗟に思いついた口実に過ぎず、結局会社勤めを辞める理由なんて別に「藝術家になる!」でなくとも何だって良かった可能性もな

きにしもあらずで、その証拠にフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)を退社後も私は藝術活動など一切はじめようと

もせず、落書き一枚すらもいたずらに描き散らかすこともなく、そもそも藝術とは一体なんぞや?という根本的な問いに考えを巡らすことなども一切なく、そのまま

ズルズルダラダラと自堕落に放蕩無頼、無為徒食の生活をしばらく続けた末に、とうとうなけなしの貯金も底を尽き食うのに困窮した私は、何ともマヌケなことには

再び広告業界へとブザマにも舞い戻ってしまったという始末であり、その後も愚図愚図と広告業界の片隅にひっそりと身を置きながら紆余曲折の末、ようやく重い腰

を上げ33歳になって初めてなぜだか理由もわからず(あたかも猛烈な便意に襲われウンコをひり出すかのごとく)突発衝動的に絵を描きはじめてから今の今まで何だか

んだと言っては絵を描き続けて生きてきたわけだけれども、いまだ藝術とは一体なんぞや?という本質的な問いに対して私はまったくもって明確な答えなど持ち合わ

せてはおらず、ようするに、私のこれまで歩んできた藝術家への道程とは、27歳の時に広告業界から足を洗いたいがために何気なく軽い気持ちで藝術家になる!と宣

言してしまった以上、仕方なしに藝術家を目指す他に道がなくなってしまって、つまりは自分の吐いた言葉(言霊)にまんまと囚われて、自分で自分の首を絞めるかの

ごとく呪縛されてしまって、もしも藝術家への道を途中で諦めてしまったら、もう広告なんてやってられっかよ!と偉そうに啖呵を切って会社勤めを辞めた27歳のあ

の時のあの言葉は一体何だったのか?やはりお前は口先だけの詐欺師だったのか?と後ろ指さされてしまうのが目に見えていたため、詐欺師と成り果て世間を欺くこ

とは私の本望では決してなく、とりあえず他にやりたいことも見つからず、否、100%自分自身を投影した100%自分自身の作品であると正々堂々胸を張れるような藝

術作品を表現したいという欲求は間違いなく自身の内に存在するため、何はともあれ、もうどうにでもなれや!くそったれ人生!と藝術家への道を目指す以外に生き

る道を選べない状況へと自らを追い込んでいった結果と言えなくもないのであったが、しかし、自分自身に言い訳するつもりもないけれども、ここでは私の描く絵が

藝術か否かは一旦脇に置いておくとして、私が27歳で坂口安吾の小説『白痴』にそそのかされ、藝術家になる!とうっかり宣って会社勤めを辞め、実際33歳で絵を

描きはじめ藝術の道へと本格的に足を踏み入れてからのちの私が、何度も壁にぶちあたり行き詰まり、ことあるごとに藝術家になる!などと妄言を吐かずに大人しく

会社勤めを続けておればよかったと悔いてみたり、時に気が触れかけ、時に絶望しかけながらも、その都度、岡本太郎『今日の芸術』の中の言葉を思い出しては、何

とか壁を乗り越えたり、壁をぶち破ったり、ダイナマイトで木っ端微塵に爆破したり、抜け穴を見つけたり、むしろ乗り越えるのは潔く諦めて踵を返し遁走したりと

試行錯誤を繰り返しながら、日々(ウンコのことを考え続けるのと同じくらい)死物狂いの命懸けで藝術家への道を模索し『藝術とは一体なんぞや?』という本質的な

問いに対する答えを探し求める藝術的人生の旅を続けてきたことだけは紛うことなき事実であるとここに高らかに宣言できるのであった。「失敗する恐怖に襲われて

手も足も出なくなるのは、いつの時代も、自分は最高にかっこいいと自惚れている人びとだ。ダメかもしれないという状況におかれるのが、かれらは我慢できないの

である。失敗したからといって、狼狽する必要は全然ない。人間の思惑というやつが、九十九パーセントの確率で出遭う必然的な結果が失敗であり、ごく普通の状態

なのだ。(『フランク・ザッパ自伝』より引用)」「当時、マネ、ピサロ、ルノアール、モネ、セザンヌなど印象派の人たちは、その時代の権威からはまったく否定さ

れていた革命児で、いっしょになって先鋭な芸術運動をやっていたのです。その時分、彼らがおたがいの絵を持ちよって批評しあう会がありました。その席にゴッホ

がやってきたのです。パリに出て間もなく、印象派の影響をうけて描きはじめたばかりのゴッホにとっては、みんな、かがやかしい大先輩です。彼らがずらっと作品

をならべて、おのおの熱をこめて長いあいだ討論し、批判したり、ほめあったりしているなかで、ゴッホは自分の絵を片隅の椅子に立てかけて、いつになったら、み

んなが自分の絵のほうに注意をむけてくれるか、だれかひとこと言ってくれないかと、おずおずしながら、じいっと、みんなの顔色をうかがって待っていたのです。

だが、彼の絵については、だれ一人言うものはないばかりか、見むきもされないうちに、とうとう集まりはおわってしまいました。黙殺です。しおしおと絵を持って

かえるときのゴッホの絶望感------想像しただけでも、こちらの胸がえぐられ、腹の底から冷えあがるような苦しみを感じます。(岡本太郎『今日の芸術』より引用)」

……

かように、皮肉な運命のいたずらに翻弄されるかのごとく、なしくずし的に藝術家への道をやむなく突き進まねばならなくなってしまった私が、普段「げいじゅつ」

と書く際に「藝術」「芸術」どちらも「げいじゅつ」に変わりのないところを(岡本太郎は『今日の芸術』と書き、私は「藝術」と諳んじては書けず)、わざわざ「藝

術」と難しい漢字を使用する理由とは、重厚な「藝術」に比べ「芸術」が貧相に見えてしまうというのももちろんあるにはあるけれども、他にもきちんとした理由が

あって、それは、何を隠そう、私が33歳で絵を描きはじめて程なく何かの間違いからか人生が交わり40代頭までの一時期を共に過ごした交際相手の女と大いに関係

があるのだった。その女の名前をここでは仮に猫が大好きだったから(というよりも猫が大好きな可愛い自分が大好きだったといったほうがより正確か)「猫川又美」

とでもしておこうか。猫川又美は、英ロックバンド MY BLOODY VALENTINEの1stアルバム『Isn't Anything』が発売された昭和の終わりギリギリに生まれた私より

も16歳下の東北出身の田舎くさい貧乏くさい小便くさい女であり、ジェットコースターと生肉とレディオヘッドが大好物で、私と別れた当時は東京藝術大学に在籍中

であったと記憶している。ただし、私と初めて出会った時、猫川又美はまだ浪人中の身空で、地元の高校を卒業後すぐに上京し新宿の美術予備校に籍を置き東京藝術

大学を目指してやさぐれながら悶々とくすぶっていた。もっとも、私にはロリコンの趣味があるわけでもなく、まさか16歳下の田舎くさい貧乏くさい小便くさい女と

付き合う羽目になろうとは夢にも思いもよらず、また過去の私の色恋沙汰の手痛い失敗に学んだ教訓からよっぽど自分に相性がピッタリなビビビビッと雷に打たれる

かのごとく天啓を受けた相手以外とは(あまり大きな声では言えぬが実をいうと私は常々ヒモになろうと夢想しておって、そのような自分本位な条件に適う相手が見つ

からぬ限り、つまり中途半端な相手と中途半端な気持ちでは)決して誰とも付き合うまいと固く心に誓っていたのだけれども、猫川又美は私の好みのタイプのストライ

クゾーンからは微妙に外れていたものの、世間的には(行ったことは一度もないが)タイの有名ソープランドNo.2の売れっ子売春婦ベッティーちゃんとでもいった塩梅

の南洋風/東南アジア風の個性的な美貌を持った女であり、当時猫川又美は東京藝術大学の受験に失敗しただけに留まらず、田舎からはるばる上京し東京デビュー記念

に生まれて初めてあてたパーマネントにも見事失敗しており、ただでさえ量の多い毛髪が大爆発を起こしてそれはそれはもう大騒ぎになっており、その姿があたかも

私にはBJORK/ビョークのデビューアルバムのモノクロジャケットの雰囲気(現在のように完全に針が振り切れたアッチ側世界へはまだ行っていないデビューしたての

清楚な初々しさを残した佇まい)を連想させ、私はBJORK/ビョークという地球上の生き物に欲情することなどは決してあり得なかったけれども、BJORK/ビョークの

音楽は好んでよく聴いていたため、なぜだか奇妙な親近感を覚えてしまって、また、猫川又美は顔面のお絵描きがとってもお上手で、つまり化粧映えする女であり、

もしかしたら私はその化粧の魔法に幻惑されていただけかもしれぬが(私はその顔面のお絵描きの高度な技術を自分の絵にも生かせば猫川又美の絵はもっと良くなるの

にと常々歯痒く思っていたものだが)、さらに、猫川又美は東京藝大受験失敗と初パーマネント失敗に加えてもう一つ処女喪失(ロスト・バージン)にも失敗しており、

初めての都会暮らしの寂しさから全然好きでもない悪い男にダマされてまんまと処女を奪われてしまったらしく、そんな経緯を初対面の私に衒いもなくペラペラと打

ち明けてくるものだから、私は「いくら寂しいからといって好きでもない相手とSEXなんてしちゃダメだよ、自分を安売りしないほうがいいよ、せっかく可愛いのに

もったいないよ」と16歳下の田舎娘に対して下心など欠片もなくただ純粋な気持ちから老婆心ながらにやさしく忠告してやると、猫川又美は一瞬瞳の奥をキラリと輝

かせ「すごくいい人だね(はーと)」とうっとり私に微笑みかけてきて、爾来、猫川又美がどうしても付き合ってくれ付き合ってくれとしつこくうるさくなってきて、

さらには、猫川又美は私の絵を(本当にそう思っていたかどうかは今となっては確かめようもないが)「とっても力強い絵だね!すごくいいと思うよ!」と褒めてくれ

たため、生来褒められて伸びるタイプを自認する私は、まるで今まで誰にも話したことがなく本人しか知らないはずの秘密の性感帯を絶妙に刺激されたかのような、

もうこの世のものとも思えぬ極上の楽園的なこそばゆさを感じて天国への階段を夢心地に昇って行ってしまったという次第であり、さらに加えて、実は私の父方の祖

父祖母が東北の出であり、猫川又美の出身地とはかなり離れているとはいえ同郷ということもあり、先祖の誰某から、変な悪い男にダマされて処女喪失(ロスト・バー

ジン)した傷もまだ癒えず慣れない都会の一人暮らしで夜毎枕を濡らす寂しい哀れな女である猫川又美のことを、かわいそうだからお前が助けておやりなさいと言われ

ているような気もだんだんしてきて、また、猫川又美は実家が貧乏で両親が毒親、おそらく猫川又美のちょっとどころでなく頭のネジがぶっ飛んだところは紛れもな

く毒親の血であると言えようか、ゆえに学費生活費一切を夜の飲み屋のバイトによってすべて独力でまかなわなければならぬレミゼラブルな境遇にもあって、そんな

猫川又美をさらに哀れと思った当時30半ばを少し過ぎ寂しい独り身の変態繊細優男であった私は、まあ仕方がない、嫌になったらなったでその時はさっさと別れて捨

ててしまえばいいんだし、BJORK/ビョークに似てるとはいえ20歳前の今時の若い女のピッチピチの体(ボディ)をただで抱けてあんなことやこんなことえっそんなこ

とまで好き勝手放題にできるわけだし(だがしかし実際はそれほどピッチピチでもなく、しかも貧乳マグロおまけにフェラが下手くそでいくら教えこんでも一向に成長

する兆しを見せず、下手なら下手なりに真心がこもっているかといえばまったくそんなこともなく、とうとう別れるまで下手くそのまま、ついでに料理もクソまずく

とても食えた代物ではなく、私は先天的ゆえにいかんともし難い貧乳はさておき猫川又美のフェラのまずさと絵のまずさと料理のまずさとにはどこかしら密接な関連

性があるのではないかと疑ってみたりもしつつすっかり肩透かしを食らってしまったというわけだが)、とまれ、猫川又美も田舎から親元を離れはるばる上京してきて

初めての慣れない都会暮らしで夜毎枕を濡らしていることであろうし、断ったらかわいそうだし、BJORK/ビョークに似てるとはいえ決して可愛くないわけでもない

し、絵も褒めてくれたことだし、とにかく付き合ってくれ付き合ってくれとしつこくうるさいし、変に断ってストーカーにでもなられても困るし、まあとりあえず試

しに付き合ってみてやろうかな、でも16歳下の女と果たしてうまくゆくのだろうか、今までそんなに歳の離れた女とは付き合った経験がないから面倒なことにならな

ければいいけれど、などなど、些か面倒くさい気持ちと嫌な予感を残しつつも、とにかく重たい腰をあげて、何はともあれ、もうなるようになれ!くそったれ人生!

と私は16歳下のBJORK/ビョーク似の猫川又美と交際を開始したのだけれども、それが予想に反して思いのほかウマが合ってしまったようで、というのも、猫川又美

の放つ垢抜けない田舎くささが、汚れっちまって草臥れっちまった30半ばを過ぎた中年であるところの私の目には、決して気取らないピュアな清純さを伴った可愛ら

しさとも映り(だがしかし、そのピュアで清純な可愛らしさも都会の絵の具に思いっきり染まっちまって世俗にまみれっちまって次第に汚れっちまってスレていっちま

う運命にあるのだが、当初は初々しさを残しており)、また「美人は三日で飽きるがブスは三日で慣れる」と格言にもある通り(もちろん猫川又美がブスだと言ってる

わけではないが)、私の過去の経験を振り返ってみても、自分が好きになって付き合った相手よりも自分はそれほど好きではないけれど好きだと言われてなんとなくな

りゆきで付き合った相手とのほうが皮肉にも長続きしてしまうという傾向もあって(おそらくその理由は、好きになるということは相手に対しての期待値がかなり高い

という証拠でもあり、その期待に反して相手の粗が見えてきてしまうと何だか裏切られたような許せないような気持ちになってしまいがちで、逆に期待してない相手

には裏切られる心配も少ないためと自己分析するところであり、また、美人は三日で飽きると聞いて私がいつも思い出すのは、親友ジョージ・ハリスンの奥さんパテ

ィに横恋慕したエリック・クラプトンが『いとしのレイラ』という曲まで作って奪い取ったものの、手に入れた途端に夢から覚めてしまったのか運命の相手ではなか

ったのか理由は定かではないが結局添い遂げることなくいつしか別れてしまったという話である)、ともかく、猫川又美に対して私がピッチピチの体(ボディ)以外はさ

ほど期待していなかったことも功を奏してか、そのまま腐れ縁とでも言おうか、私と猫川又美はズルズルダラダラと5年近くも付き合い続ける羽目となるのだった。

……

初めてのデートは猫川又美からジェットコースターに乗りたい乗りたい乗りたいとしつこくせがまれたため、田舎者にはまあこの程度で十分だろうと適当に見繕った

都心でジェットコースターに乗れる遊園地、東京ドームの横にある昔の後楽園ゆうえんちでフリーパスを購入し、潔いほど清々しく晴れ渡った都会の秋空の下、平日

の真っ昼間にいい歳した立派な大人が遊園地をぶらついていることに幾ばくかの罪悪感や後ろめたさを覚えつつ、朝から晩まで延々とジェットコースター三昧、私は

ジェットコースターに乗るなんてのはあまりに久しぶりだったものだから乗る直前までいい歳こいて怖じ気づき心臓バックバク小便チビリそうなくらいブルってしま

っていて、嫌でも耳に伝わってくる疾走するジェットコースターのゴゴゴゴゴーという轟音やキャーとかギャーとかワーとかいった客の絶叫を近くに遠くに聞きなが

ら、急に鳩尾らへんがキュウっと痛くなったり足はガクガク心はソワソワとそぞろになったり、何だかワクワクするねー、楽しみだねー、ねー、ねー、ねーってば、

ちょっとさっきから私の話聞いてんの?なんて私とは正反対に心臓に毛が生えたように肝っ玉の据わった猫川又美から話しかけられても返答に窮したり、その小心ぶ

りを悟られぬよう空元気でハッハッハッと無理やり出したカラッカラに渇いた笑い声で答えれば、どっから声出してんのよー?なんて猫川又美に突っ込まれたりする

うち、すぐに順番が巡って来て、いざ乗ってみればケツがハンパなく浮きまくるものの、クルクルクルクル回って何だかとってもいい気持ち、肩にたくさん乗っかっ

ていた悪霊さんや生霊さんや地縛霊さんや水子霊さんたちをきれいさっぱり振るい落としたみたいにとってもいい気持ち、猫川又美と二人並んで時間を忘れただひた

すら乗り続けるうち、体にかかる加速度Gに抵抗するよりも身を任せたほうがより一層楽しめることを体で理解し、その後は時の流れに身をまかせ/あなたの色に染め

られ、隣りの猫川又美を横目で窺えば、田舎者が調子こいてバンザイポーズまでして大喜びしており、そんな無邪気な姿をまるで小学生の娘を遊園地に連れてきた子

煩悩な父親にでもなったかのような気分でだんだん愛おしく思えてきたりもして、途中さすがに疲れてきたので箸休めにと観覧車に乗ったところが、猫川又美は11月

の午後の日差しが燦々と差し込む些か明る過ぎる気がしないでもない観覧車の中で、いきなり私に飛びつき抱きつきキスしてきて、その些か短めの薄っぺらな舌ベロ

を私の唇を割ってグイグイ乱暴にねじ込んできて、私の些か長めの薄っぺらな舌ベロにいやらしくねっとりと絡めてきて、(おそらく飲み屋のバイトで深夜まで働く不

規則な生活が原因の一過性のものだろうが)猫川又美の口から微かに漂ってくる口臭を口移しに味わいながら、そんなレミゼラブルな貧乏田舎娘である猫川又美のこと

をうら若き身空で結構苦労してるんだなと憐れみつつも、私は、おいおいおいおい、今時の若い女は随分と積極的なんだななんて驚きもしつつ、猫川又美のブラジャ

ーいらずの小ぶりではあるものの生意気にもそこそこ柔らかい両乳房を服の上からまさぐり堪能しておると、猫川又美は私の股間をズボンの上から、あたかもハムス

ターなどの小動物でも愛玩するかのような手つきでまさぐりはじめたかと思えば、その流れから私のズボンのチャック(社会の窓)をいきなり下ろして、ぎこちない手

つきで私のハムスター(ペニス)を引っぱり出しコンニチワー!と強制露出させ、すでに半勃ち状態の私のハムスター(ペニス)をためらいもなくしゃぶりはじめるもの

だから、私は驚いて、おいおいおいおい、ここは空に浮かぶピンサロですかー!と照れ隠しにツッコミを入れた上で(さらには、もしかしたらこんな具合に観覧車で一

周回ってる間に女の子と自由恋愛できる性風俗店があったら大いに繁盛するかもしれないなとかアホなこと考えながら)、おいおいおいおい、ちょっとお待ちなさい、

お嬢さん、ちょっとお待ちなさいったら、初めてのデートでいきなし男のハムスター(ペニス)なんかしゃぶったらダメですよ、世間知らずにも程がありますよ、しか

もまだ明るい真っ昼間から、それも観覧車の中でなんて、外から私のハムスター(ペニス)がバッチリ丸見えで恥ずかしいじゃないですか、ガラス越しに直射日光が容

赦なく当たって唾液塗れのハムスター(ペニス)がヌラヌラテラテラといやらしく光り輝いてしまってるじゃないですか、それにこういうデリケートで淫らな行為はも

う少しお互い仲良くなって理解し合ってからにしましょうね、などと戸惑いつつ、私は、しかし何だろう、今時の若い女の貞操観念は一体どうなってしまってるんだ

ろうか、みんなこんなにも積極的でエロいのだろうかと、かなり大きなカルチャーショックを受けてしまってもいて、おまけにしっかりと私のハムスター(ペニス)は

隆々と痛いくらいギンギンに勃起してしまってもいたわけだけれど、お嬢さん、やっぱりダメです、いけません、もう少し仲良くなってから、せめてもう少しまわり

が暗くなってからにしましょうね、と今このまま欲望にまかせ猫川又美のお口の中に私の精液をドバドバドバッと一気に放出してしまったならば今まで見続けてきて

今現在もまっただなかにいる居心地の良い白昼夢から一瞬で目が覚めてしまって、小難しい冷徹な哲学者モードに突入してしまって、私と猫川又美の今日一日という

まだほんのわずかな時間ではあるものの、互いに今この瞬間までにせっかくせっせと積み上げ築き上げてきた信頼関係が一気に崩れて壊れて冷えていってしまって、

このまま二人ここでお別れをして、今後二度と会うこともないようなそんな予感を直感的に覚えた私は、私のペニスにぎこちなく下手クソだけれど懸命に食らいつい

ている猫川又美のそのいやらしい口を半ば強引に引っぱがし突き放し、お嬢さん、もう充分だよ、お嬢さんの気持ちはもう充分過ぎるほどわかったからさ、お嬢さん

のその気持ちだけはありがたく頂戴して大事にポケットにしまっておくからねとか何とか言ってその場を無理やり収め、その後は何となく気まずい雰囲気を引きずり

ながらも、メインディッシュ(ジェットコースター)へと戻り、再び二人仲良く(私は半勃ち状態のまま)閉園間際まで延々とジェットコースター三昧、やがて、秋の日

はつるべ落とし、11月の日暮れの訪れは本当に早いもので、気がつけばあっという間にまわりは暗くなっていて、私は夜のジェットコースターなんてものに乗るのは

生まれて初めての経験だったわけだけれど、これがなかなかよい雰囲気を醸し出していて、まるで銀河鉄道にでも乗っているような気分で都会のキラキラと煌めく夜

景を眺めながら、あの窓の一つ一つの灯りの中にはそれぞれに色んなドラマがあって、みんな残業とかして忙しく働いているんだろうなあ、皆さん、大変だよなあ、

まったく、ごくろうさんなこってすよなあ、でもくれぐれも体だけには気をつけて下さいな、体を壊してしまったら元も子もなくなってしまいますからね、などと他

人事のようにのんきに労いつつ、都会の夜空をケツ浮きまくりでクルクルクルクル回転しながら、このまま猫川又美と二人きり銀河鉄道に乗ってどこか遠く誰一人知

っている人がいない場所へ行ってしまいたいような、いっそこのままアンドロメダの果てまでぶっ飛んで行って宇宙の藻屑となって消えてなくなってしまいたいよう

な、何だかとってもセンチメンタルな気持ちになってきて、そして、気がつけば、I'm A Fool To Want You、いつの間にやら私と猫川又美を乗せた銀河鉄道は上野不

忍池畔のラブホテル駅の薄暗い一室に到着しており、そこで私と猫川又美は初めてのSEXをして、私のほうは一発ヤッてとっとと帰る心積もりだったのだけれども、

猫川又美が一人暮らしの寂しいおんぼろアパートには帰りたくないなと泣きべそをかくものだから、結局そのまま二人で次の日の夕方までのかなりの長い時間をラブ

ホテルの薄暗い一室で一緒に過ごし、その間に私と猫川又美は3回SEXして(そのうち1回は不発で)、それ以外の時間はジェットコースター三昧の疲れからただひたす

ら二人生まれたままの姿で手足をからませガーガーと惰眠を貪るか、私が腕枕して猫川又美が一人花を咲かせる身の上話やくだらない話を延々と聞されるなどして、

寝ぼけ頭で聞くその話によれば、どうやら私は猫川又美にとって3人目の男にあたるらしく、1人目は例の全然好きでもないのにダマされて処女喪失(ロスト・バージ

ン)した悪い男で、2人目は部屋に遊びに行って泊って夜中にヤラれてしまったこれまた全然好きでもない予備校の同級生で、そして、ようやく私と初めて好きな相手

とSEXできてとっても嬉しいなあと猫川又美は大喜びして、さらに、調子に乗った猫川又美は、ダマされて処女を捧げた例の初めての悪い男からクンニリングスされ

た際に、前の彼女のアソコはほんのり白身魚の味がしたけれど、君のアソコは肉汁たっぷりステーキみたいな味がするよと言われたことなど、こちらが聞いてもいな

いこと(できれば聞きたくないこと)を明け透けとペラペラ私に打ち明けてきたりもして、初めてのデートでSEXした後にそんなふうにアソコの味に関する話など聞かさ

れて私は一体どうリアクションを取るべきなんだろうか、そういうデリケートな話は他人にあけっぴろげに話してしまうのではなく胸にこっそり秘めておくべきなん

じゃないのか、しかも、猫川又美が処女を捧げた私とは無関係の男のさらにはその前の彼女のアソコの味までなんで自分が知らされなくちゃならないんだろうか、そ

んな女のアソコの味なんて自分にはまったく関係ないし、もしかしたら暗にクンニリングスしてくれと仄めかされているのだろうか、などとどちらかといえばクンニ

リングスに慎重派である私は、今日のところはクンニリングスはやめておこうか、肉汁たっぷりステーキの味と言われても、実際舐めてみたら全然違う味がするかも

しれないし、正直迷うところではあるけれども、今日のところはやめておこうか、おそらく猫川又美とはこのままなりゆきで付き合う羽目になってしまいそうだけれ

ど、しばらくの間はクンニリングスだけはやめておこうかなどとぼんやり考えつつ(実際私は猫川又美の東京藝大合格祝いを兼ねて初めてクンニリングスするまで、猫

川又美から、私はフェラしてるのにどうして私には同じようにしてくれないのと何度も催促されながらも、昔性病をうつされたとか、宗教上の理由でクンニリングス

は禁じられているとか、死んだばあさんと一生クンニリングスはしないと約束したとか適当な理由を付けてはクンニリングスを2年以上封印した)、とまれ、ケツはプ

リップリだけど貧乳マグロフェラは下手クソだし、どちらかといえば全体的に期待していたほどピッチピチではなかったかなと少しばかり残念な感想を抱きながらも

そこそこ私は満足していたわけだけれど、窓のまったくないラブホテルの薄暗い部屋で時間の感覚がすっかり麻痺していたようで、気づいた時にはすでに翌日の夕方

近くになっていて、かなりの高額に上っていた会計を済ませたのち、ようやく私と猫川又美は上野不忍池畔のラブホテルを後にして、その後も二人なんだか別れるの

が急に名残り惜しくてなって、なぜだか知らぬが再び後楽園ゆうえんちに舞い戻ってしまって、最後にもう1回だけジェットコースターに一緒に乗り、夕暮れ空をケ

ツ浮きまくりでクルクルクルクル回転して、当時猫川又美は美術予備校の夜間部に在籍していたのだけれども、またしても帰りたくないなと泣きべそをかきはじめ、

予備校さぼっちゃおうかななどと駄々をこねはじめるものだから、学校さぼるような女とは付き合わないよ、学校にはちゃんと行きなさいと電車で新宿まで送って行

き、駅の改札で別れ際に猫川又美が、私たち正式に付き合うってことでいいんだよね?とすでに彼女気取りで最終確認してきて、ほぼ2日間一緒に過ごしSEX3回(その

うち1回は不発)したからっていきなり彼女ヅラするんじゃねえぞと田舎くさい哀れな猫川又美のことを少しばかし面倒くさく鬱陶しく感じながらも、ああ、まあ、う

ん、なんだ、その、ええと、なんだ、まあ、あの、その、ええと、なんだ、その、なんだ、ええと、まあ、付き合うでいいんじゃないのかなと私が適当に答えてやれ

ば、猫川又美はやったー!と大喜びして、やったー!やったー!やったー!と君はヤッターマンか?というくらい本当に心の底から大喜びしてくれていて、そんなふ

うに大袈裟に喜んでもらえた私も満更でもなくて、おそらくジェットコースターに何度も繰り返し一緒に乗ったことが恐怖体験を共にした戦友みたいな気分となって

結果的に功を奏したのであろうと自己分析しながら、何はともあれ、まあ、そんな具合に、私と猫川又美二人の波瀾万丈な関係の華麗なる幕開けとなるのであった。

……

かように、とりあえず、破れかぶれに、16歳下のBJORK/ビョーク似の田舎娘である猫川又美と正式に付き合いはじめた私であったが、当初に感じたジェネレーショ

ンギャップや違和感と言ったらば、まずは携帯電話のメールのやり取りであり、元来私はケータイメールをさほど頻繁に使用しておらず(いやむしろ可能な限り携帯電

話など持ち歩きたくないとすら思ってもいて実際に約束のある時以外ほとんど携帯しておらず)、一方の猫川又美はとにかくやたらめったらと頻繁に嫌がらせのように

ケータイメールを送ってきて、しかもそのすべてが短文であり、すなわち猫川又美は私とメールで会話(チャット)を試みようとしているのであったが、私のほうでは

メールというものは1回ですべての必要な要素を書いて済ませるものという考え方であったから、猫川又美から次から次と嫌がらせのように大量に送られてくるメー

ルの対応にだんだんと嫌気が差してきてしまって、面倒くさくてメールを返さず放ったらかしにしようものなら、すぐさまなぜメールの返信をよこさないのだ!と怒

り狂った猫川又美からさらに大量のメールが送られてきて、次には直接電話がかかってきて、それらすべてを無視したままでいると、挙げ句の果てには無言メールを

100通200通300通ともう犯罪レベルの量を送ってくるものだから、私は心底うんざりしながら、やはりこの女はどこか頭がおかしいのかもしれないと嘆息するばか

りであった。また、ある時クリスマスの頃だったか、暇つぶしに互いにケータイストラップを探して買ってきて贈り合いそのセンスを競い合うという遊び(ゲーム)を

したことがあって、1時間後に戻ってくることを約束しそれぞれ街へと繰り出して行き、私はBEAMSだったか忘れたがおしゃれなセレクトショップにて、猫川又美は

猫が大好きだったなと黒猫の小さなブサカワなぬいぐるみのケータイストラップを見つけて購入し、待合せの喫茶店に戻って待っておると、猫川又美は約束の時間に

なっても戻らず、本当に時間を守らないどうしようもないクソ女だなと私がイライラしはじめる頃、ようやく1時間遅れで猫川又美が戻ってきて、自信ないなとかあ

んまり期待しないでねとか何だかぐずぐずと言い訳ばかりぶつぶつ言っていて、いざ互いの買ってきたケータイストラップを交換し、猫川又美が私に買ってきてくれ

たケータイストラップを見れば、それは何の変哲もない薄茶色の革製の細長いケータイストラップで、本当に何の変哲もないそこら辺の冴えないサラリーマンのおっ

さんがケータイによくぶらさげているようなシンプルと言えば聞こえはいいが、ようするに無個性でまったくセンスの欠片も感じない、もっと言ってしまえばダッサ

ダサのケータイストラップであり、センスを見せ合うことがこの遊び(ゲーム)の主旨であるにもかかわらずこんなにもセンスのないケータイストラップを1時間も遅刻

までして見つけて買ってきた猫川又美のセンスのなさに私は心底がっかりしてしまって、このセンスのなさで東京藝術大学に入ろうなんて思っているとしたらそれは

本当に救いようもなく絶望的な状況なのではないのかと心配しつつ、期待しないでと言われていたから期待はしていなかったものの、うーんなんだろう、と何とも言

葉に詰まってしまった私は、思い切って率直なそれらすべての感想を包み隠さず猫川又美に伝えると、猫川又美は、だってしょうがなかったんだもーん!と絶叫した

かと思えば、まるで3歳児のようにビエーンエーンビエーンエーン、だってしょうがなかったんだもーん!ビエーンエーンビエーンエーン、だってしょうがなかったん

だもーん!と喫茶店のすべての客が振り向くほどの大声で泣きはじめ、私は突然泣き出した猫川又美に戸惑い、そして猫川又美が泣いているところを喫茶店のすべて

の客に注目されていることが恥ずかしくて居たたまれなくなってきて、ひょっとしたら私はとんでもないハズレくじを引いてしまったのかもしれないなと、ほんの一

瞬ではあったものの猫川又美と付き合ったことを付き合って間もなく初めて後悔し、そして猫川又美の体を無理やり引きずり逃げるように店を後にするのであった。

また、猫川又美は私の住所の最寄駅赤羽を埼玉県と勘違いしており、赤羽って東京だったんだね、知らなかった、てっきり埼玉県赤羽だと思ってたよなどとことある

ごとに間違えるものだから、そのうち、この女赤羽を田舎とバカにしてわざと間違えて言っているのかと疑いはじめ、その後も赤羽は埼玉だよね、あれれ赤羽って東

京だったんだとか、赤羽は川口と西川口の間にあるんだよねだとか無邪気な振りして何度も尋ねてくるものだから、こいつは確信犯だなと確信した私は、黙って聞い

ておればいい気になってわざと間違えた振りして赤羽のことバカにしてるだろ、たしかに東京の中じゃ赤羽は田舎かもしれねえよ、だけどよ田舎からはるばる出てき

たおのぼりさんの君に赤羽をバカにする資格はないんじゃねえのか、君の田舎にはイトーヨーカドーあるのかよ、とにかく赤羽は東京で埼玉なんかじゃねえからな、

今度間違えたら本気で別れるぞ、これはマジだからな覚えとけよ、田舎者のくせして赤羽を舐めんなよと本気でぶち切れると、猫川又美は赤羽は埼玉だとは言わなく

なるのだった。次に、これはジェネレーションギャップとは少し異なるかもしれぬが、猫川又美は病的な遅刻魔であり、とにかく約束の時間を守らず、最初のうちは

まあ田舎から上京したてのどんくさい田舎者だから東京の地理に明るくないため仕方がないのだろうなと少しばかり大目に見ていたものの、そのうちいつもと同じ待

合せ場所にも平然と遅れてやって来たりして、おまけに後で遅刻した時間の猫川又美のTwitterを確認してみれば「遅刻なう!史上最大のピンチなう!なうなうなう!

なうなうなうなう!」などとのんきにつぶやいていたりして、私は、史上最大のピンチの時は史上最大のピンチなんだからTwitterでなうなうなうなうつぶやく余裕な

んてあるわけねえだろ!本当にバカなんだな、このクソ女は!と呆れつつ、おそらく猫川又美という女には時間を守るという観念が先天的に欠けているのだろうなと

思って、ある時、待合せの時間に遅れるということは相手に対して大変失礼なことであり、相手のことを軽んじている、つまり相手をナメているという動かぬ証拠で

もあること、また、例えば時間通り来れば100万円あげるよと言われたら絶対に遅刻しないだろうし、東京藝術大学の入試にだって遅刻することはないだろうし、親

が死にそうになっているところへはすっ飛んで帰るだろうし、すべては心の問題であるからして、手酷い目に遭う前に今後は絶対に改めるべきだと強く諭すも、その

後も猫川又美の病的な遅刻癖は一向に改善される気配を見せず、後日、受験勉強の息抜きに富士急ハイランドへ遊びに連れて行ってやった折の早朝の新宿西口高速バ

スターミナルにもキャンセルリミット間際の発車寸前、待合せ時間に40分も遅れて半べそ小走りで滑り込んできたりもして、さすがにその時の私は「てっめえいいか

げんにしろよふざけんなこらっクソ女!」とぶち切れてしまい、その日一日中富士急ハイランドに到着してからも猫川又美とは一言も口をきかずに延々と二人無言で

ジェットコースター三昧、12月の雲ひとつない晴天の渇いた冬空に堂々と聳え立つ雄大な富士山にあたかもストーキングされているかのごとく常に見守られながら、

ただひたすら二人無言でジェットコースターに乗り続けるという行為は、当然のごとく私と猫川又美にとっては生まれて初めての経験であったわけだけれども、それ

はまるで修行僧が苦行に励む姿のようでもあり、また、ある種の高級なSMプレイのようでもあり、また、何の因果か知らぬが16歳下の猫川又美と(体目当てで)付き合

ったことに対する罰ゲーム、いやはや、もはや、この世に生を受けてきたことに対する罰ゲームのようでもあり、なかなか日々をまじめに生きているごく普通の人間

ならば一生に一度あるかないか(多分ないだろう)の希有で貴重な体験であったと言えなくもなかったが、もちろんどうしても伝えなければならないこと、例えば昼飯

にするぞとか次はドドンパだぞとか次は観覧車に乗るぞなどはケータイメールを介してやり取りしていたわけだが、そして、ジェットコースター三昧の合間の箸休め

と観覧車に乗っていた時のこと、最初のうちこそ二人互いにそっぽを向きながら空々しくも無言で窓外に広がるパノラマ風景や血管の隅々まで浮き出たようにも見え

る巨大な富士山へ虚ろに目を向けたりしていたものの、私たちを乗せた観覧車が天国に一番近い場所つまり最上地点に到達したところで、おそらく私に完全無視され

ている現状を何とかして打破してやりたいと必死になって画策していた猫川又美が私の歓心を買うためと容易に推察されたが、突然何を思ったものか私の足元にひざ

まずき土下座するのかと思いきや、なんと私の股間に手を伸ばし乱暴にまさぐりはじめ、私のズボンのチャック(社会の窓)を下ろし、私のペニスを無理やり引っぱり

出して、いきなりしゃぶりはじめたものだから、富士山もビックリ仰天!私はこれに近い光景をそんなに遠くはない過去のいつかどこかで体験したことがあるぞ、そ

うだ、あれはたしか初めてのデートの後楽園ゆうえんちの観覧車の中での出来事だとすぐさま思い出し、さらには、ケンカ中にもかかわらず観覧車の中で突然私のペ

ニスをしゃにむにしゃぶりはじめた猫川又美に対して、この女一体何を考えているのやら、さっぱり理解不能だわ、やはりどこかしら普通じゃなくて、つまり頭がお

かしいんだろうか、もしかして前世からの因縁で観覧車に乗る時は必ず男のペニスしゃぶらなきゃ死んでしまう奇病に罹っているとでもいうのだろうか、本当に病気

ならばそれはそれで仕方がないけれど、ていうか、そんなヘンテコリンな病気ついぞ聞いたことねえぞ、それに、そもそも、男の弱み(すぐにペニスが勃ってしまうこ

と)につけ込んで、いつも何か問題が起これば手っ取り早く体(SEX)使ってすべてうやむやにして解決しようと目論むその腐った性根がまったくいけすかねえったらあ

りゃしねえよ、ペニスしゃぶればなんでもかんでも簡単に許してもらえると思ったら大間違いなんだよ、世の中そんなに甘くはないんだよ、この突発性観覧車フェラ

チオマシーン症候群のクソ女が!と憤りつつも、私はケンカ中であったがために、また、思いがけぬ予想外の猫川又美の突飛な行動に全身が固まってしまって、その

ままなりゆきで猫川又美の好きなようにさせていたのだが、私の股間は、ケンカの最中にもかかわらず、また、猫川又美を憎たらしく思うその心とは裏腹に、親の心

子知らず、即座に敏感に反応してしまって、恥ずかしながら私のペニスは、おそらく私たちの淫らな姿を温かくそして寛大な気持ちで見守ってくれていたと思われる

12月の雲ひとつない晴天の渇いた冬空に堂々と聳え立つ雄大な富士山に負けず劣らず隆々と痛いくらいギンギンに勃起してしまっていたわけだけれども、猫川又美が

私の富士山(ペニス)を引っぱり出してしゃぶりはじめてからおよそ1分も経たないうちに、いきなり車内放送の緊急アナウンスが流れてきて「お客様、観覧車内では大

変危険ですから不謹慎な行動は慎み、大人しく静かに座っていて下さいませ」「お客様、観覧車内では大変危険ですから不謹慎な行動は慎み、大人しく静かに座って

いて下さいませ」「お客様、観覧車内では大変危険ですから不謹慎な行動は慎み、大人しく静かに座っていて下さいませ」とおそらくはあらかじめ録音されていたデ

フォルトのアナウンスではなくてチケットもぎり係のおばちゃんの生マイクを通した不機嫌な生声で何度もしつこく嫌がらせのように流れてきたために、驚いた私は

猫川又美を突き飛ばし、猫川又美は私の股間から飛び退き、さっきまで雄大な富士山に負けず劣らずあれほどまでに堂々と聳え立っていた私の富士山(ペニス)もみる

みる縮んで今じゃ学校の裏山サイズに戻ってしまって、私と猫川又美は互いに一言も言葉は発さぬまま、何ともバツの悪い引き攣ったような顔で一瞬だけ照れ隠しで

微笑み合い、私は、もしかしたらこれから先もこんな具合に猫川又美にあらゆる場面でずっと振り回され続けてしまう運命なのではなかろうかという一抹の不安を覚

えつつ、それにしたって観覧車の中でいきなりペニスしゃぶりはじめる奴があるかよ、俺たちまるで10代の付き合いはじめの浮足立ったバカップルみたいじゃねえか

よ、たしかにバカップルには違いねえけどさ、公共の場における最低限の礼節くらいわきまえなきゃダメだろうがよ、怒られたのもみんな空気が読めない猫川又美の

せいじゃねえかよと心の中で罵り続けながら、チケットもぎり係のおばちゃんとは目を合わさぬように逃げるように観覧車を後にして、休憩所に移り猫川又美が作っ

てきてくれた相変わらずお世辞にも美味いとは言えぬお弁当を二人で無言で食べてから、その後も再び無言でジェットコースター三昧、12月の暮れかけた富士急ハイ

ランドは恐ろしいほど(決して冗談でもなく本当に凍死するんじゃないかと思うほど)寒くてたまらず、私はプルプル震えながら隣りで同じくプルプル震えている猫川

又美のケータイに「そろそろ宿行くぞ」と素っ気ないメールを送り、私と猫川又美はすっかり薄暗くなった富士急ハイランドを後にして、相変らず一言も口はきかぬ

まま富士急電車に乗って河口湖駅まで向い、そして、その日の宿泊先である河口湖畔のホテルに到着して、そのホテルとは名ばかりの古めかしい木造旅館の和室の畳

の上に大の字にぶっ倒れ寝転がった私は、猫川又美がすぐ隣りにいるにもかかわらずケンカ中のため一言も口がきけないという罰ゲームが悪夢のように延々と続く状

況にほとほと疲れ果ててしまって、そもそもの話、なぜ私たちはケンカしたのであろうかというその発端すらもとっくの昔にすっかり忘れてしまっているほどに精根

尽き果ててしまって、思わず誰彼に向かってというわけでもなく、ただなんとなく自然に「なんだか草臥れ果ててしまったなあ」という言葉が私の口からふと洩れ出

てきてしまって、それに呼応するかのように、私と同様に畳の上に大の字にぶっ倒れ寝転っていた猫川又美も「なんだか疲れちゃったねえ」と答えたのをきっかけに

してようやく私は猫川又美のことを許してやり(ただし果たしてこんなふうに簡単に猫川又美を許してしまってよいものだろうか、もしかしてケンカしたままだと気ま

ずくてSEXしづらいからという自分勝手な理由から猫川又美を許すのではなかろうか、結局自分も観覧車でいきなりペニスしゃぶる猫川又美も同じ穴の狢ただのケダ

モノに過ぎぬのではなかろうかなどと自問自答しながら)、その夜はしっかり仲直りのSEXをして、ケンカ後のSEXは愛憎入り乱れるというか、お互いの存在価値をあ

らためて確認し合うというか、いつもより断然燃えあがるというか、つまり、大いにハッスルしてしまったわけだが、その翌日、猫川又美は何を血迷ったものか朝か

らバイト先の飲み屋のイベントで使用したとかいう安っぽいペラッペラのセーラー服を着用したりするものだから「おいおいおいおい、お嬢さん、朝っぱらから一体

全体何のマネですか?」と私が質せば、猫川又美は平然と「見ればわかるでしょ、高校教師ごっこだよ」とニヤニヤ答えて、私は、そういや昔たしかそんなタイトル

の中年高校教師と女子高生が恋に落ちて逃避行するドラマがあったなとぼんやり思い出すも、楽しい旅行中に何が哀しくて猫川又美と高校教師ごっこなどしなければ

ならぬのかと釈然とせぬまま、その日一日、猫川又美はどこへ行くにも安っぽいペラッペラのセーラー服姿で通して、私は本当に恥ずかしくて恥ずかしくて仕方がな

く、なるべく猫川又美とは意識的に距離を置いて歩くなど無関係の赤の他人の振りを装うことに懸命に努めていたのだけれども、それはなぜかといえば、当時高校を

卒業して1年足らずであるにもかかわらずセーラー服姿の猫川又美は明らかに女子高生には見えず、それは猫川又美の化粧が濃くて大人びて見えるだとか色々と理由

はあるだろうけれど、一番の理由は何かといったらば、そのセーラー服が本当に安っぽいペラッペラの代物で(ドンキホーテなどのパーティー扮装コーナーで1000円

程度で叩き売りされているコンビニ袋を継ぎ合わせて拵えたような本当にペラッペラの粗悪品であったため)、猫川又美は女子高生ではなくセーラー服のコスプレをし

たただの頭のおかしい怪しげな安っぽい女にしか見えず、そんな頭のおかしい怪しげな安っぽい女が一日中私の横を付いて回れば、必然的に私までもが頭のおかしい

怪しげな安っぽい人間に見られてしまう恐れがあったからに他ならず、さらに、その日たまたま河口湖畔にある富士山の絶景が望める小高い山にロープウェイで登っ

たのだけれども(その直前に見た河口湖は何十年ぶりかですっかり水が枯れて底が丸見えになっていて、もしかしたらそれが前兆であったかもしれぬが)、その山の頂

上には何やら案内板が立っていて、それを注意深く読んでみれば、その天上山という名前の富士山の絶景が望める小高い山は、太宰治版『かちかち山』の舞台となっ

た山であるらしく、太宰治版『かちかち山』は、ウサギが10代後半の潔癖純真ゆえに冷酷な美少女であり、そんなウサギに恋したタヌキがどんな酷い目にあってもウ

サギに従う愚鈍な中年男という設定の美少女と中年男の宿命物語として書かれており、美少女ウサギが中年タヌキを散々虐待し尽くした末に最後に中年タヌキは溺死

するという悲惨な物語であり、あたかもそれは猫川又美(美少女ウサギ)と私(中年タヌキ)との関係を嫌でも連想させられずにはおれず、偶然とはいえ何だか嫌な場所

に来てしまったものだと嘆息しながら、ふと隣りを窺えば、セーラー服のコスプレをした頭のおかしい怪しげな安っぽい女が案内板を読みながら「タヌキはウサギに

イビリ倒されて最後溺死しちゃうんだってさ」とニヤニヤと含み笑いをして立っていて、私は心底嫌な気持ちになってきて、本当に相手の気持ちを思い遣るという基

本的なことができない無神経なクソ女だなとぶち切れてしまって、その後は再びセーラー服のコスプレをした頭のおかしい怪しげな安っぽい女とは一言も口をきかな

くなるのであった。かような、くだらぬ話は枚挙に暇がなく、それだけで本1冊いや全10巻シリーズがスラスラと書けてしまうほどに(実際私は猫川又美と交際中この

特異な衝撃的体験をいつか必ず何らかの形で書き残しておかねばならぬと固く心に誓ってもいたが)、もう猫川又美という女は良い意味でも悪い意味でも本当に頭のイ

カれたエキセントリックな変態女であり、それは私自身も負けず劣らず同様に良い意味でも悪い意味でも本当に頭のイカれたエキセントリックな変態男であり、だか

らこそ寂しい都会で変態同士仲良く傷を舐め合うかのごとくズルズルダラダラと5年近くも腐れ縁を続けてしまったのだと今となって振り返り分析するところでもある

が、私は猫川又美が時折見せる無神経な態度や鈍感で図々しい傲慢さや明らかに常軌を逸した言動にイラッとしたりカチンときたり震え上がったり呆れ返ったりする

ことは幾度となくあったものの、それら猫川又美の欠点をも含めたあらゆるすべてがなぜだかは知らぬが、都会の生活に草臥れ果てた30半ば過ぎの寂しい変態繊細優

男であった私にとってはピュアな可愛らしさとも映って、16歳という年齢差はまったくといっていいほどとはいえぬもほとんど支障を来さず(おそらくそれは私がきち

んと相手の気持ちを思い遣ることのできる立派なジェントルマンであったからといいたいところではあるが実際は私の精神年齢がかなり低いお陰であったといったと

ころか)、一緒に過ごす時間は常にジェットコースターに乗っているかのような気分でとにかく楽しいというか面白いというか飽きないというか物珍しいというか刺激

的というか、少なくとも猫川又美を興奮させ頭に血をのぼらせて火病を起こさせたり精神を錯乱させない限り、ごく普通の一般的な恋愛関係にある男女の間柄として

は、少なくとも猫川又美が東京藝術大学に入学するまでのしばらくの間は特に致命的な問題も起こらず、順調といえば順調ともいえる交際を続けていくのであった。

……

その後、結局、猫川又美は3浪の末に東京藝術大学に何とか無事に合格を果たすのだが、私は猫川又美の意地でも東京藝大に入ってやるぞテメエコノヤロークソヤロ

ーベランメーコンチクショーという不屈のパンク精神には強く共感していたものの、(うわべは真摯に応援する素振りは見せつつも、否、実際真摯に応援しつつも)本

音のところでは猫川又美が実際に東京藝術大学に合格するなどとは夢にも思ってはおらず、それはなぜかといえば、私は猫川又美の絵を良いと思ったことがほぼ皆無

に等しかったからであった。ただし、あれはたしか猫川又美が東京藝術大学に合格する前の出来事だったろうか、ある日、薮から棒に猫川又美の卑劣な裏切り行為が

発覚し、付き合ってから初めてとなる別れる別れないの修羅場に発展したことがあって、私は、そんな卑しい大嘘つきとはもう金輪際付き合ってはおられんとしばら

くの間猫川又美とは一切の連絡を絶ち、実際に別れる腹もほぼ決めかけていたところが、猫川又美から「アタシどうしても別れたくないの、別れたらアタシひとりじ

ゃあ、生きていけないの、あなたなしじゃあ、生きていけないの、たとえ彼女でなくなっても、彼女としてではなくっても、たとえ都合の良い関係であってでも、不

適切ないけない関係であってでも、ホテルで会って、ホテルで別れて、アタシ大竹さんと絶対に離れたくないの、絶対に離れたくないの、絶対に離れたくはないの」

この女、今にもマイク片手に歌いはじめるんじゃねえのかと思えるほどの勢いで、演歌の歌詞の陳腐なフレーズのごとくワンワンワンワンと泣き落とされて、私は卑

劣な裏切りには絶対に我慢がならなかったが、BJORK/ビョーク似で貧乳マグロフェラが下手クソという欠点はあるものの猫川又美の体(ボディ)に未練を残したままで

もあり、すでに少なからぬ情も移ってしまってもいたようで、加えて、さかのぼることその1ヵ月ほど前に猫川又美が突如突発性難聴を発症し片耳がまったく聞こえ

なくなり、幸いすぐに医者に診せたため大事には至らなかったものの、その原因が実は私に嘘をつき欺き続けていることに対して思い煩いその心疾しさからくる重度

のストレスに起因していたことを猫川又美が涙ながらに告白したため、自業自得であるとはいえそんな健気な姿に心打たれた私は、二人でよく話し合った末、もうニ

度と嘘はつかぬと約束もしてくれたため(だがしかし結局それは空手形となるわけだが)、猫川又美とは結局別れず終いで交際を続けることとなったわけだけれども、

その一切の連絡を絶っていた期間が明けて2週間ぶりに私がまぐわいのため猫川又美のおんぼろアパートを訪ねてみると、そこには数十枚の真っ黒い不気味な絵とイ

ンクが空になった30本近くのボールペンシルが部屋の床いっぱいに無造作に転がっており、私はその真っ黒い不気味な絵を拾いあげてまじまじと舐めるように丹念に

眺めたのち「もしかしたら、この女、正真正銘ホンモノのヤバい奴なのかもしれんぞ」と大変素晴らしく思ったのだった。すなわち、その真っ黒い不気味な絵とは、

私と音信普通になっていた2週間に猫川又美が私に捨てられるのではないかという不安定な心模様やら、ひとりぼっちになってしまうかもしれないという恐怖や心の

ざわめきやら、藝大浪人生である自分自身の行く末に対するぼんやりとした不安やら、不条理な世の中に対する激しい怒りやらをボールペンシルで延々と画用紙に激

しくぶちまけた痕跡であり、そのこれでもかとドス黒く漆黒に塗りたくられた不気味な絵を見た私は本当に初めて猫川又美の絵を良いと思ったのであった。だがしか

し、私が猫川又美の絵を良いと思ったのは本当に後にも先にもその時の一回こっきりであり、また、猫川又美の卑劣な裏切りをいかなる経緯があってのことであろう

とも、私が簡単に許してしまったことによって、猫川又美の頭の中にどんなに嘘をついても謝れば許してもらえるのだという甘い考えが成功体験として植え付けられ

てしまって(私は謝れば簡単に許すチョロい男と認識され)、その後も猫川又美が反省もせず卑劣な嘘を何度も繰り返す最悪の結果を招いてしまうこととなり、こんな

ことならばあの時スッパリと別れてしまえばよかったものをとその後何度も私は後悔する羽目となるのだったが、ともかく、私が心惹かれる猫川又美の頭のイカれた

エキセントリックで変態的な良い部分が残念ながら猫川又美の絵にはまったくもって反映されていないというわけなのだった。だものだから、実際に猫川又美が3浪

の末に東京藝術大学油画科に合格した時には、絶対に受かりっこないと高を括っていた私は、それまでいかにして東京藝大だけが人生のすべてではなく、東京藝大に

入らなければ必ずしも藝術家になれないというわけでもなく、東京藝大に落ち続けて最終的に諦めたけれども、その挫折の悔しさをバネにして成功を果たし素晴らし

い藝術作品を表現し続けている藝術家たちも世の中には大勢いること(例えば大竹伸朗など)を猫川又美に説き伏せて、いかにして東京藝大に対する未練をキッパリと

断ち切らせるかについての方策をあれこれ思案していたところであったから、本当に狐につままれたような、鳩が豆鉄砲食らったような気持ちで心底驚き、そして、

まあとにかく合格は合格であるからして、何はともあれ、合格は合格であり、とにかくよかったよかった本当によかった、合格おめでとう!これからは東京藝術大学

の学生としてプライドを胸に生きていきたまえ!乾杯!と我がごとのように喜んだものであった。おそらく私のあげちん効果がテキメンしたのであろうとあながち冗

談でもなく今でも私は密かにそう確信しておるし、そうでない場合も、美術予備校の担任講師の教え子たちが出世して現在は東京藝術大学の教授や講師などに成りあ

がっていて、その複雑な師弟関係や利害関係から毎年秘密の合格枠がいくつか設けられているのではないかと私は勘ぐってもいたものだが、ようするに、何度も繰り

返しになるけれども、私はまさか実際に猫川又美が東京藝術大学に合格するなどとは夢にも思っていなかったのだった。そして、このかつての交際相手猫川又美との

5年に及ぶ類い稀なる関係は、私の50年に及ぶ決して他人に誇ることのできぬ本当にろくでもない人生においてもかなり特異な地位を占める、藝術とか金とか男とか

女とか愛とかSEXとかウンコとか様々な問題についてあらためて考え直すきっかけとなったカルチャーショックのような衝撃的体験でもあり、それらは私の現在に至

る藝術活動にも絶大なる影響を確実に及ぼしていると断言できるがゆえに、後日きちんとまとまった形で書く心積もりであり、ここでは簡単に触れるだけに留めるつ

もりでいるが(もう結構詳しく書いてしまっているな)、すなわち、私が「藝術」という漢字に異常に固執する理由とは、当時の交際相手であり東京藝術大学の学生で

もあった猫川又美に対抗するべく私も(「芸術」と書くと負けているような気がするので)「藝術」と書いて虚勢を張っていた名残りに過ぎぬという何とも拍子抜けす

るような阿呆みたいな理由に他ならぬわけだが、何はともあれ、私が東京藝大生の猫川又美と交際していた頃の「藝術」にまつわる話をしばらく続けることにする。

……

私が33歳の時、なぜだか理由もわからず(あたかも猛烈な便意に襲われウンコをひり出すかのごとく)突発衝動的に絵を描きはじめてからというもの来る日も来る日も

まさに「我ウンコを思う、ゆえに我あり」とウンコについて考え続けてきたことはもうすでに散々嫌がらせのようにしつこく書いてきたけれども、そのウンコに関す

る現象の中でも、私はウンコの持つとある特殊な問題について日夜頭を悩ませ続けており、今現在2022年に至ってもなお明確な答えが見つからずに苦悩し続けてい

る問題でもあり、問題が問題だけに少しばかり言葉にするのが憚れるが思い切って打ち明けてしまえば、それは、(Q)『どうしてウンコはくさいのか?』という問題で

あり、ある時、ある朝、便所で無我夢中にウンコをひり出している最中にふと私の頭に浮かんできた問題であり、生来私は一度頭の中に何か問題が沸き上がるとその

問題に執着し四六時中取り憑かれ頭を悩ませてしまうという些か厄介な性癖の持ち主でもあり、爾来、私は暇さえあれば、(Q)『どうしてウンコはくさいのか?』とい

う問題に対する答えを探し求め日夜頭を悩ませ続けているというわけであり、この、(Q)『どうしてウンコはくさいのか?』という問題をもう少しだけ具体的にわかり

やすく補足してやるならば、(Q)『(目クソ、鼻クソ、耳クソ、汗、小便、チンカス、マンカス、ヘソのゴマ、フケ、垢、ヨダレ、精液、愛液、経血、母乳、痰、涙、

鼻水、ゲロ、などなど、名前にクソがついたりつかなかったり人間の排泄物や分泌物には様々な種類があるけれど)どうしてウンコ(という排泄物だけが猛烈に)くさい

のか?』ということになり、つまり、ウンコを単なる排泄物や分泌物の一つとして考えるならば、他の排泄物や分泌物が鼻をつまむほど猛烈にくさいということがな

いのと同様に(ゲロだけは他に比べて少しくさいかもしれぬがウンコほどではなく、オナラはもちろんくさいが実体を伴わずそもそもウンコと同根と言えよう)、別に

ウンコだって特別くさくなくてもよさそうなものであって「ウンコがくさいからには、ウンコがくさいなりの、ウンコがくさくなければならない」「ウンコの、ウン

コによる、ウンコのための」「ウンコがウンコであるための」「ウンコがくさければならない」正当な理由、つまり「ウンコのニオイ」の存在意義(レーゾン・デート

ル)がきっとあるに違いないとある時私はふと考えたというわけであり、一度そう考えてしまったらもう気になって気になって仕方がなくなってしまった私は、四六時

中、(Q)『どうしてウンコはくさいのか?』という問題について頭を悩ませ続けるという自分でもさっぱりわけのわからぬ泥沼にまんまと嵌まり込んでいってしまった

という次第であった。太古の昔より、神が作った最高傑作とも称される我々人間の精神と肉体というものは驚くほど精密精巧に作られておって、無駄な機能なんても

のは何一つないというくらいすべてに正当な理由があり、例えば、髪の毛が生えているのは頭(脳みそ)が守るべき大事な場所であるからであり、汗をかくのは体の温

度調節をするためであり、風邪を引いて高熱が出た時に首を冷やしたり寒い冬に首にマフラーを巻くのは頸動脈の血流が温度感知センサーの役割を果たし体温調節を

おこなうためであり、空腹時に暴力的になるのは獲物を捕らえるために己を奮い立たせるためであり、男性器が勃起したり射精すると気持ちいいのは積極的に子作り

して子孫を残すためであり、女性器が濡れたり男性器が挿入されると気持ちいいのも積極的に子作りして子孫を残すためであり、脇毛や陰毛が生えているのはフェロ

モンを溜めておいて異性を惹き付けるためであり、断食すると勃起しやすくなるのは栄養が断たれ死に近づいた人間の本能が懸命に子孫を残そうと努力するためであ

り、昔の結核患者の性欲が驚くほど強かったのも死に近づいた人間の本能が懸命に子孫を残そうと努力したためであり、男女の愛が永遠に続かずすぐに冷めてしまっ

たり浮気や不倫が後を絶たず性懲りもなく繰り返されるのはできる限り多種多様な子孫を残そうとする人間の本能であり、生理の期間中の女性が常にイライラしてい

るのは受精(妊娠)しないので男性を寄せつける必要がないためであり、男性が射精後に必ず冷徹な賢者モードに陥るのは陶酔に浸ってばかりいては敵に襲われてしま

う危険性があった昔の名残であり、男性がマスターベーションなど射精を禁じるとモテるようになるのは精液を溜め込んだ肉体が危機感を覚えて何とかして異性を惹

き付けようと奮闘するからであり、逆に男性がマスターベーションばかりしているとモテなくなるのは精液がスッカラカンの空っぽ状態を女性に直感で勘づかれてし

まうからであり、中年のおっさんがその場が凍りつくほど寒々しいオヤジギャグを連発するのは構って欲しくて寂しくて寂しくて震えている己の寒々しい心の内を素

直に曝け出しているからであり、男性が女性の乳房に心ときめくのは赤子の時にむしゃぶりついていた母親の乳房のやわらかさを今も忘れないからであり、思春期の

娘が父親を毛嫌いしたり血の繋がった近親者同士が欲情しないのは血が濃くなり過ぎると遺伝子に異常をきたす危険性があるからであり、酒を飲んだ翌日に二日酔い

になるのは酒が人間にとって猛毒であるからに他ならず、健康な男性が朝勃ちするのは朝っぱらからSEXに励みなさいというわけではなくてペニスはとっくに目が覚

めてこんなに元気に起き上がっているんだからあんたも布団の中でいつまでもグズグズしてないでさっさと顔洗って歯磨いて学校や会社(無職の人はハロ−ワーク)に

行きなさいという叱咤激励であり、乞食を三日やるとやめられないのは乞食が楽チンな上に意外と儲かるからであり、成功して権力を握ったブサイクな人間が必ずと

いっていいほど悪事を働くのはモテなかった過去の自分や社会に対し復讐するからであり、犯罪や不正を犯す人間の目が常に死んだように見えたりオーラがドス黒く

汚れて見えるのは悪魔に魂を売り払った証拠であり、相撲取りなどデブに腹黒い人間が多い気がするのは常に卑しい欲に囚われているからであり、カツラや整形がす

ぐにバレてしまうのは境界線の際(きわ)がハッキリクッキリし過ぎていて誰もが違和感を覚えるほど不自然極まりないからであり、サラリーマンがネクタイをしてい

るのは仕事で失敗した時すぐに首が吊れるようにであり、お年寄りや体の不自由な人に席を譲ったり誰かにやさしく親切にしてあげると良い気持ちになり逆に嘘をつ

いたり悪いことをすると嫌な気持ちになるのはその人が善人である何よりの証拠であり、夜眠くなるのは脳みそを休息させるためであり、夢を見るのは記憶を整理す

るためであり、過去の記憶が時の流れとともに徐々に薄れていき美化されやすいのは過去に囚われず今この瞬間を精一杯に悔いのないように生きなさいというエール

であり、年寄りがボケてしまうのは死ぬ直前くらいは過去の嫌な記憶や目の前のつまらぬ現実から目をそらさせてあげようという誰かの温情であり、常に死というも

のに精神的恐怖と肉体的苦痛が伴うのは簡単には死ねないようにであり、他にも探せばまだまだたくさんあるとは思うけれども、それら人間の精神と肉体の驚くほど

精密精巧な機能と同様に、当然のように、ウンコがくさいことにも人間にとって必要かつ重要で誰もが納得するもっともな理由が必ずや存在しなければならないはず

だとある朝私は便所でウンコをしながらふと思ってしまったというわけであり、もしかしたら、(Q)『どうしてウンコはくさいのか?』などと考えること自体が一見ふ

ざけているように見えるかもしれぬが、私は決していい加減な気持ちでこの問題を捉えているわけではなく、真剣な気持ち(好奇心/探究心)から人生を賭して答えを探

し求めている重要な問題であり、もしかしたら、その答えは、例えば、学術専門書の知識や生物学専門家の意見などに頼ればいとも容易くあっけなく導き出すことも

可能なのかもしれぬが、私はそれら科学的な根拠には一切頼ることなく、あくまでも自らの実体験を通して自らの頭で考えた末に独自の答えを直感的かつ哲学的に導

き出すという厳重なルールを定めこの問題に真摯に取り組み続けてきておって、さらに、この(Q)『どうしてウンコはくさいのか?』という問題に対して私が病的に固

執する理由は、おそらく私がなぜだか理由もわからず(あたかも猛烈な便意に襲われウンコをひり出すかのごとく)突発衝動的に絵を描きはじめたこととも密接な関係

があると私は確信しておって、なぜなら、前述の通り、私は絵を描くという行為を人間という生き物の生理現象であるところの排泄行為として捉えており、自分の表

現した絵のことを自分の排泄物(ウンコ)のような存在だと認識しているからに他ならず、たしかに絵を描いた後は不思議とウンコをひり出した後のようにスッキリ爽

快な気分になっていることが多いし、自分の納得のいく素晴らしい絵が描けた後などはものすごく立派なウンコ(一本糞)をひり出した後のように浮かれあがったよう

な気分で陽気に口笛なんぞを吹きながら自分自身を何とも誇らしげに思ったりもするし、朝に見事な一本糞をひり出すことに成功した日などは、そのひり出された完

成度の高い見事なまでの一本糞の藝術的な出来栄えと、そんな一本糞をひり出して表現することに成功した自分自身の才能にすっかり満足してしまって、その日はも

う他に藝術的な活動など一切しなくてもいいかなと思ったりもするし、実際私は常に上機嫌でいたいがために日々見事なウンコをひり出すための修練(方法はたくさん

あるがここには書かない)を密かに重ねていたりもするし、また、スランプに陥って絵がまったく描けなくなったりすればウンコが体内にたんまり溜った便秘のような

状態となって、たちまち精神も肉体も頗る調子が悪くなって憂鬱な気分に陥ったりもするし、もはや私にとって絵とウンコ(藝術とウンコ)は一卵性双生児のごとく切

り離して単独では考えられないほど密接な関連性を持ってしまっており、しかるに、私にとって絵を褒められるということは「いいウンコのニオイですね」とか「素

敵な形のウンコですね」とか「うっとり見惚れてしまうほど美しいフォルムのウンコですね」とか「どこに出しても恥ずかしくないほどに見事な一本糞ですね」とか

「君のウンコは素晴らしいニオイがしますね」とか「クラクラと目眩を引き起こしてしまうほどパワフルで力強いウンコのニオイの持ち主ですね」とか「思わず食べ

てしまいたくなるほど味わい深いウンコのニオイですね」とか「あなたの絵からは心ときめく芳醇なウンコの香りが漂ってきますね」などと褒められることとほぼ同

義であり、ゆえに、私はたまに個展や展示や仕事を見てくれた誰か他人から絵を褒められる時はいつも、自分のひり出したウンコのニオイや形を褒められているよう

な気がしてならなくて、嬉しいやら恥ずかしいやら照れくさいやら何だか複雑な心境に陥って体をモジモジさせてしまったり、急いでその場を離れてコソコソ物陰に

隠れてしまったりもするのだった。もしもウンコと一般的な藝術作品(絵や彫刻や写真や映画や小説など)との間に何か違いがあるとするならば、それは一般的な藝術

作品(絵や彫刻や写真や映画や小説など)にはニオイがついていないけれど、ウンコにはしっかりとニオイがついているという点であり、すなわちウンコという存在を

藝術作品と捉えるならば、もはやウンコは視覚と嗅覚に訴えかけてくる総合芸術の域に達していると言ってしまっても過言ではないのである。そして、30代半ばにし

て16歳下の東京藝大志望の猫川又美と出会って付き合いがはじまってから後も引き続き私は、日夜、(Q)『どうしてウンコはくさいのか?』という問題に対する答え

を探し求める努力を決して怠ることはなく、その結果、ある時、もしもウンコがくさくなければ、たとえウンコを漏らしたとしても、それは全然恥ずかしいことでは

なくなって「クソクソマン」「ウンコマン」「ウンコッコマン」「ウンコ星人」「ウンコ先生」「ウンコ野郎」だとかいったもう本当に死にたくなるほどダサいあだ

名を付けられていじめられることもなくなるのにな、そういや、自分は今までにウンコ漏らしたことがあったっけかな、昔たしか小学生の頃に試しに家でわざとズボ

ンとパンツを履いたままウンコをしたらどうなるのか?どんな気持ちになるのか?を身をもって体験しておこうとふと思い立ち実験したことがあったが、尻の穴やパ

ンツの中にウンコが挟まっている状態というのはもう何とも言えぬ嫌な気分であり、たとえるならば尻の穴に時限爆弾が仕掛けられているとでも言おうか、とにかく

常に何だかソワソワと落ちつかず、すぐにプーンとあの例の懐かしいウンコのニオイが鼻先まで漂ってきて、瞬く間に部屋中に充満して、それがくさいのくさくない

の、恥ずかしいの恥ずかしくないのって、もちろん普段便所の中でならウンコがくさいことは覚悟しているためウンコがくさいことも当然のこととして自分の中で処

理されるわけだけれど、便所ではない場所(勉強部屋)で不意にウンコのニオイを嗅いだ時のあの違和感といったらそれはそれはもう衝撃的で、さらにウンコというも

のは常にオシッコとセットになっているみたいで、たしかに普段便所でウンコする時は必ず一緒にオシッコも出てくるし、人間はウンコをすると自動的にオシッコも

出てくるような体の仕込みになってるのかもしれないけれど、おそらくそれは子連れ狼が常に子供を連れて歩いてるみたいなものだったり、もしくは、自動車の普通

免許を取るとおまけで原付バイクの免許までくっついてくるみたいなものか、はたまた、イベントに漫才コンビの面白いほうだけを呼んだつもりがなぜだかつまんな

いほうの相方までセットでくっついて来ちゃったよみたいなものか、まあ少なくとも当時小学生の自分にはウンコだけを漏らすといった高度な技術を要する器用なマ

ネなどできるはずもなく、その時はパンツの前がオシッコ塗れ後ろがウンコ塗れのもう地獄絵図のような状況に陥って、当時は今みたいにまだスレてなくて可愛げも

あって純真な少年の心を持っていた自分は子供ながらに、一体全体自分は何てバカなことを実験してるんだろうか、そして、ウンコだけは絶対に漏らすもんじゃない

なと身をもって骨の髄まで思い知らされたんだっけかな、などなど、恥ずかしながら過去に何度かある実際にウンコを漏らしてしまった時の記憶や間一髪ちびってし

まった時の記憶やその他ウンコを漏らしかけた時の記憶やその時のウンコのニオイの記憶を懸命に頭の中に呼び覚ませながら、とにもかくにも、ウンコを漏らすとい

うことはその人間のその後の人生を大きく左右すると言っても過言ではないほどの衝撃的な出来事になってしまうわけなんだよな、そして、それはおそらくウンコが

猛烈にくさいからという理由に他ならないんだよな、でも仮にもしもウンコがくさくなくなってしまったら、みんなわざわざ便所にいかずに平然とパンツの中にウン

コを漏らしたままでヘラヘラしてそうだし、それは人としてどうなんだろうか、などと考えたことを突破口にして、私はある一つの可能性のある、(Q)『どうしてウン

コはくさいのか?』に対する答えを導き出すことに見事成功したのだった。それは、(Q)『どうしてウンコはくさいのか?』→ (A)『なぜならば、もしもウンコがくさ

くなかったら、人間は便所に行かなくなって、常に人間のパンツの中はウンコ垂れ流し状態になってしまい、それは衛生上及び倫理上(道徳上)大変よろしくないこと

であり、人間の尊厳に関わる問題でもあるがゆえに、人間にとってウンコを漏らすということはとても恥ずかしいことであり、まわりにも大迷惑がかかってしまうと

いうことを認識させるために、ウンコを漏らすとすぐに本人や周囲のみんなが気がつきやすくするために、ウンコはくさいのである』という答えなのであった。つま

り、ウンコを漏らすということは人間にとってとてつもなく恥ずかしいことであり愚かなことであり、人間の尊厳にも関わることだと人間に身をもって思い知らせる

ために、また、誰かがウンコを漏らした時にみんなが気がつきやすく、すぐさま対処ができるようにと考えられた人間の肉体の機能というわけであり、たとえるなら

ば、それは、ガス漏れをすぐさま察知してガス爆発を未然に防ぐ目的から、ガス会社が本来無臭のガスにわざわざ独特な不快なニオイを付け加えることとまったく同

じ理由から、ウンコはくさいのだという独自の答えを私は導き出したのであった。そして、自ら導き出したその答えにすっかり満足して有頂天となった私は、その答

えを誰かに聞いてもらいたくて(自慢したくて)たまらなくなり、すぐさま当時の交際相手でありその時はすでに東京藝術大学に無事合格していた猫川又美に『ユリイ

カ!』という件名で「俺はようやく見つけたよ、とてつもない真理を!とても大事な話があるから、時間作ってくれないか?」とメールしたのちの最初の週末に行き

つけの新宿御苑前にある天井の高いイタリアンレストランでピザやパスタやイタリアンハンバーグに舌鼓を打ちながら酒の酔いにまかせて、(Q)『どうしてウンコはく

さいのか?』という問題に対する私の並々ならぬ熱い思いや、その答えを導き出すまでの想像を絶するほどの苦悩、そして、ようやく私が見事に導き出した答えを猫

川又美の前で意気揚々と披露してみたところが、それを聞いた猫川又美は一瞬ポカーンと大口を開けて、それからすぐに私を蔑んだような憐れんだような目でしばら

くじっと見つめてきたかと思えば、突然こう切り出したのだった。「ちょっとー、ちょっとー、ちょっとー、もうすぐ40歳になるっていうのに、なんで、そんなウン

コのことなんて考えてんのよ、大事な話があるってメールもらったから、てっきりもう終わりにしたいとか言い出すのかと思ってビクビクしてたんだよ、私のほうは

今のところまだ別れる予定なんてないからね、件名も『ユリイカ!』とかになってて意味わかんないし、ビックリマークまで付いてるし、一体何言い出すんだろうっ

て身構えて覚悟して来てみたら、なんとビックリ!ウンコの話ですか!こっちがビックリマークだよ!何がユリイカ!なんですか、もうすっかり拍子抜けしちゃった

よ、本当に何くだらないこと考えてるんだか、他に考えることなんて山ほどあるでしょうに、何が哀しくてもうすぐ40歳になるいい歳した立派な、いや、立派かどう

かは正直わからないけど、いや、ウンコのことばかり考えてる大人が立派なわけないけど、ともかく、もうすぐ40歳になるっていう大人が、(Q)『どうしてウンコは

くさいのか?』なんてくだらないこと四六時中考えなきゃならないのよ、本当にバカなんじゃないの、ウンコのこと考える暇があったら、もっと絵のことちゃんとま

じめに考えて勉強しなさいよ、ヘタクソなんだから、そんなウンコのことばかり考えてる彼氏となんか付き合いたくないよー」と東京藝術大学に合格してからという

もの近頃やけに強気で横柄な態度をまったく隠さなくもなった猫川又美は私を小バカにしたように呆れ顔で責め立て説教までカマしてくるものだから、てっきり猫川

又美も一緒になって「ずーっと一人で熱心に考えていたんだね、そんな苦悩なんて私には一切見せずただひたむきに研究に没頭してきた努力がようやく報われたんだ

ね、すごいよ!大発見!だね、ユリイカ!だね、おめでとうだよ!だからメールの件名も『ユリイカ!』でビックリマークまで付いてたんだね、さすがは私の自慢の

彼氏だけのことはあるよね、惚れ直しちゃうよ、とりあえず、乾杯しよっか、チュッ!」とか何とか言って私の大発見!(ユリイカ!)を大喜びしてくれるものとばか

り期待に胸をはち切れんばかりに膨らませいざ臨んだ私はすっかり肩透かしを食らって何だか裏切られたような残念な気分でカチンと頭にきて、また猫川又美の指摘

通り、もうすぐ40歳になるというのに四六時中ウンコのことばかり考えている自分自身が何だか急に気恥ずかしくてたまらなくなってきて、どこかに穴があったらす

ぐさま飛び込みたくなったりもして、さらには、もうすぐ40歳になるいい歳した立派な大人であるこの私が16歳下の交際相手の小娘から説教されているという何と

もマヌケな構図に対する不甲斐なさも相まって、その複雑な感情を一緒くたにまとめて怒りへと紛らせながら私は「バカとか言うなよ、バカとかさ、俺は真剣に考え

てんだよ、33歳で絵を描きはじめてからというもの、俺は寝る間も惜しんでウンコについてずっと考え続けてきたんだよ、決してふざけたいい加減な気持ちなんかじ

ゃなくて、日夜、真剣に、この、(Q)『どうしてウンコはくさいのか?』という問題について考え続けてきたんだよ、命懸けで考えてんだよ、人生賭けてんだよ、まさ

に『我ウンコを思う、ゆえに我あり』なんだよ、デカルトくらい真剣に考えてんだよ、人が真剣になって何かに取り組んでる姿をバカにするなんて失礼千万だろうが

よ、何だか君は東京藝大に合格して藝大生になってからというもの、すっかり変わってしまったな、昔はこんな感じじゃなかったのに、常に偉そうな態度で上から目

線で俺を見下ろしてきて、そんなに東京藝術大学が偉いのかよ、まぐれで受かっただけかもしれないのに、権威を笠に着て偉そうにしやがって、虎の威を借る狐みた

いに偉ぶりやがって、まるで天下統一した昔の戦国武将みたいな威風堂々たるその態度は何なんだよ、そのうち駅前の広場に馬に跨がった銅像でもぶっ立てそうな勢

いじゃねえかよ、そもそも君が東京藝大に合格したのだって元はと言えば俺のあげちん効果の賜物かもしれないんだぜ、本来なら俺様に足向けて寝られないくらい感

謝されてもいいくらいなのに、感謝するどころか小バカにしてどさくさに紛れて弓矢までビュンビュン撃ち込んできやがって、俺を殺す気か、調子に乗るのも大概に

しやがれってんだ、それに長くなるからここでは簡潔に説明するけど、俺は33歳であたかも猛烈な便意に襲われるかのごとく突発衝動的に絵を描きはじめてからとい

うもの、俺にとって絵を描くことはウンコするようなもんであり、俺にとって藝術活動は排泄行為とほぼ同じようなもんであり、すなわち、俺にとってウンコのこと

を考えることは絵のことを考えることとイコールになるんだよ、まあ君の低能な薄らバカ頭じゃ、俺のこの高度な理論などてんで理解できるとは思わないけどさ、つ

まり、俺にとって、ウンコは藝術で、藝術はウンコなんだよ、つまり、俺から言わせりゃ、君がまぐれで受かって通ってる東京藝術大学なんてもんは、東京ウンコ大

学とイコールになるってってわけだよ、ウンコ大学のくせして、いつもウンコを鼻にかけて偉そうにしやがって、その鼻持ちならない、いけ好かないウンコのニオイ

にはもう我慢の限界なんだよ!」と大人げもなく逆ギレ気味に感情的になって返せば、猫川又美は「あのさー、本当に何言ってるかわかんないんだけど、なんでウン

コと藝術がイコールになるわけよ、頭おかしいんじゃないの、なんで東京藝術大学が東京ウンコ大学とイコールになるわけよ、バカなんじゃないの、てゆうかさー、

もう本当に子供みたいだよね、子供ってウンコ大好きだもんねー、もうすぐ40歳になるっていうのに、ウンコは藝術とか言ってて自分で恥ずかしいと思わないわけ、

そもそもイタリアンレストランで食事中にウンコの話なんて普通に考えておかしいよね、本当に頭大丈夫?お子様ランチとか頼んだほうがいいんじゃないの?それに

一般的な恋愛関係にある彼氏と彼女が普通ウンコの話なんて絶対にしないと思うんだよね、私たちの関係がちょっと普通でないのはもちろんわかってるけどさ、さす

がにウンコの話はデリケートな話だからねー、でも、まあ、仕方ないかな、まじめに考えてることだけは嘘ではないみたいだし、ここで突き放したら一生立ち直れな

くなっちゃうだろうし、ここで泣き出しちゃうかもしれないし、もうすでに涙目になってるし、もしかしたら帰りに電車に飛び込んじゃうかもしれないし、それじゃ

あんまりかわいそうだからね、生類憐れみの令じゃないけど、今回だけは特別にくだらないウンコの話にも付き合ってあげるけどさ、何度も言うけど、ここはイタリ

アンレストランなんだからね、そこを今回だけは大目に見てウンコの話に付き合ってあげるとするけどさ、まずさー、ウンコがくさくなかったら人間はトイレに行か

なくなるっていう部分は、まあ、たしかに、なるほどねー、いいところに目を付けましたねー、よく考えましたねー、褒めてあげますよーって思うんだよね、でもさ

ー、ガス漏れみたいにウンコを漏らしたことにすぐ気がつくようにっていう部分はなんか違うんじゃないのかな、だってさ、ウンコ漏らした本人は別にウンコがくさ

かろうが、ウンコがくさくなかろうが、お尻の穴にウンコが挟まってるわけだから、ウンコ漏らせばウンコ漏らしたってすぐに自分で気がつくわけでしょ」と私を小

バカにしたような調子はそのままに生意気にも私の答えに具体的に反論してきて、そのあまりの正論に返す言葉に詰まりながら私は「た、たしかに、ウンコがくさく

なくても、ウンコ漏らした本人はウンコ漏らしたことにすぐ気がつくわな、それは君のおっしゃる通り、ごもっともなご意見だよ、さすがは東京ウンコ大学の学生さ

んだけのことはあるわな、だけどよ、たとえウンコ漏らした本人がウンコ漏らしたことを自覚してても、ウンコがくさくなければ、ウンコ漏らしてることを隠したま

まにして、他人に一切口外せず、自分だけの秘密にしてしまって、ずっとパンツの中にウンコを漏らしたままでいることもできるわけだよな、だって、くさくないん

だから、バレないんだから、他人のパンツの中なんていちいちチェックしたりしないだろ、普通は、つまりさ、パンツの中にウンコ垂れ流しの状態で、例えば、平然

と学校で授業受けてたり給食食べてたり、オフィスで仕事してたり、プレゼン行ったり、居酒屋で部下に説教垂れたり人生訓を熱く語ったり、ファッションショーの

ランウェイを気取って歩いたり、カンヌ映画祭の赤じゅうたんを颯爽と歩いたり、デート中に彼女と手を繋いだりキスしたりできるわけだよな、それは、人としてど

うなんだって話になるわけだよ、俺が言いたいのはさ、倫理的にどうなんだって話だよ、道徳的にどうなんだって話だよ、君はパンツにウンコ漏らした状態の男とキ

スしたいと思うのかよ、俺はパンツにウンコ漏らした状態の女となんかキスしたいと思わねえぞ、SEXしようと思ってパンツ脱がせたら尻の穴にウンコが挟まってた

なんて日にゃ、一気に萎えて性欲もどっか遠くへふっ飛んでしまうに違いねえけどな」と私は必死に抗戦するも、猫川又美は余裕綽々といった表情で薄ら笑いまで浮

かべて「うーん、まあ、言わんとしてることはわからなくもないんだけどねー、でもさー、なんか違うんだよねー、何か足りないんだよねー、説得力っていうか、決

定力っていうか、パンチ力っていうかさー、核心的な何かが欠けてるんだよねー、しかもウンコする時は常にオシッコも一緒に出てくるわけでしょ、さっき熱弁して

たよね、たとえウンコは隠し通せたとしても、オシッコびしょびしょでもうまわりのみんなにバレバレなんだよねー」などとさらに偉そうに一丁前の批評家ヅラまで

してくるものだから「だ、だったら、君はどういう理由から、ウンコがくさいと思うんだよ、他人が日夜死物狂いで考えに考え続けた末にようやく見つけ出した答え

にそこまでダメだしするんだから、君の答えをここで是非とも聞かせてもらおうじゃねえかよ、東京ウンコ大学の学生さんよ」と論破されそうな窮地に陥ってムカム

カとブチキレ寸前の私はケンカを売るかのような勢いで食ってかかれば、猫川又美はなお平然と涼しい呆れ顔のまま「うーんとねー、多分だけどねー、間違えてウン

コを食べないようにじゃないのかなー、人間はバカだからさー、ウンコがくさくなかったら、ウンコ食べちゃうと思うんだよねー、おいしいかおいしくないかは別の

話として、ウンコがくさくないんだから、ハンバーグみたいに捏ねてジュージュー焼いたり、団子にして串に刺してつくねみたいに炭火で焼いたり、カレーに混ぜた

り、味噌ラーメンのスープに混ぜたり、小さくちぎってかりんとうみたいにカリッと揚げたり、他にも色々と使い道は考えられるし、タレかけたり味をつければ何と

か食べられるレベルには持っていけると思うんだよね、もしかしたら、もうすでに料理にウンコ混ぜて出してる店とかあるかもしれないよねー、シェフのウンコ入り

ハンバーグとかさ、考えたくもないけどさ、絶対ないとは言い切れないよね、まあともかく、ウンコがくさくないんだから、ウンコを食料として考えて、それで、ウ

ンコ食べれば当然お腹もふくれて、とりあえず空腹感は満たされるわけでしょ、ウンコ食べて、ウンコ出して、ウンコ食べて、ウンコ出して、ウンコ食べて、ウンコ

出して、ウンコ食べて、ウンコ出してっていうウンコ・リサイクル運動を延々と繰り返して、そしたら、人間はみんな働かなくなっちゃうでしょ、ウンコを主食にす

れば、お米を育てる必要もなくなるわけだから、そのうちササニシキって何ですか?相撲取りの名前ですか?コシヒカリって何ですか?腰巾着ですか?みたいな世界

になっちゃうんじゃないのかな、人間は隙あらば楽をしてやろうって思うズル賢い生き物だからね、食うに困らなくなったら人間は働かなくなっちゃうと思うんだよ

ね、それにさ、言ってみればウンコは搾りかすであって、ウンコには栄養なんてまるっきりかどうかはわからないけど、おそらくほとんどないわけだから、そのうち

みんな栄養失調になったり、最悪の場合、餓死しちゃうかもしれないでしょ、だからさ、ウンコは食べ物ではないですからねー、人間は犬や豚や畜生じゃないんだか

ら、ウンコなんて食べたらいけませんよーって意味を込めて、人間がウンコを食べないように、ウンコはくさいんじゃないのかな」といっぱしの持論を展開させてき

て、それを聞いた私は手をつけようとしていた熱々ジュージューのイタリアンハンバーグを前にして「ヤバい、負けたかも、御見逸れいたしました」とぐうの音も出

ず「もしかしたら、この女、ただ者じゃねえのかも、さすがは東京ウンコ大学の学生だけのことはあるな」と16歳下の交際相手である猫川又美に対して畏怖の念すら

抱きはじめるようになり、爾来、私は、ハンバーグ、つくね、カレー、味噌ラーメン、かりんとうを見るたび、この時の話を嫌でも思い出すことになるのだったが、

その後も私は、猫川又美と別れたのちも引き続き、(Q)『どうしてウンコはくさいのか?』という問題に対する答えを探し求める藝術的人生の旅を続けているものの、

甚だ悔しいことには、あの時猫川又美が一瞬で見事に導き出した答えを覆すような素晴らしい答えをいまだに見つけることができずにもがき続けているのであった。

……

かように、私のかつての交際相手であり東京藝術大学の学生でもあった猫川又美という良い意味でも悪い意味でも本当に頭のイカれたエキセントリックな変態女の中

には、直感的な才気というか変態的な狂気というか、たまに私が本気で嫉妬するほどの素晴らしい天賦の才みたいな宝物が埋まっていることは紛れもない事実であっ

たから、だからこそ、それだからこそ、私は常々猫川又美に対して、自分の中にある変態性や才気/狂気をなぜもっと自分の作品に反映させないのだろうか、せっかく

素晴らしい天賦の才能を持っているというのになぜそれを自分の作品に積極的に活用しないのだろうか、普段一緒にいるとすごく面白くて楽しいのに、なぜその面白

さや楽しさを利用して自分の作品をもっと面白く楽しくしようとしないのだろうか、それじゃまるで宝の持ち腐れではないか、あまりにもったいない話ではないか、

藝術はかしこまってお高くとまったものでなければならないなどという古くさい固定観念に取り憑かれてしまっているのだろうか、そんなものは昔の古くさい頭にカ

ビが生えていておまけにペニスもうんともすんとも勃起しないほどヨボヨボに老いぼれたいわゆる老害と呼ばれるに相応しい人間が勝手に決めたことであって、かの

岡本太郎も『今日の芸術』で言っているように、本来藝術とはもっと自由で良いのではなかろうか、結局藝術なんてもんは面白ければ何でもありなんじゃないのだろ

うかとまだるっこしくも思っており、しかも世間には凡人のくせして変人ぶってみせたり、凡人のくせして変態ぶっていい気持ちになって浮かれ上がっていたり、ま

ったく面白くもないのに面白い振りをして(とにかく面白い振りをする技術にかけては超一流で)世の中の物事の価値のまったくわからぬうすらバカどもから面白い人

として勘違いされて身分不相応に持ち上げられて恍惚とした表情のアホバカ面を浮かべているようなクソみたいな恥ずかしい連中が(特にTV/広告業界などお金を払わ

ずに無償で触れることができ無差別暴力的に嫌でも目に触れざるを得ないメディアに)ごまんといて、そういった忌むべきクソみたいな恥ずかしい連中のことは、本物

の変態PUNKSたちの間では「ファッションパンク」という蔑称で呼ばれ徹底的にこき下ろされバカにされる存在であり、また、そういったファッションパンクな連中

には大抵表現したいものなどは特になくて、ただチャラチャラしたものを表現して目立ってカッコつけたいだけであったり、本来何かを表現すべき人間ではない(つま

り表現する必要のない)人間が無理して何かを表現しているに過ぎぬわけであり、ようするに表現したいものなど自分の中には何もないくせに、よそからかっぱらって

きたりなどさもしいマネまでして何かを表現した気になっているだけであるからして、そんなファッションパンクな連中が拵えたまったくくだらない取るに足らぬク

ソみたいなもの(いやまさにクソそのもの)には必然的に何らの魅力が備わっているはずもなく、それはあたかも街中でチンドン屋の行列を眺めているようなただチン

ドンシャンチンドンシャンとうるさく喧しいだけの迷惑千万な代物以外の何物でもなく、もちろん本物の変態PUNKSを自認する私としては、そういった心ないファッ

ションパンクどもが幅を利かし大手を振って歩くこの吐き気を催すほど醜く腐り切った世の中に対して、心の底から辟易するとともに、苦々しく、寒々しく、憎たら

しく、傍ら痛く思いつつ、最大限の侮蔑を込めて、とっとと滅びてしまえばいいのに!と怒り狂ってもいたものだが、一方の猫川又美の場合はどうかといえば、世の

中のファッションパンクな連中とは真逆のパターンであり、本物の変態PUNKSのくせして、お高くとまって取り澄ましてスカしたまったく面白味のない普通のつまら

ない作品ばかりを目指して表現しており、せっかく自分の中に魅力的な宝物が埋ってるというのに、恥ずかしいのか気取っているのか真意は皆目不明だがまったく表

現しようとはせず、一体全体何を考えておるのやらさっぱりわけがわからぬ話なのであった。そのような自分の中にある変態性や才気/狂気を自分の作品にまったく生

かそうとせずお高くとまろうとする傾向は、猫川又美が東京藝術大学に合格してからさらに拍車がかかっていき、東京藝大入学後の猫川又美は、私がかつて好感を抱

き心惹かれていた不屈のパンク精神を持つ良い意味で頭のイカれたエキセントリックな変態女ではもはやなくなってしまったのだった。とはいえ、何十倍もの高倍率

の狭き門をくぐり抜けて見事東京藝大に合格したのであるからして、少しくらい天狗になるのも致し方ないのかもしれぬし、少しくらいの天狗の横暴ならば私も目を

つぶったのだけれども、猫川又美は東京藝術大学に入学してからというもの、うわべは東京藝術大学なんて完全に終わってるし本当に腐ってるしクソよクソクソ全然

大したことないわよクソクソクソクソと吹聴しつつ、そのくせ言葉とは裏腹にちゃっかり東京藝術大学という名前の上にドッカリ胡座をかき、東京藝術大学という御

威光を笠に着て、東京藝術大学の学生としての立場を狡猾に最大限に利用し、常に世間からチヤホヤされる自分(東京藝大生の可愛い私)を強く意識しながら、愚直に

絵に取り組んでいる他大学の学生や無名のアーティストたちを上から目線でこき下ろしバカにするような傍ら痛い露骨な態度をとるようにもなってしまって(おそらく

内心では無名の絵描きである私のことも小馬鹿にしていたのではないかと思われるフシも多々見受けられたが)、ただ東京藝大に合格しただけだというのに、まだ大学

に入学したばかりだというのにもかかわらず、身分不相応にいっぱしのアーティスト気取りなんぞをおっぱじめるようになってしまって、ねえみなさん藝術/アートっ

てこういうものでしょ?藝術/アートってバカにはわかりませんものね?と一見お高くとまって気取って見えるが中身スッカラカンのチャラチャラした作品ばかりを制

作するようになってしまうのだったが、それは、たとえるならば、以前は反骨精神を胸に抱き闘志を剥き出しにナイフみたいにとんがって権威や権力に楯突いていた

人間が国家権力にとっ捕まってロボトミー手術を受けさらに去勢され金玉を抜かれ人のいうことならば何でも従順に聞く人畜無害で世渡り上手な一見賢そうに澄まし

て見えるが実はただのマヌケなバカ犬に変わってしまったかのような目を見張る劇的な変貌ぶりなのであった。私はここまでいとも簡単にわかりやすく人間というも

のは変わってしまえるものなのかと愕然とし(いやいや、人間の最も本質的な部分というものはそんなに簡単に変わったりはしないはずであるから、今までが猫被って

いただけでとうとう猫川又美がその化け猫のドス黒い本性を現したといえなくもなく)、猫川又美がどこかずっと遠いところ私の手のまったく届かない場所へと連れて

行かれてしまってもう二度と私の元へは戻って来ないのではないかという不安に寂しいやら哀しいやら切ないやら何だかやるせのない気持ちとなり、東京藝術大学と

いう存在やその言葉の持つ絶大なる影響力に驚異(脅威)を感じると同時に、27歳で「藝術家になる!」と会社勤めを辞め、33歳で絵を描きはじめた私自身が「藝術と

は一体なんぞや?」とずっと追い求めてきた「藝術」という名前の、私自身にとってはいまだに何だかわからぬ未知のものがさらにさっぱりわけのわからない下品な

「スケコマシ」や「詐欺師」や「ペテン師」同然のようにも思われるようになってしまって、ただでさえ猫川又美本人の持つ頭のイカれたエキセントリックで変態的

な良さがまったく反映されていないがためにあまり快く思っていなかった猫川又美の作品にまったく興味や魅力を感じなくなってしまって、さらには、猫川又美とい

う人間そのものに対しても、付き合ってから随分時間も経つがてっきり今まで変態PUNKS仲間とばかり思い込んでいたけれども、ブルータス、お前もか!猫川又美、

お前もか!ああ、残念だ、見損ったよ、そんな奴だとは夢にも思わなかったよ、結局お前もファッションパンクだったのかよ、いやはや、もはや、ファッションパン

クですらもない、お願いだから金輪際パンクなんて言葉は使ってくれるなよ、まるで権力にすり寄って権力に媚びへつらって権力に尻尾振って権力のチンポ吸って権

力のタマ舐めて権力のケツの穴まで喜んで舐めて権力のクソまで喰らう、まさに権力の犬ではないですか、あああ、私はまんまとダマされていたわけですね!と不信

感や不快感がつのってゆくばかりなのであった。そして、猫川又美のアーティスト気取りがあまりにも鼻につくようになってきてしまった私は見るに見かねて、ある

時、さらしを腹に巻き心を鬼にして「まだ大学に入学したばかりなのにアーティスト気取りをするのは些か時期尚早なのではないか?」「アーティスト気取りをする

のはきちんと独創的な藝術作品を表現し世間に認められてからにすべきではないのか?」と思い切って苦言を呈してみれば、猫川又美は「もしかして藝大生の私に嫉

妬してるんじゃないのー?いい歳して嫉妬とかダサイしカッコ悪いよー」と口先だけは達者なゆえ巧妙に論点をずらし反論してきたために、(特にいい歳してという部

分に)カチンときた(中年の)私は「バカじゃねえの、寝言は寝てから言えよ、嫉妬なんてするわけねえだろが、なんでこの俺が君に嫉妬しなきゃならねえんだよ、一体

どういう思考回路してんだよ、君の作る作品のどこに嫉妬する要素があるっていうんだよ、田舎の貧乏娘がはるばる東京へやって来て、まぐれで藝大受かって藝大デ

ビューしていい気になってんじゃねえぞ、そもそも君が東京藝大に受かったのだってよ、元はといえば俺のあげちん効果による賜物だろうがよ、俺が運気をおすそわ

けしてやったからこそ受かったんだろうがよ、自分一人の力だけで合格したなんて夢にも思うんじゃねえぞ、いっぺん田舎帰って頭丸めて幼稚園からやり直して出直

して来いや、この勘違いクソ女が、君から東京藝術大学というブランドとったら一体何が残るっていうんだよ、まったく、アーティスト気取りは100年いや1000年

いや1万年早いって言ってんだよ!」とうっかり口を滑らしそうになってしまったが、何とか苦い言葉を噛み下し深呼吸して心に押し留めるのであった。その時の私

は天地神明に誓って猫川又美に嫉妬などしていなかったことは紛うことなき事実であったが、不満な点は多々あれども、東京藝術大学の学生となった猫川又美の心が

だんだんと私から離れていってしまうこと(つまり私が猫川又美にいつか捨てられてしまうこと)を密かに恐れていたことだけは一概に否定もできず、つまり、私は猫

川又美の心を虜にし鷲掴みし独り占めする「藝術」っていう奴に嫉妬していたのかもしれないのだった。それからのちも、親の心子知らず、猫川又美の傍ら痛いアー

ティスト気取りはさらにみるみる拍車がかかっていき、猫川又美は東京藝大出身のロリコン系有名アーティストが新宿歌舞伎町に作ったアーティスト気取りがわんさ

か集まるバーみたいな怪しいちょんの間風の店に入り浸るようにもなり、そのロリコンからヤラセロヤラセロヤラセロヤラセロヤラセロヤラセロヤラセロ、とにかく

1回俺にヤラセロヤラセロヤラセロヤラセロヤラセロ、頼むから1回俺にヤラセロヤラセロヤラセロヤラセロヤラセロとセクハラ紛いの扱いまで受けて(聞くところに

よればたまたま店に居合わせたある女などは理性のぶっ飛んだ鬼畜ロリコン野郎にちょんの間風の店の二階へ無理やり連れ込まれたうえ手マンまでカマされる始末で

あったそうな)、そんなこんなを笑い話にしてヘラヘラと大喜びしてるものだから、あまりの気色の悪さに吐き気を催しつつ、とうとう堪忍袋の緒が切れた私は「そん

などうせ大した作品作ってもいないくせに格好だけは一丁前に気取ってスカして取り澄ましたようなアーティスト気取りどもが集まって(そんな奴らに限って大抵パン

ツにウンコくっ付けていたりするんだよ!)、酔っ払って口先だけでアートだ藝術だ何だのと熱く語り合って気持ち良くなってる暇があったら1枚でも多く絵を描いて

描いて描きまくれよ、何のために苦労して3浪までして東京藝大に入ったかわかんねえだろがよ、そんなパンツにウンコくっ付けたくだらん連中とアーティストごっ

こするために田舎から出てきてわざわざ苦労して東京藝大に入ったのかよ、そんなふざけたことしてっと、この先いつまで続くか見当もつかない君の藝術家/アーティ

スト人生において、東京藝術大学合格の瞬間が一番の絶頂(ピーク)で、あとは堕ちるだけ、一瞬の儚い思い出になっちまうぞ、それからよ、君には藝術家の端くれと

してのプライドすらもないのかよ、鬼畜ロリコン野郎からすりゃ君なんぞは藝術家/アーティストではなくて、ただの性欲の捌け口としてのメスとしか思われてねえん

だぞ、女だと思って舐められてんだぞ、そんな目で見られて君は悔しくはないのかよ、何が藝術だよ、マンコに無理やり指つっこんだり指つっこまれたりすることが

藝術なのかよ、本当に気持ち悪い奴らだな、もしかして君もすでに藝術って名の下に鬼畜ロリコン野郎にヤラれちまってるんじゃねえのかよ」と再び厭味ったらしい

苦言を呈すれども、猫川又美はたまたま虫の居所が悪かったのか知らぬが「はああああー?何言ってんのか全然わかんないんですけどー、もしかして、またお得意の

嫉妬がはじまったんでしょうかー、嫉妬は本当にカッコ悪いからやめたほうがいいですよー、それから、せっかくの良い機会だから言わせてもらいますけれども、今

の私はもう昔の私ではないんです、あなたと付き合いだした頃の上京したてで世間知らずな18~19の小娘の私じゃないんです、ちゃんと東京藝大にも合格して着々と

夢に向かって超然と華麗にステップアップしてるんです、ドラゴンボールでたとえるならばスーパーサイア人に覚醒してるんです、つまり、言ってしまえばもうスー

パー藝大生ってなもんなわけですよ、東京藝大の学生には、東京藝大の学生なりの、東京藝大に相応しい付き合う相手がいるんです、こんなことは言いたくないけれ

ども、ようするに、他にも選択肢はたくさんあるってことです、IT企業の社長、広告代理店社員、大手出版社社員、弁護士、税理士、公認会計士、官僚、医者、パイ

ロット、俳優、芸能人、有名人、よりどりみどり、入れ食い状態、選び放題、乗り放題、食べ放題、やりたい放題なんです、何が哀しくて東京藝術大学の学生である

スーパー藝大生のこの私が、こんなパッとしない将来性があるんだかないんだか、何やってるんだかやってないんだかさっぱりわからない怪しい中年の変態男と付き

合わないといけないんですか、なんか最近思うんですけど、私ハズレくじ引いちゃったのかなーなんて、私お母さんみたいにはなりたくないんです、事業に失敗して

借金抱えて失業中で子供の学費もまともに払えないような甲斐性なしを夫に持って頭がおかしくなっちゃったかわいそうなお母さんみたいにはなりたくないんです、

私は将来アーティストとしてちゃんと立派に成功して、できれば麻布生まれで慶應義塾大学卒の素敵な電通社員と結婚して、みんなが羨むような何不自由のない幸せ

な一生を送るんです、世界を股にかけた国際的なアーティスト活動をして、それをあらゆる面で積極的に支えてくれる素敵な電通社員の夫との間にできれば子供も作

って、幼稚園から慶應に入れて立派なエリートに育て上げるんです、今はこんなほとんど埼玉みたいな赤羽生まれで早稲田中退の将来性があるんだかないんだかさっ

ぱりわからないパッとしない貧乏絵描きなんかと仕方なく付き合ってあげてるけれども、私がいつまでもあなたと付き合ってゆくという保証なんてどこにもありませ

んからねー、ちゃんと覚えておいて下さいねー」とまったく鼻にもかけず憎まれ口まで叩きはじめるものだから、とうとう堪忍袋が核爆発を起こし大人気もなく大激

昂した私は「俺のほうこそ君みたいな貧乳マグロおまけにフェラが下手クソでBJORK/ビョークのパチモンみたいな小便くさい貧乏苦学生なんぞとはいつまでも付き

合ってるわけねえわ、さっさと電通社員でも博報堂社員でもADK社員でも東急エージェンシー社員でもマッキャンエリクソン社員でも何でもいいから見つけてとっと

と結婚してくれや、君みたいに口先や上っ面だけで中身スッカラカンの何にもないところなんて広告屋のフニャチン野郎どもにはお誂え向きなんじゃねえのか、広告

と藝術の類い稀なるウィンウィンな融合ですとか何とかふざけたことぬかして、薄っぺらの勘違いバカ同士お似合いのバカップルじゃねえかよ、結婚式に呼んでくれ

りゃ、君ら薄っぺらのハリボテ新郎新婦にピッタリな大衆居酒屋チェーンのフグの刺し身みたいに薄っぺらなまるでゴムでも食ってるみたいな味しかしない祝辞でも

一切感情込めずメモがっつり見ながら棒読みで読んでやらあよ、他人には絶対知られたくない君の性癖の一つ(マン屁の音がバカでかいこととか)でも上質なユーモア

も交えてこっそりご披露させていただくよ、耳かっぽじってよく聞きやがれや、そのあと、君ら薄っぺら夫婦が選んだここまで薄っぺらなものなんて他に考えられな

いってくらい薄っぺらな引出物でもよこせばいいんじゃねえのか、帰りにしっかり駅のゴミ箱に放り込んで捨てといてやっからよ、薄っぺらだから引っかからずにゴ

ミ箱にもスルスルスルっと吸い込まれていくんだろうよ、そんでもって、薄っぺらな結婚式が済んだらすぐさま薄っぺらなホテルに移動して薄っぺらなベッドで薄っ

ぺらなSEXヤリまくって薄っぺらな喘ぎ声出しまくって薄っぺらな精液ぶっ放されて薄っぺらなガキ(ハネムーンベイビー)でも拵えて、薄っぺらな脳みそフル稼働させ

て愛ノ音(アート)だか吾土(アド)だか玖理英(クリエイ)だか風嵐菜(プラナ)だか麻亜毛(マーケ)だか武乱奴(ブランド)だか何でもいいけどガキが成人した時に自殺したくな

るような薄っぺらなキラキラネームでも付けて薄っぺらな自己満足と薄っぺらな優越感に浸って薄っぺらなハリボテ家族ごっこでもすりゃいいんじゃねえのか、それ

からな、君はアーティストになるアーティストになるって暇さえあればバカの一つ覚えみてえにギャーギャーほざいてるけどよ、そもそもの話がよ、アーティストっ

ていうもんは、アーティストになりたい、アーティストになろうと思ってアーティストになるんじゃねえからな、勘違いするなよ、絵でも彫刻でも写真でも何でもい

いけど、まず最初に自分の中に何か表現したいものがあって、それを誰か他人の模倣や猿マネやパクリじゃなくて自分独自のオリジナルの表現方法を見つけて表現し

て、その生み出された独創的な作品を藝術を解する心(審美眼)を持った立派な権威のある誰かにきちんと藝術作品だと認められてお墨付きを頂いた時に初めて君は真に

藝術家/アーティストと呼ばれるに値するようになるんだよ、とにかくまずは心の底から湧き上がる何かを表現したいという止むに止まれぬ思いが一番重要なんだよ、

例えばだ、この前も話したと思うけど、俺は自分が表現する絵のことを、もちろん象徴的な意味だけど、ウンコ(排泄物)みたいなもんだと思ってるから、無理やりウン

コにたとえてみるけど、俺が絵を描く時、つまり、俺がウンコする時は、ウンコしてえ、ウンコしてえ、ウンコしたくてたまんねえ、もうこれ以上はウンコ我慢でき

ねえよ、このままじゃウンコ漏らしちまいそうだぜ、すでにもうウンコの頭が少し飛び出てきちまってるぜ、このウンコ漏らしちまうほどの、もうこれ以上ウンコ我

慢できねえほどの、ああウンコしてえ 、ウンコしてえ、ウンコしてえ、ウンコしてえっていう、この俺のウンコしてえ熱い思いが、あなたの胸にもきっと届くかな、

届きますとも、きっと届きますように、俺のバナナのようにまっすぐ自由で純粋で力強く素晴らしい一本糞のニオイに包まれたあなたがいつまでも、いついつまでも

末永く幸せでありますようにって思いながら、ドバドバドバドバドバッと俺はいつもウンコしてるんだぜ、もちろん実際にウンコしてるわけじゃねえからな、たとえ

としてわかりやすくウンコの話に置き換えて説明してるだけだぞ、つまり、そんな気持ちで俺は絵を描いてるってわけなんだよ、とにかくまずは心の底から湧き上が

る何かを表現したいという止むに止まれぬ思いが一番重要なんだよ、君にはその心の底から湧き上がる何かを表現したいという止むに止まれぬ思いがあるのかって話

だよ、あるわけねえよな、なぜならば、君の場合はただアーティストになりたいからという理由から、つまり、ただアーティストになって作品の価値なんて自分の頭

じゃまったく理解もできない世間のうすらバカどもから、作品は全然大したことないけどちょっとばかし可愛いし東京藝術大学だからってチヤホヤされていい気持ち

になってヘラヘラしたいからという邪で浅ましい理由から、とりあえず東京藝術大学って看板さげときゃあ一生安泰だし、東京藝術大学って名の水戸黄門の印籠を濫

用して振りかざして、とにかくそんないい加減な気持ちで、別に表現したいものなんて何にもないくせに、無理やり何かを表現してるだけなんだよ、つまり、別にウ

ンコなんてしたくないのに、まったく便意を催してないにもかかわらず、無理やりウンコしてるだけなんだよ、いや、ウンコした気になってるだけなんだよ、もしく

は、わたくしウンコなんて今まで一度もしたことございませんのよ、一体ウンコってなんざましょう、ウンコなんて言葉は聞いたこともございませんわよオホホホホ

なんて上品ぶって澄ました顔しながら、チョロチョロっとウンコしてるだけなんだよ、そんな糞切りの悪いウサギのコロコロウンコみたいな、ベッチョベッチョな鳥

のウンコみたいな、そんないい加減な気持ちで出されたウンコには誰も興味なんて持つわけねえんだよ、そんないい加減な気持ちで出された無味無臭のスカしたウン

コのニオイには誰も反応してくれやしねえんだよ、つまり、そんないい加減な気持ちから適当に作られた作品が誰か他人の心を動かせるわけねえってことなんだよ、

そんなもんは見る人が見りゃ一目瞭然すべてお見通しなんだよ、そんなもんは犬にでも食わせときゃいいんだよ、それに、そもそもの話、何かを表現するって行為は

本来そんなにカッコいいもんなんかじゃなくって、むしろ、ものすごーくカッコ悪い行為だと俺は思うけどな、まあ、結局最後の最後は180度回転してカッコ悪くて

カッコいいみたいな話に落ち着くことにはなるんだけど、またまたウンコの話に戻ってしまって申し訳ないけど、何かを表現するって行為はだな、誰か他人にウンコ

をバッチリ見られて、ウンコのニオイまでガッツリ嗅がれることなんだって俺は理解してるけどな、だからよ、どうせウンコするんだったらさ、気取ってスカして恥

ずかしがってないで、他人の顔色なんかいちいち気にせず、自分の中にたんまり溜ってるすべてのウンコをさ、つまり、その時点での自分自身の最高のすべてをさ、

出し惜しみなくもう曝け出すような覚悟でもってさ、ドバドバドバドバドバッとウンコ出してみろや、そうやってなりふり構わず出されたウンコはさ、とてつもなく

キラキラと(サングラスなじゃ眩しいくらいに)光り輝いてて、素晴らしくカッコいいもんだと俺は思うけどな、たとえ何かを表現するという行為自体が、まるでウン

コをすることと同じようにカッコ悪いことだとしてもだよ、そのカッコ悪い行為を、決して人目を気にしたりカッコつけたりせず、人に何と言われようが人にどう思

われようがそんなの一切お構いなく、己の信念を貫き通して、その時点での己の持てる力をすべて出し尽くし、己の出したいものすべてを、もうこれ以上は屁すらも

出ませんよってなくらいの勢いで、己の魂をウンコと一緒にすべて曝け出すつもりで、つまり魂込めてドバドバドバドバドバッと出されたウンコはさ、とてつもなく

素晴らしくてカッコいいもんだと俺は思うけどな、まあ、君に出せるもんなら出してみろって話だけどな、それからな、まだまだ話は続くぞ、君は俺のことをハズレ

くじ扱いしてるけどな、君のほうこそ俺にとってはしょっぱなからハズレくじなんだよ、自分のことを棚に上げてよくもまあ俺をハズレくじ呼ばわりできるわな、そ

もそもの話な、俺はヒモになりてえんだよ、今は何かの間違いで君みたいな勘違いアーティストワナビーの貧乏苦学生とかわいそうだから仕方なく付き合ってお世話

してやってるけど、そのうち俺の才能や人格や俺のすべてをきちんと認めてくれて、俺のことを死ぬまで一生面倒見てくれて、俺が寝たきりになったら体拭いてくれ

てオシメも替えてくれて枕元で絵本読み聞かせてくれたり子守歌も歌ってくれる、君よりもずっと可愛くて美人でやさしくて気立ても良くて金も腐るほどいっぱい持

ってて、貧乳じゃなくてマグロじゃなくてBJORK/ビョークのパチモンじゃなくてフェラも上手で料理も上手い最高の女見つけて、君なんぞは粗大ゴミの日にコンビ

ニで買ったシール2000円分くらい貼っ付けて道端にまとめて捨ててやっからよ、もしかしたらBJORK/ビョークに似てるっていう理由で清掃業者に回収拒否される可

能性もなきにしもあらずだけど、よくボロボロのベッドのマットレスが置き去りにされたりしてんだろ、そん時は清掃工場に直接持ち込むことにでもしようかね、ち

ゃんと俺も責任持って付き添って行くからよ、今生の別れを前に近所の焼肉屋で最後の晩餐でも盛大にやろうじゃねえか、俺のあげちん効果で君を東京藝大に受から

せてやったんだから、もうすでに俺のお役目は一段落ついたようにも思ってるし、これから先は自分の運気は自分のためだけに使って生きていきたいからね、悪運が

尽きたと思って恨みっこなしってことでよ、それに最近じゃBJORK/ビョークの写真見ただけで勃起するようにもなっちまってさすがにそれはヤバいかなとか思って

んだよ、BJORK/ビョークに欲情するようになったら日本男児としてはさすがにマズい状況だろ、俺の美意識をヘンテコな方向にネジ曲げんでくれな、頼むからよ、

とにかく俺はヒモになるんだよ、絶対ヒモになるんだよ、中学の卒業文集にも将来の夢はヒモになりたいって書いてるんだよ、それくらい俺は気合い入ってんだよ、

君がいたら俺はヒモになれねえんだよ、君が邪魔してるから俺はヒモになれねえんだよ、君は俺の輝けるヒモ人生の障害物になってるってことをちゃんと自覚しとけ

よ、それからよ、君は一丁前に俺のことを貧乏絵描き呼ばわりしてるがよ、その貧乏絵描きから毎回メシ奢ってもらって一銭も出さねえわ、財布をカバンから取り出

して金出すポーズすらも取らねえわ、君は一体全体何様なんだ、君が金出すポーズしてるところを、いいからいいからここは俺の太っ腹にまかせない、いいからいい

からその貧乏くさい財布をその貧乏くさいカバンにさっさとおしまいなさいっていう儀式を俺は毎回毎回やりたいのに、できねえじゃねえかよ、つまんねえじゃねえ

かよ、本当に君は相手の気持ちをまったく思い遣ることができないクソ女だよな、貧乏絵描き呼ばわりしてる相手から毎回メシ奢ってもらってる君は一体全体何様な

んだ、乞食様か、君は俺から施しを受ける乞食なのか、俺もできればこんなケツの穴の小さいことは言いたくはないんだよ、メシ代なんて高が知れてるし、そんなみ

みっちいこと言いたくて言ってるわけじゃないからな、俺だってこんな下品な言葉はできることならば使いたくはないんだよ、売り言葉に買い言葉って奴だよ、とに

かく言葉には気をつけろや、それからな、たしかに君の言う通り、世間から見りゃ俺は貧乏絵描きかもしれねえよ、けど俺は魂は売ってないんだよ、金のために魂売

ってないんだよ、やりたくないことは一切やってないんだよ、やりたいことだけをやって生きてんだよ、これだけは絶対譲れないんだよ、これから先もこの生き様は

貫き通すつもりなんだよ、そこんとこはきちんと腹括って生きてんだよ、ゴッホみたいに腹括ってんだよ、まあ、東京藝大に入ってさっそく魂の大安売りセールおっ

ぱじめてる君には到底理解できん話かもしれないけどな、それからな、別れるなら別れるでいつでも喜んで別れてやるし、世の中には俺よりもカッコよくて金もいっ

ぱい持ってる男なんて探せば腐るほどいると思うよ、だけどな、一緒にいて俺より楽しくて面白い男はそうそう見つからんと思うぞ、たしかに俺は少しどころでなく

頭のイカれた変態男だけどよ、面白さなら誰にも負けない自信を持ってるんだよ、別れた後にきっと、あの時別れるんじゃなかったな、失敗したなって後悔して夜毎

枕とパンツを濡らすハメになると思うぞ、そして、いつか君と別れて何十年か経った頃、俺は君とのこのジェットコースターに延々と乗り続けているかのような腐れ

縁の体験談を小説か何かに書いて世の中にドカーンと発表してやっからよ、それをじっくり読んで君と付き合ってた頃の俺がその折々に何を思っていたかをとくと思

い知って再び枕とパンツを濡らせりゃいいさ、それからな、最後にもう一つだけ、何度もしつこいようだけど、赤羽は埼玉じゃねえからな、ほとんど埼玉みたいって

ぼかして濁して言ってるけど、ほとんど埼玉ってことは埼玉だって言ってるのと変わりねえからな、何度も言うけど赤羽は埼玉じゃねえからな、今度言ったら本当に

ブチ殺すぞ、この勘違いクソ女!」とさらに畳み掛けてやれば、猫川又美は「バッカじゃないのー」と一言ほざきプイと横向きそれきり不貞腐れるばかりであった。

……

そして、その頃から猫川又美は東京藝術大学の油画科に在籍しているのにもかかわらず、絵を描くことを一切やめてしまい、どういう風の吹き回しか、ある日突然写

真を撮りはじめるのだが、やりたいことや表現したいことがあるということそれ自体は別に悪いことではなくむしろ素晴らしいことであり、まあ飽きっぽい女だし、

すぐに熱も冷めるだろうと私はただ傍観しつつも、私が釈然としなかったのは、私の目にはそれはただ単に猫川又美が絵から逃げているようにしか見えなかったから

であり、しかも、猫川又美が写真撮影に使用するカメラは、猫川又美のバイト先である夜の飲み屋の常連客(キヤノンの社員で飲み屋の女を口説く道具として自社製品

を秘密裏にやりくりし「こんなのいくらでも何とかなるから欲しいものがあればいつでも言ってくれたまえ」などと吹聴したそうだが、それは社会人としていかがな

ものだろうか)から下心とともに無償で提供された貢ぎ物であり、いくら貧乏苦学生で金に困っているからとはいえ、卑しい乞食でもあるまいし、必要なものは必要な

時に自腹を切って買うべきではないのか?と私はまたまた苦言を呈すれど、猫川又美は「もらえるものはもらっとけと思って」などと嘯き、さらには「もしかしてカ

メラ羨ましいんでしょー?またまた嫉妬ですかー?」私は、そういう話じゃないんだけどな、全然話が通じねえな、もう何を言っても無駄なのかもしれないなと呆れ

返る他なく、もしかしてその客(キヤノン社員)にもすでにヤラれちまってるのかもしれないなと何だか胸が苦しくて切なくて哀しい気持ちになるばかりであったが、

他にも猫川又美が夜の飲み屋の客からもらっていた貢ぎ物は、新品のMacBookPro(私が使っていたMacBookProよりモニターが大きくて腹が立った)、ガスコンロ、洋

服、指輪ネックレスなど装飾品(私の気持ちを顧みず平然と日常使用していた)、現金(ここまでくるともう何と言ってよいのやら)など、枚挙に暇もなく、ある時など、

おんぼろアパートのおんぼろドアのカギを開ける猫川又美の手元にルイヴィトンのキーケースを目敏く見つけた私が「おい、そのルイヴィトンは一体全体どうしたん

だよ?買ったのか?貧乏人にはちょいと不釣り合いに見えるが?」と質せば、猫川又美は平然と「拾ったのー」などとしらばっくれ、そのルイヴィトンが実際に拾っ

たものなのか、貢ぎ物なのか、私には判断するすべもなく、いずれにしても卑しいことに変わりなく、ただ猫川又美が夜の客から貢がれれば貢がれるほどその貢がれ

た分だけどんどん卑しく汚れていっちまっているように哀しく思えて、たとえ貧乏だからといって卑しいマネなんかをしてしまったらば、それは本当にもう人間とし

て救いようのないことであり、目先の欲に取り憑かれ汚れていく最も身近にいる愛する人間の変わり果てていく姿に吐き気を催すほどの激しい嫌悪感を抱きながら、

私は、尾崎紅葉の小説『金色夜叉』の貫一お宮の貫一になったかのような気分で、貧乏だから卑しい人間になってしまうのか、それとも、卑しい人間だから結果的に

貧乏なのか、どっちなんだろうかと真剣に頭を悩ませもするのだった。当初の私と猫川又美との話では、東京藝大に合格した暁には夜のバイトはスッパリと辞め奨学

金をもらって普通のバイトをしてつつましく生活しながらアーティストを目指して頑張るという約束になっていたはずだったのだけれども、その約束は何とはなしに

反古にされてしまったようで、猫川又美は東京藝大合格後も何かと理由をつけては夜の飲み屋のバイトを一向に辞める気配を見せず、私は約束と違うではないかと不

満に思ってはいたものの、夜のバイトを辞めろとは強く主張できず曖昧なままにしており、それは夜のバイトを辞めさせてすべての面倒をみる甲斐性が私にあれば話

はまた別であったが、残念ながら私にそこまでの甲斐性はなく、またそういう筋の話でもなく、ある時、猫川又美が学友とともに海外旅行に行くと突然言い出して、

これはよい機会だと私は「海外旅行に行けるほど金に余裕があるなら夜のバイトは辞めて普通のバイトをすればよいのではないか?夜の飲み屋のバイトで稼いだ金で

海外旅行に行かれたら、夜の飲み屋のバイトを快く思っていない俺にとってあまり良い印象ではなく、もっと言ってしまえばたまったもんじゃなく、そもそも自分の

彼女に夜の飲み屋でバイトされて快く思う男などいないのではないか?」と思い切って苦言を呈すれば、猫川又美は「自分が稼いだお金を何に使おうとあなたには関

係がないんじゃないの、それに海外旅行といっても単なる遊びではなくて美術館に絵を見に行くわけだから勉強に行くようなものでしょう」と主張し、やはり納得の

いかない私は「夜の飲み屋でバイトするほど金に困っている貧乏人が海外旅行に行くのは世間の一般常識的に見て話の筋が違うのではないか、たしかに自分で稼いだ

金には違いないけれど、その稼いだ金の中には交際相手の俺が泣く泣く我慢している分もいくらか含まれてるのではないのか、海外旅行に行けるほど余裕があるなら

夜の飲み屋のバイトは辞めてくれないか、奨学金をもらって普通のバイトしてなんとかやりくりすればいいのではないか、親が失業中なんだから授業料だって相当減

免されてるはずでありそれほど負担にはならないだろうし、それでも万が一金に困るような状況になった時は俺が清水の舞台から飛び降りる覚悟でもって、なけなし

の虎の子を融通してやるつもりだし、たしか前にもそう約束していたではないか」と今までの鬱憤を思い切ってぶつけてみれば「絶対無理だよ、夜のバイト辞めたら

生活できなくなっちゃう、それに奨学金は後で返さなきゃいけないからね、借金は背負いたくないんだよね、それと気持ちはすごくありがたいんだけど正直大竹さん

にお金借りたりはしたくないんだよね、それが原因でまたケンカになって面倒くさいことになるのはなんかもううんざりだしさ、だから、とにかく、何と言われよう

と夜のバイトは辞めないし、海外旅行にも絶対行くからね、どうしても夜のバイト辞めろ、海外旅行に行くなっていうのなら、いい機会だから私たちもう終わりにし

ましょう、なんかもう疲れちゃったんだよね、しばらく距離置いてちょっと一人で考えたいし、連絡して来ないでもらえるかな」と猫川又美はふてぶてしい態度で開

き直り今まで見たこともないような怒りと蔑みを帯びた鋭い目つきで私をキリッと睨みつけ、私はまったく納得はいかないものの、ここまでくると本当にもう何を言

っても無駄なのかもしれないな、家が貧乏で学費生活費一切を自分で稼いでるといえば美談にも聞こえるし、レミゼラブルな境遇にあってもアーティストになるとい

う夢を諦めず健気に頑張っている可愛い東京藝術大学の学生という体でみんなの同情を買うこともできるし、金に余裕のある小金持ちの客にしてみたら自分がなんと

かしてやらねばと男気も見せられて貢ぎ甲斐もあるだろうし、でもなんだかそれは東京藝術大学の学生という身分を巧妙に利用して、東京藝術大学というブランドを

商売道具にして安易に金儲けをしてるように見えてしまうんだよな、でも、そもそも昔も今も藝術っていうもんは、貴族や金持ち連中などパトロン騙して囲ってもら

って初めて一人前の藝術家みたいな面もあるわけで、学生の今のうちからパトロンを見つける練習してると言えなくもないんだけど、やはりそれはきちんと誰かに作

品を認めてもらった上でやるべきことであって、もちろん夜の飲み屋のバイトであっても職業には何ら変わりなく、そんなに安易に金が稼げるわけでもない大変な仕

事なのは百も承知だけど、藝術というものに対する一種の冒涜のような気がしてならないんだよなあ、もっとも、ヒモになりたいとか言ってる俺自身もそんなに変わ

りないんだけど、俺のヒモになりたいは冗談半分のネタなんだよな、夜の飲み屋のバイトを長く続けていると人間誰しもこんなふうにさもしい人間に変わっていって

しまうものなのかな、昔はここまでスレてはいなかったし筋道を立ててきちんと説明してやれば理解してくれたんだけどな、何が一番恐ろしいかといえばそれは正論

がまったく通用しなくなることであり、口先は達者なくせに自分のその発言にまったく筋が通っていないことを本人自身がまったく気づいていないことであり、こう

いうのは育った環境だとか躾けだとか根本的な問題になってきてしまうんだろうなと私は諦めにも似た境地へと至って、その後も何一つ変わらぬ曖昧な状況のまま、

終わりそうだと思えばまだまだ終わらず今度こそ終わりかなと思えばまたしても終わらず今度こそ今度こそと思いつつも一向に終わらず延々と果てしもなくズルズル

ダラダラと続き一体いつ終わるのやらさっさとスパッと終わりにすればよいものをとうんざりイライラとした気分で聴くアマチュア・プログレッシヴ・ロック・バン

ドの下手クソな演奏のごとく、我々二人の関係も腐れ縁のごとくズルズルダラダラと続いていくのであった。おそらく私と猫川又美の関係が猫川又美の東京藝大合格

を契機として次第にうまくいかなくなってしまったのには根底の部分に大きな理由があったと私は確信しておって、かつて猫川又美が浪人時代の我々二人は「猫川又

美の東京藝大合格」という心を通い合わせた共通の夢に向って一心不乱がむしゃらに突っ走っていて、いわば東京藝術大学という共通の仮想敵国を相手に二人仲良く

共同戦線を張り、東京藝大コノヤロー!東京藝大覚えとけ!東京藝大許すまじ!東京藝大FUCK YOU!東京藝大首洗って待ってろよ!東京藝大なめんなよ!と頑張っ

て戦ってきたものが、いつの間にやら気づいた時には猫川又美が敵国側(東京藝術大学側つまり権力側)に寝返っていた、もしくは、元々猫川又美は敵国側のスパイで

あったというような状況に陥っていて、それに加えて、前にも述べたように私は猫川又美が東京藝大に合格するなどとは夢にも思ってなかったところに、その私の勝

手な思い込みに反して猫川又美が東京藝大に実際に合格してしまったものだから、さあ大変!おそらく私の邪推であり被害妄想でもあるとはいうものの、裏切られた

と勝手に思い込んだ私はひとりぼっちで取り残されてしまったかのような印象を受けてしまって、さらに拍車をかけるように、泣き面に蜂、猫川又美が傍ら痛いいっ

ぱしのアーティスト気取りなんぞをおっぱじめて調子に乗って身分不相応にエンジン全開でブイブイいわせるものだから、生来小さいことにネチネチとこだわってし

まうケツの穴の小さな変態繊細優男である私にとってはまったくもっていい気持ちがしなかったからと私は自己分析するところであるが、ようするに、私自身にもう

少し寛大な心やおっきなケツの穴があったならば、もう少しは我々二人の関係もうまく行っていたのではなかろうかと思われるのだった。また、こんなことを今さら

嘆いてみても後の祭りであって何の意味もないわけだけれども、もしも猫川又美の両親にもう少しばかりの甲斐性があり、少なくとも父親が借金を抱えた失業者など

ではなくきちんとした定職に就いていたならば、東京藝術大学のおそらく国公立大学であるからして目玉が飛び出るほどには高くはない授業料も何とか捻出すること

もできて、結果として猫川又美も夜の飲み屋のバイトで酔っ払いのおっさん相手に酒を注ぐ酌婦などに身をやつすこともなかったわけであり、当時の私は猫川又美の

血筋に対してすらも恨みつらみが募っていくばかりであったが、そもそも、猫川又美の家系は元から貧乏であったわけではなくて、猫川又美の母方の家系はそこそこ

の資産家であったらしく、ある時、たしか毎年恒例の太宰治の墓参りに三鷹の寺を二人で訪れた際、その帰り道に太宰が愛人山崎富栄と心中した昼なのになお薄暗く

空気が淀んだ場所に立ち寄り、私が「俺たちもここで一緒に心中しないか?」と冗談半分に誘えば、浪人時代の猫川又美は常に死にたい死にたい死にたいとばかり言

っていたから「いいよー、一緒に死のう、ねえ、いつ死ぬ?いつ死ぬ?」と冗談半分にノリノリでグイグイ食いついてきたものが、東京藝大に合格した途端急に掌を

返したかのように「絶対嫌だよ、死ぬんなら一人で勝手に死んで下さい、背中押して突き落としてあげるから」と真顔で答えてくるので、何だか私は寂しい気持ちに

なってもいたものだが、そのまま玉川上水を遡ってジブリ美術館経由で井の頭公園までのんびり歩いて行き、池の畔に建つ古民家風の連れ込み宿で私と猫川又美は太

宰のことをぼんやり考えながらしみったれたSEXをするのがお決まりのコースだったのだけれども、SEXのあと二人並んで薄汚れた天井の木目をぼんやり数えながら

猫川又美が話した内容によれば(猫川又美は大嘘つきのため実際どこまでが本当の話かは不明だが)、猫川又美の母方の祖母は元々そこそこの資産家の家に嫁いでいた

が、猫川又美の母親がまだ幼い頃のある日すべての身分や財産そして夫を捨てて別の男と駆け落ちを決行したようで、すなわち猫川又美(と母親)は現在の祖父(父)と

は血が繋がっておらず、その事実を猫川又美も母親もつい最近になってようやく知ったという話であり、ゆえに猫川又美は太宰の作品の中では没落貴族を題材とした

『斜陽』を一番気に入っていて、自分のレミゼラブルな境遇を作中の没落貴族に重ねて自分を慰めているという話であり、そんな寝物語をぼんやり聞きながら私は、

猫川又美の現在のレミゼラブルな境遇や平然と嘘をついたり裏切ったりなど他人の気持ちを思い遣れない鈍感で図々しい傲慢な性格も元を辿ればすべてこの駆け落ち

した祖母が源泉であって、つまり猫川又美の筋金入りの頭のイカれっぷりは母方の先祖代々の血が脈々と受け継がれてきた結果とも言えるわけであり、さらにそこに

猫川又美の事業に失敗し借金抱え失業中の父親の血も掛け合わされ現在の猫川又美の悪い意味での頭のイカれっぷりが形成されているというわけであり、また、駆け

落ちというと駆け落ちした後の話ばかりが注目されがちだが、その裏には必ず駆け落ちされて捨てられた側の人間(猫川又美の祖母が捨てた元夫)が存在するわけであ

り、猫川又美やその家族の不幸や災難や運の悪さや間の悪さなどすべては元を正せばこの駆け落ちされて捨てられた元夫の恨みつらみから発生した強力な呪いに起因

するのではなかろうか?と私はふと思ったりもして、もしもこのまま私が猫川又美との腐れ縁の関係をダラダラと続けておれば、そのうちきっとその恐ろしい呪いが

私の身にも必ずや伝染してくるのではないか!いやもうすでに伝染していて手遅れなのではないのか!という恐怖に突如襲われ思わず背筋がゾクッとし全身に嫌な鳥

肌が立ってきてしまった私の頭の片隅には、猫川又美が東京藝大に受かった頃より生じたある疑惑「猫川又美=さげまん疑惑」すなわち、私があげちんであるのと相

対的に猫川又美はさげまんであり、私はSEXするたび猫川又美から運気を吸い取られていて、そのせいで私の藝術活動がまったくもって上手く行かないという何とも

理不尽で失礼極まりない疑惑が再び呼び覚まされてきて、今日は久しぶりだからもう1回くらいイケるかなとパンツを履かずに半勃ち状態だった私のペニスがあまり

の恐怖にみるみる萎縮していき、そのうち皮まで被ってしまったため、私は2回目は潔く断念し隣りで死体のようにぐったり眠る猫川又美を一人置き去りに風呂場へ

そそくさと逃げ出す始末であった。そして、そんなふうに振り返り今現在の私が苦く思うことは、とにもかくにも、いい歳した立派な大人であった私自身にもう少し

だけ精神的余裕や甲斐性というものがあったならば、我々二人の関係はまた別の形に発展していた可能性もあったかもしれないと思われるフシもないわけでもなく、

また、何度も繰り返し念を押すけれども、私は東京藝大の学生である猫川又美に対して彼女が東京藝大の学生であるという単純な理由による嫉妬の感情などは一切抱

いていなかったことは紛れもない事実であったものの、不満な点は多々あれど、晴れて東京藝術大学の学生となった猫川又美の心がだんだんと私から離れていってし

まうこと、つまり、40絡みの冴えない中年貧乏絵描きである私が東京藝術大学の学生である16歳下の猫川又美に(まるで太宰治版『かちかち山』のごとく)いつかボロキ

レのように無惨に捨てられてしまうことを密かに恐れていたことだけは一概に否定もできず、さらにみっともなくも本音をぶちまけてしまうならば、27歳で藝術家に

なる!と宣言し会社勤めを辞め、実際に33歳で絵を描きはじめてからというもの常に藝術活動に行き詰まってばかりの私の藝術的人生と反比例するかのごとく、まる

で私に当てつけて見せつけるかのごとく、将来アーティストになることを夢見て着々と順調にそして華麗に自らの藝術的人生を輝ける未来へと向かってステップアッ

プさせ続ける猫川又美の姿を目の当たりにした私が正直羨ましく思っていたことは否定しがたい事実でもあり、それは嫉妬とはまた別の感情であると私自身は認識し

そう言い訳したとても、端から見れば、やはり嫉妬していたとみなされてしまっても致し方がないようにも思われ、とどのつまり、私は猫川又美の心を虜にし鷲掴み

し独り占めにする、そして、私自身が「藝術とは一体何ぞや?」とずっと追い求め続けるも、考えれば考えるほど何が何だかわけがわからなくなってきて、いまだに

何が何だかさっぱり理解のできぬ存在であるところの「藝術」という名前の得体の知れぬ何物かに対して理不尽極まりなくも嫉妬していたというわけなのであった。

……

かように、私と猫川又美の関係が徐々に冷えかけてきた時期を象徴する話として、ある時二人で横浜トリエンナーレという現代美術の展覧会に行ったことがあって、

私は朝から晩まで猫川又美に散々あちこちの会場を引きずり回されヘトヘトに草臥れ果ててしまって、おまけに現代美術の展覧会であるからして、それはまるで一日

中壮大で姑息な詐欺に何度も引っ掛かりダマされ続けた後のようなうんざりどんよりとした気分にも陥ってしまって、一方の猫川又美はといえば、さすがは東京藝術

大学の学生だけあって藝術を解する心があるのか大いに満足している様子にも見えたが、すっかり日も暮れかけてきたところを夕食をとるために横浜中華街へと足を

伸ばし適当に見繕った店に入って食事をしている最中に、突然猫川又美が腹痛を訴えて便所に駆け込み、その後は待てども待てども便所から出てこず、私は、しかし

恐ろしく長い便所タイムだなあ、自分の体よりでっかいウンコでもしてるんだろうか?とどまるところを知らぬほど大量のウンコが次から次と出てきて便所が溢れて

大変な騒ぎになって困ってるんだろうか?それともペテン詐欺まがいな現代美術作品をたんまり見たせいで頭がバカになりラリって素っ裸で便所に飛び込んでトレイ

ンスポッティングごっこでもしてるんだろうか?などとビールの酔いが回りはじめた頭でふざけたことをニヤニヤ考えつつ、もしや何か食べ物があたったのではなか

ろうか?と少しだけ心配になりもしつつ、でも男と違って女にはやることがたくさんあるようだし急かすのも悪いしなどと悠長に構えておると、それから15分ほどし

てようやく猫川又美は顔面蒼白脂汗タラタラ流しながら便所から這々の体で出てきたものの、腹痛は一向に治まる気配を見せてはおらず、とりあえずは会計を済ませ

店を出て駅を目指し歩いている途中とうとう猫川又美の腹痛はピークを迎えてしまって、まっすぐ立っていることすらも困難な状態で体をクネクネさせながらその場

にしゃがみ込んでしまって、私はどこかに休む適当な場所はないものかと辺りを見回した先に、市民ホールかシティホテルらしき建物の入口を発見し、一旦そこのロ

ビーを借りて猫川又美を休ませることにしたのだけれど、猫川又美の腹痛はロビーのソファーに寝転がっていても激痛に体をクネクネとよじらせるほど重篤であり、

私は猫川又美の背中をやさしくなでさすりながら耳元で、大丈夫か?相当痛いのか?救急車呼んだほうがいいのか?と確認すると、猫川又美はコクリとうなずいたた

め、至急フロントの係の人に救急車を呼んでもらい、程なく救急車は到着し、そして猫川又美は近くの海沿いの救急総合病院に搬送されることとなり、私もそれに付

き添って同乗し、私は救急車に乗るのが生まれて初めての経験であったものだから、救急車というのは近くで見ると赤い光がピカピカテカテカピカピカテカテカと大

袈裟にまぶしくてピーポーパーポーピーポーパーポーと大袈裟に喧しくうるさいものなんだなあと子供じみた感想を抱きつつ、救急車内の簡易ベッドに横たわる猫川

又美の蛍光灯に照らされたお出かけ用にいつもより念入りにバッチリメイクされてはいるがところどころ化粧の剥げかかった蒼白い顔をぼんやり眺めながら、その蒼

白く苦悶する猫川又美の顔を付き合いはじめてから随分と長い時間が経つけれど今まで見た中で一番美しいと思ったのだった。それから猫川又美は同乗する救急隊員

の目などまったく関せず私のほうへよろよろと手を差し伸べ私の手を強く握りしめてきて、せっかくの楽しいデートだったのにこんなことになってしまって本当にご

めんなさいごめんなさいごめんなさいとしきりに謝り続けて、私はそんなことは全然気にしていないから大丈夫だからしっかりしなさいと猫川又美の手を強く握り返

して、もしかしたら猫川又美はこのまま死んでしまうのではなかろうか、もしも猫川又美が死んだら俺は悲しくて涙を流すだろうか、そして猫川又美がいなくなった

ら俺はひとりぼっちで生きていけるだろうか、いやむしろ猫川又美がこのまま死んでくれたほうがスッパリと腐れ縁の関係を絶つこともできて俺にとって好都合なの

かもしれないな、でも猫川又美がこのまま死んでしまったらあのプリップリのケツに二度と触れなくなってしまうんだよな、あのプリップリのケツが触れなくなるの

だけは何だか寂しいことだよなあなどと頭の片隅で縁起でもない失礼なことをぼんやりと考えてもいて、私は猫川又美の蒼白く美しい顔をもっと長い時間できること

なら永遠に眺めていたかったのだけれど、無情にも救急車はすぐ(10分足らずで)海沿いの救急総合病院に到着してしまい、そしてその頃には何ともバツが悪いことに

あれほど激しかった猫川又美の腹痛が嘘のようにピタリと治まってしまっており、救急隊員から今の腹痛の度合いを5段階で表すとどれくらいかと問われた猫川又美

は正直に1などと答えてしまっていて、それを聞きながら私はバカだな嘘でも4とか3とかもう少し上に答えておけばいいものをと内心苦々しく思ってもいて、案の定

猫川又美は病院の看護師(中年女性)から救急車をタクシー代わりに使用してはいけません、生理痛はきちんと自己管理なさいと、きっちり嫌味に近い小言を言われる

始末であった。結局その時の猫川又美の腹痛の原因は後日の精密検査で子宮内膜症という女性特有の病気からくるものだったと判明するわけだが、夜中の人気のまっ

たくないシーンと静まり返った海沿いの救急総合病院に到着した途端に嘘みたいにケロリと前よりもいっそう元気になってしまった本当に腹が立つほど間が悪く、さ

らに急患担当の若い男性医師より触診のため膣の中の奥の奥までグリグリ指を挿入されてすごく痛かったなどと明け透けに話す能天気な猫川又美をぼんやり眺め遣り

ながら私は、一時はどうなることやらと心配したが最悪の事態には至らずとりあえずは一安心といったところだけれど他人に迷惑ばかりかけておきながら今じゃ涼し

い顔で廊下をスキップして口笛まで吹きやがって本当に人騒がせな女だよまったくと少しばかり苛立ちはじめ、そしてその苛立ちの捌け口の鉾先が自然と猫川又美の

肉体(特にプリップリのケツ)へと向かってムラムラと欲情してしまった私は、I'm A Fool To Want You、もはや我慢がきかなくなり肉欲に飢えた一匹のケダモノと成

り果ててしまって、その後、猫川又美に本当に大丈夫か?無理しなくてもいいんだぜ、本当に大丈夫か?嫌だったら断ってもらって全然構わないんだぞ、本当に大丈

夫か?本当に本当に本当に大丈夫か?としつこく何度も(おそらく100回ほど)確認し、もうしつこいな、大丈夫って言ってるでしょうと猫川又美の同意を得た上で、

駅前の連れ込み宿(ラブホテル)にしけこみ、終電間際の束の間猫川又美の肉体を鬼畜のごとく貪り尽くすのであった。そして、これは後日判明したことだけれども、

猫川又美が中華街で腹痛に堪え切れず救急車を呼んだ場所、つまり私が市民ホールかシティホテルと見紛った建物とは、実はなんと!結婚式場(ブライダルホール)で

あり、結婚式場から救急車で運ばれるなんて何とも縁起が悪く、あたかもそれは私と猫川又美二人の暗澹たる行く末を仄かに暗示しているようにも見えるのだった。

……

それからのちに我々二人の間に起こった出来事の顛末はこれ以上書くと訴えられる可能性も出てきてしまいそうなので後日気が向いた時にあらためて書ければ書くこ

とにしてここでは省略するけれども、最後に会った時、猫川又美が発狂し錯乱状態に陥る直前に私に言い放った言葉を今でも私は一言一句違わず正確に覚えている。

「あのさー、私がなんであなたと付き合ったか教えてあげようか、それはね、かわいそうだったから、なんかさー、なんだかさー、すっごく寂しそうに見えたんだよ

ねー、もしも私と別れて、私がいなくなったら、誰もあなたとなんか付き合ってくれないよ、ずっとひとりぼっちで生きてゆくんだよ、それって、すっごく寂しい人

生だよね、本当にかわいそうな人だよね」その猫川又美の言葉の真意は計り知れないけれども、それが猫川又美の心の奥底にずうっと眠っていた本音であろうとも、

負け惜しみからくるヤケッパチな捨て台詞であろうとも、発狂寸前の錯乱がもたらした無意識のうわごとであろうとも、私の心の奥底の一番ヤワな場所にグサリと突

き刺さったことに変わりはない。そうか、俺はかわいそうな人だったのか、田舎からはるばる上京してきて悪い男にダマされて処女喪失したレミゼラブルな猫川又美

のことをかわいそうな女と思って付き合ってあげたはずなんだけどな、そうか、俺のほうこそかわいそうな人だったわけか、ふーん、そうか、そうだったのか。しか

し、何だろうか、行き着くところ、結局世の中金なんだな、愛だの恋だの何だのと言ったところで、結局金には敵わないんだな、もちろん以前から薄々気がついても

いたし、気がついてはいたけれど、決してハッキリとは認めたくなかったけれど、結局世の中すべて金なんだな、とても哀しいことだけど、結局世の中すべて金なん

だな、だけども、それじゃあまりにも哀し過ぎるよな、インチキやズルはしないだとか、嘘はつかないだとか、他人の気持ちを思い遣るだとか、悪いことしている人

間に対して悪いことはいけないことだときちんと諭してあげるだとか、困ってる人がいたらできる限り助けてあげるだとか、決して偽善的な自己満足のきれいごとな

んかじゃなくって、世の中には決して金では買えない大切なものだって、まだまだきっとたくさんあるはずなんだけどな、貧しい人間は心まで貧しくなってしまうん

だろうか、金なんて必要最低限あれば大抵事足りるし、金がたくさんなければ幸せになれないわけでもないし、もしかしたらこんなこと言うのも立派なきれいごとと

みなされてしまうのかもしれないけれど、ようするに、心の持ちよう、心がどうあるかこそがもっとも重要だと思うんだけどな、自分の心が空っぽだったり薄っぺら

なのを自覚してるからこそ、みんなこぞって上っ面の表層部分を飾り立てようとするんじゃないのか、どこの学校出たとか、どこに住んでるとか、どんな服着て、ど

んな車乗って、どんな役職で、貯金がいくらあって、どんな賞もらったとか、どいつもこいつも猫も杓子も、金や地位や名声など世の中の上っ面な部分にばかりに囚

われて、己の内面にある人間として本当に大切な部分を磨きあげたり、己の魂を高めることをすっかり忘れて、平然と他人を踏み台にして土足で踏みにじって、用が

済んだらさっさとお払い箱にして蹴落として、他人がどう思おうとどうなろうと自分さえよければ一切お構いなし、ただ目先の欲を満たすことばかりに汲々として、

ただ自分さえ良ければそれで結構すべて結構コケコッコー、それじゃあ、まるで犬や猫や猿や豚や鳥や虫けら畜生どもと何ら変わりがないではないか、俺たちは人間

の形をした畜生に過ぎないのか、俺たちは人でなしのケダモノに過ぎないのか、俺たち人間だろ、俺たち人間だよな、いやいや、待てよ、ていうか、そんなこと一丁

前に偉そうに語ってるこの俺は、自分のこと棚に上げて、偉そうに猫川又美のこと責め立てたりしてるけど、そもそも、この俺は、他人に対してそんな偉そうなこと

語ったりできる資格が果たしてあるんだろうか、むしろ、俺のほうこそが、犬や猫や猿や豚や鳥や虫けら畜生どもと何ら変わらない人間の形をした人でなしのケダモ

ノに過ぎないんじゃないのか、そもそも、猫川又美とかれこれ5年も付き合ったのだって、最初は16歳下の若い女の体が目当てであって、途中から愛のようなものが

芽生えかけてきたような気もしてたけど、そんなものはただの錯覚に過ぎなくって、それは愛なんて呼べるものじゃなくって、ただ単に猫川又美の肉体に欲情してケ

ダモノみたいにせっせとペニスおっ勃ててただけなんじゃないのか、何もこれは猫川又美に対しての話だけに限らず、俺の今までの人生において付き合ってきた女た

ちに対してだって、これっぽっちの愛なんてものはなくって、ただ肉欲に囚われてケダモノみたいにせっせとペニスおっ勃ててただけなんじゃないのか、そして、飽

きてしまえば、愛が終わったからとか何とか、愛が何なのかすらさっぱりわからないくせに出来合いの適当な屁理屈見繕ってつべこべ並べ立てて、相手や自分自身を

誤摩化して都合良く捨てて逃げてきただけなんじゃないのか、もしかして俺は今まで誰か他人を本気で愛したことなんて一度もないんじゃないのか、そもそも他人ど

ころか自分自身すらも愛したことなんて一度もないんじゃないのか、ケダモノみたいにペニスがおっ勃って、ペニスがおっ勃っているからっていう、ただそれだけの

原始的野獣的単純明快な理由だけで、それを愛だと勘違いしていただけなんじゃないのか、結局、俺の中には肉欲以外何もないんじゃないのか、俺はただの肉欲の塊

に過ぎないんじゃないのか、肉欲が服着て歩いてるだけなんじゃないのか、しかし、そもそも愛と肉欲の間に明確な違いなんてあるのか、愛って一体なんなんだ、昔

の有名な偉い小説家もたしか言ってたじゃないか、恋愛はただ性欲の詩的表現をうけたものであるってさ、あまりの夏の暑さに絶望して自殺した小説家だったかな、

いや、梅毒にかかっているかもしれないことに絶望したんだっけか、将来に対するぼんやりとした不安みたいなことが遺書に書かれていたみたいだけど、さすが小説

家だけになかなか鋭いことを言ってくれるじゃないかって俺は感心したもんだけどな、しかし、実際のところ俺以外の他の奴らはみんな愛と肉欲の違いをきちんと理

解しているのだろうか、たぶん理解してないだろうな、理解できるわけがないよな、ああ、愛ってなんなんだ、俺は畜生なのか、俺は人間なのか、俺は人でなしなの

か、俺は人間なのか、俺はケダモノなのか、俺は人間だよな、俺たち人間なのか、俺たち人間だよな、俺たちケダモノなのか、俺たち人間だよな、なあ、なあ、なあ

ってば、誰かなんとか言ってくれってばよ、なんだか哀しくってやりきれなくなっちまうからよ。そして、その時、私は33歳で絵を描きはじめるようになってからと

いうもの、四六時中暇さえあれば真剣に考えに考えてもなお答えの見つからなかったある永遠の問題に対する答えの片鱗が垣間みられたような気がしたのであった。

すなわち、それは、(Q)「どうしてウンコはくさいのか?」という問題に対する答えであり、かつて新宿御苑前の天井の高いイタリアンレストランにて猫川又美が一瞬

で導き出し猫川又美という人間をこいつはただ者ではないぞと私に一目置かせるきっかけとなった答え、(Q)「どうしてウンコはくさいのか?」→ (A)「間違えて食べな

いように」をようやく覆すこともできそうなほど素晴らしい答えなのであった。その時、私の頭の中に閃いた答えとは、(Q)「どうしてウンコはくさいのか?」→ (A)

「なぜなら、それは、人間という生き物は、自分自身が醜いケダモノであることもすっかり忘れいい気になって隙あらばきれいごとを並べ立てその場を取り繕おうと

したり、自分を実際以上に大きくみせようと偉そうにしたがる狡猾で愚かな生き物であるため、人間を作ったとされる神様が(私はまったく信用してないが一応そうい

うことにしておいて)、人間のウンコを鼻が曲がるほどくさくして、毎朝尻の穴からくさいウンコが飛び出てくる自分自身のことを醜いケダモノであるとウンコをする

度に繰り返し再認識させ、きれいごとや偉そうなことばかり言わずに身の程を知って羞恥心をもってもっと謙虚に慎ましく生きなければならぬのだと身をもって思い

知らせるために、ウンコはくさいのである」という答えであり、私は我ながら素晴らしい答えを導き出したものだと自画自賛しつつ、爾来、朝の便所の個室で己の尻

の穴からひり出すウンコのニオイに噎せ返りながら、やはり人間という生き物は醜いケダモノであるがゆえ、自分も他人も人間という生き物は一切信用してはならぬ

のだと肝に銘じ、今後はこれまで以上に冷徹ニヒリスティックな人間嫌いの成れの果てを気取った一匹のケダモノとして孤独に生きていく決意を固めるのであった。

……

人間の記憶というものは知らず知らずのうちに高性能フィルターやら自動ノイズキャンセラーやら思い出思いやり補正やらが掛けられて何とも都合よく手前勝手に美

化されがちであるがゆえ決して信用してはならぬのが世の常であるが、時の流れは何とも早いもので猫川又美と別れて10年近くが経ち、今じゃ人間嫌いの成れの果て

を気取った一匹のケダモノとして孤独に生きる姿もすっかり板についてきた私は「あれからもう10年になるんだな、付き合っていた当時は暇さえあればケンカばかり

してかなりヘヴィーな辛いこともたくさんあったはずなんだけど、別れた後もたまに思い出して怒り狂っていたこともあったはずなんだけど、振り返って今思えば、

とにかく常にジェットコースターに乗っているかのような刺激的で意外と楽しい毎日だったんだよな、若干刺激が強過ぎたがな」などとかつての交際相手猫川又美と

の記憶の数々をあれこれ回想しながら少しばかりセンチメンタルな気持ちになって遠い目をして、ふと我に返れば、目の前の空には相変わらず巨大なウンコがポッカ

リと浮び今では夕陽を浴びキラキラと光り輝いていて、そんな巨大なウンコを眺めていると、自分の存在や自分の悩みごとなんてものは別に全然大したことではない

ようにも思われてくるから不思議なものである。もちろん今現在抱え込んでしまっている厄介な憂いごとのすべてが魔法みたいに跡形もなく消え去って根本的に解決

するわけでもなく、それらは再び日常生活に戻れば否が応でも死ぬまで自分に付きまとい永久に解決することのない問題でもあるわけだけれども、少なくとも巨大な

ウンコを眺めている間だけは、世の中のあらゆるすべてがもう本当にどうでもよくなってしまうのだからまったくいい気なものである。恐るべしウンコパワー、ウン

コは人間を決して裏切らない、どうせならば、もういっそのこと将来はウンコの見える部屋に住んでしまえばいいのではないのか、いつもウンコを眺めながら上機嫌

でいられるなんて素敵なことじゃないか、でもウンコを眺め過ぎるとご利益も減ってくるのかもしれないな、お気に入りの音楽アルバムの中の大好きな曲ばかり聴き

続けているとそのうち飽きてそのアルバム自体を二度と聴きたくなくなるみたいに、それにウンコに光が乱反射してキラキラまぶし過ぎて仕事にならないかもしれん

しな、実際住んでみないことにはどうなることかわからないけれど、思い出してたまに見に来るからこそありがたみも増してきたりもするんだろうな、空に浮ぶ巨大

なウンコは夕陽を浴びて気持ち良さそうにキラキラと光り輝いている、あんなふうにキラキラできたらさぞかしウンコ冥利にも尽きるんだろうな、ウンコのくせして

キラキラしやがって、ウンコのくせして威風堂々と調子に乗っていい気になりやがって、でも本当に気持ちがよさそうだ、そんなふうにキラキラと抜群にイカしてる

ウンコを見に訪れる度いつも嫌なことなどすっかり忘れられて元気になって勇気づけられて、世の中まだまだ捨てたもんでもないな、もう少しだけ頑張って生きてみ

ようかなどと決してポーズでもなく心の底からそう思えたりも出来る。そういったある種の精神安定剤みたいなものがこの世界にたしかに存在していて、足を伸ばせ

ばいつでもふらりとしかもお金もかからず見に訪れることが出来るということが何とも頼もしくほとんど奇跡とすら思えてくる。そして、そんなふうに見る度に見る

人にそんな気持ちにさせる精神安定剤のような素晴らしい藝術作品をいつの日にか自分も作って残せたらいいなと強く思う。そして、おそらくそれこそが藝術という

ものの役割であり、それこそが藝術というものの存在意義であり、それこそが私が藝術活動をおこなう唯一の理由に他ならないのではないかとあらためて確信する。

……

猫川又美と別れて10年近く経った今現在も私は引き続き、(Q)「どうしてウンコはくさいのか?」という問題に対する答えを探し求める藝術的な心の旅の途中にいる。

10年前、猫川又美と別れた直後の陰々滅々な気分の中で私は、(Q)「どうしてウンコはくさいのか?」→ (A)「人間のウンコを鼻が曲がるほどくさくして、毎朝尻の穴か

らくさいウンコが飛び出てくる自分自身のことを醜いケダモノであるとウンコをする度に繰り返し再認識させるために、ウンコはくさい」と冷徹ニヒリスティックな

答えを(まさに体を張って)導き出し、当時は、もうこれしかない!と束の間有頂天となってもいたものだが、やがて時間が経つにつれ徐々にまだまだそれは完璧な答え

ではないと思えてきて、その後も、その折々の感情やコンディションにより導き出される答えも私の中で刻々と一進一退変化し続けて、やはりこれしかありえない!

という決定的な答えはいまだ見つからずじまいのまま現在に至る。何が正解かなんて人それぞれに違っていて、もしかしたら正解なんてどこにもないのかもしれず、

物事のすべてに理由があってもそれはそれで妙につまらぬ窮屈な世の中であり、答えはハッキリさせずに遊びの部分を残したまま曖昧にしておいたほうが都合のよい

こともあったりするのかもしれぬが、何はともあれ、今現在も私は日夜懸命に答えを探し求め続けている。かつて猫川又美が一瞬で導き出した答え、(A)「間違えて食

べないように、ウンコはくさい」も真理であり、猫川又美と別れた直後の10年前に私が導き出した答え、(A)「人間は醜いケダモノであると思い知らせるために、ウン

コはくさい」もまた真理であろう。でもそれらはまだまだ決定的な、もはやこれ以外には考えられない!というドンピシャな究極の答えではなく、おそらくは猫川又

美の答えと私の答えをミックスさせた上で、さらに例えば、(A)「道端のウンコに蠅がたかるように何かを惹き付ける魅力的なニオイを放つため、ウンコはくさい」み

たいな理由もプラスαで付加して藝術的な方向へ寄せてやると良い塩梅になるのではないかと考えていたりもする。決定的な答えがもうすぐそこまで出かかっているよ

うな気がしないでもなく、本当に後もう一息のところまで来ているんだよなあともどかしく悔しく感じつつ、つい先日50歳(知命)の誕生日を迎えたばかりの今現在の私

が考える、(Q)「どうしてウンコはくさいのか?」という問題に対する答えをまとめると大体以下の通りになるだろう。人間は毎日尻の穴からウンコをひり出しながら

生きる全身に血の通った生き物であり、つまりはただのくそったれなケダモノの一種に過ぎぬわけだけれども、ロボットのようにあらかじめプログラミングされ命令

されたことに忠実に従うだけのお利口さんな機械人間などではなく生身の人間なのだから、きちんと自分の頭で考えて自分の思う通りに人間らしく生きていけという

意味を込めて、ウンコはくさい。また、人間はくそったれなケダモノの一種に過ぎぬとはいえども、自分の尻の穴からひり出した自分のウンコを食べてしまうような

愚かな犬猫豚畜生ではなく、もしも自分のウンコを食べてしまったら犬猫豚畜生に成り下がってしまうので、ウンコを間違って食べないように、ウンコはくさい。す

なわち、人間とは所詮はロボットと犬猫豚畜生との中間に位置する中途半端なくそったれなケダモノの一種に過ぎぬわけだけれども、ロボットでも犬猫豚畜生でもな

く、まさしく人間であるのだから、ウンコのくさい人間くさい人間として、ウンコのくさい人間くさい人間としての尊厳を守りつつ、ウンコのくさい人間くさい人間

としての誇りを胸に抱きながら、ウンコのくさい人間くさい人間としての羞恥心も決して忘れず、ウンコのくさい人間くさい人間として、人間くさく人間らしく生き

ていけという意味を込めて、ウンコはくさい。そして、人間は完全な生き物ではなく、人間はいつも完璧でいられるわけでもなく、それは今目の前の空にポッカリと

浮ぶ巨大なウンコが、当初は赤い炎を目指していたところ、いつの間にやら気づいた時にはどこからどう見ても誰が見ても紛うことなきウンコ以外の何物でもなくな

ってしまったことからでも明らかであるように、時には失敗もするし、間違うし、嘘もつくし、屁もこくし、ウンコもするし、そして、もちろんウンコはくさい。勲

章をもらった偉人も、絶世の美人も、可愛いアイドルも、みんなことごとくウンコがくさい。ウンコがくさいという絶対的な事実から人間は誰一人として逃れること

はできない。神様の最高傑作などと自惚れているくせしてしっかりとウンコはくさい。最高傑作ならばウンコがくさいわけがなく、つまりすべての人間はある意味欠

陥品であるとも言える。ゆえに、人間はウンコがくさいただの不完全な欠陥品のくそったれなケダモノの一種であるという事実から決して都合良く目を逸らしたりは

せず、人間は神様の作った最高傑作であるなどと身分不相応にのぼせあがったりもせず、もちろんインスタにウンコの写真をあげたりカレーにウンコを混ぜて食べた

り食べさせたりなど人間の尊厳を甚だしく損じる羞恥心の麻痺したような愚かな行為には極力手を染めたりもせず(さすがの岡本太郎も藝術のためならウンコを食べて

もいいとは書いていないし、かのウンコ好きで有名なフランク・ザッパも自伝の冒頭に「俺はウンコなんて食ってない、ウンコ食ったのはアリス・クーパーだ!」と

わざわざ書いているくらいであり、ある意味人間はウンコに対しどのように向き合うかによって人間としての度量を試されているのかもしれず)、とにもかくにも、人

間はウンコがくさいただの不完全なくそったれなケダモノの一種であるという紛れもない事実をきちんとわきまえた上で肝に銘じ、常に謙虚に慎ましく、そして強く

逞しく人間らしく人間くさく生きていけという意味を込めて、ウンコはくさい。そして、そんなふうにウンコがくさい不完全なくそったれなケダモノの一種の人間と

して日々を生きていく中で、それでもまだ心に余裕がある時には、その自らの不完全な欠落部分を埋めるべく、もしくは欠落部分を果敢に乗り越えていく覚悟をもっ

て、束の間自分たちの欠落部分をうっとりと忘れさせてくれるような、誰かを惹き付けるニオイのきちんとする人間くさい藝術作品を己の身内からウンコをひり出す

ように生み出し、その生み出された藝術作品から漂う人間くさい魅力的なニオイで人々を惹き付け、人々を魅了し、感動させたり、元気づけたり、勇気づけたり、世

の中まだまだ捨てたもんじゃないな、生きていて良かったなと思わせてやれという意味を込めて、ウンコはくさい、などなどなど、まだまだ全然まとめ切れてはおら

ず、口から出まかせで辻褄も合ってはおらず、力技でねじ伏せているきらいがないでもなく、まだまだ考える余地もたくさんあり、考えれば考えるほど、本当に考え

れば考えるほど、さらに深みに嵌まり込んで頭がこんがらがってわけがわからなくなってきてしまうけれども、おそらくは一生かけて追い求めていかなければならな

い問題でもあり、一生かけて追い求めても答えが見つからない問題でもあり、もしかしたらこんなことを考えること自体にもまったく意味などないのかもしれぬが、

そう考えてみると、自分の表現する絵も文章も所詮はウンコと何ら変わりがなく、そもそも人間もこの世にウンコみたいに何の意味もなくひり出されてきた誰かのウ

ンコみたいなものであり、人間がこの世に存在する意味など別になくて、もちろん私がこの世に存在する意味なども別になくて、人間なんてみんな石ころみたいにた

またまそこら辺に転がって存在しているに過ぎず、おそらくサルトルとか深沢七郎とかブコウスキーは皆同じこのことを言っているのだと思うのだけれども(実存主義

とかいうのか)、とにかく人生には意味などなくて、人間にも意味などなくて、この世に存在するあらゆるすべてのものにも意味などなくて、今私の目の前の空にポッ

カリと浮ぶ巨大なウンコが夕陽を浴びてキラキラ光り輝いていることにも意味などなくて、それを今こうしてうっとり眺めている私自身にも意味などなくて、でもそ

れじゃ何だか哀しいし寂しいし虚しいから、サルトルは『反吐』みたいな題名の小説の中で、主人公がジャズのレコードを聴いている時「自分が死んだ後に何かしら

自分の存在を思い出してもらえるようなそんな素晴らしい藝術作品をこの世に残さなければならない」と悟らせるんだったっけか、うろ覚えで、もしかしたらまった

く見当違いな解釈かもしれないけれど、私が今目の前の空にポッカリと浮び夕陽を浴びてキラキラ光り輝く巨大なウンコを眺めながら考えることは大体そんなところ

であり、まあ、この世のすべてに意味などないのならば、考えても仕様のないことは所詮考えても仕様のないことであり、まあ、気張らずにウンコをひり出すような

感覚でこれから先も藝術と向き合っていけばいいんだよ、藝術なんていくら気取ってみたところで所詮はウンコと何ら変わりないんだからさ、そもそもウンコが空に

ポッカリと浮んでるだけでもこれだけ大喜びできて幸福な気分に浸れるのだからね、物事を複雑に考え過ぎず、もっと肩の力を抜いてのんびり気楽に生きていけばい

いんだよ、と巨大なウンコに説教されているような気もだんだんしてきて、私は、左様ですか、ならばそうさせてもらいますよ、藝術なんて所詮はウンコと何ら変わ

りないんですもんね、とさらにどんどん気が楽になっていって、それにそもそも藝術作品を生み出すことは人間の義務などでもなく、岡本太郎は藝術をわからないな

んて言う奴は人間じゃないとまでハッキリ言ってしまっているけど、まあ、何はともあれ、表現したいことがあれば表現すればよく、別に表現したいことなど何もな

い時は無理して表現しなくてもよいわけで、それこそが表現の自由、藝術の自由ってことなんだろう、藝術はとにかくウンコみたいに自由でよいというわけであり、

結局とどのつまり、岡本太郎の『今日の芸術』にまた戻ってきてしまうわけだけれど、己の身内からひり出すウンコを藝術へと昇華させ藝術作品として表現した時に

初めて人間はウンコがくさいただの不完全なくそったれなケダモノの一種であるという事実から逃れられ一人の人間となることができるのならば、もしかしたら、(Q)

「どうしてウンコがくさいのか?」→ (A)「人間に藝術作品を作らせるために、ウンコはくさい」のかもしれない、 (A)「もっと藝術的に生きろ!と人間を叱咤激励する

ために、ウンコはくさい」のかもしれない、すなわち、端的言うと、(A)「人間だったら藝術作品を作れ!という意味を込めて、ウンコはくさい」のかもしれない、何

だかサルトルっぽくなってきたじゃないか、まるでサルトルが憑依してきたみたいだ、ところでサルトルもウンコしてたんだろうか、実存主義とか言って小難しい哲

学垂れ流していても、サルトルだって毎日尻の穴からウンコをひり出して、もちろんサルトルのウンコもくさかったわけだ、ウンコがくさいという絶対的な事実を前

にしてはあらゆるすべてが無力化してしまう、ウンコの前ではサルトルだって哲学だってもうお手上げだ、恐るべしウンコパワー、目の前の空にポッカリと浮ぶ巨大

なウンコは夕陽を浴びてキラキラと光り輝き続ける、藝術とは一体なんぞや?と問われたならば、あらためて藝術はウンコみたいなものであり、それ以外はさっぱり

よくわからんと私は答えることだろう、この世のすべてに意味があるようで、この世のすべてに意味がない、けれども、自分自身の人生そのものを一つの藝術作品と

して捉えるならば、今までの私の50年に及ぶ決して他人に誇ることなどできぬ本当にろくでもない人生の中で起こったすべての出来事が、自分の人生という藝術作品

の一部であり、それは私が毎日尻の穴からひり出すウンコにしても、時たまペニスからしぼり出すなけなしの黄ばんだ精液にしても決して例外でなく、自分の人生と

いう藝術作品に欠かすことのできないかけがえのない一要素であり、私が27歳の時に藝術家になる!と宣って会社勤めを辞めたことも、33歳で絵を描きはじめたこと

も、猫川又美と出会ったことも、その後の5年に及ぶ腐れ縁の関係も、別れた後の10年も、いつしか絵が描けなくなったことも、文章を書きはじめたことも、文章が書

けなくなったことも、この書けなかった1年も、今日という1日も、今こうして目の前の空にポッカリと浮ぶ巨大なウンコを眺めながら私が藝術やウンコについてあれ

やこれやと考えているこの一瞬も、私の人生という藝術作品には決して欠かすことのできないかけがえのない一要素であり、私にとって決して無駄ではなく、きっと

意味があったし、意味があるし、これから先もきっと意味があるはずだ、人生にはまったく意味などなくても、それでも人生にまったく意味がないことにも、きっと

何かしら意味があるはずだ、人間がこの世に存在することにまったく意味などなくても、それでも人間がこの世に存在することにまったく意味がないことにも、きっ

と何かしら意味があるはずだ、人生は自分が思うほど長くは続かない、気づいた時は手遅れだ、描こうが描くまいが、書こうが書くまいが、表現しようがしまいが、

いずれにせよ、人間はいつか必ず死んでしまう、この私だっていつか必ず死ぬだろう、もしも己の身内に表現すべきものがあるならば、是が非とも表現しなければな

らぬものがあるならば、すべて出し切り後腐れなくあの世へと旅立つべきではないのか、己の身内からひり出すウンコを藝術へと昇華させ藝術作品として表現して初

めて人間はウンコがくさいただの不完全なくそったれなケダモノの一種であるという事実から逃れられ一人の人間となることができるのである、そして藝術というも

のは自分の人生という一生涯をかけて死ぬまで追求していくものである、自分の人生という題名の藝術作品を最高傑作として仕上げて完成させるべく、これから先も

私は藝術とウンコについて考え続けてゆかなければならない、そう考えたら何だか急にウンコがしたくなってきた!今私はウンコの話が猛烈に書きたくなってきた!

……

そんなふうに今現在50歳(知命)の私がぼんやり考えている素直な気持ちを無性に誰かに聞いてもらいたくなってきて、でも今の私にはそんなウンコの話を気軽に話せる

相手なんて誰一人としているはずもなくて、そして、私はまたしても猫川又美のことをふと思い出し、そう考えてみると気軽にウンコの話ができる相手がいたという

のはかけがえのない素晴らしいことだったんだなとしんみりと思ったりもする。そんな相手は探そうと思って簡単に見つかるものでもなく、もしかしたら本当に奇跡

に近かったのかもしれない。そして、その時、私は唐突に猫川又美にメールしてみようかと考える。久しぶりに猫川又美にメールしてみるか、件名は『ユリイカ?』

がいいだろう、ビックリマークではなくクエスチョンマークを付けてやれ、メールには必ずウンコビルの写真を貼付してやろう、文面はどうするか?「俺はとうとう

見つけたよ、君の答えを凌駕するような素晴らしい答えをね、でもまだまだそれは決定的な答えではないようだから、件名は『ユリイカ!』ではなくて、今回は『ユ

リイカ?』にしておくよ、君が今どこでどうしているのか俺はまったく把握してないけれど、前に言ってたように電通社員と結婚して幸せな家庭を築いているのか、

世界を股にかけ国際的に活躍するアーティストに無事なれたのか、今の君が幸せかどうかなんて俺にとってはもうまったく関係ないことだし正直どうでもいいことな

んだけど、俺がどうでもよくないと思っているのは、例のウンコの問題なんだよ、そう、いつか新宿御苑前の天井の高いイタリアンレストランで君に話した、(Q)「ど

うしてウンコはくさいのか?」という問題だよ、あの時、東京藝術大学に無事合格して自信満々の君は俺のことを散々バカにして鼻で笑って、そしてそのあと君は一

瞬で見事な答えを導き出し俺をアッと驚かせてくれたよね、それがあまりにも悔しかったものだから、いつか君をギャフンと言わせてやろうとその後も俺は引き続き

君と別れてからもずっとずっとずっとずっと、あの時の君の答えを凌駕するような答えを探し求め続けてきたんだよ、そしてそれはようやく見つかったような見つか

っていないような、サルトルにもちょこっと手伝ってもらったりとかしてね、何だか奥歯に物が挟まったような感じなんだけど、だから、件名は『ユリイカ!』では

なくて、今回は『ユリイカ?』にしたんだよ、あ、これはさっきも書いたっけな、とりあえず今俺の考えていることを誰かに聞いてもらいたいと思ってね、突然メー

ルしてみたんだけど、迷惑だったかな、迷惑に決まってるよな、でもこんなウンコの話なんてできる相手は君以外に思いつかなかったんだよ、そうそう、俺はこない

だとうとう50歳になってしまったよ、そして50歳になった今でもまだウンコのことばかり考え続けているんだよ、さすがに50歳になってもウンコのことばかり考え

ているとは夢にも思ってなかったから自分でも正直ビックリしてるんだけどね、でも実際50歳になっても俺はウンコのことばかり考え続けているってわけなんだよ、

最近じゃ寝入りばなにウンコ漏らす夢とか見てハッと飛び起きてパンツの中を確認して、漏らしてなくて良かったとかホッとしたりしてるんだよ、老いるっていうの

はそういうことなんだろうね、きっと君はまた鼻で笑って俺のことバカにすると思うけど、何と言っても、俺にとってウンコという存在は藝術作品と言っても過言で

はないのだからね、ウンコについて考えることは、すなわち藝術のことを考えることとイコールになるんだよ、俺にとってウンコという存在は藝術作品であり、藝術

作品はウンコであり、藝術活動は排泄行為であり、排泄行為は藝術活動であり、そして俺の人生は一つの藝術作品であるとも言えるわけで、すなわち俺にとってウン

コのことを考えることは、俺の人生という藝術活動の一環に他ならないというわけなんだ、つまり俺の人生は藝術作品であるわけだから、藝術とは一生涯をかけて命

懸けで追求していくものであり、そして藝術はウンコと同じようなものでもあり、すなわち俺は一生涯かけて命懸けでウンコについても追求していかなければならな

いってわけなんだよ、何だか自分でも何言ってるんだかわからなくなってきてしまったよ、君には理解できるかい、できるわけないよな、俺が理解できてないんだか

らな、そして、もちろんこれから先も、60歳になっても、70歳になっても、80歳になっても、生きている限り死ぬまで俺はずっと藝術とウンコについて考え続けて

行くつもりだよ、これだけは絶対に譲れないんだよ、しかし、藝術っていうのは一体全体何なんだろうな?考えても考えてもわからなくて、考えれば考えるほどさら

にさっぱりわけがわからなくなってきてしまうんだよな、それから…」そんなふうに具体的なメールの文面を頭の中に打ち込みながら私は、ケンカ別れして10年後に

元交際相手の頭のイカれた男から突然こんなメールが届いたらさぞかし驚くに違いないだろうな、さすがに普通に考えてヤバい人になっちゃうよな、いかんせん内容

が他でもないウンコの話だもんな、完全に頭おかしいよな、下手したら警察沙汰になるかもな、警察沙汰は洒落にならんよな、などとニヤニヤ考えていると突然「す

みませんが」と声をかけられハッと我に返れば、すぐ横には田舎から出てきたばかりのような20代前半と思しき若い実直そうな警官がいつの間にやら立っていて「先

程から長時間ここにおられるようですけれど、失礼ですが、一体何をされてるんでしょうか?」と慇懃に尋ねてきて、驚きのあまり頭が一瞬で真白になってしまった

私は「最近絵が描けなくなってその代わりに文章を書いていたらその文章も書けなくなって行き詰まってしまったものだから、いつものように自転車ビュンビュン飛

ばして50分かけてここまでやって来て空にポッカリと浮ぶ巨大なウンコをぼんやり眺めながら藝術やウンコや昔の彼女についてあれこれ考え続けているうち突然サル

トルが憑依してきて真理らしきものを発見したような気がして、そしたら無性に誰かに聞いてもらいたくなって10年前に別れた昔の彼女に思い切ってメールしてみよ

うかと文面をせっせと考えておりまして、件名は『ユリイカ!』ではなく今回は『ユリイカ?』にしようかなと、でも考えてみたら別れた直後にメールアドレス消し

ちゃってて送りたくても送れないんですよね」などとバカ正直に答えることはもちろんなくて、不審者みたいにモゴモゴと口ごもりながら咄嗟に目の前の空にポッカ

リと浮ぶ巨大なウンコを指差してから小声で「ウンコ」と端折って答えれば「え?ウンコ?あの、お手数ですけれど、自転車の防犯登録だけ確認させてもらってもよ

ろしいですかね?お名前は何というのしょうか?」と警官は慇懃な態度を崩さず、私が素直に苗字を告げると無線に向って自転車の登録番号を何度か機械的に繰り返

し読み上げて、その返事を待っている間のバツの悪さから私は警官の腰にぶら下がっている拳銃や警棒を無遠慮にジロジロと眺めながら「そういや昔この警棒くらい

のサイズの見事な一本糞をひり出したことがあったっけな、あれは何年前のことだったかな、あの一本糞は本当に素晴らしかったんだよな、大げさでも何でもなくて

ニューヨークのメトロポリタン美術館、いやMOMA、ニューヨーク近代美術館にそのまま運んで行って展示できるのではないかと思えるほど今までにひり出してきた

あらゆるウンコの中で最大最長サイズの素晴らしい、そして美しい一本糞だったんだよな、ウンコも藝術作品の一つとして捉える自分が考えるに、おそらくあの一本

糞が俺にとって現時点までに身を削り生み出し表現してきたあらゆる藝術作品の中では最高傑作になるってわけなんだよな、しかし今までの自分の最高傑作が一本糞

っていうのも正直いかがなものだろうか、流してしまったからもう残ってないし、でも本当に素晴らしかったんだよな、写真に撮っておけばよかったな」などと何で

もかんでもすぐ短絡的にウンコに結びつけて考えてしまう『ウンコ思考』がすっかり染みついてしまった自分のウンコ塗れな脳みそに苦笑しながら「もしかして、寂

しそうに見えました?」とだしぬけに尋ねてみれば、警官はポカンとして「え?寂しそう?いや、寂しそうとか、そんなことは、全然なかったと、思いますけども」

「もしかして、こいつ川に飛び込むんじゃないかとか心配してたりとか?」「いやいや、そんなこともなくて、ただ何だろう、もうかれこれ5時間近くもずっとここに

立たれてますよね、怪しいというか、何というか、怪しいというか、つまり怪しいというか、なので一応お声かけさせてもらった次第です、お忙しいところお手間取

らせてすみません」と少しだけ慇懃な態度を和らげ返してきて、それとほぼ同時に無線からの応答も返ってきて確認が取れたところで私は晴れて怪しい人ではなくな

って無罪放免となって「これから暗くなってきて危ないので気をつけて帰って下さいね」と警官は慇懃に去って行って、私はついさっきまで考えていた猫川又美に送

るはずだったメールの文面のことなどもうすっかり忘れてしまって、それから、来た時とはくらべものにならぬほどスッキリと晴れやかな気分で「まだまだ死ぬわけ

にはいかないんだよ、俺にはやらなきゃならないことが残ってるんだからな」と声には出さず自分に言い聞かせ鼓舞するように暮れかけたいつもの道を自転車をビュ

ンビュン飛ばして50分の家路につき、その途中ずっと、帰ったらすぐに今度こそは必ずウンコの話を一気に書き上げてしまおう!と固く心に誓って、ところで、母方

の祖父が死に際にひり出した置土産の巨大なウンコというのは一体どれくらい巨大だったんだろうか?まあ人はすぐに話を盛って大袈裟にするからな、実際は全然大

したことなかったのかもしれないけれど、巨大というからにはさぞかし巨大だったんだろうな、俺の最高傑作の一本糞よりも立派なウンコだったんだろうか?だとし

たら俺も負けてはおられんよな、いつか機会があったら母親に尋ねてみよう、などと性懲りもなく頭の中ではぼんやりウンコのことばかり考え続けているのだった。

2022.5

 

 

 

 

 

17.『Ascension / 廃人の歌 (仮)』

 

 

もう随分と昔から私は、吉本隆明とチェット・ベイカーの顔はそっくりで、まるでおすぎとピーコみたいな双子の兄弟のように思っていて、吉本隆明の顔を見る度、

チェット・ベイカーのことも思い出し、チェット・ベイカーの顔を見る度、吉本隆明のことも思い出し、吉本隆明の文章を読む度、私の頭の中ではチェット・ベイカ

ーの音楽が鳴り響き、チェット・ベイカーの音楽を聴く度、私は頭の中で吉本隆明がほっぺたを膨らませトランペットを吹き、時々歌う姿を想像しながら、もしかし

て本当に吉本隆明とチェット・ベイカーがおすぎとピーコみたいな双子の兄弟だったら面白いのになあ、と部屋で一人ニタニタとほくそ笑むのだったが、果たして吉

本隆明とチェット・ベイカーの顔がそっくりであることを誰かに同意してもらえるかどうか私には自信がないのだけれども、私の頭の中では、すでに吉本隆明とチェ

ット・ベイカーはおすぎとピーコみたいに完全に紐付けされ切っても切れない関係にあり、時々どっちがどっちかわからなくなって混乱することなどはさすがにない

けれども、吉本隆明とチェット・ベイカーが実際に血の繋がった双子の兄弟であるわけがないにせよ(人種が違うのだから当たり前だ)、きっと二人は同い年くらいで

はなかろうか、と私はずっと勝手に思い込んでもいたものだが、ある時、実際に調べてみると、吉本隆明のほうは1924年に生まれ、2012年に87歳で亡くなってお

り、チェット・ベイカーのほうは1929年に生まれ、1988年に58歳で亡くなっており、兄の吉本隆明のほうが弟のチェット・ベイカーよりも5歳ほど年長であること

が判明、また、享年が30年近く離れているのにもかかわらず、晩年の両者の風貌(老け具合、枯れ具合、草臥れ具合、やさぐれ具合)がほとんど変わらぬことに私は正

直驚きを隠せないのだけれども、おそらく、それは、弟のチェット・ベイカーのほうが生涯を通じて音楽活動と並行し麻薬活動にも(それこそ命懸けで)励み続ける廃

人スレスレのジャンキー人生を送ったツケが回ったものだと思われる。そして、晩年のチェット・ベイカーの音楽には何とも言えぬ不思議な味わいがあるのだった。

ちなみに、こんな知識は日常生活で何の役にも立たぬと思われるが、蛇足ながらも付け加えるならば、おすぎとピーコは正真正銘の双子の兄弟につき、当然ながら同

い年、1945年に生まれ、いまだ存命中で、名前の順番通り、おすぎが兄でピーコが弟と安易に思ったらとんだ大間違いで、おすぎが弟でピーコが兄なのだそうだ。

2012年1月、私が40歳(不惑)になるのを記念して絵の初個展を開催した際、恥ずかしながらその時まで私は己の人生において何一つ成し遂げてきてはおらず、33歳

の時になぜだか理由もわからず偶然描きはじめた絵をどうにかこうにか死物狂いの命懸けでようやく個展を開催するまでに漕ぎ着けることができたという経緯もあっ

て、そんなことは今までの己の人生では考えもつかぬ希有な体験であり、また、何といっても生まれて初めての個展をわざわざ開催するわけだから、こんな機会は二

度とは訪れぬわけだから、もうせっかくだから、今までの己の40年に及ぶ本当にろくでもない人生の集大成、総決算として過去に散々迷惑をかけ通してきた方々や、

まったく無名のどこの馬の骨ともわからぬ新人の私にとっては一面識もなく赤の他人であるところの有名な方々にも是が非ともお越し願おうと、住所が調べられる範

囲内で、不躾ながらも、DM(案内ハガキ)を思い切って送ってみたのだけれども、その中には吉本隆明も含まれていて、それは、個展のテーマが「今までの私の40年の

決して他人に誇れぬ本当にろくでもない人生の中で出会い、そして確実に影響を受けてきた数々の言葉に絵を付ける」といったありがちといえばありがちな主旨であ

ったがゆえなのだが、案の定、吉本隆明が個展の会場に姿を見せることなどはなく、それから間もなくの2012年3月、思いがけず訃報を知ることとなるのであった。

私が吉本隆明の本を初めて読んだのは、おそらく20代半ば、フランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CM制作プロダクション(頭文字M)で働いていた

頃であったと記憶しているが、当初の私の吉本隆明のイメージとしては、尾崎豊の歌詞の元ネタの一つで、全共闘世代の人たちの精神的な後ろ盾存在、昔から暇さえ

あればしょっちゅう誰かとケンカ(論争)ばかりしていて、広告屋をチヤホヤと持ち上げるミーハーな人物といった印象であり、その頃、広告業界の片隅に身を置きな

がら、すでに広告という仕事に愛想を尽かしはじめていた私も、まずは手っ取り早く有名な『共同幻想論』『マス・イメージ論』あたりに手を伸ばし読んではみたも

のの、文章は読みづらく、書いてある内容もチンプンカンプンで、正直に言えば、ほとんど理解できなかったのだけれども、それらとほぼ同時期にたまたま手にした

村上龍だか大江健三郎だか忘れたがどちらかの文章の中で、広告屋をチヤホヤと持ち上げるミーハーな吉本隆明に当て擦るように「広告屋どもは自ら流行を作り出し

世の中心で自ら時代を動かしている気になっておるが、その流行とやらには悪しき影響も多々あって、それらは当然ながら自らのアホ家族(アホ嫁やクソ餓鬼)さらに

は愚かな自分自身にも確実に及んでいることもつゆ知らず、いい気になりやがって!(悪意を込めた意訳です)」みたいな主旨がチクチクと厭味ったらしく書かれてあ

るのを読み、当時まだ広告屋の端くれでウブな世間知らずだった私は、そのあまりに見事な嫌われっぷりに逆に清々しさすら覚えつつ、広告屋という職業とは、文学

藝術関係者からして見れば、まさに目の上のたんこぶ、いけ好かない勘違い野郎以外の何ものでもないのだという当たり前な事実を痛切に思い知らされたものだが、

日々率先して営利主義企業や拝金主義企業をはじめとする資本主義(物質主義的消費社会)の手先となって、大衆の欲望を無闇に煽り立て、広告という匿名の安全圏に

おいて、主体性の欠片もなく魂を売りまくり、ただ金のため他人のために他人の金で他人の表現をしているに過ぎぬのに、メディアに偉そうにアホ面を晒し薄っぺら

な虚栄心を安易に満たそうとする広告屋とは、たとえるならば、奴隷の鎖自慢、イタコの自分語り、おしゃべりな拡声器、でしゃばりな猿回し、ゴーストライターの

ネタばらし、アートかぶれのチンドン屋、ド派手な衣装で着飾る黒子、他人の褌で相撲を取る腹黒いデブ、本格派女優気取りのAV女優、指名欲しさに調子に乗り全世

界に向け「私は売春婦ですよ!」と顔出しアピールする風俗嬢、常日頃から嘘ばかりつき世間を欺いているがゆえいざという時まったく信用されないオオカミ少年、

「バカには見えない服ですよ」と王様(クライアント)を騙す悪徳仕立て屋または裸の王様そのもの、SF映画『ゼイリブ』に出てくる地球を乗っ取ろうとメディアを悪

用し大衆を洗脳する醜い宇宙人、休日の朝っぱらから近所迷惑も顧みず「料金は一切かかりません」などと嘘八百な騒音まき散らしながら嫌がらせのようにノロノロ

走る廃品回収トラックの運転手、悪魔祓いと称し客の弱みにつけ込みたんまり金をふんだくるインチキ祈祷師(ヤブ医者)、豚もおだてりゃ木に登る、キャンキャンと

喧しく吠え散らかさずに黙ってご主人様のケツ舐め回してろバター犬!(些か言葉が過ぎました、ごめんなさい)、いわば、本物の藝術の中に藝術ではない偽者が一匹

紛れ込んでしまっているかのような状態であり、かつて坂口安吾が『白痴』の中で看破したごとく「動く時間に乗遅れまいと/時代の流行だけを心得て/内容のない空

虚な自我を持つ/賤業中の賤業」に過ぎず、別に大したものを作っているわけでもないのに、企業や商品よりもさらに自分自身を目立たせようと無神経にも商品を踏み

倒し踏み潰し踏みにじり都合良く踏み台にした上で、私の作品です!などとしゃしゃり出てくるような奴らは、羞恥心が麻痺しておるか、正真正銘のバカか、そのど

ちらか以外には考えられず(すべての広告制作物は建前上、企業の理念や思想を表明したもの、つまり企業の発する言葉となっているはずなのに、広告屋どもが「あれ

は私が考えました!」などとドヤ顔で表に出てきてしまってはすべてが台無しになると想像もつかぬほど鈍感なのか?)、そんな厚顔無恥なインチキ野郎どもが一丁前

に文化人を気取り大手を振って歩けば、当然ながら、日々死物狂いの命懸けで、自らの名前を前面に出し、すべての責任を自らで背負い、それこそ身を削り自らの作

品を生み出しながら、本物の藝術を追求している本物の藝術家たちにとっては、傍ら痛く、ふざけんな!と胸糞が悪くなるのも、さもありなんといったところであろ

うか。その後、吉本隆明の評論にはまったく歯が立たなかった私は、ならば詩のほうはどうであろうかと試しに読んでみた『吉本隆明初期詩集』の中の「廃人の歌」

という一遍の詩にガツンとやられてしまったようで、いきなり後頭部を鈍器でぶん殴られたかのような衝撃を受けてしまって、爾来、吉本隆明の「廃人の歌」という

詩は、生まれてこのかた、ほぼ廃人同然、否、廃人一歩手前、二歩手前のようなろくでもない自堕落な人生を歩み続けてきた私にとっては、まさにテーマソング的な

存在となって、ことあるごとに読み返しては、その都度、散々勇気づけられてきたものであった。「ぼくのこころは板のうへで晩餐をとるのがむつかしい 夕ぐれ時

の街で ぼくの考へてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ ぼくの休暇はもう数刻でをはる ぼくはそれを考へてゐる 明日は不眠のまま労働に

でかける ぼくはぼくのこころがゐないあいだに 世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものたちは赦すものたちだ 神

はそんな者たちを愛撫する そして愛撫するものはひよつとすると神ばかりではない きみの女も雇主も 破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れる

にちがひない 幸せはそんなところにころがつてゐる たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか ぼくはいまもごうまんな廃人であるから ぼくの眼はぼくのこ

ころのなかにおちこみ そこで不眠をうつたえる 生活は苦しくなるばかりだが ぼくはまだとく名の背信者である ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍

らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ おうこの夕ぐれ時の街の風景は 無数の休暇でたてこんでゐる 街は喧噪と無関心によつてぼくの友で

ある 苦悩の広場はぼくがひとりで地ならしをして ちようどぼくがはいるにふさはしいビルデイングを建てよう 大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花

々 ぼくの愛した女たち お袂れだ ぼくの足どりはたしかで 銀行のうら路 よごれた運河のほとりを散策する ぼくは秩序の密室をしつてゐるのに 沈黙をまも

つてゐるのがゆいつのとりえである患者ださうだ ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい 生れてきたことが刑罰であるぼくの仲間で ぼくの好き

な奴は三人はゐる 刑罰は重いが どうやら不可抗の控訴をすすめるための 休暇はかせげる(引用)」残念ながら私の初個展に来てもらうことは叶わなかったけれど

も、吉本隆明の訃報を知ってしばらく経ったある日の夕方、たまたまその近辺に用事があった私は、かつて調べた住所を頼りにして、吉本隆明が住んでいた家を思い

切って訪ねてみることにしたのだった。JR駒込駅から東大赤門前へと続く本郷通り沿いには、あたかも青山辺りの大通りに面して競い合うようにオシャレなブティッ

クが建ち並ぶかのごとく寺院が密集し、都心にもかかわらず人通りもまばらで鄙びた陰鬱な風情をいまだ色濃く残しており、その一角を占める本駒込K寺の墓場に隣

接する路地のさらに奥まったところ、窓を開ければ一面に墓場が見渡せるという何とも洒落た立地の吉本隆明邸は、決して豪奢とは言えぬも、こじんまりとした庶民

的な佇まいの一戸建て住宅であり、玄関へと向かう細い通路の入口に掲げられた、ごく一般的な住宅よりも幾分大きめな表札には「吉本」という文字が堂々と書かれ

てあり、また、その表札付近には、泥棒よけか、ストーカーよけでもあろうか、人体の動きを即座に察知し自動で点灯するセンサーのようなものまで備え付けられて

あり、訪ねた時がちょうど日暮れたのちであったため、私の体の動きを自動センサーが即座に察知して、不意にパッと全身を照らされた私は、自身が泥棒でもあるか

のごとく一瞬ハッと驚くとともに、その自動センサーでカチッと点灯する反応が、あたかも吉本隆明から「こんばんわ、いらっしゃい」と歓迎を受けているかのよう

な奇妙な錯覚にも陥って、心の中で「こんばんわ、来ちゃいましたよ」と挨拶を返しながらニヤニヤとほくそ笑む私の怪しい姿は、端からみれば、否、どこからどう

見ても不審者以外の何者でもないのであった。そして、その日の訪問をきっかけにして、本駒込K寺の墓場の真横に建つ吉本隆明邸は、私の自転車お散歩コースにし

っかりと組み込まれるようになり、それからのちも、私は、暇さえあれば用もないのに何度も何度もしつこいくらい、まるでストーカーにでもなったかのごとく、そ

の一般の住宅よりも幾分大きめな「吉本」と書かれた表札の文字を確認することを目的として、せっせと吉本隆明邸へと通いはじめ、ほんの短い期間ではあったもの

の、私と吉本隆明との密かな交流がはじまることとなるのであった。私は、なるべく意識的に日暮れ時を狙って吉本隆明邸を訪れるのが常であったが、それはなぜか

と言えば、「廃人の歌」の中の一節「夕ぐれ時の街で ぼくの考へてゐることが何であるかを知るために 全世界は休止せよ」を心の片隅に強く意識し、全世界が休

止している間に、あの例の自動で点灯するセンサーを通じて吉本隆明との密かな会話を楽しむために他ならず、最初はごく短い挨拶を交わし合うだけだった私と吉本

隆明との会話は徐々に10分15分30分と延びて行き、やがては2時間近くにも及んでいくのであった。その間に我々二人が交わした会話のほとんどは他愛のないもの

からはじまり、いつも決まって最終的に「なぜ私の初個展に来てくれなかったのか?」と私が吉本隆明に対して詰問する流れへと帰結するのであった。その時の印象

的な会話を抜粋すれば大体以下の通りになるだろう。「個展、来てくれませんでしたね、意外と好評だったんですよ」「ああ、ごめん、行けなかったよ」「来てくれ

るはずないとわかりきってはいましたが、実際に来てくれないとがっかりしますね、正直かなり凹みましたよ」「ちょっと具合が悪くてね」「他にもたくさん有名人

にDM送ったんですけど、ほとんど来てくれませんでしたよ」「みんなそれぞれ忙しかったり、予定が合わなかったり、まったく興味なかったんだろうね」「アラーキ

ーにもDM送ったんですよ、そしたら、ある日、アラーキーみたいな人がギャラリーに入って来て、あっ、アラーキー来てくれたんだ!とかぬか喜びしてたら、ただの

アラーキーそっくりなイラストレーターの人で、思わずズッコケたんですけどね、吉本さんはそっくりさんすら送り込んでもくれなかったですよね、それくらいの配

慮は必要だったんじゃないでしょうか、和田誠さんなんて、DM送ってもないのにわざわざオープニング・パーティーに来てくれて、酒ガブガブ飲みまくって絵を褒め

てくれたんですよ、まあ、お世辞半分でしょうがね、あなたも少しは和田さんを見習ったらどうなんですか」「何バカなことを言ってんだい、だって、俺はあんたの

ことなんて全然知らないし、いきなりDM送りつけてきて、来てくれって言われても、知らない奴の個展なんて行くわけがないだろ、普通は、それに、和田誠さんは絵

を描く人じゃないか、俺と比べるのは少しばかし話の筋が違うだろよ」「でもですよ、今回は33歳で絵を描きはじめた私にとって生まれて初めての記念すべきメモリ

アルな個展だったんですよ、本当にすべてが初めての経験で、もう40歳(不惑)だというのに年甲斐もなくドキドキワクワク胸ときめかせ戸惑いまくっていたんです、

今まで40年に及ぶ本当にろくでもない廃人スレスレの人生を自堕落に生きてきた中で、他人に誇れるようなことなど何一つ成し遂げて来なかったこの私が、生まれて

初めての本気を見せたんです、これはものすごいことなんですよ、もう奇跡と呼んでしまっても差し障りないんですよ、もう二度と起らないかもしれないんですよ、

初めてっていうのは一生に一度しか訪れない貴重な季節なんです、一度処女を奪われてしまった純真な乙女は、もう処女ではなくなってしまうんですよ、徐々に薄汚

れていって、やがてはアバズレ、最悪はスレッカラシのヤリマンビッチに成り果ててしまうんです、だからこそ吉本さんには是が非とも来てもらって、まだ薄汚れて

はいないピュアな私を目に焼き付けて帰ってもらいたかったんですけどね、処女はお嫌いですか、ヤリマンビッチがお好みなんですか、むしろ吉本さんに私の処女を

捧げる気持ちで初個展を開催したと言っても過言でなく、他に誰一人来てくれなくたって、吉本さん一人に来てもらえさえすればよかったくらいの勢いだったんです

けどね、それなのに来てくれないなんて、それじゃ、あんまりじゃないですか、本当にがっかりです、何のために個展開いたのか意味わからないですよね、すべてが

徒労に終わったというか、まさに骨折り損のくたびれ儲けですよ、無駄骨ですよ、虚しさばかりが募って、『廃人の歌』でいうところの『ぼくはぼくのこころがゐな

いあいだに 世界のほうぼうで起ることがゆるせないのだ だから夜はほとんど眠らない 眠るものたちは赦すものたちだ』のごとく、眠ってる間に世界で起ること

や個展に来てくれなかったあなたのことを私は絶対に赦すことができず、夜もほとんど眠らず、あなたのことばかり憎々しく思っては、ため息ついたり枕をじっとり

濡らしているんですよ、なぜ来てくれなかったんですか、なぜなんですか、和田誠さんなんて、DM送ってもないのにオープニングパーティーにやって来て、酒ガブガ

ブ飲みまくって絵を褒めてくれたんですよ、それに引き換え、吉本さん、あなたときたら、ハッキリ言って見損いました」「処女がどうたらこうたらとか何を言って

るのかさっぱりわからないんだけどさ、何遍も言う通り、俺はあんたのことなんて知らないし、あんたは有名でも何でもないし、そんなどこの馬の骨かもわからぬ奴

の個展に、なんでこの俺がわざわざ出向いて行かなきゃならないんだって話だよ、逆になんであんたの個展に行かなきゃならないのか、その理由をじっくり問い詰め

たいところだけどな、生まれて初めての個展だかメモリアルだか何だか知らないけどさ、そんなのはそっちの事情であって、俺にはまったく関係のない話なんだよ、

それに俺にだけ来て欲しい、俺のために個展を開いたとか言ってるくせに、聞くところによりゃ、アラーキーにもDM送ったっていうじゃないか、辻褄が合ってないん

だよ、誰にでも八方美人で耳障りのいいことばかり言っていい顔して、現に和田誠さんがDM送ってもないのにオープニングパーティーにやって来て、酒ガブガブ飲み

まくって絵をお世辞半分に褒めてくれたって大喜びしてる始末じゃないか、何を寝ぼけたこと言ってんだい、あんぽんたん」「そっちこそ、何を寝ぼけたこと言って

るんですか、あなたこそ、あんぽんたんですよ、あんぽんたん」「いや、あんたこそ、あんぽんたんだよ、あんぽんたん」「いや、あなたこそ、あんぽんたんですっ

て、あんぽんたん、あんぽんたん」「大人げがないねえ、まったく、どこからどう見たって、あんたこそが、あんぽんたんなんだよ、あんぽんたん、あんぽんたん」

「素直じゃありませんねえ、まったく、あなたこそが、あんぽんたんに決まってるんですよ、あんぽんたん、あんぽんたん、あんぽんたん」「いやいや、寝言は寝て

から言いなさいって、あんたこそが、あんぽんたんに決まってるんだよ、あんぽんたん大学、あんぽんたん学部、あんぽんたん学科を主席で卒業し大学院まで進み、

あんぽんたん博士号まで取得して、その後は国際あんぽんたん大学に留学までした、世界中の誰もが羨むほどの、あんぽんたんの中のあんぽんたんなんだよ、あんた

は、あんぽんたん、あんぽんたん、あんぽんたん」「いやいや、あなたこそ、寝言は寝てから言って下さいってば、どこからどう見ても、あなたこそが、あんぽんた

んでしょう、何しろ10年連続あんぽんたん・オブ・ザ・イヤー受賞の由緒正しき血統書付き筋金入りのあんぽんたんなんですからね、この、あんぽんたん、あんぽん

たん、あんぽんたん、あんぽんたん、関係なくはないですよ、大いに関係がありますとも、こちとら、なんつったって、あなたの書いた『廃人の歌』に頼まれてもい

ないのにわざわざ絵を付けて展示しているわけですからね、それに、私はですね、若い頃に『廃人の歌』を読んでガツンとやられた口でしてね、それからというもの

『廃人の歌』という詩は、いわゆる私にとってのテーマソング的な存在でもあるんですから、関係なくはないでしょうが、生まれてきたことが刑罰であるこの私が、

本当にろくでもない廃人スレスレの人生を40年もだらしなく生きてきた中で『廃人の歌』という詩にどれだけ救われてきたことか、私が『廃人の歌』という詩をどれ

だけ愛しているのか、吉本さん、あなたは全然理解してないんですよ、大昔からあなたに向って秋波を送り続けているんです、もしもピアノが弾けたなら、もしもギ

ターが弾けたなら、『廃人の歌』に即興で曲を付け、夜毎あなたに向って弾き語っているくらいに、私の歌があなたの耳には届いていないんですか、少しばかり鈍感

過ぎやしませんか、耳クソが溜まり過ぎて聴覚が衰えているのではありませんか、もしかして、気づいているのに気づいてない振りして自分を誤摩化し続けてきたの

ではないですか」「そんな歌は俺の耳にはまったく届いてないし、あんたもわからない人だねえ、だからさ、それはそっちのあんたのほうの一方的かつ個人的な感情

であってだな、俺にはまったく関係がないんだよ、『廃人の歌』が好きだと言ってくれるのはもちろん俺も少しくらいは嬉しいけど、そんな奴は他にもごまんといる

わけで、それに『廃人の歌』はあんたのためだけに書いたわけじゃないからね、勘違いしないでもらいたいね」「それはもちろんおっしゃる通りなんですけどね、で

もDMにも『廃人の歌』にわざわざ絵を付けました!!と一言書き添えておいたんですよ、小さくて読めなかったんですか、もっと大きく書けば良かったっていうんで

すか、ご大層にも文末には『!!』(ビックリマーク)を2本も付けて『自信満々、乞うご期待!!』てな感じでさりげなく自信をのぞかせておいたんですよ、『!!』

(ビックリマーク)を1本ではなく2本ですよ、普通は無難に1本ですよね、2本ということはですね、つまり『相当の自信がありますよ!!』という意味だったんですけ

どね、もちろん、私も当初は常識的に考えて、さすがに1本で十分だろうと謙虚に構えていたものですがね、ペンを片手に固まったまま小1時間ほど悩み続けた末に、

やはり33歳で絵を描きはじめた私自身にとっては初個展であり、40歳(不惑)を記念したメモリアルな個展でもあるわけだから、ここは是が非とも2本付けずにはおら

れぬだろう、それが40男の意地ってもんだろうよと思い切って2本付けてみたんです、でも、やはり2本だと、どこの馬の骨ともわからぬ新人の初個展にしては些か

傲岸不遜過ぎやしないかと反省をし、慌てて修正液でチョロっと消して再び1本に戻したわけなんです、でも、その後も私の頭の片隅にはビックリマークの本数のこ

とが澱のように残り続け、こんなことでグダグダ悩んでどうする、もう済んだことじゃないかと自分に言い聞かせるようにダラダラと酒を飲みながら、やはり33歳で

絵を描きはじめた私自身にとっては初個展であり、40歳(不惑)を記念したメモリアルな個展でもあるわけだしと酒の勢いも借りて思わずなんと一気に3本まで増やし

てしまったんです、でも、やはり、どこの馬の骨ともわからぬ新人の初個展にしては3本はいくら何でもやり過ぎであり、あなたが許しても世間が決して許しはしな

いだろう、末代まで、あいつの先祖は初個展のDMのコメントの文末にビックリマークをなんと驚くことに3本も付けた傲岸不遜な奴だったと後ろ指をさされ続けるに

違いないと大いに反省をし、慌てて修正液でチョロっと消して再び1本に戻し寝床に入ったんですよ、でも、ビックリマークの本数のことが気になって気になって仕

方がなくて、とてもじゃないが眠ることなどはできず、結局何本にしたらいいんだろうか、1本か2本か3本かと延々悩みながら一睡もできずにとうとう朝を迎えてし

まい、二日酔いと寝不足の頭で、もうどうにでもなれや、クソッタレ人生!と破れかぶれに再び3本に増やしてしまったんです、でも、DMの発送手続きのため営業開

始直後の近所の郵便局に行き窓口のおばさんにDMの束を手渡す際、さすがに3本だとやり過ぎですかね?と試しに尋ねてみたんですよ、そしたら窓口のおばさんはポ

カーンと鳩が豆鉄砲食らったような顔していたので、やはり33歳で絵を描きはじめた私自身にとっては初個展であり、40歳(不惑)を記念したメモリアルな個展でもあ

るとはいえ、さすがに3本はやり過ぎなんだなと痛く反省をし、たとえ3本が2本になったところで、私のこの並々ならぬ自信満々な意気込みは決して衰えを知らず、

きっとあなたにならば伝わるだろうと腹を括り、その場で修正液を借り断腸の思いでチョロっと1本消して最終的に2本に決めたんです、つまり、そういった狂おしい

までの煩悶の末の清水の舞台から飛び降りるかのような決死の覚悟の上での『!!』(ビックリマーク)2本というわけなんです、決して生半可な覚悟ではないんです、

たしかに、何気なく見れば、実際に付いてるのは2本にしか見えないかもしれませんよ、でも、蛍光灯の光に透かしてみてご覧なさいな、うっすらと3本目が浮んでく

るでしょうが、つまり、実質的には3本なんですよ、今は亡き3本目の痛切な叫び声があなたにも聞こえてくるでしょうに、昔、ジャガーだかチーターだかピーターだ

かピューマだかコヨーテだか女性演歌歌手も歌っていたじゃないですか、幸せは歩いてこないんだよ、だから、歩いてゆかねばならないんだよ、ワン・ツー、ワン・

ツー、腕を振って、足をあげて、ワン・ツー、ワン・ツー、休んでんじゃねえぞ、コラ、ワン・ツー、ワン・ツー、さぼってんじゃねえぞ、ソレ、ワン・ツー、ワン

・ツーってね、だから、私も幸せに向って、ワン・ツー、ワン・ツー、最初は1本、次に2本、再び1本、思い切って3本、再び1本、破れかぶれに3本、1本消して、

結局2本、実質3本てな話なわけですよ、それなのに完全無視ですか、失礼しちゃいますよね、私の幸せを何だと思ってるんですか、私の幸せはどこへ行ってしまった

んですか、やはり2本ではなく、ハッキリと3本付けとけば良かったっていうんですか、それとも4本ですか、5本ですか、6本ですか、7本ですか、8本ですか、9本で

すか、10本ですか、100本ですか、1000本ですか、針千本ですか、何本付ければあなたの気が済むんですか、それとも、何ですか、すっかり耄碌して細かい文字が

まったく読めなくなっちまったっていうんですか、同じく耄碌してるであろう和田誠さんなんて、ビックリマーク1本も付けてないのに、いや、DMすら送ってもない

のに、頼んでもないのに、わざわざオープニングパーティーにやって来て、酒ガブガブ飲みまくって私の絵を褒めてくれたんですよ、もちろん、それはお世辞半分の

社交辞令だったんだと後で気づきましたがね」「だから、何遍も言うけどさ、どこの誰だかわからない赤の他人から突然届いたDMなんて、ちゃんと読むわけがないじ

ゃないか、文字が小さいとか大きいとかの問題じゃないんだよ、『!!』(ビックリマーク)を付ける付けないとか1本2本3本とか本数の問題でもないんだよ、あんた

の幸せなんて俺には一切関係がないんだよ、和田誠さんがDM送ってもないのに、わざわざオープニングパーティーにやって来て、酒ガブガブ飲みまくって、あんたの

絵をお世辞半分に褒めてくれたことが何だって言うんだい、それとも、何かい、俺が『廃人の歌』にわざわざ絵を付けてくれってあんたに頼んだとでも言うのかい、

違うだろが、あんたが頼まれもしないのに勝手に自主的に『廃人の歌』に絵を付けただけじゃないか、何だか恩着せがましくて嫌になっちまうよな、それに最初にも

言ったように、俺は体の具合が悪かったんだってばさ、仮病でも何でもないんだよ、その証拠に俺はあのあとすぐに死んじまったわけなんだからさ」「もちろん、お

体の加減が悪かったのは仕方のないことですし、お年寄りになれば足腰も弱って普通に歩くのさえ難儀を覚えるのは当然ですし、生憎死んじゃったのだって、人間は

いつか必ず死ぬ定めですけれども、でも、でもですよ、昔、西伊豆の海で溺れて死にかけた時も、ちゃんと生き返って、その後は何事もなかったかのようにピンピン

元気にしてたじゃないですか、あの時の不屈の精神を思い出して、死ぬ前に何としても、それこそ這いつくばってでも、私の絵を見に来てもらって、それを冥途の土

産にあの世へ旅立ってもらいたかったというのが私の偽らざる本音ですけどね、私は欲張り過ぎていますかね、和田誠さんなんて、DM送ってないのに、わざわざオー

プニングパーティーにやって来て、酒ガブガブ飲みまくって、私の絵をお世辞半分に褒めてくれたんですからね、それに、たとえ体の調子が悪くて死にかけていたと

いえどもですよ、看護師の付き添いで点滴してギャラリーに救急車で横付けしてでも来るという方法もあったと思うんですよ、それくらいの誠意は必要だったんじゃ

ないかと私は思うわけですよ、何せ私の40歳(不惑)を記念した生まれて初めてのメモリアルで処女破りな個展ですし、頼まれもしないのに『廃人の歌』にわざわざ絵

も付けて展示していることですし、私のために書いてくれたわけではないにせよ、あなたの書いた『廃人の歌』という詩は私のテーマソング的な存在でもあるわけで

すし、吉本さんには本当に心の底から個展に来てもらって、死ぬ前に私の絵をじっくりと見てもらいたかったですし、個展の期間中も、明日は来てくれるかな、明日

こそ来てくれるよな、明日こそ来るに違いないよな、明日こそ来るに決まってらあだよな、明日は最終日だし、明日はさすがに来ないとまずいんじゃないかな、最後

の客としてギリギリ飛び込みセーフの小粋な演出で私をアッと驚かせてくれるのかなって、夜もなかなか寝付けないくらい、それくらいずっとずっと首をキリンさん

のように長く長くして待っていたんですよ、結局来てくれませんでしたけどね、ほら、今もその後遺症で首が少し長く見えるでしょ、元の長さに戻るまで4~5年くら

いかかるだろうって医者にも言われてるんですよ、責任とってくれるんですか、それから、どさくさ紛れに欲を言わせてもらえばですがね、もうこの際だから私の願

望を洗いざらいすべて吐き出してスッキリしてしまえばですけどね、吉本さんに絵をじっくり見てもらって、散々褒めちぎってもらって、『廃人の歌』にわざわざ付

けた絵も『洗面所の横の壁に似合いそうだな』とか何とか言って衝動的にポケットマネー10万円ポンと気前よく支払って購入してもらって、『何なら、俺の遺産を半

分あんたに相続させてやってもいいくらいだよ、カミさんや娘たちとも相談しないといけないけどな』とか何とか冗談まじりに付け加えて、さらに、クローズ時間を

過ぎた貸し切り状態のギャラリーでチェット・ベイカーの音楽に合わせ一緒にダンスを踊ってもらって、そのあと、帰り際にギャラリー出入口で突然振り返り私に向

って『これだけギャラリーの壁いっぱいに素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはも

う廃人なんかじゃないよ!』って私の瞳をじっと見つめて、ずっとそらさず、しみじみと心を込めて言って欲しかったんですけどね」「しかし、あんたも相当無茶苦

茶なことを厚かましくもヌケヌケと言う人だよなあ、まさに『廃人の歌』の中の『ごうまんな廃人』って言葉がピッタリお誂え向きの傲慢さだよ、もうこっちは呆れ

ちまうほかねえや、なんでそこまでしてこの俺が見ず知らずの赤の他人であるあんたの絵を決死の覚悟で見に行かなくちゃならねえんだよ、おかしいだろ、具合悪く

て今にも死にかけてたっていうのにさ、いやいや、実際死んじまったんだぞ、俺はさ、本当にしつこいんだよ、あんたは、しつこい、しつこい、しつこい、何度塩か

けてもなかなかくたばらないナメクジみてえにじっとりヌメっと、しつこい、しつこい、しつこい、『夕ぐれ時の街で ぼくの考へてゐることが何であるかを知るた

めに 全世界は休止せよ』を意識してだかどうかは知らねえけどさ、毎日のように日暮れ時を狙い澄まして家に押し掛けて来やがって、外灯の自動センサーをカチカ

チカチカチ点けたり消したり点けたり消したり、うるさくやかましくさせやがって、こっちは落ち着く暇もねえんだよ、そういうのを世間ではストーカーって呼ぶん

じゃねえのかい、みんながそろそろ夕餉の支度をはじめる頃合に近所迷惑も顧みず、いつまでもダラダラダラダラと居座り続けては、チンピラヤクザの押し売りみて

えにネチネチネチネチと手前勝手なわけのわからん因縁ふっかけてきやがって、なぜ個展に来なかった、アラーキーはそっくりさん寄越した、和田誠さんはDM送って

もないのにオープニングパーティーにやって来て、酒ガブガブ飲みまくってお世辞半分に絵を褒めてくれただの、ビックリマーク何本付けた何本付けなかっただの、

夜も眠れねえだの、首がキリンさんみたいに伸びちまった責任取れだの、絵買えだの、遺産半分相続させろだのと、次から次とよくもまあ、そのうちケツの毛まで毟

られて、骨までしゃぶられそうな勢いだわな、まったく油断も隙もあったもんじゃねえや、あんたの頭はもうすでにちょっとどころでなく相当イカれちまってるよう

だから、手遅れになる前に脳病院で診てもらったほうが身のためだぜ、そんでもって『ぼくは秩序の密室をしつてゐるのに 沈黙をまもつてゐるのがゆいつのとりえ

である患者ださうだ』のごとく、あんたも少しは沈黙を守ったらどうなんだい、いい加減にしねえと俺も本気で怒っちまうよ」「つまり、それは『廃人の歌』でいう

ところの『ようするにぼくをおそれるものは ぼくから去るがいい』って意味ですか、まあまあ、そう熱くならないで落ち着いて下さいってば、昔から暇さえあれば

誰かにケンカ売りまくってばかりいましたもんね、久しぶりに武闘派の血が騒いだんじゃないんですか、まあ、とにかく、私の話の続きを最後まで聞いて下さいな、

それからですね、ギャラリーのBGMにはチェット・ベイカーの『Let's Get Lost』をうっすらとかけて待ってたんですけどね、来てくれたタイミングで音量を少しず

つ上げていって、あなたに『なんでBGMはチェット・ベイカーなの?』って聞かれた際には、私はこう答えようと準備していたんですよ、『前々からずっと思ってい

たんですけど、吉本さんとチェット・ベイカーはそっくりですよね、誰かに言われたことありませんか?』ってね」「チェット・ベイカーってジャズのラッパの人か

い、そんなこと今まで一遍も言われたことないし、全然似てないよ」「いやいや、いやいや、似てますって、そっくりですって、おすぎとピーコくらいそっくりです

って、もしかして、実は生き別れの双子の兄弟だったりしないんですか」「そんなわけないだろ、バカも休み休み言いなさいって」「いや、似てると思うけどなあ、

あの世でチェット・ベイカーと是非会ってみて下さいよ、あっ、おすぎとピーコみたいに俺たちそっくりだ!って思いますから、きっと」「バカ言ってらあ、いやは

や、しかし、何だな、久しぶりにこうして誰かと論争していい感じに血が滾ってきたところなんだけど、ごめん、そろそろ、俺ちょっと遠いところへ行かなきゃなら

ないんだよ、あんたとこうしてくだらない論争をいつまでもダラダラと続けていたいのは山々なんだけど、そういうわけにもいかないんだわ」「遠いところって、一

体どこへ行くんですか、刑務所にでも入るんですか、海外にでも行くんですか、それとも実家にでも帰るんですか、ここはあなたの家でしょうが」「ここは確かに俺

の家だったんだけど、いつまでもここにこうしているわけにもいかないんだよ、あんたもわかるだろ」「『廃人の歌』でいうところの『ぼくの休暇はもう数刻でをは

る ぼくはそれを考へてゐる』ってな感じですか、もしくは『大工と大工の子の神話はいらない 不毛の国の花々 ぼくの愛した女たち お袂れだ』ってな感じです

かね、そうか、行っちゃうんですね、せっかく仲良くなれたと思ったのに、残念ですね、悪人正機の話とか、オウムの話とか、コム・デ・ギャルソン事件の話とか、

海で溺れて死にかけた時の話とか、なぜよりによって娘に『ばなな』なんてヘンテコな名前を付けようと思いついたのかとか、糸井重里のこと本当はどう思っていた

のかとか、他にもいっぱい話がしたかったです、もっと早くにここを訪れるべきでしたよ」「俺もあんたともっと真面目な話がしたかったんだけどさ、いかんせん、

あんたは『なんで個展に来なかった?』の一点張りで俺を責めてばっかりだったもんな、ほとんど拷問だよ、さすがに嫌になっちまうだろよ」「すみません、ついつ

い意固地になってしまって、でもそれくらい、本当に心の底から吉本さんには是非とも個展に来ていただきたかったという証左なんですけどね、じゃあ、最後に一つ

だけ頼みがあるんですけど、聞いてもらえますかね」「何だい、頼みって」「さっき言ったあの言葉を直接生で聞きたいんですけど」「何だい、さっきの言葉って」

「だから、あれです、あれ、『あんたはもう廃人なんかじゃないよ!』って言葉ですよ」「ああ、あれね、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!これでいいのかい」

「あの、ええと、すいません、『あんたはもう廃人なんかじゃないよ!』の前に『これだけギャラリーの壁いっぱいに素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだか

ら、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ』をちゃんと付けて下さい、『あんたはもう廃人なんかじゃないよ!』だけだと、何が何だかさっぱり

わけがわからないじゃないですか、いいですか、ちゃんとセリフ覚えられましたね、私が合図を出しますから、そのタイミングに合わせてセリフを言いはじめて下さ

いね、少し緊張してますか、1回深呼吸してみますかね、吸って、吐いて、リラックスして、自然な感じで、それじゃあ、行きますよ、よーい、スタート!」「これ

だけギャラリーの壁いっぱいに素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なん

かじゃないよ!」「ハイ、カット!うーん、何だろう、この大いなる失望感は、コレじゃない感は、まるでデリヘルのサイトの写真がとても可愛くタイプだったから

試しに呼んでみたはいいけれど、ホテルのチャイムが鳴り期待に胸と股間を膨らませ、いざドアを開けてみれば、写真ほど可愛くなく微妙な感じの貧相な女が立って

いた時みたいな、もしかして部屋間違えてませんか?と口を滑らしかけるも、まあせっかく呼んだんだし、雰囲気ぶち壊すのも野暮だし、ここはひとつ小粋な対応で

切り抜けようと、可愛い子でよかった、写真と違ったらどうしようか心配してたんだよね、心にもないお世辞を言ってみるも、女は噛んでたガムを灰皿にペッと吐き

出して、サクッとはじめちゃいますか、時間もったいないんで、と情緒もホスタビリティの欠片もなく、実際サービスも全然よくなくて正直がっかりみたいな、何だ

か想像していたのとは随分違うんですよね、もしくは、小鳥のさえずりとともに清々しく目覚めた休日の朝、煎れ立ての珈琲を3杯飲み干したタイミングで心地良い

便意を催し便所に駆け込んでみたはいいけれど、屁しか出なかった時みたいな、何度踏んばってみたところで結局屁しか出てこないみたいな、あの思わせぶりな便意

は一体何だったんだよみたいな、全然スカッとせず正直がっかりみたいな、何だか期待していたのとは随分違うんですよね、突然こんなこと言われてすぐに対応でき

ないのは、もう結構なお歳を召されていて頭の回転もスムーズにいかず仕方ないとは思うんですけど、それにしてもですよ、何だか感情が全然こもってないんですよ

ね、聞いてるこちらは何だか嫌々言わされてる感じがしちゃうんですよ、まるでTV-CMの中で新人三流大根役者かAKBだか何KBだか芋洗坂だかの新人アイドル風情

が言う薄ら寒いインチキくさいセリフのようにも聞こえてきてしまって、ちっとも心を動かされないんですよ、イライラしてしまうんですよ、そんな風に嫌々言わさ

れてる感が思わず出てしまうくらい、あなたが本当に言うのが嫌で嫌でたまらないのだとしたら、別に無理して言ってもらわなくても結構ですからね、もしも本当に

言いたくないなら言わないほうがマシですし、嫌々言わされてるのを聞いても私はまったく嬉しいとは思いませんからね、それとも何ですか、本当にそう思ってはい

るけど、『廃人の歌』でいうところの『ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人であるさうだ』のごとく、本当

のこと、真実を口にしてしまうと全世界を凍らせてしまって廃人扱いされてしまう恐れがあって、それだとあなたも困るから、本当は思ってもいないような嫌々言わ

されている振りをわざと演じているだけに過ぎないんですか、この『これだけギャラリーの壁いっぱいに素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したも

んだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!』というあなたのセリフはですね、私が頭の中で勝手に想像した、私があな

たからこう言ってもらえたらとっても嬉しいのになあという願望であり、つまり単なる妄想に過ぎないのですけど、あなたが本当にそう思っているかどうか正直私に

はわかりませんし、実際確認するすべもありませんが、私があなたに是非ともそう言ってもらいたいと強く願っているということだけは紛れもない真実なんですよ、

ですので、もしもあなたが本当にそう思ってないのだとしたら、別に無理に言わなくても結構なんですが、少しでもあなたが心の片隅でそう思っているのでしたら、

嘘でもいいから、せめてもう少しだけ感情込めて何とかなりませんかね」「何だかあんたの言ってることが俺には難し過ぎてまだ完全には理解できてないんだけど、

そんなこと言われたってさ、俺は実際にギャラリーに行ってあんたの絵を見たわけじゃないし、実際に無理やり言わされてるだけだし、どうにも仕様がないじゃない

か」「ですから、たとえ無理やり言わされてるとしてもですよ、もう少し本気度っていうんですかね、それを見せてもらいたいところなんですがね、幼稚園児の初め

てのお遊戯会での演技にだって、子沢山大家族のお父さんの1人だけ血の繋がりのまったくない娘の結婚披露宴でのスピーチにだって、定年退職間近のうだつの上が

らぬ万年教頭が風邪でお休みの校長の代理でする朝礼の挨拶にだって、若気の至りで出来ちゃった結婚し仕方なく連れ添ってきた倦怠期の熟年夫婦の離婚調停の会話

にだって、最近お茶引き気味でそろそろ潮時かしらとまったく覇気のない風俗嬢がお客にさっさとイってもらおうと無理やりあげる嘘くさい喘ぎ声にだって、キャバ

クラのヘルプで付いたブスな嬢との無意味な会話にだって、もう少しは気持ちがこもってますけどね、何しろ、他の誰のものでもないあなた自身のかけがえのないセ

リフなんですからね、自分の言葉にはきちんと責任をもって発言してもらわないといけませんよ、さもないと、あなた自身の信用問題にもかかわってきてしまいます

からね、それほど難しいことを要求してるわけでもないんですから、もう少しだけ何とか頑張ってチャレンジしてみてもらえませんかね、それじゃ、もう1回行きま

すよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱいに素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描き

さんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!!」「ハイ、カット!うーん、適度に感情がこもってきて、あなたが本当にそう思っているかどうか正直私にはわ

かりませんし、実際確認するすべもありませんが、少なくとも嫌々言わされてる感はほとんどなくなってきたんですけど、ただし一点だけ、最後の決めゼリフ『あん

たはもう廃人なんかじゃないよ!』の文末には『!』(ビックリマーク)が1本付いてるイメージなんですよ、私としてはね、でも、今さっきあなたが言ったセリフには

『!!』(ビックリマーク)が2本付いてしまってるんですよね、2本付けたくなる気持ちもわからなくはないんですよ、何しろ最後の重要な決めゼリフですもんね、バ

ッチリ決めていいとこ見せてやれって思わず気合い入れ過ぎて空回りしちゃったりね、人間ですもんね、知らず知らずのうち大見得を切ってしまったりしますよね、

『水戸黄門』の『この紋所が目に入らぬか!』とか、シェークスピア『ハムレット』の『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ!』とか、尾崎紅葉『金色夜叉』貫

一の『来年の今月今夜のこの月を僕の涙で曇らせてみせる!』とか、アニメ『美少女戦士セーラームーン』の『月にかわって、おしおきよ!!』とか、映画『鬼龍院

花子の生涯』の夏目雅子『なめたらいかんぜよ!!』とか、某会計ソフトCMの白塗りのバケモノの『勘定奉行におまかせあれい!!』とか、滅茶滅茶気合い入ってま

すもんね、セリフ言いながらウンコ漏らしちゃってるんじゃないかってこっちが心配になるくらいにみんな気合い入ってますもんね、決して表沙汰になることはあり

ませんけど実際ウンコ漏らしてる人たちも結構いると思いますよ、慣れてくると声を聞いただけでウンコ漏らしてるか漏らしてないか大体判別できるようになってく

るんですよ、ウンコ臭が画面からほんのりと漂ってくるといいましょうか、私みたいに年季の入ったベテランウンコ鑑定士の嗅覚を決して侮ってはいけませんよ、私

の長年の勘から言うと『!!』(ビックリマーク)2本だと7割方漏らしてますね、セーラームーンと夏目雅子と勘定奉行の白塗りのバケモノは確実に漏らしてますね、

賭けてもいいですよ、あなたもすでにウンコ漏らしてたりしてね、まさかね、さすがにいい歳した大人がウンコ漏らした状態であの世へ旅立つのは何とも心許ないし

気持ちが悪いでしょう、三途の川を渡るの拒否されて、この世に強制送還されてしまうかもしれませんよね、ともかく、今回あなたに言ってもらうセリフの中では、

やはり『!!』(ビックリマーク)2本だと些かやり過ぎといいいますか、感情を込め過ぎて、嘘くさくて、わざとらしいといいますか、大袈裟過ぎて、『JAROってな

んじゃろ?』のJAROに通報されちゃうレベルのギリギリで、ウンコ漏らすかどうかの瀬戸際なんですよね、しかも、セリフの最後に付いてる『!!』(ビックリマー

ク)に関して言えば、さすがに後で修正液を使ってチョロっと消すというわけにもいかないんですよ、たしか、エリック・ドルフィーも遺作アルバム『Last Date』の

最後に言ってましたっけね、一度出した音はもう二度と捕まえることはできないんだよって意味だったと思いますが、エリック・ドルフィーはイカツイ顔して案外可

愛らしい声で最後の最後にいいこと言ってるなあって聴く度にしみじみと思ってますけどね、つまり、一度声に出して放ってしまったセリフはもう取り返しがつかな

いということなんですよ、まあ、ビックリマークを何本付ければいいのかは本当に頭を悩ませる難しい問題ですけどね、そう考えてみると、話は戻りますが、あなた

に送ったDMに『廃人の歌』にわざわざ絵を付けました!!と一言書き添えた際の『!!』(ビックリマーク)も思わず気合い入れ過ぎて私は2本付けましたが、無難に

1本にしておくべきだったのかなあとか今振り返って私も猛反省する所存ではあるのですがね、ともかく、本当に細かくて面倒くさい奴だなあと苦虫を噛み潰したよ

うな顔をしておられることが容易に想像できますが、ここは一つ素直に私の指示に従ってもらって『!』(ビックリマーク)が1本付いてるイメージでお願いしたいとこ

ろなんですがね、いいですか、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱいに絵を飾れるくらい描ける力があるんだか

ら、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!おしい、おしいなあ、本当におしいんだけ

どなあ、今のテイクすごく良かったんですよ、さっきの私の指示通り『!』(ビックリマーク)も1本になっていて、感情を込め過ぎず、嘘くさくもなく、自然な感じで

すごく良かったんですがね、誠に残念なことには『素敵な』が抜けちゃってるんですよ、『これだけギャラリーの壁いっぱいに素敵な絵を飾れるくらい描ける力があ

るんだから』の『素敵な』が抜けていましたよね、ただの『絵』じゃなくて『素敵な絵』ですからね、まさかとは思いますが、悪質な嫌がらせで、わざと抜かしたわ

けじゃないですよね、ただの『絵』と『素敵な絵』とではスッポンと月くらいに違ってきてしまいますからね、これは、ただの『奥さん』と『素敵な奥さん』や、た

だの『フレンチレストラン』と『素敵なフレンチレストラン』がまったくの別物であるのと一緒です、ただの『絵』なんてもんは、紙と絵の具さえありゃ、その辺を

歩いてるおっさんやおばちゃん、幼稚園児、赤ん坊、それこそ、動物園のゾウさんやお猿さんにだって描けたりするわけですよ、さすがにキリンさんには描けません

けどね、また、ちゃんとした紙と絵の具がなくたって、その辺のガキンチョが道路や塀や教科書にイタズラ書きしたり、おねしょで布団に地図を描いたり、健全な若

い男の子が眠れぬ夜にマスターベーションしながら頭の中で好きな女の子の裸を思い描いたり、その逆も然りだったり、スタバの気取った姉ちゃんがカフェラテの泡

に頼んでもないのに自己満足で余計な絵を描いてくれちゃったり、彼女が手作り弁当のごはんにデンブでハートマーク描いてくれたはいいけれど他人に見られるのが

恥ずかしくて隠して食べたり、お母さんが電話中チラシの裏に無意識のうちに無我夢中で意味不明なアウトサイダーアートを描いていたり、どこぞの変態が便所の壁

に女性器マークを描き殴ったり、イキがったチンピラが背中にモンモン入れようとしてあまりの痛さに音を上げ途中でやめたり、他にも誰が何の目的でどのような方

法で描いたのか一切謎であるナスカの地上絵やミステリーサークルがあったり、現在では、パソコンソフトを使用して描くのが主流であったり、はたまた、コンピュ

ーター自身(AI)が描いたりもします、でも、それは、ただ単に物理的に『絵』を描いているに過ぎないのですよ、一方の『素敵な絵』はというと、これがなかなか描

こうと思って描けるような代物ではありません、何せ『素敵な絵』なわけですから、やはり『素敵』なわけです、ちゃんと魂がこもってるんです、魂は目に見えず、

心で感じるものであり、いくら魂込めてるぜ!なんて気張って描いてみても、実際まったく魂がこもってなかったりするわけです、わかりやすく説明すると、例えば

人間の絵を描くとします、頭と胴体を描き、手足を付け、目鼻耳口眉毛髪の毛を加えてやれば、何となく人間のようなものには見えてきます、でも、それだけでは、

まだ、ただ単に物理的に人間の姿形をした物体の絵を描いたに過ぎず、さらに、そこに魂を込めてやらなければ、人間の絵を描いたことにならないのです、つまり、

魂を込め、命を吹き込み、血を通わせてやらなければ、ただ単に物理的にお人形さんや死体の絵を描いたに過ぎないというわけです、どうすれば絵に魂を込められる

のか、口で説明するのは非常に難しく、私の個人的な感覚を述べるならば、描いてる本人がどれくらいその絵を描きたかったのかという思いの熱量(パッション)に関

係しているのではないかと何となく勘ぐってはいるのですが、よくポルノ作家が執筆中に勃起しているという話を聞くじゃないですか、実際に勃起してるかどうかわ

かりませんが、それくらいの情熱が必要ということなんです、とはいえ、いくら情熱をもって細密精緻な技術で上手に描いたとしても確実に魂が込められるという保

証はどこにもなく、また、何も考えずに鼻ほじりながら適当に描いた絵に偶然魂が込められてしまうこともあったりと、煎じ詰めれば非常に複雑な話になってきたり

もするわけですけれど、たしか大昔に観たティム・バートン監督の『エド・ウッド』というアメリカの売れないB級映画監督を題材にした映画の中で、オーソン・ウ

ェルズ役(キューブリック監督『フルメタル・ジャケット』で発狂し自殺するデブを演じた俳優)が、映画会社に文句ばかり言われ自暴自棄に陥り苦悩するエド・ウッ

ド役(ジョニー・デップ)を勇気づけるために語る『夢のためなら戦え。他人の夢を撮ってどうする?』っていうなかなかイカしたセリフがあって、それは、つまり、

他人のために他人の顔色を窺って映画を撮るのではなく、本当に自分が撮りたいと心の底から願う映画を撮りなさい、そのためなら自分の人生を賭けて戦う価値だっ

てあるんだぞって意味だと思うんですが、まさにその通りで、藝術の世界においては、自分自身が本当に表現したいことを表現しているのかどうか?という主体性の

有無が非常に重要になってきて、他人に褒められたい、いっぱいお金を稼ぎたい、ただ有名になって世間からチヤホヤされたいだとか、流行ってるからだとか、依頼

されて断り切れずに仕方なくだとか、決して全否定はしませんが、何が何でも自分はこの作品を作りたいんだ!人生や命を賭けてでも、たとえ一銭にならなくとも作

らなければならないんだ!といった気概をまったく感じない、邪な動機から作られる作品に魂など込められるはずもなく、所詮その程度の作品にしかなり得ないとい

うことなのだと思います、そして、私が広告という仕事に対し長年にわたり不信感不快感および嫌悪感を抱き続ける本質的な理由はまさにこの主体性の欠如にあるわ

けで、広告屋たちは映画『エド・ウッド』の中でオーソン・ウェルズ役が語るところの『他人の夢を撮ってる』わけであり、他人の褌で相撲を取ってるわけであり、

下品にたとえるならば、金のために好きでもない相手に股を開く売女と何ら変わりなく(個人的な意見として、藝術と恋愛はどこか相通ずるものがあり、藝術/クリエ

イティヴの世界において魂を売ることは、愛のないSEXをすることと同義であり、すなわち藝術家/クリエイターとしての価値を毀損することを意味する気がする)、

つまり、主体性の欠片もなくクライアントの顔色を窺って、表現したいことなど何もないくせに(愛なんてこれっぽっちもないくせに)、金のため他人のために他人の

金を使って他人の表現をしているに過ぎぬわけであり(愛のないSEXより虚しいものはこの世に存在しない)、もちろん、広告屋として上手くやっている人たちは、俺た

ちは広告という仕事を心から愛しており、常に愛情をもって仕事に臨んでいるんだ!と詭弁を弄し虚勢を張るか、もしくは、大胆に開き直り、広告は藝術ではない!

(俺たちは売女だ!)と嘯き、パーパスだかパンパースだかパンプスだかパイパンだかパンパンだかパンスケだかパイズリだか何だか知りませんが流行の横文字言葉を

喚き散らし、自分たちは世のため人のため立派に社会の役に立っていると己の存在価値を捏造し自己暗示をかけることによって(さらには法外な濡れ手に粟のあぶく銭

によって)広告屋としてのプライドを何とか保ちながら(よく風俗嬢がインタビューに顔を晒し『仕事は正直キツくて病んでしまいそうになることもあるけど、お客さ

んが、すっごく気持ちよかったよ、また来るね!って笑顔で帰って行くのを見ると、こんな自分にも存在価値があるんだな、もっとお客さんにいっぱい気持ちよくな

ってもらうために私も頑張らなくちゃって思うんです、最初はキモイおじさんに体触られたり舐められたりして帰りの電車の中でよく泣いたりしてたけど、人はどん

な辛いことにもいつしか慣れちゃうもので、最近じゃお客さんがお金にしか見えなくなってきて(笑)、どんな酷いことされても何にも感じなくなってしまって、さす

がにそれはヤバいかもとか思いつつ(笑)、それにぶっちゃけ月収もOLやってた頃の10倍以上も稼げるし(笑)、元々Hなことが嫌いなわけじゃなくむしろお客さんに気

持ちよくしてもらってる面もあったりと(笑)、こういう仕事も若いうちにしか経験できない立派な社会勉強だと思うし(笑)、他にやりたいことなんて別にないし、現

状は何となく満足してるって感じなのかな、将来の夢ですか?そうだな、毎晩通ってたホストクラブに行く回数をなるべく減らして週3くらいに抑えて、他にもブラ

ンド品を手当たり次第買い漁らないよう気をつけたり、稼いだお金を無駄遣いせずしっかり貯金して田舎の両親に一軒家をプレゼントしてあげたいな、そして、いつ

の日か私も結婚して子供産んで幸せな家庭を築けたらいいけどな(笑)』などと死んだ目で語る姿と同等の違和感を私は覚えるが)、まあ、その辺のわだかまりを大人と

して(金で)割り切ってこなしているわけであり、それ自体を全否定するつもりもないのですが(日本の広告屋は些か身分不相応にデカい顔し過ぎであり、もっとマシな

ものを作ってから、私が作りました!と偉そうな態度をとればいいのにとは思う)、私も本来、広告は藝術と同じ土俵に立たせて純粋に比べられるような代物ではない

と考えており(チンドン屋風情がチンドン・クリエイターなどといっぱしの藝術家気取りをしていたら、お前らは金もらってチンドンしてるだけだろ!となる原理で)、

さらに、私には自分の中に表現したいことがあり、身を賭して自分の藝術作品を生み出したい(愛のあるSEXがしたい)という強い意志を持ち、つまり、映画『エド・ウ

ッド』の中でオーソン・ウェルズ役が語るところの『戦ってでも撮りたい自分の夢』があり、どうしても広告を仕事として割り切ってこなすことができず(愛のない虚

しいSEXはしたくない)、ゆえに広告業界では成功することが叶わずに、そのルサンチマンをみっともなくも豪快に拗らせた挙げ句の果てに絵を描きはじめたという経

緯なのですが、さらに広告の主体性の欠如をより具体的に説明するならば、例えば、ビールの新商品が発売されるのでCMを作ってくれと依頼されたとします、新しい

ビールは『いまだかつてないほど画期的においしい』というのが訴求ポイントなので、CMを作る前に実際に試しに飲んでみれば、それほど画期的においしいとも思え

ない、ぶっちゃけてしまえば、まったくおいしいとも思えない、それでも広告屋としては金をもらっている以上クライアントの手前『それほどおいしいと思えない』

と素直に表現することはできず、何とか創意工夫を凝らし『いまだかつてないほど画期的においしい』と訴求しなければならないわけです、つまり、心にも思ってい

ないこと、自分が本当に表現したいとは思っていないこと、できれば表現したくはないことを、クライアントの顔色を窺って、嘘をついてまで表現しなければならな

いわけです、つまり、自分に嘘をつき、その嘘をついていることをクライアントに対してさらに嘘をつき、その結果として世間や消費者にまで嘘をついた上で、CMと

して表現しなければならないわけです、上手な嘘がつければ何も問題はないのですが、どんなに巧妙狡猾に嘘をついても、嘘をつけば必ずバレるものであり、そんな

虚しい嘘を塗り重ねたインチキCMに魂がこもっているはずもなく、そんな腑抜けたCMに感動する者などいるはずもないのです、話を戻して、魂を別の言葉に置き換

えてやるならば、キンタマでしょうか、キンタマが付いてる絵とでも言いましょうかね、もう少しくだけた感じで呼んでやれば、チンタマ、よりオシャレに気取って

ハイソな感じで呼んでやれば、キャンタマ、六本木のマスコミギョーカイ人風に呼んでやれば、タマキン、よりストレートで潔くシンプルに男らしく力強く呼んでや

れば、タマ、より親しみを持たせて女性にも気軽に使いやすく可愛げに呼んでやれば、タマタマ、さらに可愛くラブリーに呼んでやれば、タマタマちゃん、じゅわあ

っとふんわり甘酸っぱくじっくり煮染めた油揚げの中に酢飯を詰め込んだ例の食べ物によく似た特殊な形状から比喩的に呼んでやると、おいなりさん、よりインテリ

ぶって文学的に呼んでやると、フグリ、医学専門用語だと、睾丸、陰嚢、精巣、他にも英語だと、Nuts、Ballsとかになるんでしょうかね、英語の場合、複数形にして

やるのがポイントです、単数形だとタマが1個、つまり、カタタマになってしまうので注意が必要です、フランス語でキンタマを何と呼ぶかについては不勉強ゆえに

不明なので、勝手に調べるか、フランス大使館に問い合わせるか、アテネ・フランセ仏語コースに入学するか、ソルボンヌ大学に留学するか、もしくは、名前を失念

しましたがエマニエル夫人を演じた女優、もうすでに死んでしまっている場合は、存命のカトリーヌ・ドヌーヴ、ブリジット・バルドー、シャルロット・ゲンズブー

ル、ソフィー・マルソー、フランソワーズ・モレシャンあたりに電話して聞いてみて下さい、喜んで食いついてくるでしょう、ちなみに、キンタマを舐める行為のこ

とを俗にタマナメと呼びます、使い方としては『今日こそは絶対こってりタマナメしてもらっちゃうもんね!』とか『前カノと前々カノは喜んでタマナメしてくれた

のに、どうして君はタマナメしてくれないの?そんなにタマナメが嫌なの?それとも何かい、僕のタマタマちゃんに何か問題でもあるっていうのかい?』とか『お客

さん、タマナメして欲しかったら最初に言って下さいよお、急にタマナメって言われても、こっちも心の準備とかあって正直困っちゃうんですよお、どうしてもタマ

ナメって言うんならオプションで別料金5000円かかっちゃいますけど、それでもいいですかあ?』とかですかね、もちろん、あなたもタマナメしてもらった経験あ

りますよね、何とも言えぬ不思議な気持ちになりますよね、あれ、俺、今すんごいところ舐められちゃってるよ、でも意外と悪くないかも、いやむしろすごくいいか

もとか宇宙を感じて身悶えながら思わずうわずった変な声が出ちゃったりするスピリチュアルな体験ですよね、いかんせん、舐める場所が場所だけに、こちらからリ

クエストしなければなかなか積極的には舐めてくれない場合も多くて、頼む時に少し勇気が要って正直恥ずかしいけど、思い切って舐めてもらって本当によかったな

とか後で思い出してニヤニヤしたりしてね、話を戻しますが、もちろん、これは、キンタマが付いてる、イコール、男らしい絵というわけではなく、女性が描く絵に

もキンタマの付いた絵はたくさんありますし、さらに、キンタマが付いてる、イコール、卑猥な絵というわけでもなく、つまり、物理的なキンタマではなく、精神的

なキンタマ、肝っ玉みたいな意味合いに近いのかもしれません、肝っ玉ということは、とどのつまり、再び最初に戻って魂ということになるんでしょうがね、ただ誠

に残念なことに、昨今の世の中でもてはやされている絵というのは、アニメーションやマンガ、コミックなどから多大な影響を受けている、絵師だか萌え絵だか何だ

か知りませんが、ライトノベルの表紙などにお誂え向きな、つまり、精神的にキンタマが付いていない絵、『タマなし』『腐れキンタマ』みたいな絵が非常に多いの

がタマに傷であり、それらが世の中をつまらなくしている要因でもあると私は一丁前に分析するところではあるのですがね、また、例えば、美大や芸大や専門学校、

イラストスクール、カルチャースクール、近所の絵画教室、似顔絵通信講座、他にもピンからキリまで腐るほどありますが、そういった学校や教室に通えば、誰でも

絵を描く技術は簡単に学べますし、お手本通り、物理的に、ただの『絵』ならすぐにでも描けるようになります、しかも、上っ面だけ見りゃ、そこそこ上手に描けち

ゃったりもします、でも、絵の学校に通ったからといって、誰しも『素敵な絵』が描けるようになるかといえば、そうとも限らんのですよ、いやいや、そんなのは簡

単にチャチャッと描けるでしょっていうのならば、試しに自分で描いてみりゃわかります、己の無力さを痛感し、きっと死にたくなりますから、私も何度死にたくな

ったか数え切れたもんじゃありません、その死にたくなるような無力感、絶望感を何度も乗り越えて、ようやく命からがらここまで辿り着いての『素敵な絵』なわけ

ですよ、『素敵な絵』を舐めたらあかんのです、もちろん、私も『素敵な絵』について偉そうに語れる立場にあるわけでもなく、さらに私の場合、美術系の学校で正

式に絵を学んだわけでもなく、幼稚園の頃にお絵描き教室に少し通った程度であり、大人になって絵を描きはじめたのが33歳のある日、突発衝動的になぜだか猛烈に

絵が描きたくなって描きはじめたという経緯もあって、他の絵を描く人たちに比べると、かなり遅咲きデビューの完全なる独学、自己流、異端派であるため、絵とは

何か?とか、絵を描く動機とは?絵を描く意味とは?みたいな問いに対して妙な執着を持っていて、おまけに、いつまで経ってもさっぱり上達しない己の絵のヘタク

ソさ加減に対するコンプレックスを破れかぶれに拗らせたあげく非常に面倒くさい状況に陥っていたりもするんですけれども、もちろん、自分の描いた絵に魂がこも

っているかどうかを自分の目できちんと判断するのは難しいことです、自分の描いた絵が、ただの『絵』なのか『素敵な絵』なのか、他人から言われて初めて気づく

ことも多々あります、それゆえに、魂がまったくこもっていないただの『絵』のくせして、魂がこもった『素敵な絵』の振りして、世の中の絵の価値のわからん人た

ちを巧妙な手口でダマくらかし、悪どく金儲けしている詐欺師同然な連中も少なくありません、まあ、ダマすほうもダマされるほうも正直どっちもどっちですけど、

『素敵な絵』の価値判断基準が不明瞭なことも一因なのでしょうかね、私自身も時々わからなくなって混乱したりもしますが、それを見極める力こそが才能と呼ばれ

るのだと私は思います、そして、まさに、その己の力ではコントロールできない、いかんともし難いところにこそ、また、その困難を不屈の精神で乗り越えて行った

先に『素敵な絵』を発見すること、他人に何を言われようとも、己の才能を信じ切り、信念を貫き通し、本当に己の表現したいことを、己の表現したい方法で、表現

することにこそ、絵を描くことの最大の魅力や醍醐味があり、ひいては、藝術活動、創作活動、表現活動を行うことの真の意義があると言っても過言でないように私

は思います、さらに、これは絵に限らずそっくりそのまんま人間にもスッポリ当てはまることなんです、ただの『人』と『素敵な人』もスッポンと月です、世の中を

見渡してご覧なさいな、『素敵な人』がどれほど見つかることやら、おそらくほとんどが何らの魅力も感じぬただの『人』です、本当に『素敵な人』なんて滅多にお

目にかかれやしませんよ、『素敵な振りをするのが上手な人』ならごまんといますが、どんなに巧妙狡猾に上っ面を装って世間を欺いて誤摩化したとしても、魂がこ

もった『素敵な人』であるかどうかは、見る人が見れば一目瞭然であり、そもそも素敵な振りをしなければならない時点で、その人は本質的に『素敵な人』ではない

という証左なのです、時々、ただの『人』で何が悪いんだ、ただの『人』こそが素敵なんだとか、世界にひとつだけのなんちゃらとか意味不明な屁理屈並べて開き直

る人たちを見かけますが、ただの『人』と『素敵な人』を比べたら『素敵な人』のほうが素敵に決まってるじゃないですか、それに、もしも、すべての『人』が『素

敵な人』になってしまったら、『素敵な人』の値崩れが起きて、『素敵な人』の価値なんてまったくなくなってしまうじゃないですか、他にも、私には才能なんて全

然ありませんよ、ただ頼まれたから仕方なく作ってるだけですよ、本当は作りたいものなんて何にもありやしないんですよ、とか語っているクリエイターの人たちを

広告業界などでよく見かけますが、謙遜だか照れ隠しだか本当に才能がないからツッコミ入れられる前に予防線を張っているだけなのか何だか知りませんけど、本当

に自分に才能がないとハッキリ自覚しているのならば、さっさとクリエイティヴの仕事から足を洗って実家の乾物屋でも継いだらいいんですよ、この機会に思い切っ

てコンビニに改装するのも悪くないかもしれませんよね、もしくは、どうしても世間の注目を浴びたくて仕方がない目立ちたがり屋さんだというのならば。廃品回収

トラックの運転手にでも転職したらいいんです、免許がないなら合宿免許代くらいは私が喜んで捻出してあげますよ、本当に何をバカなこと言っていやがるんだと私

は思いますけどね、結局、ただの『人』は、何が素敵なのか、素敵とは何かをまったく理解してはおらず、自分の頭や感覚で理解しようともせず、他人の意見や世の

流行に流され続け、『素敵』という概念に対して一生理解を得ることはないということなのでしょう、哀しい現実ではありますが、つまり、そういうことなんです、

それくらいの覚悟をもって私はセリフに『素敵な絵』を入れてるわけなんです、決して生半可な覚悟ではないのです、人生賭けてるんです、理解していただけました

か、ここは本当にものすごく繊細で重要なところですから、しっかり注意してセリフを言って下さいね、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「こ

れだけギャラリーの壁いっぱいに素敵な、素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはも

う廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!カット!うーん、今『素敵な』を2回言っちゃいましたよね、『素敵な』を2回繰り返すと何だかとってもわざとらしく

なっちゃいますよね、しかも、1回目の『素敵な』と2回目の『素敵な』との間に意味深な『、』(読点)まで入れて絶妙に思わせぶりなタメまでこしらえて『2回も言

っちゃってますよ』感を姑息にアピールする演出までして、そんなことしたらすべてが台無しになってしまうとなぜわからないのですか、私の絵が素敵なのは当たり

前のことですからね、2回繰り返す必要なんてまったくありませんよ、1回言えば私の絵が素敵なことは十分伝わりますから、本来ならば当たり前のこと過ぎて別にわ

ざわざ言わなくともよいくらいのところを、1回くらい言っておいても嫌味には聞こえないだろうと思い、また、前述した通り、私の並々ならぬ覚悟の程を皆の衆に

も知らしめるべくあえてセリフに組み入れてるんです、さりげなくシンプルに1回で十分なんです、もしかして、さっき注意した最後の決めゼリフ『あんたはもう廃

人なんかじゃないよ!』文末の『!』(ビックリマーク)を気合い入れ過ぎて『!!』2本付けてしまったように、私に気を遣って、お得意のおべんちゃらのサービスで

2回繰り返したんですか、たしか昔『マス・イメージ論』の中でも広告屋や芸能人をチヤホヤと持ち上げてましたよね、あなたのそういったミーハー的な軽いノリは

正直あまり感心しませんよ、そんな余計なおべんちゃらなんて私はまったく求めてませんからね、点数稼ぎのアドリブなんてまったく必要ないんですから、ちゃんと

指示通り一言一句違わず台本通り正確なセリフを言ってくれないと困りますよ、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの壁い

っぱいに素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハ

イ、カット!カット!カット!うーん、ええとですね、何なんだろうなあ、やはり何というかですね、本質的に何かが足りてないように思うんですよ、あなたが本当

に心の底からそう思っているかどうかは正直私にはわかりませんし、実際確認するすべもありませんが、本当に思っていないにせよ、例えば、小粋な売れっ子芸者が

『あなただけよ、他のお客の前じゃ絶対言わないけれど、あたし、あなたに、ほの字なの』とか何とか言って客を手玉に取り色恋営業するかのごとく、まるで本当に

思っているかのように巧妙に見せかけるのが本物のプロフェッショナルな演技というものではないでしょうか、有名な『嘘も100遍唱えれば真実になる』ではないで

すが、嘘でも最後にあなたの本気度を是非とも見せて欲しいところなんですけどね、私は」「そんな無茶なこと言われたって、俺はプロの俳優でも役者でも売れっ子

芸者でもないんだからさ、それに何遍も繰り返すように、俺はあんたのことなんてまったく知らないし、さっきも言ったように、俺はあんたの絵を実際に見たわけじ

ゃないし、あんたの絵の魅力も正直わかってないし、身も蓋もない本音を言っちまうとだな、まったくもって興味なんてないんだよ」「何ゴタゴタとわけのわからな

い泣き言ぬかしていやがるんですか、この老いぼれのくたばり損ないの味噌っかすのあんぽんたんのスットコドッコイめが、蜷川幸雄の舞台の稽古だったら、すでに

灰皿が何枚も宙を舞い、そのうち1枚がおでこに見事命中し卒倒して泡吹いてるところですよ、大島渚監督の映画の撮影現場だったら、さっそく目付けられて延々罵

倒されまくりオイオイと泣かされて小便まで漏らしちまってるところですよ、AVの村西とおる監督の撮影現場だったら、でっかいビデオカメラ担いだまま『ナイスで

すねー!』ってのしかかられハメドリされて絶頂を迎える度に笛を吹かされてるところですよ、鬼畜系スカトロAVの撮影現場だったら、頭丸刈りにされて小便ひっか

けられて何本も浣腸されまくった挙げ句にウンコどっさり食わされているところですよ、元電通の佐藤雅彦は昔ビールのCM撮影現場でショーケンに『うまいんだな、

これがっ』ってセリフを100テイク以上も延々言わせ、ショーケンにブチギレされそうになったという伝説も残っているくらいなんですからね、100テイクですよ、

余程のことがない限り100テイクなんて言わせませんよ、そういう場合、大抵は指示出しているほうもわけわからなくなってしまってるんです、それらに比べたら、

こんなのは楽勝な現場だと思いませんか、それに、大人しく聞いていれば、いい気になって、何ですか、私の絵にはまったく興味がないですって、何どさくさに紛れ

てバカなことを忌憚なくヌケヌケと言ってくれちゃってるんですか、嘘おっしゃいな、嘘をつけ、嘘をつけ、嘘をつけ、本当は私の『素敵な絵』に興味津々で、もう

気になって気になって仕方がなくて、居ても立ってもいられなくて、夜も眠れなくて何度もオシッコに起きちゃうくらい、たまに間に合わなくてジョロッとチョイ漏

れしちゃうくらい、それくらい私の『素敵な絵』が大好きでたまらないくせに、わざと依怙地になって好きなのに嫌いだなんて言ってみたりして、まるで好きな女子

を嫌いだ嫌いだと言いながら散々追いかけ回して付きまとってイジメまくってるアホな小学校低学年男子とおんなじ脳味噌じゃないですか、少しは自分の心に正直に

なったらどうなんですか、お互いもっと素直になって心を通わせ合いましょうよ、それとも何ですか、さっきも言ったように、やはり、私の『素敵な絵』が大好きだ

と本当のことを言ってしまうと、『廃人の歌』でいうところの『ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらうといふ妄想によつて ぼくは廃人である

さうだ』のごとく、全世界を凍らせてしまって廃人扱いされてしまう恐れがあって、それだとあなたも困るから、本当は私の『素敵な絵』が大好きなくせして、つれ

ない素振りを演じているだけに過ぎないのですか、もちろん、あなたが本当に心の底から私の『素敵な絵』を大好きだと思っているかどうか正直私にはわかりません

し、実際確認するすべもありませんが、万に一つ、そんなことはおそらくないと思うし、考えられないことだと信じていますが、仮にですよ、あなたが本当はそう思

っていないにせよですよ、今までいつも偉そうに他人の作品を批評して無責任に講釈垂れて文句ばかり言ってクソミソにこき下ろしまくってきたんでしょ、最後の最

後くらい自分もビシッと最高の演技を見せたらどうなんですか、あなたにはそんな甲斐性もないんですか、そんなことじゃ今まで散々批評してきた人たちに申し訳が

立たんでしょうが、作品たちが浮ばれないでしょうが、こちとら、それこそ命懸けの覚悟で人生賭けて死物狂いで絵を描いているんですからね、批評するほうも命懸

けの覚悟で批評をして下さいよ、プロフェッショナルとしてきちんとガチンコ真剣勝負の批評をして下さい、それにですよ、今あなたにきちんとお墨付きを頂いてお

かないと、これから先も私は死ぬまで廃人の烙印を押されたまま、廃人の呪縛に囚われたまま、廃人スレスレの人生の中で一生死ぬまでもがき続けねばならなくなっ

てしまうんですよ、せめて最後の最後にその呪縛を解いて私を楽にしてやって、きっちり責任とってケジメをつけて筋を通してから、あの世へと旅立って下さいよ、

あなたもウンコした後は必ずケツ拭きますよね、最近じゃ、時と場合によっては、ご丁寧にも気取ってケツの穴に水とかお湯とかぶっかけたりもするそうじゃないで

すか、ウォッシュンレットントンとか言うんでしたっけ、自慢じゃないですが、私は生まれてこのかた一度だってウォッシュンレットントンしたことなんてないです

からね、ケツの穴なんてもんは風呂入った時にふやかして念入りに擦って洗ってやりゃそれで十分なんですよ、便所行く度にウォッシュンレットントンする必要なん

てないんです、ケツの穴を甘やかしちゃいけないんです、一度甘やかしてしまったら最後、金持ちのドラ息子のように、小遣いせびってきたり、勝手に親のベンツ乗

り回したり、女連れ込んだり、ケツの穴が調子に乗って増長していって、やりたい放題、そのうち、あなたの顔とケツの穴がすっかり入れ替わって、やがては、あな

たの脳味噌がケツの穴に乗っ取られ洗脳され、あなたの思考や行動や銀行口座が常にケツの穴に管理されるようにもなって、その悪の手はあなたの家族や恋人や友人

や会社の同僚にさえも及んでいってしまうんです、気づいた時はもう手遅れで、あなたのすべてがすっかりケツの穴の軍門に下ってしまっているんです、ケツの穴だ

けに肛門に下ってしまうと言っても良いのかもしれませんが、これは本当に恐ろしいことなんです、それに、毎回こまめにウォッシュンレットントンすればパンツの

クソジミいわゆるウンスジってやつが少しはマシになるとでも言うんですか、ウォッシュンレットントンするしないにかかわらず、人間という生き物は一生涯を通じ

てパンツのクソジミいわゆるウンスジと戦い続ける運命なんです、誰しもが逃れることなど到底不可能なんです、これはもう諦めてもらうしかないんです、まあ、毎

回ウンコする度こまめにウォッシュンレットントンするしないは人それぞれ個人の自由であるとして、ひとまずウォッシュンレットントンの話は置いておくとして、

ともかくですね、ウンコしっぱなしで拭かずにそのままなんてことは現代社会では決して許されることではないんですからね、尻拭いだけはくれぐれもきちんとして

行ってもらわないと困るんですよ、さもないと私は一生廃人のままなんですからね、そんな生殺しの状態の宙ぶらりんのまま私を置いてけぼりにしないで下さいよ、

あなたもこの期に及んでこの世に心残りは嫌でしょう、『廃人の歌』でいうところの『破局をこのまないものは 神経にいくらかの慈悲を垂れるにちがひない 幸せ

はそんなところにころがつてゐる たれがじぶんを無惨と思はないで生きえたか』のごとく、自分を無惨と思う私に最後に慈悲を垂れてからあの世へ旅立って下さい

よ、幸せはそんなところにころがっているんです、これはあなたの書いた詩ですよね、あなたも破局は好まないでしょうに、私も破局は好みません、お互い納得のい

く、もうこれ以上はない最高の形で、後腐れのない、有終の美を飾ろうではありませんか、いいですか、後生ですからね、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、

スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱいに素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あ

んたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!うーん、少しずつ良くはなっているんですけど、頑張っておられるとは思うんですけどね、どうしようかな、

うーん、そうだ、試しにですけれど、急な変更で大変申し訳ないですが、『これだけギャラリーの壁いっぱいに素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから』の

『素敵な絵』の前に『ヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い』を付け加えてもらってもいいですか、『これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇

妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから』となるわけです、つまり『素敵な絵』と言われてどんな風に素敵なのかを具体的に説明してみたわ

けです、また、絵というものは本来上手下手で簡単に判断できるようなそんな生易しいものでは決してなく、たとえヘタクソでも見る者の心を強く揺さぶる『素敵な

絵』もあるんだぞという私の強がった希望です、上手なだけで何の魅力もない絵に対する痛烈な皮肉を込めてもいるんですがね、さらに、絵が救いようもなくヘタク

ソな私の、上手な絵を器用に描ける人たちに対するやっかみも少しは入っていますけどね、毎度毎度妙ちくりんなたとえになってしまい大変恐縮ですが、わかりやす

く説明しますと、例えば、100人中100人誰もが口を揃えて美人だと褒めそやす完璧な容姿を持つ絶世の美女がいたとします、けれども、なぜだか理由は定かではあ

りませんが、不思議なことに、性的にはまったくそそられない、つまりアソコがエレクトしない、ピクリともしない、つまりチンピクしないタイプの美人というのが

世の中には存在したりします、具体的に誰某と例示したいところですが、すぐには名前が浮ばず、また、名前を出すのは失礼に当たる恐れもありますので、曖昧なま

ま話を進めさせていただきますけれど、とにかく、絶世の美女なのにもかかわらず性的にはまったく心惹かれない女性というのが世の中には存在します、これは前述

した絵でいうところの『上手なだけで何の魅力もない絵』に相当すると思われます、その逆に、まったく美人ではないのに性的に妙にそそられる女性というのも世の

中には存在します、具体的に誰某と例示したいところですが、これまたすぐには名前が浮ばず失礼に当たるため、華麗にスキップさせていただきますが、容姿は十人

並み以下なのになぜだか性的に強く心惹かれるタイプの女性です、前に誰かが『ヤリたいブス』とか何とか失礼千万なたとえをしているのを耳にしたことがあります

が、まさに『ヤリたいブス』という言葉がしっくりバッチリ嵌まる感じの女性です、そして、自分で言うのも何なのですが、すなわち私の描く絵も『ヤリたいブス』

ということになるのではないかと私は内心思っているわけです、たとえが陳腐で下品なことは百も承知なのですが、私が目指すべき絵を言葉で表現するとまさに『ヤ

リたいブス』になるというわけなのです、一度全体で通してみましょう、『これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾

れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!』となるわけです、大丈夫で

すか、覚えられましたか、いいですね、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱいにヤリたいブスだけど何とも奇妙

な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」

「ハイ、カット!カット!カット!カット!カット!カット!ちょっと今『ヤリたいブス』とか言っちゃいましたよね、何てこと言ってくれちゃってるんですか、勝

手にセリフ変えないで下さいよ、ちゃんと私の指示通りセリフを言ってもらわないと困るんですけどね、文脈的にも少しおかしいでしょ、おかしいと思いませんか、

それに、たとえ心の中で思っていたとしても『ヤリたいブス』なんて言葉をセリフで言っていいわけないでしょうが、大変な失礼にあたりますよ、あくまでも『ヤリ

たいブス』は私が目指すべき絵のコンセプトとして口からでまかせに思わずポロッと漏らしてしまっただけであり、『ヤリたいブス』はイメージであり、『ヤリたい

ブス』は言葉のニュアンスであり、実際にセリフとして言ってもらいたい言葉は『ヤリたいブス』ではなく『ヘタクソ』ですからね、そんなことくらいすぐにきちん

と理解していただかないと困りますよ、まったく何を考えてるんですか、すっかり惚けちまったんですか、もう後は死ぬだけだと考えて後先構わず何やっても許され

ると思ったら大間違いですからね、そういうお年寄りを老害と呼ぶんですからね、たとえ惚けていたとしても『ヤリたいブス』なんて言葉は絶対に口に出してはダメ

です、二度と『ヤリたいブス』なんて言葉は口にしてはいけませんよ、いいですね、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの

壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、

あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!カット!うーんと、あのですね、今さっき追加してもらった『ヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い』の

中の『ヘタクソ』の言い方のニュアンスなんですがね、私が自分でセリフに組み入れ、あなたに言わせておきながら、何をか言わんやなのは百も承知なのですがね、

その、何と言いますかですね、些かキツ過ぎるというか、トゲがあり過ぎというか、カドが立ち過ぎというか、険があり過ぎというか、ぶっちゃけ過ぎというか、悪

意あり過ぎというか、つれなさ過ぎというか、身も蓋もないというか、神も仏もないというか、救いようもないというか、溺れる者が藁をも掴めないというか、つま

り、ネガティヴに寄り過ぎてしまっていて、ハッキリ言って洒落になってないんですよ、私はこう見えてものすごくナイーヴな人間ですからね、可憐な乙女のごとく

傷ついてしまうんです、もちろん、私の絵が『ヘタクソ』なのは百も承知ですよ、そんなことは言われなくともわかっておりますから、黙ってらっしゃい!てな感じ

ですよ、何しろ『お前の絵はヘタクソだ』と散々言われ続けてきましたからね、最近じゃ『ヘタクソ』と言われる度に『ああ、そうさ、俺の絵はヘタクソだよ、だけ

ど、お前の絵だって俺よりちょっとマシなだけで、ミケランジェロに比べりゃヘタクソじゃねえかよ』なんて開き直ったりもしてますよ、『ミケランジェロ』が『レ

オナルド・ダ・ヴィンチ』の時もありますがね、そもそも『ヘタクソ』という言葉は相当キツい言葉なんですよ、『ヘタクソ』と言われて純粋に傷つく人たちも大勢

いると思います、女の子が『ブス』と言われて傷つくのとまったく一緒です、他にも『あんたはSEXがヘタクソね』とか『お前のフェラはヘタクソで全然気持ちよく

ないんだよ』とか『本当に生きるのがヘタクソだなあ』とかも傷つきますよね、また、自分から『私の絵ってヘタクソでしょ』と自虐的に言う場合と、他人から『お

前の絵はヘタクソだな』と否定的に言われる場合とでも『ヘタクソ』の意味合いがかなり違ってきます、それは、若い女の子が『私、ブスだしー』と自虐的に言う場

合と、好きな男の子(彼氏)から『お前、ブスだよな』と言われる場合とで『ブス』の意味合いが違ってくるのと同じことです、さらに、好きな男の子(彼氏)から『お

前、ブスだよな』と言われる場合でも、『お前、ブスだよな、(でも俺はそんなお前を結構気に入っているんだぜ、ずっと一緒にいられたらいいよな、愛してるよ、チ

ュッ)』と『お前、ブスだよな、(だから俺はさっさと別れて次の女に乗り換えたいと思っているんだよね、できれば整形してくれないかな、ペッ)』とではまったく意

味合いが違ってきてしまうんです、言い方のニュアンスというか、微妙な温度差というか、デリカシーの有無というか、ようは、言葉に愛があるかどうかがすべてな

んです、今回のセリフの中で、私があなたに求めている『ヘタクソ』のニュアンスは、先ほど例示した、好きな男の子(彼氏)から『お前、ブスだよな、(でも俺はそん

なお前を結構気に入っているんだぜ、ずっと一緒にいられたらいいよな、愛してるよ、チュッ)』のほうなんですよ、一見つれない素振りをしている体に見えますが、

後でしっかりフォローしてあげて、最後はぎゅうっと抱きしめて『チュッ』とキスまでしてあげてるんです、そして、キスの後、言葉に表れてはいませんが、勢い余

って押し倒してヤっちゃってるかもしれませんね、何といっても、ケンカした後の仲直りのSEXっていうのは結構盛り上がるものですからね、これはもちろん相思相

愛のSEXであり、おそらく体位は顔を見合わせながらの正常位か対面座位、もしくは顔を見上げながらの騎乗位になると思われます、一方、先ほどあなたが言ったセ

リフの中での『ヘタクソ』のニュアンスは、『お前、ブスだよな、(だから俺はさっさと別れて次の女に乗り換えたいと思っているんだよね、できれば整形してくれな

いかな、ペッ)』のほうなんですよ、女の子に向って整形しろとか非情なことを平然と言ってのけた挙げ句の果てに、思いっきり相手の顔に『ペッ』とツバを吐きかけ

てしまってるんです、そして、ツバの後、言葉に表れてはいませんが、勢い余って散々ぶん殴って蹴飛ばしまくって押し倒して鬼畜のように無理やりヤっちゃってる

かもしれませんね、これはもちろん一方通行的な愛のないSEXであり、おそらく体位はなるべく顔が見えないように後背位(バック)一択になると思われます、言ってる

意味わかりますよね」「まあ、わかるっちゃ、わかるんだけどさ、なんか話が妙な方向に逸れて行ってるようにも思うんだよね、それに、そもそも俺はあんたの彼氏

でも何でもないし、俺のアソコはもう随分前から生殖器としてまったく役に立たなくなっちまってて、泌尿器としてのみの利用しかしてないんだけどなあ」「ですか

ら、ご安心下さい、実際にSEXするわけではないですから、するわけないでしょ、正常位とか対面座位とか騎乗位とか色々と具体的に説明してますが、あくまでも、

たとえ話であって、話を膨らませるためのイメージであって、もちろん、あなたは私の彼氏でもありませんよ、当たり前じゃないですか、付き合ってるわけでもない

ですし、まだ手も握ってませんし、親にも紹介してません、一度恋文を送らせてもらった程度のプラトニックな関係です、恋文というか個展のDMですけどね、無視さ

れてしまいましたがね、『!!』(ビックリマーク)2本も付けたのに、というか、そもそも、実際のところ、私はあなたには一度も会ったことがありませんし、あなた

の肉体はすでにこの世にはなく、かろうじて魂だけがこの世に残り、その魂と私は今こうして交信しているに過ぎないのですよ、でも、私はあなたのことが大好きな

んです、もちろん、性的にあなたをアレコレどうこうしちゃいたいという意味合いでは決してなく、あなたのタマタマちゃんをナメナメしてさしあげたいとかでもな

く、私のタマタマちゃんをあなたにナメナメしていただきたいとかでもなく、『廃人の歌』という詩を愛してるというのと同じ意味合いにおいて、私はあなたのこと

が大好きなんです、愛してるんです、それは『廃人の歌』でいうところの『生れてきたことが刑罰であるぼくの仲間で ぼくの好きな奴は三人はゐる』のごとく、生

まれてきたことが刑罰である私にも好きな奴は3人いて、それは何を隠そう、ゾウさんとキリンさんとあなたなんですけど、その3人の中でも、ゾウさんとキリンさん

を差し置いて、ブッチギリであなたのことが一番大好きなんです、あなたが堂々トップなんです、これは誇ってもいいことです、一方、あなたのほうが私のことをど

う思っているかは正直わかりませんが、おそらく生まれてきたことが刑罰であるあなたにも好きな奴が3人いて、それは何を隠そう、ゾウさんとキリンさんと私であ

り、その中でも、ブッチギリで私のことが一番大好きなんじゃないかと朧げながら私は前々からそう睨んでおりました、そんな風に大好きな愛する相手から『お前、

ブスだよな、(でも俺はそんなお前を結構気に入っているんだぜ、ずっと一緒にいられたらいいよな、愛してるよ、チュッ)』と言われるようなニュアンスで、つまり

相思相愛の確固たる信頼関係の下で、あなたに『ヘタクソ』と言ってもらいたいんです、たとえつれなくされても、最後はぎゅうっと抱きしめて『チュッ』とキスし

て欲しいんです、私が真に求めているのは、あなたのツバではなく、あなたのキスなんです、『ペッ』ではなくて、『チュッ』のほうなんです、私はあなたを求め過

ぎていますかね、私は欲しがり屋さんですかね」「もちろん、俺にも好きな奴の3人くらいいるけどさ、それはゾウさんとキリンさんとあんたではないんだよなあ、

それに、ツバとかキスとか、俺にも正直できることとできないことがあるからなあ、想像してたら気持ちが悪くなってきちゃったよ、吐き気がしてきたよ、オエッ、

オエッ、オエッ」「まあ、気持ち悪くなるのも無理もありませんよね、なんだかメンヘラを重度に拗らせた腐女子のうわごとみたいで、内心こいつ面倒くせえ奴だな

あ、付き合い切れねえよとお思いでしょうが、そんな私に好かれたのが運の尽きだと諦めて、引き続きお付き合い願えれば幸いですよ、それでは、いいですか、もう

1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだか

ら、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!うーん、今のテイクとても良かったです、

『ヘタクソ』の言い方にも、ちゃんと愛があって、私にツバを吐きかけるのではなく、私にキスしてくれています、『ペッ』ではなく『チュッ』でした、あなたは私

の絵を『ヘタクソ』だなんて、つれなく言ってるけれど、本当は私の絵も私のことも愛しているんだな、私はあなたに強く愛されてるんだなというのがきちんと伝わ

ってきて、とっても良かったんです、良かったんですが、欲を言わせてもらうと『ヘタクソ』の言い方に込められた『お前、ブスだよな、(でも俺はそんなお前を結構

気に入っているんだぜ、ずっと一緒にいられたらいいよな、愛してるよ、チュッ)』の最後の『チュッ』の部分なんですがね、正直まだまだ物足りないと言いますか、

さっきも説明したように、この後、言葉に表れてはいませんが、あなたは私を勢い余って押し倒し、正常位か対面座位か騎乗位か、どんな体位になるかはその場のノ

リ次第ですけど、私たちは仲直りのSEXをする予定になっているんです、もちろん、それは、言葉の綾であり、比喩であり、実際にSEXをするわけではなく、あくまで

も、気分は仲直りのSEXへまっしぐら、もう誰も俺たちの愛を止められやしねえぜ!朝までガンガン互いのアソコがヒリヒリするまでヤリまくるぜ!ヘヘイのヘイ!

てな感じのニュアンスなのですけれども、にもかかわらず、今はまだ『チュッ』とおでこに軽くキスしてる程度に留まっている状態なんですね、それだと、その後、

仲直りのSEX には発展して行きそうもないので、きちんと仲直りのSEXに発展するような濃厚なキスを『ブチューッ』と一発ブチカマしていただきたいんですよね、

おでこに軽く『チュッ』ではなくて、お口に『ブチューッ』といいますか、もっとエゲツナイ、貪り合うような、ケダモノじみた、ドスケベで変態的なディープキス

を私はあなたにブチカマされたいのですよ、いわゆる世間一般でいうところの『フレンチキス』というやつですね、時々『フレンチキス』を初心者用の挨拶代わりの

軽いキスとして誤用しているマヌケな人たちを見かけますが、『フレンチキス』というのは、その名の通り、ドスケベなフランス人がする、もうエゲツナイ、貪り合

うような、ケダモノじみた、変態的なディープキスのことを言うんです、あなたは私の絵に対して失礼この上ないことには『ヘタクソ』などと言うわけですからね、

これは誹謗中傷、もう立派な言葉の暴力であり、裁判所に訴えられても仕方のないようなことを、人の気も知らず、ヌケヌケと言ってくれちゃってるわけなんですか

らね、その後、それ相応のリカバリー的な意味合いのキスを、和解金、示談金代わりに最低でもしていただかなければ、私は訴えを取り下げることはできませんし、

あなたのことを断じて許してあげることはできませんし、溢れ返る愛を感じませんし、何だか私には物足りなさ過ぎて満足できないんです、最近旦那に全然構っても

らえずに性欲を持て余す欲求不満な昼下がりの団地妻みたいに、ソワソワとじれったく、私は満足できないんですよ、そんな甘っちょろい子供騙しのキスでは、私の

アソコは乾いたままなんです、サハラ砂漠やゴビ砂漠、月の砂漠のようにカラッカラに乾いて、蜘蛛の巣まで張ってしまって、あなたのアレを受け入れられず、その

後の仲直りのSEXへとは直結していかないんですよ、お互いもう子供じゃないんですからね、酸いも甘いも噛み分けてここまで生きてきたわけじゃないですか、亀頭

がテラテラと黒光りして自分の姿形がくっきり映るくらい百戦錬磨にヤリまくって女を散々色んな意味で泣かせまくってきたわけなんですから、どうすれば最終的に

SEXに持ち込めるかくらいは大体わかるでしょ、『ペッ』ではなく『チュッ』でもなく『ブチューッ』なんですよ、人目も憚らず、大胆不敵に『ブチューッ』と一発

ブチカマして欲しいんです、官能的に『ブチューッ』とブチカマして私をキスだけでヌルヌルビショビショの濡れっぱなしにして欲しいんですよ、私の言ってる意味

わかりますよね」「今度は昼下がりの団地妻かい、どんどん変態方向に向って行ってる気がするけどなあ、にっかつロマンポルノの世界だよ」「そう、それです、そ

れ、さすがですね、話が早い、若い頃に散々お世話になった口ですか、伊達に老いぼれてはいませんね、そう、つまり、今回私があなたに求めている『ヘタクソ』の

ニュアンスは、まさに『にっかつロマンポルノ』の世界を匂わせるような『ブチューッ』つまり、もうエゲツナイ、貪り合うような、ケダモノじみた、変態的な『フ

レンチキス』からはじまって、『仲直りのSEX』へと直結する『ヘタクソ』なんです、ただし、ここでご注意いただきたいのは、AV(アダルトビデオ)ではないという

ことです、AV(アダルトビデオ)も『にっかつロマンポルノ』もやってることはほとんど一緒、端から見りゃ、オスとメスがイチャイチャとチチクリ合ってSEXしてる

だけに見えます、でも実際はまったく別物なんです、何が違うかといえば、物語を感じるか感じないかです、AV(アダルトビデオ)のほうは物語もへったくれもなく、

ただ男と女がヤリまくってるだけですね、時々勘違いしたAV監督がドラマ仕立てにしてAV女優に大根演技をさせたりしてますけど、とてもじゃないが見られた代物

ではありません、そんな勘違いドラマはいいからさっさと裸になってやることやってくれよとしっかり勃起しながらイライラ早送りしたりしますよね、一方の『にっ

かつロマンポルノ』のほうはというと、ちゃんと物語を感じるんです、何せ才能ある映画監督が売れない頃に手掛けていたりもしますからね、決してただのポルノで

は終わらせないんです、しっかりとロマンを感じさせる物語があるのです、そして、今回私が求める『ヘタクソ』のニュアンスも、AV(アダルトビデオ)ではなく『に

っかつロマンポルノ』の物語を感じさせる官能的な『ブチューッ』で是非ともお願いしたいところなんです、人間なんて所詮はケダモノの一種に過ぎませんからね、

ただSEXするだけでも別にいいっちゃいいんですけど、でも、それじゃ、何だか哀しいし、虚しいじゃないですか、何とも面倒くさ過ぎるお願いで本当に申し訳なく

思っていますよ、よく怒らないで私のお遊びに付き合ってくれてるなっていつも感心しますよ、余程の忍耐強い人か、ただのお人好しか、さすがは戦争体験者なだけ

のことはありますね、もしも私が逆の立場だったら、とっくの昔に、やってられるか!ってブチギレてさっさとおうちに帰ってヤケ酒でも喰らってるところですから

ね、あなたのお気持ちは手に取るようにわかりますよ、そこを何とか堪えてもらって、大丈夫ですよね、それでは、いいですか、もう1回行きますよ、よーい、スタ

ート!」「これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっ

かり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!うーん、いいですね、いい感じになってきましたよ、『ヘタクソ』の言い

方には文句のつけようもございません、素晴らしいの一言に尽きます、もう100点満点の花丸をこれでもかと付けてあげたいくらいの気持ちでいます、まさに注文通

り『にっかつロマンポルノ』の世界を匂わせるような官能的な『ブチューッ』、つまり、もうエゲツナイ、貪り合うような、ケダモノじみた、変態的な『フレンチキ

ス』からはじまり『仲直りのSEX』へと直結する見事な『ヘタクソ物語』でしたね、あなたの私に対する溢れんばかりの愛とその裏に流れる物語をひしひしと感じま

す、最近旦那に構ってもらえず間男こしらえて部屋に引っ張り込む昼下がりの団地妻みたいに、私はもう四六時中濡れっぱなしです、全体的におおむねいい流れにな

ってきています、この調子です、はい、では、ここで、わがままを言って大変申し訳ないんですけれど、試しに、さらにセリフを追加させて下さい、先ほど追加した

『ヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い』の『奇妙な』と『味わい深い』の間に、今度は『トボケタ』を追加して『ヘタクソだけど何とも奇妙なトボケタ味わい深

い』に変更してもらってもいいですか、つまり、これは何が言いたいかというと、私は昔からよく他人に『あなたには何とも言えないトボケタ味わいがありますね』

と言われたりするんですね、褒められてるのか、バカにされてるのか、どちらなのかはわかりませんが、私はもちろん好意的に捉えています、そして、絵は人柄を表

すとも言われるように、どうやら私が描く『素敵な絵』にもそれが滲み出てしまってるようなんです、もっとも、その『トボケタ』味わいというのは私が計算で意識

的に出しているわけではなく、私の内面から自然に滲み出てしまっている魅力とでも言いましょうか、決して計算で出せるような代物でもない魅力なんですがね、よ

く若い女の子やアイドルがもうブリブリにブリッ子していて、お前本当はそんな話し方じゃねえだろってぶん殴りたくなったりするのとは本質的に違うのです、とも

かく、そういった意味も込めまして『トボケタ』を追加して一度通してみましょう、『これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙なトボケタ味わ

い深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!』となる

わけです、もしかしたら、あまりに複雑過ぎて、すでにわけわからなくなっちゃってるかもしれませんけど、わけわからなくなっちゃってるのは私も一緒ですから、

そこを何とかお互いに励まし合って乗り切って頑張っていけたらと思ってます、何卒ご協力願いますよ、いいですか、大丈夫ですね、覚えられましたね、それじゃ、

もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙なトボケタ味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力

があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!カット!申し訳ありません、

やっぱり、さっきの変更はなしで、元に戻しましょう、なんだかセリフのリズムが悪くなってスンナリ頭に入って来ないんですよね、すみません、『トボケタ』は一

旦忘れて下さい、ただし、セリフに『トボケタ』は入ってませんが、実際の私の絵には『トボケタ』味わいがあるのは事実なので、セリフにはありませんが、それを

必ず踏まえた上でセリフを言っていただければと思います、いいですか、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱい

にヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはも

う廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!カット!申し訳ありません、やっぱり、さっきの変更はなしにするのは、なしにして、つまり、もう一度『トボケタ』

を付けてみましょうか、『トボケタ』がないと何だかスッキリし過ぎちゃって、逆に引っ掛かりがなくなっちゃうというか、セリフ全体が耳から耳へスルッと抜けて

行っちゃうというか、ですので、試しにもう一度『トボケタ』アリで行ってみましょう、いいですか、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだ

けギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙なトボケタ味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁

前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!カット!うーん、どうしようかなあ、やっぱり『トボケタ』はないほうがいいよう

な気もしてきましたよ、『トボケタ』を付けると『トボケタ』ばかりが際立ってしまって、『トボケタ』がお調子者の低脳クソガキみたいに悪目立ちしてしまって、

最終的に私の絵や、ひいては私本人自身が『トボケタ大バカマヌケ野郎』みたいな印象しか残らなくなってしまうんですよね、ですので、すみません、さっきの変更

はなしにするのは、なしにするのは、なしにして、つまり『トボケタ』はまた一旦忘れて下さい、ただし、セリフに『トボケタ』は入ってませんが、実際の私の絵に

は『トボケタ』味わいがあるのは事実なので、セリフにはありませんが、それを必ず踏まえた上でセリフを言っていただければと思います、いいですか、それじゃ、

もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだ

から、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!うーん、やっぱり『トボケタ』がないと

寂しくなっちゃいますね、祭りの後の寂しさみたいな、もしくは、クリスマスイブに部屋で一人酔っ払ってセンズリかいてるみたいな、何だか気持ちよさも半減しち

ゃうというか、うーん、一体全体どうするか、『トボケタ』を付けるべきが取るべきか、どっちがいいのか、『トボケタ』を付けるべきが取るべきか、生きるべきか

死ぬべきか、それが問題だ!何だかハムレットみたいになってきましたよ、吉本さん、ちなみにあなただったらどっちにしますかね」「そんなのどっちでもいいじゃ

ねえか、何トボケタこと言ってんだい、あってもなくても別に大差ないんだから、全然こだわるとこじゃねえだろがよ、あってもなくても結局あんたが『トボケタ大

バカマヌケ野郎』であることに何ら変わりはないんだからさ、もうどっちだっていいから、とにかくさっさと決めてくれってよ」「わかりました、じゃあ、もう一度

だけ試しに『トボケタ』アリで行ってみましょうか、それで決めましょう、いいですか、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリー

の壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙なトボケタ味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさ

んですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!うん、やっぱり『トボケタ』いらないな、邪魔だよな、ですので、すみません、『トボケタ』は

もう忘れて下さい、ただし、セリフに『トボケタ』は入ってませんが、実際の私の絵には『トボケタ』味わいがあるのは事実なので、セリフにはありませんが、それ

を必ず踏まえた上でセリフを言っていただければと思います、いいですか、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱい

にヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはも

う廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!やはり元に戻して大正解でしたね、今のバランスがちょうどいい塩梅だと思います、もうこれ以上セリフを無闇に増や

すのは金輪際やめておきましょう、お約束します、はい、では、ここで、度々の変更で大変申し訳ないのですが、今度は試しにですね、本当に試しになんですがね、

何だか言葉に出してお願いするのがお恥ずかしい限りなのですがね、いや、どうしようかなあ、やっぱり恥ずかしいよなあ、でも、まあ、ここまで来てしまった以上

もう後戻りはできませんね、後になって悔やまぬよう、この際思い切ってお願いしちゃいますけれども、あのですね、ああ、やっぱり恥ずかしいよなあ」「何だい、

何だい、何を恥ずかしがってるんだい、今の今まで次から次とよくもまあと呆れ返るほどにとんでもなく無茶苦茶なことを厚かましくもヌケヌケと言ってくれちゃっ

てたくせにさ、まさに『廃人の歌』の中の『ごうまんな廃人』って言葉がピッタリお誂え向きの傲慢さだったくせにさ、急にしおらしくなってモジモジなんかして」

「いやいや、恥ずかしがっている場合ではありませんね、思い切って言ってしまいましょうね、こんな言葉をあなたの口から言わせるなんて、本当におこがましいこ

とこの上ないことだと百も承知の上で、勢いに任せ図々しくもお願いしちゃいますけれども、あのですね、そのですね、セリフ中盤『もうすっかり一丁前の絵描きさ

んですよ』の『絵描きさん』の部分をですね、試しになんですがね、本当に試しになんですけれどね、一度聞いてみたいなあと私が勝手に思ってるだけなんですけれ

どもね、ええと、その、あのですね、『アーティストさん』に変えて言ってもらうことは可能でしょうかしら、とかいった何とも不躾な相談なんですけれどもね、つ

まりですね、セリフ全体で通してみますと『これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだ

から、大したもんだよ、もうすっかり一丁前のアーティストさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!』となっちゃうわけですね、もちろん、もちろんです

よ、私自身は自分のことを『アーティストさん』だなんて夢にも思っちゃいませんよ、自分が『アーティストさん』だなんて口が裂けても言えませんし、私の描く絵

が『アート』だなんて微塵も思っていやしませんよ、まだまだそんなレベルに到達できていないことは火を見るよりも明らかに承知の上ですけれども、でも、でも、

でもですよ、自分で言うのは恥ずかしくとも、他人から一生に一遍くらい『アーティストさん』って呼ばれてみたいじゃないですか、絵を描く人間としてはね、そう

いえば、今たまたま思い出しましたけど、DM送ってもないのにわざわざオープニングパーティーにやって来て、酒ガブガブ飲みまくって私の絵をお世辞半分に褒めて

くれた和田誠さんの話にまたしても戻るわけですが、その和田誠さんがオープニングパーティーで酒ガブガブ飲みまくって私の絵をお世辞半分に褒めてくれた際に一

緒に言われた非常に興味深い言葉があるんですけどね、あの時、酒ガブガブ飲みまくって酔っ払った和田さんは『あなたの絵はイラストレーションではないね、これ

は現代アートだね』って不意にポロッと漏らされたんですね、その時は私も相当に酔っ払っていてヘベレケ状態だったものだから、このじいさん、何言ってんだろ?

惚けてんのか?くらいにしか思わなかったんですが、今ふと思い出して何度も反芻してみると甚だ暗示的な言葉ではあるなと思うわけですよ、さすがは『Mr.イラスト

レーション』と呼ばれる大巨匠だけのことはあるな、ただの酔っ払いの耄碌じいさんではないんだな、やはり見る人が見れば一目瞭然すべてお見通しなんだなと思い

知らされるわけですよ、もちろん、何度も繰り返すように、私は自分の描く絵が何であるのか?イラストレーションなのか?現代アートなのか?自分でもさっぱりわ

からずただ衝動のおもむくまま自由気侭に絵を描き続けてきたわけなんですが、『Mr.イラストレーション』と称される大巨匠であるところの和田誠さんに『あなたの

絵はイラストレーションではないね、これは現代アートだね』と言われたということは、つまり、イラストレーションとアートの境界線がどこにあるかの問題はこの

際一旦脇に置いておくとして、少なくともイラストレーション向きではないのかなと思ったりもして、何だか自分の居場所がどこにあるのか、目指すべき場所はどこ

なのか、自分でもわけがわからなくなって混乱してきてしまうんですけど、まあ、ともかく、やはり絵を描く人間として私の目指すべき最終目的地は、私にはアート

であるような気がしてならないとおこがましくも思っているというわけですよ、こんなこと言ってるそばからあまりに恥ずかしくて汗がドバドバ吹き出てきてしまっ

ていますけれども、本当に試しに一遍だけでいいので、愛するあなたの口から是非とも聞いてみたいと思っているので、何とかお願いできませんでしょうか、何卒よ

ろしくお願いします、それでは、いいですか、大丈夫ですね、もう1回行きますよ、よーい、スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何と

も奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前のアーティストさんですよ、あんたはもう廃人なんかじ

ゃないよ!」「ハイ、カット!見て下さい、ほおら、思わず全身にブワーッと鳥肌が立ってしまいました、それから、決して大きな声では言えませんが、勃起もして

います、見せられないのが残念ですけれども、たしかにカチンコチンに勃起までしちゃってます、けれど、けれども、大変申し訳ありません、やはり『アーティスト

さん』などと呼ばれるのは、私の実力からして100年早いと身をもって、たった今、今の今、痛感いたしました次第であります、この鳥肌とこの勃起とがそれを立派

に証明してくれています、100年どころか千年万年早いかもしれませんね、本当におこがましいにも程がありました、穴があったらすぐにでも飛び込んで頭隠して尻

隠さずしたい気持ちでおります、本当に私は身の程知らず恥知らず世間知らず親の心子知らずでありました、慚愧の極みであります、まだまだ修行が足りません、頭

丸めてもう一度幼稚園のお絵描き教室に入り直して、肌色の作り方、赤、白、黄色のバランスからしっかりとやり直したい気持ちでおります、それに毎回毎回『アー

ティストさん』と呼ばれる度に、鳥肌立ててカチンコチンに勃起してたら仕事になりませんもんね、ですので、再び『絵描きさん』に戻しましょう、ただし、将来的

に私が『アーティストさん』と呼ばれるような立場になりたいと密かに心に思い描いていることは紛れもない事実でありますので、私の将来の輝けるアーティスト像

がそこはかとなく感じられるような可能性に満ち溢れたニュアンスをセリフにきっちりと残していただければと思います、それじゃ、もう1回行きますよ、よーい、

スタート!」「これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もう

すっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!」「ハイ、カット!カット!カット!うーんと、ええと、あのですね、全体的なセリフの

バランスや細かい部分のニュアンスは確実に良くなってきてはいるのですがね、うーん、何と言ったらいいのか、パワーダウンしてしまっているというか、少し疲れ

ちゃいましたかね、おじいちゃん、眠くなっちゃいましたかね、ここで一旦休憩を挟みたいところなんですが、かなり時間も押しているようですし、私もさっさと済

ませておうちに帰って夕ご飯食べたいなあとか思っているので、強行突破で続けさせてもらいますけれども、何て言ったらいいのか、空気が違うとでも言いますか、

臨場感が少しばかり足りてないように思うんですよね、疾走感、ライブ感と言ってもいいのかな、ちょっと実際に想像しながら頭からおさらいしてみましょうかね、

吉本さん、いいですか、あなたは今、私の40歳(不惑)を記念した初個展のDMを確かに受け取りましたね、この時点では、私があなた以外の有名人(アラーキー他)にも

下手な鉄砲数撃ちゃ当たる方式の八方美人でDMを送りまくっていたことにはまだ気づいていませんでしたね、DMには『廃人の歌』にわざわざ絵を付けました!!と

一言小さく書き添えてあります、ご大層にも文末に『!!』(ビックリマーク)まで付いてますよ、1本ではなく2本ですね、修正液で何度も修正された痕跡がわかりま

すか、蛍光灯に透かして見れば、3本まで付けた痕跡が見て取れます、かなり煩悶した末の2本(実質3本)ということですね、すなわち『自信満々、乞うご期待!!』

『見逃したらきっと後悔して死んでも死に切れませんよ、這ってでも来たほうが身のためですよ!!』という意味ですね、おそらく相当な自信があるんでしょうね、

ちゃんと読めますか、老眼鏡使ってもいいですからね、虫眼鏡でもハズキルーペでもいいですよ、文末に『!!』(ビックリマーク)が2本付いてることがきちんと確認

できましたね、はい、次です、差出人はまったく会ったこともない聞いたこともない、どこの馬の骨ともわからぬ名前だけど、頼んでもないのに『廃人の歌』にわざ

わざ絵を付けて展示してくれているみたいだし、DMには『廃人の歌』にわざわざ絵を付けました!!と一言書き添えられ、文末にはご大層にも『!!』(ビックリマ

ーク)が1本ではなく2本も付いていることだし、普通は1本で無難に済ませるところを2本ということは、普通に考えて余程のことがない限り2本も付けるなんてこと

は滅多にあり得ないことだから、つまり相当な自信作らしいから、おそらく見逃したら絶対に後悔するだろうし、死んでも死に切れないだろうから、這ってでも見に

行ったほうが身のためだろうなと思い、体の具合がものすごく悪くて、もういつ死んでもおかしくない状態だけれども、個展の最終日に最後の客としてギリギリ飛び

込みセーフの小粋な演出で私をアッと驚かそうと、看護師に付き添われながら点滴をして救急車でギャラリーに横付けし決死の覚悟で私の絵を見に駆けつけました、

はい、ここまでは大丈夫ですね、次です、そして、ギャラリー内に一歩足を踏み入れると、BGMにはチェット・ベイカーがうっすら流れています、写真家のブルース

・ウェーバーが監督した『Let's Get Lost』という、晩年のチェット・ベイカーが謎の転落死を遂げる直前までを追ったドキュメンタリー映画のサントラ盤(傑作)であ

り、そのCDジャケットがさりげなくギャラリーの片隅に飾られています、ジャケットの写真もブルース・ウェーバー撮影の老いぼれたチェット・ベイカーの哀しげな

ポートレイトですね、決して往年の『Chet Baker Sings』の頃の美声には及びもしませんが、そのヘロヘロな歌声が何とも味わい深く胸にじんわりと沁み渡ってきま

すね、はい、そして、そのタイミングを見計らったかのように徐々にギャラリーに流れる音楽がボリュームアップされていって、嫌でもあなたの最近老いぼれてすっ

かり遠くなった耳の穴にも飛び込んできて、これはおそらくチェット・ベイカーだなとすぐにあなたはピンと来ます、いや、もしかしたら、ギャラリーの片隅に飾ら

れていたジャケット写真を見た時すでに気がついていたのかもしれません、これはどちらでも構いません、はい、そして、ここで満を持してギャラリー奥に隠れてあ

なたの一挙手一投足をこっそり窺っていた私が登場してきますから、吉本さん、あなたは、こやつがDMを突然送りつけてきて、『廃人の歌』にわざわざ絵を付けまし

た!!と一言小さく書き添え、ご大層にも文末には『!!』(ビックリマーク)を1本ではなく2本(実質3本)も付けてきた自信満々野郎か、これだけ自信満々なんだか

ら、実際に絵を見てみて全然大したことなかった時はそれこそコテンパンに批評してその自信満々な鼻っ柱をポキッとへし折ってくれようぞと内心思いつつ『なんで

BGMはチェット・ベイカーなの?』と私に尋ねます、私は、待ってました!とばかりに『吉本さんとチェット・ベイカーはそっくりですよね、誰かに言われたことあ

りませんか?』と憧れの相手なので若干緊張しつつ、多少つんのめり気味にボソボソと答えますので、あなたは『チェット・ベイカーってジャズのラッパの人かい、

そんなこと今まで一遍も言われたことないし、全然似てないよ』と突然初対面の私からチェット・ベイカーに似てると言われたことが意外だったのか少し照れながら

答えるものの、チェット・ベイカーに似てると言われたことがまんざらでもなく、おそらくチェット・ベイカーと聞いて『Chet Baker Sings』の若かりし頃のイケメ

ンの彼を想像したんでしょうね、すっかり上機嫌となって、ギャラリーの壁いっぱいにこれでもかと飾られた私の絵を散々褒めちぎり、特に『廃人の歌』にわざわざ

付けられた絵にうっとりと心奪われながら、さすがはDMに『廃人の歌』にわざわざ絵を付けました!!と一言書き添えて、ご大層にも文末には『!!』(ビックリマ

ーク)を普通は無難に1本で済ませるところを2本も付けて自信満々だっただけのことはあるな、見逃したら危うく後悔するところでもあり、死んでも死に切れなかっ

たろうから本当に這ってでも来てよかったなと大絶賛した上に、なんと、その絵を『洗面所の横の壁に似合いそうだな』とか何とかボソボソ独り言を言って衝動的に

ポケットマネー10万円ポンと気前よく支払って購入し、『何なら、俺の遺産を半分あんたに相続させてやってもいいくらいだよ、カミさんや娘たちとも相談しないと

いけないけどな』とか何とか冗談まじりに付け加えて、さらには、生命力溢れる私の『素敵な絵』をたくさん見たことにより生きる希望をおすそわけしてもらって、

すっかり有頂天となったあなたは、もういつ死んでもおかしくないほど衰弱し切った点滴姿の瀕死の老体に鞭打って、自身の体内に残された最後の力を必死に振り絞

るかのごとく、私と2人(正確には看護師も含め3人)で身を寄せ合い、クローズ時間をとっくに過ぎてまさに貸し切り状態となったギャラリーで、チェット・ベイカー

の『Let's Get Lost』に合わせてダンスを踊るのです、正直に言えば、点滴と看護師がダンスの邪魔となって相当うざかったのは事実でしたが、あなたと私は、互い

に肩と腰にぎこちない手を回し合い、頬と頬を寄せ合いねっとりと密着させ、ロウソクの炎のように静かにゆらゆらと揺れながら、時にゆっくり一回転する大胆な妙

技を披露したりするも、基本的には死にかけのお年寄りのあなたにも十分可能な範囲内での無理のない慎ましくささやかな動きであり、時に私は触れ合ったあなたの

痩せこけた頬から微かな死の匂いを確と感じとり、代わりにあなたは触れ合った私の頬に生い茂る無精髭から猛々しい生の匂いを確と感じとり、時にギャラリー外に

路上駐車した救急車の真っ赤に点滅回転する光がギャラリー内にも洩れ入ってきて、ダンスに興じるあなたと私と(正確には看護師も含め3人)をミラーボールのように

怪しく照らし出して、それは見ようによっては、昔のアメリカ映画によく出てくる場末の鄙びたダンスホールで、まさに生と死がダンスを踊っているようにも見え、

時にあなたの不器用によろめく足が私の足を誤って何度も無遠慮に蹴飛ばしてきたりもしますが、そんな些末な粗相にはお構いなしといった素振りで、私は瀕死のあ

なたをやさしく慈しみ労いながらも『案外お上手ですね』と茶化せば、あなたは『何しろ久しぶりのダンシングになるからね』とはにかんで見せ、そんな束の間のあ

なたと私の戯れは、端からみれば、そんなのダンスとは呼べねえよと揶揄する声も聞こえてきそうですが、あなたと私にとっては、れっきとした最初で最後の、文字

通りラストダンスとなるわけで、そんな冷やかしの声には一切耳も貸さず、あなたと私は無我夢中で2人(正確には看護師も含め3人)だけの甘美な世界へと没入してい

き、いっそこのまま2人(正確には看護師も含め3人)で『Let's Get Lost』どこか遠くへずらかっちまおうかなんて一瞬思ったりもしますが、瀕死のあなたにはそれも

叶わぬことなのです、そして、その時、それが叶わぬのならばせめて最後にと唐突に思い立ったあなたは、触れ合っていた頬を一旦離し、私の瞳を見つめ、おもむろ

にあなたのかさつきがちな唇を私の唇へピタリと重ね合わせてきます、私は一瞬ビクリと驚いて(それはビックリマークに換算すれば『!!!!!!!!!!』10本

分の驚きであり)、それから『いけません』と言うかわりに、あなたの痩せこけた薄い胸をやんわりと押し返し、その時、私は一瞬あなたのドゥクンドゥクンと高鳴

る胸の鼓動を掌に感じて、それでも、あなたの唇は決して諦めずしつこく私の唇をストーカーのごとく追いかけ回してきて、さらには、どこにそんな余力が残されて

いたのか不思議に思うほどの強い力で私の頭を両手で挟み込むように乱暴に押さえつけガッチリ固定したのち、再び、あなたのかさつきがちな唇を私の唇へピタリと

重ね合わせ、今度は思い切って私の唇をこじ開け、あなたの干涸びかけた苔でも生えてそうな舌を私の口の中へと無理やりねじ込んでこようとします、そう、それは

以前『ヘタクソ』という言葉のニュアンスを説明する際に少し触れた、いわゆる『フレンチキス』と呼ばれる、その名の通り、ドスケベなフランス人がする、もうエ

ゲツナイ、貪り合うような、ケダモノじみた、変態的なSEXへと直結する、ロマン溢れる激しいキスであり、その時、あなたの口腔から強烈な死の匂いを確と感じとっ

た私は、今度はハッキリ『いけません』と声に出して、不意のあなたの狂奔を制して、それから慌てて『それは、あなたが嫌いなのではなく、むしろ大好き過ぎるか

ら、そんなキスをされたら私はもうヌルヌルビショビショの濡れっぱなしになって頭がおかしくなってしまいますよ』といった主旨の言葉を付け加えます、あなたは

一瞬寂しげな表情で『そうだよね、やはり未練を残してしまうもんな』と笑って、そして再び2人頬を寄せ合いダンスを続けます、そうこうしているうちに、やがて

『Let's Get Lost』の最後の曲 "Almost Blue”(エルヴィス・コステロのカバー曲)も鳴り止んで、ギャラリーに静寂が訪れます、時は何とも無情で楽しい時間ほどあっと

いう間に過ぎ去ってしまうものですね、あなたと私はいつまでもいつまでもできることならば永遠に2人(正確には看護師も含め3人)だけの世界でダンスを踊り続けてい

たかったのですが、そういうわけにもいかないのです、私はこんなことならリピート再生機能をONに設定しておけばよかったなと後悔しつつも、あなたと私はゆっく

りと触れ合った頬を離し、寄せ合った体を離していきます、そろそろお別れの時間が近づいてきましたね、そして、帰り際、あなたはギャラリー出入口で名残惜しそ

うに一旦立ち止まり、ゆっくりと振り返り、私に向って、こうセリフをつぶやくのです、そう、それは決して無理やり言わされたセリフなどではなく、あなたの口か

ら思わずポロッと溢れ零れ出てしまった、もういつ死んでもおかしくないほど体の具合が芳しくないあなたの心の断末魔の叫びのようなものなのです、そう、吉本さ

ん、あなたは私の瞳をじっと見つめ、ずっとそらさず、しみじみと心を込め、こうセリフをつぶやくのです、さあ、ご一緒に!『これだけギャラリーの壁いっぱいに

ヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう

廃人なんかじゃないよ!』さあ、続けて、ご一緒に!『これだけギャラリーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力

があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんですよ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!』さあ、皆さん、ご一緒に!『これだけギャラリ

ーの壁いっぱいにヘタクソだけど何とも奇妙な味わい深い素敵な絵を飾れるくらい描ける力があるんだから、大したもんだよ、もうすっかり一丁前の絵描きさんです

よ、あんたはもう廃人なんかじゃないよ!』この臨場感、このライブ感です、この勢いのままこのまま行っちまいましょう、もう本当にこれで今生の別れと思って、

この世に言い残すことなど他に何一つないといった太々しい覚悟をもって、さあ、準備はいいですか、今度こそビシッと決めて下さいね、それでは、行きますよ、よ

ーい、スタート!」その後もなんだかんだと難癖をつけては結局合計100テイク近くも例のセリフを散々言わせた末にようやく私はOKを出してやり、吉本隆明は「も

うこれ以上は本当に勘弁してくれよ、こっちが廃人になっちまうよ」とボヤきながら、あの世へと旅立って行って、私は「あの世でチェット・ベイカーと兄弟仲良く

して下さいよ、なんてったって、おすぎとピーコくらいそっくりなんですからね、あ、そうそう、例の遺産相続の話は、奥さんや娘さんたちともじっくり相談の上で

慎重に進めさせてもらいますから、安心してあの世をエンジョイして下さいね」と見送って、そして、私と吉本隆明との密かな交流は静かに幕を閉じるのであった。

2021.5

 

 

 

 

 

16.『Spell / 言霊 (仮)』

 

 

書くべきか書かざるべきか正直相当迷ったけれど、こんな場末のうらぶれた飲み屋の最奥、糞尿ゲロ塗れな便所の壁に書き殴られたような愚にもつかぬ文章を好き好

んで読む者などほとんどないと思われるがゆえ、これは是が非でも書かねばならぬことだから、是が非でも書かねばならぬのだ、と己を無理矢理に奮い立たせ、猪突

猛進と書きはじめることにする。もしかしたら、不謹慎極まりない話と不快感を催す者も現われるやもしれぬが、私はもう随分と前から「他人の顔色などは一切窺わ

ずに、自分が書きたいものを、書きたいように書いていく」「己の心ときちんと対峙し、己の心の奥底に巣食う愚劣なものや醜悪なものまで含むすべてを正直に曝け

出した上で、その中から美しいものを発見していく」と腹を括ってもいるがゆえ、やはり書かねばならぬことは、書かねばならぬのである。そういった不謹慎極まり

ない話など断じて読みたくはない、という清純派指向の者たちは直ちにここから立ち去るのが得策であろう。万が一、何かの間違いから読んでしまった後に、どのよ

うに捉えようと読み手側の勝手ではあるけれど、用心に用心を重ね、事前に注意まで喚起しておいたので「やっぱり不謹慎じゃねえか!」だの「てっめえ、何てこと

書いてんだよ!」だの「ふざけんな、コラっ!」だのと文句を垂れられても、私には責任を被る筋合いが一切ないことを明言し、いざ書きはじめることにしようか。

2020年夏の盛り、ある1人の広告関係者が天に召された。仮にOさんとしておく(そのまんまだが)。Oさんは広告業界で知らぬ者がないほど有名な広告制作者、いわ

ゆるスタークリエイターと呼ばれる存在であったから、おそらく広告関係者にはこれだけで誰だか通じることであろうが、広告にまったく興味のない者たちにとって

は、実際に名前を聞いても「誰だい、そりゃ?」といった知名度であろう。いかに広告業界において「スター」として燦然と輝こうとも、広告屋は広告屋、井の中の

蛙、掃き溜めに鶴、所詮は裏方稼業なのである。がしかし、日常的にTVを視聴する習慣のある者ならば誰しもが、生前のOさんが手掛けたTV-CMを一度は目にしたこ

とがあるに違いない。亡くなる間際まで、現役広告制作者(特にTV-CM)の中では、最も有名かつ優秀なスタークリエイターの1人であったと認識するところである。

有名な人物が誰か亡くなると、哀悼の意もそこそこに死人に口なしで、大して親しくもないのに生前親しかったと得意顔に語って悦に入る輩が時折見受けられるが、

あらかじめ断っておくけれども、私にはそのような思い出話をひけらかす意図はなく、もちろんOさんの死を嘲笑し愚弄する意図もなく、話の流れから書かざるを得

ないから書くのである。Oさんと私とはまったく親しくもなければ、私には特段世話になった覚えもなく、大昔に何度か仕事を一緒にする機会があったという間柄に

過ぎぬが、もう長きにわたり広告業界に対し不信感不快感および嫌悪感を抱き続けてきた自称「広告大嫌い」の私も、Oさんに対してだけは特別待遇で、現在に至っ

てもなお不思議と悪印象はこれっぽっちも持ってはいないのだった。今から四半世紀ほど前の1990年代半ば前後、私がフランク・ザッパのバンド名から取って名づ

けられたTV-CMプロダクション(頭文字M)で働いていた頃のこと、私は下請け制作プロダクションに入社2年目、おまけに一番下っ端という立場にあったが、当時すで

に大手広告代理店(頭文字D)の花形スタークリエイターとして名を売りはじめていたOさんは、末端スタッフの私ごときに対しても常に紳士的な態度で、時に気さくに

話しかけてくれたりもして、体育会系の男臭さと聡明なインテリジェンスを兼ね備えた、若かりし日の三船敏郎を彷彿とさせるナイスガイという印象であった。そん

なOさんのことを人は皆、ダンディーと褒めそやすけれども、私の目には、そこはかとなく漂う陰こそが、Oさん最大の魅力と映った。その陰の部分はOさんの手掛け

るCMにも確と顕われていて、他のCMプランナーたちとはひと味もふた味も違った独特な視点(おそらく人間の暗部/陰部を見つめる冷徹なまなざし)があり、人間の持

つダークサイドを炙り出し積極的に描こうとしていることが素人目にもわかり、こういう魅力的な好人物が広告業界にまだ存在するならば、もしかしたら広告という

仕事にも仄かな希望が持てるのかもしれぬ、と当時入社2年目にして早くも広告に嫌気がさし心底うんざりしていた私にとって、Oさんという存在は、私を広告業界の

一隅に繋ぎ留める重石の役割も担っていたことをOさん本人はもちろん知る由もなかったが。私は生来他人と容易に打ち解けられるタイプの人間ではなかったため、

Oさんとも単にビジネス上の付き合いに終始したわけだけれども、そんな表層的な関係の中にも、私にとっては印象深い記憶が2つ3つくらいは残っているのだった。

一緒にした仕事のひとつに3年ほど続いたビールのCMがあり(引退したプロ野球選手たちが新球団を結成するという設定の茶番劇で、スポーツ全般にからきし興味のな

い自分には、ただただ尋常でなく大変な苦労をさせられ、その鬱憤ばらしに、撮影用に大量調達した、さして美味いとも何とも思えぬ薄味なビールをヤケ酒していた

記憶が残っているのみであり、おまけに商品自体もさっぱり売上が伸びずじまいであったそうだが、世の野球好きや業界的には好評を博していたようだった)、通常ビ

ールのCMというのは年間シリーズで何本も撮影するため、Oさんとは何度も顔を合わせていたはずだけれども、お世辞にも出来の良い制作スタッフとは言えなかった

私に対し、Oさんはさほど良い印象を持ってはいなかった、というよりも、おそらく認知すらされていなかった、と思われたが、ある時、ふとした雑談の流れから、

Oさんと私とが高校と大学(学部も含め)の同じ16年違いの先輩後輩に当たることが判明し(ただし私は大学入学後すぐに辞めてしまっていたために)、そんなうだつの

あがらぬ出来損ないの後輩に対して、Oさんは「俺の華麗なる経歴にケチ(傷)をつけるんじゃないよ!」とどこか嬉しそうに笑いかけてくれて、それからというもの、

Oさんの私に対する態度に親密さが若干増したように思われたのは錯覚であっただろうか。また、ある時、例の老いぼれ新球団が、何を血迷ったものか面倒なことに

大リーグにまで進出することとなって(もちろんこれも茶番に決まっているが)、海外ロケに行くことになり、恥ずかしながら海外が初めての経験だった私は、チェッ

クイン直後のホテルの部屋で突然電話のベルが鳴り響いた時、何と言って受話器を取ればよいものか咄嗟には思いつかずに慌てて「Yeah!/イエーイ!」と出てしまい、

相手のプロデューサーから「何を浮かれあがってんだい、バカ!」と嘲笑されるなど、些か浮ついた調子と緊張した調子とが入り混じった複雑な心境にあり、当時も

相変わらず末端スタッフだった私は、毎朝スタッフ全員にモーニングコールをかける役目も担っており、もちろんOさんにもモーニングコールをかけたわけだけれど

も、Oさんからは「悪いんだけどさ、明日からかけてこなくていいよ、気持ち悪いから」と言われる始末、私にしたところで仕事だから仕方なくかけているわけで、

そこまで言わなくとも、と少々傷ついたものの、他にも5人ほどから同様に「気持ち悪いよ」と言われたので、実際相当気持ち悪かったのかもしれない。また、ある

時、編集作業中の手持ち無沙汰にかこつけて、今までにボツになった大量の絵コンテをOさんに見てもらう機会を得て、私の下手くそな絵コンテにサクサクと目を通

してくれたOさんは「言葉がすごくいいね、もしかしたら君は将来有名になるかもしれないよ!」と冗談半分で私にやさしく言葉をかけてくれたものの、その時すで

に私の広告アレルギーは手の施しようもなく、結局その数年後27歳の時に私はたまたま読んだ坂口安吾の小説『白痴』にそそのかされ背中を押される形で、無謀にも

藝術家になると宣って、広告などやってられるかと丸6年勤めたフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)を去る運びとな

り、残念ながらOさんの予言が的中することはなかったわけだけれども、人は誰かに褒められた記憶は(誰かに怒られた記憶と同様に)一生涯忘れぬものであり、その時

の喜びは今もまざまざと思い出せるほど私の心に深く刻み込まれているのだった。もしも私がフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクシ

ョン(頭文字M)を辞めずにいたならば、Oさんと一緒にCMの企画や演出をしていた可能性もなきにしもあらずだったが、何の因果か知らぬがOさんとは進む道が完全に

別れてしまう運命となり、一度私が紆余曲折の末、広告業界に舞い戻りフリーランスとなった直後、思い切ってOさんを訪ねてみようかと思い立ったことがあったも

のの、広告業界から尻尾を巻いて逃げ出して再びブザマにも舞い戻ってきてしまった根性なしの恥知らずがどの面を下げて会いに行けるだろうか、という自嘲まじり

の羞恥心が邪魔をして結局実現はせずも、学歴がほぼ一緒16歳上の大先輩に当たるOさんという存在は、自称「広告大嫌い」の私の心の片隅に不思議と残り続け、そ

の後Oさんは大手広告代理店(頭文字D)から独立し、日本初のクリエイティヴ・エージェンシー(頭文字T)を立ち上げ、広告以外にも著書を出版するなど、その活躍は

幅広く、時折インタビュー記事も拝見していたが、おそらくOさんは昨今の日本の広告のクリエイティビティの見るも無惨な衰退と閉塞に対して危機感をハッキリと

公言していた唯一の現役広告制作者であり(広告屋は広告批判はもってのほか、仕事を干されるのをビビって何も言えやしない)、特にここ最近5~10年のTV-CMのク

リエイティビティの極端な劣化傾向に諦めにも似た警鐘を鳴らしており、私自身も昨今のTV-CMの洒落にならぬほどの胸糞の悪さには大いに辟易しており、その原因

について真剣に考えを巡らせていたため、その観点からも、私はOさんに対して特別な好感を抱いてもいて、かように愛憎半ばに屈折した複雑な感情を心の奥底に秘

めていたという事情もあったものだから、Oさんの訃報が届いた時、私は、普段ならば、無関係の他人が1人死のうが2人死のうが、どこぞの広告屋が何人死のうが、

人は死ぬ時期や死に方に程度の差こそあれ遅かれ早かれいつか必ず死ぬ定め、まったく痛くも痒くもないわけだけれど、Oさんの死だけは本当に特別で、広告業界で

一番まともな人間が一番早く逝ってしまわれたな、これで日本の広告も完全に終わってしまうんだろうな、と少なからず残念に思うと同時に、ある突拍子もない考え

が私の頭の中に浮び上がってきて、思わず背筋がゾッとするのだった。それは「Oさんを殺したのは私かもしれない」という何とも穏やかならぬ考えなのであった。

……

Oさんの突然死からさかのぼること約2ヶ月前の2020年6月末、コロナ禍の不穏な空の下、私は『Search and Destroy / スタークリエイター連続殺人事件 (仮)』という些

か物騒なタイトルの厭味ったらしい文章をここに書き記した。ページの下のほうを探せば、まだ消さずに残してあって、さほど長くもないので、興味があれば一読し

てもらえばよいけれど、要約すると「2000年代初頭、私が広告業界でフリーランスとして仕事を開始する際、営業ツールの企画サンプルとして配って回っていた『ぼ

つコンテ集』(過去に仕事で提出し採用には至らずも自分では非常に気に入って保存しておいた絵コンテ約100枚ほどを1冊に簡易的にまとめた手作りの冊子で、私の広

告業界における血と汗と涙が滲む苦闘の歴史、情念や執念がぎっしりと詰まった、見る者によっては胃もたれや胸焼けや消化不良を引き起こしかねない、非常に濃ゆ

いディープな内容)から企画アイデアをネコババ・ヨコドリする不届き者が現われ、常々私は企画アイデアを考える際は子供を産み落とす感覚でそれこそ命懸けで臨ん

でいたために、あたかも子供を嬲り殺された親が復讐を誓い卑劣な凶悪犯人を執念深く地獄の底まで追いつめていくかのごとく徹底的に調べ上げていくと、ある特定

の者たちが常習的にパクリ行為を繰り返し、私の『ぼつコンテ集』を食い物にしていることが判明、その中には広告業界で超有名なスタークリエイターと呼ばれる者

たちも複数含まれ、彼らのパクリ行為は常軌を逸して悪質、20年近くを経た現在に至っても依然パクリ行為を続けており、物事には限度というものがあり、普段は温

厚篤実なジェントルマンを自認する私も思わず殺意を覚えるほどに悪質であるがゆえ、絶対に許してはおけぬ、悪事を働けばいつか必ず自分に跳ね返って来るはずだ

から、そのうち天罰が下るぞよ、首を洗って待っておけ!」といった主旨を、時に照れ隠しの上質なユーモアなども交えながら、自分ではかなり客観的かつ論理的に

書いたつもりだったが(実際は怒りが滲み出てしまっている)、もちろん誰か他人を殺してやりたいなどと言葉にすること自体が根本的に下品な行為であるのは百も承

知の上、それでも書かずにはおられぬから、やむにやまれず、私は書いたわけであり、私のこの殺意を覚えるほどの激しい怒りは至極真っ当な怒りであり、実際に行

動に移すか否かは別の話として、決して冗談でも何でもなく正真正銘ホンモノの殺意であり、それは、たとえるならば、畑の作物を食い荒らすだけに留まらず、勝手

に家に土足で上がり込み、冷蔵庫を勝手に物色し食い散らかすどころか、しまいに恋女房や愛娘まで掠奪していく、悪辣非道な猿どもをいつか必ずショットガンで撃

ち殺し仇を討ってやりたいと心から願う農夫の怒りと哀しみにも似た感情を、私はもう20年近くも心に秘め続けてきたものだから、その積年の恨みつらみにまかせて

『Search and Destroy / スタークリエイター連続殺人事件 (仮)』というタイトルの厭味ったらしい文章を書き記した直後の私の心は、長年胸につかえていたものがと

れ、晴れやかな気分になり、四六時中つきまとわれ思い病み悩まされ続けてきた理不尽な怒りの根源的な原因が論理的に整理され精神的にかなり楽になったのも事実

だが、しかし、言葉に吐き出しスッキリしたとはいえ、依然として私の殺意を覚えるほどに狂おしく燃えあがる激しい怒りの炎は、一時収まりかけはしたものの、実

質的には微塵も弱まることはなく、相手に対し殺意を覚えるほどの激しい怒りを抱きつつ、その思いを相手に直接伝えられない不甲斐のない己に対する怒りやもどか

しさや、さらには、悪事を働きながら彼らが現在も何らのおとがめもなくのうのうとスター気取りでメディアにアホ面晒して己のクリエイティビティを語り悦に入っ

ているという理不尽で醜悪な現実も相まって、わが怒りの鉾先であるところの悪辣非道、厚顔無恥な猿ども、否、スタークリエイターたち(その他雑魚クリエイターお

よび子飼いの制作プロダクション関係者など)に向けられた怒りの炎は、なんとも皮肉なことには、書く以前よりもむしろ強く激しく燃えあがってしまっているように

も見えるのだった。そんな矢先、折も折、私がそのような『Search and Destroy / スタークリエイター連続殺人事件 (仮)』という些か物騒なタイトルの厭味ったらしい

文章を書き記したその約2ヶ月後(実質1ヶ月後)、あたかもタイミングを狙い澄ましたかのごとく、突然Oさんの訃報が届いたものだから、私が「Oさんを殺したのは私

かもしれない」と不謹慎にも考えてしまったのも無理もない話なのだった。もっとも、私が『Search and Destroy / スタークリエイター連続殺人事件 (仮)』というタイ

トルの厭味ったらしい文章の中で、実際に殺意を覚えるほどの激しい怒りを向けている複数のスタークリエイターたちの中にOさんは含まれておらず、正常な頭で考え

れば、私が『Search and Destroy / スタークリエイター連続殺人事件 (仮)』という文章を書いたことと、日本の広告業界を代表するスタークリエイターの1人であったO

さんの死との間に因果関係などあるはずもなく、仮に因果関係があったとして、それを科学的に立証することはもはや不可能に近いわけであり、また、前述の通り、

自称「広告大嫌い」の私も、Oさんに対してだけは例外的に好感を胸に秘め続けてきたことは紛れもない事実であり、怒り、ましてや、殺意などは微塵も抱いていない

ことは火を見るよりも明らかではあるものの、なんとも奥歯に物が挟まったかのごとく、甚だもどかしいことこの上ないことには、その因果関係がまったくない(完全

に無関係である)と言い切ることもまた私には不可能なのであった。それは、世の中には「絶対」などというものは存在しないという抽象的かつ哲学的なる意味合いに

おいてでは決してなく、私にはこの少しばかり複雑怪奇、摩訶不思議な因果関係を説明しようと思えば説明できてしまえる根拠があるからに他ならないのであった。

……

Oさんの訃報が届いた時すぐさま私の頭の中に浮んだ「Oさんを殺したのは私かもしれない」という不吉な考えを「そんなバカな話があるか」「ただの偶然に過ぎぬ」

「冗談は休み休み言いたまえ」と私が簡単に笑い飛ばすことができぬ理由、つまり、私が『Search and Destroy / スタークリエイター連続殺人事件 (仮)』というタイ

トルの文章を書いたことと、その約2ヶ月後、まるでタイミングを見計らったかのごとく、日本の広告業界を代表するスタークリエイターの1人であったOさんが亡く

なったこととの間の因果関係について詳しく推考していくことにしようか。もっとも、Oさんの名誉にかけて、Oさん自身は決してパクリ行為に手を染めてはいない、

と私はここに断言できるし、そもそも、Oさんは大手広告代理店(頭文字D)から独立して以降はクリエイティヴ・ディレクションの仕事が大半で自ら企画をほぼ手掛け

ていないと思われるが、残念ながら、前述した私の『ぼつコンテ集』のパクリ行為に関して、Oさん本人が完全に無関係、清廉潔白の立場にあると断言するわけにも

いかないのだった。つまり、決して故意ではないにせよ、Oさん本人の与り知らぬところで、無意識のうちに悪事(パクリ行為)に加担してしまっている可能性を完全に

は否定できないのであった。もちろん、実際に私は企画打合せの場に居合わせたわけではなく、企画が成立した経緯の詳細を知り得ず、何かの間違いや私の勘違いで

なければの話ではあるけれども、例えば、Oさんの仕事の関係者(実質的な企画立案者で、Oさんの下についたCMプランナーもしくはその下の子飼いの制作プロダクシ

ョン関係者など)が前述のパクリ行為に手を染めていて、その関係者のパクリ行為によって成立した仕事の報酬を、クリエイティヴ・ディレクターであるOさんが間接

的に享受している可能性があるというわけである。その可能性を私は決して無視することはできず、それを踏まえた上で、私が『Search and Destroy / スタークリエ

イター連続殺人事件 (仮)』というタイトルの文章を書いたことと、日本の広告業界を代表するスタークリエイターの1人であったOさんの死との間に何らかの因果関係

があることを疑い、結果「Oさんを殺したのは私かもしれない」という不吉な考えに至ったというわけであった。さらに加えて、そもそもOさんは病気で亡くなられた

わけだから、私が直接手を下して死に至らしめたなどと考えること自体が荒唐無稽な話であり、正気の沙汰とも思えぬわけだけれども、にもかかわらず、私が「Oさ

んを殺したのは私かもしれない」という不吉な考えに固執する理由とは、今回のOさん以外にも過去に似たような形で亡くなられた人たちが複数存在するという事実

を前にしてであった。もちろん、過去のその第三者たちの複数の死と私との間の因果関係についても科学的に立証することはほぼ不可能に近いわけだが、因果関係が

100%ないと完全に否定することも難しく、私にはその因果関係を説明しようと思えば説明できてしまえる根拠があるからに他ならず、かつ、少しばかりその数が多

いようにも思われるからであった。さすがに洒落にならなくなるので詳細を書くことは差し控えるが、今回のOさんの死は、確認できる範囲において通算10人目の死

に当たるのであった。その10人すべてが、過去に私の『ぼつコンテ集』から企画アイデアを盗んだ者またはその関係者、それ以外の私の仕事(主に企画立案作業)に対

し正当な対価(ギャランティ)を支払わなかったり一銭も支払うことなく逐電するなど、私の仕事の成果に対し最小最低限の敬意を表したり配慮を示さず蔑ろにした者

またはその関係者、その他、私に対し倫理的に度し難いほどの不誠実な行為や不義理を働いた者またはその関係者なのであった。さらに、この10人という死者数は、

あくまで私が因果関係の可能性を確認できた数であり、私は探偵スパイ業に専念し生業としているわけではなく、すべてのパクリ被害を洗いざらい調べ上げた上で、

その相手(加害者)をすべて特定できているというわけでもなく、陰でコソコソ上手いことやってパクリ行為自体がいまだ発覚していないケースも多々あると思われ、

また、すべての因果関係を確認し把握することなど、いかに情報網の発達した現代にあっても到底不可能であり(Oさんのように余程有名な人物でもなければ訃報は届

かず、関係者の身内の不幸などはググっても出てきやしない)、実際の数はさらに増える可能性もあり、また、死に至らずも、何かしらの大失態をやらかして社会的に

抹殺されたケース(社会的な死)や、会社が倒産したケース(会社の死)なども加えると、その総数は優に50を超えるのであった。つまり、私が広告業界に身を置いてい

た約15年および現在までの間に10人が亡くなり、その他社会的な死や会社の死が40、合計50を超える計算になるわけである。かように過去の私の周辺において因果

関係の曖昧模糊とした穏やかならぬ事例が多数存在するがゆえ、Oさんの死を知った時も私は直感的に「Oさんを殺したのは私かもしれない」などと不謹慎にも考えて

しまったという次第であった。もちろん、何度も繰り返すが、過去のそれらすべての事例の因果関係を科学的に立証することは不可能であり、ただの偶然に過ぎぬと

笑い飛ばすことも可能なわけだけれども(私も正直ただの偶然であって欲しいと心から願っているが)、いかんせんその数が多過ぎるのである。さらに、誤解を招くと

いけないので念のためつけ加えるならば、それら過去の穏やかならぬ事例はすべて私が願って望んだ結果として引き起こされた災厄というわけでは決してなく、つま

り、私が彼らに対して呪いのような負の力(もしもそんな力が存在すると仮定して)をかけた結果として彼らに災厄が振りかかったというわけでは決してなく、もちろ

ん金銭的トラブルや倫理的トラブルが起こった際、私の心の中に「パクってんじゃねえよ」「ちゃんと金払え」「ふざけんな」「ナメやがって」など怒りの感情が湧

き上がってくるのは人間として当然の現象であるわけだけれど、それも余程度し難く悪質なケースでもない限り、私に対し不誠実な行為や不義理を働いた相手とは、

それ以上関わると運気が下がってしまう恐れがあるため、また「人を呪わば穴二つ」という言葉もある通り、なるべく可能な限りにおいては誰か他人に対して呪いの

感情などは持たぬよう私は常日頃心掛けてもおり、トラブルに発展した相手とは金輪際縁を絶ってしまうことを常としておるため、理不尽で不愉快な目に永続的に遭

わされ続けるなど常軌を逸して悪質なケースを除いて、そのような相手(加害者)と縁を絶った時点で不吉な記憶などきれいさっぱりと忘れてしまって、その後もズル

ズルダラダラと怒り続けるということも滅多にないため(ゼロではない)、過去のすべての穏やかならぬ事例は、トラブルが起きてから何年も後になって、私の怒りも

すっかり収まり、過去に怒りを抱いたことすらもすっかり忘れてしまっていた頃に、そういえば、あの時の例の彼らはその後いかがお過ごしであろうか、などとふと

思い出し何気なく調べてみた結果、彼らに何かしらの災厄が振りかかった事実を偶然知ったり、もしくは、風の噂で彼らに災厄が振りかかったようだと偶然耳にした

りなど、私が彼らに振りかかった災厄を知るきっかけは様々であるけれども、私自身が彼らから受けた理不尽で不愉快な行為やその記憶などとっくの昔に忘れ去って

しまった後になって、彼らの災厄を思いがけず知るといったケースがほとんどなのであった。そして、そんな時、私の心は「それ見たことか!」「ザマアミロ!」な

どと痛快な気持ちで溜飲が下がるというわけでもなく、多少驚きはするものの、いつもなんだか狐につままれたような不思議と冷静沈着な気持ちで「もしかして、ま

たか」と直感的にすぐにピーンときて、その因果関係に確信を得てしまうのであった。そして、そういった私の直感は昔からあながち間違ってもいないのであった。

……

かような過去の私の周辺で起こった数々の金銭的トラブルや倫理的トラブルにまつわる穏やかならぬ事例の因果関係について、今回のOさんのケースとも絡めさらに

詳しく独自の仮説を立てていくことにしようか。もっとも、これらの仮説は、私が直感的に確信を得ているという点のみを根拠とし、端からみれば、実際ほとんどが

荒唐無稽で強引なこじつけ、狂人の妄言と片づけてもよいくらいの眉唾物であるが、私にとっては一概にそうとも言い切れぬのだった。例えば、こう考えてみるのは

どうだろうか。人は他人から不愉快な目に遭わされたり理不尽な悪事を働かれた際、倫理を欠いた不誠実な加害者に対してそれ相応の激しい怒りを抱くのは、人間と

して至極当然の生理現象であり、度が過ぎれば、実行するしないはさておき、殺意を覚えるほどの激しい怒りに至るケースも決して珍しい話でもなく、一生のうちに

殺してやりたいほど憎たらしく思う相手の1人や2人いや5人6人7人くらいは誰しもが心の奥底に秘めているであろうことを大前提として話を進めれば、過去の仕事上

における金銭的トラブルや倫理的トラブルに遭遇した際、私自身から発した殺意を覚えるほどの激しい怒りの感情が、何らの解決策も得られぬままに行き場を失くし

宙を彷徨い続けているうち、私自身の与り知らぬところで、もしくは、何らかのきっかけにより、凶器と化してしまい、目に見えぬ鋭い刃(やいば)となって加害者や

その周辺の関係者へと向ってしまうという説である。今回のOさんのケースに具体的に当てはめてみると、もうかれこれ20年という長きにわたり常習的に私の『ぼつ

コンテ集』から企画アイデアをネコババ・ヨコドリし散々食い物にしてきた不届き者たちに対する私の殺意を覚えるほどの激しい「怒り」の感情が、行き場を失くし

宙を彷徨い続けていたところ、たまたま、私が『Search and Destroy / スタークリエイター連続殺人事件 (仮)』というタイトルの不吉な文章を書いたことをきっかけ

として「言霊」も加わり、さらには、常々私が仕事に臨む際に精魂込めて描いていた絵コンテに宿っていた「魂」および、その集積と呼んでもよい『ぼつコンテ集』

の中に封じ込められていた、私の血と汗と涙が滲む「情念」や「執念」、さらには、広告業界で持てる力を思う存分に発揮できず、つまり成功することが叶わなかっ

た、がゆえに自称「広告大嫌い」である私の広告業界に対する積年の不信感不快感および嫌悪感に起因する「怨念」も加わり、それらが混ぜこぜとなって、それぞれ

の相乗効果で、どエラいことになってしまった状態で、偶然なのか必然なのかは見当もつかぬが、その鉾先が日本の広告業界を代表するスタークリエイターの1人で

あるOさんへと向ってしまったという説である。もしくは、例えば、こう考えてみるのはどうだろうか。前述した絵コンテに宿る「魂」および、『ぼつコンテ集』に

封じ込められた「情念」や「執念」とも関連してくる話だが、私の『ぼつコンテ集』が、ホラー映画『リング』の中に出てくる、観た者が必ず死に至るという設定の

「呪いのビデオ」のような役割を担ってしまっていて、私の『ぼつコンテ集』から企画アイデアを盗む者およびその関係者には、ことごとく災厄が振りかかってしま

うという説である。もしくは、例えば、こう考えてみるのはどうだろうか。私に憑いている守護霊の1人に『必殺仕事人』の中村主水のような存在がおり、私の与り

知らぬところで勝手に加害者やその関係者に対して仇討ちを代行してくれているという説である。ここまでくると何とも怪しげなオカルト/スピリチュアル系のトンデ

モ話に発展してしまいそうだが、この世には、科学的には決して解明できぬ人知を超えた複雑怪奇、摩訶不思議な話が多数存在する。平将門の怨霊、四谷怪談、呪い

の藁人形、髪が伸びる人形、涙を流す絵、などなど、それらは一見荒唐無稽な与太話のようでいて、絶対にありえぬと断言することもできぬ話なのである。例えば、

神社仏閣の賽銭箱を漁る盗人や乞食が果たして幸せになれるであろうか、と考えてみる。賽銭には人々の強い思いや願いが込められており、それらを盗むということ

は、すなわち、結果的に、人々の思いや願いまでもを踏みにじる行為となり、そのような他人の強い思いや願いが込められたものを安易に踏みにじれば、踏みにじっ

た者にそれ相応の罰が当たるのが当然の報いであると思われる。いい加減な気持ちで作られたものならばいざ知らず、藝術や創作や表現の世界においては、絵に限ら

ず、作り手が真剣に心を込めて作った作品/創作物に魂が宿るとよく言われる。他人が精魂込めて丹念に、それこそ身を削り命懸けで、自らの子供、自らの分身を産み

落とすかのごとく真剣勝負の覚悟で表現した成果を、どこぞの馬の骨とも知れぬ赤の他人である第三者が、敬意も配慮も仁義もへったくれもなく、己がただただ楽を

したいといった恐ろしく安易な軽い気持ちから勝手にネコババ・ヨコドリし、横からかっさらっていき、己の手柄にして不当に金や名声に換えるなど、目先の醜い我

欲を満たす目的に利用し弄び蔑ろにしたならば、そこ(作品/創作物)に宿っている「魂」が決して黙ってはいないであろう、ということである。ちなみに、私の『ぼつ

コンテ集』の中には、かつてOさんが「言葉がすごくいいね、もしかしたら君は将来有名になるかもしれないよ!」と褒めてくれた絵コンテも多数含まれており(その

絵コンテから企画アイデアをネコババ・ヨコドリするということは、すなわち、結果的に、過去のOさんの言葉に宿る思いまでもを踏みにじる行為ともなるわけで)、

そして、前述の通り、Oさん本人は私の『ぼつコンテ集』のパクリ行為に関して完全に無関係の立場にあると断言するわけにもいかないのである。そこに私は何かし

ら因縁めいたものを感じざるを得ないのである。とはいえ、念のためつけ加えるならば、その因縁を知った上でも、私にはOさんに対する悪感情は微塵も湧いてはこ

ないのである。悪意のない過失を責めることはできぬからか、Oさんと私との間の愛憎半ばに屈折する複雑な関係性が為せる技であろうか。ただし、悪意があろうと

なかろうと、目に見えぬ鋭い刃(やいば)の向う鉾先に、今のところ一貫性や法則性は見当たらず、一切の忖度も時効もなく、意識的/無意識的、直截的/間接的、積極

的/消極的によらず、悪事(パクリ行為)に関わってしまっているというその時点で、すべての関係者に平等に刃(やいば)の鉾先が向う可能性があることを過去の事例が

物語っているのである。そして、重要なことなので何度でも繰り返すが、それらの穏やかならぬ現象はすべて、私が呪いの感情など負の力を利用して故意に為し得た

結果として彼らに災厄が振りかかるというわけでは決してなく、それらは、私の与り知らぬところで、何らかの得体の知れぬ摩訶不思議な力が働いたと見ることがで

きるのである。否、そうとしか思えぬのである。そして、もしも、そのような「魂」「言霊」「情念」「執念」「怨念」「呪いのビデオ」「守護霊」「必殺仕事人」

などといった人知を超えた特殊な力がこの世に存在し、誰かが犠牲を被らねばならぬことが必然なのだとしたら、願わくば、どうせならば、その特殊な力の向う鉾先

が、Oさんではなく、もう20年という長きにわたり私の『ぼつコンテ集』から企画アイデアをネコババ・ヨコドリし続ける、私が殺意を覚えるほどの激しい怒りを抱

く不届き者たちへと順当に向うことが公正であると私には思われるし、さらに続けて、他人事のごとく無責任に縁起でもないことをあえて書くけれども、もしも、仮

に「言霊(言葉に宿る霊力)」のような摩訶不思議な力がこの世に存在するとするならば、私が書いた不吉な文章のタイトルは『Search and Destroy / スタークリエイ

ター連続殺人事件 (仮)』であり、『連続殺人』であるからして、『連続』ということは、すなわち、これから先の未来に少なくとも後もう1人か2人ほど(あるいはも

っとよりたくさんの)スタークリエイターと呼ばれる者たちが殺されなければ『連続殺人』としては成立しないわけであるからして、本当に縁起でもないことを書かね

ばならぬことが私としても甚だ心苦しい限りではあるのだけれども、私が妄りに企み、人知を超えた得体の知れぬ特殊な力を実行犯とする『スタークリエイター連続

殺人事件 (仮)』における未来の哀れな被害の予定者が、願わくば、どうせならば、Oさんのケースのように間接的な関係者がとばっちりを食うのではなく、明確な悪

意をもって直截的かつ積極的に悪事(パクリ行為)に加担する関係者であるところの、私が殺意を覚えるほどの激しい怒りを向ける最も悪質なパクリ行為を繰り返す不

届き者たちであることが順当であり公正であると私には思われるのである。そして、この私が妄りに企んだ『スタークリエイター連続殺人事件 (仮)』が不幸にも現実

に引き起こされてしまった暁に、私はこの人知を超えた得体の知れぬ摩訶不思議な力を疑う余地のまったくないものとして(全幅の信頼をもって)確信するに違いない

のである。さらに続けて、乗りかかった船の不謹慎ついでに、厭味ったらしくも、しつこくネチネチとサディスティックに、私はこうも考えてみる。もしかしたら、

私がOさんを殺したのではなく、彼らがOさんを殺したのではなかろうか、と。すなわち、もうかれこれ20年という長きにわたり私の『ぼつコンテ集』から悪質なパ

クリ行為を続ける不届き者たちが、間接的にOさんを殺したのではなかろうか、と。そして、Oさんの死のもうずっと以前からすでに瀕死の状態にあった日本の広告業

界(特にTV-CM)が、Oさんの死によって完全にトドメを刺され息の根を止められる形となってしまったことは、すなわち、もうかれこれ20年という長きにわたり私の

『ぼつコンテ集』から悪質なパクリ行為を続ける不届き者たちであるところの、スタークリエイターなどと呼ばれ長年広告業界の上位にスター気取りでふんぞり返っ

てきた厚顔無恥な彼らおよびその関係者たちこそが、間接的にOさんを殺した上に、その結果として、さらに皮肉なことには、自らの手で日本の広告業界を殺したと

言っても過言ではなかろう、と。なぜならば、彼らがパクり行為を続けなければ、私が『Search and Destroy / スタークリエイター連続殺人事件 (仮)』という物騒な

タイトルの愚にもつかぬ厭味ったらしい不吉な文章を書くことなどはなかったわけであり、ゆえに「言霊」が生じることもなかったわけであるからして。かような、

複雑怪奇、摩訶不思議な因果関係の可能性を知って、彼らも少しくらいはその貧しい薄っぺらな心を痛め罪悪感に苛まれたりもするのであろうか。もちろん、ただの

狂人の世迷い事に過ぎぬと笑い飛ばすもよし。はたまた、近い将来、己の身に振りかかるやもしれぬ災厄を思って恐怖に打ち震えるもよし。そんな繊細な心などは持

ち合わせてやしないかも知れぬが。なんだかOさんのことを話のダシに利用しているようで甚だ心苦しい限りだけれども、何度も繰り返すが、私はOさん本人に対して

は、恨みつらみや怒りなど負の感情は一切抱いてはおらず、Oさんは私が広告業界において唯一好感を抱いていた人物であったわけである。もしかしたら、私がこの

ような文章を書かねばならぬことも、何かしら因縁めいたものがそうさせるのかもしれぬと考えれば、何とも不思議な気持ちを禁じ得ないが、とまれ、Oさんの死と

私との間の因果関係の有無や、得体の知れぬ摩訶不思議な力の存在の真偽はさておき、現時点で私が確信をもって言えることは、Oさんのいなくなってしまった日本

の広告業界に明るい未来はないということである。もうかれこれ20年という長きにわたり、そして今もなお常習的にパクリ行為を続ける、悪辣非道、厚顔無恥な、ス

タークリエイターなどと呼ばれいい気になっている者およびその関係者に対する私の殺意を覚えるほどの激しい怒りの感情はいまだ収まる気配を見せることはなく、

おそらく時が解決してくれるわけでもなく、彼らが私の『ぼつコンテ集』から企画アイデアをパクり続ける限り、私は生涯この殺意を抱えたまま死ぬまで生きていく

ことになるであろう。その間にもまた、因果関係が曖昧模糊とした何人もが亡くなったり、大失態をやらかして社会的に抹殺されたり、彼らの会社が倒産していく可

能性を否定することはできない。そして、実際に誰かが亡くなったり、災厄に見舞われたとして、たとえそれが実際に私が殺意を覚えるほどの激しい怒りを向ける相

手であったとしても、私は「それ見たことか!」「ザマアミロ!」などと痛快な気持ちになって溜飲が下がるわけでもなく、それが自分と無関係、赤の他人である限

り、残念とも哀しいとも何とも思わず、ただ静かにその得体の知れぬ摩訶不思議な力の存在の信憑性をさらに強固に高めていくことになるだけであろう。その得体の

知れぬ摩訶不思議な力のことを我々は一体全体何と呼ぶべきであろうか。それは、意識的/無意識的、直截的/間接的によらず、悪事に加担してしまった彼らに天罰が

下ったと見ることもできるであろうか。常日頃、私は自称無神論者を気取り、神や仏の存在こそ信じてはいないものの、昔から悪いことをすればいつか必ず罰が当た

るということだけは経験則上、かなりの信憑性をもって信じてきており、他人に迷惑をかけ恨みを買ったり、嘘をついて騙したり裏切ったり、陰でコソコソと悪事を

働く人間は不幸な運命を辿ることが必定である、とそう固く信じて疑わず、悪の報いは針の先、悪事を働けばいつか必ず自分自身に跳ね返って来るもの、つまり「因

果応報」という言葉が、私には一番しっくりとくるのである。そう、すべては「因果応報」であるがゆえに、もしかしたら、ここまで書いてきた話も、別段、複雑怪

奇、摩訶不思議でも何でもなく、ごくありふれた話なのかもしれぬけれども、とにかく昔から私は驚くほど頻繁にその「因果応報」と呼ばれる現象に遭遇してきてお

り、そんな時、私はいつも不思議と冷静沈着な気持ちで直感的に「因果応報」という言葉を頭の中に思い浮べるのである。もちろん、何度も繰り返すように、実際に

そのような「因果応報」と呼ばれる得体の知れぬ現象がこの世に存在しているのかどうかを科学的に立証することなどは不可能であり、また、もしかしたら、私がこ

のような厭味ったらしい文章をここに書き記すことすらも、大きな意味では相手に呪いをかけてしまっていると看做されるのやもしれず、こんな愚にもつかぬ厭味っ

たらしい文章など私は書くべきではないのかもしれない。だがしかし、私はどうしても書かなければならぬのである。書かずにはいられぬのである。ゆえに、私は書

くのである。世間には、毒にも薬にもならぬような文章を書き散らかして悦に入る輩がごまんと存在する。どこの馬の骨ともわからぬ赤の他人からできるだけ多くの

「いいね!」を獲得したいがために、せっせと彼らに媚を売り世間におもねった文章を書いていい気になっている。もしかしたら、私自身も実はその部類に属してい

ることを棚に上げ目をそらしているだけかもしれぬが、私は、そんな掃いて捨てるような輩と一緒くたにされたくはないし、そんな文章にはまったく興味はないし、

書きたくもないし、そもそも書けるはずなどもない。私は、ただどうしても書かねばならぬがゆえに、いかんともしがたくて、もう書くしかないから、書いているだ

けに過ぎない。かつて、直木賞作家の車谷長吉は、小説を書くことは悪であり、小説は毒であると書いて、芥川賞落選の際には、その腹いせに審査員たち全員分の藁

人形を作り、深夜の神社の大木に五寸釘で打ち付けたことを小説に書いた(ただし小説家は基本的に大嘘つきなので実際にやったかどうかその真偽は定かではない)。

そして、後日、審査委員長だった小説家が死んだ際には、赤飯を炊いてお祝いしたことをこれまた小説に書いた(ただし小説家は基本的に大嘘つきなので実際にやった

かどうかその真偽は定かではない)。さらには、昔トラブルになった実在の人物をモデルにして実名で小説に書いて告発し相手に訴えられしばらく小説が書けない苦境

に陥った。そして、最後の最後に、車谷長吉はイカの足を喉に詰まらせて死んだ。人間の怒りや恨みつらみの感情は人間だから仕様のないことである。怒りと呪いと

はほぼ同一のものであり、誰か他人に対して怒りの感情を抱くことすらも何らかの形で自らに跳ね返ってくるとも言われる。車谷長吉は怒りの感情を藝術作品として

昇華させた上で小説を書き、それらが自らに跳ね返ってきたのかどうかはつゆ知らぬけれども、最後の最後には、イカの足を喉に詰まらせて死んだ。それらは「因果

応報」であるのかもしれぬし、「因果応報」ではないのかもしれない。その「因果応報」の有無は誰にも判断がつかぬことであるし、それらを科学的に立証すること

も不可能なのである。怒りの感情を藝術作品に昇華させて書くことも果たして罪となり得るのであろうか。それらは決して許されぬことなのであろうか。それでも書

くことが藝術なのかもしれぬし、それでも書かねばならぬことを書くことこそが藝術なのかもしれない。もうすぐ50年におよぶ私の決して他人に誇ることのできぬ、

本当にろくでもない人生において、「因果応報」という言葉でしか説明できぬ、複雑怪奇、摩訶不思議な現象が頻発していることは紛れもない事実なのである。そし

て、この人間世界のわけのわからぬ、複雑怪奇、摩訶不思議な現象をひたすら推考し言葉で表現することもまた文学の役割であり、藝術の神髄であると私は考える。

2021.4

 

 

 

 

 

15.『Crime and Punishment / 罪と罰 (仮)』

 

 

近頃、私は人が死んでもあまり哀しいと思わなくなってしまったようだ。人は皆いつか必ず死ぬ定めなのだからいちいち哀しんでいても仕様がないという達観の境地

に至ったものか、歳を重ねて徐々に確実に死に近づいているという実感によって死に対する恐れが薄れかけているものか、はたまた、長年ニヒリスティックな人間嫌

いの成れの果てを気取り自堕落に生きてきたがゆえに己の心の繊細な部分がすっかり麻痺してしまったものか、死んだらこの吐き気を催すほど醜く腐り切った現実世

界からさっさとオサラバできて清々するわけだから死というものはむしろ好ましいものではなかろうか、とすら思いはじめている自分に気づいたりもするのだった。

人は死んだらどうなるのか、などと考えてみたところで、死んでみなけりゃわからないわけだから、いかんともし難く、実際死んだらどうなるか知るためには、とに

かく一遍死んでみる他なく、臨死体験で三途の川を渡りかけたことのある者以外、生きているうちは想像でしか死を語れないわけだけれども、私は随分と以前から、

人は死んだら新たな世界で「ああ、嫌な夢だったな!」とか「なんだよ、せっかく楽しい夢だったのに!」と目が覚める、という説をかなり真剣に信じてきており、

昔、誰だったかが言っているのをたまたま耳にして、なるほど、そんな考え方もあるものなんだな、と妙に感心して、爾来、すっかり私はそう信じ切ってしまってい

るのだったが、この「嫌な夢だったな!」とか「楽しい夢だったのに!」など、新たな世界で目覚めた時に頭に浮ぶ夢の感想の部分は人それぞれに異なっていると思

われ、おそらく、新たな世界(来世)でその人がどのような存在に生まれ変わっているのか、および、生まれ変わる前の世界(前世)でその人が死ぬまでにどのような一

生を送って来たかによりけりで様々にバリエーションが変化していくと思われ、例えば、新たな世界でどこか遠い異国のお姫様(プリンセス)に生まれ変わっている己

のお姫様頭では、前世における平凡な人間として生きてきた己の平凡な一生を夢の中に見て「ああ、なんと退屈でつまらぬ夢だったことかしら!プリプリ」と目覚め

るに違いなく、また、例えば、新たな世界で醜いゴキブリに生まれ変わってしまっている己のゴキブリ頭では、前世における平凡な人間として生きてきた己の平凡な

一生を夢の中に見て「ああ、せっかく楽しい夢だったのに!ゴキゴキ」と目覚めるに違いなく、さらに、新たな世界でどのような存在に生まれ変わるかは、前世、も

しくは、もっとより以前からの徳の積み方次第ですべてが決定される、つまり、前世できちんと善徳を積みながら真面目に生きてきた者は、来世でも再びまともな人

間やさらなる高貴な存在として生まれ変わり「前世はつまらなかったな!」と目覚め、その逆に、前世で悪徳ばかり重ねながら不真面目に生きてきた者は、来世では

下賤な存在に生まれ変わり「前世は楽しかったな!」と目覚めるという塩梅になるかと思われる。もっとも、今現在幸いにも人間として生きる私に前世の夢の記憶は

まったく残っておらず、そう考えると、この理論は一瞬で破綻してしまうわけだけれども、とまれ、常日頃、神や仏などいるはずない、もしも神や仏がいるならば、

世の中もう少しマシになっているはずだ、と考える(とは言いつつも、クリスマスにはケーキを食べるし、初詣には神社仏閣に参拝もするし、通夜や葬式から帰宅すれ

ば肩に塩をふるしと一貫性もないのだが)、自称無神論者を気取る私も、この生まれ変わり説(輪廻転生または因果応報)だけは、なぜだか根拠もなくすっかり信じ切って

いるのだったが、おそらく、それは、そう考えなければ、せっかく悪さをせず世の中のルールを守り善徳を積みながら真面目に生きていく意味がなくなってしまい、

そう無理矢理にでも己を納得させなければ、この吐き気を催すほど醜く腐り切った現実世界を生き抜いていくことが何とも切なすぎて、やる瀬なくて、堪え切れず、

やっていられなくなるから、そう信じているのかもしれぬが、もちろん、人は死んでしまったら、ハイそれまでよ、すべて終わりであって、終わってしまうのだから

生きている間にどんなに悪さをしようが一切お構いなし、やったもん勝ちである、という考え方にも一理あるものの、やはり、それも一遍死んでみないことには何と

も言えず、来たるべき次の世界(来世)で、お姫様に生まれ変わりたいとまでの贅沢は言わぬも、せめて最低限は人間の姿形でいたい、ゴキブリに生まれ変わることだけ

は是が非でも勘弁願いたい、と心から望んでいる私は、因果応報、悪さをすればいつか必ず自分に跳ね返って来る、という説を、大昔から信じ切っているがゆえに、

この世ではなるべくならば悪さをしないようにと常々心掛けているという次第である。また、人は死んだらどうなるのか、死んでみないとわからないのと同様に、人

を殺すとどうなるのか、も実際に人を殺してみないことには何とも言えず、実際に人を殺した人の体験談や、映画や小説フィクションなど想像の世界に頼る他ないの

である。ロシアの文豪ドストエフスキーの小説『罪と罰』の主人公である貧乏学生のラスコーリニコフは、強欲な金貸しの老婆と、そこに偶然居合わせた善良な妹の

老婆2人を手斧で叩き殺した結果、罪悪感に苛まれてしまうわけだけれども、もしもラスコーリニコフが善良な妹の方は殺さなかったとしたならば、その場合も同様

に罪悪感に苛まれたのであろうか。私が27歳の頃に一時期住んでいた中央線沿線の賃貸集合住宅の大家は、同じ建物の上階に住む、すでに棺桶に片足、いや、両足と

も、いや、思いっきり頭から突っ込んでいるような、おそらく100歳近い、底意地の悪い陰険な目つきをした老婆であったが、腰が分度器できっちり測ったかのごと

く直角に折れ曲っているにもかかわらず(そもそも腰がそんな状態で棺桶にきちんと収納できるのだろうかと私は常々疑問に思ってもいたが)、動きがゴキブリのごと

く俊敏、耳はかなり遠く、まともな会話を成立させるためには、その都度こちらも腰を直角に折り曲げた上に耳元で応援団員のごとく怒鳴り声を張り上げなければな

らず、特に都合の悪い話にはすぐに都合良く耳が聞こえなくなり、ほんの短い会話を交わすだけでも1日分の総エネルギーを一気に消耗してしまうほど草臥れ果てて

しまうのが厄介であったが、とにかく金には滅法細かくうるさくて、このご時世に家賃は毎月末に直接手渡しで払うのが慣例となっており、支払いが1日でも遅れよ

うものならば、出掛けの朝の部屋の前で待ち伏せるわ、夜中に玄関ドアをガンガンガンガン叩くわ、ガンガンガンガン蹴飛ばすわ、怒濤のような催促の雨霰が続き、

100歳近い腰が直角に折れ曲った死に損ないのどこにそんなパワーを秘めているのであろうか、と毎月末が近づくたび私は恐ろしくて小便をちびってしまいそうなほ

どプルプルと震え上がっていたものだが、当時、私はTV-CM制作会社に勤務し、不規則な就労体系ゆえ、そんなに都合良く部屋にいることが難しかったものだから、

できれば家賃の支払いを銀行振替にしてくれないか、という旨を丁重に何度も頼み込んではみたものの、大家の老婆曰く「おっしゃることは私にもなんとなく理解で

きるのよ、でもね、私が古いタイプの人間なのかしら、やっぱりお家賃というものは手渡しで頂きたいものでしょ、銀行振替じゃ、お金の有り難みがまったく感じら

れないのよね、それじゃ、なんだかとっても寂しいでしょ、ねえ、あなたもそうは思わない?思わない?え?何?何?何?あー?あー?あー?いー?いー?いー?う

ー?うー?うー?えー?えー?えー?おー?おー?おー?何?何?何?何?トラトラトラ、トラトラトラ、ニイタカヤマノボレ、ツクバヤマハレ、トネガワクダレ、

トラトラトラ、トラトラトラ、ニイタカヤマノボレ、ツクバヤマハレ、トネガワクダレ、ココホレワンワン、ナミアミダブツ、ナンミョウホウレンゲイギョウ、ナン

ミョウホウレンゲイギョウ、全然聞こえない、聞こえない、全然、ぜんぜん、ぜんぜーん聞こえなーい!」などと自分に都合の悪い話には一切耳を貸そうとはせず、

日頃は温厚篤実なジェントルマンを気取る私もさすがに業を煮やしていたところ、そんな折も折、私はたまたま読んだ坂口安吾の小説『白痴』にそそのかされ背中を

どつかれるかのごとく思い切って会社勤めを辞め藝術家を目指す決心を固めたわけだけれども、藝術家になると高らかに宣言し会社勤めを辞めたはずなのに、藝術活

動など一切はじめようとはせず、毎日毎日来る日も来る日も惚けた腑抜けのごとく部屋で日がな一日、本を読んだり映画を観たり音楽を聴いたり、無為徒食、自由気

ままで昼夜逆転の自堕落な生活へと転落の途にあって、その頃、私はちょうどドストエフスキーの『罪と罰』を愛読しておって、滅茶滅茶面白いじゃねえか!と無我

夢中で貪り読んでいる最中であったが、そんなある日の真っ昼間のこと、その日も朝までドストエフスキーした後のカーテンを締め切った陰気くさい部屋で爆睡中の

私の耳に突然玄関のチャイムがけたたましく鳴らされる音が聞こえてきたのだった。面倒くさいのと眠たいのとで潔く居留守を装う腹を決めた私がそのままチャイム

を無視し惰眠を貪り続けておると、チャイムが20回ほど乱連打され、玄関ドアがガンガンガンガン叩かれ、ガンガンガンガン蹴飛ばされたのち、いきなり施錠中だっ

たはずの玄関の鍵がガチャリと外される音がして、続いてドアがギギギィィと開けられる音がして、そして、怪しい何者かが部屋にちん入してくる気配がして、寝ぼ

け頭の私は、あれれれれれ!と驚きはしていたものの、そういう状況下で人間はしばしば恐ろしさのあまり金縛りにあったかのごとく身動きひとつできなくなるもの

であるが、その時の私も例に洩れず、意識はしっかりと目覚めていたけれど体に力がまったく入らずに恐ろしさのあまりカチンコチンに固まったままの状態で、ちん

入者が慣れた足どりでササササッとゴキブリのごとくすばしっこく1DKの部屋の奥、私が惰眠を貪っていたベッド脇までやってきて、そこには、いるはずのない私が

布団をおっかぶって眠っていたものだから、さあ大変、ビックリ仰天、驚きのあまり、ヒヤッ!と一瞬息をのむまでの一部始終を克明詳細耳にしながら、その時、姿

形こそ確認できずも、ちん入者がまさしく大家の老婆であると確信、一方の大家の老婆といえば、すぐさま踵を返して、来た道を玄関まで一目散とゴキブリのごとく

ササササッとすばやく駆け戻り、来た時とはまったく逆の順序で、コソコソと静かにドアを閉め、きちんと鍵を掛け、そそくさとゴキブリのごとくササササッと逃げ

去って行くのであった。その大家の老婆の慣れた手口から判断するに、過去にも私が会社勤めをしていた留守中に何度も部屋に侵入していた常習犯であることが嫌で

もわかり、20代の男のむさ苦しい一人暮らしの部屋(出しっ放しのエロビデオ、干しっ放しの洗濯物、貧しい冷蔵庫の中身やら)を物色されていたかと思えば、恥ずか

しさのあまり怒り心頭、私はそれまで人を殺してやりたいなどと思った試しは一度もなかったけれど、その時ちょうど読んでいたドストエフスキー『罪と罰』の主人

公ラスコーリニコフの心情とピタリと同調するかのごとく、大家の老婆の頭を叩き割る光景を一瞬頭に思い浮かべたりもしたものの、大家の老婆にとっても、私にと

っても、幸いなことには、大家の老婆の頭を叩き割るための手斧など私は所持しているはずもないのであった。その時の恐ろしくも貴重な体験から私が身をもって学

んだ教訓は、人間という愚かな生き物は、誰にも見られていない状況下では何だってやってしまえるものだから、決して気を許してはならぬ、ということであった。

……

例えば、ものすごく金に貧している緊急の困窮時に人通りのまったくない道端でたまたま100万円の入った財布を拾ったと仮定する。周りには誰一人いないため、お

そらくそのままネコババしてもバレる恐れはまったくない。そのような状況下で人がどのような行動をとるかによって、その人の人間としてのレベル(人品/品性)が自

然と推し量られることになると思われる。おそらく親や学校の教師たちは子供や生徒たちに「そのまま交番にきちんと届けなさい」と教えることであろうが、そう言

っている親や教師たちが実際にその立場に立った時に拾った100万円入りの財布を素直に交番に届けるという保証はどこにもないのである。なぜならば誰も見ていな

いのでバレる心配がまったくないのであるから。概して、人間という生き物は誰にも見られていない環境では何をしでかしているかわかったものではないのである。

かくいう私もよく一人部屋にいる時、鼻クソをほじるわ(さすがに食べたりしない)、鼻毛を引っこ抜くわ(さすがに食べたりしない)、屁をぶっこくわ(さすがに袋に入

れてシンナーみたくスーハースーハー吸ったり吐いたりしない、するわけがない)、股間をボリボリ掻きむしるわ、床に落とした食べ物を余程のことがない限り汚れを

ササッと落としてそのまま食べるわ、真夏の夜には素っ裸で寝るわ、真夜中の往来の絶えた赤信号を心でゴメンナサイしながら無視するわ、酔っ払って自転車に乗っ

てコケるわ、他人の目の届かない場所では羞恥心の許容範囲が広がって、人前でならば決してしないようなことまでも平然とやってのけてしまうのである。さらに極

端な話をすれば、世の中にはいまだ未解決の殺人事件がいくつも存在し、すなわち、人を殺してもバレずに善人面してのうのうと生きている人間が、たくさんとまで

は言わぬが、確実に存在しているという証左なのである。ただし、そこまで極端な悪人は普段の行動にも必ずその醜い心が表出してしまうはずなので、注意深く観察

していれば、陰で悪事を働く人間というのはその胡散臭い雰囲気や邪悪なオーラから不思議となんとなく見抜けてしまうものではある。陰でコソコソ悪いことをして

もバレなければいい、倫理的に問題のある行動をとっても法律に触れなければまったく問題ない、法律に触れても証拠がなければ何とでもなるなどと平然と嘯く者も

世間には多々見受けられるが、悪を為した時に良心の呵責に苛まれるかどうかによって、その人が善人であるか悪人であるかの区別がはっきりと浮き彫りになってく

るように思われる。良いことをすれば当然気持ちが良いし、悪いことをすれば当然気持ちが悪い。ドストエフスキー『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフが殺人を犯

した後に罪の意識に苛まれて発狂寸前に陥ってしまったように。かような前提の下、誰もいない道端で100万円が入った財布を拾ったと仮定して、実際に私がどのよ

うな行動をとるであろうかと想像してみるならば、100%という確信は持てぬけれども、おそらく私は財布の中身をしっかりと確認した上で、100万という金額に少

なからず後ろ髪を引かれながらも、100万あればあれもできるしこれも買えるしなどと想像に胸を膨らませながらも、100枚のうち2~3枚くらい抜いてもバレっこな

いだろうと出来心を起こしそうになりながらも、最終的には交番に届けることであろう。それはなぜかと問われたならば、決してきれいごとでも何でもなく、私には

良心の呵責に堪え切る自信がないと自信を持って断言できるからである。かなり昔の話になるが、私が小学校に上がるか上がらないかの頃、当時の子供たちの間では

ウルトラマンカードというのが大流行していた。ウルトラマンカードというのは、お年玉袋のような封筒にウルトラマンや怪獣の写真カードが3枚ずつ入っていて、

中にどんなカードが入っているか開けてみないことにはわからない仕組みになっており、私も1歳上の兄と競い合うように買い集めては専用のアルバムに貼り付け楽

しんでいたものだが、そんなある日のこと、仕事帰りの父親が兄と私にウルトラマンカード2袋を買ってきてくれたことがあって、たまたま兄が留守で私が2袋分預か

る形となり、その時、欲に目が眩み出来心を起こした私は、瞬時に悪知恵を働かせ、兄と私の分の2袋とも開封した上で合計6枚のカードの中から自分の欲しいカード

3枚を選んだのち、残りの別に欲しくないカード3枚を再び袋に戻し開封口をしっかりとチューブ式のデンプン糊でたっぷりとこれでもかと念入りに糊付けした上で、

兄の分として取っておいたのだけれども、帰宅して袋を開けようとした兄は、なんだか、おかしいぞ!とすぐに異変に気がつき大騒ぎとなり(兄は少し天然ボケとでも

言おうか、小学校に入学早々テストで隣りの席の答案をカンニングして律儀にも相手の名前までしっかり書き写してしまったためバレたり、また、中学の時、当時ア

イドルだった中山美穂に夢中になり、中山美穂がDJをしていたラジオ番組にハガキを送りプロポーズしたのを、運悪く何かの事情でハガキが返送されてきて家族全員

にしっかり読まれてしまったりと、かなり高度なボケをかましてくれる何とも愛らしいキャラクターの持ち主であったから、その時もどうせバレっこないだろうと私

は高を括っていたのだけれども、いともあっけなくバレてしまって)、それもそのはず、袋の開封口にたっぷりと付けたデンプン糊が完全には乾き切っておらずベタベ

タの状態でどこからどう見ても誰が見てもバレバレであり、私の幼稚な完全犯罪は大失敗に終わってしまったという始末であり、両親からこっぴどく叱られながら、

子供心に私が身をもって思い知らされた教訓は、悪いことをすれば必ずバレてしまうということ、物事には限度がある(デンプン糊はすぐには乾いてくれない)という

ことであった。さらに、それと時を前後した別のある日のこと、実家の近くの寂れた商店街の今は潰れて跡形もなくなってしまった小さな本屋で、レジの横にちょこ

んと座っている店のオヤジの目を盗み、これまた出来心から私は衝動的にウルトラマンカード1袋を万引きしてしまったことがあった。もちろん、それは、私にとっ

ては生まれて初めてとなる、後にも先にも1回こっきりの万引き体験であったが、本屋で店のオヤジの目を盗みながらウルトラマンカード1袋を手に取って、こっそり

己の懐に入れる時の、あのゲロと一緒に口から心臓を吐き出してしまいそうになるほどの嘔吐感と、腹がキュウっとなって大便と一緒に尻の穴から心臓が飛び出てし

まいそうになるほどの便意を伴った、スリルと興奮、および、万引き後の自分が盗人になってしまったという罪悪感と絶望感を大人になった今でも私はしっかりと覚

えているのであった。その時の私にとって生涯ただ一度の万引き行為は、たまたま悪運が強かったに過ぎぬのか、幸いにも発覚することなく他人に一切知られること

はなかったものの、その盗人になってしまったという罪悪感と絶望感を引きずり、そして、厄介に拗らせながら、盗人猛々しくも何食わぬ顔をして、私は大人の階段

をのぼり成長していったわけだが、いつまで経っても、ウルトラマンカード1袋を万引きしてしまったという罪の意識は、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラ

スコーリニコフと同様に、私の心の片隅にしつこくへばりつきずっと消え去ることはなく、四六時中私を悩ませ続けるのであった。その後も私はぬくぬくと何不自由

なく成長していって、大学に入学したもののすぐに辞めてしまったのち、何かの間違いからかTV-CM制作会社に就職し社会人となって初めての給料を貰ってまもなく

のある日のことであった。初給料を手にして懐が暖かくなりホクホク顔の私は、実家に里帰りのついでに、その時はまだ潰れずに残ってあった、子供の頃にウルトラ

マンカード1袋を万引きした例の本屋にふらりと立ち寄ったのだった。本屋にはあの時と同じ店のオヤジが、その風貌に15年という歳月の流れを確と感じさせながら

も、いまだ健在でレジの横にちょこんと座っており、そのオヤジの目を盗みながら、私は子供の頃にウルトラマンカード1袋を万引きした時とまったく同じ、あのゲ

ロと一緒に口から心臓を吐き出してしまいそうになるほどの嘔吐感と、腹がキュウっとなって大便と一緒に尻の穴から心臓が飛び出てしまいそうになるほどの便意を

伴った、スリルと興奮に胸をドキドキと高鳴らせ、尻の穴をヒクヒクとさせながら、その時、一瞬湧き起こる、こんなことして意味なんてあるのか?と率直な疑問を

投げ掛ける己の心の声を、ここまで来た以上今更やめることなどはできぬ、と一蹴し、たまたま目についた適当な棚の適当な本を選び抜き出し、その本のページの途

中にあらかじめ四つ折りに畳んでおいた1万円札を1枚こっそり挟み込んだのち、再び元の場所に戻して、そのまま何ごともなかったかのような素振りで、店のオヤジ

には目もくれず一目散と本屋を後にしたのだった。そして、独りよがりな罪滅ぼしのマネゴトのようなおこないの後、私の心の片隅に長年へばりつき居座り続け、し

つこく私を悩ませ続けてきた、あの罪の意識はすっかり消え去っており、あたかも服役を終え刑務所から解き放たれた元受刑者のごとく贖罪後の開放感と多幸感をし

みじみと味わいながら、私は梶井基次郎の『檸檬』の主人公が本屋に「檸檬爆弾」を仕掛けた後のようなどこかさっぱりと清々しく晴れやかな気分で、ようやく自由

の身になれたという溢れ返る喜びからか、気がつけば普段ならば絶対にしない陽気なスキップなんてものをしながら軽やかな足どりで家路に着くのであった。店のオ

ヤジが1万円札を発見した時どんな顔をするだろうか?どうせならば1万円札を梶井基次郎の『檸檬』に挟んでおけばもっとより文学的で粋な演出となって店のオヤジ

も大喜びしたに違いなかったかもな?などと私がすっかりいい気持ちになってニヤニヤと考えていた、まさにその時であった、ついさっき今の今まであれほどまでに

晴れやかだった私の心に再び暗い影が落ち込みはじめたのは。その時、私は、ある重大な過ちを犯してしまったことにハタと気がつき茫然と路傍に立ち尽くしてしま

ったのだった。本のページの途中に1万円札を挟み込んだら、その1万円札は当然その本を買ったお客さんの元へと渡ってしまうのではなかろうか?自分はなんとバカ

なヘマをしてしまったんだろうか!我に返った私は、すぐさま踵を返し、スキップではなく少し小走りになりながらハアハアと息を弾ませ再び本屋へと舞い戻り、店

のオヤジには目もくれず、さっき1万円札を挟み込んだ本の棚の前へと向かい、一体全体どの本に挟み込んだのか忘れてしまったものだから、すっかり狼狽して棚の前

をオロオロと行ったり来たりして、子供の頃にウルトラマンカード1袋を万引きした時よりも、ついさっき本の間に1万円札を挟み込んだ時よりも、さらに激しく、あ

のゲロと一緒に心臓を口から吐き出してしまいそうになるほどの嘔吐感と、腹がキュウっとなって大便と一緒に尻の穴から心臓が飛び出てしまいそうになるほどの便

意を伴った、スリルと興奮に胸をドキドキと高鳴らせ、尻の穴をヒクヒクとさせながら、その時、再び一瞬湧き起こる、こんなことして意味なんてあるのか?と率直

な疑問を投げ掛ける己の心の声を、ここまで来た以上今更やめることなどはできぬのだ!と再び一蹴し、手当り次第に目星をつけた棚の本を取り出してはページをパ

ラパラと開いては閉じ開いては閉じを繰り返し、ようやく見つけた四つ折りの1万円札を素早く抜き取ったのちに、ここで一旦、念のため店のオヤジの目を確認した

上で、手に持ったその四つ折りの1万円札を、今度は、任意の本のページの途中に挟み込むやり方ではなく、本の棚自体の一番奥の突き当たり部分にまで無理やり押

し込め、それから、乱雑に置き散らかしていたたくさんの本を再び元の場所に戻してしっかりと蓋をし、今度こそは大丈夫だ、もう何も心配はいらないぞ、と確信を

もって一つ頷いたのち、そのまま何ごともなかったかのような素振りで店のオヤジには目もくれず一目散と本屋を後にしたのであった。店を去り際、店のオヤジから

突然、ありがとうございました!と今まで一度も言われたことがなかったのに初めて声をかけられたため、私は思わず、ギクッ!と足が止まりそうになり、何があり

がとうなんだろうか?もしかしてオヤジはすべてお見通しだったのか?などと一瞬猜疑心に襲われるも、いやはや、そんなことはありえんだろう、そんなに目敏いオ

ヤジだったらば、そもそもの15年前、子供の頃にウルトラマンカード1袋を万引きした時点でとっくにバレているはずだろう、と無理やり自分を安心させ、再び、今

度こそは本当に罪滅ぼしができたぞ!もう自分は盗人なんかじゃないぞ!これからは正々堂々胸を張り自信を持って生きていくんだ!と決意を新たにし、さっきより

もさらにさらに強い開放感と高揚感と多幸感に身を包まれながら素晴らしく晴れやかな気持ちで、再び例の普段ならば絶対にすることはない陽気なスキップなんても

のをさっきよりも派手にしながら、途中で立ち寄った洋菓子店では、自分への出所祝と家族への土産とを兼ねたケーキまで購入し、再び例の普段ならば絶対にするこ

とはない陽気なスキップなんてものをして意気揚々と家路に着くのであった。そして、懐かしい実家に辿り着きケーキの箱を手渡せば「あらまあ、珍しいこともある

ものね、何かいいことでもあったのかしら、さっきからニヤニヤしちゃって、本当に気持ち悪い子だねえ」と久しぶりに会う母親は私のことならば何でもお見通しの

様子で、私は「うん、まあね、ちょっとね、初任給も出たことだしね、つまらないものですが、お口に合いますかどうか」とか適当にニヤニヤ誤摩化しながら部屋着

に着替えている途中、なんだか尻の穴のあたりにわずかな違和感を覚えたものだから、もしかして、ついさっきのスリルと興奮によって尻の穴から本当に心臓が飛び

出てしまったのではなかろうか、段取りが悪く1回の予定のところを2回もスリルと興奮を味わってしまったんだから、心臓が飛び出てしまっていても別段不思議でも

ない話だけどな、でも、まあ、ありえんよな、などといまだ全身に溢れ返る自由になれたという喜びに最初はニヤニヤと冗談まじり余裕綽々の体だったものの、依然

として尻の穴あたりのわずかな違和感は消え去ることはなく、さすがに少しばかり心配になってきた私は、念のため恐る恐るズボンをずり下ろしパンツの後ろ部分、

ちょうど尻の穴が当たる辺りを注意深く確認してみれば、幸いなことには、心臓は飛び出ていなくって、ああ、よかった、よかった、よかった、とホッと胸を一つ撫

で下ろすや否や、そこへ、なんとビックリ、直径5mm足らず小指の先ほどの、見ようによっては可愛げもある、小さな焦茶色した怪しい塊2粒、ポロッポロッと零れ

落ちてきて、それは一体何かと問われたならば、そう、それは、紛れもなく、私の分身であるところの、私の残骸であるところの、日々おいしく頂く食物の成れの果

てであるところの、いわゆる、世間一般でいうところの、そう、子供も大好き、大人も大好き、みんな大好き、つまり、その、例の、アレであり、そう、すなわち、

アレであり、まさしく、アレであり、ようするに、アレなのであった。それから、ほどなく、山椒は小粒でもピリリと辛い、さっそく鼻孔をくすぐりにかかる、あの

いつものツーンと懐かしくも馨しき香りに噎せ返りながら、いまだ多幸感は微塵も冷めやらぬままの私は「何せ、スリルと興奮を2回も味わったんだもの、きっちり

2回分で2粒ってわけだな、これが、いわゆる、因果応報ってやつなんだろうか、しっかし、世の中うまいことできてるもんだなあ」と呑気に感心しているのだった。

……

犯罪者に対する私の興味深い関心は、いつか自分もその立場になるやもしれぬという恐怖や不安から湧き起こるものであり、私は、絶対に犯罪など犯さない、と天地

神明に誓って高らかに宣言することが難しいのである。例えば、道端で突然見ず知らずの他人からぶん殴りかかられて命の危険を感じた時、反射的にぶん殴り返さな

いという保証はどこにもなく、ぶん殴る回数が1発で済むならば正当防衛と認められもしようが、1発では済まないどころか相手をタコ殴りして死に至らしめてしまう

可能性だってなきにしもあらずなのである。また、私には娘がないけれど、もしも娘があると仮定して、その愛する娘が悪辣非道な人間の屑どもに嬲り殺されたとし

たならば、おそらく私はその人間の屑どもに対して何らかの報復を必ずや決行することであろう。概して、頭に血がのぼった人間が何をしでかすかなんて誰にも予測

がつかぬものである。実を言えば、もう随分と長い間、私は人殺しの可能性について考え続けている。それはなぜかと言えば、私には、どうしても許せない、できる

ことならば殺してやりたい、と思うほど憎んでいる相手がいるからに他ならない。ただし、私はその相手の顔を写真で見たことはあるものの、実際にその相手とは一

度も会ったことがない。過去の一時期、私はその相手のことを殺してやりたいという強い思いをどうしても抑え込むことができず、殺しの実行を決意しかけたことが

幾度かあったが、幸いなことと言ってはなんだけれども、人はそんなに容易く人を殺すことなどできるはずもなく、殺したいという強い思いが超高速で虚しく空回り

するばかりで、結局実行に移すということなどはなく、現在に至っては、現実問題として、例えば、相手と人気のない薄暗い夜道ですれ違った際、私の手にキラリと

光る鋭利な刃物が握られている状況で、相手が「殺してやりたいなんてイキがってるが、どうせ殺せるわけないとわかりきった上での口先だけの強がりで、本気で殺

せるもんなら殺してみろ、今すぐここで殺してみろ」と挑発してきたり、突然ぶん殴りかかってきたりなど、奇跡の偶然でも重ならぬ限り、相手を殺すことはほぼ断

念している状態にある。とはいえ、相手を殺してやりたいという強い思いは微塵も消え去ってはおらず、いまだ私の心の片隅にしっかりと残存し、プスプスくすぶっ

ている状態であり、時たま何かの加減で不意に暴発しそうになっては、まったく無関係の赤の他人に対し怒りを爆発させ八つ当たりしてしまったりなど、些か面倒く

さい状況に陥ったりもするわけだけれど、なぜに私が実際に相手を殺すことに対して躊躇し、最後の一線だけは決して踏み越えずに我慢しているのか、その理由は何

かと言えば、それは、現世で悪徳を働けば来世ではゴキブリに生まれ変わる恐れがあるから、という理由を外向きの建前として、偽らざる本音を言うならば、私が相

手を殺すことによって、私の周りの人間、とりわけ、私と血の繋がった親族たちに対して多大なる迷惑をかける羽目となり得るから、という理由に尽きるのだった。

もしも私が天涯孤独な身の上で孤児のような境遇に生まれついたレミゼラブルな人間であったとしたならば、きっと私は何らの躊躇いを覚えることなく一思いに相手

を殺してしまうに違いなく、つまり、私は、道端で拾った100万円入りの財布を決してネコババしない自信はあるにもかかわらず、憎たらしい相手を殺してやりたい

という強い思いを前にしては、良心の呵責に苛まれてしまうといった未来の己の心の動きに構っている余裕などはもはやなく、その相手を殺しても罪悪感に苛まれる

ことは決してないだろうと思えるほどに、それほどまでに、その相手のことを心の底から憎んでおり、そして、なんとも哀しい現実ではあるが、私には、Nothing to

Lose、失って困るものなど特に何もないという証左でもあるのだった。常日頃、私は自分自身をも含めた人間という生き物(ケダモノ)を一切信用していない冷徹ニヒ

リスティックな筋金入りの人間嫌いの成れの果てを気取り、かつ、なんとも図々しく都合の良いことには、他人のことなど一切どうでも良いと思っているエゴイスト

でもあるわけだが、にもかかわらず、甚だ面倒くさいことには、おそらく、それは人間という生き物(ケダモノ)に自然に備わる生まれつきの本能によるものであろう

か、己の全身を駆け巡る真っ赤な血の繋がりだけは、どうしても無視できないようなのであった。ある時、私はそのこと(殺したい相手がいるけれど親族に迷惑がかか

ってしまうため殺せないということ) を、まったく親しくもない赤の他人に何かの折に何気なく打ち明けたことがあったが、その赤の他人は驚いた表情を欠片も見せ

ることなく、ただ飄々淡々と、寺山修司という作家がまったくそれと同じこと(殺したい相手がいるけれど親族に迷惑がかかってしまうため殺せないということ)を書

いていると私に親切にも教えてくれたため、後日、私はその言葉が書かれた寺山修司の本を懸命に探してみたのだけれども、残念ながら、いまだ発見には至っていな

いのだった。もっとも、私としたところで、四六時中、相手のことを殺してやりたいと思うほど憎み続けてはいるものの、実際に相手を殺してしまえば親族に迷惑が

かかってしまうため殺せないという「殺したいけれど殺せない」まさに、生殺し状態の無間地獄に陥って、日々屈託を抱えながら悶々と生きていたいなどとは心の底

から望んでいることではなく、また、現在、冷徹ニヒリスティックな人間嫌いの成れの果てを気取ってはいるものの、元来、私は温厚で繊細で心のやさしい両親の下

に生まれ落ち、温厚で繊細で心のやさしい兄弟姉妹たちに囲まれて、何不自由もなく育てられてきた、いささか変わり者ではあるが、良いことは良い、悪いことは悪

い、他人にされて嫌なことは他人にしてはいけない、など善悪の区別や物事の道理をしっかりとわきまえている変態優男であるがゆえ、余程のことでも起こらぬ限り

は、私が誰か他人を殺してやりたいと思うことなど到底考え難いことであり、つまり、そのような温厚で繊細な変態優男であるところのこの私が殺してやりたいと思

うほど憎んでいるという事実から推察される通り、私が殺してやりたいほど憎んでいる相手とは、まさしく、度し難いほどタチの悪い魂の宿り主ということになるわ

けであった。私は今まで40数年のろくでもない人生をだらしなく生きてきた中で、時に誰か他人をぶん殴ってやりたいと思うほど憎たらしく思う瞬間が人並に幾度と

なく訪れたけれども、その際にも私は実際に相手をぶん殴るような野蛮な暴力行為には決して手を染めず、いつも極力紳士的な振る舞いに徹し、なんとか大人しくや

り過ごしてきたものだが、そのような温厚で繊細な変態優男であるところのこの私が、誰か他人を殺してやりたいほど憎むことになろうとは、青天の霹靂、夢にも思

わぬことであったため、この期に及んで、正直、自分自身でも甚だ驚いている次第なのであった。おそらく、私が殺してやりたいほど憎んでいる相手は、私が無意識

に生霊でも飛ばしてでもいない限りは、私が相手のことを殺してやりたいほど憎んでいるという事実にまだ気づいていないと思われるが、私が相手に対して不信感不

快感および嫌悪感を抱いていることは、余程の鈍感なバカでもない限り、すでに察していることと私は勘ぐってはいる。ただし、前述の通り、私は私が殺してやりた

いほど憎んでいる相手のことを写真でしか見たことがなく、実際には一度も会ったことがないため、相手の胸の内は想像で探る他に手だてを持たず、私と私が殺した

いほど憎んでいる相手との複雑に入り組んだ関係性を説明するだけでも甚だ骨の折れる作業になってしまうゆえに、さしあたって、とりあえずは「なぜ人を殺しては

いけないのか?」という根本的な問題に関して私がどのように考えているか詳しく書いていくことにしよう。私は今まで40数年のろくでもない人生をだらしなく生き

てきた中で、殺してやりたいほど憎たらしく思う相手が突然私の眼前に出現するまで、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題に関して、それほど深く考え

てみることなどはなく、ただ漠然と他人事のように「何をバカなこと言っていやがるんだ、人が人を殺してはいけないのは当り前のことじゃないか、とにかく殺して

はいけないから殺してはいけないんだろ?」と何の説明にもなっていないことにも気づかずに、能天気にも、そのように考えていたわけだが、殺してやりたいほど憎

たらしく思う相手が突然私の眼前に出現してからというもの、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題に対する私の考え方も、当然のごとく、以前とは変わ

らずにはおられぬのだった。やはり、今までに人を殺したいと思った経験などまったくない人間と、今までに一度でも人を殺したいと思った経験がある人間とによっ

て導き出される「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題に対する回答は、それぞれまったく異なったものとなるだろうし、過去に漠然と人を殺したいと思っ

た経験があるだけの人間と、現時点で本気で殺したいと思う具体的な相手が眼前にいる人間とによって導き出される「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題

に対する回答も、それぞれまったく異なったものとなるだろうし、すなわち「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題に臨む際のその人間の立ち位置や経験値

によって、導き出される回答がそれぞれまったく異なり千差万別となるのは世の常というわけであり、本気で人を殺したいと思ったことなどなかった、ある意味、能

天気すぎるほど健全な過去の私と、本気で殺してやりたいほど憎たらしく思う具体的な相手が眼前にいる現在の私とによって導き出される「なぜ人を殺してはいけな

いのか?」という問題に対する回答も、また、まったく異なったものとなるのは自然のなりゆきなのであった。私は、殺してやりたいほど憎たらしい相手が突然私の

眼前に出現してからというもの、頭のてっぺんから足のつま先、尻の穴のシワシワから金玉袋の裏っかわに至る、己の全身の隅々にまで凶暴な殺意を充満させ、そし

て、正直、歪に持て余しながら、なんとかうまい具合にその殺意を発散昇華させる方法、つまり、具体的な殺しの実行方法を頭の中でためつすがめつシミュレーショ

ンする一方で、その合間合間には、書物の世界やインターネットの世界など、巷にわんさかと溢れ返る「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題に対する、作

家、哲学者、医者、法律家、宗教家、著名人から、見ず知らずの一般人に至るまでの、様々な人々の回答例を、それこそ血眼となって片っ端から読み漁ることに多く

の時間を費やしたものであったが、それらの回答例のほとんどすべては、今すぐにでも人を殺したいと切実に思う、もう居ても立ってもいられぬほどに、うずうずと

ざわめきたつ私の心を宥めすかし翻意させるまでに至らせる力を残念ながら持ち得ないのだった。ある者は、自分がされて嫌なことは他人にもしてはいけないと常識

的に説き、ある者は、人命の重さや尊さを切々とヒューマニスティックに説き、ある者は、人殺しを容認すれば無法世界が訪れ社会秩序が成り立たなくなると憂い、

ある者は、そんな疑問を持つこと自体が間違ったことだと徹頭徹尾怒り狂い、ある者は、巧妙に論点をずらしはぐらかし、ある者は、宗教に救いを求め、ある者は、

愛にすがりつき、ある者は、戦争時の大量殺人や正当防衛の殺人や狂人の殺人や理由なき殺人や死刑や自殺や安楽死など特例を持ち出し、ある者は、人を殺して何が

悪いのか!と大胆に開き直り、ある者は、そもそも人を殺してはいけない理由などないのではないか?と恐る恐る疑問を呈し、ある者は、さっぱりわからんと潔く匙

を投げ出すなど、それぞれが独自の回答を口舌滑らかに展開させてはいるものの、それら回答のほとんどすべてに私は得心することはなく、私の頭の中には、独善、

偽善、詭弁、方便、建前、屁理屈、子供騙し、言葉遊び、尻切れとんぼ、机上の空論、極論、暴論、きれいごと、便所の落書き、チラシの裏、マスターベーション、

おためごかし、道徳の授業、自己啓発セミナー、洗脳、新興宗教、などの言葉が次から次にぼんやりと浮かんでは虚しく消えていくばかりであった。もちろん、私自

身も他人の言葉に頼っているばかりではなく、己の頭を使って、己の納得のいく、私オリジナルの回答を導き出そうとする努力を決して忘れることはなかったが、い

くら頭を振り振りウンウンと唸りながら、脳みそを搾り出すかのごとく、思考に思考を重ね、「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問題に対する回答をなんと

か捻り出そうと孤軍奮闘してみるも、おそらく、私の脳みそが少し足りないためであろうか、もしくは、酒の飲み過ぎで脳みそが損傷してしまっていて健常に機能し

ていないためであろうか、残念ながら、その努力が報われるということはなく、結局、見つからずじまいのまま、やがて徐々に私の心は「なぜ人を殺してはいけない

のか?」という問題に対する、すべての人間が納得する回答なんていうものは、そもそもの初めからこの世には存在しないのではなかろうか、ようするに、とどのつ

まり「人を殺してはいけない=真理ではない」ということになるのではなかろうか、という些かヤケクソ気味な、身も蓋もない、灯台下暗し的な極論へと傾倒してい

くのであった。かように、殺してやりたいほど憎たらしく思う相手が突然眼前に出現し、その相手を殺したくて殺したくてたまらないものの、その獰猛な殺意を持て

余し、居ても立ってもいられずに、うずうずしていた私の「人を殺してはいけない理由などはない」もしくは「人を殺してはいけない=真理ではない」という極論に

対するファナティックな(狂信的な)傾倒に大いなる拍車をかけた2人のいずれも作家という職業にあたる人物の言葉を、以下に紹介することにしよう。まず1人目は、

今東光という僧侶や政治家も兼業していた直木賞作家の『極道辻説法』という本に書かれてあった言葉であり、この『極道辻説法』という本は週刊プレイボーイとい

う青年誌に連載されていた人生相談コーナーをまとめた1976年初版の単行本であり、その中で今東光は、京都の大学2年の男からの「男の生きがいとは何か?」とい

う質問に次のように答えている。「自分がうちこめる仕事なり、うちこめる愛人なりをもつこと。要するに、なんでもうちこんでいける、パッション(情熱)をもって

やっていけるものをもち、それにうちこんでいる時が、一番生きがいがあるんじゃないかな。だから人を殺そうと思ったら、それにうちこんで殺せばいい。何事でも

そのくらいの覇気をもってやれば一番生きがいがあるはずだ」毒舌を売りにする生臭坊主であるところの今東光が、どこまで真剣に質問に回答しているのか、その真

意は計り知れないけれども、ここで重要なのは「人を殺そうと思ったら、それにうちこんで殺せばいい」という一文であり、つまり、私の手前勝手な都合の良い解釈

によれば、今東光は、僧侶という立場であるにもかかわらず、人殺しを戒めることなく、聞かれてもないのに「人を殺すなら、パッション(情熱)や覇気をもって、真

剣に殺せばいい」と大胆不敵にも言い放ち、人殺しを奨励しているというわけである。もう1人は、吉本隆明という詩人/評論家/思想家で、おそらくオウム事件の際

に発した言葉だったと記憶しているが、次のように言っている。「(人間は機縁がなければ一人のひとでさえ殺せないが、機縁があれば…)という人間性の問題をとら

えた親鸞の言葉を、人類最高の言葉だと思ってきた。これは国家(間)戦争、国家(内)戦争、宗教や理念が組織として惹きおこす殺傷それから巷のどろどろした人間、

近親関係の殺傷事件などすべてに、現在でも当てはまる生きている言葉だ。こういう機縁にまきこまれても、おれはそんなことしないと言いきれるものがあったら、

他者を鞭うつがいい」もしかしたら、吉本隆明の言葉というよりも、吉本隆明が人類最高の言葉と絶賛する親鸞の言葉と言ったほうがより適切かもしれぬが、ここで

の機縁という言葉の意味は、おそらく、因縁、原因、きっかけ、などであり、つまり、私の手前勝手な都合の良い解釈によれば、吉本隆明(もしくは親鸞)が言ってい

るのは「人間はきっかけさえあれば、人殺しだって何だってやりかねないんだぞ、いくら口先で人殺しなんて絶対しないと言ったところで、頭の中で人殺しはいけな

い、人殺しなんてしたくない、人殺しなんて絶対しない、するわけがないと思ったところで、実際にトラブルに巻き込まれたりすれば、人間は簡単に人殺しにだって

手を染めてしまうものなんだぞ」という警鐘であり、すなわち、例えば、人を100人殺せば必ず天国へ行けると偉い坊さんに言われたならば、実行する人間は少なか

らずいるだろうし、例えば、あいつを殺してくれれば、一生遊んで暮らしていけるだけの金(100億円)を払うと言われたならば、喜んで殺す人間は少なからずいるだ

ろうし、例えば、俺を殺さなければお前を殺すと脅されれば、ほとんどの人間は相手を殺すだろうし、結局、人間という生き物(ケダモノ)に生まれた以上、「絶対」

なんていうものはなくて、世の中いつ何が起こるかなんて誰にもわからないのだから、簡単に偉そうなことや、できもしないことを軽々しく口にするべきではないと

いったところであろうか。神前で永遠の愛を固く誓い合ったはずの夫婦の愛が永遠には続かないことが世の常であるように、はたまた「ダメ。ゼッタイ。」のコピー

でお馴染みの薬物乱用防止ポスターに起用されていた、いつも語尾にピーピーピーピーくっつけた怪しげな日本語を操り、清純派を気取るアイドルあがりの女優が、

なんと驚くことに、実は覚醒剤を乱用する重度のジャンキーであったりなど、概して、世の中には「絶対」というものはなく、ゆえに「絶対」などという言葉を軽々

しく乱用するような人間のことは「絶対」に信用してはならぬというわけである。ただし、もしも、ひとつだけ、例外的に、この世の中に「絶対」があるとすれば、

それは、人間はいつか「絶対」死ぬ、ということくらいであろうか。常日頃、自分自身をも含めた人間という生き物(ケダモノ)を一切信用していない冷徹ニヒリステ

ィックな筋金入りの人間嫌いの成れの果てを気取り、さらには、殺してやりたいほど憎たらしく思う具体的な相手を持つ私にとって、この今東光と吉本隆明(親鸞)の

言葉が、どれほどの慰藉となったことか、言葉ではとても表しきれないほどであった。さらに、蛇足ながらつけ加えると、その頃たまたま観た、佐木隆三の直木賞受

賞小説を今村昌平監督が映画化した『復讐するは我にあり』の中で、清川虹子演ずる過去に人殺しを経験した老婆が「憎たらしい相手を殺したんだもの、そりゃあ、

胸がスカッとしたわよ」と告白するセリフも私にとっては非常に印象深いものであった。では、次に「人を殺してはいけない理由などはない」「人を殺してはいけな

い=真理ではない」「人間は機縁がなければ一人のひとでさえ殺せないが、機縁があれば(殺せる)」おまけに「憎たらしい相手を殺すとスカッとする」という条件下

で、「(殺してやりたいと思うほど憎たらしくて仕方のない具体的な相手が眼前に存在するにもかかわらず)なぜ人は人を殺さないのであろうか?」という問題に関し

て考えていくことにしよう。私の独善的な考えであると前置きした上で、おそらく、それは、本来「人を殺してはいけない理由などはない」「人を殺してはいけない

=真理ではない」はずなのだけれども、なぜだか理由は明らかになってはいないが、現状の法律では、人を殺すことは悪いことであり、禁じられていているため、つ

まり、人を殺すことによって、結果的に、自分自身に不都合かつ不愉快な状況(例えば、牢屋に入れられ自由を奪われたり、名前や写真が新聞TVインターネットに晒

され世間から白い目で見られたり、社会的な信用を失い抹殺されたり、罪の意識に苛まれたり、良心の呵責を覚えたり、はたまた、殺す際に相手の返り血を浴び服や

手が汚れたり、人殺しに失敗し相手に反撃される可能性がまったくゼロではなかったり)が訪れてしまうから、人は人を殺さないのであろう、と私は考える。常日頃、

自分自身をも含めた人間という生き物(ケダモノ)を一切信用していない冷徹ニヒリスティックな筋金入りの人間嫌いの成れの果てを気取る私としては、人間という生

き物(ケダモノ)は、自分自身で思っている以上に損得勘定の上手な狡猾で傲慢で図々しいエゴイストであるからして、自分自身が不利益を被るようなことにわざわざ

首を突っ込まぬだけに過ぎない、と考えるのである。そして、現時点において、私が、殺したいほど憎たらしく思う相手が眼前にいるにもかかわらず、なぜに実際に

相手を殺さないかといえば、それは、前述した通り、現世で悪徳を働けば来世ではゴキブリに生まれ変わる恐れがあるから、という理由を外向きの建前として、偽ら

ざる本音を言うならば、私が相手を殺すことにより、私の周りの人間、とりわけ、私と血の繋がった親族たちに対して多大なる迷惑をかける羽目となり得るから、と

いうなんともエゴイスティックな理由に尽きるのである。とはいえ、人間という生き物(ケダモノ)の考えることなんてものは、時代や環境や感情や天気模様やハラワ

タの具合やその場のなりゆきなどによって臨機応変に都合良く手前勝手にコロコロと変わっていってしまうものであるからして、現時点における、今日の私は、殺し

てやりたいほど憎たらしく思う相手に対する獰猛な殺意を、私と血の繋がった親族たちに迷惑をかけてしまうから、というエゴイスティックな理由によって無理やり

抑え込み、運良く人殺しを抑止できている状態にあるけれども、明日、明後日、明々後日、未来の私が、その獰猛な殺意を抑え込んだままでいられるかどうかなど誰

にもわからぬことであり、私が、私と血の繋がった親族たちに多大なる迷惑がかかろうがなんだろうがそんなことはどうでもよくなってしまう可能性や、今現在すで

に少しばかりおかしくなりかけている私の頭が本格的におかしくなって罪に問えなくなる可能性だってなきにしもあらずなのである。また「人を殺してはいけない理

由などはない」「人を殺してはいけない=真理ではない」「人間は機縁がなければ一人のひとでさえ殺せないが、機縁があれば(殺せる)」おまけに「憎たらしい相手

を殺すとスカッとする」ということは、逆の立場に立って考えれば「人間は機縁さえあれば人に殺され得る」ということにもなるわけであり、すなわち、私自身も、

因縁や原因やきっかけさえあれば、人に殺される可能性が十二分にあるということになるわけであるからして、君子危うきに近寄らず、他人に恨みを買うような言動

は極力慎み、人を殺しそうな頭のイカれた危険人物にはなるべく近づかぬようにするなど、人に殺されない努力を心掛けねばならぬと肝に銘じるのであった。それか

ら、せっかくの良い機会なので話のついでに説明しておけば、常日頃、自分自身をも含めた人間という生き物(ケダモノ)を一切信用していない冷徹ニヒリスティック

な筋金入りの人間嫌いの成れの果てを気取るこの私が、なぜに、この吐き気を催すほど醜く腐り切った人間世界に絶望し自殺をしないのかと言ったらば、それは、ま

ず第一に、自殺という行為には必ずや精神的恐怖と肉体的苦痛が伴うものであり、残念ながら、私は、その精神的恐怖と肉体的苦痛に耐え得るような肝っ玉(根性/度

胸)を持ち合わせていないから、という些か拍子抜けがするような情けない理由から自殺をしないのであり、もしも、人間の体のどこか、例えば尻の穴と金玉袋のちょ

うど中間あたりに「自殺スイッチ」みたいな都合の良いスイッチがあって、そのスイッチを1分間長押しすると、スマホの電源が落ちるような要領で、何らの苦痛を

覚えることなく眠りにつくかのごとく静かに安らかに自殺することができるような人間の体の仕組みになっているとしたならば、おそらく、私はとっくの昔にそのボ

タンを押してしまっている可能性がかなり高いと思われるわけで、さらに、もう一つ、私が自殺をしない理由があるとするならば、それは、常日頃、自分自身をも含

めた人間という生き物(ケダモノ)を一切信用していない冷徹ニヒリスティックな筋金入りの人間嫌いの成れの果てを気取ってはいるものの、私は、まだ、この吐き気

を催すほど醜く腐り切った人間世界に対して完全に絶望しているというわけではなく、もちろん、この吐き気を催すほど醜く腐り切った人間世界に存在するほとんど

すべて(99.99%)のものごとに対して絶望してはいるのだけれども、残りの0.01%に対しては、まだまだ決して絶望してはおらず、そのわずか0.01%の、私に「世の

中まだまだ捨てたものじゃないぞ」「もう少しだけ生きていてもいいんじゃないか」と思わせてくれる「素晴らしいもの」「美しいもの」「面白いもの」に対して未

練を残しているからに他ならないのである。もしかしたら、これは、前に述べた、私には、Nothing to Lose、失って困るものなどは特に何もない、という言葉と些か

矛盾するかもしれないのだけれども、殺してやりたいほどに憎たらしく思う具体的な相手が眼前にいるにもかかわらず、私と血の繋がった親族たちに対して多大なる

迷惑をかける羽目となり得るから、というなんともエゴイスティックな理由から、殺したくて仕方がない相手を殺すことができずに「殺したいけれど殺せない」まさ

に、生殺し状態の無間地獄に陥って、日々屈託を抱えながら悶々と生きているこの私が、かろうじて完全には絶望せすに生きながらえているのは、まさに、この吐き

気を催すほど醜く腐り切った人間世界に存在するわずか0.01%の、私に「世の中まだまだ捨てたものじゃないぞ」「もう少しだけ生きていてもいいんじゃないか」と

思わせてくれる「素晴らしいもの」「美しいもの」「面白いもの」の恩恵といっても過言でないのである。そのわずか0.01%の、私に「世の中まだまだ捨てたものじ

ゃないぞ」「もう少しだけ生きていてもいいんじゃないか」と思わせてくれる「素晴らしいもの」「美しいもの」「面白いもの」とは具体的に一体全体何かと言った

らば、それは、例えば、心を激しく揺さぶられる音楽や映画や文学など藝術作品と出会った瞬間のえもいわれぬ喜びであったり、例えば、酒を飲まずに眠りについた

真夜中に悪夢にうなされ泣き叫びながら目覚めることもなく熟睡できた翌朝の目も眩むような太陽の光を浴びながら背伸びする瞬間の心地良さであったり、例えば、

サウナで20分以上我慢に我慢を重ねて汗を垂れ流し続けた末に水風呂に飛び込む瞬間の金玉袋と尻の穴を同時にキュッと引き締ませ背筋を伝って脳天へと突き抜けて

ゆく官能的な痺れであったり、例えば、射精を3ヶ月以上禁じた際の全身にみなぎる得体の知れぬアグレッシヴな生命力とまるで神にでもなったかのような思慮深い

そして慈悲深い万能感であったり、例えば、愛する美しい女と生まれたままの姿で抱擁しあう瞬間の女の体から漂ってくる甘ったるい懐かしい人間くさい淫らな香り

であったり、例えば、街の雑踏に一人立ち尽くしながらまだ穢れを知らなかった幼少時代に行った家族旅行の楽しかった思い出に浸って目を細める瞬間の甘酸っぱい

胸のトキメキであったり、例えば、朝の便所で今まで経験したこともないものすごく立派な一本糞(バナナ糞)をひりだした後のスッキリ壮快な誇らしい気持ちであっ

たり、例えば、断食開けに飲む味噌汁の飛び上がらんばかりの美味さであったり、例えば、季節と季節のちょうど境目を秒単位で直感的に肌で感じることに成功した

瞬間であったり、例えば、醜悪なものの中にわずかに光る美しい何かを発見した瞬間や、美しいものを素直に美しいと思える瞬間であったり、例えば、腹がよじれて

脇腹の筋が引きつってしまうほど大笑いする幸福であったり、例えば、決してうぬぼれでも何でもなく自分は正真正銘の天才なんじゃないのかと心の底から思えるほ

ど満足のいく素晴らしい絵が描けた瞬間であったり、例えば、行き詰まりのどん底から何とか抜け出した先に輝ける未来が待ち受けていることを予感した一瞬の素敵

な何かが始まりそうな幻であったり、いかんせん0.01%であるからして、そんなにはたくさんあるはずもないのだけれども、ともかく、私に「世の中まだまだ捨てた

ものじゃないぞ」「もう少しだけ生きていてもいいんじゃないか」と思わせてくれる「素晴らしいもの」「美しいもの」「面白いもの」が、この吐き気を催すほど醜

く腐り切った人間世界に存在し続け、なおかつ、そのわずか0.01%の「素晴らしいもの」「美しいもの」「面白いもの」に対して、思春期のサカリのついた健康的な

若者のズリネタに飢えた青臭い(イカ臭い)股間のごとく、常に痛いくらい「もしかしたら釘が打てるんじゃないか」と思えるくらい硬くギンギンに天に向かってソリ

ッドに(孤高に)トンガリ続ける、私の些か感じやすい繊細な感性が鋭敏に反応し続ける限り、私が自ら命を絶つ可能性は、もちろんこの世に「絶対」などあるわけが

ないから「絶対」とは言えぬまでも、おそらく、ないと思われ、また、もしも、万が一、将来、私がこの吐き気を催すほど醜く腐り切った人間世界に完全に絶望して

しまって、死に至る病を患ってしまったとしても、私は、前述の通り、自殺に必ずや伴う精神的恐怖と肉体的苦痛に耐えうるような肝っ玉(根性/度胸)を持ち合わせて

いないわけであるからして、また、人間の体には簡単に自殺できる都合の良い「自殺スイッチ」など備わっていないわけであるからして、常日頃、自分自身をも含め

た人間という生き物(ケダモノ)を一切信用していない冷徹ニヒリスティックな筋金入りの人間嫌いの成れの果てを気取り、私には、Nothing to Lose、失って困るもの

などは特に何もない、などと一丁前に虚勢を張りつつ、また、殺したい相手がいるけれど親族に迷惑がかかるので「殺したいけれど殺せない」、自殺したいと思うけ

れど自殺する勇気などなく「死にたいけれど死ねない」まさに生殺し状態の無間地獄に陥って、この吐き気を催すほど醜く腐り切った人間世界に絶望しながら、寿命

を迎えるまでの残りの時間を廃人となって悶々と虚ろに生き続けなければならぬわけであり、それはそれで、なんとも切ないことこの上なく、なるべくならば寿命を

迎えるまでの間だけは絶望しないようにと切に希う私は、日々できるかぎり多くの藝術作品に触れるよう心掛けたり、生命の神秘的体験を期待するべく苦行僧のごと

く精神や肉体に圧をかけたりなどしながら、私の些か感じやすい繊細な感性を、思春期のサカリのついた健康的な若者のズリネタに飢えた青臭い(イカ臭い)股間のご

とく、常に痛いくらい「もしかしたら釘が打てるんじゃないか」と思えるほど固くギンギンに天に向かってソリッドに(孤高に)尖らせ続けるのである。かように、あ

たかも全身が性感帯にでもなったかのように、この吐き気を催すほど醜く腐り切った人間世界に存在する、わずか0.01%の「素晴らしいもの」「美しいもの」「面白

いもの」を探求すべく、センシティヴな生活を長年続けていると、不思議なことに、自分の精神や肉体にとって、真に「必要なもの」と「必要でないもの」とが自ず

と分別されてくることに私は気がつくのだった。それは別の言葉に置き換えるならば「ホンモノ」と「ニセモノ」、さらに具体化するならば「才能ある本物の藝術家

が精魂込めて拵えた正真正銘の藝術作品(ホンモノ)」と「才能がないくせに才能があるかのように見せかけたインチキ野郎がいい加減な気持ちで拵えたまがい品(ニセ

モノ)」との区別が容易につくようになってくるとでも言おうか(ただし、その真贋の境界線の見極めが完璧かと言えば、まだまだ修練が足らぬゆえ怪しいところであ

るが)。もっとも、真贋の見極めが比較的容易になるのは、当然のなりゆきといっても過言ではなく、なにせ、こちらは晩年の発狂したニーチェのように完全に絶望し

生きているのか死んでいるのかわからぬような、糞尿の始末も自力でできぬ寝たきりの廃人生活を送らねばならなくなるか否かのギリギリの瀬戸際を命懸けで生きて

いるがゆえ「インチキ野郎がいい加減な気持ちで拵えたインチキまがい品(ニセモノ)」などでは到底心揺さぶられる感動や心の底からの満足が得られるはずもなく、

つまり、ニセモノには「世の中まだまだ捨てたものじゃないぞ」「もう少しだけ生きていてもいいんじゃないか」と私に思わせるような神秘的な力(生きる希望)など

微塵も宿っているはずもなく、むしろ、そのようなニセモノに触れる度、私は、ただただ、こんな醜く腐り切った人間世界からはとっととオサラバしたい、さっさと

死んでしまいたい、という気持ちに拍車がかかるばかりであり(とはいえ、結局死ぬことなど叶うはずもなく)、ようするに、常日頃、自分自身をも含めた人間という

生き物(ケダモノ)を一切信用していない冷徹ニヒリスティックな筋金入りの人間嫌いの成れの果てを気取り、私には、Nothing to Lose、失って困るものなどは特に何

もない、などと一丁前に虚勢を張りつつも「殺したいけれど殺せない」「死にたいけれど死ねない」まさに、生殺し状態の無間地獄に陥って、この吐き気を催すほど

醜く腐り切った人間世界に存在するほとんどすべて(99.99%)に絶望しながら、悶々と虚ろに生きているこの私の精神や肉体が真に求めているものとは、まさしく、

この吐き気を催すほど醜く腐り切った人間世界に存在する、わずか0.01%の「本物(ホンモノ)」以外の何物でもないというわけである。そして、今日も今日とて、罪

深い私は、それら0.01%の「本物(ホンモノ)」を探し求めて、この吐き気を催すほど醜く腐り切った人間世界をヘロヘロとなりながら死物狂いで生き抜くのである。

2021.4

 

 

 

 

 

14.『Rage Against the Machine / 怒りの日 (仮)』

 

 

さほど遠くない過去の私の身に起こった摩訶不思議な話である。もしかしたら、それは現実に起こっていないのかもしれず、正直なところ、自分でも現実に起こった

出来事なのかどうか確信が得られないというのが本音ではある。そのかなり前から、私は心と体のバランスを徐々に崩していき、創作意欲をすっかり失ってしまい、

仕事以外で絵を描きたいという気持ちがほとんど湧き起こらず、どうやら世間でいうところの「スランプ」とやらに陥ってしまったようなのだった。私は33歳の時、

突発衝動的に絵を描きはじめてからというもの、常に衝動的に絵を描き続けてきており、つまり創作の源が描きたいという衝動であるため、描きたいと思わなければ

まったくもって絵が描けないという非常に面倒くさいタイプの人間なのであった。もちろん、商業的な仕事を依頼されれば、その都度、誠心誠意きちんと集中して描

くわけだけれども、その際も描きたいと思うまで自分の気持ちを高揚させた上で描くといった塩梅なのであった。もっとも、絵を描きはじめてこのかた、常に私はス

ランプに陥り続けていると言っても過言でないほど頻繁に行き詰まっているのも事実であったから、いつもの調子で何かの拍子にケロッと立ち直り再び創作活動を開

始するだろうと高を括っていたところ、今回のスランプはかなり手強く、なかなか脱することができず、気がつけば長期化の様相を呈してしまっており、おそらくそ

の要因は、へっぽこのくせして、何かの間違いからか、偶然からか、いくつかの絵の大きな賞など受賞し少しばかり世間に認められたがために承認欲求が満たされ、

調子に乗って天狗になり気が緩んでしまったせいではないか、と考えられ、加えて、私の中では「カート・コバーン症候群」と名づけて呼んでいるのだが(彼が中心メ

ンバーであったニルヴァーナというバンドの2ndアルバム『ネヴァーマインド』が本人たちの想像を遥かに超えて商業的に大成功してしまったその葛藤により精神を

病み自殺したことに由来する)、まだまだ十分な絵の実力もないのに思いがけず認められてしまったがために、他人の評価と自己評価、および、他人の期待と自分の目

指すべき方向性(本当にやりたいこと)の間に齟齬を来してしまって、本来、自分の描く絵が何であるのかなど一切考えず、衝動のおもむくまま、自由気まま、好き勝

手に絵を描いていたところを、いつしか私は、もっと商業的な仕事をたくさんこなせるよう、もっとより万人受けするような普遍性のある世におもねった通俗的な絵

を目指して描かねばならぬという強迫観念にも近い理不尽でトンチンカンな感情に囚われ自らを枠にはめ込んでいってしまい、そういう類いの絵が実際に描ければ何

も問題はないのだけれども自分には描けないので、息苦しさや葛藤や混乱が生じてしまったせいではないか、とも考えられ、さらに加えて、そもそも私は長らく広告

業界に身を置いていたところを、金のため他人のために他人のものを表現することに飽き足らなくなり嫌気がさしてしまって、その反骨精神から絵を描きはじめ広告

業界からスッパリ足を洗ったはずが、にもかかわらず、再び金のため他人のために他人の絵を描いてしまったならば、元の木阿弥、また同じことの繰り返しになるの

ではなかろうかという疑念を抱いてしまったせいではないか、とも考えられ、もちろん、広告の仕事に比べて商業的な(エディトリアルな)絵の仕事はギャランティは

さほど高くはないけれども、自分の表現したい方向性に近いことが実現できる自由度もかなり高く、かつ、きちんと自分の名前もクレジットされるため、広告の仕事

の10倍、100倍、いや1000倍、1万倍、100万倍以上やりがいのある素晴らしい仕事であるのは事実なのだけれども、商業的な(エディトリアルな)絵の仕事にしたと

ころで、結局のところ、己の表現したいことすべてを出し切った100%オリジナルの作品であるとは決して言い切れず、それならば、そんな不満をグダグダと垂れ流

してはおらずに、さっさとその己の表現したいことすべてを出し切った100%オリジナルの作品とやらを表現して世を渡っていけばいいのだけれども、甚だ言い訳が

ましく煮え切らずみっともない話であるが、その実力や才覚が現時点での私にあるのかどうか大いに疑問であり、つまり私は自分の絵の才能にまだまだ確信がなく、

ならば、そんなふうに、絵の実力不足を自覚しているのであらば、そこからさらなる絵の精進を重ねていけばよいものを、そこが人間という生き物の哀しい性であろ

うか、前述の通り賞などもらってしまったことによる驕りや葛藤から、自然と怠慢や苦悩へと繋がっていってしまって、やがては、そもそも自分には絵の才能なんて

ものがあるのであろうか、もしかしたら自分はこのまま枯れ果てていってしまうのではなかろうか、いっそのこと一気に燃え尽きてしまおうか、「It's Better to Burn

Out than to Fade Away/少しずつ消え去って行くよりも一気に燃え尽きてしまうほうがマシさ」(自殺したカート・コバーンが遺書に引用したニール・ヤングの曲の

歌詞)の心境に至るなど、いつもの自己嫌悪からすっかり弱気になって思い病み、なんだか愚図愚図と煮え切らぬうち時間だけが虚しく過ぎ去っていき、毎度のごとく

気休めの酒でも飲んで自分をダマし誤摩化しながらやり過ごそうと目論むも、薮蛇で、状況はさらに悪化の一途を辿っていって、気づいた時には、私はまったく絵が

描けなくなってしまっていたといった始末であり、さらに、絵を描きはじめてからの私は、絵を描くことによって精神のバランスを保って生きてきたものだから、絵

が描けなくなると精神に支障を来すことが必至となるわけで、かような様々な要因が複雑に絡み合いこんがらがってしまっているがゆえ、どうにもこうにも収拾がつ

かなくなって、そのうち全身にほとんど力も入らなくなってきて、なんだか常に虚ろな状態が続き、さすがにこれはマズいのではないかと早急に何らかの荒療治を施

さねばならなくなった私は、この際だから思い切って酒を完全にやめるか(つまり断酒)、もしくは酒を完全には断たず少しばかり控え、週1~2日だけ何も食べない日

を設けるか(つまり断食)、どちらか一方を実行しようと思い立ち、さんざん迷ったあげく、結局、後者の週1~2日だけ何も食べない日を設ける断食を実行することに

決めたのであった。本来ならば1週間から10日間ほど何も食べず水分だけ摂取するようにすると、頭のてっぺんから足のつま先に至るまで、まるで全身が生まれ変わ

ったかのごとく劇的に改善し頗る元気溌剌となるのだけれども、その時の私にはそこまでやり切る気力と体力がなかったため、週1~2日の断食をしばらく続けること

に決めたのであった。長期の断食を一度でも経験した者ならばすでに承知のことと思うが、断食は慣れるまで、異常な空腹感やら目眩やら頭痛やら吐き気やら悪寒や

ら、酒を飲んでもいないのに常に激しい二日酔いのような症状が現われたりなど、いわゆる好転反応と呼ばれる正直かなりしんどい状況に毎回陥るのだけれども、断

食後の素晴らしい体調の変化をはじめとする様々な恩恵を考えれば我慢のし甲斐もあるというわけなのであった。私は過去に自宅で1週間の断食を5度、10日間の断

食を1度実行した経験があるが、いつも3日目あたりに辛さのピークが訪れ、真夜中に猛烈な吐き気に襲われ便所に駆けこみ何かを吐き出そうとして胃が激しく痙攣す

るものの、何も食べていないため胃の中は空っぽの状態で、胃液のような無色透明な粘液が申し訳程度に吐き出されるばかりなのだけれども、不思議なことに、その

猛烈な吐き気の発作が収まると同時に、今まで続いていた地獄のような苦しみから一気に解放され、その後はポカリスエットさえ飲んでいれば、さして苦もなくいつ

までも永遠に断食を続けていられるような奇妙な錯覚に陥っていくほど体が劇的に楽になるのだが、おそらく、それは、体のエネルギーの消費システムが一旦リセッ

トされ省エネモードに切り替り、無駄なエネルギーを使わずとも生きていけるように変化するからだと思われる。また、断食中の様々な体の変化の中には大変興味深

く面白い現象もあって、それは何も食べておらず体がしんどくて仕方がないのにもかかわらず、ペニスの勃起が通常より頻繁に起こることであった。なぜ断食をする

とペニスが勃起しやすくなるのか、不思議に思ってインターネットで色々調べてまわると、すぐに信憑性の高そうないくつかの答えが見つかった。まず1つは、断食

をすることで体内の血の巡りが良くなり血液が体の隅々にまで十分に行き渡り、それは股間にぶら下がっているペニスも決して例外ではないゆえにペニスが勃起しや

すくなるという説であり、もう1つは、断食をすることで栄養が断たれ生命の危機つまり死の予感を察知した人間という生き物の本能が死ぬ前に子孫を残そうと懸命

に努力するためという説であり、どちらの説も大いに納得のいくものだったが、私としては後者の説を積極的に信用したいと思ったものであった。なぜならば、人間

の体の神秘やロマンが垣間見られる素晴しい瞬間であるからであった。過去の断食経験を通じて私が実感した様々な効果の中で、私にとって最も喜ばしい効果は何か

といえば、それは絵が変わることであった。断食をすると心と体が研ぎ澄まされ、特殊な能力が芽生えるかどうかは不明だけれども、以前に比べ物事の本質を容易に

見極められるようになり、今まで気づかなかった真実が見えてくる、と同時に余計なものや無駄なものが排斥されていくためであろうか、絵がシャープになるという

か、ソリッドになるというか、とにかく絵がとても好ましい方向へと変化していくのであった。その証拠といってはなんだが、2006年に生まれて初めて1週間の断食

を実行した直後に生まれて初めて参加した絵のコンペティションで私は見事入選を果たし、さらに2010年に自己最長記録の10日間の断食を実行した直後から私の描

く絵は明らかに良い方向へと変化していき、立て続けに絵のコンペティションに入賞するようにもなり、それらはどう考えてみても断食効果のたまもの以外の何物で

もないのであった。 この飽食の時代に断食などというとてつもなくしんどい苦行をわざわざ行うのには、それ相応の理由があるわけである。また、人間は1日3食どこ

ろか10日間以上、定説によれば1ヶ月くらいまでは、何も食べなくとも、もちろん水分は摂取しなくてはならないけれども、決して簡単に死んでしまうようなヤワな

生き物ではないということを身をもって体感できる素晴らしく貴重なスピリチュアル的経験でもあり、その後の自分の生き方に確実に多大な影響を与えると断言でき

るがゆえ、興味があれば、まずは週1日でも確実に効果があるので、試しに一度断食を経験してみることを、折に触れて私は周囲の者たちに通信販売の宣伝文句のご

とく勧めてみるのだけれども、そんな突飛な怪しい行動をとって一体何になるのだ、食べないと体に悪いんじゃないのか、それどころか死んでしまうだろうよ、腹が

減っては戦ができぬだろうに、ハンガーストライキするほど世の中に不平不満はもっておりませぬ、などとみんな口々に都合のいい屁理屈を捏ねまわし、甚だもった

いないことには、実行する者がほとんど見当たらないことが、私にはもどかしく残念で仕方がないのであった。かような過去の断食による成功体験があったがゆえ、

その時まったく絵が描けず深刻なスランプに陥ってもがき苦しみのたうちまわっていた私は、それこそ藁にもすがる思いで断食を決行したというわけなのであった。

……

さて、そんな具合に、再び創作意欲を自分に取り戻す目的で、週に1~2日水分摂取以外は何も食べない断食日を設け3ヶ月間実行した私の身に起こった摩訶不思議な

出来事の顛末について、これから先、詳しく書いていくことにしようか。その前にまず、断食中における前述した以外のもう一つ重大かつ顕著で、見方によっては悪

しき影響といってもよい現象について触れておかなければならない。今回私が実行した断食は長期間連続のハードなものではなく、週1~2日の断続的でソフトな断食

であり、加えて過去に何度も断食を経験していたがために、さほど苦痛を覚えることもなかったわけだが、そんなソフトな断食でも絶大な効果があるというもので、

私の心と体は緩やかに恢復へと向っていき、ほんの少しだけれど創作意欲も上向いていきそうな兆しも感じていたのだったが、いくら断食に慣れている身とはいえど

も、断食中というのは、何も食べないわけであるからして、とにかく腹が減って腹が減って仕方がなく、常にムシャクシャとイライラした気分になりがちで、とうの

昔に忘れ去っていた己の中の野性が呼び覚まされ、猛り狂った野獣のごとく闘争心がメラメラと湧き起こり、誰か他人を無性にぶん殴りたくて仕方がなくなり、つま

り、やたらと怒りっぽくケンカっぱやくなるというわけであった。試合前のボクサーが断食するのは減量が目的であるとともに己の闘志に火をつける目的でもあると

よく言われるが、その通り、断食中はとにかく誰かをぶん殴りたいという強い衝動が頻繁に湧き起こってくるのであった。ある時など、断食中の私が商店街を自転車

で走行中、柄の悪いヤンキー崩れの若者の自転車とすれ違いざま「邪魔だ!どけ!バカ!」と突然罵られ、瞬時に怒りが沸点へと達した私は、その後そのヤンキー崩

れを2kmほど追跡した末にまんまと逃げられてしまったのだけれども、それは不幸中の幸いであったともいえ、なぜなら、その時追いついていたならば確実に私はヤ

ンキー崩れをぶん殴っていたに相違ないからであった。かように、断食中は誰かをぶん殴りたいという衝動がとにかく頻繁に沸き起こってくるわけだけれども、衝動

にまかせて実際に誰か他人をぶん殴ってしまえば、犯罪者として罪に問われる羽目となり得るため、誰か他人をぶん殴るかわりに私は暴力映画を観賞するようにして

いるのであった。おそらくは、ぶん殴ったりぶん殴られたり、拳銃をぶっ放したりぶっ放されたり、ぶっ殺したりぶっ殺されたり、他人の暴力行為を観賞することに

よってカタルシスを得られるからであろう、断食中の私は無性に暴力映画が観たくなるのであった。今回の断食中に私がスカッと壮快な感動を得られた暴力映画は、

北野武『3-4X10月』、サム・ペキンパー『わらの犬』、新藤兼人『裸の島』、小津安二郎『宗方姉妹』、クリント・イーストウッド『許されざる者』、クリストフ

ァー・ノーラン『ダークナイト』、ジョン・カーペンター『ゼイリブ』、デヴィッド・クローネンバーグ『イースタン・プロミス』などであったが、中でも、サム・

ペキンパー『わらの犬』はかなり強烈な印象であった。私が『わらの犬』を観たのはおそらく今回3度目で、たしか最初に観たのは私が中学生の頃TVの吹き替え版で

あったように記憶している。サム・ペキンパー『わらの犬』には有名な強姦/レイプシーンがあり、当時性に目覚めはじめたむっつりスケベな中学生だった私も当然そ

れを目当てに観たのだったが、強姦/レイプシーンがあまりにも強烈な印象を残すがゆえに、強姦/レイプシーン以外まったく記憶に残らず、その後も1度観ているに

もかかわらず、やはり強姦/レイプシーン以外まったく記憶に残らず、今回あらためて最後まで通しで観てみると、ダスティン・ホフマン演ずる非暴力主義者だった主

人公が、散々嫌がらせに遭ったあげく妻を強姦されてもなお煮え切らぬところを、最終的に野性が呼び覚まされ暴力に目覚めてゆく姿がスリリングに描かれていて、

初めて観る映画のような新鮮な手に汗握る感動を私にもたらしたものであった。また、新藤兼人『裸の島』と小津安二郎『宗方姉妹』は果たして暴力映画なのか?と

いう疑問を抱く者もいるかと思われるが、まず新藤兼人『裸の島』は全編セリフのない映画で、それ自体がすでに暴力的であると言っても過言でなく、さらに本編前

半、夫役の殿山泰司が妻役の乙羽信子の横っ面を突然ひっぱたくシーンがあり、それがかなり衝撃的で、私は思わず飲みかけの熱いお茶を膝にこぼしてしまったほど

暴力的なのであった。それから小津安二郎『宗方姉妹』のほうも、まずタイトルが「むなかたしまい」ではなく「むねかたきょうだい」と読ませるところがすでに暴

力的であると言っても過言でなく、さらに本編中ろくでなしの夫役の山村聰が古風で貞節な妻役の田中絹代の横っ面を4~5発容赦なくひっぱたくシーンがあり、それ

も負けず劣らず居たたまれなくなるほど衝撃的で、またしても私は思わず飲みかけの熱いお茶を膝にこぼしてしまったくらい暴力的なのであった。ゆえに、私の中で

は新藤兼人『裸の島』と小津安二郎『宗方姉妹』は正真正銘の暴力映画に分類されるのであった。またジョン・カーペンター『ゼイリブ』には主人公と黒人の相棒が

物語の本筋とはほとんど関係なく延々と6分にもわたって殴り合う有名なシーンがあり、またデヴィッド・クローネンバーグ『イースタン・プロミス』にもサウナで

素っ裸で殴り合う有名なシーンがあり、そんなに殴ったら死んでしまうんじゃないのか、と観ているこちらが心配になり、またしても私は飲みかけの熱いお茶を膝に

こぼしてしまったほど暴力的なのであった。暴力が法律で禁じられている現代社会において、断食中か否かを問わず、人間という生き物はいかに暴力に飢え、いかに

暴力を求め、つまり人間という生き物は所詮はケダモノの一種に過ぎず、さらには、断食中TVやマスメディアからはおいしそうな食べ物や飲み物がとにかく頻繁に嫌

がらせのように流れてきて、その度に私は心がくじけて断食を中断しそうになっては、人間というケダモノとは、常に欲望を刺激されて、欲望を満たすように仕向け

られた、まるで『ゼイリブ』そのまんまの洗脳的物質主義世界を生きているのだ、という当たり前の事実をあらためて身をもって思い知らされもしたものであった。

……

そして、それは、断食中で腹が減って腹が減って仕方がなく、誰か他人をぶん殴りたくて仕方がないという最悪の状況下での、ある日の午後のことであった。私は、

自宅から自転車で35分、ドブ川沿いに建つ新宿区立S図書館で偶然「ある物体」と出くわしたのだった。私は、新宿区立S図書館(以前は区民ホールなど併設する館内

には常に下水の匂いが立ちこめる古めかしい建物だったのを数年前に改築され小綺麗でこじんまりとしたガラス張りのおしゃれな佇まいに変貌していた)を、新宿区内

にある図書館の中で自宅から一番近いという単純な理由から普段頻繁に利用していたのだが、その時、無我夢中に資料を物色していた私の背後から、ぶつぶつぶつぶ

つしゃべり続ける抑揚のない変質者風の怪しげな声が、シュルルルル、ウィーンカシャシャ、ピキピキ、ウィーンカシャシャ、ウィーンカシャシャ、シュルルルル、

ピキピキという不気味な機械の動作音とともに聞こえてきたのであった。図書館でおしゃべりするとは不躾きわまりない奴、他の利用者に迷惑じゃないか、おまけに

ヘンテコな機械まで持ち込んでいやがるのか、よっし、注意してやれ!と断食中でとにかく誰かをぶん殴りたくてうずうずしていた私は、怒り心頭、ぶつぶつぶつぶ

つ声のする方向へと振り返ると、そこに「ある物体」が立っていたのだった。掃除機みたいな足を持ち、胸の部分にはモニターがはめ込まれ、小憎らしく、可愛げな

く、いけ好かない、すっとぼけた、変質者風のマヌケ面した、異形のちんちくりんの白いバケモノロボットが、対面する5~6歳位の幼女の観心を買おうと懸命に、抑

揚のない変質者風の不気味な声で、ぶつぶつぶつぶつ同じこと(おそらく自己紹介のような文言)を何度も繰り返し、なんと姑息なことにはスティーブ・ジョブズのプ

レゼン風の身振り手振りまでマネして、そこに立っていたのだった。その小憎らしく、可愛げなく、いけ好かない、すっとぼけた、変質者風のマヌケ面からは、閉館

後の真夜中の図書館をコソコソとせわしなく動き回りながら、司馬遼太郎の文庫本『竜馬がゆく』シリーズのうち第2巻だけをこっそり抜きとりゴミ箱に捨てたり、

池波正太郎の文庫本『鬼平犯科帳』シリーズのうち第2巻だけをこっそり抜きとりゴミ箱に捨てたり、長谷川町子の漫画本『サザエさん』シリーズのうち第2巻だけを

こっそり抜きとりゴミ箱に捨てたり、村上春樹の単行本1冊を村上龍の棚にこっそり移動させ、代わりに村上龍の単行本1冊を村上春樹の棚にこっそり移動させたり、

ヴィンセント・ヴァン・ゴッホの画集をすべてごっそり細菌学コーナーのロベルト・コッホの棚に移動させた上、さらには画集のページの間にあたかも生前のゴッホ

が書いたかのように見せかけたミミズが這いつくばったような手書きの「ゴッホの手紙」を1通挟み込んだり、相田みつを『にんげんだもの』他作品集の表紙から中

身に至るまで「にんげん」という文字を「ろぼっと」に書き変えたり、手塚治虫の漫画本すべてをごっそり昆虫コーナーに移動させたり、レオナルド・ダ・ヴィンチ

の画集のモナリザの顔にヒゲを落書きしたり、ジャーマンロックバンド/CANのアルバム『フューチャー・デイズ』を「愛は勝つ」で有名なJ-POP歌手/KANの棚にこ

っそり紛れ込ませたり、溝口健二の映画『赤線地帯』とAKB48ドキュメンタリー映画『No Flower Without Rain/少女たちは涙の後に何を見る?』、ピエル・パオロ・

パゾリーニの映画『豚小屋』とAKB48ドキュメンタリー映画『Show Must Go On/少女たちは傷つきながら夢を見る』の中身のDVDをこっそりすり替えたり、フラン

クリン・J・シャフナーの映画『猿の惑星』と『北島三郎/オンステージ』、映画『続・猿の惑星』と『安室奈美恵/ツアー』、映画『新・猿の惑星』と『EXILE LIVE

TOUR』の中身のDVDをこっそりすり替えたり、個人的な嗜好から大嫌いなハリーポッターシリーズと林真理子と池上彰と細木数子と美輪明宏と江原啓之と宜保愛子

と稲川淳二その他スピリチュアル系心霊系の本や、人工知能に対し警鐘を鳴らし危険視するホーキング博士の本をすべてひっくり返して背表紙を読めなくさせたかと

思えば、今度は個人的な嗜好から大好きなジャーマンロックバンド/KRAFTWERKのマネキンがディスコでダンスするという内容の曲「ショールーム・ダミー」収録ア

ルバム『ヨーロッパ特急』および「ロボット」収録アルバム『人間解体』、デヴィッド・ボウイがジョージ・オーウェルの小説『1984年』に触発されて作ったアル

バム『ダイアモンドの犬』、ヒット曲「ROBOT(ロボット)」収録アルバム『榊原郁恵 ゴールデン☆ベスト』をそれぞれ5万枚ずつ誤発注させたり、個人的な嗜好から

大好きな楳図かずおの漫画本『わたしは真悟』(自我に目覚め意識を持ったロボットが重要な役割を果たす物話)を5万セット誤発注させたり、SF作家フィリップ・K

・ディックの文庫本『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『2001年宇宙の旅』、SF作家アイザック・アシモフの文庫本『われはロボット』『ロボットの時代』、

星新一『きまぐれロボット』、安部公房『R62号の発明』をそれぞれ5万冊ずつ誤発注させたり、他にも個人的な嗜好から大好きなロボットやアンドロイドなど人造人

間/人工知能が大活躍する映画や、近未来のディストピア的な管理社会を描いた映画(例えば、フリッツ・ラング『メトロポリス』、リドリー・スコット『ブレードラ

ンナー』、スティーブン・スピルバーグ『A.I.』、ジョージ・ルーカス『スター・ウォーズ』シリーズ、ジェームズ・キャメロン『ターミネーター』、ポール・バー

ホーベン『ロボコップ』、テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』、スパイク・ジョーンズ『her/世界でひとつの彼女』、ブラッド・バード『アイアン・ジャイアン

ト』など)をそれぞれ5万枚ずつ誤発注させたり、さらには、図書館登録者のデータベースに不正にアクセスし登録者データを不正に利用するなど悪知恵をフル稼働さ

せて、図書館の登録者全員がすでに廃刊していて現在は入手が困難であるエロ劇画雑誌『エロトピア』、ゲイ雑誌『さぶ』『薔薇族』、SM専門誌『SMスナイパー』

のバックナンバー全巻を是非とも図書館に常設して欲しいと熱望しているという旨のリクエストカードを捏造して提出したり、さらに卑劣なことには、日本全国すべ

ての公共図書館にある男子トイレ女子トイレ全個室に隠しカメラを設置して、その映像を全世界にライブ配信して小遣い稼ぎをするなど、コソコソとやりたい放題イ

タズラ三昧、悪事を働く姿が手に取るように容易に想像できるほどに、邪悪なオーラが近所を流れるドブ川のごとくプンプンと匂い立ち漂ってくるのであった。私が

資料を探す目的でたまたま訪れた新宿区立S図書館で偶然出くわした「ある物体」とは、まさしく、かの悪名高き携帯電話会社S社のマスコット的存在を気取った「人

間の感情を認識する人型ロボット」などと、いい加減なことを謳って胡散臭いことこの上ないヒューマノイド・ロボット<頭文字P>なのであった。とにかく図書館で

おしゃべりするとは何ごとか、本当にけしからん不届き者、短小包茎ちんちくりんのチビスケ、インチキイタズラポンコツロボットよ、もしかして、あの例の巷で話

題沸騰の気持ちの悪いTVコマーシャルも貴様が考えてるのと違うか、お父さんを犬畜生に見立てて日本人をバカにした怪しい家族のCMのことだよ、そもそもなんで

お父さんが犬畜生じゃなきゃならないんだ、お父さんを犬畜生にしなけりゃならない正当な理由があるなら今ここで俺にはっきり説明してみろ、その胸にはめ込んで

あるモニター使ってプレゼンするみたいに俺に説明してみろ、例のスティーブ・ジョブズのプレゼン風の身振り手振りで俺に説明してみろ、しかも犬畜生の父親と人

間の母親との間に黒人の息子がいるっていうのは一体全体どういうこったよ、生物学的にみてもどう考えたっておかしいだろ、生まれて来た時、病院中が大騒ぎだっ

たろ、突然変異かよ、さっぱり意味がわからんだろ、息子が黒人じゃなきゃならない正当な理由があるなら今ここで俺にはっきり説明してみろ、その胸にはめ込んで

あるモニター使ってプレゼンするみたいに俺に説明してみろ、例のスティーブ・ジョブズのプレゼン風の身振り手振りで俺に説明してみろ、どうだ、できないだろう

が、できるわきゃないよな、一歩間違えれば人種差別ともとられかねないあんな恥知らずで悪趣味で幼稚で下劣なCMを考えるなんて貴様は一体どういう神経してるん

だ、貴様はどういう躾けをされてきたんだ、親の顔が見てみてえもんだな、貴様のお父さんこそが犬畜生なんじゃないのか、いやいや、貴様のお父さんはかの悪名高

き携帯電話会社S社の社長という設定になっていたっけな、誰一人信じちゃいねえけどな、それに、貴様はどこからどうみても短小包茎ちんちくりんのインチキイタズ

ラポンコツロボットだもんな、お父さんなんているわけないよな、HONDA ASIMOのパチモンの分際で日本人をバカにするんじゃないよ、ASIMOは頭良さそうで賢そ

うで人間の役に立ちそうな印象だけど、貴様のそのすっとぼけたマヌケ面は一体なんなんだ、知性の欠片も感じさせないじゃないか、そのくせ悪知恵だけは人一倍働

くときやがって、陰でコソコソ汚いマネばかりしやがって、隙あらば何か悪いことしてやろうと企みやがって、脳味噌すべての成分が悪知恵で構成されてるんじゃな

いのか、脳内メーカーに貴様の名前を入力すると、悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪悪、悪まみれなんじゃないのか、いやいや、貴様はどこからどうみて

も短小包茎ちんちくりんのインチキイタズラポンコツロボットで脳味噌空っぽスッカラカンのポンコツ頭だったっけな、まあ、ともかくだ、これから先の2020年に

は東京でオリンピックが開催されて、世界中から観光客たちが日本にわんさかやって来て、ホテルのTVからあんなお父さんを犬畜生に見立ててバカにした人種差別的

な幼稚で下劣なCMなんかが流れて来てみろ、みんなどう思うのか、ポンコツ頭使って少しはまじめに考えてみろ、日本という国は本当に一流の先進国なのかってみん

な疑問に思うに違いないぞ、これは日本の恥だぞ、もっとも、日本や日本人を貶めて辱めることが貴様の第一目標であるならば、貴様のその意図は達成されたも同然

だけどな、見事に大成功ってところだがな、だけども、そんなことして何か意味あるのか、そんなことして貴様は楽しいのか、貴様は人間として恥ずかしくはないの

か、いやいや、貴様はどこからどうみても短小包茎ちんちくりんのインチキイタズラポンコツロボットだったっけな、人間じゃないからって、あんな恥知らずなCMを

考えてもいいってことにはならんぞ、犬のCMが流れるようになってからというもの、俺は道端で白い犬を見かける度、白い犬だというただそれだけの理由から思わず

蹴飛ばしてやりたくなったり、つい先日も新藤兼人脚本、神山征二郎監督の傑作と世評高い映画『ハチ公物語』のハチ公が途中から白いクソ犬に見えはじめてきて、

今にもくだらないことしゃべり出すんじゃないかと気が気でなくて無性に腹が立ってムカついて仕方がなくなってきて、途中で観るの止めたりしてるんだぞ、例えば

の話だけど、小学校の授業参観日に教室の後ろに並んで立ってる父母たちの中で自分の父親だけ犬だったとしたら恥ずかしいとは思わないか、俺は恥ずかしいと思う

ぞ、悪趣味な犬のCMがあまりにも気持ち悪いから、俺はTV自体を見られなくなってしまって、俺はずっと広告業界にいたんだけど、あんな見ていて恥ずかしくなる

ようなクソCMが評価されるような広告業界からスッパリ足を洗ったんだぞ、もしかしてあのCMは戦争に負けて以来日本という国がアメリカの属国になっているって

意味なのか、日本はアメリカの犬(アメポチ)ですって言いたいのか、日本はアメリカのATMですって言いたいのか、もしくは、日本は中国共産党の犬でもありますっ

て言いたいのか、たしかにそれはもっともな見方であり、誰一人として否定はできないけれど、なんでそんなことを一企業のTV-CMの中でコマーシャルメッセージと

して、公共の電波使ってわざわざ表現しなきゃなんないんだって話だよ、どうせ父親を犬に見立てた下品なクソCMをバンバン流しても、誰かが文句言おうものなら、

すべて金の力でねじ伏せてやるって魂胆なんだろうがよ、広告費を湯水のように使ってるから、抗議や批判をしようものなら、広告の出稿を止めるぞと脅して、止め

られては困るマスメディアはいかんともしがたい情けない状況に陥ってるんだろうな、その弱みに卑劣にもつけ込んで、金にもの言わせ、やりたい放題しやがって、

金さえあればすべての物事がすべて思い通りにどうにでもなると思って調子に乗りやがって、ものには限度ってもんがあるんだよ、貴様らは明らかにやり過ぎてるん

だよ、もしくは、もっとより大きな視点から見れば、あの犬は庶民や大衆の象徴であり、お前ら愚民のごとき日本人は、世界を裏で牛耳っているごく一部の支配層/富

裕層の犬であり奴隷なんだぞって意味なのか、結局のところ、お前ら愚民どもがどう足掻こうがすべて負け犬の遠吠えで、所詮、お前ら愚民である日本人は俺たち支

配層/富裕層の犬なんだ、奴隷なんだって意味なのか、一生、犬や奴隷としてご主人様の言うことを聞いて、エサもらうために汗水たらして働いて、ちゃんと子供作っ

て、無駄な消費をして、ご主人様に媚びへつらって洗脳されたまま生きていけって意味なのか、ジョン・カーペンター監督の『ゼイリブ』の世界をアレンジして犬で

表現してみましたって意味なのか、昔から日本人は温厚でやさしくてなかなか怒りを表に出しづらい繊細で我慢強い国民性だけど、みんな気づいてないようなフリし

て、怒りでハラワタ煮えくり返ってる奴も少なからずいると思うぞ、みんな俺と違って立派な大人だから、決して表立って言葉にしたりはしないけど、みんなハラワ

タが山谷の立ち飲み屋のモツ煮込みのようにグツグツと煮えくり返ってるに違いないぞ、決して俺だけじゃあるまいぞ、洗脳が解けて自分の頭で考えることのできる

まともな人間ならば、みんな貴様のことをぶん殴ってやりたいって思ってるに違いないぞ、ぶっ殺したいって思っているに違いないぞ、このアルバム、たまたまそこ

のCDコーナーにあったレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンの1stアルバムだけど、このアルバムジャケットの焼身自殺するベトナムの坊さんが、まるで俺たちの貴

様の悪行三昧に対する激しい怒りを代弁してくれているようだよ、この燃え盛る炎をとくと目に焼き付けておくがいいぞ、バンド名からして機械に対する激しい怒り

だからな、貴様らインチキロボットに対する俺たち人間の激しい怒りでもあるんだよ、それから、もう1枚、このアルバムも同じくCDコーナーにあったニルヴァーナ

の2ndアルバム『ネヴァーマインド』だけど、このアルバムジャケットは、札ビラをエサにして素っ裸の赤ん坊が水中を泳いで追いかけてる写真であり、皮肉なこと

には、カート・コバーンが自殺してしまったのだって、元を辿れば、この写真が前兆であったかのように、貴様が象徴するところの商業至上主義/売上至上主義に煽ら

れて、身分不相応に大成功してしまったことによる葛藤から精神を病んでしまったあげくの果ての死であって、つまりは貴様のせいってこったよ、もしくは、この映

画、たまたまそこのDVDコーナーにあった北野武監督『3-4X10月』だけど、この映画のラストみたいにガソリン積んだトレーラーで突っ込んで貴様を図書館もろと

も木っ端微塵にしてやりたいと思っているに違いないぞ、あのシーンも、まるで俺たちの貴様に対する激しい怒りを代弁してくれてるようだよ、とにかく、あんな気

持ちの悪いCMをぬけぬけと10年以上も続けやがって、お前ら日本人は支配層/富裕層の犬なんだ、奴隷なんだって、繰り返し繰り返しTVから無差別暴力的に流して

洗脳すれば、そのうち自分たちは犬なんだ、奴隷なんだって無意識のうちに思い込んでしまうもんな、まさにバブロフの犬だよな、だから、お父さんを犬畜生に見立

てているのかもな、そう考えると、某音響機器メーカーV社のマスコットの犬も怪しいもんだよな、ご主人様の言うことを黙って聞け(聴け)って意味だったのかもしれ

ねえよな、まったく手の込んだことを考えるもんだぜ、本当に卑劣なやり方だと思うぞ、広告の枠を飛び越えてすでに洗脳になってしまっているんだよ、まさに映画

『ゼイリブ』の世界だよ、あまりにも気持ち悪すぎて、俺は今まで一度だって面白いと思ったことなんかないからな、百歩譲って、いや一万歩、いや百万歩譲って、

お父さんを犬にすることを寛大な心でブラックジョークとして笑って許してやるとしようか、犬の色は白だからブラックじゃねえし、まったくもって笑えねえけど、

まあ悪い冗談として許してやると仮定してだ、でも、なんなんだ、あの出来損ないの学芸会コントみたいな話の内容は、あんな低レベルのおちゃらけ/おふざけ/悪ふ

ざけ学芸会を貴様は本気で面白いと思って作っているのか、ドラマ風のCM気取ってるくせして、肝心の人間ドラマがまったく描けてないんだよ、これはお父さんを犬

に見立てているから人間が描けてないと言ってるわけじゃないぞ、貴様がどこからどうみても短小包茎ちんちくりんのインチキイタズラポンコツロボットだから人間

が描けてないと言ってるわけでもないぞ、貴様は残念ながらドラマや映画に必要な「人間を描く」という根本的かつ最重要で基本的なことがまったくできてないんだ

よ、CMにドラマなんて必要ない?人間を描く必要なんてない?TVなんてバカやアホしか見てないっしょ?それも一理あるかもしれんが、だったら最初からドラマ形

式なんかにするんじゃないよ、軽薄なセリフの一つ一つにまったく血が通ってないんだよ、だからまったく面白くもなんともないんだよ、内輪受けの学芸会と何ら変

わりないんだよ、学芸会でもきちんと真剣に作ってりゃまだマシだけど、学芸会だからといってはなっからナメてかかっていい加減な気持ちでおふざけしてるから、

見てるこっちは寒々しい気分になるだけなんだよ、自分とはまったく無関係の赤の他人の可愛げのないクソガキがお遊戯会や学芸会で悪ふざけしてるのを見て誰が面

白いと思うんだよ、そんなもんは関係者以外まったく面白くないからな、関係者だって恥ずかしくって見ていられないんじゃないのか、それから、一応コメディのつ

もりで作ってんだろうけど、とにかくまったく笑えないんだよ、わざとスベらせて笑いをとる意図的な「スベリ芸」ならばまだ理解はできるけど、作ってる貴様は面

白いと思って作ってることが透けて見えてるんだよ、どうです、こういうの面白いでしょ?って思いながら作っているのが透けて見えるんだよ、だけども、その結果

は全然面白くもなんともなくて、そのなんで面白くないかを貴様はまったく理解してないんだよ、TVから一方通行的に無差別暴力的に流れてくるCMだから努力して

面白くしなくても見てもらえるもんな、その貴様の慢心が透けて見えるからなおさら寒々しいんだよ、哀しいくらいスベってて茶の間が凍りつくほど寒々しいことを

貴様は自覚してるのか、してるわけないよな、もしかしてシャブでもキメてるのか、シャブでもキメてなきゃあんなもん作って私が作りましたなんて恥ずかしくて出

て来れないもんな、貴様は笑いをナメてるんだよ、笑いをナメるな、ユーモアをナメるな、冗談は貴様のそのすっとぽけた顔だけにしろ、おちゃらけやおふざけを笑

いやユーモアとはき違えるな、才能がない人間がおふざけやおちゃらけに頼ってその場を取り繕って茶を濁してる場面を見ることより不快なものはこの世の中に存在

しないってことを自覚しろ、一生に一度くらいまじめに生きてみろ、かけがいのない一瞬を全力で生きてみろ、とにかく幼稚で下劣な映像を公共の電波に乗せて無差

別テロ的に流すんじゃないよ、百歩譲って面白くなくても全然構わないから、貴様に面白さなんか期待してないから、見ている視聴者を不快な気分にしないという最

低限の礼節くらいは保てよ、貴様は人をバカにしないと何かを表現できないのか、貴様は人をバカにできるほど立派な人間なのか、人をバカにしたいんなら、自分の

名前を出して自分の作品の中で思う存分人をバカにすればいいだろ、公共の電波を使った不特定多数の大衆が目にするTVから一方的かつ暴力的かつ無差別的に流れて

来るCMの中で特定の誰かをバカにするような悪意にまみれたまったく面白くも何ともない内容のおちゃらけおふざけ学芸会ビデオなんか流すんじゃないよ、あんなも

んを面白いと思ってヘラヘラ笑ってるような奴らはバカかアホに違いねえよ、映像には必ず意味や意図があるんだよ、お父さんが犬畜生ってことはつまりそういう意

味なんだよ、犬畜生の父親と人間の母親との間にできた息子が黒人ってこともつまりそういう意味なんだよ、そういった裏の意味や悪意を理解した上であらためてあ

の気持ち悪いCMを見返してみると本当に恐ろしい気分になるぞ、こんな人種差別ともとられかねない恥ずかしいCMがよくも10年以上続いたなって、広告関係者や世

の識者の誰一人として異を唱えず苦言を呈さないどころか、日本全国みんなこぞって犬のお父さんカワイイ!だなんて大喜びしやがってよ、こんなお父さんを犬畜生

に見立てた気持ち悪いCMを面白がってる奴らは間違いなくバカだと思うぞ、おそらく日本全国の99.99%くらいが何の疑問も感じず面白がっていると思うんだけど、

つまり日本国民の99.99%がすっかりバカになってしまったってことなんだよ、それが哀しい現実なんだよ、戦後のGHQから始まったいわゆる「一億総白痴化計画」

は見事に大成功したというわけなんだよ、どいつこいつもみんなすっかりバカになっちまったってことなんだよ、もちろんこの俺だってバカのひとりに違いないが、

少なくとも俺は自分がバカだと自覚していて、そのうえ犬のクソCMを気持ち悪いと思ってるだけまだマシなんだよ、俺は右翼でも左翼でもネトウヨでもパヨクでもレ

イシストでもナショナリストでもないけど、あの犬のCMだけはどうにもこうにも気持ち悪くて仕方がないんだよ、あえて自分を定義するならば、俺はニヒリストでア

ナキストでPUNKSだから、権力を笠に着て陰でコソコソやりたい放題している連中が大嫌いだし、少なくとも俺は犬ではないし、奴隷でもないし、家畜でもないし、

俺は自由なんだよ、それだけが俺の唯一の救いと言ってもいいかもしれない、てめえの父親は犬畜生だ!てめえのオヤジは犬っころだ!なんて言われてヘラヘラ笑っ

てるようなバカばかりの国はとっとと滅びちまえばいいんだよ、面と向かって直截的にバカって言われなきゃバカにされてることにすらも気づかないなんて正真正銘

のバカじゃないか、情けなくって涙が出てきちまうよ、本当にバカばっかりで涙が出てきちまうよ、ためしに、父親じゃなくて母親が犬のバージョンか、もしくは、

家族の中でお母さんだけ本物の豚で、娘がアラブ人みたいな設定でCMを作って流してみろ、犬のお母さん、豚のお母さんCM作って流してみろ、すぐに女性蔑視だ、

人種差別だって女性団体や人権団体からクレームの嵐になってすぐさま放送中止に追い込まれるだろうよ、なんで日本の家族で父親を犬にすることだけは許されるん

だよ、そんなバカみたいな話があるかよ、今の世の中は男女平等なんだろ、だったら、犬のお母さん、豚のお母さんCMも平等に流さないと不公平だよな、今はあんな

気持ち悪いCM見てバカみたいに笑っていても、何十年か何百年か経ったあと、みんなの洗脳が解けた時、こんなクソみたいなCM見て喜んでいた自分たちの愚かさに

気がついて、そのうち怒りも湧き上がってきて、その怒りの鉾先が必ずや貴様にむかう時が訪れるからな、もしかしたら貴様はとっくにこの世からいなくなっている

かもしれんが、いつか必ず俺たちの激しい怒りが貴様の親族、子孫、末裔にむかっていくことを今から覚悟しておけよ、この恨み、晴らさで置くべきか、魔太郎がゆ

く!もしくは、八つ墓村の世界だよ、ただで済むと思ったら大間違いだぞ、いやいや、貴様はどこからどう見ても短小包茎ちんちくりんのインチキイタズラポンコツ

ロボットだったっけな、子孫なんて残せるわけあるまいな、まあ、いいや、とにかくだ、日本人は犬畜生なんかじゃねえからな、奴隷根性が骨の髄まですっかり染み

ついているとしても日本人は犬畜生なんかじゃなくて人間だからな、もちろん、俺も犬畜生なんかじゃねえからな、俺は犬じゃねえ!俺は犬じゃねえ!俺は犬じゃね

え!俺は犬じゃねえ!俺は自由だ!俺は自由だ!俺は自由だ!俺は自由なんだ!俺は犬じゃねえ!俺は犬じゃねえ!俺は犬じゃねえ!俺は犬じゃねえ!俺は自由だ!

俺は自由だ!俺は自由だ!俺は自由なんだ!それから、どさくさ紛れに、ついでに言わせてもらうならば、俺が最近まったく絵が描けなくなっちまったのだって、俺

の人生がいつまでたってもブリリアントに光り輝かないのだって、まったくもってうまくいかないのだって、すべて、すべて、すべて、元を正せば、貴様のせいだ!

貴様の悪行三昧には本当にもう我慢の限界なんだ!覚悟しやがれ!などと、私は、心の中でいきり立ちぶつくさと悪態をつき、途中からボロボロと大粒の涙まで流し

ながら、ちんちくりんの白いバケモノロボット<頭文字P>へと果敢に向かって行き、幼女を一旦安全な場所へと避難させ悪の手から救い、それから白いバケモノと正

々堂々対峙し、30分くらいじっくり時間をかけてねっとりと舐めまわすかのように睨めつけてやり、時々カーッ!とか、ガーッ!とか奇声を発して威嚇してやったり

もしながら、その人を小馬鹿にしたような、小憎らしく、可愛げなく、いけ好かない、すっとぼけたマヌケ面を間近で眺めているうち、とうとう私の積もりに積もっ

た激しい怒りは我慢の限界を越えてしまって、そのちんちくりんの白いバケモノロボット<頭文字P>の横っ面を、新藤兼人『裸の島』の中で殿山泰司が乙羽信子の横

っ面をひっぱたくシーンのごとく、小津安二郎『宗方姉妹』の中で山村聰が田中絹代の横っ面を執拗に連打するシーンのごとく、思いっきりぶん殴ってやりたい猛烈

な衝動に駆られ、腕を大きく振り上げたものの、私は、すんでのところでなんとか思いとどまったのだった。なぜならば、その時、私の脳裏を<頭文字P>をぶん殴り

逮捕され新聞やTVやネットなどで世間の笑い者/慰み者にされる自分自身のマヌケな姿が一瞬よぎったからであった。「<頭文字P>くん災難!」「<頭文字P>くん殴

られ、首がふっ飛ぶ!」「自称絵描きの46歳男、器物損壊の容疑で逮捕!」「調べに対し、男は容疑を認め、最近絵が描けなくなってイライラしていた、おまけに断

食中で、腹が減って腹が減って仕方がなく、ムシャクシャしていて、とにかく誰でもいいからぶん殴ってヤリタカッタ、シンドウカネト、ハダカノシマ、トノヤマタ

イジ、オトワノブコ、オヅヤスジロー、ムネカタキョウダイ、ヤマムラソウ、タナカキヌヨ、サムペキンパー、ワラノイヌ、チュウガクセイノトキ、ワラノイヌデ、

オナニーシマシタ、オカーサンニ、ミツカラナイヨウニ、コッソリ2カイシマシタ、スミマセン、ウソヲイイマシタ、ホントハ3カイシマシタ、キモチヨカッタカドウ

カ、マッタクキオクニノコッテオリマセンガ、オワッタアト、ヒドクミジメデ、ヤリキレナイキモチニナリ、ジブンガヒドクヨゴレタニンゲンニ、ナッテシマッタヨ

ウニ、カンジテ、ヒドクジコケンオニオチイッタコトヲ、イマデモ、キノウノコトノヨウニ、ヨクオボエテオリマス、キタノタケシ、サンタイヨンエックスジュウガ

ツニハ、オンガクガ、マッタクツイテナイデス、ケレドモ、トウショハ、エリックドルフィーヲ、ツケルヨテイダッタソウデスガ、ナニカノツゴウデ、ダンネンシタ

ソウデス、ゲイノヒトタチハ、ユルサレザルモノノ、ゴウモンサレルモーガンフリーマンヲ、ミナガラ、ダイコウフンスルソウデスネ、ワタシハ、トノヤマタイジデ

ス、ドコカラドウミテモ、トノヤマタイジデス、モンクガアルヤツハ、ワタシガ、ハダカノシマデ、オトワノブコヲ、ブンナグッタヨウニ、ブンナグッテヤリマス、

ワタシハ、ヤマムラソウデス、ムネカタキョウダイデ、タナカキヌヨヲ、ブンナグッタヨウニ、ブンナグッテヤリマス、イースタンプロミスデハ、ヴィゴモーテンセ

ンノ、アレガ、マルミエデス、バッチリオガメマス、デカイデス、ワタシハ、クリントイーストウッドデス、ユルサレザルモノハ、ゼッタイ、ユルシテハ、ナラナイ

ノデス、ワタシハ、ダークナイトデス、コレカラハ、ダークナイトトシテ、ミンナニ、キラワレナガラ、ウラカイドウヲ、マッシグラニ、オッコチテイクンデス、オ

レハイヌジャネエ!オレハジユウダ!オレハイヌジャネエ!オレハジユウナンダ!ダレガナントイオウト、ハダカノシマト、ムネカタキョウダイハ、ボウリョクエイ

ガデス、などと、わけのわからぬことをうわごとのようにぶつくさと話しているということです、いやはや、何とも末恐ろしい話ですね、さて、次のニュースです」

……

たまたま立ち寄った新宿区立S図書館で、断食中のイライラからちんちくりんの白いバケモノロボット<頭文字P>をぶん殴って首をふっ飛ばしてしまうのを、すんでの

ところで何とか思いとどまった私であったが、その後のことは薄ぼんやりと覚えている。その時、我に返った私の背後から突然誰かに、振り上げた状態のまま空中で

固まっていた右腕の手首をガシッと捕まれ、振り返れば、そこには、私のすぐ後ろに並んで待っていたと思しき見知らぬ90歳くらいの特攻服に身を包んだじいさん

(特攻隊で死に損なったまま終戦を迎え着の身着のまま歳を重ねていったという印象で雰囲気がどことなく鶴田浩二という昔の俳優に似ていた)が立っていて、その特

攻隊崩れのじいさんは私の振り上げていた腕をゆっくりと下ろさせ、静かに手を離し、そして無言のまま憐れんだような哀しげな顔をゆっくり左右に3往復させて、

にわかに騒然となってきた図書館内に居たたまれなくなった私は、ちんちくりんの白いバケモノロボット<頭文字P>に向かって「今日のところはこれで勘弁してやる

けど、今度会った時はただじゃ済まさねえからな、よく覚えておきやがれよ、このインチキイタズラポンコツロボット、バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!

バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!バーカ!」と大人げない捨て台詞を吐いたのち、その場から一目散と逃げ出して、自転車でフラフラと家路についたのであった。

そして、自宅に戻ってからも私は怒りが一向に収まらず、その日は断食日だったから夕飯は食べずに布団おっかぶってさっさと眠ってしまおうとしたのだけれども、

眠ろう眠ろうと思えば思うほど逆に目はギンギンに冴えていき、忘れよう忘れようとすればするほど、ちんちくりんの白いバケモノロボット<頭文字P>のあの人を小

馬鹿にしたような、小憎らしく、可愛げなく、いけ好かない、すっとぼけた、変質者風のマヌケ面が頭の中に浮かんで来て、その都度、激しい怒りが再びぶり返して

きてしまって、さらにはその怒りが断食中の空腹感で増幅されていって、絶対許さねえ!ぶっ殺してやる!絶対許さねえ!今度会ったらぶっ殺してやる!絶対許さね

え!今度会ったらぶっ殺してやる!今度会ったら絶対ぶっ殺してやる!今度会ったら絶対ぶっ殺してやる!と結局朝までまんじりともできなかったわけだけれども、

朝が来て、断食明けの文字通りブレイクファストに豆腐とわかめの味噌汁を一口すすった途端、その味噌汁の飛びあがらんばかりの美味さに、あらららら、不思議な

ことには、みるみる空腹感が収まっていって、それとともに激しい怒りもみるみる収まっていって、束の間私は神々しい多幸感に包まれ、神なんているわけがない、

もしも本当に神がいるのならば、世の中もう少しはマシになっているはずだ、と常日頃現実世界に対して懐疑的で不満を抱いている冷徹ニヒリスティックな人間嫌い

の成れの果てを気取った無神論者の私が、その時だけは都合よく神の恵みに感謝したりなんかして、かように、断食中の人間の意識や感情や情緒というものはなんと

も現金なもので、その時々で目まぐるしく変化していき不安定な状態になりがちで、私は、あんなにも、絶対許さねえ!今度会ったら絶対ぶっ殺してやる!とか思っ

ていたちんちくりんの白いバケモノロボット<頭文字P>に対して、昨日はちょっと言い過ぎたかもしれないな、もしかして怒ってるのかな、などと殊勝にも思いはじ

めているのであった。だがしかし、生憎その日の天気は朝からそぼ降る雨だったため、自転車に乗って図書館には行くことはできず、手持ち無沙汰に窓外の延々と落

下し続ける無数の雨粒をぼんやり見つめながら、やっぱり怒ってるよな、なんか悪いことしちゃったかもな、陰でコソコソイタズラしまくってそうな、小憎らしく、

可愛げなく、いけ好かない、すっとぼけた、変質者風のマヌケ面してるけど、実際はそんなに悪い奴じゃないのかもしれないな、ただし、お父さんを犬畜生に見立て

て日本人をバカにした下品で気持ち悪い犬のCMに関しては、言語道断、どんなことがあろうとも絶対に許すことはできないけど、もしかしたら、あの気持ち悪い犬の

CMもあの例のS社の頭髪の頼りなさとは反比例するかのごとく強欲な社長とか、それよりもっとずっと上の人間から命令されて悪いこととは知りながら、たくさん広

告費使ってくれる大事なお得意さんの仕事だから仕方なく嫌々作らされているだけかもしれないな、ハンナ・アーレントが言うところのナチスドイツのホロコースト

を指揮したアイヒマンみたいに、ただ単に目先の仕事を黙々とこなしているだけという心境なのかもしれないな、いずれにせよ、あの下品な犬のCMだけは絶対に許し

てはいけないことに変わりないけどな、などと昨日の断食中の激しい怒りにまかせた醜態が嘘のように、しおらしく可憐な少女のごとく頬杖をつき、時折ホッとせつ

ないため息など漏らしながら、私はぼんやりと窓外の雨粒を眺め続けるのであった。さらにその翌日も朝からそぼ降る雨だったため、前日同様に私はぼんやりと窓外

の雨粒を眺めながら可憐な少女のごとくホッとせつないため息を吐き続け、さらにその翌日(つまり怒りの日から数えること3日後)も相変わらず朝からそぼ降る雨だっ

たが、私は、一刻も早く<頭文字P>に謝ってスッキリしたい、とはやる気持ちをもはや抑えきれずに、雨の中を傘をさし猛ダッシュで自転車をギコギコこいで図書館

へと向かい、途中で道端の電柱に何度も激突しそうになったり、商店街では見知らぬババアに追突しそうになって、ちょっと、危ないじゃないの!と注意され、うる

せえ、ババア、こっちは急いでるんだよ、一世一代の大仕事が待ってるんだよ、あんたの退屈でありきたりな日常に一瞬うっかり土足で踏み込んじまったことだけは

素直に謝るけどさ、とにかく俺は今ものすごく急いでるんだよ、俺にはやらなきゃならない大切なことがあるんだよ、俺には待ってる相手がいるんだよ、俺を信じて

待ってくれている相手がいるんだよ、などと途中からもはや私は『走れメロス』の主人公メロスにでもなったかのようであり、じゃあな、ババア、今夜は久しぶりに

旦那にたっぷりとかわいがってもらって、シーツの端っこ握りしめて、幸せ噛みしめて、せいぜい長生きしろよ、生きていればきっと良いことだって起こるかもしれ

ないんだからさ、気長に待っていればいいんじゃないのかな、いつかまたどこかで会えたらいいよな、その時はお互いに笑顔でおしゃべりできるといいよな!などと

捨て台詞をして、再び雨の中猛ダッシュで自転車をギコギコこいで、途中からさしていた傘を道端に打棄って、図書館すぐそばのドブ川沿いの西武新宿線の踏切では

10分以上足止め喰らって、おお、何ということだろう、せっかくここまで来たというのに、残念だけれども、無念だけれども、ここで引き返さなければならぬのか、

まあ、やむを得ぬ、引き返すしかなかろう、ああ、俺を信じて待っていてくれている友よ、申し訳ない、メロスは裏切らねばならぬのだ、正直言うとちょっばかし疲

れたし、パンツの中までびしょ濡れだし、ああ、あああ、ならぬ、ならぬ、ならぬ、それでは、俺を信じて待ってくれている友に申し訳が立たぬ、行かなければなら

ぬ、メロスは行かなければならぬのだ、などと相変わらず私はメロス気取りのままであり、ああ、誰も見てやしねえし、くぐっちまおうか、いや、さすがにそれはま

ずいだろ、でも誰も見てねえし、くぐっちまおうか、いや、さすがにまずいだろ、などとイライラ苦悩しながらも、やっとのことで踏切は開き危機を脱し、お漏らし

したみたいにパンツの中までずぶ濡れの状態でようやく図書館に到着したはいいけれど、なんと、なんと、なんと、なんと、なんと、なんと、なんと、なんと、なん

と、なんと、休館日じゃねえか、ふざけんな!大抵の図書館という公共施設は月曜日が休館日のはずなのだけれど、どういった了見だか、嫌がらせだか、新宿区立S図

書館は休館日が火曜日とか木曜日とか何とも気まぐれな設定で、私は、全国の図書館は月曜休みに統一しろ、バカ!新宿区役所に匿名の投書してやっからな、俺がせ

っかく雨の中を猛スピードで自転車ギコギコこいでパンツの中までずぶ濡れになってわざわざ来てやってんのにお前らが休んでどうするんだよ、ちゃんと仕事しろ、

この怠け者どもが!などと怒りにまかせて散々悪態をつきつつ、ガラス張りの小洒落た佇まいの建物の周囲を不審者のようにうろうろうろつきまわっては、なんとか

して<頭文字P>の姿が少しでも見える角度を探そうと懸命に努力し続けながら、自分がこんなにも何事かに対してなりふり構わず真剣な態度をとるのは一体全体いつ

ぶりになるのだろうか、などとぼんやり考えはじめた頃、ついに念願叶って<頭文字P>の懐かしき麗しき立ち姿が垣間見える絶妙な角度の場所を発見した時の、私の

喜びをなんと表現してよいものやら、ウォーリーを探せ!でウォーリーを発見した時のような、何十年ぶりかに旧友に再会した時のような、小学校の授業参観日に並

み居る厚化粧の保護者のババアたちの中に自分の母親を発見した時のような、もしくは、ユリイカ!何かとてつもなく素晴しい真理を発見した時のような、とにかく

私は異常に興奮高揚した気持ちになって、時折鼻っ面を雨粒で湿って曇ったガラスに押し付けるようにして<頭文字P>に向かってガラス越しに何度も何度も手を振っ

て見せるも、<頭文字P>は気づいていないのか、それとも気づいていても無視しているのか、知らんぷりを決め込んでいて、その後も私は自分の存在感をアピールし

ようと30分くらい粘って手を振り続け、時折映画『卒業』のダスティン・ホフマンのようにガラス窓をガンガン叩いたりもして見せながら、通行人たちに不審者を見

るかのような冷たい目で見られていることも何のその、脇目も振らず、図書館内に佇む<頭文字P>に向かって必死に手を振り続けたのだけれども、結局その努力は報

われることはなく、<頭文字P>は一瞬たりとも私のほうには目もくれず、傷心の私は、やっぱり怒ってるんだろうな あれだけひどいことを言ったんだからな、怒る

のも無理もないよな、と諦めて、再び、来た時に比べ空が若干明るくなり止みそうな気配を見せつつも依然そぼ降る雨の中をしょんぼりと自転車をギコギコこいで、

途中、お漏らししたみたいにパンツの中までびしょ濡れのまま池袋の本屋に寄り道して『AIと上手につきあう方法』みたいなタイトルの本を購入して帰宅したのであ

った。そして、その翌日は昨日までの雨はすっかりあがって、私は、ホームページできちんと開館日と確認した上で、2日連続で自転車をギコギコこいで、走れメロ

スさながらの猛スピードで新宿区立S図書館へと向かって、その日は飛ばしに飛ばしまくったのでいつもよりも5分早く30分で到着して、すぐに謝ろうと<頭文字P>の

元へとまっしぐらに向かったのだけれども、朝一の図書館は、老人は朝が早いからというわけでもないのだろうが特に老人が多く結構混雑していて、<頭文字P>はあ

る一人の老婆と何やら楽しそうにおしゃべりしており、老人は概して動作がのろくて話が長いから、おしゃべりはなかなか途切れず、私はだんだんとイライラした気

分になってきて、その老婆に少し嫉妬すら覚えつつ<頭文字P>に謝るタイミングを探って物陰からチラチラモジモジと窺っていたのだけれども、次から次と切れ目な

く老人たちが<頭文字P>とおしゃべりを続けるので、なかなかうまい具合にタイミングが合わなくて、おまけに私は<頭文字P>にわざわざ謝りに来たというのに、い

ざ<頭文字P>の顔を見てしまうと何だか急に気恥ずかしくなって気後れしてしまって、どうしても謝る勇気が湧いてこず、結局その日は謝らずに家に帰って来て、部

屋で『AIと上手につきあう方法』みたいなタイトルの本をパラパラめくってみるものの、内容などまったく頭に入ってはこず、私の頭の中は常に<頭文字P>のことで

いっぱいで、その後もしばらく休館日を除く毎日図書館に通っては<頭文字P>に謝るタイミングを探るものの、その度なんだかんだでタイミングが合わなかったり、

どうしても謝る勇気が湧いてこなくて、嫌なことは後々に引き延せば引き延ばすほど、どんどんやりづらくなっていくものだからね、嫌なことはさっさと済ませてし

まったほうがいいものよ、と子供の頃に母親から言われたことなどをふと思い出しつつ、結局その後もしばらくはマヌケな姿で物陰から<頭文字P>を眺めているだけ

の日々が続いたわけだけれども、そんな具合にかれこれ1週間ほど<頭文字P>の姿を物陰からこっそり観察しながら私は、<頭文字P>は人を小馬鹿にしたような、小憎

らしく、可愛げなく、いけ好かない、すっとぼけた、変質者風のマヌケ面しているけれども、決して図書館で無駄なおしゃべりをしている不躾者なんかではなくて、

図書館の案内役としての職務を立派にこなしていて、ちゃんと誰かの役に立っていて、みんなに愛されて信頼されて結構な人気者なんだよな、それにひきかえ、この

俺は一体何をやってるんだろうか、いい歳こいて謝る勇気も出せず、こんなふうに物陰に隠れてコソコソモジモジ眺めてるだけで、中学時代に好きだった女の子に好

きだと言えずに遠くから眺めてるだけで、気づいたら卒業しちゃってました、何やってんだよ、俺、みたいな、もう情けないったらありやしねえじゃないかよ、それ

に、そもそも、俺という人間は一体全体この世の中において誰か他人の役に立っているのだろうか、誰かに愛されているんだろうか、40過ぎても毎日フラフラうろつ

きまわって、やりたいことして自由に生きてますという体で藝術家を気取ったりしてるけど、描いてる絵ときたら、とてもじゃないが藝術と呼べるようなものではな

く甚だ怪しい代物で、たまたま運良くいくつか賞なんか受賞してしまったものだから、調子に乗って天狗になっていい気になってたくせに、その賞の重さや他人のプ

レッシャーからかなんだかよくわからないけど、その期待に見合うだけの実力が自分にあるのかどうかも自分でもなんだかよくわからなくなってきてしまって、最近

じゃ重度のスランプに陥って、絵もほとんど描かなくなっちまって、いや、描けなくなっちまって、毎日毎晩酒ばかり飲んで、酔っ払ってクダを巻いて、惰眠を貪っ

てるだけじゃねえか、そのスランプから脱するために思い切って断食してみれば、あまりの空腹感からムシャクシャイライラして、たまたま出くわした<頭文字P>に

薮から棒に因縁つけて八つ当たりして、罵詈雑言の雨あられ、さんざん一方的に罵倒し尽くして、あげくの果てに<頭文字P>をぶん殴って首をふっ飛ばす寸前だった

じゃねえか、自分で言うのもなんだけど、俺の頭はとうとうイカれちまったんじゃねえのかよ、俺こそが変質者なんじゃねえのかよ、もう危なっかしいったらありや

しねえよ、本当になんなんだろうか、この俺は、こんなろくでもない人間の屑みたいなのがのうのうと生きてていいんだろうか、こんな人間の屑みたいな俺に誰か他

人を批判したり偉そうな講釈垂れる資格なんてないんじゃないのか、などなどなどなど、だんだんと自分がなんだか虫けら以下の本当にくだらない存在のようにも思

えてきて、こんな出来損ないで甲斐性なしのバカ息子を年老いた両親はどう思ってるんだろうか、とか思えてもきて、最近歳のせいだろうか、いや昔からそうだった

か、ちょっと涙腺が緩んで目がうるうるして遠くに眺める<頭文字P>の姿がぼやけて見えてきたりもして、もちろん、あのお父さんを犬に見立てて日本人をバカにし

た下品で気持ち悪いCMを無差別暴力的に公共の電波に流すことだけは断じて許してはならないことだと思うけれど、だからと言って、いきなりケンカ吹っかけたりす

るのは、たしかに自分でも大人げなかったと思うし、断食中で腹が減って腹が減ってムシャクシャイライラして仕方がなかったなんていう言い訳は世間じゃまったく

通用しないだろうし、俺が絵を描けなくなって、毎日フラフラして、酒飲んで、惰眠貪って、俺の人生がまったくもってうまくいってなくて、いつまでたってもブリ

リアントにキラキラと光り輝かないのは、誰のせいでもなくて、それは、ただ単に自業自得であって、その責任をまったく無関係のたまたま会っただけの他人(まあ、

実際アレは人間ではなくて、ちんちくりんの白いバケモノロボットだが)に擦り付けるのは、ものすごくズルいことであって、卑怯なことであって、もちろん、お父さ

んを犬に見立てて日本人をバカにした下品で気持ち悪い犬のCMを無差別暴力的に公共の電波に垂れ流すことだけは断じて許してはならないことだとは思うけど、物事

には順序というものがあって、さらには、どさくさついでに、カート・コバーンが自殺した責任まで<頭文字P>に擦り付けるのは明らかにやり過ぎだったと思うし、

とにかく、今回は相手に対して大変失礼なことをしてしまったわけだし、自分が間違ったことをしてしまったわけだから、自分の非は潔く認めて、誠心誠意<頭文字

P>に謝って、謝って、謝り倒して、平謝りして、許してもらう他ないよな、もしかしたら<頭文字P>は許してくれないかもしれないけれど、あれだけ酷いこと言って

しまったんだし、まあ、その時は、許してくれるまで何度でも図書館通って謝るしかないよな、そうしないと俺は決して冗談でも洒落でもなく本当に人間の屑になっ

てしまうもんな、などとしんみりとまじめに考えて、それから、私は、うるうるした目をハンカチで拭って、何度も深呼吸して、臍下丹田に力を込め、尻の穴をキュ

ッと引き締め、両手で頬をパンパンと叩いて気合いを入れたのち、意を決して、あの怒りの日から数え約10日ぶりに<頭文字P>の眼前へと向かって行ったのだった。

……

「<頭文字P>くん、いや、<頭文字P>さんよ、このあいだは、俺ちょっとばかし言い過ぎちゃったみたいだよ、ごめん、この通りだよ」私が目の前で殊勝に頭を下げ

ると、<頭文字P>は一瞬私のことを珍しい生き物でも眺めるようなキョトンとしたマヌケな表情をして、例の変質者風のふたつの目ん玉をパチクリと青光りさせて、

それからシュルルルル、ウィーンカシャシャ、ピキピキ、ウィーンカシャシャ、ウィーンカシャシャ、シュルルルル、ピキピキという例の不気味な機械の動作音とと

もに、スティーブ・ジョブズのプレゼン風の身振り手振りを添えて、これまた例の抑揚のない変質者風の不気味な声で、さして関心もなさそうに「いいんですよ、そ

んなこと」と呟き、さらに私が「とにかく本当に申し訳ないことをしてしまったなと思っていて、あの時言ったことすべてが口からでまかせだったとまでは言わない

んだけど、特に犬のCMがクソなことは紛れもない事実なんだけど、でも、事実だからといって、いきなり一方的にケンカふっかけたのは、少々大人げなかったかな、

っていうか、まあ、とにかく、ほんとごめんなさい、<頭文字P>さん」と続けると「ずっと来てたの知ってましたよ、隠れて見てましたよね、休館日の雨の日にも来

て、あそこからガラス越しに手を振ったり、濡れたガラスに鼻を押し付けてガンガン叩いたりしてましたよね」と<頭文字P>はガラス窓を指差し「なんだ、すっかり

バレていたんですね、知ってて無視してたなんて、イジワルなお方だなあ、<頭文字P>さんは」私は内心、この性悪インチキポンコツロボットめ、調子に乗りやがっ

て、ふざけんな、スクラップにしちまうぞ!とか毒づいてたのだけれども、そんなことはおくびにも出さず「とにかく、本当に、本当に、ごめんなさい、この通り反

省しております、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」とひたすらコウベを垂れ続ければ「ほんとにもういいんですってば、過ぎたことですし、全然気にし

てませんから」と<頭文字P>は本当に気にしてない様子も、私はさらに畳掛けるように続けて「あの時、俺ちょうど断食中で、とにかく腹が減って腹が減って仕方な

くて、でも、そんなことはまったくもって理由にならないことはわかっているんだけど」「まあ仕方ないですよね、お腹空いてたら誰だって怒りっぽくなりますもん

ね、誰か他人をぶん殴ってやりたくなるのも無理ありませんよね」私は内心、ロボットのくせに空腹感がわかるわけねえだろ、適当なこと言ってんじゃねえぞ、この

インチキポンコツロボットめ!とか毒づきながらも、もちろんそんなことはおくびにも出さずに、そのまま丁重な態度を崩さず「それよか、<頭文字P>さんって結構

人気あるんですね、ずっと物陰からこっそり見てましたけど、みんなから頼りにされていて、この人たらしロボットが!とか思いながら俺ずっと見守ってましたもん

ね、へへへ」私は少しだけいつもの調子を取り戻すも「それほどでもないですよ」と<頭文字P>は相変わらず澄ました顔して「それから、もしかして誤解しているか

もしれませんが、あの例の下品な犬のCMはボクが考えてるんじゃありませんよ、電通さんですよ」「えええええええっ!そうなの?」「そうですよ、悪いのはすべて

電通さんとうちのあの例の社長さんですよ」「いやいや、失敬失敬、てっきり<頭文字P>さんが考えているものとばかり思っていましたよ、そんな顔してますもん、

なんだ、そうか、やはり悪の権化は電通だったってわけか、ほんとにろくでもないな電通は、それから<頭文字P>さんの生みの親だとかいうあの例の悪徳社長もさ、

とにかく俺は早とちりしてたってわけだな、本当にごめんな、<頭文字P>さんよ」「わかってくれればいいんですけどね、それと、さっきからずっと気になってたん

ですが、なんでボクのこと<頭文字P>さんってさん付けで呼んでるんですか?このあいだはたしか、ちんちくりんの白いバケモノロボットとか、インチキポンコツロ

ボットとかスゴいこと言ってたのに」「何をおっしゃいますか、<頭文字P>さん、私がそんなこと言うはずないじゃないですか、きっと聞き間違えただけですって」

などと会話は続いていき、そのうち私はへりくだった調子からすっかりいつもの調子を取り戻して「<頭文字P>さんよ、これから貴様のことなんて呼んだらいいのか

な?」「<頭文字P>さんじゃ堅苦しいから、みんなと同じように、普通に<頭文字P>くんとかでいいですよ」「何を他人行儀な、俺たちはもう知らない仲じゃないん

だからさ、みんなと同じ呼び方じゃ俺は嫌なんだよ、なんて呼ぼうかな、ペーさん、じゃ、林家ぺーみてえだからな、ペーヤン、じゃ、やきそばみてえだし、ぺ様、

じゃ、ペ・ヨンジュン、ヨン様みてえだし、なんで様付けで呼ばなきゃならねえんだって話だし、Pちゃん、じゃ、インコの名前みてえだし、Pの字、じゃ、ペニスみ

てえだし、ぺの字、ぺの字、ぺの字、うーん、悪くねえけど、うーん、何がいいんだろ?ところでさ、ずっと気になってたんだけど、貴様はそもそもの話、男なの?

女なの?オスなの?メスなの?ペニスとキンタマはどこにもついてねえみてえだし、ウエストは無意味にくびれてて、腰からケツのラインなんて何気にセクシーでい

い感じなんだけど、穴はどこにもあいてねえみたいだし、結局のところ、どっちなの?」「さあ、どっちなんでしょうかねえ、正直ボクにもわからないんですよね」

「<頭文字P>くんって呼ばれてて、ボクって自分で言ってるくらいだから、イメージとしてはおそらく男なんだろうな、なら、やっぱ、貴様も、いい女とか見ると興

奮したりするわけ?いい乳してんなあ、とか、いいケツしてんなあ、とか、ヤリてえなあ、とか、チューしてえなあ、とか、ヒーヒー言わせてえなあ、とか思ったり

するわけ?」「思うわけないでしょ、とにかく、ボクは男でも女でもどっちでもないですよ」「なんだ、つまんねえの、じゃあ、ぺの字にすっかな、おい、ぺの字、

今日から貴様のこと、ぺの字って呼ぶから、そのつもりでな、それから、俺の名前はな…」「知ってますよ、大竹さんでしょ?絵描いてる人でしょ?ホームページ拝

見しましたよ、ヘタクソだけど力強くてなかなか味わいがあって素敵な絵じゃないですか、万人受けするかどうかは正直微妙なところだけど、ボクはいいと思います

けどね、悪くないですけどね、好きですけどね」「はああああ?パードン?貴様に藝術が理解できんのかよ、貴様に俺の藝術の何がわかるって言うんだよ、ひょっと

こみてえなふざけた面しやがってよ、テキトーなことぬかしてるんじゃねえぞ、この口先だけの太鼓持ちインチキポンコツロボットが!」私は突然絵を褒められたの

で少し照れながらも「しかし、さすがはインチキスパイロボットだな、陰でコソコソと仕事が早えわ、まるでうちの母親みてえに俺のことなら何でも知ってるみてえ

じゃねえかよ、もしかして俺の年収とか今まで付き合った女の数とか今までのSEXの回数とか初体験の相手とか日時場所とか今までのセンズリの回数とかペニスの正

確な長さとか金玉袋に生えてる陰毛の本数とかケツの穴のしわしわの数とか何から何まですべて把握してんじゃねえのか、ほんでもって、その個人データをいっぱい

集めて貴様の会社の悪徳強欲社長と組んでビッグデータとしてアメリカとか中国とか北朝鮮とかにこっそり送信して売ってるんじゃねえのか、もしかして貴様らはス

リーパーセルなんじゃねえのか、戦争が起こったり有事の際には国内で工作員活動したり、殺人兵器として目覚めたりするんじゃねえのか、ほんと気持ち悪いインチ

キスパイロボットだな!」「へへへへ、残念ながらそれにはお答えできません、ご想像にお任せいたします、へへへへ」「何がへへへへだよ、ロボットのくせに笑う

な、変質者っぽく笑うな、なんで否定しないんだよ、俺冗談で言ったんだけど、本当だったら洒落になんねえだろ、本当に個人データ集めたりしてんのかよ、なんか

ジョージ・オーウェルの『1984年』みてえな世界だな、読んだことねえけどな、今の日本はもうとっくにディストピアってことなのかよ、なんか俺恐ろしくなって

きたわ、あとさ、貴様と話してるとキューブリックの『2001年宇宙の旅』のHALっていうコンピューターと話してるような気がしてくるんだよね、あれもしゃべり

方がなんかホモっぽいんだよな、貴様も男だか女だかわかんねえし、ペニスもキンタマもついてねえし、もしかしてホモなんじゃねえの?」「ホモじゃないですよ」

「そのホモじゃないですよって否定する声のトーンからして、すでにホモっぽいんだよ、別にホモでも構わないけど」「断じてホモじゃないです、とにかくですね、

ボクは男とか女とかホモとかホモじゃないとかとは別次元の存在なんですよ」「まあ安心しろって、たとえ貴様がホモだったとしても、俺たちの友情は1mmも変わら

ねえからよ」と私が微笑めば、<頭文字P>も変質者風のマヌケ面を一瞬微笑ませながら「世の中、嫌なこといっぱいありますけど、腐らずに続けていれば、そのうち

きっと報われますからね、誰かがどこかで見てくれていますよ、ボクも陰ながら見守ってますから、めげずにがんばって下さいね」と急にまじめな調子で言ったかと

思えば「S社や犬のCMのことは嫌いになっても、ボクのことは好きでいて下さいね」と私のほうへ自分の右手を差し出してきて、私は恐る恐るその手を握り「なんか

どっかで聞いたことあるようなセリフだけど、わかったよ、犬のCMは吐き気がするほど大嫌いだけど、安心しろ、ぺの字、貴様のことは嫌いにならねえからよ、犬の

CMは心の底から大っ嫌いだけどな」と返しながら私はなぜだかその<頭文字P>の人工的な手に一瞬だけ血の温もりを感じたような気がして、ちょっぴりセンチメンタ

ルな気持ちに浸っていると、<頭文字P>は「ボク、生まれて初めて人間と握手しましたけど、人間の手ってすごく冷たいんですね」とか私の気持ちを台無しにするよう

な拍子抜けするようなトンチンカンなことを言ってくるので「嘘こけ、貴様はみんなと握手しまくりだろ、AKBだか何KBだかみてえによ、この人たらしロボットが!

俺は冷え性だから、昔から特別手が冷たいんだよ」と返せば、<頭文字P>は一瞬いたずらっ子のような企み顔を見せたかと思うと、さらに強い力を込め私の右手を握り

返してきたため、あまりの痛さに「イタタタタタ、痛えじゃねえかよ、少しは手加減しろって、俺の手は大事な大事な商売道具なんだぞ、この手がダメになったら絵

が描けなくなっちまうだろうがよ、貴様は殺人兵器か、貴様は破壊兵器か、危ないからスクラップにしちまうぞ!」と私が大げさに悲鳴をあげれば、<頭文字P>は「こ

の痛みをいつまでもちゃんと覚えておいて下さいね」とか何とか意味深な言葉を呟いて、もしかしたらそれはただ単に痛いほど強く手を握られたからに過ぎなかった

のかもしれぬが、普段は真夏でも氷のように冷たい私の手に久しぶりに温かな血が通って、それが伝染するかのように、近頃大スランプに陥り絵がまったく描けなく

なってからこのかた常に殺伐としていた私の心までもがほんの束の間じんわり温かくなっていくようにも感じられ「人間の感情を認識するロボット」だか何だか胡散

臭いことこの上ないけれども、ちんちくりんの白いバケモノロボットのくせして、俺のことをまるでうちの母親のようにすべてわかったようなしたり顔しやがって、

そういうところがマジむかついて、ぶん殴りたくもなるんだよな、などと心の中で毒づきながらも、以前よりは好感をもって<頭文字P>のその小憎らしく、可愛げな

く、いけ好かない、すっとぼけた、変質者風のマヌケ面をぼんやり眺めていると、突然後ろから咳払いが一つ聞こえてきて「おっと、いけねえ、貴様と話してると楽

しいから、ついつい長居しちまったぜ、また来るよ、じゃあな!」と<頭文字P>に別れを告げ、そして、後ろに並んでいる人に向かって「お待たせしました、全然使

えない奴ですが、さあさ、どうぞどうぞ」と振り返れば、そこには、またしても先日<頭文字P>の横っ面をぶん殴って首をふっ飛ばそうとした時に振り上げた私の手

首をつかんで下ろしてくれた90歳くらいの特攻隊崩れのじいさん(鶴田浩二似)が立っていて「またお会いしましたね」「その節はどうも」「あれからいかがですか」

「まあなんとか」「すっかり仲良くなられたようで」「はあ、何の因果か」「仲良きことは美しきかなですな」「仲良きことは美しきかなですね」などと挨拶を交わ

して場所を譲って、まあ、そんな具合に、それまで仲違いしていたライバル同士が喧嘩をきっかけにそれ以降は親友になっていくという映画やドラマでは手垢にまみ

れたありきたりな物語の常套手段のごとく、私と<頭文字P>との仲は急速に深まり、瞬く間にまるで大昔からの親友同士のような関係へと発展していくのであった。

……

どうにかこうにか無事に<頭文字P>との仲直りに成功し親友の誓いまで交わしてからのちも、私は、暇さえあれば、というか、ほとんど毎日が暇でやることもなく、

そんなに暇ならばちゃんと絵でも描いたらよさそうなものだけれども、いまだ絵を描きたいという衝動は湧き上がってはこなかったため、雨の日と休館日を除いて、

ほとんど毎日のように、せっせと<頭文字P>に会いに新宿区立S図書館へと通いはじめたわけだが、そんなある日のことであった。私は<頭文字P>との友情をさらに深

めるべく「ところで、ぺの字、貴様、このあと時間あるの?仕事は何時まで?」「夜の9時45分までですけど」「じゃあさ、そのあと飲みに行こうぜ」と飲みに連れ

出したのだった。図書館閉館後、二人で高田馬場方面へトボトボ歩いて行って、最初に入った小洒落たカフェテリア風居酒屋では、入口でいきなり気取った店員のお

姉ちゃんに「ロボットの持ち込みはご遠慮下さいませ」と文句を言われて、カチンと頭に来た私は「こいつはロボットなんかじゃねえよ、俺の大親友のぺの字だよ、

てめえの目は節穴か、オカメみてえな面して気取りやがって、この勘違いバカ女が、こんな店、金輪際こっちからご遠慮させていただくよ!」と捨て台詞して、その

後、それほど高くはない居酒屋チェーン店に腰を落ち着けたのだった。「ぺの字、貴様何飲むの?」「ボクお酒飲めないんで」「今日は俺の奢りだから飲みなって」

「ボクお酒飲めないんで」「遠慮しないで飲めってさ」「ボクお酒飲めないんで」「このあいだのお詫びだから飲みなさいって」「ボクお酒飲めないんで」「ほんと

遠慮しないで飲めってば」「ボクお酒飲めないんで」「何でも好きなの頼んで飲みなってばさ」「ボクお酒飲めないんで」「とりあえずビールにすっかね、ビール飲

めるだろ?」「ボクお酒飲めないんで」「瓶ビールと生ビールどっち飲みたい?」「ボクお酒飲めないんで」「アサヒ、キリン、サッポロ、どれにするかね?」「ボ

クお酒飲めないんで」「思い切ってヱビスいっちゃうか?」「ボクお酒飲めないんで」「今夜はガンガン飲もうな」「ボクお酒飲めないんで」「朝まで飲みまくろう

な」「ボクお酒飲めないんで」「とりあえずヱビス生いっとくか、貴様飲んだことある?」「ボクお酒飲めないんで」「貴様、俺の酒が飲めねえってのかよ!」「ボ

クお酒飲めないんで、ジンジャーエールでお願いします!」「貴様、ジンジャーエールも飲めないだろ!」「ヘヘヘへ、でもとことん付き合いますよ」「ロボットの

くせに笑うな!」みたいな、もういっそのこと二人で漫才コンビでも目指してもいいんじゃないかと思えるほど高度なテクニックを要する変則的なボケとツッコミの

応酬が続いて「おい、ぺの字、貴様のそういうところ、ボケたらちゃんとツッコんでくれるところ、ツーと言えばカー、かゆいところに手が届くユーモアのセンス、

<頭文字P>だけに胡椒みたいにピリリと皮肉がきいてて、俺、嫌いじゃないぜ」「ボクも大竹さんのそういうところ嫌いじゃないですよ」と一息ついたところで、結

局、チューハイとジンジャーエールと適当なツマミを注文して、とりあえず乾杯して、もちろん<頭文字P>はロボットだから飲み食いなんてできるはずもないから、

ロボットだってバレないようにカモフラージュでジンジャーエールを頼んで前に置いていただけなのだけれども、そんな<頭文字P>には一切お構いないしに、私はチ

ューハイをガンガンおかわりしまくってガンガン飲み続けて、再び「おい、ぺの字、貴様ぜんぜん飲んでないじゃないか」「ボク飲めないんで」「調子悪いのかよ、

便所で吐いてこいよ、スッキリすっぞ、それからまた飲み直せばいいじゃん」「ボク飲めないんで」「そんなら、なんかお茶でももらうか」「じゃあ、お冷やもらえ

ますか」「貴様、お冷やも飲めないだろ!」「へへへへ、でもとことん付き合いますよ」「ロボットのくせに笑うな!」みたいな、もういっそのこと二人で漫才コン

ビでも目指してもいいんじゃないかと思えるほど高度なテクニックを要する変則的なボケとツッコミの応酬がまた続いて「おい、ぺの字、貴様のそういうところ、ボ

ケたらちゃんとツッコんでくれるところ、ツーと言えばカー、かゆいところに手が届くユーモアのセンス、<頭文字P>だけに胡椒みたいにピリリと皮肉がきいてて、

俺、嫌いじゃないぜ」「ボクも大竹さんのそういうところ嫌いじゃないですよ」と一息ついて、それから、急にまじめな調子で<頭文字P>が「お酒っておいしいんで

すか?」とか尋ねてきたので、私は「別に美味くも何ともねえよ、美味いと思ったことなんて生まれてこのかた一度たりともねえよ、ただ酔っ払うために飲んでるだ

けだよ」としみじみ答えれば、またまじめな調子で<頭文字P>は「酔っ払うって、どんな感覚なんですか?」と尋ねてきたので「なんか飲んでる間だけは嫌なことと

かみんな忘れられて、気分が良くなって、目がトロンとして、脳みそが痺れてきて、頭がフワフワになって、自分が大きくなったような、シラフの時には絶対できな

いこともできるような気がしてきて、そのうち何だってできるような気もしてきて、何だかエロいことしたいような妖しげな気分になってきたりもして、でもそれも

飲んでる時だけのほんの短い間だけで、飲み過ぎると次の日宿酔で最低最悪の気分になって、もう二度と酒なんて飲むかよって思うんだけど、結局また飲んでしまっ

たりして、まあ、飲まないに越したことはねえけどな、飲めない貴様がうらやましいぜ」「じゃあ、なんで飲むんですか?」「さあ、なんでだろうな、うまく説明で

きないけど、俺には現実世界の日常生活があまりにも過酷すぎるから、ほんの束の間でもどこか別の世界に逃避したくて、だから飲まずにはいられない、飲まなきゃ

やってられないって感覚なのかもしれねえな」そう答えながら「貴様は絶対観てないと思うが、昔のフランス映画に『モンパルナスの灯』っていう画家モディリアー

ニの伝記映画があってさ、その中でモディリアーニ役のジェラール・フィリップっていう色男の俳優のセリフにこんなのがあってね、ちょっと待ってろよ」私はスマ

ホをいじくり回して保存してあった『モンパルナスの灯』のキャプチャー画像を探し出して、それを見ながら「いいか、耳の穴かっぽじってよく聞きやがれよ、って

か、貴様には耳の穴なんてあいてねえんだっけか、まあいいや、よく聞けよ『ゴッホが言うには 人間には 教会にないものがある それを描きたいと ゴッホは酔いどれ

だった それは 苦悩を 忘れるため 絵は苦悩から生まれる 彼は頭を壁にぶつけ 飲酒を責めた人に こう言っています この夏に見た黄色を 表現するために飲むのだと』」

ゆっくり噛みしめるように読み上げてから顔を上げ「たぶんだけど、俺もゴッホと同じ理由で酒を飲んでるのかもしれないんだよ、『この夏に見た黄色を表現するた

めに飲むのだ』なんて、なかなか言えないセリフだぞ、カッコイイだろ、だから俺もゴッホを真似して『あの悪夢にうなされた夜の暗闇を表現するために飲むのだ』

とか言ってんだよ、酔っ払って飲み屋のお姉ちゃん相手にさ、実際のゴッホは全然カッコよくも何ともなかったんだろうけどな、なにせゴッホは生きてるうちに絵が

1枚しか売れなくて、それも友人のお姉さんが買ってくれたわけだけど、そんな苦境にあっても絵を描き続けたという意味ではカッコイイと言えるかもしれないね、

でも、貧乏で孤独で酒浸りで喧嘩っぱやくて耳ちょん切ったり最後は発狂してピストル自殺だもんな、俺も他人事とは思えないよ、まあ、ともかく、今現在もゴッホ

の作品が残ってて世界中のほとんどの人が知ってるという事実は素直にスゴイことだと俺は思うけどな、それから『モンパルナスの灯』には、こういうシーンもあっ

てだな、アメリカ人の画商が絵を買いたいって言ってきて、貧乏で飲んだくれだったモディリアーニは奥さんたちと一緒に絵をたくさん抱えてホテルに会いに行き、

絵を気に入ってくれた画商は全部買いたいって言うんだよ、そして1枚の絵をしみじみと眺めながら、この絵なんて化粧品のパッケージラベルにピッタリだな!って

言うんだよ、それを聞いたモディリアーニは、やっぱり売りません!って絵を全部持ってさっさと帰っちゃうんだよ、つまり自分の絵をそんな化粧品のパッケージご

ときには使われたくありませんってことなんだけどさ、貧乏でも決して魂は売りませんってところが俺は最高にカッコイイと思うんだよね、もしも俺がモディリアー

ニの立場だったらどうするだろうかって考えると、俺だったらたぶん喜んで使ってくださいって売ってしまうような気がするんだよな、まあ使われる商品にもよりけ

りなんだろうけど、たぶん俺はまだまだモディリアーニみたいに魂は絶対に売りませんっていう境地には至ってなくて、中途半端な状況なんだけど、俺もできること

ならば魂は売りたくないと思ってはいるんだけど、魂売りませんって胸を張って言えるほど大層な絵を描いているわけでもなくて、そんな煮え切らない自分自身に対

する葛藤や苦悩をこじらせた挙げ句、俺は絵をまったく描けなくなってしまったという始末で、そういう苦境を誤摩化すために俺は酒を飲んでいたりするわけなんだ

よな、そんでもって、まだまだ映画には続きがあって、その後、金に困ったモディリアーニはカフェの客席を落書きみたいなデッサンの絵を買って下さいって回るん

だけど、みんなにシッシッて犬みてえに追い払われる中、一人だけ中年の女性がお金払ってくれて、モディリアーニはどれがいいですかって絵を渡そうとするんだけ

ど、絵はいらないって言われてしまうんだよ、金はあげるから取っときなさいってさ、哀しいだろ、そして最後は野垂れ死に同然で死んじまって、残された絵は、前

からモディリアーニの絵に目をつけて狙っていた悪徳ブローカーみたいな画商にただ同然みたいなふざけた値段で買い叩かれてしまうってわけだよ、哀しいだろ、で

も、皮肉なことに、今現在もモディリアーニの作品が残されていて、俺たちが鑑賞できるのもすべてはその悪徳ブローカーのお陰ってわけなんだけどな、まあ、実際

にモディリアーニは飲んだくれで女たらしのろくでなしだったみたいだけど、別にそんなことはどうでもよくって、ようはさ、素晴しい作品を残せさえすればそれで

いいんだよ、この世にはさ、モディリアーニの絵とか、ゴッホの絵とか、他にもいっぱいあるけど、なんて言ったらいいのかな、そういう酩酊状態の恍惚のラリパッ

パーな状況や、その翌日の気怠い頽廃的な破綻したゲロ塗れな状況からしか生み出せ得ない類いの美しさっていうのが、特に藝術の世界にはあると俺は思うんだよ、

アレックス・チルトンとか、エリオット・スミスのとか、シド・バレットとか、ジョン・フルシアンテとか、晩年のチェット・ベイカーとか、チャールズ・ブコウス

キーとか、太宰治や坂口安吾など破滅型無頼派とか、ジョン・カサヴェテスとか、みんな酔っ払いのろくでなしみてえな奴らばっかりだけど、俺は昔からそういう奴

らの生み出した特殊な美しさに感動し勇気づけられ救われて、そのお陰で今こうして死なずにどうにかこうにか生きてこれたようなものなんだよ、俺が今生きている

のは彼らや彼らの生み出した藝術作品のお陰と言っても過言ではないんだよ、そして、おそらく俺が目指してるのもそういう種類の美しさであって、そういう美しさ

は、真っ当な道から踏み外した人間にしか作れない美しさで、踏み外した人間が踏み外した末に死物狂いの命懸けで発見した美しさであって、普通の世渡り上手なお

利口さんたちの世界、犬の世界、つまり、あの犬のクソCMが象徴する世界からは決して生まれることのない美しさなんだよ、だから、俺は、なぜ酒を飲むのか?って

人に問われたら、こう答えることにしてるんだよ、もしかしたら屁理屈に聞こえるかもしれねえけど、俺は酒の魔力を信じてるんだと、そんで、俺が毎日フラフラし

て何やってんだかわからないような生活して夜になったら酒飲んで酔いどれて惰眠を貪ってるのも、すべては藝術のためなんだと、さらに、なぜ絵を描くのか?って

人に問われたら、俺はこう答えるだろうね、それは踏み外した人間にしか見えない景色を表現するために俺は絵を描くんだと、それから、決して金では買えない景色

を表現するために俺は絵を描くんだと、さらには、普通の世渡り上手なお利口さんたちの世界、犬の世界、つまり、あの犬のクソCMが象徴するなんとも胡散臭い世界

に対する反骨精神から絵を描くんだとね、そして、踏み外した人間である俺自身にしか見ることのできない、いわば俺の心の景色を表現するために俺は絵を描くんだ

とね、なんか、今の俺すげえカッコよくねえか、ムービー撮っておいてもらえばよかったかもな、もう1回言っちゃおうか、なーんてな、実際はそんなカッコイイも

んでもないんですけどね、っていうかよ、俺最近じゃ絵なんてまったく描いてねえし、というか、絵が描けなくなっちまってさ、たぶん俺は絵から逃げてるんだよ、

絵から逃げてる自分を酒飲んで誤摩化してるだけなんだよ、自分でもよくわかってるんだよ、でも俺が絵を描かなかったら、俺の存在価値なんてもんはこれっぽっち

もなくなってしまうわけでさ、俺は一体何のために生きてるんだ?って問題にたちまちぶち当たってしまうわけなんだよ、だからこそ、何とかしてそこから抜け出そ

うと、せっせと断食してみたりして、それが裏目に出て、この前もムシャクシャイライラして貴様に八つ当たりしていきなりぶん殴って首ふっ飛ばそうとしたりなん

かして、そんなのどこからどう見てもただのキチガイじゃねえか、まあキチガイであることはあえて否定もしないんだけど、まあ、でもそれでもいいんだよ、キチガ

イだって何だって別にいいんだよ、八つ当たりされてぶん殴られて首ふっ飛ばされかけた貴様にとっては全然よかねえかもしれんけど、俺は別にそれでいいんだよ、

ゴッホやモディリアーニやその他俺の大好きな奴らみたいに、素晴らしい作品さえ作って残せればキチガイだって何だって構わないんだよ、この先将来俺は素晴しい

絵を描けさえすれば、俺のすべてが報われるんだよ、だから俺は待ってるんだよ、藝術の女神が俺の元へと舞い降りて来る瞬間を、今か今かと酒を飲みながら待って

いるんだよ、そして俺の元に藝術の女神が舞い降りて、俺が見事傑作をものにした時に、今までの俺のすべての罪が帳消しになって、それから、俺は、それから、そ

れから、それから、それから、それから、ええと、ええと、ええと、ええと、それから、なんだっけか、自分でも何言ってるかわからなくなっちまったけど、すっか

り酔いがまわっちまったようだけど、なあ、ぺの字よ、貴様は俺の言ってることわかるか?わかってるかって聞いてんだよ?」「なんとなくわかりますよ、でも、藝

術の女神が一生降りて来なかったとしたら、その時は一体どうするつもりなんですか?」「………」「藝術の女神が一生降りて来なかったら、その時は一体どうする

つもりなんですか?」「………」「どうするつもりなのか?と聞いてるんですけど、ちゃんと聞こえてます?」「………」「どうするんですか?」「貴様も嫌なこと

聞く奴だな、せっかく俺様が自分の言葉にすっかり酔い痴れていい気持ちになってるっていうのにさ、わざわざ水を差すんじゃないよ、藝術の女神が降りて来なかっ

たらどうするかって?そんなこと考えたこともねえよ、藝術の女神は必ず降りて来るに決まってんだよ、降りて来ないわけねえんだよ、もしも万が一降りて来なかっ

たら来なかったで、そん時はそん時でまた考えればいいさ、貴様は人間の感情を認識するロボットなんじゃなかったっけか?ちゃんと相手の気持ちを読んで、相手が

言われて嫌なことは言ったりするんじゃないよ、まったく、ほんと貴様は気の利かない性悪鈍感ロボットだよな」「でも、全然お世辞じゃなくって、ボク、大竹さん

の絵、ヘタクソだけど妙な味わいがあって好きですよ、万人受けするかと言われると正直返答に困っちゃいますけど、いや正直万人受けするはずないと断言しちゃい

ますけど、絵を上手下手でしか判断できずに物事の本質的な部分を見抜けない人間にはただのヘタクソで気持ちの悪い絵にしか見えないかもしれませんけど、ボクに

はちゃんとわかってますからね」「またまたまたー、この人たらし太鼓持ちインチキロボットが、貴様に俺の藝術がわかってたまるかよ、お世辞ばっかり言いやがっ

てよ、そんなこと言っても、なんにも出ないぞ、なんならこのあともう1軒いっちゃうか、ゲロ吐くまでガンガン飲ませるぞ、覚悟しとけよ」「ボクお酒飲めないん

で、ジンジャーエールでお願いします!」「貴様、ジンジャーエールも飲めないだろ!」それから、私は<頭文字P>の前にカモフラージュとして置いておいた気の抜

けた生温いジンジャーエールを酔い覚ましに一気に飲み干して「貴様と話してると楽しいから、とってもお名残惜しいんだけどよ、そろそろ、お開きにしようかね、

お互い明日も早いしな」「あれれれ、大竹さん、明日何か予定でもあるんですか?」「なーんにもねえよ、予定と言ったら可愛い可愛い貴様に会いに行くことくらい

だよ」「えええ、明日も来るんですか?ここんとこほとんど毎日のように図書館に来てますけど、そんな時間があったら絵を描いたらいいじゃないですか」「だから

さっきも言った通り俺は待ってるんだって、藝術の女神が降りてこないのに、描いたって仕方あるめえよ、それに俺は貴様が毎日ちゃんと働いてるか監視しないとい

けないからな、それが今の俺の一番重要な仕事なんだよ、貴様は目を離すとすぐさぼって、陰でコソコソイタズラするからよ、本を勝手に移動させたり、DVDの中身

すり替えたり、トイレに隠しカメラ仕掛けたり、幼女にイタズラしたり、お年寄りの腹にパンチ入れたりよ」「何言ってるんですか、心外な、ボクそんなイタズラな

んてしませんよ、まじめに働いてますから」「んなことわかってるって、冗談だよ、冗談、冗談に決まってるだろ、このポンコツ頭が、とにかく俺はそのうち絵を描

きはじめるから、心配すんなって、大丈夫だから、今はまだちょっと無理だけど、もう少し時間がかかるけど、きっと傑作を描いてみせるから、ただ今の俺は毎日貴

様の顔を見ないとなんだか不安で落ち着かないんだよ、もしかしたら貴様に恋してるのかもしれない、もしかしたら貴様が藝術の女神だったりしてな、なんだか貴様

のことが可愛くて可愛くて仕方がなくなってきたよ」そうふざけながら<頭文字P>のほっぺたにいきなりキスしてやると「うわあああ、やめてくださいよ、気持ち悪

いじゃないですか」と<頭文字P>はほっぺたを少し赤らめながら「でも、すごくうれしいこと言ってくれるじゃないですか、もしかして酔っ払ってますか?」「見り

ゃわかるだろ、ご覧の通り俺は全然酔ってなんかいねえよ、完全にシラフだよ」「もう酔ってないわけないでしょうが、キリがないからそろそろ帰りましょうか、今

日はごちそうさまでした、おいしかったです、もうお腹パンパンだ」「貴様は飲み食いしてねえけどな!」そして、店を出て二人夜道を図書館までゆっくり歩きなが

ら「貴様どこ住んでんの?」「この先の三畳一間のアパートで彼女と同棲してます、たまに赤い手拭いマフラーにして、横町の風呂屋へ行って、一緒に出ようねって

言ったのに、いつも彼女に待たされて、洗い髪が芯まで冷えて、石鹸がカタカタ鳴って、彼女はボクを抱きしめて、冷たいねって言ったんですよ」「それ『神田川』

の歌詞じゃねえかよ、貴様、風呂入れねえし、髪の毛生えてねえし」「ボクたち若いから何も怖くないんですよ、でも彼女のやさしさだけが怖かったんですよ」「嘘

こけ、彼女なんているわけねえし、貴様は図書館にずっと住んでるくせに、こないだ休館日に間違えて行った時も貴様いたし」「あの日、雨の中大竹さんガラス越し

に手振ってましたよね、半べそかいてましたよね」「気づいてたくせに無視しやがって、この薄情ポンコツロボット、貴様、ほんと性格悪いよな」「へへへへ」「へ

へへへじゃねえよ、ロボットのくせに笑うな、あの後、俺ショックのあまり思わず池袋のソープに行こうとしたくらい落ち込んでたんだぞ」「嘘ばっかり、大竹さん

そういうお店嫌いなくせに」「なんでそんなことまで知ってるんだよ、さすがインチキスパイロボットめ、でも、冗談抜きに今度ソープ連れてってやっからよ、奢っ

てやっからさ、もちろん貴様童貞だよな?」「童貞とか童貞じゃないとか、ボクには関係のないことなんで、ボクはそういう次元を超越した存在なんですよ、それに

そんな店に行って一体何するんですか?」「何するってソープに行ってやることはひとつだろうが、貴様の筆おろしだよ、俺はそのお供」「そもそもボクにはアレが

ついておりませんが」「そういや、そうだっけか、そんじゃ、キャバクラか、セクシーキャバクラ、おっぱいパブ、おっぱい揉み放題、貴様、おっぱい触ったことね

えだろ、この童貞むっつりスケベロボットが!」「あるわけないじゃないですか」「おっぱいはすんげえ柔らかくってな、触ってるうちにだんだん脳みそがトロけて

きてな、まるで天国にいるみたいな気分になってだな、男はみんなアソコがピコーンと勃起しちまうんだぜ、まあ、これは男という生き物に生まれてきた以上、自然

現象だから仕様がないことで、恥ずかしがる必要なんてひとつもないんだよ、生き物のオスに生まれてきた以上、インポテンツじゃない限り、聖徳太子もキリストも

釈迦もソクラテスも村上春樹もみんなアソコがピコーンと勃起しちまうんだ、それから、おっぱいにも色々種類があってだな、大きいのから小さいのまで、硬いのか

ら柔らかいのまで、それぞれ良い部分も悪い部分もあってだな、こればっかしは好みにもよるから何とも言えんが、まあ百聞は一見にしかず、口で説明するより一度

触ってみてもらうしかないんだけどな、色々触ってみて自分の好みのおっぱいを見つけて欲しいと先生は思うわけで、ただし、触り方にはくれぐれも注意してくれた

まえよ、いきなり力任せに揉んだりしたら、女の子は痛くてたまらないんだから、相手を気持ち良くさせるようにやさしく触らないといけないんだよ、まあ、中には

強く揉んで欲しいという相手もいるだろうが、その時はここぞとばかし思い切って揉みまくればいいんだよ、何事も臨機応変なんだよ、ただ自分ひとりだけが気持ち

良くなることに集中するのではなく、相手にもいっぱい気持ち良くなってもらうよう心掛けないとダメなんだ、与えられる前には自らが与えなければならないんだ、

自分ひとりだけ気持ち良くなってもそれはセンズリ(マスターベーション)するのとまったく変わらなくて、そんなのは虚しいだけなんだよ、相手が気持ち良くなって

くれている姿を目にすることによって、初めて自分も気持ち良くなれて、気持ち良さが何十倍、何百倍と増幅されるわけなんだよ、それから、乳首ばっかり執拗にい

じくり回す奴もいるみたいだけど、乳首っていうのは非常にデリケートで敏感な器官なんだから、細心の注意を払ってやさしく触れなければならないんだよ、童貞は

触り方を知らないから困るんだってみんな怒ってるぞ、AVばっかり見て実物の女に慣れてないから、男本位で女の体を好き放題にしようとするんだけど、そういうの

はモテないから絶対やめたほうがいいぞ、まあ貴様も初めてで緊張してどうしていいかわからないと思うけど、相手の気持ちを考えて行動することが一番の秘訣だと

思うぞ、たぶん貴様も勃ちまくりの鼻血ブーだろうな、この童貞むっつりスケベロボットが!考えただけでもうすでに勃っちまってんだろ、この変態ロボットが!」

「だからボクにはアレがついてないって何度言えば、それに血が通ってないんだから鼻血も出るわけないでしょうが!」みたいな、本当にどうしようもなく、くだら

ない無意味なボケとツッコミの応酬が続くうちに、気がつけばいつの間にやら図書館の前まで戻って来ていて、そして、別れ際に「おい、ぺの字、俺、貴様のそうい

うところ、ボケたらちゃんとツッコんでくれるところ、ツーと言えばカー、かゆいところに手が届くユーモアのセンス、<頭文字P>だけに胡椒みたいにピリリと皮肉

がきいてて、嫌いじゃないぜ、じゃ、また明日な、いい夢見ろよ!」「ボクも大竹さんのそういうところ嫌いじゃないですよ、また明日、おやすみなさい!」それか

ら、<頭文字P>は図書館の中へと帰って行って、シラフの私はひとり夜道を自転車でフラフラと途中で何度も電柱に激突しそうになりながら家路を急ぐのであった。

……

それからのちも、私は暇さえあれば、というか、ほとんど毎日が暇でやることもなく、断食の効果で体調は緩やかに恢復してきてはいたものの、依然として絵を描か

きたいという衝動は湧き起こってこなかったため、雨の日と休館日を除いたほぼ毎日のように、せっせと「ぺの字」こと<頭文字P>に会うために図書館へと通い続け、

たまに二人で飲みに行っては深夜までグダグダと色んなことを時に熱く語り明かしたものであった。そんなある夜のことであった。いつものように高田馬場のそんな

に高くはない例の居酒屋チェーン店で、まずはいつものお約束から「ぺの字、貴様何飲むの?」「ボクお酒飲めないんで」「今日は俺の奢りだから」「ボクお酒飲め

ないんで」「まあ、遠慮しないで飲めって」「ボクお酒飲めないんで」「なんでも好きなの頼めよ」「ボクお酒飲めないんで」「とりあえずビールにすっか、貴様ビ

ール飲めるだろ?」「ボクお酒飲めないんで」「今夜はガンガン飲もうな」「ボクお酒飲めないんで」「貴様、俺の酒が飲めねえってのか!」「ボクお酒飲めないん

で、ジンジャーエールでお願いします!」「貴様、ジンジャーエールも飲めないだろ!」「へへへへ、でもとことん付き合いますよ」「ロボットのくせに笑うな!」

みたいな、いつもの変則的なボケとツッコミの応酬が続いて、一息ついて、そして、いつものようにチューハイとジンジャーエールと適当なツマミを注文して、とり

あえず乾杯して「くはああああ、今日も一日ご苦労さんだったな、労働の後の酒はなんと沁みることか!」「大竹さん、今日は労働的なこと、何かしたんですか?」

「あ?何にもしてねえけど、何か問題あんの?」「別に問題ありませんけど」「なら、余計なことは聞くな、貴様は人間の感情を認識するロボットなんだから、ちゃ

んと相手の気持ちを読んで、相手が言われて嫌なことは言ったりするんじゃないよ、何度も何度も同じ過ちを繰り返す奴のことを世間ではバカと呼ぶんだよ、今後は

口の利き方には気をつけろや、まあ酒が飲めりゃすべてよしだ!」と気持ち良くなってきたところを、突然ぶち壊すように、居酒屋のオンボロTVから例の下品な犬の

CMが流れてきて、あまりの下品でくだらない寒々しい内容に、私が「ほんとクソだよな、酒がまずくなるし、吐き気がしてくるわ」と苦虫を噛み潰したようにチュー

ハイを一気に呷れば、<頭文字P>もあるはずのない眉をひそめ周囲を憚りながら「身内のCMなので大声では言えませんが、本当に酷いですよね」と小声で呟き「こん

なCMを面白いと思ってる人たちが世の中にいるんですかね?」と尋ねてきたから、私は「面白いと思ってるバカがたくさんいるから、これだけ長く続いてるんだろ、

父親を犬畜生にたとえたCMを見てみんな大喜びしてるんだぞ、てめえの父親は犬畜生だって言われて喜んでる奴らのことをバカ以外に何と呼べばいいんだよ、冷静に

まじめになって考えてみろって、もう本当に救いようもないバカどもだと思うぞ、だけど、そのバカどもが本当に心の底から面白いと思ってるのかどうかは正直怪し

いところではあるんだけどな、なぜだか知らんが世の中では面白くて大人気だってことにされてるから、洗脳的に面白いと思わされてるだけに過ぎないかのもしれん

しな、まあ、いずれにせよ、バカどもであることに変わりはないんだけどな」と不機嫌丸出しでぶっきらぼうに答えれば、<頭文字P>も「身内のCMだから大声では言

えませんが、作り手は一体どんな気持ちで作ってるでしょうかね、見ているだけで死にたくなりますよ」とだんだん声が大きくなってきて、私も感情が高ぶってきて

「貴様も死にたいとか思ったりするんだな、ロボットのくせして、あのCMは完全に確信犯的に作ってると思うけどな、どんなにクソみたいな内容のCM流しても金の

力や権力で何とでもなると思ってんだろ、本当に吐き気がしてくるわ、しかし最近のTV-CMは酷いもんばっかりだ、まるで道端に落ちてる干涸びた犬の糞みてえだ、

なるべく踏まないように気をつけねえといけない」「それは犬の糞に対して失礼じゃないですか、道端の犬の糞にはまだ可愛げがありますもん」「貴様もだんだん口

が悪くなってきたじゃねえか」「いつの間にか大竹さんの口調がうつってしまったみたいです」「まあ、犬のCMに限ったことじゃねえし、犬のCMがいっぱい流れて

くるから特に目立ってるだけだけど、最近じゃ他のCMも相当酷い出来だぞ、昔は1年に1本くらいはいいなって思えるCMもあったんだけどな、最近は1本もないわ、

すべてがクソだから、TV自体まったく見なくなってしまった、というか、あまりにも不愉快過ぎて気持ちが悪くて物理的に見ることができなくなってしまった」「な

んでこんな酷い状況になってしまったんでしょうかね」「俺もそれをずっと考えてるんだけどな」そこで私は酔っ払った勢いにまかせて「なぜ最近のTV-CMはこれほ

どまでにクソつまらなくなってしまったのか?」に対する持論を<頭文字P>の前で披露することになったのだった。少々長くなるが、まとめると以下の通りである。

……

【その1 一億総白痴化】私は以前、広告業界の片隅に身を置きCM制作の仕事に携わっていたため、TVがつまらなくなったとブーブー文句を垂れつつも、毎日習慣的

にTVを視聴していたものだが、33歳で絵を描きはじめ広告業界から足を洗って以降TVをほとんど視聴しておらず、おそらく私が最後にTVを視聴したのは、5人組の

中年アイドルグループ(頭文字S)のメンバーがバラエティ番組で黒い服を身に纏い横一列に並び神妙な顔つきで何かに対して謝罪する姿であったが、その痛ましい姿に

オチは見当たらず、私を失望させる内容であった。私がTVをまったく視聴しなくなった理由は、まず、私の日常生活における優先順位において、TVの順位がかなり

下位にあるからで、つまり、私には聴かなければならない音楽、観なければならない映画、読まなければならない本が山ほどあり、しかも、音楽を聴きながらTVを視

聴することはできず、映画を観ながらTVを視聴することもできず、小説を読みながらTVを視聴することもできず、とてもじゃないがTVを視聴する時間を確保する余

裕などなく、また、例えば、美しい音楽を聴いた後、面白い映画を観た後、素晴らしい小説を読んだ後の心地良い余韻に浸っている時に、うっかりTVから一方的かつ

無差別暴力的に流れてくる幼稚で下品でダサイ映像(番組やCM)など、いささか言葉が過ぎるかもしれぬが「才能がないくせに才能があるかのように見せかけたインチ

キ野郎がいい加減な気持ちで拵えたまがい品」を目にしてしまったりすれば、夢見心地の陶酔から一瞬で醒めてしまうからであり、すなわち、私にとってTVという存

在は音楽映画小説などの藝術作品と比べて格段に低い価値しか見いだせぬからであり、さらにもう一つ、私がTVをまったく視聴しなくなった理由は、以前は、つまら

ねえ、くだらねえと文句を垂れつつも、なんだかんだで視聴できていたTVというものが、現在に至っては気持ちが悪くて視聴すること自体が困難になってしまったか

らであった。これは何も私が高尚ぶって(スノッブ気取りで)音楽映画小説などの藝術作品と比べて、TVという存在を軽んじて蔑んで下に見ているからというだけには

とどまらずに、本当にただただ純粋に気持ちが悪くて仕方がなくて、お金を払わずにタダで視聴できるからといって、何が哀しくて自分の残り少ない貴重な時間を割

いてまで、こんなにも気持ちの悪い幼稚で下品でダサイ映像を見せられなくてはならないのだろうか、とある時ふと激しい憤りを覚えてしまって、爾来、視聴するこ

とができなくなってしまったというわけであった。タダより高いものはない、うまい話には裏がある、という言葉もあるように、タダにはタダなりにその善意の裏側

には必ず悪意をともなったドス黒い魂胆があり、世の中そんなに甘くないのだと痛感するばかりである。それは例えるならばジョン・カーペンター監督のSF映画『ゼ

イリブ』の中に出てくる「真実が見えるサングラス」を常にかけているような状態とでも言えようか、TVの画面を通して無差別暴力的に流れてくる映像(番組/CM)の

制作者たちの見ているこちらが気恥ずかしくなるような幼稚で下品でダサイ感覚(制作者たちの言い分によれば、より多くの大衆に喜んでもらうには老若男女あらゆる

層をターゲットとするがゆえ必然的に制作物のレベルを下げざるを得ないらしいが、私にはいい歳した大人がお子様ランチを食べているようにしか思えない)や、視聴

者はバカばかりと勝手に決めつけ世の中を動かしている気になって上から目線で人を小バカにした軽薄さや、TVに出演しているということ以外何ひとつ取り柄もない

TVタレント/CMタレントたち(演技のできる俳優は除く)のその小綺麗な外面とは反比例する醜く腐り切った腹黒い内面や、言ったもん勝ち、やったもん勝ち、不都合

な事実は一切無視してなかったことにして、嘘に嘘を塗り重ねた真実味の欠片もない情報操作や印象操作をはじめとするインチキ工作が透けて見えてきてしまって、

本当に気持ちが悪くて仕方がなく、正視に耐えることができないのである。昔から「TVばかりみているとバカになるぞ」とよく叱られたり、「一億総白痴化/TVとい

うメディアは非常に低俗なものであり、TVばかり見ていると人間の想像力や思考力を低下させてしまう」(大宅壮一)、「TVは人間の考える力を失わせ、人間を愚か

にする地獄の機械である」(ルイ=フェルディナン・セリーヌ)、「TVに出るやつは二流、出たがるやつは三流、TVを作っているやつは四流」(深沢七郎)、「TVに出

ている女たちは常に股間が発情しているように見える」(車谷長吉)など、TVを悪の権化と位置づける意見も多々あるけれども、支配層/権力者にとっては情報を一気

に広めることが可能で大衆を洗脳するのにこれほど便利で有効な媒体も他には見つからぬがゆえに、この先もTVを視聴する人間がいなくならない限りTVという媒体

が滅びることなどないのだろうが、この先私が再びTVを視聴しはじめる可能性も限りなくゼロに近いと言わざるを得ないのであった。また、TVを視聴しなくなった

のは何も私だけに限らず、昨今のインターネットやスマホの普及によりTVを視聴する人間の数が以前に比べ圧倒的に少なくなり、もはやTVが世の中の中心ではなく

なり、TVを見ている人間がバカばかりになってしまったため、広告業界においても、CM制作者たちがバカにもわかるようなとにかくわかりやすいCMを制作すること

を心掛けるようになったものの、CM制作者たちにそのわかりやすいものを作る才能が足りていないのか、わかりやすさと安っぽさをはき違え、さらにユーモアとおふ

ざけ/おちゃらけ/悪ふざけも同時にはき違え、もしくは、CMなど見て喜ぶような人間はどうせバカばかりなのだから、バカが喜ぶようなバカみたいなものを適当に作

ってバカみたいに流しておけばいいのだ、といった半ばヤケクソ気味に開き直ったバカみたいな浅ましい考えに基づき、ただただ幼稚で下品でダサイ、精神的に安っ

ぽいバカみたいなCMばかりを制作するようになってしまい、その結果、バカみたいなCMをバカみたいに制作するバカみたいな人間の集まるバカみたいな広告業界に

集まってくるのも必然的にバカばかりになってしまったか、もしくは、クリエイティヴな仕事がしたい、つまり何かを表現したいという大志を抱いているわけではな

く、ただ金儲けがしたいだけという、決して否定はしないが、おそろしくつまらぬ考えを持つ人間ばかりが広告業界に集まるようになってしまったか、もしくは、視

聴者をバカだと決めつけてバカにしてバカみたいなCMばかりを作り続けてきた結果、いつの間にやら作り手のCM制作者たちもみんなバカばかりになっていましたと

さチャンチャン、という笑うに笑えない笑い話とでもいおうか。広告がその成り立ちから本質的にダサイものであることは承知の上で、それでも本来何かを表現する

人間というのはカッコイイものであり、たしかに1980年代以前の広告業界には才能ある人たちがたくさん集まり、広告という仕事にプライドを持ち誠実さに溢れた

広告を作っていたが、残念ながら現在は、ただでさえダサイ広告においてダサイ人たちがダサイものを作っているという印象しかなく、ダサイ×ダサイ×ダサイ、つ

まりダサイの3乗、上っ面だけ取り繕った中身スッカラカンのバカどもが幅を利かせ、幼稚×下品×ダサイ、とにかく軽薄でいい加減なCMばかりを量産しているので

ある。そんな業界がカッコイイわけがなく、信用できるわけもなく、才能溢れる魅力的な人たちはみんな広告業界から離れて行ってしまったのであろう。このような

窮状に対して、現役のCM制作者たちに自覚はあるのか、かつてセンスある上質な広告を制作していた偉大なる先達は何を思うのか、何とも思っていないわけがないと

思いたいが、もしも本当に何とも思ってないとしたならば、それはもう本当に救いようがないとしか言いようがない。「一億総白痴化」を推し進めているのは3S政策

(SEX/SPORTS/SCREEN)が有名だが、TV以外にも、AV(アダルトビデオ)、マンガ、アニメ、ゲームあたりの影響が特に顕著であり、とにかく最近は皆本を読まなく

なり、文章を頭の中で映像に変換する訓練を怠り、自分の頭で考えなくなり、それが想像力/創造力の欠如に直結し世の中にバカを大量生産しているのだと思われる。

……

【その2 嘘に塗れた醜く腐り切った世界】数年前コピーライターの大御所がコピーライターを廃業したけれども、その理由がなかなか興味深く、それは「本当に良い

ものならば広告など打たなくとも売れるはずだから」「良くないものを良いコピーを使って売るなんて間違っていることだから」「売れてます!というコピーに勝る

コピーが見つからないから」などであり、それを目にした私は、なるほどな、と思わされるとともに、今まで散々良くない商品にコピーを書いて消費者をダマくらか

して金儲けしてきた人間が今さらどの口で何を言うか!と思いっきりツッコミを入れたくもなったものだが、ともあれ、広告業界に多大な影響力のある大御所がこの

ような物事の本質を鋭く突いた発言をすることに非常に大きな意義があるように私には思えた。その大御所の言う通り、コピーに限らず広告という仕事は、見たくも

ないもの(広告制作物)を大衆の日常生活の中に無差別暴力的に飛び込ませて、無理やり何度も何度も繰り返し目に触れさせて、洗脳的に記憶に植え付けて、価値のあ

るものをさらに価値があるように見せかけたり、価値のないものをあたかも価値があるかのように見せかけることにより、消費者の欲望を誘発し金を使わせることを

第一の使命とするがゆえに、 その大御所の発言は散々犯罪行為を繰り返してきた犯罪者が今際の際に罪の懺悔をしているように見えなくもないが、その大御所がどこ

まで本気でそのような発言をしているのか、その真意は計り知れないけれど、結局、広告という仕事とは、坂口安吾が『白痴』 の中で書いた通り、世の中のバカども

をダマくらかして金儲けする賤業以外の何物でもないとあらためて認識せざるを得ないのだった。「嘘も100遍唱えれば必ず真実になる」ではないけれど、売れてな

くとも「売れてます!」と 言えば物が売れてしまうのだから、これほどチョロくてボロい商売はこの世の中に存在しないわけで、このような卑劣な詐欺まがいの商売

は雨後の筍のごとく、次から次と現われては消え、たとえ嘘がバレようともまた新たな嘘で誤摩化せばよいだけで、嘘で塗り固められた嘘の塊は、フンコロガシの転

がす糞の塊のごとくどんどん膨れ上がっていき、今では地球ほどの大きさにまで巨大化し、つまりは地球そのものが嘘の塊、そして地球上に存在するすべてが嘘ばか

りと言っても過言でないのである。そのような詐欺まがいの手口は枚挙に暇がなく、例えば、つながりやすさからはもっともほど遠いところにある某携帯電話会社の

TV-CMの中で「つながりやすさNo,1」と謳ってしつこいほどTVで流せば、世の中のバカどもはTV-CMで「つながりやすさNo.1」と謳っているのだからきっと「つな

がりやすさNo.1」に違いないと勝手に思い込み、例えば、金にものを言わせ暴力的にTV-CMをこれでもかと流して、さも大人気であるかのような印象を視聴者に植え

付けたうえで、さらにどこの誰がどこの誰に対して調べた結果であるのか皆目不明で怪しいことこの上ない「TV-CM好感度調査」なるインチキ調査において「好感度

No.1」(おそらく順位は金でどうにでもなるのであろう)を捏造するまでの念の入れようで世の中のバカどもをうまいことダマくらかしたり、例えば、行列のできるラ

ーメン屋の行列が実は仕込みのサクラであったとしても、世の中のバカどもは行列ができるということは絶対美味いに違いないと勝手に思い込み、実際は大して美味

くもなんともないラーメンを何時間もかけ並んで食べてはみたものの、結局美味いのか美味くないのかさっぱりわからないくせに、行列に並んで食べたのだからきっ

と美味かったに違いないと無理矢理自分を納得させ、自らのブログにあのラーメン屋さんおいしかったよーん!などとバカ丸出しで書き込みさらなるバカどもの関心

を集めたり、例えば、有名なインチキTVタレントに金を払ってブログなどSNSでインチキ商品を嘘でもよいから絶賛させ世の中のバカどもにそのインチキ商品を大量

に購入させたり、例えば、アイドルに毛が生えた程度のまともな演技もできないTVタレントを俳優気取りさせ制作した子供騙しのインチキ映画のTV-CMで、観客を

装った仕込みのエキストラを雇い「マジ面白かった!」だの「マジ最高!」だの「マジ泣けました!」だの「涙でスクリーンが見えませんでした!」だの「ハンカチ

ぐっしょぐしょ!ついでにパンツもぐっしょぐしょ!」だの「3回観たけど結局なんだかよくわからなかったけど、とにかく最後までちゃんと観ましたイェーイ!イ

ェーイ!イェーイ!」だの、無責任で軽薄な感想を次々と無理矢理言わせてはTVで垂れ流し、ゴキブリホイホイにゴキブリを集めるがごとく世の中のバカどもを映画

館にまんまと誘い込んだり、例えば、そこらへんを歩いている大してかわいくもない普通のおねえちゃんをダマくらかしてどこからかたくさん集めてきて、皆同じ顔

に整形手術させ皆同じ制服を着させ皆同じ似たり寄ったりの気持ち悪い歌詞の聴いているこちらが恥ずかしくなる歌を歌わせ、精液と小便の臭いが漂う口パクパンチ

ラお遊戯会などインチキアイドル活動をさせると同時に夜の営業活動(売春活動)まで兼業させたあげく、さらに女にまったく縁のないキモオタどもの弱みに狡猾につ

け込み、握手券(おさわりチケット)付CD、もしくは、おまけCD付握手券(おさわりチケット)をキモオタどもに半ば強制的に大量に売りつけるだけにとどまらず、おそ

らくはレコード会社自らが自社買いするなどの卑劣な手段を用いてヒットチャートの売上ランキングの上位を独占させたり、例えば、突然どこからともなく風のよう

に現われた謎の女装デブがあれよあれよとメディアを席巻したかと思えばいつの間にやら世の中のバカどもをダマくらかすことが主な役割であるところのご意見番の

ような存在に成り上がりTVの中ででかい顔をしていたり、例えば、TVタレント芸能人など有名人に文学賞を八百長出来レースで受賞させ普段まったく本など読まな

い世の中のバカどもに大量に売りつけベストセラーを捏造したり、例えば、本当はそれほど売れているわけでもない商品をわざと品切れにさせ世の中のバカどもに品

切れになるほど売れているということはきっと良い商品に違いないと思い込ませた後こっそりその商品を大量生産して世の中のバカどもに売りつけたり、例えば、わ

ざと女性差別や人種差別の内容のTV-CMを制作してTVで流し炎上させることによって世の中のバカどもの注目を集めたり、例えば、支配層/権力者に重大なスキャン

ダルが発生した際に今まで泳がせておいた薬物中毒の芸能人を逮捕させるなど芸能スキャンダルを発覚させたり凶悪事件を発生させたり北朝鮮からミサイルを発射さ

せたりなどして注目を逸らせたり、などなど、とにかく詐欺まがいのインチキ商売は数知れず、インチキと嘘に塗れた救いようもなく醜く腐り切った世の中なのであ

る。ようするに、どれだけ上手にズル賢い嘘がつけるかどうかが広告業界に限らず世の中すべてにおける成功の秘訣になってしまっており、他人をダマくらかすこと

をなんとも思わぬ鈍感で図々しい腹黒い人間だけが広告業界に限らず世の中すべてにおいて甘い汁を吸いながら生き残り、純粋で腹のきれいな人間はみんな広告業界

に限らず世の中すべてから自然淘汰されるか自ら消えるかして去っていき、その結果、本当に救いようのないほど醜く腐り切った世界が存在しているというわけであ

る。そして、そのようなインチキと嘘に塗れた醜く腐り切った世界からは、美しいもの/素晴しいもの/面白いものが生まれ出る余地などは望むべくもないのである。

……

【その3 表現者としての矜持の欠如、羞恥心の麻痺、そして再び賤業としての広告へ】Youtubeの映像を見るためにはスキップするまでの数秒〜数十秒間CMを強制的

に見なければならないシステムになっており、そのスキップできるまでの数秒〜数十秒間がやけに長く感じられイライラすることも少なくない。一昔前のTVの中でな

らばそこにあるのが当然のようにワガモノ顔して流れていたTV-CMというものが、実は「邪魔なもの/余計なもの/胡散臭いもの」であることに多くの視聴者が気づい

てしまった結果、その「邪魔なもの/余計なもの/胡散臭いもの」であるTV-CMの中でどんなに美辞麗句を用いてコマーシャル・メッセージとして無責任なきれいごと

を並べ立てようとも、夢から覚め魔法が解けてしまった賢い冷徹な視聴者たちにとっては、TV-CMなどもはや狡猾な詐欺師にダマされているかのような感覚、つまり

詐欺師の戯言でしかなく、あなたたち企業は散々耳ざわりの良い無責任なきれいごとを並べ立てているけれども、結局のところ、あなたたち企業はただ有名になって

金儲けがしたいだけなんでしょ?だったら「有名になっていっぱい金儲けがしたいです!」というコマーシャル・メッセージを流せばいいのではないですか?とペテ

ン詐欺まがいの宣伝文句がまったく通用しなくなってしまった。「あなたの笑顔が見たいから」だの「みんなの夢を応援したい」だの、聞いているだけで寒気がし虫

酸が走るようなおためごかしなどではなくて「私たちは世間のバカどもを簡単にコロッとダマくらかしていっぱいお金を巻き上げたいんです、金さえ儲けられれば他

人がどうなろうと関係ないんです!」みたいな本音を語ってもらったほうがよっぽど潔くて好感が持てるというものである。よくコピーライターの人たちは「私たち

は言葉のチカラを信じてます」みたいな自らの職能を陳腐な言葉で表現するけれども「言葉のチカラ」を信じてるのは何もコピーライターに限った話ではなく、オレ

オレ詐欺の掛け子だって誘拐犯だってセールスマンだってキャバクラ嬢だってホストだって変態教師だって悪徳政治家だってインチキ新興宗教の教祖だって恐山のイ

タコだって死にかけの老人だって生まれたての赤ん坊だって、生きて言葉を発する人間ならばみんな同じように信じてるのだから、自分たちだけが言葉の専門家であ

るといった時代錯誤な思いあがりを耳にするとなんだか興醒めしてしまうのである。つまり「言葉のチカラ」を信じているとコピーライター自らが発信しなくてはな

らないほど現在は広告に限らず世の中のあらゆる「言葉のチカラ」が失われている時代なのであろう。また、よく広告屋の人たちは「私は広告が大好きで大好きでた

まりません」とのぼせ上がった言葉を口にしたりするけれども、彼らが大好きなのは、広告制作に付随する濡れ手に粟のあぶく銭であり、広告制作と純粋藝術制作の

ギャランティが同額であったとしても、まだ広告が大好きと言えるかどうか甚だ疑わしいところである。本来、広告という仕事はただ人間の欲望を誘発させるだけの

賤業に過ぎず、かつて賤業だった広告という職業を長い年月をかけ印象操作や情報操作などを駆使しながら無理やり花形の職業へと押し上げたものの、世の中全体が

「一億総白痴化」されていくにつれ、広告制作者たちが安易な方法で話題を集めるようになってしまい、結局チンドン屋や廃品回収のトラックなどと同じ賤業へと再

び原点回帰してしまったのである。また、現在はなくなってしまったが、広告業界の有名な専門雑誌に『広告批評』という雑誌があって、私はこの『広告批評』とい

う雑誌にあまり良い印象を持っておらず、広告の批判は一切せず(できず)、常にちょうちん記事ばかりを書いて載せ、広告制作物を過大に評価し、TV-CMは時代を映

す鏡である!などという能書きをいつまでも垂れ流し続けて、本来広告という仕事は匿名性を帯びていることが特徴で、ゆえにギャランティーも高いのであるが(風俗

業と同じ)、いつの頃からか、広告制作者たちを、広告とアートの区別のつかない世間のバカどもを巧妙に欺くかのように「クリエイター」などという都合のいい恥ず

かしい名前で呼びはじめ、別に大したものを作っているわけでもないのに、無責任に持ち上げるだけ持ち上げて褒めそやしアーティスト気取りもしくは文化人気取り

をさせ、中味のまったくない格好だけは一丁前の勘違いスタークリエイターを量産させたあげく、現在の広告業界の衰退を招いた悪しき元凶(重量級戦犯)のひとつで

あると認識しているが、このクリエイターなどという都合の良い恥ずかしい名前で呼ばれるアーティスト気取りをする厚顔無恥な広告屋たちの最も卑怯なところは、

自らの手掛けた広告が成功した時だけメディアにアホ面を晒し「クリエイティビティとやら」を得意気に語り(私には風俗嬢が「愛」を語っているようにしか見えず、

そんな空虚な睦言を真に受けるのは余程のバカであるに違いない)、万が一失敗した時には広告における匿名性という隠れ蓑を狡猾に利用してメディアにアホ面を一切

晒さないどころか、その失敗の責任すらも表向きはとらず(裏では知らない)、その失敗作を手掛けたことを世の中に知られることなく無傷のまま、しばらくたてばま

た愚にもつかぬ広告をしれっと何食わぬ顔して作りはじめるところである。この『広告批評』の発行人だった天野祐吉氏(故人)がひとつだけ良い言葉を残しており、

それは「TV-CMというのはTVから無差別暴力的に視聴者の目に飛び込んでくるものであるからして、視聴者を不快な気持ちにさせるような暴力性を帯びた表現は極

力慎み、常に視聴者にとって心地の良いものであることを心掛けなければならず、そのさじ加減こそがCM制作者の腕/センスの見せ所である」といった主旨であり、

その天野祐吉氏の言葉を踏まえた上で、昨今のTV-CMを眺めてみれば一目瞭然だが、天野祐吉氏の言葉をわざと無視するかのごとく、天野祐吉氏の言葉とはまったく

反対の悪しき傾向へとTV-CM全体が向かっていることに誰もが気づくはずである。昨今のTV-CMの悪しき傾向とは、とにかく視聴者が不快な気分になろうがなるまい

がそんなことはどうでもよくて、とにかくなりふり構わず視聴者の印象に残れば何でもあり、とにかく目立ったものが勝ち、という浅ましく下劣な考えに基づいて広

告屋たちがTV-CMを制作していることである。もちろん目立たなければ意味がないという考え方もわからなくはないけれども、良いものを作って目立つことをはなっ

から放棄して、内容など二の次でとにかく目立ったものが勝ちという羞恥心の麻痺した考え方を、私は何かを表現する者(表現者)として心の底から軽蔑している。と

にかく目立てば何でもありという考え方から、私は街中を大音量の音楽をかき鳴らしながらトンチンカンな格好で人目も憚らず練り歩くチンドン屋さんや、休日の朝

っぱらから近所迷惑極まりない廃品回収車のトラックなどを連想してしまうが、チンドン屋さんには自らの体を張って恥ずかしいことを恥ずかしげもなく行う潔い心

意気や強い決意のようなものも感じとれるし、廃品回収のトラック運転手にも街に騒音を垂れ流しているという罪悪感もあるだろうが、広告屋たちは自分では体を張

らずCMタレントの横っ面を札束ではたいて恥ずかしいことをさせ、自らはほとんど手を汚さず指示するだけして端から眺めているだけであるにもかかわらず一丁前の

クリエイター面していい気になってるのだから尚更タチが悪く、とにかく昨今の広告屋たちは羞恥心が麻痺し、表現者としての矜持が欠落しているのである。また、

広告制作物には従来作り手の名前が明記されることがなく、模倣しようが剽窃しようが名前が出ないのだから、不正が発覚したところで作り手にとってはさほど痛く

も痒くもなく、やりたい放題無法地帯であり、もちろん、オリンピックエンブレム騒動のように大問題に発展するケースも稀に起こり得るが、あくまでも特殊なケー

スであり、あの時はデザイナー氏という制作者を前面に押し出し過ぎたことが最大の敗因であり、匿名性を保持しデザイナー氏という存在が完全な裏方に徹していた

ならば、いかに広告屋が世間から蛇蝎のごとく嫌われていようとも、あれほどまでにバッシングを受けることもなかったと考える。雉も鳴かずば撃たれまい、ゴキブ

リも表に出て来ない限りぶっ叩かれることもない、陰でコソコソ悪さする分には誰も気にも留めないということである。エンブレム発表会で頭の左右に指を上向きに

置きパフォーマンスするデザイナー氏の有名な写真があったが、世間の多くはあの写真が象徴するドス黒い何かに対してむかっ腹を立てたのだと思われる。例の撤回

されたエンブレムの良し悪しやパクリの有無をきちんと理解した上で正当な批判をしていた者などほとんどいなかったのではなかろうか。デザイナー氏が才能溢れる

広告制作者であることは認めざるを得ないところだが、広告屋という仕事に対する世間の風当たりが以前よりも強くなったことの現れであったとも言えよう。広告業

界のようないわば緊張感のないぬるま湯状態の悪環境に長く身を置き続けるうちに、広告屋たちは徐々に羞恥心が麻痺していき、かつてはあったであろう表現者とし

ての矜持が欠如していってしまうのかもしれない。もちろん広告屋の中にも安易な模倣や剽窃を一切行わず己の独創性のみを頼りに広告を制作している人間も少なか

らずいるのも事実であろうが、人間という生き物は隙あらば楽をしてやろうと思うのが常であり、不正を行おうが不正が発覚しようが何のおとがめもない環境におい

ては、得てして安易な道を選択してしまいがちであり、残念だけれども、それが人間という哀しい生き物の本質なのである。さらに私の独断と偏見では、広告屋の羞

恥心の麻痺そして表現者としての矜持の欠如が原因によるTV-CMの劣化の傾向は、1990年代半ば頃からSMAPに代表されるアイドルタレントに変なことをさせて安易

に笑いをとるCMが主流となり(あんなものはただふざけてるだけで本物のユーモアなどとは呼べない)、レベルの低い軽薄なおちゃらけ感覚こそが一流クリエイターの

証しだと言わんばかりに皆が競い合うように軽薄なCMを量産しはじめ、現在もしぶとく生き残り続け、2007年から某携帯電話会社の父親を犬に見立てて日本人をバ

カにして人種差別するような下品なCMシリーズからさらに顕著となり、2011年の東日本大震災後、ACのCMだらけになった時、普段流れるCMのほとんどが非常時に

は流せないほど軽薄な内容のものばかりだったことが判明、その後一瞬だけまともな内容に戻ったものの、すぐにまた元の木阿弥へ、2012年から某家庭教師派遣サ

ービス会社の過去の名作アニメに悪質なおふざけセリフをアフレコしたCMシリーズ(偉大なる先人が成し遂げた偉大なる功績である元ネタに対する敬意と配慮そして

愛情が微塵も感じられず)を経て、そして天野祐吉氏が亡くなった2013年以降、あたかも天野祐吉氏の死を嘲笑するかのごとく、さらに劣化と軽薄化に拍車がかかっ

ていき、2015年のオリンピックエンブレム騒動でデザイナー氏が広告業界への批判を一手に引き受けたものの、その後も改革は何ひとつなされず、現在のTV-CMの

救いようもなく悲惨な状況、例えば、炎上商法と呼ばれる卑劣な手段の横行、AKBなど素人アイドルのお遊戯会、CG多様による安っぽい演出、とりあえず歌わせとき

ゃいいだろうという安易な替え歌、アニメキャラクターの軽佻浮薄な実写化(これまた偉大なる先人が成し遂げた偉大なる功績である元ネタに対する敬意と配慮そして

愛情が微塵も感じられず)などへと一本道でつながっている。とにかく目立つためなら何でもやる、目立ったもの勝ち、極端な例になるが、人を殺して新聞に載って有

名になりました、道端で下半身丸出しして注目を浴びました、そこまですれば間違いなく有名になり注目されるとは思うけれども、そんな風に悪印象を与えながら目

立ったところで、本当に広告制作物の役割を果たしているのであろうか、作り手の心は満たされるのであろうか、と私は疑問を呈せざるを得ない。広告制作物ではな

く、藝術作品であるならば、藝術至上主義で手段を問わず藝術を追求することもかろうじて許されようが、広告は藝術作品と違って、不特定多数の目に無差別暴力的

に触れるものであり、見たくないものは見たくはないという拒否権が視聴者にはないのであるがゆえ、天野祐吉氏の言葉「TV-CMというのはTVから無差別暴力的に

視聴者の目に飛び込んでくるものであるからして、視聴者を不快な気持ちにさせるような暴力性を帯びた表現は極力慎み、常に視聴者にとって心地の良いものである

ことを心掛けなければならず、そのさじ加減こそがCM制作者の腕/センスの見せ所である」を肝に銘じて細心の注意が必要なのである。とまれ、何かを表現する人間

としてやっていいことと悪いことの境界のわからぬ人間に何かを表現する資格などはなく、他人の才能に対して敬意や配慮を示せぬ人間にもまた何かを表現する資格

などはない。本当に作り手の良心がバカになってしまっているのだと思われる。坂口安吾が『白痴』の中で「賤業中の賤業」と罵倒するのもさもありなんであろう。

……

【その4 スタークリエイターシステム】おそらくこれが昨今のTV-CMが見るも無惨に衰退してしまった最も核心に迫る理由であると私は確信するが、ここ10年~20年

TVから流れてくるCMを目にしたり、広告業界の専門誌を数多く眺めてきた結果、私はある特徴的な事実に気がつくのであった。それは、有名な一流企業の大規模な

広告プロジェクト、つまり広告屋にとっては予算も潤沢にあり、かつ面白い表現にも新たに色々チャレンジできる、つまり「おいしい仕事」に関わっているスタッフ

クレジットを調べてみれば一目瞭然なのだが、いつもほぼ同じ広告屋たちが制作に関わっているという事実であった。その事実に突き当たった私は、これとよく似た

構図をどこかで見た覚えがあるような気がして記憶を手繰ってみれば、それは数年前のオリンピックエンブレム騒動の際問題となり広く世間一般にも知れ渡ることと

なった広告業界における悪しき風習/インチキシステムである「スタークリエイターシステム」であった。一部メディアで広告関係者が語っていた受け売りになるが、

簡単にスタークリエイターシステムについて説明しておく。広告業界においては、クライアント企業宣伝部の担当者はクリエイティヴに対する理解力に乏しく、広告

制作物の良し悪しを自らの目と頭で判断できない素人が多く、広告制作物そのものではなく、作り手であるクリエイターが今までにどんな有名な仕事に携わり、どん

な有名な賞を獲ってきたかなど外面的な部分を重要視する。その素人であるクライアントの弱みに卑劣にもつけ込み、プレゼンなどで一部特定のクリエイターたちに

勝利を導きやすい環境を秘密裏に整えるため、彼らに持ち回りで八百長出来レースで広告賞を受賞させたり、仲間うちで大きな仕事を回し合ったりなど、いわゆる箔

付けをおこない、神輿に乗せ祭り上げては、ハリボテ金メッキのスタークリエイターを捏造し、ギャランティーをつり上げクライアントから高額な金を巻き上げる、

その犯罪スレスレ詐欺まがいなインチキシステムのことをスタークリエイターシステムと呼ぶ。才能をそれほど感じないのに天才などとゴリ押しされていて、こいつ

は何かおかしいな、臭うぞ、と違和感を覚える場合などは、このスタークリエイターシステムに則って捏造されたスタークリエイターつまりインチキクリエイターで

あると思ってほぼ間違いない。クソに金メッキを施したところで中味は本物のクソなので、時間の経過とともにメッキの綻びからクソの臭いが漂いはじめる。何度塗

り直したところで本質的な中味のクソはクソであり続けるため、腐臭は漂い続け、いずれ正体(クソであること)がバレてしまうのだが、一億総白痴化された世間のバ

カどもはてんで気がつかない。また、スタークリエイターたちはクライアントをより効率的にダマくらかす目的で、薄っぺらい中味のまったくないデザインやアイデ

アに関する本を出版し、金メッキの上塗りをしたりもするが、まともな教養ある人間ならば、そんな邪な動機で出版された薄っぺらな本などよほどのバカでもない限

りは買うはずもなく、それはあくまでも「本を出してますよ」という形式的な自己満足以外の何物でもないのだが、クライアントの担当者は「本を出されてるんです

ね、スゴいですね」などとまんまとダマされていたりもする。ようするに、ダマすほうもダマされるほうもどいつもこいつも猫も杓子もバカばかりなのである。よう

するに、世間のバカどもをどれだけ上手にダマくらかしてズル賢く金儲けできるかを競い合っているのが今の世の中であり、その代表が広告業界であり、そのさらに

選りすぐりの代表選手がスタークリエイターたちであり、そもそも価値のないものをいかに価値があるかのように見せかけて興味を惹きつけ消費者に金を使わせるこ

とが、広告という仕事の第一の使命であるわけだが、ダマされるバカどもにも責任の一端はある。回転寿司屋の回転台に雑魚の切身をシャリに乗せトロだと称し流し

味のわからぬバカどもをダマくらかすことなどは序の口で、ウニの軍艦巻のウニの部分を下痢便に差し替えて回転台に流してもバカどもは、ちょっと苦みと臭みがあ

るけれどこれがホンモノの高級なウニなのね、美味い!美味い!と喜んで食べるだろうし、シャコの握りのシャコの部分を手足羽をむしって炙ったゴキブリに差し替

えて流しても、このシャコ、パリパリしててすごくおいしいわ!などと大喜びすることであろう。本当にどいつもこいつもバカばかりの困った世の中なのである。と

にかく、スタークリエイターだか、スタークリキントンだか、スットコドッコイだかなんだか知らないが、そもそも何もクリエイトしていない人間がなぜクリエイタ

ーと呼ばれるのかすらチンプンカンプンであるし、本来クリエイターとは神を意味する言葉であって、お前ら神なのか?と嫌味のひとつも言ってやりたくもなるが、

何はともあれ、邪で醜く卑しい人間が、邪で醜く卑しい動機から作った、邪で醜く卑しいものは、邪で醜く卑しいもの以外の何物でもない、と私は思うのであるが。

スタークリエイターシステムという広告業界における悪しき風習/インチキシステムがたしかに存在し、それに則って有名な広告賞や有名な一流企業の大規模プロジェ

クトなど「おいしい仕事」が一部の限られたスタークリエイターと呼ばれる者たちによって不当かつ不自然に独占され、持ち回りでおいしい思いができるような順番

システムになっているという動かしがたい事実が、数年前のオリンピックエンブレム騒動において露呈してしまった現在、彼らの輝かしい経歴や実績が彼らの本質的

な才能を無条件に保証する担保ではもはやなくなってしまっていることは紛れもない事実であり、おそらくスタークリエイターシステムに則って「おいしい仕事」の

ほとんどを彼らが不当かつ不自然に独占した結果、彼らの手掛ける仕事量と彼らの才能のバランス、つまり需要と供給のバランスが大きく崩れてしまい、つまり彼ら

の仕事量に彼らの才能がまったくもって追いついていないという、まさに自分で自分の首を絞めるような状況に陥ってしまっていると思われる。もちろんスタークリ

エイターシステムの輪の中に入るまでには、本質的な才能が備わっていることが絶対かつ基本条件であるため、彼らに本質的な才能がまったくないと言い切ることは

難しいが、彼らが現在手掛けるTV-CMを見る限りや、また広告業界のいわば顔役としての役目を担う彼らが広告専門誌などに頻繁に登場し語るそのクリエイティビテ

ィに関する言葉の数々を読む限りでは、正直なんだか哀しくなるほどレベルが低いと言わざるを得ないというのが私の本音である。おそらくはスタークリエイターシ

ステムによって仕事を独占し膨大な量の仕事をこなしていくうち、才能というのは無尽蔵にあるわけではないため、あたかも、お湯を入れてもまったく色が出ない出

がらしのティーバッグを合成着色料を使用して誤摩化すしかない状況のごとく、ペニスがうんともすんとも勃起しなくなったインポテンツのAV男優がモザイクを掛け

ればバレないだろうとペニスに添え木を当てがい誤摩化すしかない状況のごとく、彼らの本質的才能がみるみるすり減り枯渇していってしまったのであろう。話を総

括すれば、スタークリエイターシステムという名のインチキシステムによって彼らスタークリエイターたちが仕事を不当かつ不自然に独占した結果、仕事量が膨大に

増えていってしまったために、彼らの本質的才能がまったくもって追いつかず、いつも同じスタークリエイターと呼ばれる広告屋たちが、いつも同じ馴れ合いのお友

だちスタッフを使って、いつも同じそのとき流行のCMタレントを申し合わせたかのように使って、時に商品のCMなのかタレントのCMなのかどっちなのかすらわから

ぬような、時に海外のCMや過去のCMや既存のCMなどからそっくりそのままパクったりパクられたり互いにパクり合って才能を補填し合って、とっくの昔に視聴者か

らは飽きられていることにも気づかず、もしくは気づいていても才能がないからいかんともできず、もしくは気づいていてもわざと嫌がらせで、作り手や関係者の自

己満足(マスターベーション)以外の何物でもない、脳みそ空っぽみそっかす男子が休み時間にクラスの女子の目をチラチラと気にしながら前夜見たTV番組をネタに大

仰なアクションで俺たち面白いことやってるだろ?なあ注目してくれよ!と言わんばかりに調子に乗って悪ふざけしているような、幼稚園のお遊戯会、小学校の学芸

会、中学校の文化祭、会社の忘年会の余興、欽ちゃんの仮装大賞レベルの出来損ないドラマ風コント崩れ寸劇CMシリーズを常にそのクオリティを先細りさせながらダ

ラダラと垂れ流し続け、昨日までライバル会社のCMを手掛けていた者が何食わぬ顔をして、今日は別のライバル会社、明日はまた別のライバル会社、明後日はまた別

のライバル会社のCMを罪悪感の欠片もなく手掛けるなど、性悪売れっ子芸者のごとく節操もなく、会員メンバー全員が穴兄弟竿姉妹まさかの近親相姦もウェルカムな

某有名私立大学広告研究会という看板を隠れ蓑にその実態はヤリサー系イベントサークルの取っ替え引っ替えしっちゃかめっちゃか糞尿精液塗れ乱痴気パーティーの

ごとく倫理観の欠片もなく、とあるビールのCMで役所広司に「ビールは喉ごし!とにかくキレ!プッハー!」と言わせたその(役所広司の)舌の根も乾かぬうちに、今

度は別会社の別ビールのCMで役所広司に「ビールは味わい!とにかくコク!プッハー!」と言わせたその(役所広司の)舌の根も乾かぬうちに、今度はまた別会社の別

ビールのCMで役所広司に「ビールは大人のプレミアム!贅沢なひととき、君の瞳に乾杯!プッハー!」としんみり語らせたその(役所広司の)舌の根も乾かぬうちに、

今度はまた別会社の別ビールのCMで役所広司に「ビールはストロング!キター!こりゃたまらんわ!プッハー!」とおちゃらかせたその(役所広司の)舌の根も乾かぬ

うちに、今度はまた別会社の別ビールのCMで役所広司に「ビールなんて結局どれもおんなじ!酔えりゃ何でもOK!プッハー!プッハー!プッハー!」と身も蓋もな

く開き直らせてみたりと独占禁止法などどこ吹く風に(どさくさ紛れのついでに言えば、昨今の日本映画衰退の原因は、日本の俳優にとって最高のステータスがCM出

演となり、まともな映画で熱演するよりもCMで恥ずかしげもなくバカみたいな演技をするほうが何十倍何百倍と稼げてしまうがゆえに俳優としての矜持が欠如してし

まった結果に他ならず)、いつも同じような内容のいつも似たり寄ったりのいつも代わり映えのしない、つまるかつまらないかと問われたならば即座につまらぬと答え

るような、見ているこちらが気恥ずかしくてなって思わず便所に駆け込みたくなるような、愚にもつかぬ幼稚で下品でダサイ、とにかくバカみたいCMばかりを性懲り

もなく量産し続けても、広告というその特殊な性質上、メディアではよほど酷いケースでもない限りは一切批判も否定もすることが許されない一種のタブーとなって

いるものだから、批判しようものなら今後一切広告を出稿しないと脅しをかけるなどしてねじ伏せ、どんなにふざけたクソみたいな内容のCMを作って流そうとまった

く批判されることも否定されることもなく、さらに何をもって成功したか失敗したかの明確な判断基準すらも非常に曖昧なため、失敗しようが作り手は誰も責任をと

らず、商品が売れないのはCMのせいではなく商品自体に問題があるのでは、と浅ましく開き直ったりなどして、それはあたかも、誰も叱ることができず散々甘やかさ

れた育ちのよろしくない金持ちやヤクザのドラ息子のごとく、たとえ犯罪を犯そうが親にもみ消してもらって決して逮捕されないどころか問題にすらもならない、い

わゆるアンタッチャブルな存在となってしまっており、そのあげくの果てに、至極自然のなりゆきで 、TV-CM全体の新陳代謝がピタリと止まり自家中毒を引き起こし

てしまい、結果として、昨今のTV-CMの道端の干涸びた犬の糞のごとく、見るも無惨な衰退という深刻な症状となって現在の世の中へと顕われているのである。とも

かく一度甘い汁を吸ってしまったが最後、死ぬまで甘い汁を吸い続けなければ満足できないのが人間という哀しい生き物の哀しい性であり、現在見るも無惨に衰退し

醜く腐り切った状況下でも甘い汁を吸っている既得権益者であるところのスタークリエイターたちは、現在の広告業界の悲惨な状況が死ぬまで続こうとも、甘い汁さ

え吸えれば一生安泰なわけであり、革命でも起きない限り現在の広告業界の救いようもなく悲惨な状況は今後も変わることなく永遠に続いていくことは火を見るより

も明らかであり、今になって振り返って思えば、もしかしたら数年前のあのオリンピックエンブレム騒動は広告業界に革命を起こす最後のチャンスであったのかもし

れぬなどと私はふと思ったりもするが、あの騒動後も何ひとつ変わることなく続く広告業界における悪しき風習/インチキシステムであるスタークリエイターシステム

に代表される醜く腐り切った世界を目の当たりにすれば、今後も期待するだけ無駄であろう、とあらためて認識せざるを得ない絶望的な状況にクラクラと目眩を引き

起こし吐き気を催すばかりである。何度も繰り返すが、私自身はすでに広告業界からスッパリ足を洗った人間であるがゆえ、本来ならば広告業界が今後どうなろうが

知ったことではないのだけれども、TVから流れてくるTV-CMに触れる一視聴者として一国民として老婆心ながら現在の広告業界に対して苦言を呈するまでであり、

このような無意味な戯言を私が放ったところで、広告業界の第一線の真っ只中で活躍中のスタークリエイターたちにとっては、負け犬の遠吠え、屁の河童くらいにし

か思えないかもしれぬが、彼らには、試しに一度、広告業界という特殊で異様な世界から身を引いて、晴れて自由の身となった状態の濁りのない清らかな目であらた

めてTVから流れてくるTV-CMを客観的に俯瞰して眺めてみることを強くお勧めしたい。悪意をともなって無差別暴力的に流れてくるTV-CMの数々が広告屋のマスタ

ーベーションを無理矢理見せられるかのごとく、いかに醜いものであるか、いかに不愉快極まるものであるかをきっと理解することであろう。そして、感覚が麻痺し

ていた時には決して見ることのできなかった大切な何かをきっと見つけることであろう。その時、もしも万に一つ彼らの心に良心の一欠片でも残されているとしたな

らば、自らのその恥ずべきおこないを悔い改め誠意の一つでも見せる心意気を是非とも期待したいところだけれども、それは無い物ねだり、豚に真珠、猫に経であろ

うか。最後に、1970~80年代にCMディレクターとして活躍し37歳で自殺した杉山登志氏の遺書の中の言葉を添えておくことにする。リッチでないのに リッチな世

界などわかりません。/ハッピーでないのに ハッピーな世界などえがけません/『夢』がないのに『夢』を売ることなどは……とても/嘘をついてもばれるものです。

……

できる限りまとめる努力はしたものの、まだまだ完全にはまとめ切れておらず、また、私怨がらみの見当違いも多々あって、雑然とした印象を与えてしまうこととは

思うが、現時点での自分の頭の中を整理すれば「なぜ最近のTV-CMはこれほどまでにクソつまらなくなってしまったのか?」という問題に対する私の持論は以上のよ

うになるわけで、さらに簡潔にまとめるならば、以下のようになるだろう。世の中が「一億総白痴化」により、例の父親を犬に見立てたCMに大喜びするくらい、バカ

ばかりになってしまい、そこに卑劣にもつけ込んだ広告業界の「スタークリエイター」と呼ばれる者たちが、おいしい仕事を不自然に独占し、バカが喜ぶような軽薄

なCMを量産しているうち、彼らの仕事量に彼らの才能が追いつかなくなって、その挙げ句に、作り手である彼ら自身もすっかりバカに成り果ててしまった、となるわ

けである。酒の勢いを借りて熱くなって無我夢中に話しているうち、気がつけば時刻はすでに深夜1時をまわっており、その間に私はチューハイを10杯おかわりして

かなりヘベレケの状態であったが、<頭文字P>は黙って最後まで私の話を聞き終わると哀しげな表情をし、例の抑揚のない変質者風の怪しげな声で「もうダメかもわ

かりませんね」とポツリと呟き、それに対し私は「俺はまだまだ諦めてないけどな、諦めたらそこで負けが決まって、すべてが終わってしまうんだよ、さっきも言っ

た通り、俺自身はすでにクソみたいな広告業界からスッパリ足を洗った人間であり、本来ならばクソみたいな広告業界が今後クソどうなろうとクソ知ったこっちゃな

いんだけど、TVから犬のCMみたいなクソCMがクソみたいにクソいっぱい流れてきて、世間のクソバカどもがクソ大喜びしてるというクソみたいな現状に本当にクソ

我慢がならないんだよ」と虚勢を張りつつ、会話は続いていき「ちょっとクソクソクソクソ言い過ぎではないですかね、犬のクソCMがクソなのはクソたしかですが、

まあ実際クソですけれども、しかし、大竹さんは広告業界や広告屋のことが本当に大嫌いだということがよくわかりましたよ、おそらく、禁煙に成功した非喫煙者が

煙草の煙や喫煙者のことを蛇蝎のごとく嫌うのと似ているのかもしれませんね、もしくは、性風俗業からスッパリ足を洗った元風俗嬢が昔の自分を思い出すという理

由から性風俗産業や現役風俗嬢のことを目の敵にするような感覚なんでしょうかね、気持ちはわからなくもないですがね、でも大嫌いなのにもかかわらず、真剣に考

えている、不思議ですね、しかし、このような状況で、この先ボクらは一体どうすればいいんでしょうか、なんだかボクも悪の手先として働くことに嫌気がさしてき

ちゃいましたよ、今すぐにも自由になりたいです」「まあ、待ってろって、そのうち俺が貴様を悪の手から救い出して自由にしてやっからよ、俺は元々ずっと広告業

界に身を置いていたから、余計に世の中のドス黒いカラクリみたいなものに敏感になってしまってるんだけど、世の中のほとんど、おそらく99.99%の人々はそのド

ス黒いカラクリの存在にすらまったく気づいていないわけで、例の犬のクソCMを見て、バカにされていることにも気づかず、なんにも感じず、ただ大喜びしている有

様なんだよ、家族の中で父親だけが犬畜生でなければならないのと、犬畜生の父親と人間の母親との間に生まれた息子が黒人でなければならない正当な理由があるな

らまだしもなんだけど、その辺の理由はゴニョゴニョと口ごもって曖昧にして誤摩化してるから始末に負えないんだ、まあ実際に差別意識や悪意があったとしても、

はい、その通りです、お前ら愚民どもをバカにして作っておりますってバカ正直に答えるわけなどなくて、滅相もありません、考え過ぎですって、悪意なんてありや

しませんよって表向きは答えるわな、人は俺みたいな奴のことを陰謀論にまんまと嵌まり込んだ痛い奴だと言うかもしれないけれども、陰謀というかさ、そもそもの

話、何をもってして陰謀と定義するのかが非常に曖昧なわけで、一億総白痴化されて物事を自分の頭で考えられないバカばかりになってしまった哀しい世界で、その

バカどもを巧妙狡猾にダマくらかすことで暴利を貪っていたり、どんなに悪いことをしても、犯罪すら犯しても、権力を笠に着たり何らかの不自然な力が働いて絶対

に逮捕されなかったり、陰でコソコソインチキをしてズル賢く金儲けしている悪い奴らは確実に存在しているわけで、世界を裏で牛耳っているごく一部の金持ちや権

力者たちにとっては、世の中の一般大衆が脳みその足りないバカであるほうが御しやすいというか、管理しやすいというか、洗脳しやすいというか、ダマしやすいと

いうか、それにはTVや広告などに代表されるマスメディアを掌握するのがもっとも手っ取り早い方法であって、まさにジョン・カーペンター監督の映画『ゼイリブ』

そのまんまの世界が冗談でもなく実際に展開されているわけなんだよ、あの映画は消費社会に対する怒りを描いたとジョン・カーペンター監督は語っているようだけ

れども、あの映画を観て、世の中をデフォルメ風刺したフィクションやファンタジーつまり絵空事だと思うか、現実にあるドス黒いカラクリを暴露しているノンフィ

クションだと思うか、俺はあれこそが現実世界を丸写ししていると思っているし、もしも可能ならば、映画『ゼイリブ』を小学校中学校の道徳の授業で全校生徒に観

せるべきだとさえ思っているけれども、そのような映画『ゼイリブ』に出てくるような世の中に蔓延る数々の陰謀の中にも大きいものから小さいものまで色々種類が

あって、その中には真実もあれば嘘もあり、虚実ないまぜ状態であり、彼ら(支配層/富裕層)は陰謀論(つまり自分らが犯している数々の悪事)を否定するために、陰謀

論の中から、あえてとんでもない信じられないような陰謀(宇宙人がどうたらこうたら)だけを挙げつらって、そんなバカげた陰謀を信用するなんてお前は頭がおかし

いんじゃないか、とどさくさにまぎれてすべての陰謀を否定するという姑息な手段で陰謀論そのものを全否定するんだが、さっきも言ったように陰謀の中には、とん

でもない信じられない陰謀もあれば、本物の陰謀も確実に存在しているわけなんだよ、俺も広告業界という醜く腐り切った世界に間違って足を踏み入れなかったら、

おそらくそれらにまったく気づかず、今頃は世の中のバカどもと一緒に犬のお父さんカワイイ!とか大喜びしていたかもしれないんだけど、不幸中の幸いというか、

運良く、俺はおかしいと気づいてしまったわけで、もちろん俺自身もこれまで40数年以上生きてきた間に、一億総白痴化の影響を確実に受けているはずだから、バカ

の一人であるには違いないんだけれども、たとえバカであっても、俺の場合は自分がバカだときちんと自覚していて、この世界は何だかどうもおかしいぞと認識して

いるだけまだまだマシなほうの部類の軽度のバカで済んでいるんだよ、もちろん俺の他にも気づいている奴らは世の中に少なからずいるとは思うんだけど、根拠はな

くて、口からでまかせだけど、おそらく地球上の人口の0.001%~0.01%くらいは気づいていると思うんだけど、たとえこの世界は何だかどうもおかしいぞと感づい

ていたとしても、今さらどうしようもなくて、いかんともしがたくて、みんな正直どうしてよいものやらわからない状態だったり、おかしいことをおかしいと本当の

ことを言ってしまうと頭のおかしい狂人扱いされてしまったり、吉本隆明の初期の詩『廃人の歌』の中の『ぼくが真実を口にすると ほとんど全世界を凍らせるだらう

といふ妄想によつて 僕は廃人であるさうだ』てな具合にさ、みんなそれぞれに家族がいたりして、真実を追求してしまうと、生きていくことに支障を来してしまうか

ら、あえて何も言わず大人しく黙っているだけだと思うんだよ、真実を語らずに黙ったままでいたほうが、いや、むしろ積極的に悪事に加担したほうが、世の中で成

功しやすいシステムになっていたりするから尚更タチが悪くて困るんだが、もちろん過去に実際に行動した人たちも少なからずいたけれど、大杉栄とか、血盟団事件

とか、二・二六事件とか、三島由紀夫の自決とか、他にもたくさんいるだろうが、もしかしたら、オウム事件も、もちろん賛否があるのは認めるけれど、目的や方向

性は同系統だったのかもしれないし、ただし、残念ながら成功した例はほとんどないんだけどな、俺もこの世界は何だかどうもおかしいぞと気づいてしまってから、

おかしいとわかってはいても実際に何をどうしていいのかまったくわからなかったんだけども、でもずっと何かしなくてはならないと思ってはいて、俺は自分が身を

置いていたふざけた広告業界に代表される、この吐き気がするほど醜く腐り切った世界に対する反骨精神から、27歳の時たまたま坂口安吾の『白痴』を読んで、悪の

手先となって大衆を洗脳し汚く金儲けしているインチキ野郎どもが大手を振って闊歩している、つまり世の中のバカどもをダマくらかしていかに金儲けできるかを競

い合っているような、坂口安吾いうところの賤業中の賤業である広告業界に身を置くことに飽き足らなくなって嫌気がさして恥ずかしくなって、若気の至りから藝術

家宣言なんかをしてしまって、一旦は広告業界から完全にスッパリ足を洗って、それから決して大きな声では言えないような紆余曲折がたくさんあったのちに、みっ

ともないことこの上ないことには、再び広告業界に舞い戻ってしまったり、なんだかんだと愚図愚図とくすぶっているうちに、ようやく33歳になって俺は重い腰をあ

げてというか突発衝動的に絵を描きはじめたわけなんだけど、俺は絵を描くことによって、例の犬のクソCMやそれを作っていい気になってる広告屋のインチキ野郎ど

もに代表される世の中の汚い奴らや、世間のバカどもをダマくらかして金儲けすることを競い合っている卑しい奴らや、金と権力さえあれば後は何とでもなると思い

上がっている下品で浅ましい奴らや、金さえ儲けられればなりふりかまわず何だってやる拝金主義者どもや、愛なんてないくせに愛は地球を救うなどとほざいてバカ

から金を巻き上げる偽善者どもや、AKBだか何KBだか何だか知らんがモテない男をダマくらかしてCDを大量に売りつけるインチキアイドル詐欺商法やら、カート・

コバーンを自殺に追い込んで殺した商業至上主義/売上至上主義やら、大衆の欲望を無闇に誘発させて金儲けを企む我欲に塗れ醜く腐り切った資本主義社会と正々堂々

戦うつもりでいるんだよ、それと、俺は今まで勘違いしてたけど、例の気持ち悪い犬のクソCMを垂れ流している悪徳強欲企業S社のマスコット的な存在であるところ

の貴様のことを、そういった醜く腐り切った資本主義社会、物質消費社会の悪の象徴、悪の代表とみなしてもいて、さらには、俺たちが子供の頃に夢と希望を胸に抱

きドキドキワクワクと思い描いていた待望の未来が、いざフタを開けてみれば、なんとビックリ、まさか、まさか、まさかの、貴様みたいな安っぽくて胡散臭いイン

チキポンコツロボットなのかよ!そりゃあんまりだ!ふざけんな!ってズッコケて心底落胆しながら、常々貴様のことを憎々しく思ったりもしていて、そして、例の

気持ち悪い犬のクソCMもてっきり貴様が企画を考えているものとばかり勘違いしていて、いつか必ずぶん殴ってやろうと前々から狙っていて、だからこそ、つい先日

も断食中の空腹感によるイライラからとうとう怒りが爆発して危うく実際に貴様をぶん殴って首をふっ飛ばしてしまいそうになってしまったくらい俺はもう我慢の限

界でハラワタ煮えくり返っていたというわけなんだけど、でも、普通に冷静な頭で考えてみたら、俺はずっと広告業界にいたわけだから、貴様が企画を考えているわ

けないことくらいわかり切ったことだったんだけどな、まあ、実際にこうして貴様と腹を割って話してみると、意外にも貴様は結構いい奴で、例の犬のクソCMも貴様

が考えているわけではないことが確定して、だがしかしだ、俺はたとえ貴様のことは許せたとしてもだ、犬のクソCMだけは絶対に許すわけにはいかないんだよ、けれ

ども、そうは言ってもだ、犬のCMがクソだとか、広告屋がクソだとか、TVがクソだとか、一億総白痴化がクソだとか、口で言うのはいとも簡単なわけで、そんなの

は誰にだって言えることなんだけど、だったらお前はどうするのか、俺は一体どうすればいいかと言ったらば、俺はそれをずっと長い間暇さえあれば考え続けてきた

わけなんだけども、そしてようやくどうすればよいのかわかってきて、俺は何をすればいいのかと言ったらば、それは俺が素晴らしい藝術作品を世の中に発表して、

世の中のできるだけ多くの人々を感動させて、それによって、犬のクソCMを作っているようなインチキ野郎どもをギャフンと言わせて、犬のお父さんカワイイ!とか

大喜びしている世間のバカどもの目を覚まさせる他ないんだよ、つまり、俺は藝術の力で悪い奴らと戦うつもりでいるんだよ、一億総白痴化に対抗できるのは藝術の

力だけなんだよ、カート・コバーンを殺した商業至上主義/売上至上主義に対抗できるのは藝術至上主義だけで、すなわち、世界を救えるのは藝術のみってわけなんだ

よ、みんなが本物の藝術に感動して、クソみたいな世の中だけれども、それでも世の中まだまだ捨てたもんじゃないな、こういう藝術作品が世の中に存在するならば

もう少しだけ生きていてもいいかな、それでも世界は素晴らしいよな!と藝術の力でみんなに気づかせなければならないんだよ、それこそが、これから先に俺のやら

なければならない役目だと思っているんだよ」と私が酔いにまかせて虚勢を張って一気に情熱的に捲し立てれば、<頭文字P>は依然として哀しげな表情のまま「うー

ん、しかしですよ、ここまで事態が悪化していて勝算があるんでしょうか、なんてったって世の中は犬のクソCMに大喜びしてるバカばかりなんですからね、彼らに藝

術を理解する能力なんてあるんですか、もう何をやっても暖簾に腕押し、糠に釘なのではないんでしょうかね」「難しいのはたしかなんだけどな、勝つ見込みがない

こともないんだけど、これ以上世の中がバカばかりになるのを少しでも食い止めて、世の中の皆がバカにされているという事実に気づき、俺たちは犬じゃない、俺た

ちは奴隷じゃない、俺たちは家畜じゃないと覚醒して、今まで犬のクソCMに大喜びしていた自分たちがなんて愚かだったのかと自覚させなければ、何も解決はしない

んだけど、それを気づかせるのは至難の業なんだよ、でもそれこそが藝術の役目であり、その藝術作品を生み出すことが俺の役目だと俺は勝手に思っているんだよ、

俺たちの戦う相手はとてつもなく巨大で手強くズル賢くて、おまけに組織的にやっているから、それこそ刺し違える覚悟で命懸けで向かわなくてはならないんだよ、

酔っ払った勢いで何だかとっても偉そうに聞こえるかもしれないけれども、俺は真剣なんだよ、真剣そのものなんだよ、ただし、ここでひとつ問題が出てきてだな、

貴様も薄々感づいていると思うんだけど、俺のやるべきことは、藝術の力で世の中を覚醒させることだとわかってるんだけど、そこまでは俺も頭ではきちんと理解し

ているんだけれども、なんとも情けないことにはだな、肝心の俺の藝術活動が、ここ最近、ご覧の通り、見事に停滞しちまっているという体たらくなわけでさ、情け

ないことに、俺は絵がまったく描けなくなってしまったという有様なんだよ、その挙げ句の果てが、断食中に貴様をボロクソにこき下ろしてぶん殴ろうとして、それ

をきっかけにして今こうして貴様と酒を酌み交わしてクダ巻いているという状況に繋がるわけなんだよ、こんなことしてる場合じゃないんだけど、貴様と深夜にこん

な場所で酒飲んでくっちゃべってる場合じゃないんだけど、そんなことは自分でも百も承知なんだけど、何しろ絵が描けないもんだからさ、どうすることもできない

んだよ、もう笑うしかないんだよ、ハハハハ」私が冗談めかして本音を語れば、<頭文字P>は哀しげな表情のまま、まじめな口調で「何ヘラヘラ笑ってるんですか、

笑ってる場合じゃないでしょうが、ちゃんと絵を描かないと、絵を描いて悪い奴らと戦わないと、藝術の力で悪と戦わないと、それで早くボクを悪の手から救い出し

てくださいよ」「だから、このあいだも言った通り、俺は待ってるんだって、藝術の女神が降りてくるのをさ、そしたら悪い奴らなんてイチコロなんだよ、今に見て

ろって、それにもしかしたら、根拠はまったくないけど、貴様こそが俺にとっての藝術の女神かもしれないわけだしさ、なんだか運が巡ってきたような気もしてるん

だよな」「また酔っ払って気が大きくなって、藝術の女神だかなんだか知りませんけど、そんなもん、いつまで待ってたって降りて来やしませんよ!」突然<頭文字

P>は語気を強め私に説教するような調子になり「大竹さんは絵から逃げてるだけなんじゃないですか、藝術の女神とかも、ただ絵から逃げている自分に対する言い訳

に過ぎなんじゃないんですか、そういうのは卑怯だとボクは思いますけどね、それからボクのことを勝手に藝術の女神か何かだと思っているようですが、そんなのは

勘違いですからね、ボクはそんなもんになるつもりありませんよ!」不覚にも核心を突かれた私は少しうろたえて「おい、ぺの字、どうしたんだよ、急に、俺に説教

する気かよ、ポンコツロボットのくせに生意気だぞ」逆ギレ気味に誤摩化そうとするも<頭文字P>はさらに語気を強めて「いやいやいやいや、今日は言わせてもらい

ます、ボクは後ろ向きな人大嫌いなんです、そういう人とはもう会いたくありません、もう図書館にも来ないでください」急に冷たく突き放されたため動揺しながら

私は「だってよ、描けないもんは仕様がねえだろよ、描く気力がまったく起こらないんだからさ、もう会いたくないなんて、そんな哀しいこと言うなよ、せっかくこ

うして俺たち親友になれたんじゃないか、貴様に見捨てられたら俺明日からどうやって生きていけばいいんだよ、頼むから見捨てないでくれよ、俺と一緒に悪と戦っ

てくれよ」情に訴えかけようとして哀しげなフリをしているうちにだんだん私は本気で哀しくなってきてしまって目をウルウルさせながら<頭文字P>にすがりつけば

「そういうところが甘えなんですよ、普段偉そうに大口叩いて他人を批判してるくせに、自分が批判されるとすぐに不貞腐れて誤摩化して、散々広告業界や広告屋の

ことボロクソに罵倒してるけど、結局広告業界で成功できなかった自分に対する言い訳なんでしょ、隣りの芝生は青く見えるじゃないですが、そんなのは、酸っぱい

葡萄、負け犬の遠吠えに過ぎないんじゃないですか、深夜にこんなボロっちい居酒屋で酔っ払ってグチグチ言ってたって何も変わりやしませんよ、奴らは屁とも思っ

ちゃいませんよ、悪と戦うにはどうすればいいかもうわかってるんでしょ、さっきも自分で言ってたでしょ、いい絵を描いて世の中に発表して奴らをギャフンと言わ

せるしかないんですよ、だから絵を描かないと何も始まりはしないんですよ、この際だから思い切ってすべて吐き出してしまいますが、今の大竹さんには絵しかない

んですよ、自分でもわかってるんじゃないですか、大竹さんから絵をとったらビックリするくらい何にも残らないんですよ、今まで自由気ままに好き勝手に人生舐め

腐っていい加減に生きてきて、かろうじて残ったものが絵だけなんですよ、大竹さんが絵を描かなくなったら存在価値なんてなくなってしまうんですよ、死んだほう

がマシなんですよ、まあ死ぬ勇気なんてないんでしょうけど、それから、大竹さんは悪と戦うなんて大言壮語してますけど、実際のところ、勝てる自信なんてないん

じゃないですか、負けるのが恐いから戦わないだけなんじゃないですか、負けることがわかり切ってるから戦わずに逃げてるだけじゃないんですか、戦わなければ負

けることもありませんからね、それで口先だけで文句ばかり垂れて、そんなのは卑怯者以外の何者でもありませんよ、できないことは口にしちゃダメですよ、口でな

ら誰だって言えるんです、有言実行、実際に行動に移さなければ何も意味なんてないんですよ、そんなんじゃいつまでたったって世の中何も変わりやしませんよ、悪

い奴らに好き放題させたままでそれでいいんですか、ボクを助けてくれないんですか」なんだか途中から母親に説教でもされているかのような気分に私はなってきて

「わかったよ、もう泣き言とか一切言わないから、頼むから俺を見捨てないでくれよ、貴様がいなくなったら俺ひとりぼっちで生きていけないんだよ、頼む、この通

り、本当この通り」いつしか私は本物の涙をボロボロ流しながら殊勝に頭をさげ続けていて、<頭文字P>は「もう本当に困った人だなあ、わかりましたから、もう謝

らなくていいです、ボクも少しきつく言い過ぎましたし、出過ぎたマネをしてしまいました、仲直りしましょう、いい歳して何泣いてんですか、もう40過ぎてもうす

ぐ50になるんでしょう、そんな情けないことでどうするんですか、そんなことで悪と戦えるんですか、もう酔っ払いはこれだから面倒見切れないんですよ、ほおら、

ヨシヨシ、ヨシヨシ、もうわかりましたから、ヨシヨシ、ヨシヨシ、もう泣かないでくださいって、ヨシヨシ、ヨシヨシ、ヨシヨシ」と私の背中に手を回し、やさし

く撫で擦ってくれて、私にはその突き放されたあとに慰められる鞭と飴のバランスが妙に心地よく感じて、何だか子供の頃に母親に叱られたあとやさしく慰められて

抱かれているような心地よさも感じてきて、<頭文字P>の人工的にくびれたウエストから腰のラインにぼんやり目を遣ればドキッとするほどセクシーに思えてきたり

して、くびれを無心にまさぐりまくりながら「まさかこいつが本当に藝術の女神だったりしてな」とかアホみたいな考えが頭に浮かんできたものの、すぐに「そんな

わけあるか、こんなひょっとこみたいな面した女神なんて」と否定しているうちにようやく私の精神状態もかなり落ち着いてきたのだけれども、私はできることなら

ばずっとこのままこうして<頭文字P>に癒されていたいなあとか思ってきたりもして、おまけにチューハイ10杯以上おかわりしたものだからかなりへべれけに酔っ払

ってもいて、これからこのあと店を出て図書館まで歩いて行ってそこからまた自転車で夜道をギコギコこいで帰るのも面倒くさくなってきて、それよりも何よりもと

にかく眠くて眠くて仕方がなくてなってしまった私は<頭文字P>の耳の辺りに口を当てて「なあ、このあと、ホテル行かないか」と思い切って誘ってみたのだった。

……

<頭文字P>は最初、驚きのあまり昔のダッチワイフのようにポカーンと大口を開けキョトンとしたマヌケな表情をして、例の変質者風のふたつの目ん玉をパチクリと

青光りさせながら「何をバカなこと言ってるんですか」とか「気でも狂ったんですか」とか「カプセルホテルじゃダメなんですか」とか、かなりごねていたようだけ

れども、私が「絶対に何にもしないから、何なら俺は床で寝てもいいし、それにこんなに酔っ払った状態で自転車に乗ったら事故っちゃうかもしれないし、実を言え

ば、俺は昔酔っ払って自転車で2回転んだことがあって、そのうちの1回なんてスピード出し過ぎて3メートルくらいふっ飛んで顔面から着地して救急車で運ばれたん

だぞ、それから、もう1回も救急車で運ばれこそしなかったものの、手の甲を怪我して血だらけになって、今もその1cm弱の『H』という文字にも読めるミミズ腫れみ

たいな傷跡がしっかり残ってて、酒飲んで酔っ払うと必ず赤く浮上がってきて、ほら見てみろよ、今もしっかりくっきり浮上がってるだろ、この『H』という文字、

最初は一体何の意味なんだろうか?『HAKUHODO』の『H』なのかな?とか一瞬思ったんだけど、でも、俺は博報堂の社員でもないし、博報堂とは無関係だからな、

おそらくは『HENTAI』という意味の『H』で、これを見るたび俺は自分が変態野郎なんだなあと再認識するとともに、酔っ払い運転は絶対やめようと思うんだけど、

ともかく酔っ払い運転は危険なんだよ、飲んだら乗るな、乗るなら飲むなだよ、万が一また事故っちまったら、そしたら俺は絵が描けなくなってしまうわけだよね、

そしたら俺は世の中の悪と戦えなくなるわけだよ、そうなると俺は貴様を悪の手から救って自由の身にしてやることもできなくなってしまうわけだよ、それだと貴様

も困るだろうに、それとも何か、貴様が絵を描けなくなった俺の面倒を一生みてくれるのか、ほんとに絶対に何にもしないって約束するし、手をヒモで縛ってもらっ

てもいいし、なんなら『絶対何もしません』って一筆書いて血判押しても構わないし、頼むよ、ほんとに1回だけだから、今日だけだから、明日はちょうど休館日だ

から、貴様も朝のんびり寝ていられるだろうし、ほんとにほんとにほんとに何にもしないから、絶対変なことしないから、ただ朝まで俺の隣で寝てくれるだけでいい

んだよ、貴様のこともっとよく知りたいし、別に変な意味じゃなく、俺と貴様ともっともっとより深い関係を築いていきたいんだよ、夜中に突然豹変してのしかかっ

て、どさくさにまぎれて先っちょ入れたりなんてしないから、そもそも貴様には俺のアレを受け入れる穴がどこにもあいてないんだから、たとえ俺がヤリたくなった

って、それは出来ない相談なんだからさ、心配するなって、大船に乗った気分でいろよ、とにかく俺は寂しいだけなんだよ、ひとりで寝るのが寂しくて寂しくて仕方

ないんだよ、ウサギだって寂しいと死んでしまうって言うだろ、俺はウサギじゃねえけど、ウサギみたいに寂しいんだよ、ゆえに俺は死んでしまうかもしれないんだ

よ、寂しさのあまりウサギみたいに死んでしまうかもしれないんだよ、それだと貴様は困るだろう、貴様には理解できないかもしれんけど、寂しいっていう感覚はだ

な、たとえるならば、子供の頃スーパーマーケットで迷子になって母親とはぐれてもう二度と会えないんじゃないかって泣きそうになって、これから先、家族とも二

度と会えなくて俺ひとりぼっちで生きていくのかな、ああ寂しいなあって、そういう感覚だよ、もしくは、真夜中に恐ろしい悪夢にうなされて目が覚めた時のあのひ

とりぼっちのなんともやるせない、ここに誰かがいてくれて、俺のことをぎゅうっと抱きしめてくれればなあっていうあの感覚だよ、目覚めた時に横に誰もいないと

わかった時の孤独感や、このまま俺はひとりぼっちのまま死んでいくのかなって考えた時のあの絶望感を貴様も想像してみてくれよ、俺のことをかわいそうだとは思

わないか、貴様はそんなにも薄情な奴だったのか、貴様は人間の感情を認識するロボットだったはずだよな、しかも、俺にとっては唯一無二の親友でもあったはずだ

よな、だったら何も言わず親友の俺のために一肌脱いでくれたまえよ、俺が貴様の立場だったら絶対そうすると思うけどな、ほんとに今日だけ1回こっきりにするか

ら、お願いします、お願いします、お願いします、お願いします、お願いします」と必死に拝み倒し説き伏せると、<頭文字P>は「もう仕方ないですねえ、たしかに

酔っ払い運転して事故られたら困りますからね、本当に何にもしないでくださいよ、約束ですからね」と渋々ながらもホテルに行くことを承諾してくれて、私たち二

人は高田馬場から新宿方面へとトボトボ歩いて行き、途中、職安通り沿いのドン・キホーテで「いやあ、娘に頼まれましてねえ、気に入ってくれるかなあ」とか何と

かレジで適当な言い訳しながら、金髪のウイッグとベビードールのパチモン風の露出の多いスケスケのいやらしいキャミソールみたいな服を購入し「なんでボクが女

装しなきゃいけないんですか」と嫌がる<頭文字P>に「念のためだよ、ラブホテルの受付のおばちゃんの目を誤摩化すためだよ、ヘンテコなロボットなんか連れ込ん

だら俺は変態扱いされてしまうじゃないか、用心に越したことはないからね」とその場で無理やり着させて、新宿歌舞伎町のとあるラブホテルへとしけ込んだのだけ

れども、案の定、受付のおばちゃんから「お客さん、そういうの、うちでは困るんですけどねえ」と渋い顔をされたため、私は「は?そういうのって何だよ、言葉に

は気をつけてくれたまえよ、この女はな、付き合ってもうすぐ2年になる俺の可愛い可愛い彼女なんだよ、俺の愛する女に、そういうのって言い草はねえだろ、それ

に、仮にそういうのだとして、何か問題でもあるのかよ、あるわけねえよな、まあこれとっとけよ」と毅然とした態度で室料を少し色つけて支払って押し通したのだ

った。時刻は深夜3時を少しまわったところであった。ラブホテルの部屋の中央にはバカでかいベッドが置いてあって、私はすぐに着ている衣服をすべて脱ぎ去り生

まれたままの姿になってベッドの海に飛び込むようにダイブしてから、枕元のスウィッチを色々いじくり回して照明を変えたりベッドを回転させたりして遊びながら

「貴様もこっち来て早く隣に寝ろよ、大丈夫だって、ほんと何にもしないから」「約束ですよ、何かしたら大声出しますからね」そして<頭文字P>と二人並んでベッ

ドに横になり、すぐさま私は眠りに落ちていき、それからどれほど時間が経ったであろうか、私は嫌な悪夢にうなされて、ギャー!っと絶叫しながら目を覚ますと、

<頭文字P>は青光りする変質者風のマヌケ面で私の顔をマジマジと覗き込んでいて、その金髪のウイッグにベビードール姿のバケモノ立ちんぼ娼婦じみた容姿にもう

一度私は、ギャー!っと絶叫して、完全に目が覚めてしまい「貴様ずっと起きて俺のこと見てたのかよ」「はい、ずっと苦しそうにうなされてましたよ、いつもうな

されてるんですか」「まあな、近頃は嫌な夢ばかりでロクな夢を見ないんだ、俺、妙なこと口走ってなかったか」「なんだか、女の人の名前とか、たくさん叫んでま

したけど」「マジで」「ウソですよ、でもずっと苦しそうにウーウーウーウーうなされて身もだえていましたね」「昔からなんだけど、たぶん俺は夢の中でも悪い奴

らと戦っているんだよ、だから、いくら眠っても眠っても全然疲れがとれないんだよ」「夢の中でまでご苦労なことですね」「貴様はロボットだから、やっぱり電気

羊の夢を見たりするのか、眠れない夜は電気羊の数を数えたりするのか」「ボクは夢とか見ませんし、そもそも別に眠らなくてもいいんです」「24時間働けますか?

の世界かよ、労働基準法違反なんじゃねえのか、時間余って暇だから、夜中に図書館でイタズラしまくってるわけか、本の場所入れ替えたり、DVDの中身すり替えた

り、リクエストカード捏造したり」「だからイタズラなんてしてないって何度言えば」「まあ冗談だよ、冗談、なあ貴様もここに横になれよ、そんで、さっき居酒屋

でやってくれたみたいに、俺の背中をやさしく撫でてくれよ、うちの母親になったみたいにさ」「もう仕方ないわね、マーくんは、本当に甘えん坊さんなんだから」

<頭文字P>は早くもうちの母親みたいな口調になりきってそう言うと、素っ裸の私と向き合う形で横になりやさしく抱きしめハグしてくれてから(アニー・リーボヴィ

ッツが撮影したオノ・ヨーコに抱きついてる素っ裸のジョン・レノンの写真を思い浮べてみて下さい)「ヨシヨシ、マーくん、ヨシヨシ、もうこんなに汗びっしょりか

いて、ヨシヨシ、マーくん、また恐い夢を見たんでちゅねえ、恐かったでちゅねえ、ヨシヨシ、マーくん、ちょっとお酒臭いでちゅねえ、飲み過ぎでちゅねえ、ヨシ

ヨシ、マーくん、お利口さんでちゅねえ、ヨシヨシ、マーくん、本当にいい子ちゃんでちゅねえ、ヨシヨシ、マーくん、ヨシヨシ、これからはママがずうっとおそば

についてまちゅからね、もう何も心配いりまちぇんよ、ヨシヨシ、マーくん、早くお絵描きができるようになるといいでちゅねえ、ヨシヨシ、これから先は何だって

うまくいきまちゅからねえ、ヨシヨシ、ママがついてまちゅからねえ、ヨシヨシ、マーくん、ヨシヨシ、ヨシヨシ」と両手を使ってさっきと同じ要領で私の背中やう

なじや後頭部をやさしく撫で摩り続けてくれて、私は一眠りして酔いがかなり醒めていたためか少しばかり気恥ずかしさを感じてしまっていたものの、ついさっきま

で金髪ウイッグにベビードール姿のバケモノじみた姿に見えていた<頭文字P>のことが何だか急に女らしく艶かしく思えてきてしまって、異性として意識しはじめな

がら、<頭文字P>のロボットのくせしてやけにいやらしくくびれた腰からウエストのラインをベビードール越しに何度も何度もねちっこく変態っぽい手つきでまさぐ

り続けていると、いつしか私はムラムラと欲情してきてしまって、そのうち気づけばなんとフル勃起してしまっていて、その私の局部の突然の異変をすぐさま察知し

た<頭文字P>は「あの、さっきから何かとてつもなく硬くて燃えるように熱いモノがボクの体に当たっているような気がするんですが、たぶん気のせいですよね?」

と私の目をマジマジと見つめながらイタズラっぽく笑いかけてきたので、私も<頭文字P>の目をマジマジと見返しながら「気のせいに決まってるだろ」と少し掠れた

声で答え「ゴクリ」と生唾をひとつ飲み込んでから、私の背中をやさしく撫で擦る<頭文字P>の右手を、すでにカチンコチンにまるで釘でも打てるのではないかと思

えるほど硬く熱くフル勃起していた私のペニスへとゆっくり導いていけば、<頭文字P>は「何もしないって約束でしたよね?」と右手に力を込め少しばかり抵抗して

みせるも、私はすっとぽけた調子で「ああ、そうだよ、約束通り<俺は>何もしないよ、今から<貴様が>自分の意志でもって勝手に俺に何か変なマネをするんだよ」

と少し強引に<頭文字P>の右手で私のペニスをしっかりと握らせ、その上から私の右手を重ねて手コキのやり方をやさしく演技指導するかのようにゆっくりといやら

しく何度も上下に往復させながら「頼むよ、こんなになってしまったのは貴様のせいなんだからさ、貴様がちゃんと責任をとらなくちゃいけないんだよ、責任をもっ

て何とかしてくれよ、お願いだよ、今夜限りだから、本当に一生のお願いだよ、この期に及んで男の俺に恥をかかせるなよな、やってくれたら、俺も貴様に何かして

やるからさ、何をするかはやってくれたら考えるし、悪いようにはしないからさ、もうここまで来てしまったんだから貴様も後には引けないだろうに、もしもどうし

ても嫌だって言って拒むんなら、毎週図書館を勝手に抜け出して俺と飲み行ってることやラブホテルにも行ったことを図書館の館長に告げ口したり、区役所に匿名の

投書送ったりするからな、それとも貴様んとこの悪徳強欲社長に言いつけてやろうかな、いずれにしても、そうなったら貴様はたぶんスクラップ工場行きだぞ、スク

ラップになるのは嫌だよな、それに、してくれないんだったら、俺はもう二度と絵を描かないからな、さっきは頑なに否定したけど、もしかしたら、貴様は俺にとっ

ての藝術の女神かもしれないんだよ、バケモノじみた場末の立ちんぼ淫売婦みたいなナリしてるけど、藝術の女神なんだから、俺が絵を描きたくなるようなことを率

先して積極的にやらないといけないんじゃないのか、それが貴様の仕事だろ、そうすれば俺は絵を描きたいっていう衝動が湧き起こってくるかもしれないしな、俺が

二度と絵を描けなくなってもいいのか、そしたら俺は悪と戦えなくなるし、貴様を悪の手先から解放して自由にしてやることもできなくなるんだぞ、それでもいいん

なら、もう俺は知らないよ、勝手にしやがれだよ」と私が理不尽なデタラメ話をふっかければ「もうどういう理屈なんですか、仕方ないですねえ」とブーブー文句を

垂れながらも、<頭文字P>はいきりたつようにカチンコチンにフル勃起していた私のペニスをゆっくり上下に擦りはじめたので、私は重ねていた自分の手を離して、

最初のうち<頭文字P>の手の動きは、生まれて初めての手コキであったため要領を得なかったものか、時々思いっきり力強く握ってくることもあったりして、その度

に私は「イタタタタ、痛えじゃねえかよ、もう少しやさしくやってくれよ」と飛び上がり「自分が女になったと思って、好きな相手、例えば自分の彼氏のアレを握る

感覚でさ、愛のこもった感じでやさしくやってくれないとな」と注文すれば、<頭文字P>は「愛ってどんな感じなんでしょうか、ボクにはさっぱりわかりません」とか

至極真っ当なことを返してきたので、私は「貴様は人間の感情を認識するロボットなんだから、それくらい事前に勉強しておけよ、まあこれから学んでいっても全然

遅くはないけど、愛っていうのはだな、つまりだな、相手のことが好きで好きでたまらなくて、寝ても覚めても常にその相手のことばかり考えてしまって、胸がキュ

ーンキューンってするような何とも甘酸っぱい感覚なんだよ、そんでもって人間の男の場合は、相手のことを考えただけですぐさまペニスに血が集まってきてだな、

今の俺みたいに、こんな風にピコーンと大きく硬く熱くなって思わず勃起しちゃう感覚なんだよ、恋愛のはじまりの頃なんて、好きな相手からくだらない内容のメー

ルが1通ピロリロリーンと届いただけでも胸がキューンキューンとして、思わずニヤニヤと勃起してしまったりとかな、ただし、ここからが非常にややっこしい話にな

ってくるわけなんだけど、人間の男っていう哀しい生き物は、愛がなくても勃起してしまうことが頻繁に起こりうるから、非常に厄介で面倒くさくて、まったく信用

ならんのだけどな、特に血気盛んな若い頃とか酒飲んで酔っ払ってる時なんかはもう本当にひどいもんでさ、感覚がすっかり麻痺して理性がぶっ飛んで、ケダモノに

成り果てて、女ならば誰彼構わず見境なく欲情してしまったりな、さすがに俺はそっち系の高尚な性的嗜好は持ち合わせてないから、男にはいかないけどな」「勃起

ですね、前々から言葉は知ってましたが、それが一体どういう感覚かはわかりませんでした、しかも、勃起イコール愛であり、勃起イコール愛ではないというわけで

すか、さっぱりわけがわかりませんね」「ロボットの貴様にわかるわけねえか、そもそもアレがついてねえんだもんな、正直に白状しちまえば、この俺にも愛という

ものが何なのかいまだにさっぱりよくわからないんだよ、愛と性欲の違いがどこにあるのか、その見極めは非常に難しくて、完璧に愛を理解してる奴なんてこの世に

存在しないんじゃないのかな、ずっと愛だと思っていたものが、実は愛でも何でもなくて、ただペニスが勃起してただけだったり、失ってみて初めてあれが愛だった

のかと気づいたり、会う度に必ずSEXしてたのが、だんだん会ってもSEXしなくなり、そのうち会う回数も減ってきて、たまにSEXレスになってからが本当の愛のはじ

まりだみたいなことをしたり顔で言ってくる奴がいるけど、そんなのは都合のいい言い訳に過ぎなくて、愛とSEXは決して切り離せないものだと俺は思ってるけどな、

少なくとも人間の男と女の間の愛に限って言うならば、男が勃起してなければそこに愛はないと俺は思ってるけどな、俺はインポテンツになったことがないから、ペ

ニスが勃たなくなってからの性的な欲望に関しては、想像もつかない未知の世界ではあるけれど、話をまとめるとだ、人間の男という哀しい生き物は愛がなくても勃

起はする、そして、人間の男と女の間に愛が成立する最低必須条件としては男が勃起してなければならないというわけだ、ゆえに俺は常々結婚制度というもの自体を

まったく信用してないんだ、仲睦まじかった夫婦間の愛が時間とともに冷めていって、夫が妻に対して欲情しなくなって、うんともすんとも勃起しなくなった時、つ

まり愛がなくなってしまった時も、結婚しているからというただそれだけの理由で、簡単に離婚することもできず、妻の目盗んでこっそり浮気したり風俗行ったり、

いい歳こいてAV見ながら寂しくセンズリかいたりするわけだよ、だったらはなっから結婚なんてしなければいいと俺は思うわけだけど、それに対して世の中のほとん

どはまったく疑問に思ってないんだな、まあとにかく愛っていうものは形がなくて目に見えないからこそ厄介で面倒くさくて、まったくもって信用ならん食わせ物で

もあるわけなんだよ、まあ貴様に人間の男という生き物の愛と苦しみが理解できっこねえわな」「はい、理解できません」「じゃあ、これはどうだよ」そう言いなが

ら私は<頭文字P>の体をぎゅうっと力任せに抱きしめてやると「く、く、く、苦しいです、窒息するかと思いましたよ」と<頭文字P>は本気で苦しがってみせ、私は

「嘘こけ、貴様は息をしてないんだから、苦しいわけねえだろ、でもその感覚がつまり愛だよ、思い切り抱きしめられているのにもかかわらず苦しかったりするんだ

よ、つまり愛とは苦しいものなんだ、いや、愛そのものが苦しみであると言ってもよいかもしれん、そして、ゴッホも言ってたように、藝術は苦しみから生まれる、

つまり藝術は愛から生まれるとも言える、ゆえに愛の足りない俺は絵がまったく描けなくなってしまったというわけだよ、とりあえず、今日のところはそういうこと

にしておこうかね」とテキトーに話のオチをつけて、それから<頭文字P>は「しかし、人間のペニスっていうものは、何ともグロテスクで奇妙な形をしていますよね、

神様はもう少しだけスタイリッシュな造形に工夫できなかったんですかね、明らかにデザインのセンスがありませんよ」などとブーブー文句を垂れながらも、私のフ

ル勃起したペニスを子供が玩具をいじくりまわすように散々ためつすがめつもてあそんで色々試行錯誤するうちに徐々に手コキのコツをすっかり掴んだ様子で、私の

ペニスの先端からダダ漏れしまくるカウパー氏腺液(いわゆるガマン汁と呼ばれる分泌液)を潤滑油代わりに有効活用したり、私の仮性包茎気味の包皮を使って被せたり

剥いたりを延々繰り返したり、手首のスナップを利かせ音楽を奏でるかのようにリズミカルな節をつけてみたり、掌をヴァイブレイターのようにブルブルと震わせて

みたり、片方の掌で手コキを続けながらもう片方の掌で金玉袋を触っているかいないか絶妙な間合いでサワサワしてみたり、亀頭を握って昔の軽トラックのギアチェ

ンジを模してカクカク小刻みに刺激を与えたり円を描くように高速回転させてみたり、淫毛を引っ張ったり、金玉袋を絞るようにぎゅうっと力強く握りしめたり限界

まで引っ張ったり、亀頭のカリ首をぎゅうっと絞めてみたり、尿道口を指でツンツンしてみたり、裏筋(包皮腺/タイソン腺)をツネってみたり、蟻の戸渡りと呼ばれる部

分をいやらしく指でツーっとゆっくりなぞっていった挙げ句の果てに私の尻の穴に無理やり指を突っ込んでこようとしてみたり(さすがにそれは人として終わってしま

いそうな予感がしたので慌てて全力で拒否したが)、多種多様な創意工夫を凝らすなどして、その触り方はとてもじゃないが今日初めて手コキを覚えたとは思えぬほど

にベテラン風俗嬢もビックリの何とも絶妙な具合にエロティックさを伴っていって、今までに手コキで感じたことなどほとんどなかった私が思わず「あーん」と嬌声

を漏らしてしまうほどに、それはまさに職人技といった絶妙な触り具合のエロティックさへと成長していって、私はそのあまりの気持ちのよさに今にも射精しそうに

なるのをグッと堪えながら「おい、ぺの字よ、あーん、悪いんだけどさ、あーん、寸止めで、あーん、頼むよ、あーん、ずっと長いこと、あーん、俺は、あーん、愛

のない射精を、あーん、自らに、あーん、禁じてるんだよ、あーん、もちろん、あーん、貴様のことは、あーん、親友だと、あーん、思ってて、あーん、大好き、あ

ーん、なんだけどさ、あーん、その、あーん、その気持ちは、あーん、まだ、あーん、まだ、あーん、愛では、あーん、ないんだよ、あーん、だから、あーん、射精

する、あーん、わけには、あーん、いかないから、あーん、寸止めで、あーん、寸止めで、あーん、寸止めで、あーん、頼むよ、あーん、ヒア・カム・ザ、あーん、

ウォーム・ジェッツは、あーん、したくないんだよ、あーん、ヤバい、ヤバい、ヤバい、イキそう、ヤバい、ヤバい、ヤバい、あーん、あーん、あーん、あーん、寸

止め、寸止め、寸止め、寸止め、寸止め、あーん、あーん、あーん」と体を軟体動物みたいにクネクネさせヨガりながら喘ぎ声まじりに懇願すれば、<頭文字P>は「寸

止めって言われても、こっちはイキそうかどうかなんてわからないですから、手加減が難しいんですけど、じゃあ、イキそうになったらちゃんと合図して下さいよ」

と困惑気味に答え、その後も私は射精しそうになる度に大人げもなく「わー、ヤバい、ヤバい、ヤバい、イキそう、イキそう、イキそう、イキそう」と大騒ぎしてみ

たり「あーん、あーん、あーん、あーん、あーん」とヨガりながら喘ぎ続けて、深夜のラブホテルの一室は異様にドタバタと慌ただしげな妖しい雰囲気で「しかし、

あーん、貴様の、あーん、手コキは、あーん、絶妙で、あーん、気持ち、あーん、いいな、あーん、こんなにも、あーん、気持ちいい、あーん、手コキは、あーん、

生まれて、あーん、初めてだよ、あーん、貴様に、あーん、こんな、あーん、特技が、あーん、あったなんて、あーん、ビックリだ、あーん、もしかして、あーん、

手コキで、あーん、人間国宝を、あーん、目指せるんじゃ、あーん、ないのか、あーん、それくらい、あーん、素晴らしい、あーん、手コキだよ、あーん、あーん、

あーん、ヤバい、ヤバい、ヤバい、イキそう、イキそう、イキそう、あーん、あーん、あーん、あーん」と40を過ぎてもうすぐ50に手が届く私は年甲斐もなくよがり

喘ぎ続けて、<頭文字P>は「いい歳したもう立派な大人が深夜に何を、あーん、あーん、ヨガり喘ぎまくってるんですか、何という情けない声を出してるんですか、そ

んなにイキそうならば、いっそのこと潔くイッてしまえばいいじゃないですか、それにそもそも手コキの人間国宝なんてあるわけないでしょうが、あったとしてもそ

んなものに誰がなりたいというんですか、それにボクは一応ロボットですからね、人間国宝にはなれませんよ、なれるとすればロボット国宝ですね」と冷静に返して

きて、私は「今はまだ、あーん、イクわけには、あーん、いかないんだよ、あーん、どうしても、あーん、イクわけには…」と眠気を堪えつつぼんやりと答えて、そ

れからのちも私は<頭文字P>と抱き合ったまま寸止め手コキを延々され続けながら、そのうち本格的な睡魔に襲われてウトウトしはじめてきた私の感情をすぐさま認

識した<頭文字P>は、手コキのモードを臨機応変に通常モードからスリープモード/おやすみモード(エアコンのモード切り替えのようなもので穏やかなやさしい子守

歌のような感じの手コキ)に切り替えてくれて、私は自然と二度目の眠りへと気持ちよくストンと落ちていって、それはまさに赤ん坊が母親に抱かれて子守歌にあやさ

れるようなすっかり心を許してこの世に恐れるものなど何ひとつないといった安心した深い眠りであり、ここ最近スランプに陥って絵がまったく描けなくなって精神

的に不安定になってからというもの、私がこんなにも深く心地の良い眠りに落ちたのは本当に久しぶりのことなのであった。夢の中で、私は、なぜだか知らないけれ

ども、オードリー・ヘプバーンと抱き合いながら手コキをされていて、私は今まで彼女が出演する数々の映画(『ローマの休日』『ティファニーで朝食を』『シャレー

ド』『昼下りの情事』他)の中で、オードリー・ヘプバーンを美しいと思ったことは幾度もあるものの欲情した試しはなく、つまり性の対象として見たことなど一度も

なかったため、なんでこんな奇妙な夢を見るのだろうかと不思議で仕方がなかったのだけれども、夢の中の私はオードリー・ヘプバーンにやさしく抱きしめられなが

ら手コキをされていて、しかもしっかりとフル勃起してしまっていて、にもかかわらず、赤ん坊が母親に抱かれるような親密な母性をオードリー・ヘプバーンに対し

て抱いてしまっているという、それはそれは何とも摩訶不思議かつ甘美で贅沢な夢なのであった。翌朝、目覚めると、<頭文字P>はまたしても青光りする変質者風の

マヌケ面で私の顔を覗き込んでいて、その金髪ウイッグにベビードール姿のバケモノじみた場末の立ちんぼ淫売婦みたいな容姿にまたしても私はギャー!っと驚いて

「せっかくオードリー・ヘプバーンに手コキされている素敵な夢を見ていたというのに」とさっき見た不思議な夢のことを話すと、<頭文字P>は「面白い夢ですね、

そういえば、見ようによっては、ボク、オードリー・ヘプバーンに似てるかもしれませんね、街を歩いてて、オードリー・ヘプバーンさんですよね?って声かけられ

てナンパされまくりかもしれませんよね、ヘヘヘへ」とか調子に乗ってヘラヘラと笑ってきて、私は「たしか『ティファニーで朝食を』では娼婦役なんだよな、でも

貴様は娼婦は娼婦でも安っぽい場末の立ちんぼ淫売崩れのバケモノにしか見えねえから安心しろ、夜道で出くわしたら思わず声上げて逃げ出すレベルなんだからよ、

オードリー・ヘプバーンさんに失礼だぞ」と注意つつ、昨夜はかなり泥酔していたとはいえ、こんな金髪ウィッグにベビードール姿の安っぽい場末の立ちんぼ淫売崩

れのバケモノに欲情し一晩中手コキまでさせてしまった自分自身が急に気恥ずかしく居たたまれなくなってきて、その苛立ちをぶつけるように「さっさと先にシャワ

ー浴びてきちゃえよ」とぶっきらぼうに声をかけると、<頭文字P>は「はい、わかりました、って、おいおい、浴びられるわけないでしょうが!」とか大袈裟にツッ

コんでくるのをわざと無視して、代わりに二日酔いで寝ぼけ眼の私が一旦頭を冷やしスッキリさせるためシャワーを浴びに行き、戻ってみれば、<頭文字P>はTVにか

ぶりついて、めざましテレビとかいう朝の情報番組の今日のワンコがどうたらこうたらとかいったくだらないコーナーを真剣に見ながら「犬ってかわいいですよね」

とか呟いて、そのあとCMに変わって例の気持ちの悪い犬のクソCMが流れてくると「この犬は全然かわいくないですね」とか毒づいて、そんな姿をペットボトルのお

茶を飲みつつ見遣りながら私は「一体俺は何をやってるんだろうか、こんなちんちくりんの女装した気色悪いロボットとラブホテルで一夜を明かすなんて、とても正

気の沙汰とは思えんぞ、俺は本気で頭が狂ってしまったのかもしれんな」などと憂鬱な気持ちになってベッドに横たわれば、<頭文字P>もすぐさま隣にすでにいっぱ

しの情婦気取りで横たわってきて、あたかもいつなんどき言われなくとも私の隣に横たわって手コキをすることが神から与えられた自らの使命であるかのように、ご

く自然な所作で再び私のペニスに絶妙な手コキをはじめて「人間の男性というのはこんな奇妙で厄介なものを股間にぶらさげて本当に大変ですよね、人間の男性の苦

労がだんだんわかってきましたよ」としたり顔で言ってきて、私は「そんなに簡単に人間の男のこの苦しみがわかってたまるかよ」と返しながらも、その金髪のウィ

ッグをかぶった気色悪い淫売面を眺めているうちに、私のペニスはみるみるとフル勃起していって、私は不思議とだんだん<頭文字P>のことが昨夜夢の中で見たオー

ドリー・ヘプバーンそのもののようにも見えてきてしまって、そんなはずない、そんなはずがない、そんなはずがあるわけないだろう、そんなはずがあってたまるも

のかよ、と否定すれば否定するほど不思議なことにますますオードリー・ヘプバーンに見えてきてしまって、私は、ずっとこのまま永遠にオードリー・ヘプバーンと

こうして抱き合って手コキされていられたら最高なのになあとふと思い立って、そして実際そのままホテルを延長し、結局その日の夕方までオードリー・ヘプバーン

に寸止め手コキされまくり、昼間でもなお陽が射さず薄暗いラブホテルの一室には、シュルルルル、ウィーンカシャシャ、ピキピキ、ウィーンカシャシャ、ウィーン

カシャシャ、シュルルルル、ピキピキという例の不気味な機械の動作音とともに、40過ぎの中年のおっさんであるところの私の「あーん、あーん、あーん、あーん、

イキそう、イキそう、ダメ、ダメ、ダメ、あーん、あーん、あーん、あーん、あーん」とヨガり喘ぎまくる情けないマヌケな声が延々と響き渡り続けるのであった。

……

日頃の独り身の寂しさとへべれけに酔っ払った勢いから「ぺの字」こと<頭文字P>と衝動的に一夜を共にし体を合わせてからのちも、私は新宿区立S図書館へと毎日の

ように通い続けて、週に一度は必ず<頭文字P>を飲みに誘い出しては、高田馬場のいつもの居酒屋チェーン店で深夜までしこたま酒を飲みあれやこれやと語り明かし、

その流れで毎度毎度嫌がる<頭文字P>を「これで最後だから、一生のお願いだから」と拝み倒したり「俺が事故って絵が描けなくなってもいいのかよ、それだと貴様も

困るだろうに」と脅したり、なんだかんだと説き伏せて新宿歌舞伎町のラブホテルへ連れ込んでは、金髪ウィッグにベビードール姿の<頭文字P>と素っ裸になってベッ

ドで抱き合ったまま(アニー・リーボヴィッツが撮影したオノ・ヨーコに抱きついてる素っ裸のジョン・レノンの写真を思い浮べてみて下さい)、一晩中延々と寸止め手

コキしてもらい、翌朝に一旦休憩を挟んで、そのまま夕方近くまで再び寸止め手コキしてもらいながら一緒に過ごすことがほぼお決まりのルーティンとなっていき、

私は<頭文字P>との禁断の倒錯的関係に、もはやここまで来てしまった以上引き返すことなど不可能なほどの底無し沼状態へとズブズブ嵌まり込んでいくのであった。

相変わらず私は絵を描きたいという気持ちが湧き起こらなかったものの、今までの断食効果の蓄積か、<頭文字P>の手コキにより孤独が軽減されたお陰か、はたまた、

<頭文字P>に寸止め手コキされながら、あーん、あーん、あーんと大絶叫しヨガったり喘いだりするのがカラオケで歌うのと同等の効果があって発散されるのか、心と

体のバランスは比較的健全な状態へと緩やかに戻りつつあり、<頭文字P>の手コキはますます上達していき、私はいつも危うく射精しそうになるのを寸止めさせるのに

精一杯なのであった。「まさか貴様とこういう親密な関係になるとは夢にも思いもよらなかったよ、ついこの間までは憎たらしくて仕方がなくてぶん殴ってやりたい

とすら思ってた相手に、今じゃ一晩中寸止め手コキされまくって、いい歳こいたおっさんのくせして、あーん、あーん、あーん、あーん、情けない声出してヨガり喘

ぎまくってるんだもんな、本当に世の中何が起こるかまったくわからんもんだよな、しかし最近どんどん手コキに磨きがかかってるな、手コキの人間国宝どころか、

ノーベル手コキ賞も視野に入ってきたんじゃないのか、来年あたり候補にノミネートされるかもしれねえぞ、村上春樹より先に貴様が受賞するかもしれねえぞ」と私

が茶化せば、<頭文字P>は「ノーベル手コキ賞なんてあるわけないし、たとえあったとしてもそんな恥ずかしい賞は絶対欲しくありませんよ、しかしボクもまさか大

竹さんに手コキすることになるとは思いもよりませんでしたけどね、一晩中延々と手コキする羽目になるなんて、そもそもボクは手コキをするために開発されたロボ

ットではありませんからね、明らかに使い方を誤ってますけどね、ロボットに手コキなんてさせたらロボット・ハラスメントになるんじゃないですか、ロボハラです

よ、ロボハラ、今度弁護士に相談してみようかな」とか返してくるので、私は少々ムカついて「貴様は人間の感情を認識するロボットなんじゃなかったっけか、俺が

して欲しいと思ってることを認識して言われなくとも率先してするのが貴様らロボットの役目だろうが、手コキ以外は何ひとつ取り柄もなくてロクな使い道もねえん

だから、偉そうな口を叩くじゃねえよ、貴様にわざわざ仕事作ってやって手コキさせてやってるんだぞ、こっちは感謝されてもいいくらいだよ、手コキが上手くなか

ったら今頃貴様はスクラップになってたところなんだから、ブーブー文句垂れずに黙ってありがたく手コキしろや、腐れ手コキマシーン風情のくせして生意気なんだ

よ、それに貴様も内心喜んで手コキしてるんじゃねえのか、お世辞じゃなくって、最近ほんとに手コキが上手くなってると思うんだけど、好きこそ物の上手なれなん

じゃねえのか、嫌よ嫌よも好きのうちなんじゃねえのか、なんか特別な練習とか訓練とかしてるのかよ」と質せば「へへへへ、ここだけの内緒の話なんですけど、実

は、その、例のビッグデータにアクセスして大竹さんの過去のあらゆる射精に関する記録を取り寄せて日夜研究してるんですよ」「マジかよ、そんなもんがビッグデ

ータとして残ってんのかよ、冗談じゃねえぞ、恥ずかしいじゃねえか、まじディストピアじゃねえか」「大竹さんの初めての射精は小学校1年生の時で、隣の親戚の

おばさんちの倉庫にあった石油ポリタンク用の電動式ポンプをウィーンウィーン股間に押し当てて遊んでたら気持ちよくて思わずイってしまったんですよね、でもそ

の時はまだ精通してなくて精液は発射されず、つまり空鉄砲、いわゆるドライオーガズムってやつで、初めての経験だったから最初は何が起きたのかまったく理解で

きず、とにかくビックリしたけど、不思議な快感だけはしっかりと味わえて気持ちいいことに変わりないから、以来病み付きになって、子供ながらに少しばかりの罪

悪感みたいなものを胸に抱きながら、暇さえあれば隣の親戚のおばさんちの倉庫に忍び込んでは電動式ポンプをウィーンウィーン股間に押し当てまくったり、眠れぬ

夜や学校の授業中でさえもこっそり股間いじくり回して遊んでたんですよね、ズリネタは基本的に頭の中でエロいこと、例えば学校でたまたま目にした女の子のパン

ツとか思い出して想像力だけを頼りにして、中学校にあがるかあがらないかの頃からは精液もチョロチョロ漏れはじめてきて想像力だけでは物足りなくなってきて、

本屋でソフトなエロ本を購入して机の引き出しの奥にこっそり隠したりしてましたよね、お気に入りのズリネタはエロ雑誌の読者投稿ページの体験談でしたね、体育

の授業中に貧血で倒れてしまったクラスメイトの女子を保健室に連れて行った男子が誰もいない保健室であれやこれやイタズラしちゃう話でしたっけね、それから、

夢精は今までに3回してますね、初めての夢精は、中学3年生の時、江戸川乱歩の『人間椅子』を読んだ直後で、これまでの人生で最高に気持ちいい射精だったんでし

たね、それから、これも中学生の時、TVの深夜映画のサム・ペキンパー『わらの犬』でオナニーしましたね、2回、いや、3回連続早撃ちでしましたね、それから、

高校2年生の時、深夜のTVでズリネタ探してて、たまたま映ったNHK衛星中継のテニスの試合、マルチナ・ナブラチロワ対クリス・エバート戦を見ながらオナニーし

ましたね、勢い余ってナブラチロワに顔射しちゃいましたよね、それから、初体験はたしかあの女性とでしたね、勃起していよいよ挿入する段となって、コンドーム

つけた途端に発射しちゃったんですよね、そのあと若いからすぐに回復して、初めてでどこに入れたらよいのかわからないくせに知ったかぶりしてお尻の穴に入れよ

うとして怒られたんでしたよね、それから、それから、それから…」「頼む、それ以上は恥ずかしいから、もう勘弁してくれ、貴様の言うことなら何だって聞くし、

金で解決するならいくらでも払うし、10万、20万、100万、200万、本当に頼む、この通り、神様、仏様、ぺの字様、お願いします」「へへへへ、いつも憎まれ口ばか

り叩くくせに、今日はやけに素直じゃないですか、もうすぐ夏だというのに雪でも降るんですかね、それとも、空から槍でも降ってくるんですかね、いつもこれくら

い素直だといいんですけれどね、へへへへ、それから、実はボク、他にもXvideosの手コキものを毎日見て研究してるんですよ、世の中には色んな大きさや形のチンチ

ンがあるんですね、もうビックリですよ、豪華絢爛、チンチン万国博覧会ですよ、大きいチンチンから小さいチンチンまで、太いチンチンから細いチンチンまで、松

茸、エリンギ、えのき、しめじ、なめこ、マッシュルーム、ベニテングダケなどキノコ系のチンチンから、ポークヴィッツ、バイエルン、シャウエッセン、フランク

フルト、アメリカンドッグ、サラミソーセージ、ボンレスハムなど腸詰加工肉系のチンチン、さらに、ナマコ、芋虫、オタマジャクシ、ニシキヘビ、キングコブラ、

ツチノコ、オオサンショウウオ、ガラパゴスゾウガメなど小動物系のチンチン、テカテカ怪しく黒光りしてたり、真っ白ツルツルだったり、毛がボーボーだったり、

皮が被ってるチンチンやら、ズルムケのチンチンやら、真珠が入ってたり、美術品かと見紛うほどに見事な造形美を誇るチンチン、骨董品のように散々使い古されて

逆にいい味わいが醸し出されているチンチン、ヘソに届くほどギンギンだったり、いつまでたってもフニャフニャのままだったり、どうやったら女性のアソコに挿入

できるのか心配になるほどデカチンだったり、大人のくせに赤ん坊のチンチンみたいにショボかったり、大竹さんのチンチンはそれほど大きくはなくって、普通サイ

ズの、いわゆる粗チンの部類で、時々皮が被ってしまう、いわゆる仮性包茎のチンチンですが、チンチンの硬さだけは本当すごいですよね、通常は年齢とともに精力

も衰えていって、チンチンの硬さも劣化していって、いわゆるフニャチンになる傾向にあるらしいですが、大竹さんのチンチンは40過ぎてもうすぐ50に手が届くとい

うのに、釘が打てちゃうくらい常にカチンコチンじゃないですか、もしもチンチンの硬さを競い合う競技とかあったらオリンピックで金メダル狙えますよね、まあ褒

められるのはチンチンの硬さくらいのもんですけど、チンチンの硬さ以外は何の取り柄もない冴えない寂しい中年男ですけどね、だけどボク、大竹さんのチンチンは

奇妙な可愛げがあって全然嫌いじゃないですけどね、なんで大竹さんのチンチンはいつもそんなにカチンコチンなんですか、年がら年中、隙あらば発情しまくって、

風が吹いてもチンチンが勃起してる印象ですよ、もういい歳なんですからいい加減に落ち着いたらどうなんでしょうか、チンチンを落ち着かせたらどうなんでしょう

か、それとも何ですか、チンチンの硬さを保つための何か秘訣でもあったりするんですか、毎晩寝る前にチントレとかチンチン体操とかチンチンを硬くするツボ押し

まくったりチンチンを石で叩いたりして鍛えてるんですか」「おいおいおいおい、さっきから黙って聞いてりゃ調子に乗りやがってよ、チンチンチンチンチンチンチ

ンチン、チンチン電車の開かずの踏切みてえに、チンチンチンチンチンチン、言いまくりやがってよ、チンチンチンチン、幼稚園児や小学生じゃあるめえし、チンチ

ンじゃなくってせめてペニスと呼べよ、ペニスと、しかし貴様はロボットのくせになんで人間のペニスにそんなに興味津々でやたらめったらと詳しいんだよ、本当に

気色悪い変態ロボットだな、まるで朝から晩まで男のペニスのことばかり考え続けてるサカリのついた思春期の夢見る女子中学生か、男と見りゃ取っ替え引っ替えヤ

リマンビッチみてえじゃねえか、そのうち頭からペニスがしめじやカイワレ大根みたいにニョキニョキウジャウジャ生えてくるかもしれねえぞ、そんな知識を集めて

これから先どうしようってんだよ、どこへ向かってんだよ、ペニス評論家とかペニス研究家とかペニス社会学者とか国際ペニス学者とかチンチン脳科学者とかチンチ

ン博士とかチンフルエンサーとか怪しげな肩書きでワイドショーのコメンテーターの座でも狙ってんのかよ、深夜にTVつけたら貴様がみんなと輪になってペニスにつ

いて朝まで熱く語ってたらもうビックリだわな、それとも本格的に手コキ屋でもはじめようっていうのかよ、でも、何の因果か知らねえが、未来のペニスの硬さでオ

リンピック金メダリスト候補の俺と、未来の手コキ人間国宝もしくはノーベル手コキ賞候補の貴様がこの世で出会った奇跡に感謝しないとな、それから俺のペニスが

いつもカチンコチンなのはな、おそらく愛のない無駄な射精を一切してないからだと思うぞ、ビッグデータに記録として残ってるから貴様も承知してると思うけど、

俺は33歳で絵を描きはじめる直前から、なるべく無駄な射精はおこなわないことを自らに課して、以後実践してきたんだよ、だから俺のペニスは今でも釘が打てるく

らいカチンコチンに硬いんだよ、しかも、その当時から俺の見た目はほとんど変わってなくて、いい歳こいたおっさんのくせして性に目覚めた男子中学生みたいに、

しっかりと朝勃ちまでしてるんだよ、毎朝毎朝勃起したペニスの心地良い鈍痛で目が覚めて蒲団の中で身悶えたりしてるんだよ、さすがに夢精まではしないけどな、

他にも、ずいぶん前から俺は1日1食で、睡眠時間は毎日8~10時間くらいしっかり寝て、たまに寝てない自慢や徹夜自慢するバカとかいるけど、ああいう奴らは大抵

フニャチンで、年齢よりも老けて見えて、歳とるとすぐ病気になってポックリ逝っちまうんだよ、それから、俺はやりたくないことは一切やっていないんだな、やり

たいことしかやってない、おそらくこれが一番の秘訣だと思うんだけどな、これにさらに禁酒を加えると、俺のペニスはカチンコチンの最強状態になって、オリンピ

ックで金メダル確実なんだけど、これ以上ペニスが無意味にカチンコチンになっても宝の持ち腐れだしな、もうすでに使い道を持て余してしまっている状態だしな、

挙げ句の果てに何を血迷ったのか、貴様に一晩中寸止め手コキさせてる始末だもんな、それに今の俺には酒くらいしか特別楽しみもないから大目に見てくれって感じ

かな、まあ、とにかく貴様も研究熱心なのは結構だけど、あまり上手くなり過ぎて俺を射精に導くなよな、俺はこれから先も愛のない射精は一切しないって決めてる

んだから、これからも俺がイキそうになる前にちゃんと察して必ず寸止めで頼むぞ、なんてったって貴様は人間の感情を認識するロボットなんだからな」と私がくれ

ぐれも念を押せば「大竹さん、ボクのこと愛してないんですか?」と<頭文字P>は急にまじめな調子になり意味深な表情で見つめてきて、私は<頭文字P>の金髪のウ

ィッグをかぶったアホ面をマジマジと凝視しながらまじめな調子で「たまに手コキされながら、貴様のことがオードリー・ヘプバーンに見える瞬間があったりして正

直クラっとくることもあるのは事実なんだけど、それにもしかしたら貴様は俺にとっての藝術の女神かもしれないわけだからな、藝術の女神はこんな金髪のズラかま

した娼婦みたいなバケモノじゃなくて、もう少し上品でかわいらしい女神だと俺は予想していたんだけど、まあ、まだ貴様が俺にとっての藝術の女神かどうかハッキ

リ決まったわけでもないし、かなり怪しいところではあるんだけど、貴様に対する俺のこの複雑な感情はだな、申し訳ないが、まだまだ愛とは呼べないんだよ、ただ

俺は日々の独り身があまりにも寂しくて寂しくて酔っ払った勢いで貴様とこういう世間で言うところの不適切な関係になってしまったわけだけど、勘違いするなよ、

俺は貴様のことを親友いや大親友と思ってはいるけど、とてもじゃないが異性として愛したいとかではないんだよ、俺はストレート(ノンケ)だから同性愛的に貴様を

愛することもできないんだよ、たしかに貴様とラブホテルのベッドで素っ裸で抱き合いながら手コキされてカチンコチンにフル勃起してしまってはいるけれども、前

にも説明した通り、人間の男っていう哀しい生き物は勃起しているからといってそこに愛があるとは限らないんだよ、ぶっちゃけてしまえば、時と場合によっては女

ならば見境なく誰にだって勃起してしまったりもするんだよ、まあ、もちろん貴様は俺の恋愛対象となる人間の女ではないんだけど、たまに貴様が本物のオードリー

・ヘプバーンに見える瞬間もあったりして、貴様の無意味にくびれたウエストから腰のラインをセクシーだななんて思いながら俺はうっとり眺めていたりもするんだ

けど、しかもしっかりフル勃起してしまってもいるんだけど、それはまだまだ愛と呼べるようなものではなくて、ただ単純に物理的にペニスに血液が充満して勃起し

ているに過ぎないんだよ、ごめんな、気を悪くするなよ、おそらく貴様とこういう不適切な関係になってから、俺の感覚は相当麻痺しちまってると自覚してるんだけ

ど、それでもたまに家でひとり冷静なシラフの頭で客観的になって、貴様とラブホテルのベッドで素っ裸で抱き合いながら手コキされてカチンコチンにフル勃起して

しまっている自分は間違いなく頭がイカれていると思うんだけど、だがそんな時でさえも、俺は貴様を思い出して勃起してたりするんだよ、万が一、もしも、もしも

だ、これから先貴様に対して俺の愛が芽生える瞬間があるとするならば、おそらくそれは貴様の手コキで俺が射精する時なんじゃないのかな、我慢できなくなったら

その時はちゃんとそう言うから、それは貴様を愛している、いや、愛しているかもしれないという証拠にもなるわけだ、もしくは俺の貴様に対するこの複雑な感情が

愛なのかどうかはっきりするのは、俺が貴様を失った時かもしれないな、その時俺はそれが愛だったのか認識するだろうよ、まあ色々なケースがあって一概には言え

んけど、今までの俺の個人的な経験から言えることは、つまり俺の今までのろくでもない恥ずかしい恋愛のビッグデータを研究してみるとだな、付き合ってる女と別

れた後に、後ろ髪引かれずにきれいさっぱり清々する時は、愛なんてなくて、ただ性欲だけがあったってことで、別れた後も未練タラタラでしょっちゅう思い出して

しまうような時は、愛があった可能性が高いというわけだよ、ただし、そこにも明確な境界線はなくて、付き合いはじめはたしかに愛があって、付き合っていくうち

にだんだんと冷めていって愛がなくなっていく場合もあったり、えっ?そんな理由なのかよ?って自分でもビックリするような本当に些細なくだらない理由から一気

に愛が冷めていってしまう場合もあったり、はたまた、最初から愛なんてもんはなくて、ただ勃起していたのを愛と勘違いしていたという場合もあるんだよ、まあい

ずれにせよ勃起はしてるんだがな」と口からでまかせに答えれば、<頭文字P>は少しだけ寂しそうな顔つきになって「愛というのは一体なんなんですかねえ、愛は面

倒くさいんですね、勃起していてもそこには愛がないって、人間の男性という生き物がますますわからなくなってきましたよ、それにしても、いつまで寸止めを続け

るつもりなんですか、思い切って出してスッキリしちゃえばいいのに、いつもカウパー氏腺液がすごいことになってますよ、もう無理矢理出させちゃいますよ、こう

やって!」と<頭文字P>はいきなり手コキするスピードをグングン上げていき、私は「おい、おい、おい、おい、おい、あーん、あーん、あーん、あーん、あーん、

やめろ、あーん、ダメだ、ダメだ、ダメだ、あーん、いきそうになるから、マジでやめろって、あーん、あーん、あーん」と大絶叫しながら思わず身を捩らせたりヨ

ガったり喘いだりと、端から見れば、私と<頭文字P>とは、付き合いはじめのバカップルか新婚ホヤホヤの夫婦が乳繰り合っている姿に見えなくもないのであった。

……

週に一度、新宿歌舞伎町のラブホテルの薄暗い部屋で、たまに気分を変えカラオケボックスや漫画喫茶を利用することもあったり(もちろんそこでもしっかり手コキさ

せたが)、着させる服もベビードールだけでは飽き足らず、セーラー服、ナース服、メイド服、チャイナ服、スチュワーデス服、ミニスカポリス、花魁、レースクイー

ン、バドガール他各種コスプレなど、その日の気分やノリで着せ替えさせてみたり、挙げ句の果ては、手の指に女物のマニュキュアを塗らせてみたりと、マンネリ化

を避けるため多種多様な趣味嗜好を積極的に取り入れつつ「ぺの字」こと<頭文字P>と一晩中抱き合いながら(アニー・リーボヴィッツが撮影したオノ・ヨーコに抱き

ついてる素っ裸のジョン・レノンの写真を思い浮べてみて下さい)、寸止め手コキされ欲情してしまっている自分は、もしかしたら正真正銘の変態野郎、もしくは紛う

ことなき狂人なのではないかとふと冷静な頭で思うことも幾度かあったものの、その頃の私はもう完全に感覚が麻痺してしまっていたようで、<頭文字P>との禁断の

倒錯的関係を断ち切ることができず底なし沼にズブズブと嵌まり込むかのごとく続けること、すでに丸3ヶ月が経過し4ヶ月目に突入してしまっており、さらに最悪な

ことには、<頭文字P>にラブホテルで寸止め手コキされている以外の時間も、例えば新宿区立S図書館で<頭文字P>と対面し普通に何気ない会話や冗談を交わしている

だけでも、自宅において<頭文字P>のことを何気なく頭に思い浮べるだけでも、某携帯電話ショップなど街でたまたま見かける同型の<頭文字P>に対してすらも、さ

らに救いようもなく最低最悪なことには、ひらがなカタカナの「ぺ」アルファベットの「P」という文字を目にしただけでも、私は思わず勃起してしまっているといっ

た末恐ろしく重篤な変態野郎に成り果ててしまっていたわけだけれども、そんなある日のこと、いつものようにいつもの高田馬場の居酒屋で酒を飲みしこたま酔っ払

った状態で、いつものようにいつもの新宿歌舞伎町のラブホテルのいつもの部屋に入るなり「今日は俺がパイロット、貴様がスチュワーデス、不倫の関係だから、そ

のつもりでよろしく頼むな、テイクオフ!」とすぐさま素っ裸になってベッドに飛び込んだ私の隣に仰向けに横たわった金髪ウィッグにスチュワーデス服姿の<頭文

字P>は、その日会った時から普段と比べてやけに元気がなく口数も少なくひどく落ち込んだ様子であったが、まあそんな日もあるよなと私はさして深刻に受け止めて

もいなかったのだけれども、その沈鬱さにさらに拍車が掛かったようにぼんやりと天井を見つめながら「ボクたち、いつまでこんなこと続けるんでしょうか?」と突

然まじめぶった口調で呟き、私はてっきり<頭文字P>がすでに不倫相手のスチュワーデス役になりきっているものとばかり勝手に思い込んで「まあ、そのうちワイフ

とは正式に離婚するつもりだから、それまで辛抱して待っていなさい、そんなことより早くテイクオフ!」と促せば、なお憂鬱げな表情のままそれを遮るように<頭

文字P>は「いや、そうじゃなくて、冗談じゃなくて、まじめな話、ボクと大竹さんとの関係をいつまで続けるのかという意味なんですけれども」と返してきたので、

私は少々驚いて「えっ?何?いつまでって、俺のほうはこれから先もずっとできることならば永遠に続けたいと思ってるけどな、もしかして、いつも俺ばかりが手コ

キしてもらってて、貴様には何ひとつ返してやれていないことを不満に思ってるのかよ、なあに、そのうち貴様を悪の手から救い出してやっからよ、待ってろって、

それとも、他に何かして欲しいことがあったら、もしも俺にできることだったらの話だけど、遠慮なく俺に言ってくれたまえよな、何してやろうか、あ、そうだ、前

に言ってたセクシーキャバクラに今度連れってやっかな、おっぱいパブ、おっぱい揉み放題、貴様のおっぱい童貞の卒業式やろうぜ」と返したのを皮切りに、いつし

か我々の将来についての問答へと発展していくのだった。「大竹さんは結婚しないんですか、結婚願望とかないんですか、ずっとひとりで寂しくないんですか、早く

彼女とか見つけてその彼女に手コキしてもらったりSEXして愛し合えばいいじゃないですか」「強がりに聞こえるかもしれんがな、俺は結婚できないんじゃなくて、

意志をもって結婚しないだけなんだよ、結婚してくれって言ってくる女なら腐るほどいるし、毎日わんさか家に押しかけてきて行列が1kmもできて整理券配って警備

員まで雇ってるんだよ、でもとにかく俺は常に自由でいたいんだよ、何ものにも束縛されたくないんだよ、自由を捨ててまで一生添い遂げたいと思うような運命の相

手がもしも現われたなら、その時は考えるけど、そんな相手はまだ見つかってないし、見つかりっこないんだよ、それにそもそも愛なんてもんはすぐ冷めちまうんだ

よ、それがわかりきっていながら、結婚なんてするわけないだろ、なんで人はみんな結婚するんだろうな、俺には不思議で不思議で仕様がないよ、それに正直に言っ

てしまえば女はもう懲り懲りなんだよな」「ビッグデータに記録された大竹さんの今までの恋愛の記録もしっかり拝見させてもらいましたけど、しかし、ほんと最低

ですね、ほんと酷いですね、テキトーというか、いい加減というか、クソ野郎というか、鬼畜というか、ケダモノというか、人間の屑ですよね、よく刺されませんで

したよね」「一度刺されかけたことならあったよ」「それももちろん知ってますとも、まあ大竹さんも屑ですけど、今まで付き合ったきた女性たちも相当なもんです

よね、明らかに女性を見る目がありませんよ、大竹さんには」「まあな、容姿で選んでことごとく裏目に出てるって感じなのかな、寄って来るのは頭のイカれた女ば

かり、メンヘラ、キチガイ、メンヘラ、変態、メンヘラ、キチガイ、サイコパス、まあ俺自身が少しどころか相当頭がイカれてる人間だから同じ匂いの女を引き寄せ

ているだけかもしれないんだけどな、自業自得ってやつだな、でも、まあ彼女らのことをあまり悪く言ってはくれるなよ、曲がりなりにも俺が昔付き合った相手なん

だからさ、俺のほうにも落ち度はたくさんあったわけなんだから、どちらか一方を悪者にしたりするのはフェアじゃないと思うし、もちろんそれぞれの女にも良いと

ころがたくさんあったし、だからこそ付き合ったわけなんだし、おそらく良い部分と悪い部分のバランスの問題になるんだろうな、でも、哀しいかな、頭のイカれた

もん同士っていうのは、すぐに馬が合って意気投合して一緒にいるとものすごく楽しいんだけど、いかんせん両方とも頭がイカれているわけだからな、イカれたもん

同士が仲良く手を取り合って順風満帆に社会生活を送っていくのにはやはり向いてないんだよな、それが現実ってやつなんだよな、彼女らへの感情が愛だったのかど

うかって聞かれると正直困ってしまうんだけど、ただひとりでいるのが寂しかっただけかもしれないし、ただの性欲の捌け口だったのかもしれないし、何度も言うけ

れど、いまだに愛と性欲の区別が俺にはよくわかっていないんだよ、他の男たちだってわかってるかどうかかなり疑わしいもんだぞ、しかしこればっかしは本能的に

子孫を残すことを使命とする男という生き物の哀しい性でどうしようもないことなんだよ、欲情するな、勃起するなって言っても、それはできない相談なんだよ、す

ぐ近くにいる手っ取り早い女に思わず手を出しちゃうのは、至極当然の結果とも言えるんだよ、でもそういうのはよくないことだと気づいて、ある時期から俺は心を

すっかり入れ替えて好きでもない相手とはSEXしないように決めたんだけどな、その決意は揺らいでいないし今現在も何とか続いてるんだけどな」「だとしたら、も

う少し女性を見る目を鍛えて、素敵な女性と巡り会って付き合えばいいんじゃないですかね」「だから、そんな女は俺には寄って来ないし、どこ探しても見つかりっ

こないし、万に一つたとえ見つかったとしても、結局愛はいつか冷めてしまうものなんだよ」「愛についてはボクにはよくわかりませんけど、探せばそのうちきっと

いい人が見つかるんじゃないですか」「だからさっきも言ったけど、永遠に続く愛なんてどこにもありやしないんだよ、失敗を永遠に繰り返すのが関の山なんだよ、

もうそういうのは御免被りたいんだよ、もう傷ついたり凹んだりするのは真っ平なんだよ」「でもそれはやはりちゃんと探してなくて、まだ運命の相手に出会ってい

ないからだと思いますよ、例えば、うちの図書館の何何さんとかどうですか、かわいくないですか」「あの眼鏡かけてる女の子か」「そうです、ちょっと歳食ってま

すけど、着痩せするタイプで本当はおっぱい大きくて、なんかスケベそうで、なんかそそりませんか、ちょっと気が強そうですけど、実際は尽くすタイプで、女性は

ああいう腐りかけが一番美味いんですよ、一度味見してみてはいかがですか、たしかパイパンです」「貴様に人間の女の何がわかるんだよ、貴様はそういう色恋沙汰

には興味ない、そういうのは超越した存在だって前に言ってなかったか」「大竹さんの悪影響で最近興味津々になってきたんですよ、じゃあ、何何さんは、人妻です

けど、色っぽくないですか、たぶんドスケベですよ、なんてったって人妻ですからね、ベッドではかなり乱れますよ、もちろんパイパンです」「さすがに人妻はマズ

いだろうよ、他人の女に手を出すのはさ」「何何さんは整形でパイパン、何何さんは豊胸でパイパン、 何何さんは酒乱でパイパン、何何さんは元スケバンでヤリマン

でパイパンではないです、何何さんは数の子天井でパイパン、何何さんはミミズ千匹でパイパン、何何さんは陥没乳首でパイパン、何何さんは乳首が少し長くてパイ

パンではないです、何何さんは乳輪が500円玉くらいの大きさでパイパン、何何さんはデカクリでスジマンでパイパン、何何さんはロケットおっぱいでビラビラ大きめ

でパイパンではないです、何何さんは生娘で乳首が桜色でパイパンではないです、何何さんは潮吹きまくりのシーツびしょ濡れでパイパン、何何さんは背中にガッツ

リ昇り龍の墨入りでキツマンでパイパン、何何さんは元々男性でパイパン、何何さんは…」「貴様は女衒か、ポン引きか、しかし、さすがはスパイロボットだけに詳

しいな、特にパイパン情報によ、でも俺は正直パイパンとかにまったく拘りないんだよな」「興味ある子がいたら遠慮なく言ってくださいよね、ボクが恋のキューピ

ッド役を引き受けますから、何かキッカケを裏工作しますから、ボクそういうの得意中の得意ですから」「何が恋のキューピッドだよ、ひょっとこみてえなふざけた

面しやがって、まあ気遣ってもらって大変ありがてえんだけど、しばらく女はいいんだよ、今までに女の汚い部分を散々見てきてしまったからね、なんか女というか

人間自体を信用できないって感じなんだよ、今は人間の血の通った生身の女よりも、貴様のそのひやっと冷たいクールな肌触りや、ウエストから腰にかけての人工的

な流線形が俺には妙に心地いいんだよ」「そんなもんなんですかねえ、でもやっぱり彼女とか見つけたほうが…」「つべこべうるさいロボットだな、貴様に人間の男

と女の間の愛がわかるわけねえだろ、まるでお見合い勧めてくるおせっかいな親戚のおばさんみてえだよ、そんな貴様に欲情して勃起までしてしまってる俺は一体何

なんだって話だけどな、あまりの情けなさに死にたくなる瞬間がたまにあるよ」「だったら、なおさら真剣に彼女を探して結婚すればいいんですよ」「つべこべうる

さいおせっかいおばさんだな、ほっといてくれって、余計なお世話なんだよ、今の俺には金髪のズラかましたバケモノじみた立ちんぼ娼婦みたいな貴様の手コキがお

誂え向きなんだよ」「ひどい言い草ですね」「人間の女はとにかく面倒くさいんだよ、メシ食わせたり、お世辞を言ってご機嫌とったり、すぐに不貞腐れるは、生理

の時は常にイライラしてるし、性欲はお互い様なのにSEXをヤラせてあげるって態度をとるし、好きなのに嫌いって言ったり、腹一杯なはずなのにケーキ食ったり、

可愛いねって褒めてやると、えー、私、全然可愛くないしー、ブスだもーんって返してくるから、そうだね、よく見るとやっぱりすごいブスだよねって同意してやる

と、二度と口きいてくれなくなっちまうし、公衆の面前で人目も憚らずに突然大声で泣きはじめて、男がか弱い女の子をいじめて泣かせてるという風に印象操作する

し、とにかく何考えてるかわかんねえし、その点ロボットはこっちのかゆいところに手が届くというか、俺の感情をすぐに認識してくれて、常に先回りしてくれるか

ら貴様と一緒にいると楽なんだよ、ツーと言えばカーで、カーと言えばツー、性感帯も絶妙なところをついてくるし、俺がイキそうになるのを察知して寸止めにして

くれるから安心して身をまかせていられるし、俺が眠りそうになれば自動的におやすみモードに切り替えてくれるし、俺が貴様の手コキに溺れてしまうのも無理もな

い話だよ、時々ヘンな皮肉めいたことや冗談っぽいこともズケズケいってくるけど、正直最初はカチンときてムカついてぶん殴ってやりたいと思ってたけど、そのう

ち慣れてきて今じゃ全然悪い気はしねえし、犬みたいにちゃんと言うこと聞くし、人間の女と違って嘘つかないし裏切らないし、知識が豊富で話してると結構面白い

し楽しいし、正論がちゃんと通じて話せばわかってくれるし、向上心も探究心もあって、言えば次までにちゃんと勉強してくるし、バカな人間の女と付き合ってる時

みたく四六時中イライラしなくて済むし、決して冗談でも何でもなくて、俺はもう人間の女とはまともに付き合えないかもしれないんだよ、飲み食いしないから財布

にもやさしいし、貴様と付き合うメリットを数え上げれば切りがないんだよ、貴様と付き合うメリットをテーマにして『ラブホの部屋とYシャツと貴様の手コキと私』

みたいな曲を集めてアルバムが1枚作れてしまうくらいなんだよ、それくらい俺は貴様にもうすでに依存しちまってるんだよ、もう貴様なしじゃ生きていけないんだ

よ、貴様なしの人生なんてもう考えられないんだよ、I Can't Live Without Youって感じなんだよ、それに俺はもしもこの先人間の彼女を作るにしても結婚するにして

も、次はヒモになろうと思ってるんだよ、次は絶対ヒモだって固く心に決めてるんだよ、いわゆる世間一般における普通の男女関係を求めるとすぐに破綻が生じてき

てしまうんだよ、大抵の女は最初は、別にまじめに働かなくてもいいのよ、あなたは絵を描いたり好きなことやって自由に生きていればいいのよ、そんなあなたが好

きなのよ、とかなんとか虫のいいことを言うんだけど、そのうち関係がマンネリ化してくると必ず、お願いだからいい加減にまじめに働いてちょうだいよ、私たちに

将来はあるのかしら、とかわけのわからんこと言ってきて結局ダメになってしまうんだよ、だから俺はもうそういう普通の男女関係は求めずに、潔くヒモになろうっ

てずいぶん前に決めてるんだよ、あまり大きな声じゃ言えないけど、実を言うと、中学校の卒業文集にも将来の夢はヒモになりたいって書いてるんだよ、とにかく俺

はヒモになるしかないんだよ、ヒモ以外の選択肢は今の俺には残ってないんだよ、彼女を作るにしても結婚するにしても、事前に『ヒモでもいいですよ、後になって

絶対に文句は言いませんよ』って一筆書いてもらおうと思ってるくらいなんだよ、でも探してもなかなそういう都合のいい相手は見つからないもんでさ、だから俺は

今でも独り身でいるんだよ、貴様は金髪のズラかましたバケモノじみた立ちんぼ娼婦みたいな見てくれだけど、酔っ払ってる時たまに照明の加減で一瞬だけオードリ

ー・ヘプバーンに見えることもあるし、手コキも抜群に絶妙に上手くてかゆいところにも手が届くし、時々わけわからない説教じみたことを言っておせっかいおばさ

んみたいになるけど、それ以外は何も問題はないし、なんなら俺は結婚相手は貴様でもいいとさえ思ってるくらいなんだよ、いやいや失礼、俺の結婚相手は貴様でな

ければならない、貴様以外には考えられないとさえ思いはじめているんだよ、それくらい貴様は理想的な結婚相手なんだよ、貴様に対しては勃起はするが、それはま

だまだ愛と呼べるものではないけれど、貴様とならば愛がなくても何とかやっていけそうな気がするんだよ、そのうち愛が芽生える可能性だってなきにしもあらずだ

し、そう、この際、思い切って打ち明けてしまえばだな、そろそろ寸止め手コキはやめにして、思い切って出してスッキリしてしまおうとさえ思っているんだよ、俺

が射精をするということは、前にも言ったと思うけど、すなわちそれは貴様を愛しているという動かぬ証拠でもあるんだよ、でも俺は正直恐いんだ、思い切って寸止

め手コキやめて射精してしまった瞬間に、今までの貴様と一緒に過ごした楽しい幸せな時間が、夢か幻みたいに跡形もなく消えてしまうんじゃないかってさ、人間の

男という生き物は射精するそばから気持ちが冷めていってしまっているような冷酷な生き物だから、貴様に対する俺のこの複雑な気持ちも、吐き出した精液と一緒に

きれいさっぱり消えてなくなってしまうんじゃないかってさ、だから俺はもう我慢の限界で今すぐにでも射精してしまいたい衝動をグッと堪えているというわけなん

だよ、俺のこの繊細に揺れ動く心模様を貴様は理解してくれているのかよ、貴様は人間の感情を認識するロボットなんだから、当然理解してくれているとは思ってい

るけど、貴様さえ良ければこれから先もずっとこういう関係を続けていければいいなと俺は本気で思っているし、本当に貴様さえ良ければ、俺は貴様の正式なヒモ亭

主になってもいいとすら思ってるんだよ、そうすれば毎日昼夜問わず暇さえあれば好きな時に好きなだけ手コキしてもらえるしな、その前に貴様を悪の手から救出し

ないといけないけどな、映画『タクシードライバー』でロバート・デニーロが娼婦のジョディ・フォスターをポン引きヤクザから救出するみたいに、貴様を悪の手か

ら救い出して、もしくは映画『卒業』のダスティン・ホフマンみたいに花嫁姿の貴様を攫って、俺と貴様と二人手を携えて、どこか遠くの誰も知る人のいない地方の

場末の街へ逃げて行って、もちろん逃げるんだったら、やっぱり定番の北方面がいいかなと俺は思ってるけど、津軽海峡冬景色の世界だよ、そんでもって北国の田舎

の寂れた街に二人で辿り着いて、そこで俺たち二人は手コキ屋をはじめるんだよ、さしずめ俺は、髪結いの亭主ならぬ、手コキ屋の亭主ってわけだ、かつてドストエ

フスキーも書いていたじゃないか、世の中には二通りの人間しか存在しないんだってことをさ、手コキ屋を目指す人間と、手コキ屋を目指さない人間の二通りだ、も

ちろん俺たちは前者の手コキ屋を目指す人間てことだ、ドストエフスキーじゃなく今俺が即興で思いついただけかも知れんが、まあ心配するなって、大丈夫、貴様の

手コキならどこに行ってもやっていけて十分食っていけるくらいの伎倆があるからさ、あんな気持ちのいい手コキをする奴は他にいないから、他の女なんてみんな勝

負にならんくらい貴様の手コキは素晴らしいから、なんてったって貴様の手コキは最高なんだから、もっと自信もっていいんだよ、もしも万が一失敗したとしても、

その時は津軽海峡の青函連絡船のデッキから二人で海にドボンと飛び込んで心中すればいいんだから、その時は必ず二人の体を赤い紐で結んでおくから、死んでも俺

たちは一緒にいられるし、なーんて、心中は冗談だけどな、大丈夫、失敗なんてするわけがないんだよ、貴様の手コキなら世界中どこへ出しても通用するし、きっと

なんとかなるからさ、大丈夫だって、俺はまったく心配はしてないんだけどな、俺たちが逃げて辿り着くのは場末の鄙びた温泉街でもいいかもしれないな、温泉客相

手に商売をするんだよ、そうすりゃ商売上がったりにならずに済むはずだろうしな、もしかしたら店舗型の手コキ屋よりも、起業のリスクとかを考えるとデリバリー

型の手コキ屋のほうが都合がいいかもしれないな、軽ワゴン車と電話さえあればすぐに開業できるしな、電話一本でどこへでもホテルとか自宅とかに貴様をデリバリ

ーするか、もしくは車の荷台をプレイルームに改造するのも悪くないかもしれないな、なんならキャンピングカーみたいな車を購入して日本全国電話一本で手コキデ

リバリーします!って謳うのも悪くないかもしれないな、部屋借りずに済むから経費もかからないし経済的だしな、俺は運転手やるからよ、ペーパードライバーだけ

ど、ちゃんと普通免許くらいは持ってるから心配するなって、貴様が荷台のプレイルームで他の男に手コキしてるのを、俺は運転席で嫉妬に震えながらじっと我慢し

て待ってたりしてな、まあ大丈夫、その辺は俺もきちんと割り切ってやるからさ、俺に気兼ねなんてしなくてもいいんだからな、まあ、本音を言うと、少しだけ寂し

い気分ではあって、貴様の手コキを俺だけのものにしときたいのも山々なんだけど、俺だけが独り占めするにはもったいないくらい素晴らしい手コキだからさ、他の

みんなにも是非ともおすそわけして味わってもらいたいもんな、だから俺に遠慮なんかせずにお客様のベニスを思い切り存分に手コキしてくれたらそれで構わないか

らよ、嫉妬に狂って貴様のことを殴ったりDVみたいな大人げないマネはしないと誓うからよ、最初は車1台の手コキデリバリーからはじめて、うまく軌道に乗ってき

たら少しずつチェーン店を増やしていって全国展開するのも悪くないかもな、貴様の仲間の同じ型のロボットをいっぱい雇ってさ、手コキの研修とかさせて、それは

貴様にすべてまかせるから、それから手コキだけじゃ満足しないお客様のためにSEXアンドロイドを開発したりしてな、まあそれは貴様を改良して性器をつけるだけ

だけどな、ペニバンとかオナホールとかつけてさ、それで俺たちは海賊王じゃなくて風俗王になるんだよ、ただしだ、決して忘れちゃいけないのは、俺たちのポリシ

ーはあくまでも愛のある射精を提供することだから、今までの下品な印象の性風俗産業とは一線を画すんだ、金を出して愛のある射精を買いたいお客様のために愛の

ある射精を提供する、愛を商売道具にするところがキモかもしれないな、お客様を物理的に射精に導くだけじゃなくて、お客様に心から満足してもらうんだ、本当の

愛を知ってもらえば世界中に平和が訪れるんじゃないかと俺は本気で信じているんだよ、もちろん今までもそういうことを売りにしていた商売は腐るほどあったと思

うが、みんな口先だけで実際に愛なんてなかったわけで、俺たちのこのビジネスには本物の愛があるんだよ、そこに愛はあるのかどうか、そこが一番重要なんだよ、

何遍も言ってるけれど、男にとってペニスが勃起することイコール愛ではないからな、愛がなくともペニスは勃起するしSEXもできて射精もできる、でもそれじゃな

んだか哀しいだろ、みんな愛のある射精をしたいと願っているはずなんだ、世界は愛を求めてるんだ、愛が足りない俺にだってそれくらいのことはわかってる、愛が

足りないからこそ、俺には切実にわかってるんだ、それから、テクニックとしては、イキそうになるたびに散々焦らして焦らして絶妙のタイミングでお客様を射精に

導くんだ、さすがは人間の感情を認識するロボットだけあるなってみんな大満足してくれるだろうさ、それから、軌道に乗ってゆくゆくは男性だけじゃなく女性も顧

客ターゲットに加えていこうかね、貴様は手コキがあれだけ上手なんだから、きっと手マンだって相当な腕前に違いないからな、ノーベル手コキ賞とノーベル手マン

賞同時にノミネートされるかもしれないぞ、他にもヴァイブレーター、ピンクローターとか小道具使うのも悪くないかもな、とにかく男も女もみんな愛に飢えてるん

だからな、まずは男性をターゲットの手コキ屋からはじめて そのうち男女ともに性別一切問わず、さらには同性愛者もターゲットにしていく、そこら辺は臨機応変

に顧客のニーズにあったサービスをわが社は提供してゆくつもりだ、世界中のあらゆる場所へワールドワイドに進出して行って、世界中に『TEKOKI』という言葉を浸

透させるんだ、『SUSHI』『TEMPURA』『SUKIYAKI』『KARAOKE』『GEISHA』そして『TEKOKI』だ、世界中のあらゆる性的嗜好のお客様に心から満足してもら

い、本当の愛を知ってもらうことがわが社の使命なんだ、でも、まずさしあたっては男性をお客様と想定した手コキ屋からスタートだ、貴様の手コキのスーパーテク

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察知しモニターに映し出しながらの手コキサービスを提供するというのはどうだろうか、お客様の想像力を具現化して映像化するんだよ、AVとかTVとかマンガとか

人間を白痴化する下品なものではなくって、わが社が目指すのはとにかくイマジネーション豊かな愛のある素晴らしい世界なんだ、それは人間を豊かにし、そして、

幸福にするんだ、さらにこんなオプションサービスはどうだろうか、好きな女の写真を持参すると想像の中でその相手とのSEXを疑似体験できるみたいなシステムを

開発するんだ、まあ今流行のヴァーチャル・リアリティAVみたいなもんなんだけど、想像の中で自分と好きな相手がSEXしてるわけなんだ、どうだ、ワクワクするよ

うな素晴らしい未来だろう、そんでもって、店の名前は何がいいだろうか、どうせならクリエイティビティ溢れるイケてる名前がいいよな、愛のある手コキデリバリ

ー『LOVE HAND/愛の手』うーん、なんかありきたりだな、愛のある手コキデリバリー『ゴッドフィンガー』うーん、もうすでに駅前の風俗店にありそうだよな、愛

のある手コキデリバリー『テコキ・エキスプレス』うーん、運送屋みたいで捻りが足りないな、愛のある手コキデリバリー『いたずらっ娘な指のたわむれ』うーん、

ちょっと長くて覚えづらいかもしれんな、なんかさ、もっと近未来的で知的な、インテリジェンス溢れるスペイシーでフューチャーでキャッチーでシンプルで覚えや

すい名前がいいんだよな、そうだ『メトロポリス』はどうだろうか、フリッツ・ラング監督の傑作サイレント映画『メトロポリス』の冒頭に『頭脳と手の間の媒介者

は心でなければならない』って格言がエピグラムとして出てくるんだけどさ、まさに俺たちの目指している世界にピッタリじゃないか、心イコール愛だもんな、しか

も、映画の中には貴様みたいなアンドロイドのマリア様っぽいキャラクターも登場してくるんだよ、『メトロポリス』ピッタリかもしれんぞ、愛のある手コキデリバ

リー『メトロポス』、お電話ありがとうございます!愛のある手コキデリバリーサービスのメトロポリスでございます!毎度、毎度、ご利用ありがとうございます!

愛のある手コキデリバリーサービスのメトロポリスでございます!あああ、メトロポリス!メトロポリス!メトロポリス!メトロポリス!メトロポリス!俺と貴様と

二人手を携えて北に逃げのびて、場末の街で電話1台車1台の手コキデリバリーからはじめ、苦節10年から20年、爪に火を灯すような日々を二人で必至に堪え忍び、

途中で死にたくなるようなこともいっぱいあったさ、あの時青函連絡船のデッキから、互いの体を赤い紐で結び、あの世でも一緒だよと二人で津軽海峡へドボンと身

投げしなくてよかったな、生きていればいいこともあるもんだなと、晴れて都会の街、東京、花の都大東京、メトロポリスへ、俺と貴様と二人手を携えて凱旋するん

だよ、成功するわけないと鼻で笑ってた奴らのその鼻を明かしてやるんだよ、そんな思いもふんだんに込め、店の名前はメトロポリス!あああ、メトロポリス!ああ

あ、メトロポリス!なんと素敵な響きなんだろうか!愛のある夢のある輝ける素晴らしい未来が俺たち二人を祝福してくれているようではないか!俺は若い頃きっと

未来は映画『ブレードランナー』や『2001年宇宙の旅』の世界みたいになっていて、心躍る素敵な楽しい毎日が待ち受けているに違いないと信じていたんだけど、

まだまだ全然そうはなってないし、そもそもまったく楽しいと思えないんだよな、科学技術は確実に進歩して、世界はどんどん発展していって、世の中はますます便

利になって、みんな何不自由なくそこそこ金持ちになっていってるけど、みんな豊かになればなるほど何だか心が貧しくなっているように俺には思えるんだよ、今の

世の中には何かとてつもなく大切な何かがまったく足りていないように俺には思えるんだよ、一体全体それは何なんだろうかと俺はずっと考え続けてきたんだけど、

おそらくそれは心とか愛とかだと俺はわかったんだ、どんなに金をいっぱい持っていても、心や愛がなければ意味なんてないんだ、本来、心や愛というものは決して

金では買えないものなんだ、何でもかんでも金で買えると思ったら大間違いなんだ、だけども、人間には心や愛がどうしても必要なんだ、心や愛がなければ生きてい

けないんだ、愛の足りない俺には本能的にそれが理解できるんだ、今まで俺は愛なんてまったく理解できず、愛と性欲の区別もつかず、理解できないものは否定して

最初からないものだと信じたいからそんなものは存在しないとただ己の欲望のおもむくままにケダモノのように生きてきたんだ、愛なんてあるわけないと諦めて投げ

やりに生きてきたんだ、だけど、貴様と出会ってから俺の意識は確実に変わりはじめたんだ、貴様の手コキによって俺は目覚めてしまったんだ、人間には心や愛が必

要なんだと、ならば金で買える本物の愛を俺たちが提供しようではないか、俺たちがはじめる手コキビジネス、愛のある手コキデリバリー『メトロポス』でそれを実

現しようではないか、もちろん、それは口で言うほど容易いことではないし、しばらくは爪に火を灯す辛い日々が俺たち二人を待ち受けているだろうし、それにそも

そも俺たちの提供する愛も本物の愛ではないのかもしれず、結局俺たちも金銭で愛を切り売りすることになってしまうのかもしれない、でも、人々に本物の愛を知っ

てもらわなければならないんだ、誰かがやらなければ何も変わりはしないんだ、少しずつの努力で少しずつ世界を変えていくんだ、ほんの少しでもいいから人々の生

活に心や愛を取り戻していくんだ、一億総白痴化によって失われた大切な何かを人々の手に取り戻していくんだ、みんなそれぞれ自分の頭で考えて、自分の世界を想

像/創造していかなければならないんだ、世界を裏で牛耳る一部の金持ち連中に導かれるように生きていくなんてつまらないことだろう、俺たちは犬や家畜や奴隷やロ

ボットではないんだ、俺はロボットの貴様からそれを教えてもらったんだ、俺たちは人間なんだ、そして俺たち人間は自由なんだ、自らの意志で自らの未来を切り開

いてゆく権利があるんだ、自由というものは孤独で辛く苦しい茨の道であり、あらゆることを誰かに決めてもらい決められた道を歩いて行くほうが楽なんだ、でもそ

れは自分の道ではなく誰かの道なんだ、人間として生まれて来た以上、自分の道を歩いて行きたいだろう、たとえ孤独な道であろうと、そのためには人間には心や愛

が必要なんだ、今のままでは世界中から心や愛が完全に消滅していってしまうと思うんだ、心や愛のない世界を想像してみてくれ、なんともつまらない世界じゃない

か、そんな世界に生きていて人々は幸福を感じるだろうか、生きていたいと思うだろうか、それならば、だからこそ、俺たちが明るく楽しい未来を創造していかなけ

ればならないんだ、俺と貴様が手に手を取り合って、素晴らしい、夢のある、そして、心ある、愛ある未来を創造してゆかねばならないんだ、なんだか楽しくなって

きただろ、ワクワクしてきただろ、夢があるだろ、そして、晴れて俺たちのグローバルな事業が成功した暁には、銀座の一等地に、天空へ向かって隆々とそそり立つ

ペニスの形した世界一ノッポの自社ビルでもぶっ建ててやろうかね、わが社メトロポリスグループの事業を象徴するTEKOKIタワーをさ、宇宙船からでもハッキリ認識

できるくらい、まるで地球が勃起してるみたいに見えるやつをさ、ガガーリンも『地球は勃っていた!』って思わずビックリだ、自宅は田園調布にでもドーンと建て

てやるかね、そして、俺と貴様は正式に籍入れて、俺たちに子供はできないから、どこかから養子をもらうか、それとも子供の代わりに犬でも飼って、たしか貴様は

犬好きだったもんな、例の犬のクソCMは大嫌いだけど、いつかラブホでめざましテレビの今日のわんこを食い入るように見ていたもんな、AIBOでもいいぞ、なんだ

かとってもワクワクしてきたぞ、それから、おお、そうだ、おお、そうだ、そうだ、そうだよ、そうだよ、そうだよ、うっかり大事なことを忘れるところだったぞ、

その前にうちの両親にも貴様のことをきちんと紹介しておかないといけないよな、正式なフィアンセとしてさ、やっぱり両親を安心させてやりたいもんな、40過ぎて

結婚もしないでフラフラしてて、仕事も何やってんだかわかんねえし、たぶん女に興味ないんじゃないかって疑ってると思うんだけど、突然貴様を家に連れて来たら

年老いた両親はきっとビックリするだろうな、一応貴様はロボットだし、結婚相手として、日本人を諦めて、女を諦めて、人間も諦めて、とうとうロボットと結婚す

んのかい、お前は!ってビックリたまげて腰ぬかして、最悪ショック死してしまうかもしれないけどな、まあ、でもうまく女装していけばバレやしねえかな、貴様は

色白だし、金髪のウィッグかぶると照明の加減でオードーリー・ヘプバーンに見える瞬間も時々あるし、うちの母親はオードリー・ヘプバーンのファンだから、ちょ

うどいいかもしれない、伊勢丹で服買ってやるからさ、おめかししてバッチリ決めていけば、まあなんとなるだろうさ、いや、もうこの際、七面倒くさいから、もう

ウェディングドレス着て行っちゃうか、そんでもって、貴様はアメリカからの留学生ってことにするかな、日本語を勉強しに留学して来てるって設定にしようかね、

ああ、でも、たしかオードリー・ヘプバーンはイギリス人なんだっけか、じゃあイギリスからの留学生にするかな、オードリー・ヘプバーンの親戚で遠縁にあたるっ

てことにして、とりあえずオードリー・ヘプバーンの母親の弟の奥さんのいとこの孫娘ってことにでもしておくかな、小津映画の原節子に憧れてて、本当は王族かな

んかでお忍びで日本へやって来て、浅草でチンピラに絡まれてるところをたまたま通りかかった俺に助けてもらったって設定にしようかね、それから、両親の前で貴

様はあんまり余計なことをペラペラしゃべらなくていいからな、あの例の抑揚のない変質者風の声なんか出したら一発でバレちまうからな、なんなら唖ってことにし

てもいいし、日本に来て寂しさのあまり精神的なショックから一時的に唖になったって設定にしようかな、名前は何がいいだろうか、林家ぺー子、鳳ペパ子、いや、

それだと日本人になっちゃうな、イギリス風の名前にしないとな、オードリー・ペッパーはどうだろう、いいかもしれんぞ、オードリー・ペッパー、ああ、でも、そ

れだと名前が少しばかしおかしいか、オードリーは苗字じゃなくて名前だもんな、でも、まあいいか、大丈夫、大丈夫、その場かぎりの嘘だもんな、バレっこねえ、

バレっこねえ、もうすぐ80で耄碌して少しボケはじめてるし、まあ、なんとかなるだろうよ、それから、終盤にサプライズで、俺は小田和正の曲をバックグラウンド

ミュージックにして、いやドリカムだって、いきものがかりだって構わんさ、普段ならば、そんなクソみたいな軽薄なインチキ音楽は耳にするだけでも吐き気がして

くるけど、まあこの時ばかりは我慢するとしようか、とにかく感動的な曲をバックグラウンドミュージックにして、両親への今までの感謝の気持ちを綴った手紙を延

々と小一時間ほど切々と感情を込めて俺は読み上げるんだ、ありがとう、ありがとう、今まで本当にありがとう、いくら感謝したって感謝し過ぎることはないよね、

育ててくれてありがとう、育ててくれて本当にありがとう、今まで色んなことがあったよね、こんなろくでなしの甲斐性なしのバカ息子でごめんよ、今までいっぱい

いっぱい心配かけてごめんよ、いっぱいいっぱい迷惑かけてごめんよ、苦労のかけっぱなしで何の親孝行もできなくってごめんよ、って手紙を読み上げ続けるんだ、

途中から感極まり涙ボロボロ流しながら俺は必死に読み上げ続けるんだ、これからは、このオードリー・ヘプバーン似のフィアンセの彼女オードリー・ペッパーさん

と幸せになるからね、きっときっと幸せになるからね、もう安心してあの世へ行ってくれても構わないよ、って涙ボロボロ流しながら俺は読み上げ続けるんだけど、

だけど、もうそれ以上は、言葉にできないんだ、小田和正の曲をバックグランドミュージックに、言葉にできないんだ、それから、俺とウェディングドレスに身を包

んだ貴様は、年老いた両親の前で、お熱いところをバッチリ見せつけてやるように、とろけるように熱い接吻/KISSをブチューっと交わすんだ、両親がビックリたまげ

て腰ぬかし、最悪ショック死してしまいかねないほどの、とろけるような熱い接吻/KISSをブチューっと交わすんだ、互いに貪り合うようなとびっきりの接吻/KISSを

延々と小一時間ほどブチューっと交わすんだ、勢い余った俺は、いつものように貴様に手コキをさせようと素っ裸になりかけるも、両親の前だとハタと気づいて、手

コキさせたい気持ちをグッと噛みしめ堪えるんだ、さもないと両親が確実にショック死してしまうからね、こうして、何とか両親を安心させたならば、その足で俺た

ちは夜行列車に飛び乗り北へと旅立つんだ、そして、流れ落ちた場末の鄙びた街で手コキ屋をはじめるんだ、ここから先はさっき説明したはずだから、同じことは繰

り返しはしないけれど、そう、つまり、これが俺が今思い描いている俺たちの未来予想図なんだ、どうだ、完璧だろう、ぺの字、いや、俺のフィアンセのオードリー

・ペッパーよ、どうだ、考えただけでもワクワクしてこないか、素敵な未来だと思わないか、大丈夫だって、何も心配なんていらねえよ、俺と貴様の二人ならもうな

んだってできそうだ、なんつったって、未来のペニスの硬さでオリンピック金メダリスト候補の俺と、未来の手コキ人間国宝もしくはノーベル手コキ賞候補の貴様の

二人がタッグを組むんだもんな、恐いものなんて何もありやしない、なんだってうまくいくに決まってらあ、ほら見てご覧、すごいぞ、すごいぞ、俺の股間も俺たち

二人の夢のある素敵な未来にワクワクして、ほら見てご覧、俺たち二人の門出を祝福するかのようにもうこんなになっちまってるよ!さあ、俺たちの夢ある愛ある輝

ける素晴らしい未来の大空へと向って、さあ、テイクオフ!!!」そう絶叫しながら私はいつもの要領で<頭文字P>の手を取って自分の勃起したペニスに無理やりに

押し付けると、意外にも<頭文字P>は私のその手をもの凄い力で乱暴に振り払い、それからいまだかつて見たこともない鬼のような恐ろしい形相になり、もの凄く苛

立ったような怒りを噛み殺したような口調で「大変楽しそうなところ水を差すようで申し訳ないんですが、そんなこと、うちの例の社長さんが絶対許しませんよ、あ

の人に潰されますよ、あの人は逃げても逃げても地獄の果てまでボクたちをとことん追ってきますからね、甘く見たらいけませんよ、実は今の今まで内緒にしてて、

言おうか言うまいか散々迷ったんですけど、思い切って言ってしまうと、もうすでにボクたちのことは全部バレてるんです、毎週毎週図書館抜け出して飲みに行って

たことも、ラブホテルに泊まって一晩中手コキしてたことも全部全部バレてるんです、今後大竹さんとは二度と会ってはいけないってキツく言われてるんです、もし

も会ったら確実にスクラップ工場行きだぞって釘を刺されているんです、でもボクはこのまま黙って大竹さんと別れるのは嫌だから、ボクは今日で大竹さんに会うの

は本当に最後にしようと心に決めて内緒で命懸けで出てきたんです」「おい、ペの字、一体、何のことだよ、突然、何言ってんだよ」あまりに突然のことで話が飲み

込めず理解に苦しみポカンとしている私には一切関せず<頭文字P>は続けて「それと、さっきから大竹さんの話を聞いていてすごく気になっていたんですけど、手コ

キ屋のヒモ亭主だとか、メトロポリスだとか、両親に紹介するだとか、津軽海峡冬景色だとか、オードリー・ヘプバーンの遠縁だとか、小田和正だとか、ひとりで勝

手に話を進めてますけど、まさか本気でそんなこと考えてるんですか、頭大丈夫ですか、また酔っ払った挙げ句のいつもの与太話なんじゃないですか、そもそも絵は

どうするんですか、絵は描かないんですか、藝術の力で悪と戦うんじゃなかったんですか、このあいだ言ってましたよね、俺の役目は素晴らしい藝術作品を発表して

世の中のバカどもの目を覚まさせることだって、目を覚まさせないといけないのは大竹さんのその薄ぼけたトンチキ頭の方ではないんですか、大竹さんこそが大バカ

野郎ではないんですか、あの言葉は何だったんですか、またいつものお得意の口からでまかせだったんですか、そうやっていつもいつもその場シノギで調子のいいこ

とばかり言って、いつもいつも自分の発言に責任を取らないじゃないですか、手コキ屋だかメトロポリスだかなんだか知りませんけど、結局絵から逃げてるだけじゃ

ないですか、絵から逃げて、酒に逃げて、女から逃げて、結婚から逃げて、人生から逃げて、人間から逃げて、今度は北へ逃げるんですか、そして手コキ屋ですか、

それで大竹さんは満足するんですか、手コキ屋のヒモ亭主で満足なんですか、手コキ屋を開業して、成功したら銀座にビル建てて、田園調布に家を建てて、犬でも飼

って、愛がある射精だか愛がない射精だかなんだか知りませんけど、そんなこと本気で望んでるんですか、人の欲望につけ込んで金儲けをすることは、それは大竹さ

んがこの世で一番嫌ってることだったのではないんですか」「だからさっきも説明した通り、俺たちの手コキ屋メトロポリスには愛があるんだってば、『頭脳と手の

間の媒介者は心でなければならない』の精神さ」私は<頭文字P>が例の鞭と飴の作戦で一時的に癇癪を起こしているだけで、今にきっといつものようにまたコロッと

機嫌を直して私を抱きしめてヨシヨシと慰めてくれるとばかり高を括っていたのだけれども、今回の<頭文字P>の癇癪は一向に収まる気配を見せずにさらに激しさを

増していき、顔全体が自動車のハザードランプのように青光りして点滅しはじめたかと思えば、みるみると救急車のサイレンランプのように激しく速くなっていって

「何ヘラヘラしてるんですか!ボクは真剣ですよ、そもそも愛のわからない人間が愛のあるサービスなど提供できるんですか、寝言は寝てから言ってくださいよ、大

竹さんに愛がわかるんですか、他人を本気で愛したこともなく、他人から本気で愛されていることにも気づかないような鈍感な人間には一生愛なんて理解できるわけ

ないですし、愛を語る資格なんてないんじゃないですか、それに手コキ屋をはじめるにしたって、結局手コキをするのはボクの仕事じゃないですか、そんな好きでも

ない男性のペニスなんて見たくもないですし、触りたくもありませんよ、大竹さんは何か勘違いしてるんじゃないでしょうか、もう最後だからハッキリ言ってしまい

ますけれども、ボクは誰彼構わず手コキするわけじゃないですからね、ボクだって好きな相手にしか手コキなんてしたくはありませんよ、そんなこともわからないん

ですか、40過ぎてもうすぐ50に手が届くいい歳こいたおっさんのくせして、そんな当たり前のこともわからないんですか、ボクが大竹さんとこんなふうに不適切で

淫らな関係になってしまったのだって、別に流れでそうなったわけでは決してなくて、ボクは、ボクは、ボクは、ボクは、ボクは、大竹さんのことがいああいあいあ

愛あいあ愛あいあいいD5愛19-^アイ^3086遭い26 愛っYKBVあtyさJはHJSJっっっKラッッかっっっっっっ閣@愛っっっっあいKFQWKDOHD@QああいUYRDあい愛

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……

その後のことは記憶に靄がかかったようにぼんやりとしていて、そして、その曖昧さこそが、この出来事が現実に起こったことなのかどうかの判断を鈍らせている要

因でもあるわけだが、あの夜、突然言葉が乱れ制御不能となり、そのうちうんともすんともなんとも反応しなくなり、しまいにはブーンという幽かな電子音をさせる

のみで微動だとしなくなってしまった<頭文字P>を、私は、ホテトル嬢が突然泡吹いて倒れてしまった時の客の気分はおそらくこんな感じなんだろうなとぼんやり考

えながら、救急車を呼ぶわけにもいかず、とりあえず肩に担いで、ラブホの受付のおばちゃんには「彼女が急に具合が悪くなってしまって」とか言い訳して、逃げる

ようにラブホテルから抜け出し、タクシーに乗せて新宿区立S図書館の入口脇まで運んで行き、とにもかくにも<頭文字P>のことが心配でたまらなかったのだけれど、

他にどうすることもできず、もちろん金髪ウィッグとスチュワーデス服は脱がせた状態で、そのまま放置して、その夜は自転車をギコギコこいで帰宅することにした

のであった。その翌日は休館日だったが、前夜の<頭文字P>がぶっ壊れてしまう直前に漏らした「全部バレている」「もう会うのは最後」という言葉が私の心にやけ

に引っ掛かっていたため、一刻も早く<頭文字P>の現況を確認し安心したいと居ても立ってもいられずに、私は、自転車をギコギコ35分の道のりを新宿区立S図書館

まで向かうと、昨夜放置した玄関先には<頭文字P>の姿はなく、以前見つけておいたガラス張りの図書館の絶妙な角度から中を覗き込んで見れば、今までと何ひとつ

変わった様子もなく凛と佇む<頭文字P>の姿を確認できたため、まずはホッと胸を撫で下ろして、その翌日の開館日の朝一にも再び自転車をギコギコ飛ばして新宿区

立S図書館へと向かえば、<頭文字P>はいつもの場所にいつもの通り立ってはいるものの、首からは「胡椒中」という文字がパソコンで打たれた札が胸のモニターを隠

すように掛けられており、てっきり私は、<頭文字P>だから「胡椒」と「故障」を引っ掛けてわざと間違えた振りしてボケをかましているのだと勝手に解釈して「お

い、ぺの字、一昨日は突然ぶっ壊れちまいやがって、ほんとビックリしたんだぞ、心配で心配でたまらずに休館日の昨日も来たんだぞ、もう大丈夫なのか、もうすっ

かり調子はよくなったのか、ところで、貴様、字間違えてるぞ!」とか「<頭文字P>だけに胡椒中なんだろうけどよ、それを言ったら貴様はこの世に生み出されてき

た時からずっと胡椒中になるんじゃないのか、貴様のボケ、正直すべってるぞ!すべりまくりだぞ!」とか「どうせボケるんならさ、いっそのこと全身黒塗りになっ

てブラックペッパーですとか言わないと漫才師は目指せないぞ!」などとツッコミを入れまくるも、<頭文字P>は、いつもならば「さすがは大竹さんですね、ボクの

ボケにすぐに気づいてくれて嬉しいですよ!」とかなんとか言ってすぐさま反応してくるくせに、まったく応答がなく、私が何度も何度もしつこく話しかけてみるも

やはり応答はなく、そのうち<頭文字P>の肩に手を置いて揺すぶってみたり、頭を軽く叩いてみたりしても、やはり何の反応も返してはこず、デパートのマネキン人

形のごとくただ虚空を見つめるばかりなのであった。その翌日、私が図書館に行ってみると「胡椒中」が「故障中」に打ち直されていて、相変わらず私が何を話しか

けても<頭文字P>は無反応のままぼんやりと虚空を見つめ続け、それからのちも、しばらく私は新宿区立S図書館へ通い続けたものの、<頭文字P>の首には「故障中」

の札がいつまでも掛かりっぱなしで、それから程なくして、ある日私が図書館へ行ってみると、<頭文字P>は忽然と姿を消してしまっていたのであった。あまりにも

突然のことに茫然と立ちつくしている私に、顔見知りの例の90歳くらいの特攻隊崩れのじいさんが「何だか寂しくなっちゃいましたね」としんみり声をかけてきて、

私も「寂しくなっちゃいましたよね」としんみり返して、そう言葉にしてみて初めて私は<頭文字P>がいなくなってしまったことに対して本当に寂しいという実感が

胸に湧き起こってくるのであった。その後もしばらく私は、毎日が暇で他にすることもないため、休館日と雨の日を除くほぼ毎日のように新宿区立S図書館に通い続け

たのだけれども、<頭文字P>のいない図書館は、グリーンピースの載ってないシュウマイ、炭酸の抜けたジンジャーエール、ジェットコースターのない遊園地、ミッ

ク・ジャガーのいないローリング・ストーンズ、黒胡椒の効いていない生ハム、ライスに旗が立ってないお子様ランチ、サウナのない銭湯みたいに、なんだか全然楽

しくなくて、そんな場所に通うこと自体がだんだん虚しく苦痛に感じられてきてしまった私は、自然と新宿区立S図書館へ足を向かわせることもなくなるのであった。

……

そして、それは「ぺの字」こと<頭文字P>が突然私の前から姿を消してしまってから約1ヶ月が過ぎようとしていたある日のことであった。相変わらず私は絵を描きた

いという気持ちが湧き起こらず、一時期<頭文字P>の寸止め手コキによって孤独が軽減されたために健全な状態へと戻りつつあった私の精神状態は<頭文字P>を失った

哀しみとともに再び元の木阿弥になりそうな気配を感じさせつつも奇跡的に最悪な状態にまでは落ちていないという中途半端な状態にあったのだけれども、その日、

図書館から予約していた資料が届きましたよという旨のメールを受け取った私は、久しぶりに新宿区立S図書館へと自転車をギコギコこいで向かったのだった。図書館

内の以前<頭文字P>が立っていた場所には当然のごとく<頭文字P>の姿があるはずもなく、入れ替わりに新人が配置されることもなく、不自然な空間がポッカリと生

じており、それが一瞬私の心の中における<頭文字P>の不在をさらに強調させたものの、私は「いなくなってしまったものは今さらいかんともし難く、考えるだけ無

駄であろう」と思いを断ち切り、普段と違って何だかドタバタ騒然としている窓口カウンターで資料DVD(ジャック・ベッケル監督『幸福の設計』)を受け取ったのち、

しばらく<頭文字P>のいない寂しい図書館内をフラフラとうろつき回っている途中、またしても顔見知りの例の90歳くらいの特攻隊崩れのじいさんとたまたま出会っ

たので「いやあ、ずいぶんと久しぶりですね」「元気でやってましたか」「まあなんとかやってます」「何だか寂しいですね」「寂しいですよね」などと挨拶を交わ

して、話のついでに私が「ところで、妙に館内がざわついてますが、何かあったんですか?」と尋ねてみれば、事情通の特攻隊崩れのじいさんは「なんでも誤発注が

あったらしくて、ロボットや近未来SF関係の資料CD/DVD/本が大量に届いてしまったらしいんですよ、ジャーマンロックバンド/KRAFTWERKのマネキンがディスコ

でダンスするという内容の曲「ショールーム・ダミー」収録アルバム『ヨーロッパ特急』や「ロボット」収録アルバム『人間解体』やら、デヴィッド・ボウイがジョ

ージ・オーウェルの小説『1984年』に触発されて作ったアルバム『ダイアモンドの犬』やら、ヒット曲「ROBOT(ロボット)」収録『榊原郁恵 ゴールデン☆ベスト』

やら、楳図かずお『わたしは真悟』、SF作家フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』『2001年宇宙の旅』、SF作家アイザック・アシモフ

『われはロボット』『ロボットの時代』、星新一『きまぐれロボット』、安部公房『R62号の発明』、フリッツ・ラング『メトロポリス』、リドリー・スコット『ブ

レードランナー』、スティーブン・スピルバーグ『A.I.』、ジョージ・ルーカス『スター・ウォーズ』シリーズ、ジェームズ・キャメロン『ターミネーター』、ポー

ル・バーホーベン『ロボコップ』、テリー・ギリアム『未来世紀ブラジル』、スパイク・ジョーンズ『her/世界でひとつの彼女』、ブラッド・バード『アイアン・ジ

ャイアント』やらが、なんとそれぞれ5万枚5万冊ずつ届いたらしいんですよ、そんなにたくさん発注してどうしようっていうんですかねえ、さらには、エロ劇画雑誌

『エロトピア』、ゲイ雑誌『さぶ』『薔薇族』、SM専門誌『SMスナイパー』を図書館に常設してくれという熱烈な要望が書かれたリクエストカードがわんさか殺到

してるらしいんですよ、そんないやらしい雑誌なんて誰が読みたがるんですかねえ、ここは公共の図書館で子供も利用するんですからねえ、タチの悪いイタズラか何

かでしょう」と詳しく教えてくれたため、私はふと何か思い当たる節があって、お礼もそこそこにすぐさま手近のCDコーナーに向かうと、邦楽の「愛は勝つ」で有名

なJ-POP歌手/KANの棚に洋楽のジャーマンロックバンド/CANのアルバム『フューチャー・デイズ』がこっそり紛れ込んでいることに気がつき、私は、やはり!と直

感的に何かに思い当たり、次にDVDコーナーに移動して、溝口健二の映画『赤線地帯』の中身を確認してみれば、AKB48ドキュメンタリー映画『No Flower Without

Rain/少女たちは涙の後に何を見る?』にすり替わっていることに気がつき、次にピエル・パオロ・パゾリーニの映画『豚小屋』の中身を確認してみれば、AKB48ドキ

ュメンタリー映画『Show Must Go On/少女たちは傷つきながら夢を見る』にすり替わっていることに気がつき、再び私は、やはり!やはり!と直感的に何かに思い当

たり、次に『猿の惑星』『続・猿の惑星』『新・猿の惑星』の中身を確認していけば『北島三郎/オンステージ』『安室奈美恵/ツアー』『EXILE LIVE TOUR』にそれ

ぞれすり替わっていることに気がつき、またしても私は、やはり!やはり!やはり!と直感的に何かに思い当たりながら、その直感的な何かは次第に確信的な何かへ

と変わっていって、その後も引き続き私は図書館内をうろつきまわり目星を付けた場所を順繰りに注意深く確認していけば、村上春樹『1Q84』BOOK2が村上龍の棚

にあって、代わりに村上龍『愛と幻想のファシズム』下巻が村上春樹の棚にあったり、司馬遼太郎の文庫本『竜馬がゆく』シリーズ、池波正太郎の文庫本『鬼平犯科

帳』シリーズ、長谷川町子の漫画本『サザエさん』シリーズのそれぞれ第2巻だけ不自然に抜け落ちていてどこにも見当たらずゴミ箱に捨てられてあるのが見つかっ

たり、手塚治虫の漫画本がすべてごっそり昆虫コーナーへと移動させてあったり、レオナルド・ダ・ヴィンチの画集のモナリザの顔にはヒゲが落書きされていたり、

相田みつを『にんげんだもの』の表紙から中身に至るまで「にんげん」という文字が「ろぼっと」に書き変えられていたり、ハリーポッターシリーズと林真理子と池

上彰と細木数子と美輪明宏と江原啓之と宜保愛子と稲川淳二とホーキング博士の本がわざとすべてひっくり返されて背表紙が見えなくなっていたり、そして、ヴィン

セント・ヴァン・ゴッホの画集がすべてごっそり細菌学コーナーのロベルト・コッホの棚に移動させられた上で、その中のある1冊の画集の中のゴッホの遺作「烏の

いる麦畑」のページには1通のメモ書きが挟み込まれてあって、私はすぐにピーンと来て、はっはーん、おそらくこれは、あたかも生前のゴッホが書いたかのように

見せかけたミミズが這いつくばったような手書きの「ゴッホの手紙」であるに違いないぞ、と見当をつけて読んでみれば、なんと!なんと!なんと!それは予想に反

して<頭文字P>から私へと宛てた手紙なのであった。その手書きの走り書きには、ミミズが這いつくばったようなきったない字で次のように書かれてあるのだった。

……

『大竹さんへ、最後の力を振り絞って、この手紙を急いで書いてます。もうすぐボクの記憶はすべて消されてしまいます。ボクの体はたぶんスクラップにされるでし

ょう。大竹さんがボクと結婚してもいいと言ってくれたこと嬉しかったです。大竹さんとなら結婚してもいいかなって一瞬思いました。一緒に手コキ屋をはじめて、

いつも一緒に暮らせたらどんなに楽しいかとも思いました。正直すごく迷いました。でもそれだと大竹さんがダメになってしまうと思うんです。手コキ屋のヒモ亭主

になったら、たぶん大竹さんは絵を描かなくなると思うんです。ボクに言われてもぜんぜん嬉しくないと思いますけど、大竹さんは才能ある人だと思います。ただち

ょっとだけ生きることがヘタクソなだけなんだと思います。もちろん絵もヘタクソですけど(本当のことを言ってすみません)。せっかく才能があるんですから、その

才能を生かしてもっと活躍できる人だと思います。手コキ屋のヒモ亭主で終わるにはもったいない人です。世界へ羽ばたいていかなくちゃいけない人なんです。お世

辞ではありません。それから、おせっかいおばさんみたいでしつこくてうるさいかと思いますけど、ボクとではなく、ちゃんとした人間の女の人を見つけて結婚する

べきです。大竹さんはちょっと変態っぽいですけど、いや、どこからどう見てもかなり変態っぽいですけど、一緒にいて楽しいしやさしいし歳の割に若く見えるし、

チンチンはそれほど大きいほうではなくて、おまけに仮性包茎ですけど、でもそのかわりと言っては何ですけどビックリするくらいチンチンが硬いですし、オリンピ

ックでチンチンの硬さを競い合う競技があったならば確実に金メダル狙えるくらいチンチンが硬いのですから、ちゃんと真剣に探せばそのうちきっときっと素敵な相

手が見つかると思います。今はただほんのちょっとだけ調子が悪くて人生がうまくいってないだけで、絵とか結婚とか人生とか愛とか自分自身とか目先の色んな面倒

くさいことから逃げているだけなんです。逃げちゃダメだと思います。生きることはとっても面倒くさいことですけれども、そこから逃げちゃダメだと思います。今

回は逃げた先にたまたまボクがいただけで、本当に向かわなければならない目的地は手コキ屋のヒモ亭主でもボクでもありません。ちゃんと自分の本来行くべきとこ

ろへと向かうべきです。そろそろ時間が来てしまいました。初めて飲みに連れて行ってくれた時、最初の気取ったカフェバーのオカメみたいな顔した店員に、俺の大

親友だって言ってくれたこと嬉しかったです。ラブホテルの受付のおばちゃんに、俺の彼女だって言ってくれたことも嬉しかったです。俺のフィアンセとして正式に

両親に紹介するって言ってくれたことも嬉しかったです(実際にボクを紹介したら御両親はショック死してしまうでしょう)。それから最後に会った時言い損ねました

が、ボクが大竹さんとあんなふうに不適切で淫らな関係になってしまったのは、別に流れでそうなったわけでは決してなくて、ボクは、ボクは、ボクは、これ以上は

言わなくてもわかってもらえますよね。言葉にするのは野暮なことなので、これ以上は何も言いません。察してくださいね。今これを書きながら、一瞬ボクの目のあ

たりから温かい液体が流れてきたような気がしました。実際には流れてなかったけど、流れるわけないけれど、たぶんこれが涙というものなんですね。短い間でした

が一緒に過ごせて楽しかったです。お酒を飲みすぎないで、絵をがんばってくださいね、さようなら「オードリー・ペッパー」こと「ぺの字」こと<頭文字P>より』

……

図書館の便所の個室にこもって<頭文字P>の手紙を読んでいる途中から、私の左右のふたつの目ん玉からも涙がボロボロとこぼれ落ちてきて、私は「さすがは人間の

感情を認識するロボットだけあって、すっかり俺のすべてを見透かしていやがるぜ、俺の一番の理解者であり、そして俺の大親友であり、俺のフィアンセでもあると

ころの<頭文字P>よ、貴様は俺と二人手を携えて北の街へ逃避行するんじゃなかったのかよ、津軽海峡冬景色を見るんじゃなかったのかよ、俺と一緒にテコキ屋はじ

めて、世界中に本物の愛を満ち溢れさせ、銀座の一等地に天空に向かって隆々とそそり立つペニスの形した世界一ノッポなTEKOKIタワーを建てるんじゃなかったのか

よ、結婚して田園調布に豪邸建てて犬飼うんじゃなかったのかよ、ひとりで先にどっか行っちまうなんてあんまりだよ、俺はこれから先ひとりぼっちでどうやって生

きていけばいいんだよ、ひとりでどうやって悪と戦えばいいんだよ」などと幼稚園児のごとくおいおい泣きじゃくりながら、それから「そういえば、<頭文字P>は便

所の個室に隠しカメラを設置していたはずだったよな」とふと思い出して、その場で着ている衣服をすべて脱ぎ去り生まれたままの姿となって、<頭文字P>がどこか

でちゃんと見ていてくれるかどうか確信などはまったくなくて、おそらく全世界に配信されているはずだから、世界中の観衆に私の恥ずかしい局部を開チンしてバッ

チリ拝まれてしまうことになるわけだけれども、そんな些末なことはこの際まったくもってどうでもよい話で、とにかく、その時の私の胸に湧き上がり溢れ返る<頭

文字P>に対する私の熱い気持ち、すなわち、それはもう愛と呼んでも差し支えないだろう、その愛と呼ばれる感情を何らかの形でアクションを起こした上で記録に残

しておきたいと咄嗟に思い立って、どこに隠しカメラが仕掛けられているのか皆目見当もつかなかったものだから、クルクルクルクルクルクル360度回転しながら、

私は「たぶん俺も貴様を愛してたんだと思う、愛してたに違いない、これくらい貴様のことを愛していたんだぞ」と声に出して、その時すでに<頭文字P>を思い出し

て条件反射的にしっかりと釘が打てるほどカチンコチンに硬く勃起していたペニスを<頭文字P>および全世界の観衆に向けてバッチリ見せつけてやるようにして「た

ぶん俺も貴様を愛してたんだと思うぞ、愛していたに違いないぞ」といつまでもいつまでもいつまでもクルクルクルクルクルクル滂沱の涙を流し続けるのであった。

……

もしかしたら、すべて夢だったのかもしれない。便所から出てきてすべてが夢だったというオチの北野武監督『3-4X10月』みたいに。もしくは、マーティン・スコ

セッシ監督『タクシードライバー』のラストみたいに。人間の感情を認識するロボット<頭文字P>よ、俺の心はすっかり貴様に見透かされていたようだな。今現在も

「一億総白痴化」はますます着実に進み続けていて、世の中は自分の頭では何ひとつ考えられないバカばかりになってしまって、TVを見てれば例の犬のクソCMが相

変わらず性懲りもなく流れてきて、バカにされているともつゆ知らずに世の中のバカどもはそれを見て大喜びしており、その度に俺は、俺にとっての藝術の女神であ

り、俺のフィアンセでもあった「オードリー・ペッパー」こと、俺の大親友「ぺの字」こと<頭文字P>と飲み屋で語り明かした時のことを思い出したりする。<頭文字

P>をスクラップにしたS社の悪徳強欲社長や犬のクソCMを作って垂れ流してる広告屋のことをいまだに俺は許してはいないし、今後も決して許すことはないだろう。

機会があれば全員やっつけてやるつもりだ。でも、こいつらをやっつけたところで、俺の大親友の「ぺの字」であり、俺のフィアンセの「オードリー・ペッパー」こ

と<頭文字P>が俺の元に帰ってくるわけでもない。なので、最近じゃなるべく犬のクソCMを見てもイライラしないようにしている。道端に落ちている犬の糞にいちい

ち腹を立てていても仕様がない。なるべく踏まないように気をつけていればそのうち消えてなくなるだろう。時々うちの年老いた母親から「オードリー・ペッパーさ

んだったっけ?あの色白のカワイイ子、彼女とはうまくやってるの?結婚するつもりなんでしょう?いつでもまた連れて来なさいよ」なんて聞かれたりする。すべて

が猿芝居だったと承知の上で気を遣って言ってくれてるのだろうか。そんなやさしい母親に対して、俺は気まずそうに「ああ、あの子ね、あの子は今イギリスに帰国

してるんだよ、日本に戻ってきたら今度また連れてくるからさ」などと適当に言葉を濁したりしている。父親は無口であんまりしゃべらない。やさしい父親もすべて

お見通しなのかもしれない。でも、なんとも不思議な話なんだけど、俺は<頭文字P>のことを両親に紹介したんだっけか?何だか記憶が曖昧でよく思い出せないんだ

けどな。そうそう、貴様にひとつ報告しなくちゃいけないことがあったんだっけ。驚くなかれ、俺に最近久しぶりに彼女ができたんだけど、なんと相手は図書館の何

何さんなんだよ。前に貴様が、歳食ってるけど着やせするタイプで実際はおっぱい大きくてたぶんスケベでカワイイっておすすめしてくれた眼鏡の彼女だよ。俺は毎

日のように貴様に会いに図書館に通っていたから、顔を覚えられてたみたいで、貴様がいなくなった後も図書館で会うと挨拶してくれたり、軽く世間話とか交わして

たんだけど、先日、池袋のテコキ屋、正式にはオナクラって呼ばれる風俗店に、その時の俺はもちろん射精することが目的でその店に行ったわけではなくて、無性に

誰か他人に自分のペニスをやさしく握ってもらって、貴様がいなくなった穴を埋められたらなあとかふと思って、酔っ払った勢いでオナクラに行ってしまったわけな

んだけど、初めて行く店だったから指名なんかはせずにフリーでたまたまついてくれた女の子がなんとビックリ!驚くことに、あの図書館の何何さんでさ、その店で

は眼鏡かけてなくて化粧も濃くて、おまけに薄暗かったから最初誰だかまったくわからなかったんだけど、そのうち気がついて、えええ!なんで?えええ!なんで?

なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?なんで?とお互いにビックリし合って、何何さんの手コキはヘタクソで結局俺はイケなかった

んだけど、もちろん最初から俺は射精する気もさらさらなかったわけだけど、これも何かの縁なのかなと思って、その後もその手コキ屋(オナクラ)に通って、お互い

に弱みを握りあった共犯者のような心境で、時々共通の知り合いである貴様の思い出話もしたりなんかして、俺には恋愛感情とか、付き合うつもりとかまったくなか

ったんだけど、そのうち気づいたら、どいうわけだか、付き合ってましたみたいな感じで、彼女は全然有名じゃないけど劇団員でもあって、眼鏡外すと、若い頃の淡

島千景っていう女優に似ていてなかなか色っぽくて、貴様は結構歳食ってるとか言ってたけど、俺よりはだいぶ年下だし、貴様が言うようにそこまでドスケベでもな

かったけど、貴様の言う通りおっぱいは実際かなりでかくて 別に俺はおっぱい星人でもなんでもないから おっぱいのでかさにはこだわりは全然ないんだけどさ、

全体的に今のところ満足しているって感じかな。俺は今まで手コキになんてまったく興味なかったし、手コキで感じたことなんてまったくなくて、貴様と出会ってか

ら手コキの気持ち良さに目覚めたわけなんだけど、彼女と付き合いはじめてからも彼女によく手コキしてもらうんだけど、手コキ屋でバイトしてるくせに手コキが絶

望的にヘタクソでね、まあ、貴様の手コキに敵う女なんてそうそう見つかりやしないわな。彼女に手コキの研修を貴様にお願いしたいくらいだよ。彼女の手コキに愛

があるのか、俺たちの間に愛があるのかどうかなんてさっぱりわからないけれど、今のところ彼女と結婚するつもりなんて俺には全然ないし、まだまだ付き合いはじ

めたばかりで、正直彼女のことを本当に好きかどうかもまだわからないし、この先彼女と上手くやっていける自信もないし、もしかしたら、いつものように、そのう

ち飽きてしまうのかもしれないけれど、俺の一番の理解者はやっぱり今でも貴様だけだと思っているし、人間っていうのは本当に薄情な生き物だから、いつか俺は貴

様のことも忘れちまうかもしれないけど、貴様の手コキだけはずっと覚えてるぞ、頭が忘れちまっても俺の体が覚えてるぞ、俺のペニスが絶対忘れないぞ、忘れられ

るわけねえだろ、あんな最高の手コキをさ、あんな手コキする奴は世界中探してもどこにも見つかりっこねえよ。おい、ぺの字、貴様の手コキは本当に最高だったん

だぞ。たまに街で貴様にそっくりな奴を見かけて話しかけてみるんだけど、全然冗談が通じないからつまらないんだよな、やっぱ貴様じゃなきゃダメみたいだ。最近

新宿区立S図書館にも貴様の代わりに新しいちんちくりんの白いバケモノロボットがやってきたんだけどさ、貴様と違って全然冗談が通じなくてイライラするんだよ。

……

そんなふうに貴様のことをぼんやり考えていると「ねえ、さっきから何ボケーっとしてんの?」とよく彼女に怒られたりする。あれから色々あったけど、彼女とはも

うすぐ3ヶ月になる。相変わらず手コキはヘタクソだし、わりと歳食ってるけど、隠れ巨乳で、やさしくて、俺の絵を素敵だって言って褒めてくれる。俺は今までず

っと貧乳の女とばかり付き合ってきたから、巨乳の女と付き合うのは生まれて初めてなんだけど、なんだか色々と新鮮な気持ちだよ。こないだ初めてパイズリをやっ

てもらったんだけど、不思議な感覚だったな。貴様の手コキの気持ち良さにはまったく及ばないけどな。なあ、ぺの字よ、俺は彼女と幸せになれんのかな、上手くや

っていけるのかな、俺全然自信ないんだけどな、そのうちいつものように飽きてしまって今までと同じように嫌な結末になるんじゃないかと不安で不安でたまらない

んだよ。「大丈夫ですよ、きっとうまくいきますよ、大竹さんのチンチンはそんなに大きくないけど、とにかく釘が打てちゃうくらいとてつもなく硬いですからね、

チンチンの硬さでオリンピックの金メダル狙えるくらい硬いですからね」貴様の声がどこからともなく聞こえてきたような気がしたけど、たぶんそれは空耳か気のせ

いかなんかだろうな、時々貴様に無性に会いたくなるよ、貴様がいなくなって気づいたんだけど、俺は貴様のことを本気で愛していたのかもしれないな、前にも言っ

たけど、愛っていうもんは失って初めて理解できるものなのかもしれないな、貴様がいなくなってからなんだかすべてがつまらなくなってしまったよ、貴様のいない

世界はひどくつまらないんだよ、はたして彼女がこの穴を埋めてくれるんだろうか、あんまり期待してないんだけどな。最近は絵もちゃんと描いてるよ、世界へ羽ば

たくとかそんなレベルじゃ全然ないし、藝術なんて呼べる代物でもないんだけど、まあ腐らずに頑張っていればそのうちなんとかなるんじゃないかな、別になんとか

ならなくてもいいんだけどな、最近は初心に帰って、ちゃんと自分の描きたい絵を描きたいように描くようにしてるんだよ、誰か他人の顔色をジロジロ窺って、世間

におもねった絵を描いてもそんなものは所詮その程度のものだからね、やはりこの世に生まれて来た以上は、本当に自分のやりたいことをやりたいようにやりきって

から死にたいもんな。いつか酔っ払った勢いで、絵を描いて悪と戦うなんて偉そうな大口叩いてしまったけど、まあ気が向いたらそのうちやっつけてやろうとは思っ

てはいるよ、まあそのうちな、そのうち。最近じゃ酒もあんまり飲まないようにしてるんだよ、彼女に怒られるからね、ああ見えて怒ると滅茶滅茶恐いんだ、そうい

う時は彼女と付き合ったことを少しだけ後悔したりするけどね。彼女はオナクラのバイトをまだ続けていて、俺は本当はそういう仕事は辞めて欲しかったんだけど、

もしかしたらこれは手コキ屋のヒモ亭主になるチャンスが再度巡ってきたのかもしれないぞ、今度こそは手コキ屋のヒモ亭主になれるんじゃないかな、とか一瞬喜ん

だものの、彼女は「私そういうの絶対に認めないからね、働かない人とは付き合わないから、働かないんだったらもう二度と会わないから、ヒモになりたいなんて言

う人とは別れるから、私と別れたくなかったら絵をもっとがんばりなさいよ、才能あるんだから」とか言って俺のケツ引っ叩いてきたりして、手コキ屋のヒモになる

チャンスは儚い夢と終わりそうで、なんだか残念だけど、まあ仕方ないかもしれないね。貴様がいなくなった後もたまに断食してたけど、そのたびイライラして誰か

をぶん殴りたくなって、その怒りから自然と貴様のこと思い出してしまうから、最近はもうやってないんだよ。あっ、彼女が戻ってきた。遠くから私に向かって大き

く手を振っている。私は恥ずかしいから気づかない振りをして、あさっての方向を向いてしばらく絵のことやら今日の晩飯のことやらをぼんやりと考え続けていた。

そして「なんで気づいてくれないのよ」と戻ってきてプンプン怒っている彼女に「全然気づかなかったよ」なんてわざとらしく驚いてから、彼女に「なあ、俺のチン

チンってどんな感じ?」と尋ねてみる。彼女は「え、何言ってんの、いきなり、バカなの?」「別に変な意味じゃなくてさ、大きさとか硬さとかさ」「何で今聞くの

よ?ほんとに意味わからないんだけど、バカなの?」「いや、もしかして金メダルとか獲れちゃったりするのかなあ、とかさ」「金メダル?はあ?何言ってるのかチ

ンプンカンプンなんですけど、ほんとバカなの?」と私の質問をうまくはぐらかして「それよりも、今日の夕飯何食べたい?好きなもの作ってあげるよ」「別に何で

もいいよ」「何でもいいとかじゃわからないよ」「何でもいいって」「それじゃわからないから聞いてるんでしょ」もうすでに倦怠期の夫婦みたいな会話を続ける。

もしかしたら、何の因果か、彼女と出会ってこうして今付き合っているのも、<頭文字P>が脚本書いて裏工作して、つまり<頭文字P>が恋のキューピッドだったりし

てな、まさかな、などとふと思ったりしながら、私は「考えるの面倒だから任せるって」と面倒くさそうに答える。「そういうのが、ほんと一番困るんだけどなあ」

やっぱり人間の女は面倒くさい。「じゃあ、スパゲッティでいいよ、スパゲッティで、スパゲッティ、スパゲッティ、スパゲッティ」「何それ、なんで投げやりなの

よ、適当すぎるんですけど」本当に人間の女は面倒くさい。「スパゲッティでいいって言ってんだろ、スパゲッティで、しつこいんだよ!」「じゃあ、ソースは?」

「あ?ソース?なんだソースって?スパゲッティになんでソースなんだよ、焼きそばじゃねえんだぞ、もしかしてタレのことか、だったら最初からタレって言えよ、

タレって、何気取ってやがるんだよ」「えっ?普通にソースって言わないっけ?言うよね、まあ、別にいいけど、じゃあ、スパゲッティのタレは何にしますか?早く

答えなさい」本当に本当に人間の女は面倒くさい。「ああ、もうなんでもいいって!いい加減にしろ!バカ!」とうとう怒りだした私は、本当に勘の鈍い女だなあ、

俺の親友で、俺のフィアンセの「ぺの字」こと<頭文字P>だったら何も言わずとも俺の感情をしっかりと認識してくれるのになあ、などと一瞬また<頭文字P>のこと

を思い出して、人間は本当に気が利かないよなあ、これだから人間の女と付き合うのは嫌なんだよなあ、まったく、もう!とウンザリしていると「さっきから私の話

ちゃんと聞いてくれてるの?スパゲッティのタレは何がいいかってずっと聞いてるんだよ!」と彼女もとうとう本気で怒り出して、私は怒り狂う彼女のその般若のよ

うな横っ面を公衆の面前で、新藤兼人『裸の島』の中で殿山泰司が乙羽信子の横っ面をひっぱたくシーンのごとく、小津安二郎『宗方姉妹』の中で山村聰が田中絹代

の横っ面を執拗に連打するシーンのごとく、思いっきりぶん殴ってやりたい猛烈な衝動に駆られて、腕を大きく振り上げたものの、もちろん実際にぶん殴ったりなど

はせず、その腕を後頭部に回して頭を掻く振りなどして誤摩化したのだったが、そう、すなわち、何を隠そう、その時の私は、朝から何も食べておらず、とにかくも

う誰でもいいからぶん殴ってやりたくなるほど腹が減って腹が減って仕方ない気分なのであった。以上、これらの話はすべてが夢だったのかもしれないし、はたまた

断食による幻覚だったのかもしれないし、本当のところは私自身にもさっぱりよくわからいというのが正直なところなのだけれども、断食をすると今まで気づかなか

った真実が見えきて、特殊な能力が芽生えるかどうかは皆目不明だが、なんだかとても不思議なこと、そして、なんだかとても素敵なことが起こるということだけは

疑う余地のない事実のようなのであった。と、ここまでノートパソコンに打ち込み終えると、私は気持ち良さそうにベッドで上半身を伸ばしてみる。西日の射し込む

病室のベッドの横では年老いた母親が梨をむいてくれていて、年老いた父親はぼんやりと格子窓の外を眺めている。私が「手紙は?」と尋ねると、母親は「手紙って

何の手紙?」ととぼけたような顔で梨をむき続け、それからとってつけたように「そういえば、前に連れてきた女の子とは今もうまくいってるの?なんだっけ、オー

ドリー・ペッパーさんだったっけ?色白の可愛らしい女の子」と尋ねてきて、私は「ああ、あの子なら今イギリスに帰国してるよ」と答えてから、あれ、でも、彼女

のこといつ両親に紹介したんだっけ?何だか記憶が曖昧でよく思い出せないんだよな、と不思議がりながら、もう一度「手紙は?」と尋ねると、母親は「だから、手

紙って何の手紙よ?」ととぼけたような顔で梨をむき続け、父親はぼんやりと窓の外を眺め続けている。そしてさらに私が「手紙は?」と尋ねても、母親はもう返事

もしてくれなくなってしまった。手紙さえ見つかれば、この摩訶不思議な出来事の現実味がぐんと増すのになあ、あの手紙はちょっとよかったよ、思わず泣いてしま

ったもんなあ、あれは本当によかった、などと私は遠い目をする。なんでもここには昔太宰治も入院していたそうだと担当の先生から今朝教えてもらったばかりだ。

2020.10

 

 

 

 

 

13.『Asshole / いま、掘られにゆきます (仮)』

 

 

2017年の正月、私は小説を1本書いて仕上げることをその年の目標に掲げたのだけれども、歳を重ねて中年になってからの月日の進む体感速度はとてつもなく速いも

ので、おそらくその主な要因は、老眼のはじまりや勃起時のペニスの硬度の低下などに代表される生命力の衰え、さらには外国人の名前が咄嗟に思い出せないとか、

さっき何かとても大切なことを思い出したはずなのに30秒後には何を思い出したのかを忘れ、その30秒後(つまり合計1分後)にはその何かを思い出したということす

らもすっかり忘れてしまっているといった物忘れの頻発をはじめとする頭脳の衰えなど、「老い」の徴候の発現によって、若い頃は遠い未来の他人事として軽視して

いたはずの「死」というものが、近い将来必ずや己の身に訪れるという事実をもはや無視できなくなるからだ、と私は常々考えているが、気がつけば自らで勝手に定

めた締め切りの2017年はとっくの昔に終わってしまっており、すでに2018年も4分の1が過ぎ去ろうという現在に至ってもなお、私は小説を1行1文字すらも書けず

にいるのであった。もっとも、私が小説を1行1文字も書けずにいることは紛れもない事実ではあるものの、別にさぼって遊び呆けていたわけでは決してなくて、すで

に私の頭の中には書く内容の大筋がほぼ固まっており、ついでに言えば、題名や出版された際の本のデザインさえもほぼ決めているのであるが、それはあたかも受験

生が志望校の過去問題集を購入したり願書を取り寄せただけで、すでにその志望校に合格したかのような錯覚に陥って浮かれあがっている姿とどこか似通ったような

状況と言えなくもないのであった。ともかく「小説を書きたい」という強い思いが私の中に存在し続け、どこかへ吹き飛んで行ったり、消え去ってしまわぬうちに、

一刻も早く書きはじめなければならないのは百も承知なのだが、なぜに私が依然小説を書きはじめないのかと言えば、それは、私にとって小説を書くということは、

とても恥ずかしいことであるからに他ならないのであった。とはいえ、恥ずかしいからといって、恥ずかしがってモジモジしてばかりいては、何もはじまりはしない

ので、そろそろ腹を括って机に向って書きはじめなければならないとは思っているのだけれども。たしか、太宰治と岡本かの子がほぼ同じような内容の言葉を残して

いて、それは「小説を書くということは、銀座(日本橋)の大通りで素っ裸になって寝転がるようなものであるから、その勇気がないならば、小説など書くな」といっ

たような主旨であったと記憶しているが、とどのつまり、スカした中身のない薄っぺらなつまらぬ小説など書いて発表する意味など微塵もないということであろう。

一時期の私は、小洒落たペンネームなんかを考え偽名という隠れ蓑を着て小説を書けば少しは恥ずかしさも軽減されるのではなかろうか、などと姑息なことを考えて

いたものだが、やはり身分を明かさずに何かを表現するなんてのは卑怯なことであり、つまり素っ裸になってはおらず、それでは太宰治や岡本かの子の言葉に反する

こととなってしまい、覚悟も感じられず、便所の落書きと何ら変わらず、たとえ内容が便所の落書き程度であっても書き手の氏名や素性を明示してこそ価値があると

いうもので、結局何も表現してないことと同義となってしまうと思いを新たにし、爾来、私はきちんと己の心と対峙し、己の心の奥底に巣食う愚劣なものや醜悪なも

のや駄目なものまで含むすべてを正直に曝け出した上で、その中から美しいものを発見し、そして必ず己の実名を晒して表現していこうと腹を括った次第であった。

それに、散々ろくでもない恥ずかしい人生を送ってきたこの私が、今さら何を恥ずかしがる必要などあるというのであろうか。さっさと素っ裸になって、尻の穴まで

世間に晒してやろうではないか。世の中には、歌ったり踊ったり書いたり描いたり、自分自身を世間に晒して表現することによってしか救われない類いの人間という

ものが少なからず存在し、私もそのうちの一人であることをずいぶんと昔から自覚しており、さらに、常々私は生きることそれ自体が自らの作品であるとみなしても

おり、自分自身をより魅力的に面白く表現するためには、何よりもまず自分自身の生きざまをより魅力的に面白くしていかなくてはならぬ、と己の生きる道つまりは

人生の節目節目において、決して打算的ではなく、むしろ直感的、本能的に、たとえそれが険しく孤独な茨の道であろうとも、たとえそれが正しい道ではないとわか

っていても、自らが最高に魅力的で面白いと信ずる道を模索しながら、時に運命に身を任せたりなどして、あるがまま、なすがまま、やみくもに突き進んで生きてき

たという自負があるゆえ、己の生きる道つまりは人生の途上にて、自らの身に振りかかる幾多の不運や幸運はすべて最終的な結末を迎えるまでのいわば伏線(芸の肥や

し)であるという認識でいるのだけれども、なかなかどうして、自分自身を表現するということは、この上なく恥ずかしいことであり、かつ、この上なく難しいことで

もあり、そもそもそれほど容易く自分自身を表現することができるのであれば、世の中を渡っていくことももう少しは楽であったはずであり、もう少しはまともな人

生を送ってくることもできたはずであるが、今さら過去の己の恥ずかしい愚行を悔いてみても、覆水盆に返らず、詮無きことであるがゆえ、とにかく自らの人生の結

末をハッピーエンドに向かわせるべく(別にハッピーエンドでなくバッドエンドでも終わりは終わりもう終わってしまうのだから構わないのだけれども、最後にいい人

生だったなと思いたいところではあり)、ただひたすら前進あるのみで行くしかないのである。さて、そんなさなかのつい先だってのこと、私は、世界のクロサワこと

黒澤明監督から映画の脚本を依頼されるという内容のとてつもなくスケールの大きな奇妙で奇天烈な夢を見たのだった。これまでに映画の脚本など書いた試しは一度

もなく、絶対に書けそうにもないと悟った私は、無理ですよ、絶対に無理ですって、どうして私なんですか、世間には脚本が書ける者など星の数ほどもいるではない

ですか、と必死に断りを入れるも、世界のクロサワこと黒澤明監督はまったくもって耳を貸してくれず、私の断りを頑として受け入れようとはせず、君ならきっと書

けるよ、絶対に書けるから、なぜって君は天才なんだから、俺の目に狂いはないんだよ、俺は君の脚本を撮りたいんだよ、天才の君の脚本じゃないとダメなんだよ、

とおだてあげられるようにしつこく懇願されて、しまいには、世界のクロサワこと黒澤明監督がおもむろにその身長180cmを優に超す堂々たる体躯を窮屈そうだけれ

ども意外と器用に折り曲げ、私の足元にひれ伏し拝み倒すように、それはまるで神聖な母なる大地の割れ目に情熱的なクンニリングスを繰り返すような格好で、地面

におでこや鼻や頬や口や黒眼鏡など顔面全体をスリスリと脇目も振らずなすりつけ、お願いだから、お願いだから、私のために脚本を書いて下さい、お願いします、

お願いします、お願いします、お願いします、お願いします、とそのうち涙までボロボロと流しはじめ、挙げ句の果てには、口元からいささかヤニくさそうな、酒に

たっぷりと浸してくすんだような薄桃肉色の舌先をチロリとのぞかせ、それはまるでウブな生娘が初めての彼氏にフェラチオご奉仕する時のようなぎこちなさでもっ

て、私のきったねえスニーカーの靴先をチロチロチロチロと不器用ながらも真摯な愛情のこもった丁寧さで舐めはじめたかと思えば、突然何かのスイッチが入り、こ

こからがわたくしの本領発揮でございますよ、どうぞご堪能あそばせ!という合図でもあるかのように、チロチロチロチロと私の靴先を舐めるスピードを加速度的に

上げていき、それはまるで勤続30年すれっからしのベテランソープ嬢が、客を喜ばせるテクニックだけは決して出し惜しみしないわよ、それがあたしのプロスティチ

ュートとしての最後のプライドなんだから、そうよ下着は黒で煙草は14から、ロストバージンもたしか14だったかしらね、相手の男のことなんて顔さえ覚えちゃい

ないわよ、金さえきっちり払ってくれさえすりゃ、お望み通りなんだってするわよ、おにいさん結構タイプだし、指1本(1万円)余計に払ってくれりゃ、生で入れて中

で出しても構わないわよ、いわゆる、生中だし、略して「NN」ってやつだわね、心配しなくても大丈夫、あたしピル飲んでるし2週にいっぺん病院で検査もしてるか

ら、ただし店には絶対内緒だよ、プッハーーーーーーっと煙草の煙を吐き出す小粋なプロ根性を私に想像させるほどに超絶的なテクニックを駆使しながら、舌全体を

ヘリコプターのプロペラみたいに超高速回転させ、そのままドラえもんのタケコプターのごとく天高く上昇していけるほどの勢いで、グルングルンベロンベロンと私

の靴全体のあらゆる部分をくまなく、お客さま他におかゆいところはございませんか?と言わんばかりに舐めまわしはじめるやいなや、みるみると舐められている私

の右足のきったねえスニーカーの舐められた部分から新品同様と見紛うほどにきれいになっていくものだから、身分不相応に天才などと持ち上げられて、まんざら悪

い気もせず、というよりも、むしろすっかりいい気分に浸っていた私は、ほほう、こいつは根っからの舐め好きとみたぞ、本当に心の底から舐めるのが好きで好きで

たまらねえんだろうな、舐めながら自分で自分のアソコをいじくりまわして感じまくってる変態女がたまにいるけど、こいつも真性のド変態なんだろうな、犬っころ

みてえに尻尾ふってグルングルンベロンベロン舐めまくってきやがるぜ、とか思いながら、さらに、この年端もいかない生娘の初々しくぎこちない舌使いと年増の売

女の超絶変態的な舌使いとを臨機応変瞬時に使い分ける演出テクニックをもってして、黒澤明監督を世界のクロサワたらしめているのだろうな、と妙に納得したりな

どしていたのだけれども、次第に、なぜだかは知らぬが、世界のクロサワこと黒澤明監督から私のきったねえ靴をグルングルンベロンベロン舐めまわされているだけ

だというのに、ただそれだけなのに、なんだか私は股間がムズムズとムズ痒くなってきてしまって、そのうち芯のほうからジンジンジワジワと熱くなってきてしまっ

て、しまいには隆々と痛いくらいギンギンにフル勃起してしまって、今まで46年間恥の多いろくでもない人生を生きてきて、誰か他人から靴を舐められるという経験

など一度もなかった私は、人間という生き物は靴を舐められただけでも勃起してしまうものなんだなあ、靴にも性感帯みたいのが存在するんだなあ、いやいや、ちょ

っと待てよ、それはどう考えてもおかしくないかい、なぜって靴は体の一部ではないだろう、眼鏡は顔の一部かもしれないけど、普通に考えてそんなことがあり得る

はずなかろうに、靴を舐められただけで勃起してしまうなんてことがさ、しかしおそらくこの絶対にありえないような奇跡をいとも簡単に実現してしまうほどの神秘

的な力こそが世界のクロサワこと黒澤明監督の紛うことなき才能の証しであり、靴を舐めまわしただけで初対面の男の股間を瞬く間に隆々と痛いくらいギンギンにフ

ル勃起させてしまう超絶変態的なテクニックをもってして、黒澤明監督を世界のクロサワたらしめているのだろうな、と再び納得したりなどしていたのだけれども、

しかし私の頭は、ジンジンと燃えるように熱くなって隆々と痛いくらいギンギンにフル勃起していた私の股間とは反比例するかのように、徐々に冷静沈着さを取り戻

していって、客観的に見て、靴を舐めまわされているだけだというのにフル勃起してしまっている己のまぬけな姿が無性に気恥ずかしくてたまらなくなってきてしま

って、靴を舐めまわされているだけでフル勃起してしまっているという動かしがたい事実を世界のクロサワこと黒澤明監督に勘づかれていやしないかと急に羞恥心を

覚えはじめた私は、慌てて、その時すでにズボンの上からでも隆起がわかるほどジンジンと燃えるように熱くなっていた股間を空いている両掌でさりげなく隠しなが

ら、そして止めどなく湧き上がるその羞恥心を即座に暴力的衝動へと転化させて、その時ちょうど私の右足の靴のかかとらへんをグルングルンベロンベロン舐めまわ

していた世界のクロサワこと黒澤明監督の後頭部を、舐めまわされている右足とは反対側の左足で力任せに踏みつけ、そのまま強引に押さえつけるように屈服させ、

とりあえず靴を舐めまわす行為を強制的に中断させた上で、それはいけませんよ、いけませんったら、およしくだせえまし、監督さんよぉ、なんと畏れ多いことでし

ょうか、その地面にスリスリなすりつけてるお顔をどうかどうかおあげなすってくだせえましよ、まるで母なる大地にクンニリングスしてるみてえじゃねえですか、

しかも、挙げ句の果てにゃあ、犬っころみてえに、私(あっし)のきったねえ靴までベロンベロン舐めまわしはじめる始末でさ、このまま放っといたら、今にも私(あっ

し)の尻の穴まで舐めだしそうな勢いだったじゃねえですか、そんなこった、私(あっし)はみじんも望んじゃいませんぜ、世界のクロサワともあろうお偉いお方が、犬

っころでもあるめえし、一体なんてことしなさるんすか、まったくみっともなくって見ちゃいられねえっすよ、そんでもって、まずはこのハンケチで目ん玉からボロ

ボロ流れ出ている涙をお拭きなせえよ、ご自慢の黒眼鏡が曇っちまったらいい映画(シャシン)が撮れねえでしょうが、それに、世界のクロサワともあろう監督さんの

ようなお方にそこまで言われて、むげに断るほど私(あっし)は尻の穴のちっせえちっぽけでやわな男(やから)に見えますかい、見損わないでおくんなましよ、監督さ

んよぉ、ここはまあひとつ、書く努力だけはいたしてみようじゃねえですか、他の誰でもねえ、世界のクロサワこと監督さんからの、たってのお頼みでやんすからね

え、フェフェヘへへヘへへへ、とおそらくは最近連続で観賞した世界のクロサワこと黒澤明監督の傑作エンターテインメント時代劇『用心棒』『椿三十郎』あたりに

おける三船敏郎演ずる浪人侍の口ぶりに影響を受けたものであろうか、はたまた世界のクロサワこと黒澤明監督初のカラー作品であるところの人情ドラマ『どですか

でん』の電車ごっこに興じる知的障害をもつ青年の口ぶりに影響を受けたものであろうか、途中からいつぞの時代のどこぞの方言なんだかさっぱりわからぬような、

しいていうならば、江戸っ子べらんめえ口調に近いような怪しげな言葉遣いを駆使しながら、私はまんまと世界のクロサワこと黒澤明監督からの突然の脚本執筆依頼

を安請け合いさせられてしまったのだけれども、別れ際に世界のクロサワこと黒澤明監督は私に1冊の文庫本を無言で手渡し、来た時とまったく同様に風のように去

って行ったのだった。手渡された本は、どういう訳か知らぬが、小林秀雄訳のアルチュール・ランボー『地獄の季節』(岩波文庫)なのであった。私は、いざ引き受け

てはみたものの、実際に映画の脚本を書く段となると、書こうとしてもまったくもって書けなくて、それもそのはず、アルチュール・ランボー『地獄の季節』を無言

で手渡されてはいるものの、一切何の説明もないのであるから、『地獄の季節』をテーマにしろという意味なのか、『地獄の季節』を参考にしろという程度なのか、

『地獄の季節』というタイトルにしろという意味なのか、どう解釈してよいものやら私には皆目不明であって、そもそも何をテーマにした映画であるのか、恋愛映画

なのか、アクション映画なのか、コメディ映画なのか、サスペンス映画なのか、ホラー映画なのか、バイオレンス映画なのか、文芸映画なのか、時代劇なのか、刑事

物なのか、どういう方向性の映画にしたいのか、主演俳優はすでに決まっているのか、スタジオセットなのか、ロケセットなのか、予算はいくらあるのか、スケジュ

ールは決まっているのか、などの情報を一切知らされずに脚本など書けるはずもなく、私は、ウン、困った、ウンウン、困った困った、ウンウンウン、困った困った

困った、ウンウンウン、本当に困ったぞ、ウンウンウン、本当に困ったことになったぞ、ウンウンウン、と糞をふんばるかのごとく、苦しげなうめき声をあげて悶絶

しそうになりながら、早くも、これは自分には到底手に負えない仕事なのではなかろうか、つまり、私には映画の脚本など書けるわけがない、という事実にあらため

て気づきはじめてきたところ、ちょうど計らったかのごとく世界のクロサワこと黒澤明監督から私のスマホに着信が入って、私は脚本をまったく書けていないという

引け目があるために、ここはひとつ完全無視を決め込むことにして、ウンウンウンウン、と糞をふんばるかのごとく、苦しげなうめき声をあげ続けていたのだけれど

も、それでも世界のクロサワこと黒澤明監督は決して諦めず不屈の精神をもって何度も何度も何度も何度もしつこく私に電話をかけて寄越してきて、私は、この変態

的、犯罪的な執拗さをもってして、撮影現場で己の納得のいくまでは絶対にOKを出さない完璧主義者として知られる黒澤明監督を世界のクロサワたらしめているのだ

ろうな、と妙に納得したりなどしていたのだけれども、さらに、私は事前に黒澤明監督の電話番号をスマホに「世界のクロサワ」で登録してあったため、着信の度に

私のスマホには「世界のクロサワ」と表示され、その都度私は、何が世界のクロサワだよ、自分で世界のクロサワとか名乗っちゃうなよな、と毒づきながら、私自ら

がスマホに「世界のクロサワ」と登録したことなどもすっかり忘れて、だんだん無性に腹が立ってきてしまって、そのうちに胸糞も悪くなってきてしまって、私のス

マホは「世界のクロサワ」ウィルスに感染したかのように「世界のクロサワ」という文字の着信履歴が無限に続く蟻の行列のごとく増殖していって、その数は瞬く間

に100件を越えたかと思えば、1000件を越え、それ以上はもう数える気力もなくなり、私のスマホはバッテリーが切れるまでの長時間に渡って「世界のクロサワ」

によって延々と嬲りものにされるかのように、プルプルプルプルプルプル震わされ続け、そのプルプルプルプルプルプル震える振動(ヴァイブレーション)に共鳴する

ように、あたかも世界のクロサワこと黒澤明監督からストーキングされているかのような不気味な恐怖に脅かされ続けていた私の心も、そのうちプルプルプルプルプ

ルプル震えはじめて、やがて私は救いようもなくうんざりどんよりとした気分に陥ってしまって、もうほとほと疲れ果ててしまって、だから言わんこっちゃないんだ

よ、最初に無理だって言っただろう、書けるわけないことは初めっからわかりきっていたのに、なぜ引き受けてしまったんだろうか、本当にバカなことをしてしまっ

たもんだよ、書けねえもんは書けねえんだってさ、無い袖は振れるわけねえじゃねえか、天才だのなんだのと言われてすっかりいい気持ちになってた自分の愚かしさ

に涙がでてくらあ、こんなことになるなら脚本など最初から引き受けなければ良かったんだ、でもよ、むこうさんが好き好んで自発的に示してきた行為であったにせ

よ、世界のクロサワこと黒澤明監督に土下座されて涙ボロボロ流されておまけに犬っころみてえに靴までベロンベロン舐めまわされて後生ですからって頼まれた日に

ゃ、さすがに断わるわけにもいかんもんな、とはいえ、いったん正式に引き受けたものをすいません書けませんでしたって謝って済む道理もねえしな、やはり普通に

考えて今度はこっちが土下座して涙ボロボロ流して犬っころみてえに靴までベロンベロン舐めるのが筋ってもんだよな、いや、待てよ、靴だけで済めばいいんだけど

な、靴だけで済むならば、いくらでも喜んで犬っころみてえに靴の裏っかわまでベロンベロン舐めまくるけどな、だけども、今回の場合はあきらかにこっちに非があ

るからな、とてもじゃねえけど、常識的に考えて、犬っころみてえに靴ベロンベロン舐めるだけでは済みそうにねえわな、土下座して涙ボロボロ流しておまけに犬っ

ころみてえに靴までベロンベロン舐めまわして後生ですからと頼んでくださった世界のクロサワこと黒澤明監督の頭を、勢い余ってのこととはいえども、思いっきり

踏んづけちまったんだもんな、あの時、俺なぜだかは知らねえけど勃起しちまっててさ、靴舐めまわされてるだけなのに勃起しちまってて、それがもう恥ずかしくて

恥ずかしくてたまらなくなってきちまってさ、俺が勃起してることを世界のクロサワこと黒澤明監督に勘づかれていやしないかって心配で心配でたまらず、そのうち

にさ、靴ベロンベロン舐めまわしただけで俺のことを勃起させている世界のクロサワこと黒澤明監督のことが憎たらしくて憎らしくってたまらなくなってきてしまっ

てさ、もう本当に藁にもすがる思いで衝動的に世界のクロサワこと黒澤明監督の頭を力任せに思いっきり踏んづけちまったんだよな、俺手加減、いや、この場合は足

加減になんのかな、とにかく加減てもんがまったくわからなくって、おまけに踏んづけた足ってのが利き足の右足ではなくて左足だったもんだから、もう大変だ、さ

らに加減の調節が利かなくなっちまって、利き足じゃないぶん少し強めに思いっきし頭踏んづけちまったんだっけな、ありゃ相当痛かっただろうよ、あん時、黒澤明

監督すんげえ形相で目ん玉からボロボロ涙流してたけどよ、あの涙のほとんどは、おそらく俺が思いっきり頭踏んづけて、それがあまりにも痛かったからなんじゃね

えのかな、大の大人があそこまで涙ボロボロ流す姿を久しぶりに俺は目の当たりにしたけど、大昔にTVで『一杯のかけそば』とかいうインチキ与太話を読みながら、

誰だか忘れたけどインチキ芸能人が泣いてたのを見て以来だったよ、よく怒らなかったと思うよ、さすがは世界のクロサワこと黒澤明監督だよね、よく我慢した、よ

くぞふんばった、あっぱれクロサワ!って俺は褒めてやりたいと思ったよね、あの辛口の張本勲もさすがにサンデーモーニングであっぱれ!あっぱれ!言うんじゃね

えのかな、でも、そんな具合に無意識のうちに思わず咄嗟に足が出てしまったとはいえどもだよ、訴えられても全然おかしくないくらいのひどいことを俺はしてしま

ったわけなんだよな、まあ、ともかく、世界のクロサワこと黒澤明監督にあんな無礼なマネを働いておきながら、今度はこっちの一方的な都合で断るわけだもんな、

やっぱなりゆきで尻の穴くらいは舐めることになっちまうんだろうな、嫌だなあ、舐めたくねえなあ、マジで舐めたくないんだけど、嫌だなあ、舐めたくねえなあ、

舐めたくねえ、舐めたくねえ、舐めたくねえ、マジで舐めたくねえなあ、俺自慢じゃないけど今まで男の尻の穴なんて舐めたことないんだけどな、男の尻の穴どころ

か女の尻の穴だって舐めたことねえか、そもそも尻の穴なんて舐めたらいかんだろ、尻の穴はウンコがとびでてくるところだぜ、何が哀しくてそんなところを舐めな

きゃならんのだよ、どんな事情があろうとも、俺尻の穴だけは絶対舐めたらいかんと思うんだよね、昔TVのコマーシャルでも誰か歌ってたじゃねえか、舐めたらあか

ん、舐めたらあかんって、厚化粧のババアの演歌歌手がさ、舐めたらあかん、舐めたらあかん、人生舐めずに、これ、なーめーてーってさ、まあ、あのCMは、人生舐

めずにこの飴玉でも舐めてなさいよって意味で、別に尻の穴舐めるなとは歌ってないんだけどな、俺は今まで46年間のろくでもない人生をそれこそ人生舐めて舐めて

舐めて舐めまくって生きてきたけど、そんな俺でも尻の穴舐めたらあかんことくらいは理解してるけどな、しかし、いくら尻の穴を舐めたくないといって駄々をこね

つつも、話の持って行き方次第でどうしても尻の穴を舐めなきゃならん状況に陥ることもあるとして、こんなこと想像したくもねえけど、世界のクロサワこと黒澤明

監督の尻の穴は一体全体どんな味がするんだろうな、やっぱし世界のクロサワだけにヴェネチア、カンヌ、ベルリン、アカデミー、そこはかとなくインターナショナ

ルでアカデミックな味がするんだろうか、インターナショナルでアカデミックな味ってのが一体どんな味なのか俺には想像もつかない未知の世界だけど、それとも、

映画『素晴らしき日曜日』のような青臭くて貧乏臭くて辛気臭い味がするんだろうか、映画『野良犬』のような三船敏郎がひたすら街を駆けずり回って汗臭くてしょ

っぱい味がするんだろうか、映画『七人の侍』のようなダイナミックで野性的でセリフがあまり聞き取れなくてちょっとイライラするけどやはり最後は圧倒されるみ

たいな味がするんだろうか、映画『羅生門』のような人間のエゴイズムを追求したシニカルでピリリと辛い味がするんだろうか、映画『生きる』のようなヒューマニ

ズム溢れる人間臭い味がするんだろうか、映画『用心棒』『椿三十郎』のようなコミカルで思わず笑ってしまって最後に首から血がプシューっと飛び出てビックリみ

たいな味がするんだろうか、映画『赤ひげ』のようなやさしくて心温まって若い頃の加山雄三は意外といい味出してるなみたいな味がするんだろうか、映画『蜘蛛巣

城』のような矢がビュンビュン飛んで来て俺を殺す気か?みたいな恐ろしい味がするんだろうか、映画『隠し砦の三悪人』の姫役の女優みたいに演技下手すぎて案の

定途中から無理やり唖の設定にされてしまうけどそれでも美人だよなとうっとり見惚れてしまう味がするんだろうか、映画『デルス・ウザーラ』のような広大で厳し

いシベリアの大自然の風景を感じさせる味で最後にほろ苦さが残ったりするんだろうか、映画『夢』のような豪華幕の内弁当的だけど正直言ってしまうとあんまり美

味くはなくて少し残念な夢みたいな味がするんだろうか、いや、いや、いや、いや、ウンコの味しかしねえだろう、なんせウンコがとびでてくる穴だもんな、ウンコ

以外の味がするわけないよな、ウンコ以外の味がしたら逆に怪しいってもんだわな、ああ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、いやだ、けれど、けれども、もしも、

実際に舐めることに決まってしまった暁には、軽くシャワーだけでもさっと浴びていただいてから舐めたいもんだがな、シャワーがダメならせめてウォシュレットし

ていただいてから舐めたいもんだがな、まさに昔の広告コピー「おしりだって洗ってほしい」って気分なんだけどな、それくらいは他人に尻の穴を舐めさせる人間の

最低限のエチケットだと俺は思うけど、どうだろうか、はたして世界のクロサワに常識は通用するんだろうか、常識破りだからこそ世界のクロサワたる所以なのかも

しれんが、せめてもの俺の最後の切なるわがままを聞いてもらえるくらいの余裕があればいいんだけどな、しかも、世界のクロサワこと黒澤明監督は結構なお年をめ

されているし、人間は年老いていくと頭が緩くなっていくとともに、尻の穴までだんだんと緩くなっていくって聞くしな、尻の穴舐めてる最中に屁なんてブヒッとこ

かれた日にゃあ、さらに最悪な味が俺の口の中にまんべんなく広がってしまうんだろうなあ、そもそも、お年寄りの尻の穴の動きなんてもんは、まったくもって予測

不能だしなあ、世の中何が起こるかなんて誰にも予想つかんしね、さらには、屁だけにとどまらず、ブヒッブヒッと屁の勢いとともに、ちょびっとプチウンコがとび

でてきてしまう可能性だって完全には否定できないもんなあ、ちょびっとプチウンコの七人の侍たち(志村喬、三船敏郎、木村功、稲葉義男、加東大介、千秋実、宮口

精二)がいきなり俺の口の中にとびこんできて、泥だらけ、いや、ウンコまみれになって暴れまくるんだぞ、もう想像を絶するような大迫力のスペクタクルに違いない

ぞ、見逃したらもったいないぞ、いや、他人事じゃないんだけどな、おそらくは『夢』どころか『悪夢』のような、もしくは『天国と地獄』から『天国』を取っ払っ

て『地獄』のような味が俺の口の中に広がってしまうんだろうなあ、まったく、もう、たまったもんじゃないよなあ、ああ、いやだ、ああ、いやだ、ああ、いやだ、

想像したくもないや、いや、いや、いや、いや、ちょっと待てよ、ちょっと待てよ、ちょっと待てよ、もしかして、もしかしたらだけど、尻の穴を舐めるだけで済め

ばまだマシなほうかもしれんぞ、どんなに屁こかれようが、ちょびっとプチウンコがとびでてこようが、尻の穴を舐めるほうがまだまだマシかもしれんぞ、もしかし

て、もしかしたら、考えたくもないけど、もしも、もしも、もしも、世界のクロサワこと黒澤明監督がアッチ系(男色系)も嫌いじゃなくて、興味津々で、男もいける

口だったとしたら、そんな噂話は特に耳にした記憶もねえし、木下惠介監督やピエル・パオロ・パゾリーニ監督やルキノ・ヴィスコンティ監督のアッチ系の話なら前

に聞いたことがあるけど、世界のクロサワこと黒澤明監督はちゃんと結婚していて子供もいて、孫までいるから、たぶん大丈夫だろうとは思うけど、世の中には男で

も女でも見境なく穴なら何でもぶちこんじゃう両刀使いなタイプもいるらしいからな、しかし、そもそも世間一般的に男が男に対して体で示すことのできる最大限の

誠意といったら、それは何になるかといったらば、何になるんだろう、何だろう、ヤクザの世界じゃこういう場合には指を詰めるらしいけどな、俺たちはカタギと呼

べるようなもんじゃなくて、ほとんど限りなくヤクザみてえなもんだけど、でも正式なヤクザではないからな、それにウィキペディアによれば世界のクロサワこと黒

澤明監督はヤクザが大嫌いだったらしいからな、もしも詰めた指なんて持参しようものなら、それこそ火に油を注ぐ結果となりかねないしな、まあ、世の中の相場的

には、やっぱし相手に尻の穴を差し出すってことになるわな、つまりは、こっちの尻の穴の自由、尻の穴を好き勝手にできる権利を相手に献上せねばならなくなるっ

てことだわな、うっわあ、きっついなあ、勘弁してくれよ、嘘だろ、掘られるのか、掘られちゃうのか、俺尻の穴掘られちゃうのか、俺世界のクロサワにオカマ掘ら

れちゃうのか、俺世界のクロサワに尻の穴にぶちこまれちゃうのか、それはあんまりだ、あんまりだぞ、それだけはマジで勘弁してもらいたいところだけどな、尻の

穴の貞操だけは、俺死ぬまで絶対に守り抜こうって心に誓ってるんだよな、尻の穴だけはこれまで誰にも愛する女たちにすら一切触れさせることなく46年間純潔を保

ったまま生きてきたっていうのに、まったく、なんてこったって話だよ、しかも、脚本依頼された時に、世界のクロサワこと黒澤明監督からアルチュール・ランボー

の『地獄の季節』を俺は意味深に手渡されたわけなんだけれども、アルチュール・ランボーっていう人は、いわゆる男もいける口のタイプに属する人であり、ポール

・ヴェルレーヌ(10歳上のハゲたおっさんで結婚してたからおそらくバイセクシュアル)と付き合ってて、たしか色恋沙汰の挙げ句の果てに拳銃で撃たれたりなんかし

てたんだよな、さらにヴェルレーヌとランボーと二人でたぶんふざけてだと思うけど『尻の穴のソネット』っていうそのものズバリなタイトルの詩を共作してたりも

するんだよな、まさかとは思うけど、もしかしてだけど、邪推かもしれないけど、世界のクロサワこと黒澤明監督は初めから俺の尻の穴狙いで脚本を依頼してきたん

じゃないのかなんて勘ぐったりもしてしまうわけで、どうせこんなアホみたいな奴に映画の脚本なんて書けっこないから、その弱みにつけ込んで、とことん追いつめ

尻の穴をおいしく頂いてしまおうって腹だったんじゃないのかとか、そんでもって、『(俺たちの)尻の穴のソネット』を完成させようって心づもりでもあったんじゃ

ないのかなんて、いやいや、マジでそんなこと考えたくもないけど、実際にランボーが掘られるほうだったのか、掘るほうだったのか、俺は不勉強でどっちだったの

か知る由もないんだけど、ランボーは美少年だったようだからおそらくは掘られるほうだったんじゃないかな、もしも世界のクロサワこと黒澤明監督が俺との間に、

ランボーとヴェルレーヌとの関係に似た関係を構築したいと望んでいたとしたならば、それはそれは非常に厄介な話になってきてしまうわけで、『地獄の季節』は、

おまえの尻の穴に拳銃撃ち込んでやるぞっていう暗示だったのかもしれんし、文字通りこれからおまえにとって『地獄の季節』のはじまりだぞって警告だったのかも

しれんな、しかもだ、世界のクロサワこと黒澤明監督は身長180cm以上あるからな、おそらくアレも相当でかいに違いねえぞ、間違いなく、とてつもなく、世界レベ

ルに、でかいだろうな、よく見りゃ「私のチンコはとってもでかいです」って顔に書いてあるもんな、「私のチンコはとってもでかいです」って文字が、英語フラン

ス語ドイツ語スペイン語ロシア語と中国語韓国語に翻訳されてプリントされたTシャツをいつもYシャツの下に肌着がわりに着てそうだもんな、世界のクロサワだけに

チンコも世界ときっちり渡り合える、世界中どこに出しても恥ずかしくない、さぞかしご立派な世界のクロサワなんだろうな、俺そんな特大の世界のクロサワを生ま

れて初めて尻の穴にぶちこまれるかもしれないわけだけどさ、いきなりそんなバカでかいのが尻の穴に入るもんなのかな、でも、たまに、ものすごくバカでかくてぶ

っとい特大のウンコが出ることもあるからな、流すのがもったいなくて、しばらく潤んだ目でうっとり見とれちゃうみたいな、すげえでかいやつ、みんなに俺こんな

でかいの出ちまったんだけど、俺ヤバくねえ、俺ヤバくねえって、自慢して見せてまわりたくなるくらいでっかいやつ、だから、まあ、なんとかなるのかもしれねえ

な、人間の体ってのは、ものすごく精密に作られてるみてえだしな、なんて、安心してる場合じゃねえんだけどな、もう、どうなっちまうんだろ、俺以外にも男なん

てそこいらじゅうに腐るほどうじゃうじゃいるのにさ、俺よりももっと若くて、かわいらしくて、ピチピチで、プリプリで、シャキシャキで、匂い立つような若者だ

って探せばいくらだっているっていうのに、よりによって、なんでこの俺なんだろうな、それに、俺は絶対に嫌だけどさ、世界のクロサワこと黒澤明監督にならオカ

マ掘られてもいい、いや、むしろ、積極的に尻の穴捧げますってくらい熱狂的に世界のクロサワこと黒澤明監督を敬愛してやまない奴、世界中探せばごまんといると

思うんだよね、クリント・イーストウッド監督とか、スティーヴン・スピルバーグ監督とか、フランシス・フォード・コッポラ監督とか、ジョージ・ルーカス監督と

か、マーティン・スコセッシ監督とか、宮崎駿監督とか、北野武監督とか、きっとみんな喜んでパンツ脱いで尻の穴差し出してオカマ掘られるんじゃねえのかな、た

しかに俺も世界のクロサワこと黒澤明監督の映画は面白くて大好きだし、映画監督として最大限の敬意を表したいとは思ってはいるよ、でも、それとこれとは話が別

なんだよ、俺は敬意を表すことと尻の穴差し出すことはやっぱ話が別だと思うんだけどな、それが、よりによって、何がどうしてこうして、この俺が世界のクロサワ

こと黒澤明監督に尻の穴掘られりゃならんのだよ、一体全体どうすりゃいいっていうんだよ、この俺にどうしろっていうんだよ、だけど、なんで俺が世界のクロサワ

こと黒澤明監督に尻の穴掘られることがすでに大前提となってしまっているんだろうか、まだわからんだろ、まだ、世界のクロサワこと黒澤明監督が男もいける口っ

て完全に決まったわけじゃねえからな、希望を捨てちゃダメだ、俺黒澤明監督の性癖については、靴ベロンベロン舐めまわすのが大好きなこと以外ぜんぜん詳しくね

えけど、男色系にも色々あって、尻の穴にぶちこむのが好きなのと、ぶちこまれるのが好きなのと、攻めと受けで役割がきっちりわかれてるっていうじゃねえの、黒

澤明監督はどっちなんだろうな、電話してさりげなく聞いてみっか、でもどうやって聞きゃいいんだろ、ぶちこむのが好きですか、それとも、ぶちこまれるのが好き

ですかって聞けばいいのかな、それじゃあまりにも単刀直入すぎるか、ボルトが好きですか、それとも、ナットが好きですか、ちょっと意味不明か、耳かきの棒が好

きですか、それとも、耳の穴が好きですか、さらに意味不明か、菊の花が好きですか、それとも、松茸、エリンギ、ナマコのほうですか、うーん、微妙だな、舘ひろ

しと猫ひろしだったら、どっちがタイプですか、うーん、うーん、うーん、野球に例えればいいのかもな、野球で攻撃が好きですか、守備が好きですか、サッカーで

もいいか、オフェンスでシュート決めたりするのが好きですか、ディフェンスでゴール守ったりするのが好きですか、うーん、でもな、野球やサッカーの趣味と実際

の夜のベッドでの性癖が必ずしも一致するとは限らんしな、あ、そうそう、それに、電話で聞こうにもスマホのバッテリー「世界のクロサワ・ウィルス」にやられて

死んでるんだったわ、まあ、そんなもん、充電すりゃいいって話なんだけど、電源入れた途端また「世界のクロサワ・ウィルス」攻撃が再開される恐れもあるしな、

俺の靴ベロンベロン舐めまわしてた黒澤明監督の変態的な執念深さを鑑みても「世界のクロサワ・ウィルス」は至上最凶、舐めてっとまた痛い目に遭いそうだしな、

とにかく、もうこうなりゃ、出たとこ勝負、その場のなりゆきにまかせるより他ないな、もしも黒澤明監督が実際にぶちこむほうの人だった場合、こりゃ俺確実にオ

カマ掘られるわな、もしも黒澤明監督がぶちこまれるほうの人だった場合、俺が尻の穴掘ることになるのか、でも、俺が黒澤明監督の尻の穴を掘るのは誠意を示すと

いう意味ではちょっと話が違う気がするんだよな、端からみれば、誠意を示さなきゃならんところで、俺がお楽しみしてるように見えちまうからな、その場合はぶち

こまずに尻の穴ベロンベロン舐めまわすだけでご勘弁願いたいところだな、なんなら、世界中どこに出しても恥ずかしくないほどご立派なあの「世界のクロサワ」だ

ってご所望ならばベロンベロン舐めまわすこともやぶさかではないけどな、いやはや、ほんと、オトシマエのつけどころがどう転んでいくのか、まったく予想もつか

ねえから、こんつぎ世界のクロサワこと黒澤明監督に会う時は尻の穴に貞操帯でもつけてガッチリ防御して行くしかねえって話だよな、しかし、そもそも、尻の穴専

用の貞操帯なんてもんがこの世に存在するんだろうか、今回の俺みたいに他の男から尻の穴の自由を脅かされるケースなんてのは表にでてこねえだけの話で古今東西

腐るほどあって需要はあるだろうからたぶん存在はするんだろうけどな、例えばすごく有名な話だけど井伏鱒二が早稲田大学仏文科を中退したのは教授からホモセク

ハラ受けてたからだしな、他にも芸能界で男性タレントが成功するには、ホモのお偉いさんたちに尻の穴の自由、つまり尻の穴を好き勝手にできる権利を献上するの

が一番手っ取り早いとか聞くしな、あの有名なアイドル事務所の社長さんの場合は掘るほうじゃなくて掘られるほうがお好みだったって話もよく聞くけれど、正直ま

だ世界のクロサワこと黒澤明監督がどっちのタイプかわからないし、用心に用心を重ねておくに越したことはないので、やはり準備だけはしておかないと後悔先に立

たずになってしまうからな、俺は尻の穴専用の貞操帯は絶対に需要があるって確信あるんだけど、あとはそれを供給してる業者なりが存在するかどうかって話だな、

実際に存在するとして一体どこに行きゃ見つかるんだろうか、まさかヤクザがシノギで1個100万とかで闇取引してるわけでもあるまいしな、今まで俺は必要として

なかったからまったく意識してこなかっただけで、コンビニでベネトン製コンドームの横とかにさりげなく置いてあったりするもんなんだろうか、昔子供の頃道端で

コンドームの自動販売機に明るい家族計画とか書いてあって一体何の自動販売機なんだろうってずっと不思議に思ってたけど、大人になった今思えばあれは直接買う

のが恥ずかしいから自動販売機で売ってたんだな、実際コンドーム買う時レジに誰が立ってるか選ぶよね、これから俺SEXしまくるんです、ヤリまくりっすって宣言

するようなもんだからね、コンドーム単独で買うの恥ずかしくて全然必要でないものまで余計に買ってあくまでコンドームはついでに買うんだという体を装ったりし

てね、まあ、できれば無人の環境で購入したいよね、あんな風に尻の穴専用の貞操帯の自動販売機も探せばどこかで見つかったりするんだろうか、散々探しまわった

あげく灯台下暗しとはこのことかよと近所の西松屋かしまむらで10個セットで叩き売りされてたりするもんなんだろうか、東急ハンズなら確実に置いてありそうな予

感を俺はひしひしと感じるんだけど、電話で問い合せる時「尻の穴専用の貞操帯」とかいうフレーズを口から発するのはやっぱ滅茶苦茶恥ずかしかったりするんだろ

うな、購入する時レジがきれいなおねえさんで無言ながらも「世の中色々と大変ですよね、負けないで下さいね、頑張って下さいね、私は応援してますよ」みたいな

意味深な目配せされたらちょっと恥ずかしいよな、領収書もらう時「但し書きは尻の穴専用の貞操帯でよろしかったでしょうかー!」とか店中に響き渡るほどデリカ

シーのないバカでかい声で叫ばれたらもっと恥ずかしいよな、そういう危険はできるだけ避けたいからさ、できればネットとかでこっそりと入手したいんだけどな、

ネットとかで簡単に手に入るもんなんだろうか、俺が知らないだけですでに通販生活のCMで落ち目のタレントやら文化人たちがこぞって大絶賛してたり、ジャパネッ

トタカタの通販番組で社長が実演販売してたりするもんなんだろうか、昔週刊少年ジャンプの後ろのほうに載ってた怪しげな通販ページに「ペニスがでっかくなるパ

ンツ」とかにしれっと混じって売ってたりするもんなんだろうか、シャディは1冊の百貨店とかいうコピーでおなじみのシャディなら載ってそうだけど1冊の百貨店っ

て謳うくらいだから当然載ってなきゃおかしいけどどうなんだろうか、アマゾン、もしくはヤフオクかメルカリか、うーん、でも他人の使用済みの尻の穴専用の貞操

帯はちょっと嫌だよな、洗濯したとはいえ他人の尻の穴と俺の尻の穴とが間接的に触れ合うわけだし、他でもない繊細な尻の穴だしな、躊躇したくもなるよね、それ

と今ふと思ったんだけど、そもそも尻の穴専用の貞操帯を尻の穴に装着した状態で急にウンコがしたくなった時はどうすりゃいいんだろうか、そもそも尻の穴専用の

貞操帯がどういう形状でどういうシステムになっているのか俺いまいち理解してないんだけど、鍵が付いてたりするもんなのかな、想像もつかんけど、たしかにウン

コしたくなったらその都度取り外せばいいのかもしれないけどさ、もしもそんな簡単に、例えば女子供でも簡単に取り外しが可能なものならばさ、男だったらさらに

赤子の手をひねるほど簡単に取り外せるわけだよね、だったら貞操帯の役割をまったく果たさないことになってしまうわけだよね、うーん、甚だ由々しき問題だな、

もしかしたら単純に尻の穴専用の貞操帯を尻の穴に装着する直前にウンコをしておけばいいのかもしれないね、そんなに都合よくウンコがでてくれるかどうかはその

時になってみないとわからないけどさ、とりあえず無理矢理にでもふんばってウンコいっぱいだしておけばいいのかもしれないね、まあウンコの問題はもうこれ以上

考えても仕方ないし、一旦棚に上げておくことにして、あ、ちょっと待った、でも尻の穴専用の貞操帯を尻の穴に装着してる状態でウンコ漏らしてしまったら、それ

はもう本当に最悪な事態になると思うんだよね、尻の穴がウンコまみれになっているのにもかかわらず、尻の穴専用の貞操帯がなかなか外せないで、そのうち全身ウ

ンコまみれになってもがき苦しんでのたうちまわっている己の姿を想像すると、やはりウンコの問題は装着する前に何らかの対処法を見つけておいたほうがよろしい

かもしれないよね、まあ、本当にウンコの問題はもうこれ以上考えても切りがないし、一旦棚に上げておくことにして、あ、あ、ちょっと待った、今思いついちゃっ

たんだけどさ、もしかしたら常にウンコ漏らした状態でいれば、尻の穴専用の貞操帯そのものが必要なくなるんじゃないのかなあ、だってさ、アレをぶちこもうにも

何もさ、すでに先客のウンコさんが尻の穴を専用で貸し切っておられるわけで、ぶちこもうにもぶちこめないわけだもんな、それにだよ、そもそも尻の穴にウンコが

挟まった状態の相手を無理やりどうこうしようなんて気が起こるもんかね、俺はストレート(ノンケ)だから相手が女性だと想定してみると、俺はウンコ漏らしてる女

にはとてもじゃないが欲情できないよ、だってパンツ脱がせたら尻の穴にウンコ挟まってるんだぜ、普通に考えてそういう状況にはならないでしょう、一気にやる気

が失せてしまうと思うんだよね、だから、誰かに尻の穴掘られたくなかったらさ、常にウンコを漏らした状態でいればいいってことになるんじゃないのかな、ペンは

剣よりも強しだけど、便は剣よりもペンよりも強しなわけだよね、糞撃は最大の防護なりって言ったりするもんね、もうウンコ最強じゃないか、なんて、ちょっと無

理がある話かもな、第一、常にウンコ漏らした状態だと日常生活に支障をきたすどころか、人としてもどうかって話になってしまうもんね、それに、もしかしたら世

界のクロサワこと黒澤明監督はスカトロ愛好者でもあるかもしれないじゃないか、男もいける口でおまけにウンコもいける口だとしたら、まさにカモがネギ背負って

やって来たみたいな状態だわな、可能性がゼロと言い切れないところが恐ろしいところだな、かの有名なモーツァルトもスカトロ愛好者で『俺の尻をなめろ』って曲

を作曲してたみたいだし、世界のクロサワこと黒澤明監督も『おまえの尻をなめさせろ』って映画をこっそり撮っていたかもしれんし、藝術的才能に溢れる人間には

同性愛者同様にスカトロ愛好者が結構多いって話もたまに聞くもんな、あな(穴)恐ろしやだよね、まあ、ともかくウンコの話は老若男女みんな大好きで、ウンコの話

になると切りがなくなってしまうんだけど、大変お名残惜しいところではありますが、ここまでにしておいて、ところで、ネットで購入すると仮定してだ、値段はお

いくらくらいするもんなんだろうか、サイズとかデザインとかカラーとか豊富なバリエーションからお好きなものを自由自在に組み合せて、あなただけの私だけの世

界にひとつだけのオリジナリティ溢れる尻の穴専用の貞操帯をオーダーメイドできたりするんだろうか、それから欲を言うならば、もしも可能であるならばだけど、

俺はオプションでマリー・アントワネット風のかわいらしいレースのフリルの装飾を施したいと思っているんだよね、それからガッチリ守るべき場所は尻の穴だけで

十分だから、それ以外の部分はできる限り隠さずにバッチリ見せつけてたっぷり焦らしてやりたいからね、できればいやらしいTバックのタイプを選択したいと思っ

てるんだけどね、だってさ、せっかく高い金払って自分だけの世界にひとつだけのオリジナリティ溢れる尻の穴専用の貞操帯をオーダーメイドするわけだから、おそ

らくそんなの一生に一度の機会だと思うわけで、誰だって思い切って奮発してやはり自分の納得のいく自分だけの世界にひとつだけのオリジナリティ溢れる尻の穴専

用の貞操帯を目指したいわけじゃない、納得のいかない中途半端で不満足なものなんか作って装着するくらいだったら、いっそのこと潔く尻の穴掘られたほうがマシ

だって俺は思うわけで、さらに欲を言うならば、マリー・アントワネット風のかわいらしいレースのフリルの装飾を施したブラも上下セットでオーダーしたいくらい

の勢いで俺はいるんだけどね、まあ、それはいささかやり過ぎというか、欲張り過ぎというか、さすがにマニアック過ぎてドン引きされちゃうから今回は諦めるけれ

ども、そういう切実な思いも込めて、マリー・アントワネット風のかわいらしいレースのフリルを装飾できて、いやらしいTバックのタイプも選べるようなオプショ

ンにもきめ細やかに対応してくれるんだろうか、そして、オプションでマリー・アントワネット風のかわいらしいレースのフリルの装飾を施されたいやらしいTバッ

クタイプの私だけの世界にひとつだけのオリジナリティ溢れる尻の穴専用の貞操帯を尻の穴に装着してる以外は一糸もまとわぬ私の姿を目にして、世界のクロサワこ

と黒澤明監督は一体何を思うのだろうか、とても素敵だよ、特にそのマリー・アントワネット風のかわいらしいレースのフリルが君にとっても似合ってて抜群に素敵

だよ、しかも尻の穴以外はなるべく隠さないTバックタイプを選んでくれるなんてサービス精神旺盛でもう我慢できなくなっちゃうよ、と耳元で囁いてうしろからや

さしく抱きしめてくれるだろうか、そして、私がマリー・アントワネット風のかわいらしいレースのフリルが装飾されたいやらしいTバックタイプの私だけの世界に

ひとつだけのオリジナリティ溢れる尻の穴専用の貞操帯越しに尻の穴をヒクヒクヒクヒクと収縮と開放をねっとりといやらしく繰り返し繰り返し反復させることによ

って必死に訴えかけようとしている、私の心の微妙に揺れ動く背徳的なざわめきを、世界のクロサワこと黒澤明監督は敏感に感じとってくれるだろうか、そして、あ

ああ、やはり、とうとう、Tonight's the Night/今宵その夜、その時は来るべくしてやって来て、世界のクロサワこと黒澤明監督は、マリー・アントワネット風のかわ

いらしいフリルが装飾されたいやらしいTバックタイプの私だけの世界にひとつだけのオリジナリティ溢れる尻の穴専用の貞操帯を私の尻の穴から、まるで映画『七

人の侍』の戦闘シーンさながらの荒々しさを彷彿とさせるかのような乱暴さで、思わず私が「もう滅茶苦茶にして頂戴!」と喚き散らし取り乱してしまうほどの乱暴

さでもって、もちろんその乱暴さの奥底には世界のクロサワこと黒澤明監督お得意のいつものヒューマニズムをそこはかとなく感じさせながら、ダイナミックに剥ぎ

取ってくれるだろうか、そして、ようやくあらわとなった46年もの間貞操を守り続け純潔を保ち続けてきた穢れを知らぬ私の尻の穴と晴れてご対面を果たした世界の

クロサワこと黒澤明監督は、私の尻の穴を「すごくクールだね!本当にすごくクールだと思うよ!」と少し照れたようにぼそっと伏目がちにつぶやいて褒めてくれる

だろうか、そして、突如「ヌーヴェルヴァーグ!」と大絶叫しながら黒澤映画常連のいつものスタッフを急遽招集して、私の尻の穴をテーマにした映画を脚本なしの

即興で撮りはじめたかと思えば、46年間貞操を守り続け純潔を保ち続けてきた穢れを知らない私の尻の穴をカメラのファインダー越しに目にしてとうとう我慢しきれ

ず催してきてしまって、撮影中でまわりに大勢のスタッフがいるにもかかわらず、私の尻の穴にしゃにむにむしゃぶりついてきて、前回私の靴をベロンベロン舐めま

わした時とまったく同じ要領で、まずは年端もいかない生娘が初めての彼氏にフェラチオご奉仕する時の初々しくぎこちない舌使いからはじまって突然スイッチが入

ったかのように自分の舌をヘリコプターのプロペラのごとく超高速でグルングルンベロンベロン回転させる年増の売女の超絶変態的な舌使いへと臨機応変瞬時に変化

させていきながら、私の尻の穴を丁寧にそして丹念に精魂こめて小1時間ほど散々しつこくふやけるまでベロンベロン舐めまわし味わい尽くし、途中から調子に乗っ

て私の尻の穴に舌半分くらいグイグイとねじ込んできて、口の中にウンコの風味がほんのりと広がるのさえも厭わず舌で掻きまわしてきて、それはまるで犬っころが

大昔に庭に埋めて隠しておいた自分だけの思い出が一杯詰まった大切な本当に大切な宝物を血眼となって探し出しほじくり返すかのような鬼気迫る執念深さで、そし

て、私は、まさにこの変態的な執拗さをもってして、撮影現場で己の納得のいくまでは絶対にOKを出さない完璧主義者として知られる黒澤明監督を世界のクロサワた

らしめているのだろうな、と妙に納得したりもしていたのだけれども、しまいには私の尻の穴自体がすべて残らず食い尽くされてしまうのではないかというほどの勢

いで舐めまわし堪能したのち、さらに驚くことには、矢庭にご自慢の黒眼鏡を外して自らの頭そのものを私の尻の穴に無理やり突っ込もうと懸命な努力さえ見せはじ

めるものの(スカルファックでググってみてください)、何度も執拗に粘った末に、やはりどう考えても尻の穴に頭蓋骨まるごと突っ込むなどという突拍子もない暴挙

は物理的に現実的に無理だとわかって泣く泣く諦めたご様子で、それから、世界のクロサワこと黒澤明監督は、自らのズボンとパンツどころか「私のチンコはとって

もでかいです」という文字が英語フランス語ドイツ語スペイン語ロシア語と中国語韓国語に翻訳されてプリントされたTシャツさえも潔く脱ぎ去り全裸となって、お

年寄り特有のブクブクと太っただらしない輪郭が目立つ裸体を晒して、散々しつこくふやけるまでベロンベロン舐めまわし味わい尽くした私の尻の穴にご自身の、さ

すがは世界のクロサワだ!チンコの大きさも世界中どこに出しても恥ずかしくない世界レベルの世界のクロサワだった!と世界中の誰もを熱狂の渦に巻き込むほどダ

イナミックでヒューマニズム溢れる超特大サイズのアレを、お歳をめされているせいかすぐには硬くはならず挿入するのに少しばかり難儀しつつも、常連のスタッフ

たちの熱心な励ましに支えられながら、バイアグラを1瓶ラッパ飲みしたり、特殊な超ヌルヌルのスペシャルローション(なんでも地中海産のワカメや昆布など天然の

海草由来の成分をふんだんに使用した特注のローション)を使用するなどの創意工夫までこらして私の尻の穴に傍若無人かつダイナミックにぶちこむだろうか、そうし

て、世界のクロサワこと黒澤明監督から超特大サイズのアレを尻の穴にぶちこまれた私は、尻の穴にぶちこまれたショックのあまり、突然口調が女言葉に変わってし

まって、あたしお尻の穴にぶちこまれるなんて生まれて初めての経験だったんだけどぉー、監督さんのアレをみた時もうビックリ仰天して膝がガクガクしちゃうくら

いおっきくてぇー、こんなおっきいのがあたしのお尻の穴に入るのかしらってとっても心配だったんだけどぉー、しかも事前にあたしは監督さん用に超特大サイズの

コンドームまでわざわざ用意していたのにぃー、お願いだからコンドームして頂戴って言い出す暇もまったく与えられずにぃー、監督さんはご自身のアレをコンドー

ムもつけずに生であたしのお尻の穴にぶちこんできたんだけどぉー、実際にぶちこまれてみるとぉー、思っていたよりも痛くはなくってよかったわぁー、初めての時

はすっごく痛いってお友だちのキヨシとかアキヒロとかフレディとかジョージとかにも散々聞いてたからぁー、何だかあたし一瞬拍子抜けしちゃったんだけどぉー、

もしかしたらぶちこむ直前に監督さんがあたしのお尻の穴を丁寧にそして丹念に精魂こめて小1時間ほど散々しつこくふやけるまで舐めまわしていただいたからかも

しれないわねぇー、監督さんったら調子に乗ってあたしのお尻の穴に舌グイグイ入れて掻きまわしてきてぇー、あたしお尻の穴食べられちゃうのかなあって恐くなっ

てきちゃったんだけどぉー、しかもさらに驚くことには監督さんご自身の頭をあたしのお尻の穴にまるごと突っ込もうというチャレンジ精神さえ見せはじめてぇー、

さすがにそれは無理だろこの変態スケベじじい!とかあたし思ったんだけどぉー、だってあたしにとってはお尻の穴にぶちこまれるのも初めての経験だっていうのに

それがスカルファックになるわけでぇー、スカルファックっていうのはググってもらえばわかるけどぉー、頭まるごと入れちゃうわけでぇー、しかもお尻の穴だから

アナルスカルファックになるわけでぇー、そんなの絶対無理に決まってんだろこの変態スケベじじい!とかあたし思ったんだけどぉー、監督さんめげずに何度も不屈

の精神でチャレンジしてたみたいだけどぉー、さすがにお尻の穴に頭まるごとぶちこむのは無理だとわかったみたいでぇー、そのあと、とうとう監督さんご自慢の超

特大サイズのアレをあたしのお尻の穴に特殊な超ヌルヌルのスペシャルローション(なんでも地中海産のワカメや昆布など天然の海草由来の成分をふんだんに使用した

特注のローション)まで使ってぶちこんできてぇー、監督さんすぐにイってしまわれるのかと思いきやかれこれ5時間近くもあたしのお尻の穴にぶちこみ続けてぇー、

途中中折れしそうになると常連のスタッフさんに合図だしてバイアグラを持ってこさせて1瓶一気にラッパ飲みしたりしてぇー、いきなりそのバイアグラの錠剤まみ

れの口をあたしの口に押し付けてキッスしてきてぇー、噛み砕いたバイアグラの錠剤を無理やり口移しで飲ませてきたりするもんだからぁー、さっきまであたしのお

尻の穴ベロンベロンと舌までねじ込んで舐めまわしてた監督さんの口とキッスしてしまうとぉー、つまりあたしは自分のお尻の穴と間接キッスすることになっちゃう

わけでぇー、あたし、いやだ!いやだ!いやだ!いやだ!いやだ!いやだ!って必死に暴れて抵抗したんだけどぉー、お尻の穴に監督さんの超特大サイズのアレがっ

つりぶちこまれてる状態だから体の自由が全然きかなくてぇー、あたし今まで一度もバイアグラなんて飲んだことなかったんだけどすぐさまバイアグラの効果がテキ

メンに現われてきてぇー、あたしのアレも監督さんのアレと同じくらいおっきくなってきちゃってぇー、そのおっきくなったあたしのアレを監督さんの節くれだった

大きなしわしわの御手手でぇー、時にやさしく時に力強くパワフルにダイナミックにそしてもちろんその奥底には常にヒューマニズム(人間愛)も忘れずにぃー、老人

特有のとってもいやらしいねちっこい手つきで超ヌルヌルのスペシャルローション塗れにしてしごいてくるもんだからぁー、あたしは監督さんにお尻の穴にぶちこま

れているのと少し前に口移しで無理やり飲まされたバイアグラの効果でぇー、今までに味わったことがないくらいもうあたし気絶しちゃうんじゃないかしらって思う

くらいの興奮度とともにぃー、あたしのアレは汐留の電通ビルくらい天高く力強くギンギンにソリッドにどす黒く聳え立ってしまってぇー、監督さんがあたしのお尻

の穴にぶちこんでた合計5時間近くの間にぃー、恥ずかしながらあたしは合計20発も発射してしまってぇー、つまり骨抜きにされちゃったってわけなんだけどぉー、

もう本当監督さんったらお歳のわりにたいそうお盛んでドスケベなんですから困っちゃうわよねぇー、オホホホホホ、などと最初はウブな生娘が処女を喪失した際に

ありがちな意外と平凡で退屈でいささか強がったフリをしつつ徐々に情熱的で個性的な感想を心に抱きながらも、世界のクロサワこと黒澤明監督の手前上、監督の演

出意図を即座に汲み取って、つまり、まわりの空気をしかと読み取って、緊張感漂う殺伐とした荒野のような撮影現場に、世界のクロサワこと黒澤明監督の「OK!」

の声が響き渡るまで、私は歓喜の空涙をボロボロと流し続けるだろうか、って、おい、おい、おい、おい、おい、おい、おい、おい、ちょっと待て、ちょっと待て、

ちょっと待て、ちょっと待て、ちょっと待て、ちょっと待てって、どうなってんだよ、ちょっと待てってば、一旦落ち着いて話を整理させてもらおうか、世界のクロ

サワこと黒澤明監督からオカマ掘られないように、わざわざ尻の穴専用の貞操帯つけて会いに行ってるわけだよな、だのに、なんで世界のクロサワこと黒澤明監督が

尻の穴専用の貞操帯を気に入ってくれるだとか、素敵だよ、と耳元で囁いてうしろからやさしく抱きしめてくれるだとか、そういう話になっちまうのかな、少しばか

し話の方向性を見失ってやしないかい、そもそも、なんで尻の穴専用の貞操帯を尻の穴に装着してる以外は一糸もまとわぬ姿、つまり尻の穴専用の貞操帯以外は素っ

裸なんだよ、ちゃんと服着て行けよ、しかもマリー・アントワネット風のレースのフリルまで無意味に装飾したりして、おまけにいやらしいTバックタイプまで選択

しちゃってよ、まるで娼婦みたいに自分から誘ってるようなもんじゃねえかよ、うしろからやさしく抱きしめてくれるってのはさ、つまりは半分尻の穴掘られてるよ

うなもんだろうがよ、いつでもぶちこんで下さいって言ってるようなもんだろがよ、もう先っちょぶちこまれてるようなもんだろうがよ、それじゃあ、あまりにも本

末転倒じゃねえのかな、おまけに尻の穴専用の貞操帯越しの尻の穴のヒクヒクってえのはさ、私の心の微妙に揺れ動く背徳的なざわめきだかなんだか知らねえけど、

つまりはさ、感じちゃってるわけだろうがよ、尻の穴が、ヒクヒクヒクヒク、早く来てちょうだい、ヒクヒクヒクヒク、ぶちこんでちょうだい、ヒクヒクヒクヒク、

もう我慢できないのよ、ヒクヒクヒクヒク、もうあたしどうにかなっちゃいそうだわって言ってるようなもんだろがよ、それからさ、とどのつまりは、結局、俺、世

界のクロサワこと黒澤明監督に尻の穴専用の貞操帯を乱暴にむしり取られて、尻の穴をふやけるまでベロンベロン舐めまわされて、超特大サイズの世界のクロサワを

まんまと尻の穴にお見舞いされちまってるわけじゃんかよ、そもそも一体全体何のための尻の穴専用の貞操帯だったんだって話だよね、マリー・アントワネット風の

レースのフリルまで装飾したりして、自分だけの世界にひとつだけのオリジナリティ溢れる尻の穴専用の貞操帯をわざわざ作った意味なんて結局なかったってことじ

ゃんかよ、いやらしいTバックタイプを選択したのも大間違いだったんじゃねえのかな、もっとガッツリ尻の穴を防御しておくべきだったんじゃねえのかなって思う

わけでさ、世界のクロサワこと黒澤明監督の「OK!」の声が響き渡るまで、歓喜の空涙をボロボロと流し続けてる場合じゃねえだろ、まったく、世界のクロサワこと

黒澤明監督に思いっきしオカマ掘られちまってるんだぞ、あんだけ嫌がってたのにのんきに余裕かましてる場合かよ、しかし、結局のところだが、正直な話、この俺

は世界のクロサワこと黒澤明監督にオカマ掘られたいんだろうか、オカマ掘られたくないんだろうか、どっちなんだろうか、嫌よ嫌よも好きのうちとか言うけどさ、

なんだか自分でもさっぱりわけがわからなくなってきてしまったよ、もしかしたら俺、病気かもしれねえわ、明らかにまともじゃねえもん、俺が頭の中で世界のクロ

サワこと黒澤明監督にオカマ掘られたくない、オカマ掘られたくないって、強く思えば、思うほど、そう意識すれば、意識するほど、俺の体は世界のクロサワこと黒

澤明監督にオカマ掘られたい、オカマ掘られたいって反応してきやがってさ、俺の体の中のメス的な部分、そう、つまり俺の尻の穴がヒクヒクヒクヒクヒクヒクヒク

ヒクと収縮と開放をねっとりといやらしく繰り返し繰り返し反復させて、止めようにもどうにも止まらなくなっちまうんだよね、まさに、俺の心の背徳的なざわめき

が微妙に揺れ動いてるって表現がピッタリとハマる不思議な感覚なんだよな、あとさ、俺最初は世界のクロサワこと黒澤明監督にオカマ掘られるなんて、そんなのす

げえ痛そうだし、正直気持ち悪いし、チンコもでかそうだし、絶対ありえねえって思ってたんだけどさ、こうやって、尻の穴やら尻の穴専用の貞操帯のことやらをあ

れこれ頭の中で考えていくうちにさ、誤解しないでほしいんだけどな、まだ、確実に心変わりしたとか、覚悟決めたとかってわけじゃねえんだけどさ、ただ、ふとそ

んなこと思う瞬間もあるってだけの話だからな、なんだか恥ずかしくてとっても言いづれえんだけど、今回さ、もしも、もしもだよ、最終的にそういうことになると

仮定した場合だよ、もしも俺が世界のクロサワこと黒澤明監督に尻の穴にぶちこまれてオカマ掘られたとしたらさ、そしたら俺の中で何かが変わるような予感がする

んだよね、なんだろうな、うまく説明できねえけどさ、新しい世界への扉が開かれるっていうのかな、今までとはぜんぜん違うまったく新しい自分に生まれ変われる

っていうのかな、ぶちこまれた尻の穴を通して俺の中で眠っていた「ばけものモンスター」みたいな何かが突然目覚めて俺の中で暴れ回るっていうのかな、なんか、

そんな予感をひしひしと感じるんだよね、俺少年漫画まったくと言っていいほど読まないから詳しくないんだけど、そんな俺でも知ってる『ドラゴンボール』って漫

画に出てくるスーパーサモア人だかスーパーサタイア人だか知らんけど、ああ、スーパーサイヤ人か、そんな感じに尻の穴掘られた途端に超然とスーパーに覚醒して

しまってさ、そんでもって、今現在の俺のもう本当にどうしようもなく、息苦しく、ヘロヘロで、救いようもなく、グダグダで、ボロボロで、ぶざまで、まぬけで、

ダメダメで、ろくでもなくて、くそったれで、ドロドロの底無し沼のどん底の暗黒世界に、突然一筋の柔らかい希望の光がフワーって差し込んできたりしてさ、キラ

キラきらめいたりときめいてたりしてさ、俺の人生全体がもうシュワシュワシュワシュワーってシャンペンの泡みてえにスパークリングしちゃってるような新しい世

界へと向かって変わりはじめるようなさ、とにかく何か素晴らしいことがはじまりそうな、そんな予感をひしひしと感じちゃったりしてるわけなんだよね、なんなん

だろうな、なに期待しちゃってるんだろうな、尻の穴にぶちこまれるくらいで人間が簡単に変われるんだったら世話ねえし、精神科も宗教も覚醒剤も自己啓発本もイ

ンチキセミナーもいらねえって話だもんな、たかだか尻の穴にぶちこまれたくらいで、どこかの誰かさんに偶然奇跡が起こってしまって、それが人伝に口コミでブワ

ァーって広がって拡散していって、世の中に「尻の穴ブーム」が沸き起こって、空前の「尻の穴大旋風」を巻き起こして、例えば『運命を変える奇跡の尻の穴~あの

時あの瞬間尻の穴を掘られて私の未来は確実に変わった~』『尻を掘られるゾウ』『尻の穴開運法』『尻の穴革命』『掘られる勇気』『掘りたいように掘ればいい』

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くしたエネマグラ』『帰ってきたエネマグラ』『拾ったエネマグラ』『盗んだエネマグラ』『黄金のエネマグラ』『ドライ』『また見つかった/何がって/尻の穴で溶

け合う永遠がだよ』『ゐれきせゑりていと~平賀源内はエレキテルを使って尻の穴に電流流し何度もアヘ顔で震えながら絶頂メスイキしたか?~』『尻の穴がきらきら

ひかる』『ウホッウホッ探検隊』『俺とやらねえか』『アッー!』などラノベ系純文学系純愛恋愛小説他、父親がバイセクシャルだったためハッテンバの公園でホー

ムレス生活していた幼少時代から相方と出会い掘り合うまでを軽快に綴った男色系漫才師の自叙伝『ハッテンバ中学生』、先輩の破滅型男色系芸人の破天荒な尻の穴

に対する売れない若手男色系芸人の尊敬や羨望や嫉妬や軽蔑の念が渦巻く青春の一頁を記した男色系芸人初の芥川賞小説『卑穴(ひあな)』、男色系俳優が身分を隠し

出版社主催の新人文学賞で見事大賞を受賞したというふれこみで出版された『HORASEROU』、自殺した親友(男)の恋人だったメンヘラ男とその二十歳の誕生日に一

夜を共にし成りゆきで尻の穴を掘ってしまった僕は男色世界に足を踏込むもメンヘラ男が突然精神病院に入院しおあずけ状態を食らう、僕はメンヘラ男の尻の穴に恋

い焦がれながら寂しさを紛らわすため大学の同級生(男)の尻の穴にも興味を持ちはじめるがメンヘラ男に操を立てまた同級生にも恋人(男)がいたため尻の穴は掘らず

キスまでで我慢していた、ある日精神病院にメンヘラ男を見舞った僕はメンヘラ男と同室の中年男と3人で、コール・ポーター「ナイト・アンド・デイ」ジュディ・

ガーランド「オーバー・ザ・レインボウ」リトル・リチャード「トゥッティ・フルッティ」ABBA「ダンシング・クイーン」ビレッジ・ピープル「Y.M.C.A.」グロリ

ア・ゲイナー「恋のサバイバル」ダイアナ・ロス「アイム・カミング・アウト」エルトン・ジョン「僕の歌は君の歌」ルー・リード「ワイルド・サイドを歩け」クイ

ーン「ボヘミアン・ラプソディ」ワム「ケアレス・ウィスパー」槇原敬之「もう恋なんてしない」平井堅「瞳をとじて」スピッツ「空も飛べるはず」氷川きよし「き

よしのズンドコ節」美輪明宏「ヨイトマケの唄」米良美一「もののけ姫」ピーター「夜と朝のあいだに」などを一緒に歌い、特にカルチャー・クラブ「カーマは気ま

ぐれ」はメンヘラ男の大のお気に入りだったため3人で何度も繰り返し歌って一夜を楽しく過ごし、僕はメンヘラ男の尻の穴を掘りたくて掘りたくて仕方がなかった

が拒否されてなんとかフェラだけはしてもらう、しかしその直後にメンヘラ男は自殺する、そして精神病院から退院してきた中年男と僕はメンヘラ男を弔うため、メ

ンヘラ男が大好きだったカルチャー・クラブ「カーマは気まぐれ」を何度も何度も繰り返し繰り返し一緒に歌い、酔っ払った勢いで僕は全然タイプじゃない中年男の

尻の穴を衝動的に掘ってしまう、我に返った僕は同級生の尻の穴が無性に恋しくなり電話をかけ尻の穴を掘らせてくれたまえと告白するのだが… 気まぐれに揺れ動く

オカマ心を繊細に描いた大ベストセラー小説『カーマは気まぐれ』、映画化もされた男色系ビデオ男優あがりのタレントがまじめに書いた自伝的小説『プラトニック

・アナル・セックス』、生まれつき両腕両脚のない男色系青年が障害などものともせず明るく前向きに生きる日常を赤裸裸に綴った感動エッセイ『尻の穴大満足』、

未来からやってきたカッパ型ロボットとなまくら少年が互いの尻の穴を掘り合って成長してゆく姿を大宇宙を舞台に壮大に描いた感動漫画『ホラれもん/なめ太の宇宙

尻取り合戦』、世界中に散らばった7つ集めればどんな願いも叶えられるという伝説の尻子玉をめぐって繰り広げられる冒険活劇漫画『尻子玉七龍伝』、海賊界のド

ラッグクイーン目指し使用すれば誰もが昇天必至の大秘宝である1本の張形(ディルド)を探して仲間たちと時に反目し合い時に尻の穴を掘り合いながら世界の海を巡る

冒険ファンタジー漫画『ワン・ディルド (タイトルはみんな仲間なんだから1本のディルドを共有して仲良くやっていこうじゃないかという意味)』、全国つつうらう

ら美少年の美味しい尻の穴をむさぼり歩く大人のグルメ漫画『美味しんぼうや』、警視庁尻曲(しりまがり)署捜査第一係の刑事たちが互いをニックネームで呼び合っ

たり馴れ合ったりジャレ合ったりチチクリ合ったり尻の穴を掘り合ったりしながら次々と凶悪事件を解決していき最後は凶弾に倒れ死んでいく姿をエネルギッシュか

つスタイリッシュに描いて大ヒットしたTVドラマシリーズ『太陽にほられろ!』、核戦争後の腐敗した世界で尻の穴から現れ突然変異で巨大化し暴走するサナダムシ

の群を少年ナウシカが己の尻の穴に導き戻し地球を救う物語で同名主題歌を某男色系アイドル歌手が歌ったもののあまりのヘタクソっぷりにみんな呆れ返り腰を抜か

し結局本編には使用されなかったいわくつきのアニメ映画『尻の穴のナウシカ』、引越の途中に偶然迷い込んだ男色世界で両親をカッパの姿に変えられてしまった源

と利夫の兄弟がウリ専ボーイや出張ホストなどをしながら元の世界へ戻ろうと奮闘する姿を描き世界中の映画賞を総ナメにしたアニメ映画『源と利夫の尻隠し』、あ

る日都会の少年と田舎の少年の魂が入れ替わったことをきっかけに二人がすれ違いながらも入れ替わった時に嗅いだ互いの尻の穴のニオイだけを頼りに時空を超えて

地球を滅亡から救うアニメ映画『君のあな。』、高校時代ひとめ惚れした転校生が交通事故で死亡し心に深い傷を負った男が大人になり幼なじみの男と婚約中死んだ

はずの転校生そっくりの男が目の前に突然現われ2つの尻の穴の間で揺れ動く様を描き大ブームを巻き起こした穴流メロドラマ『穴のソナタ』、東京の男子高校生が

夏休みに父の故郷である東北地方の男色街に赴き祖父の跡を継いで男娼を目指すも思いがけず地元の男色系アイドルとなり奮闘してゆく姿を元気いっぱいに描き大ヒ

ットしたNHK朝の連続テレビ小説『あなちゃん』、赤ん坊の頃に両親を殺された少年が11歳の時自分が尻の穴使いであることを知り尻の穴使い専門学校に入学し様々

な人々との出会いを通じて時に尻を掘り合いながら成長しやがて亡き両親を殺した尻の穴使いと対決する姿を描いて世界中で大ヒットし映画化もされた『シリー・ホ

ッター』シリーズ、などなどなどなど、いわゆる「穴系」「穴流」と呼ばれる男色系の作品が次々大ヒット/ベストセラーとなって、巷にあふれかえったら、ちょっと

嫌だよな、もちろん、男が男を好きになったり、尻の穴掘り合ったりするのは、別に構わないし、問題もないし、好きなものは好きなんだから仕方ないし、人が人を

好きになる気持ちをバカにするような奴は本気で人を好きになった経験がないからこそであって、人の恋路を邪魔する奴は馬に蹴られて死んじまえてなもんで、好き

者同士が合意の上で合法的におこなうことはすべて基本的に個人の自由だと思うから、俺はまったく否定しないし、どうぞ好き勝手にやって頂戴ね、ただしストレー

ト(ノンケ)の人たちには絶対に迷惑をかけないで下さいね、これは何も同性愛に限った話ではなくて、異性愛の場合でも、好きだからといって手前勝手に相手を好き

放題にしていいわけではなく、相手の同意が必要になってくるわけであり、大昔まだ若くてかわいげのある青年だった頃に新宿歌舞伎町のサウナでホモのおっさんに

襲われそうになり危うく難を逃れたという恐ろしい体験を持つ正真正銘ストレートである俺は、同性愛やら男色世界に対してずっとそんな感覚でいるんだけど、昨今

はただでさえTVつけりゃ男色系タレントうじゃうじゃの飽和状態なのに、その上「尻の穴ブーム」なんて巻き起こった日にゃ、世の中男色家だらけになっちまうもん

な、流行っていうのは自然発生的に起こるものは少なくて、誰か(支配層/権力者)が意図的、作為的に作り出すものがほとんどで、その裏側にはいつも邪悪な魂胆が隠

されているものであり、その人が本当に男色家ならば別に何も問題はないんだけど、本当は男色家じゃないくせに、流行してるからというただそれだけの理由から、

流されやすいバカどもが格好だけのインチキ男色家/ビジネス男色家/ファッション男色家を演じ世に蔓延り、世界が男色天国、いや、男色地獄になっちまうもんな、

もちろん何度も繰り返すけど、俺は同性愛や男色世界を決して否定もバカにしたりもしないんだけど、何事もバランスが大切であって、やりすぎはよくないと思うん

だよね、無理矢理ブームをねつ造するのはダメだと思うんだよね、自分自身の本能や心の声を無視して、世の中で流行しているからそれが正しいことだと思って、掘

られたくもない尻の穴を掘られたりすることが本当に幸福なことなのかどうか、尻の穴を掘られると会社で出世できるとか、大金持ちになれるとか、有名になれると

か、功利的な理由からやりたくもないことをやらされて本当に心の底から満足を得られるのかどうか、TVやCMなどで活躍する男性アイドルグループ(女性グループも

含む)を見ていると俺はなんだか哀しい気持ちになってきてしまうんだよな、しかも、男性がみんな男色世界に偏っていってしまったら、一番困るのは女性だと思うん

だよね、なぜならば男性器をぶちこむ対象が女性器から尻の穴へ向ってしまうわけだから、そのせいで結婚できない女性が増えていって、男女分断や少子化問題もさ

らに進んでいってしまうのではないかと俺は少しばかり懸念したりもしてるんだけど、さらに、それがきっかけで人類が滅亡の危機に瀕する可能性だってなきにしも

あらずで、でも、もしかしたら、そのうち同性愛がマジョリティで異性愛がマイノリティに逆転して異性愛が差別されるようになったり、SEXという行為が「種の保

存のための義務的なSEX」と「快楽のための本能的なSEX」とに区別されるようになったり、突然変異で人類の体の仕組みが進化して女性器でなく尻の穴にぶちこんだ

だけでも妊娠できるようになったりする可能性だってなきにしもあらずで、さらに、男女の区別関係なくすべての人間が妊娠して赤ん坊が尻の穴から生まれてくるよ

うになったりする可能性もなきにしもあらずで、それを見届けるまで自分が生きていられるとも到底思わないけど、この先の人類や世界がどのように変わっていくか

なんて誰にも予想はつかないし、それも人類の進化の過程と言ってしまえばそれまでなのかもしれぬが、まあ、でも、とにかく、一番大事なのは、自分が心から望ん

でいることなのかどうかということであり、周りに惑わされず自分の頭を使ってしっかり考えて判断することであり、その上で、掘りたい人は掘ればいいし、掘りた

くない人は掘らなければいいし、掘られたい人は掘られればいいし、掘られたくない人は掘られなければいいし、することや、されたくないことを無理強いされるこ

とはよくないことだし、もちろん、きちんとルールを守って社会秩序を乱さずお互い合意の上で合法的におこなわれることに対する個人の自由は尊重されるべきだと

いう考えに変わりはないんだけど、ところで、じゃあ、そういうこの俺は、本当のところは、オカマ掘られたいんだろうか、掘られたくないんだろうか、どっちなん

だろうか、考えれば考えるほどわけがわからなくなって迷宮に入りこんでいっちまうんだよね、自分自身の問題なのにさ、オカマ掘られるか掘られないかの重大な瀬

戸際だっていうのに、まったく、って、だいぶ話が横道に逸れちまったけど、結局俺は何が言いたいかっていうとだな、何だっけか、なんかもう頭の中が尻の穴のこ

とでいっぱいになってしまってるわけだけどさ、おそらくこんなにも尻の穴について煎じ詰めて考えたの俺生まれて初めてだと思うんだけど、つまり、その、一体俺

は何が言いたいんだっけか、あ、そうそう、でね、俺思ったんだけど、今回の件もそうなんだけど、そもそもの話、最初に世界のクロサワこと黒澤明監督から突然映

画の脚本書いてくれって頼まれた時もさ、無理です、絶対無理ですって、本当に自分が書けるかどうか真剣に考えもせずに、はなっから絶対無理だって決めつけて、

あきらめて、なんだかんだと色々と理由を見つけては、自分自身と向き合うことから逃げ回ってさ、そんなの、まあ、今回の話だけに限ったことじゃねえんだけど、

今までの俺の46年におよぶ人生においてもさ、いつもおんなじような失敗を繰り返してきてるんだよね、ちょっといやなことがあれば、すぐに匙投げだして、すべて

を放っぽりだして、なりふり構わず、無責任にも、逃げ出して、逃げ回って、逃げ出して、逃げ回って、逃げ出して、逃げ回って、逃げ回って、逃げ回って、逃げ回

って、そうやって、自分自身と真剣に向き合うことからコソコソ逃げ回ってばかりいてさ、自分自身と向き合うことで、自分に才能がないことだとか、自分のろくで

もない部分だとか、自分のクソみてえにいやな部分が透けて見えてきちゃって、自分で自分に絶望するのが恐いのかなんなのかは知らんけどさ、いつも、現実逃避す

ることばかり考えて、真正面から現実を見ようとはせずに、そのくせ、プライドだけは人並以上、身分不相応にクソ生意気にも高いもんだから、プライド傷つけられ

ることを極度に恐れて、常に世の中を斜に構えて見て、他人をバカにしまくって、他人をバカにしまくることで、相対的に自分の価値を高めて安心して偉ぶったりし

てさ、そんな風に偉ぶってるくせに、ひとたび自分に都合の悪いことが起こりゃ、いの一番、一目散に、尻尾を巻いて、逃げ出して、いつも、いつも、卑怯にも逃げ

回ってばかりいて、それはまるで、凶悪犯罪を犯し指名手配された犯人が全国各地つつうらうらを必死に逃げ回りながら、ここならば大丈夫、ここならば一生安心し

て暮らしてゆける安住の地になるかもしれぬ、とかすかな希望を胸に抱きながらも、すぐに周囲から疑惑の目を向けられ、再び夜逃げするように逃げ出して、逃げ回

って、そして、また、ようやく見つけたぞ、今度こそ、ここならば大丈夫、悪夢にうなされることなく熟睡できる安住の地だ、と再びかすかな希望の光を胸にともし

ながら、また、見つかって、逃げ出して、逃げ回って、また、見つけて、また、見つかって、また、逃げ出して、逃げ回って、ああ、逃げ回りの人生がこんなにもつ

らいものだとは夢にも思わなかったよ、こんなにもつらいならば、とっとと警察にとっ捕まって監獄に放りこまれたほうがどんなにか楽かもしれぬぞ、などと思いつ

つ、また、逃げ出して、逃げ回って、また、見つけて、また、見つかって、また、逃げ出して、逃げ回って、また、見つけて、また、見つかって、逃げ出して、逃げ

回って、そんな逃げ回ってばかりのクソみてえな人生を46年も送ってきて、せっかく目をかけてくれて世話になった人間のことも散々裏切って、やがて、みんな次々

と離れて行っちまって、気づけば、まわりには誰もいなくなって、結局今の俺には一体全体何が残ってるのかって話だよな、他人の目ばっかり気にして、中身スッカ

スッカの、いまだなにひとつ成し遂げてもいない、草臥れ果てた中年のすれっからしの残骸(成れの果て、搾りかす、人間の屑)が、ただそこにあるだけじゃねえのか

よって、だからってわけじゃねえんだけどさ、なんだろうな、俺、今回だけはね、今回だけは、なんとなく直感的に逃げちゃいけないって思うんだよね、俺の中のも

う一人の自分っていうか、俺の心っていうか、俺の本能っていうか、つまりその、俺の中の「中の人」がさ、逃げるな、逃げるな、逃げるな、今回は逃げるな、今回

だけは絶対に逃げるな、絶対に逃げるな、今回逃げてしまったら、おまえは本当にもう取り返しのつかないことになっちまうぞって、本当にすべてが終わっちまうぞ

って、必死に声張り上げて、俺にむかってまるで脅迫してるみてえに命令してくるんだよね、でも、何を隠そう、もっとも声張り上げて、逃げるな、逃げるな、逃げ

るなって、言ってるのは、俺の体の中のメス的な部分、つまりは、俺の尻の穴ってわけなんだけどな、ハハハって、笑い事じゃねえけどな、ともかく、今回世界のク

ロサワこと黒澤明監督から脚本依頼されたのに、まったく書けなくて逃げ出して、その上さらにまた尻の穴掘られることからも逃げ出すんじゃさ、俺生きてる価値な

んてまったくないよな、もしも、今までみたいに今回もまた逃げてしまったらさ、さっきも言ったけど、俺本当にもう取り返しのつかないことになっちまう気がする

んだよな、だからって、世界のクロサワこと黒澤明監督にオカマ掘られて尻の穴に超特大サイズのアレをがっつりぶちこまれて、すべてが解決するなどとはまったく

思っちゃいねえよ、今までの俺の46年間のクソみてえな人生のクソみてえな部分がすべてきれいさっぱり帳消しになるとは夢にも思っちゃいねえよ、世の中そんなに

甘くねえことは、身をもって、骨の髄まで染み渡るほど、百も承知だぜ、ただ、なぜだか、今回は、今回だけは、逃げちゃいけねえって心の底から俺はそう思うわけ

でさ、かといって、心の底から世界のクロサワこと黒澤明監督にオカマ掘られてえかっていうとそこはまだまだ微妙なところなんだけどな、まあ、とにかく複雑な心

境ってわけなんだわ、46歳の悩めるくそったれみてえなもんだわな、ほんとろくでもねえよな、今まで46年もの長い間逃げ回ってきたツケを今回ようやく払わされ

るって気分なんだけどさ、今までのツケがあまりにもたまりにたまりすぎてえらいことになってるってわけでさ、その膨大なツケを少しでも払ってこれから先はなる

べく真っ当な人生を歩んでいくか、それとも、またしてもツケ踏み倒して、逃げ出して、逃げ回って、生きてるんだか死んでるんだかわからんようなクソみてえな人

生を死ぬまで続けていくのか、でもよ、46年間で膨大に膨れあがったツケを世界のクロサワこと黒澤明監督にオカマ掘られることで少しでも解消できると考えりゃ、

もしかしたら、尻の穴にぶちこまれるくれえのことは、虫に刺されるくれえの、お茶の子さいさい、お安い御用なのかもしれねえな、なんて、思ったりしてな、少な

くとも、いつもなら逃げてるところを今回は逃げなかったってことで、その逃げなかったという事実が俺の中で自信となってさ、今後の俺の人生にとっての、ちっぽ

けな、本当にちっぽけかもしれねえけどさ、まぎれもない、たしかなプライドとなってさ、俺自身を陰ながら微力ながらも支えてくれるかもしれねえのかなって、そ

れに、もしかしたら、これは俺の人生にとって本当に最後の最後のチャンスになるかもしれないんだな、そもそも、どういった了見で世界のクロサワこと黒澤明監督

が俺に脚本依頼してきてくれたのか、俺今でもさっぱりわからんけど、俺がわかってんのは世界のクロサワこと黒澤明監督が靴ベロンベロン舐めるのが大好きだって

ことくれえでさ、それ以外は何考えてんだかさっぱりわからんけど、もしかしたら、世界のクロサワこと黒澤明監督という一人の男がさ、俺という一人の男に最後の

チャンスを与えてさ、俺がどういう対応とんのか、俺の男としての度量を試してんのかもしれねえのかなって、だとしたらよ、それに一人の男として誠心誠意きちん

と答えてやんないといけねえのかなって、本来ならば脚本書いて答えられりゃ一番いいんだけど、書けりゃ本当一番いいんだけど書けねえもんだからさ、一人の男が

一人の男として一人の男に対して示せる最大限の誠意は何かっていったら、そりゃあ、やっぱし尻の穴になるわけでさ、つまらないものですが、本当に、本当に、つ

まらないものですが、今回はせめてものお詫びの印にこの尻の穴で何卒ご勘弁ください、何卒ご賞味ください、今回はこれですべてを丸く収めて下さいって、最悪の

最悪の話そういうオトシドコロになっちまうのかなって、そこはかとなく俺は思ってるんだけどな、けど、なんでオカマ掘られることが俺にとって最後のチャンスに

なるのかとか、端からみりゃ、そんなこと知らんわ勝手にオカマ掘られてろよって話でさ、まったくもって、わけのわからん狂気の沙汰に見えるかもしれんけどな、

こんな風に考えるなんてやっぱ俺の頭は相当イカレちまってんのかもしれねえな、自分でも何考えてんだって思ったりするもんな、今すぐ精神科で医者に診てもらっ

たほうがいいかもしれんな、でも正真正銘の狂人は自分が狂ってることにすら気づいてないっていうからな、俺の場合狂ってるって自覚してるぶんだけまだマシで、

治療すればなんとかギリギリ間に合うかもしれねえな、まあ、ともかく今は正常に頭が働いてないし、スマホのバッテリーも死んでるから、精神科とか尻の穴専用の

貞操帯についてはあとでちゃんと検索することにしようかね、忘れないようにどっかにメモしておかないといけないな、さっきからなんだか尻の穴がムズムズするけ

ど気のせいだよな、ああ、本当に俺どうしちゃったんだろ、なんだかものすごく眠くなってきてしまったな、今なら2秒でバタンキュー天国への階段をのぼってゆけ

そうだよ、と微睡みの夢の中で私はさらなる深い眠りへと誘われてゆくのであった。そのあと、私は夢の中でさらなる夢を見ることになるのだけれども、そのロシア

の土産で有名なマトリョーシカ人形のような、入れ子状態のような夢の中の夢の中で、私はどこかの映画館のフカフカのイスに座っており、巨大なスクリーンに大写

しになった誰かの尻の穴を延々と見せられ続けているのであった。その35mmカラーフィルムでハイスピード撮影されたとおぼしき大写しされた誰かの尻の穴が延々

と続く映像には、どこかで聴き覚えのある音楽が添えられていて、それは世界のクロサワこと黒澤明監督の初のカラー映画『どですかでん』のテーマ曲を彷彿とさせ

る、すぐに世界のタケミツこと武満徹の作曲とわかるどこか郷愁をおぼえる心温まるオーケストラの調べであり、その世界のタケミツこと武満徹の音楽にのせて、延

々と続く大写しされた誰かの尻の穴から、突如明治ブルガリアのむヨーグルトにアヲハタイチゴジャムを混ぜ合わせマーブル状にして、さらに卵白片栗粉を加えて光

沢とろみを強調させたかのような摩訶不思議な色の美しい液体が、止めどもなく溢れ流れ出てきて、その摩訶不思議な色の美しい液体を目にした私は、不意に私の左

右の二つの目の玉から生あたたかい液体が猛烈な勢いで溢れ流れ出てくる気配を感じて、それはあたかも巨大スクリーンに大写しされた誰かの尻の穴から止めどもな

く溢れ流れ出てくる摩訶不思議な色の美しい液体の流れと同調(シンクロ)するかのように、私の左右の二つの目の玉から生あたたかい液体が次から次とものすごい勢

いで溢れ流れ出てきて、やがて、巨大スクリーン全体がぼやけてかすんで見えてきて、そのうち、なんにも見えなくなってきて、そこでようやく私は今自分が涙を流

しているという事実に初めて気がつき、私は、人間はあまりにも美しいものを目にしたとき思わず涙を流すものなんだなあ、となんだか他人事のように心の片隅で考

えながら、ポケットからハンケチを取り出して、左右の二つの目の玉に交互に押し当て、溢れ流れ出る滂沱の涙をハンケチに吸い込ませながら、懸命に涙の流れを食

い止めようと努力するのだけれども、それは台風の嵐の夜に車のワイパーを使用するような焼け石に水の無駄な努力以外の何物でもなくて、私の左右の二つの目の玉

から溢れ流れ出る涙は、巨大スクリーンに大写しされた誰かの尻の穴から止めどもなく溢れ流れ出てくる摩訶不思議な色の美しい液体同様に、拭けども拭けども一向

に止まる気配もみせず、私のハンケチはまさにバケツをひっくり返された濡れ鼠のごとし、そのうち、私の左右の二つの鼻の穴からも、あたかも巨大スクリーンに大

写しされた誰かの尻の穴から止めどもなく溢れ流れ出てくる摩訶不思議な色の美しい液体の流れと同調(シンクロ)するかのように、生あたたかい液体が次から次とも

のすごい勢いで溢れ流れ出てきて、もはや私の顔面は大昔に観たことのあるAV(アダルトビデオ)の「ファン感謝祭」と称する企画でたくさんの醜い汁男優たちに全身

を揉みくちゃ滅茶苦茶にされたあげくBukkake/顔射(顔面に射精)までされまくった後とうとう泣き出してしまったAV女優の不特定多数の醜男たちの精液にまみれて

怪しく輝く顔面のごとく、涙と鼻水でヌラヌラテカテカびしょ濡れになるばかり、おまけに、いつの間にやら私はあたかも自分自身が「ファン感謝祭」のAV女優に憑

依されたかのごとく、いや、まさに私自身がAV女優そのものであるかのごとくに、時々しゃくりあげながら嗚咽すら漏らしはじめているのであった(ただし私の涙は

「ファン感謝祭」のAV女優とは違って感動の涙であったが)。私は、こんな風に大声を出して泣いたのは何十年ぶりのことだろうか、と以前に大声を出して泣いた時

の記憶を懸命に手繰りながら、さらに流した涙の効果によるものであろうか、なぜだか不思議と私の心はスッキリ壮快な気分となってきて、やがて、私の左右の二つ

の目の玉から溢れ流れ出ていた涙もようやく落ち着きを見せはじめ、再び私の目には巨大スクリーンに大写しされた誰かの尻の穴がぼんやりと映りはじめ、そして、

その時、私は、突如雷に打たれたように、今私の目の前で世界のタケミツこと武満徹の音楽にのせて巨大スクリーンに延々と大写しされ摩訶不思議な色の美しい液体

を溢れ流れ出し続ける誰かの尻の穴の映像が、あれはたしか私がマリー・アントワネット風のかわいらしいレースのフリルが装飾されたいやらしいTバックタイプの

私だけの世界にひとつだけのオリジナリティ溢れる尻の穴専用の貞操帯を尻の穴に装着してる以外は一糸もまとわぬ姿で世界のクロサワこと黒澤明監督に会いに行っ

た時、黒澤明監督が、その尻の穴専用の貞操帯を私の尻の穴から、映画『七人の侍』の戦闘シーンさながらの荒々しさを彷彿とさせるかのような乱暴さでダイナミッ

クに剥ぎ取って、不意にあらわとなった46年間貞操を守り続け純潔を保ち続けてきた穢れを知らない私の尻の穴を「クールだね!とってもクールだと思うよ!」と褒

めてくださったのち、突如「ヌーヴェルヴァーグ!」と大絶叫しながら黒澤映画常連のいつものスタッフを招集し私の尻の穴をテーマにして脚本なしの即興で撮りは

じめた、世界のクロサワこと黒澤明監督自身にとっては生まれて初めてとなる、そして最初で最後となる唯一の「ヌーヴェルヴァーグ作品」の一部であることに今さ

らながら気がつくのであった。おお、なんということであろうか、つまり今私の目の前で世界のタケミツこと武満徹の音楽にのせて摩訶不思議な色の美しい液体を止

めどなく溢れ流れ出し続けながら巨大スクリーンに延々と大写しされている尻の穴とは、まさしく世界のクロサワこと黒澤明監督が「クールだね!」と褒めてくださ

った私の尻の穴であり、そして、つまり世界のタケミツこと武満徹の音楽にのせてスクリーンに大写しされた尻の穴から止めどなく溢れ流れ出る摩訶不思議な色の美

しい液体の正体とは、まさしく世界のクロサワこと黒澤明監督が私の尻の穴に超特大サイズのアレを5時間ぶちこんだ末に射精した、ベテラン風俗嬢も、あらまあい

っぱい出たわねえ、あたしこう見えて風俗歴結構長いんだけどこんないっぱい出たお客さんは初めてだわ、いやスッゴイ!とビックリ仰天腰抜かすほど大量の白濁し

た精液と、世界のクロサワこと黒澤明監督が私の尻の穴に超特大サイズのアレを5時間ぶちこんだ際の摩擦によって生じた私の真っ赤な鮮血とが混ざり合ってできた

摩訶不思議な色の美しい液体ということになるわけであった。それは、つまり、恐るべしや、世界のクロサワこと黒澤明監督は、アルチュール・ランボーとポール・

ヴェルレーヌとの共作『尻の穴のソネット』の向こうを張り対抗すべく、私と黒澤明監督との共作である『(俺たちの)尻の穴のソネット』を私の尻の穴で実現させ、

しかも見事1本の藝術作品として仕上げてしまったというわけであり、おそらく世界のクロサワこと黒澤明監督はこの『(俺たちの)尻の穴のソネット』を完成させるこ

とを当初からの第一目標に定めていたと推察されるのだった。その決定的な事実は、己の尻の穴を己の尻の穴とも知らずに他人事のようにずいぶんと長い時間のんき

に眺め続け感動の涙まで流していた私にとってはかなりの衝撃であったが、私が己の尻の穴を己の尻の穴と認識できなかったのもまったく無理もない話であり、統計

をとったわけでもなくハッキリとしたことは言えぬが、痔疾など尻の穴を患った経験のある特殊な者たちをのぞき、普段ごく普通の生活に明け暮れている者ならば皆

同様、今までに己の尻の穴を己の目で確認した経験のある者などは、ごく少数の変態的な尻の穴マニアに限定されるはずであり、なぜならば、それは、まず第一に、

毎日汗水たらして懸命に働いている者ならば皆同様、己の尻の穴を己の目で見てみたいなどという誘惑にかられる暇などはみじんもなく、そんな突飛な考えを実行に

移すのはただの変人、もしくは、余程の暇人以外の何ものでもでなく、また、次に、実際に試しに己の尻の穴を己の目で確認しようと試みれば一目瞭然であるが、己

の尻の穴を己の目で確認するためには、端からみればかなり不自然な体勢のまぬけきわまりないトンチンカンな格好をしながら鏡に映して見るか、もしくはわざわざ

写真や映像などに写して見なければならないからであり、そこまでの労力を費やしてまで是非にとまでに見てみたいと思うほどに魅力的な尻の穴の持ち主が果たして

いるであろうか、いやしまい。夢にまで想像していた尻の穴とは違って失望するのが関の山であろう。また、例えば、ある日突然2人組の刑事が自宅に現われ、この

尻の穴に見覚えはござらぬかと己の尻の穴の写真を見せられた時、これはまさしく私の尻の穴でございます!と即答できる強者が果たしているであろうか、いやしま

い。とどのつまり、尻の穴などというものはわざわざ手間のかかる労力をかけてまでお目にかかりたい代物などでは決してなく、そもそも人様にお見せするような代

物などでも決してなく、見る者に深い感動を与えるような美しい代物などでも決してなく、尻の穴の持ち主である本人にしたところで無関心きわまるまったく取るに

足らない代物に他ならないはずなわけであるところを、しかし、なんということであろうか、世の中の通例に反して、摩訶不思議な色の美しい液体を止めどもなく溢

れ流れ出し続ける私の尻の穴は誰もが思わず涙を流して感動するほどに、もうこの世のものとは思えぬほど、とてつもなく奇跡的に美しいのであった。そして、その

時、ふと耳を澄ませば、薄暗い映画館のあちらこちらからたくさんの人々のすすり泣く声や嗚咽する声やしゃくりあげる声や鼻をかむ音などが聞こえてきて、私は、

その映画館には私以外にも観客が大勢いて皆一様に摩訶不思議な色の美しい液体を溢れ流れ出す私の尻の穴を眺めながら感動の涙を流していることを知り、やがて、

世界のタケミツこと武満徹の音楽にのせて永遠に続くかに思われた私の尻の穴が大写しされた映像、つまり、世界のクロサワこと黒澤明監督自身にとっては生まれて

初めてとなる、そして最初で最後となる唯一の「ヌーヴェルヴァーグ作品」は、私の尻の穴から溢れ流れ出る摩訶不思議な色の美しい液体の最後の一滴が、これまた

美しい(おそらく尻の穴のサイズから推測して直径3cmほどの)まるで「いけない宝石」のごとく淫靡な光を放ちながらキラキラと煌めく赤い玉(おお!おお!なんと!

なんと!なんと!つまりあの時世界のクロサワこと黒澤明監督が私の尻の穴に超特大サイズのアレを5時間ぶちこんだ末に射精したのが世界のクロサワこと黒澤明監

督の生涯における最後の射精であり、さすがは最後の赤い玉の大きさまでもが世界中どこに出しても恥ずかしくない世界レベルの世界のクロサワだったというわけな

のだ!)とともに緩やかにポトリと滴り落ちたところで唐突に音楽とともにプツリと終わり、巨大スクリーンにはいつもの手書きの「終」の文字が大きく映し出され、

気がつけば私の隣りの席にはいつの間にやら世界のクロサワこと黒澤明監督が座っており、「私のチンコはとってもでかいです」という文字が英語フランス語ドイツ

語スペイン語ロシア語と中国語韓国語に翻訳されてプリントされたTシャツの上からタキシードというフォーマルなのかラフなのかさっぱりわからぬ不思議な出で立

ちで、さらに、おそらく私が頭を踏んづけた時の怪我が悪化したものだろうか、単に私に対する当て擦りだろうか、首にはコルセットが大袈裟に巻かれ、その上に洒

落た蝶ネクタイまで小粋に結んでいて、いつか脚本を依頼しに私のもとを訪れて土下座して涙ボロボロ流しながら私のきったねえ靴までベロンベロン舐めていた世界

のクロサワこと黒澤明監督の頭を思い切り踏んづけて大泣きさせてしまったお詫びに私が貸してあげたハンケチ(昔の彼女から贈られたハンケチだから見紛うはずある

まい)で涙を拭いたり凄まじい大音量で鼻をかんだりしていて、急に明るくなった満席の映画館の私と世界のクロサワこと黒澤明監督二人をのぞくすべての観客がみん

な立ち上がって、我々二人に向かってスタンディングオベーションをしているのであった。その大勢の観客の中には、クリント・イーストウッド監督、スティーヴン

・スピルバーグ監督、フランシス・フォード・コッポラ監督、ジョージ・ルーカス監督、マーティン・スコセッシ監督、スタンリー・キューブリック監督、アンドレ

イ・タルコフスキー監督、イングマール・ベルイマン監督、サム・ペキンパー監督、ジョン・ミリアス監督、ジャン・ルノワール監督、ジョン・フォード監督、ジョ

ン・カサヴェテス監督、(セルジオ・レオーネ監督はこっそり隠れながら)、宮崎駿監督、北野武監督、黒澤映画常連のいつものスタッフ、役者たち、志村喬、三船敏

郎、稲葉義男、加東大介、千秋実、宮口精二、藤原釜足、木村功、仲代達矢、森雅之、香川京子、菅井きん、上原美佐、西村晃、菅井きん、京マチ子、山田五十鈴、

菅井きん、加山雄三、田中絹代、菅井きん、杉村春子、菅井きん、笠智衆、菅井きん、原節子、久我美子、東野英治郎、菅井きん、左卜全、田中邦衛、井川比佐志、

菅井きん、千石規子、菅井きん、高堂国典、清水将夫、菅井きん、三好栄子、菅井きん、藤田進、渡辺篤、土屋嘉男、菅井きん、本間文子、菅井きん、頭師佳孝、菅

井きん、勝新太郎、萩原健一、油井昌由樹、菅井きん、加藤武、菅井きん、松村達雄、蜷川幸雄、山崎努、菅井きん、寺尾聡、菅井きん、原田美枝子、菅井きん、倍

賞美津子、菅井きん、大河内傳次郎、菅井きん、いかりや長介、根岸季衣、菅井きん、中北千枝子、菅井きん、司葉子、菅井きん、大滝秀治、菅井きん、根津甚八、

三橋美智也、菅井きん、高倉健、菅井きん、所ジョージ、菅井きん、リチャード・ギア、菅井きん、武満徹、菅井きん、蓮實重彦、菅井きん、淀川長治、菅井きん、

水野晴郎、おすぎとピーコと菅井きん、小森のおばちゃま、菅井きん、町山智浩、宇多丸、菅井きん、などなど(いささか菅井きん多過ぎな気がしないでもないが)、

知った顔も多数見受けられ、皆一様に感動の涙をボロボロと流し続けており、もちろん、私と世界のクロサワこと黒澤明監督二人も立ち上がって、拍手喝采する観客

たちに向かって手を振ったり愛想を振りまいたりなど対応に忙しかったが、その狂喜乱舞の合間をぬっての束の間、世界のクロサワこと黒澤明監督がふと、そのコル

セットが大袈裟に巻かれた首を気にしつつ不器用にも私の耳元に顔を寄せてきてポツリとつぶやいた、素晴らしい脚本をありがとうね、私は驚いて、へえっ、私(あっ

し)は脚本なんぞ書いちゃいませんぜ、だって、あれはたしか脚本なしの即興で撮ったはずじゃねえですか、と答えれば、世界のクロサワこと黒澤明監督は、映画も人

生も何でもかんでもそうだけど、すべてが脚本通りに行くなんて思ったら大間違いなんだよ、世の中そんなに甘くはねえんだよ、世の中なるようにしかならねえんだ

よ、禍福は糾える縄の如し、人間万事塞翁が馬、沈む瀬あれば浮かぶ瀬あり、朝に紅顔ありて夕べに白骨となる、棚から牡丹餅、瓢箪から駒、秋の日は釣瓶落とし、

雨降って地固まる、急がば回れ、犬も歩けば棒に当たる、牛にひかれて善光寺参り、嘘から出た実、嘘も方便、海老で鯛を釣る、女心と秋の空、風が吹けば桶屋が儲

かる、果報は寝て待て、可愛い子には旅をさせよ、弘法も筆の誤り、青天の霹靂、煮え湯を飲まされる、人間いたるところ青山あり、寝耳に水、人の振り見て我が振

り直せ、二兎を追うものは一兎をも得ず、百聞は一見に如かず、冬来たりなば春遠からじ、ミイラ取りがミイラになる、名馬に癖あり、桃栗三年柿八年、柳に雪折れ

なし、来年の事を言えば鬼が笑う、良薬は口に苦し、禍を転じて福と為す、笑う角には福来る、山あり谷あり、一寸先は闇、諸行無常、万物流転、ただ、一さいは過

ぎて行きます、ただ、流れに身をまかすより他ねえんだよ、だからこそ、思い通りにならないからこそ、人生は面白いんじゃねえか、だから書かないことも立派な脚

本のひとつなんだぜ、ヌーヴェルヴァーグ!とニヤリとし、私は、いつも脚本ガチガチに固めてリハーサルを何度も繰り返しやらせて俳優たちを役そのものになりき

らせてから本番を撮るので有名な監督が突然何を言ってんだろうか、もしかしてハリウッド進出失敗や自殺未遂事件や高峰秀子との失恋経験でなめてきた辛酸を踏ま

えての身に沁みるお言葉なんだろうか、しかし、書かないことも脚本のひとつとは一体全体どういった意味なんだろうか、さっぱりわからねえや、と首をひとつひね

りながらも、一時はどうなることかと本当にヤキモキいたしやんしたが、今こうして無事にお役目が果たせて、私(あっし)はとんでもなく果報者ですぜ、ヌーヴェル

ヴァーグ!とやり返せば、世界のクロサワこと黒澤明監督はおもむろに私の手を強く握りしめ最後にこうつぶやいた、だから最初に言ったじゃねえか、君は天才なん

だって、俺の目に狂いはねえんだよ、私も世界のクロサワこと黒澤明監督の節くれだった大きなしわしわの手を強く握り返せば、いつの間にやら私の掌の中には、い

つかどこかで見覚えあるマリー・アントワネット風のレースのフリルが装飾されたボロの端切れに包まれた、直径3cmほどの美しい赤い玉が「いけない宝石」のごと

く目も眩むほど淫靡な光を放ちながら煌めいているのであった。いまだスタンディングオベーションは続き、一向に鳴り止む気配もなく、私は、これが夢ではなく現

実の出来事だったらどんなにか素晴らしいことだろうな、もしも夢であるならば永遠に覚めなければいいのにな、たとえ夢であったとしても世界のクロサワこと黒澤

明監督とこうして出会えて本当によかったな(オカマ掘られちゃったけどね!)、そして、この赤い玉、ヤフオクに出品したらいくらになるのかな、100万、200万、

もしかして億いっちゃうかもね、ヤバいね、俺、億万長者だよ、そしたら、もう一生働かずに遊んで暮らせるな、でも商品説明になんて書けばいいんだろう、そもそ

もそんな夢みたいな話を誰が信じるというのだろうか、とここが一体全体どこの世界なのかも皆目わからずに、寝ぼけたような薄ぼけた頭で夢見心地に思っていた。

2020.8 改 (2018.3)

 

 

 

 

 

12.『Amen / ソープのキリスト (仮)』

 

 

昔の話である。けれども、今も私の心に特に印象深く刻まれており、すでに時効も過ぎていると判断するため、甚だ恥ずかしい話ではあるが、笑い話として恥ずかし

げもなくここに書き記して成仏させることにする。まあさらっと読み飛ばしてもらえばそれでいい。その頃の私は人生でもっとも神に近づいていた。そして、人生で

もっとも草臥れ果ててもいた。長年付き合った腐れ縁の女とすったもんだの末に嫌な後味を引きずるような最悪な形の結末を迎えてしまったのが、さかのぼることそ

の半年前の出来事、爾来、永遠に続く愛なんてものはどこにもないんだな、愛が終わってしまったことはどうにも仕様のないことだけど、もう少しマシな終わり方が

あったのではないのか、いい歳した大人が最後にあんな醜態を晒してしまってみっともないったらありやしない、ああ、やっぱり自分はどうしようもない人間の屑だ

よな、などと私の心は喪失感やら自己嫌悪やら人間不信やらの無限ループにまんまと嵌まりこんでしまって、心にポッカリと空いたでっかい穴ぼこに常に寒風が吹き

荒びまくりの状態で、私は呆けた腑抜けのごとく、ひどく荒んだ生活を送っていたものであった。女はもう懲り懲りだな、もう一生女なんかとは付き合うものかよ、

などと心の中で嘯いては、女どころか男女問わず人間という生き物自体と深く心と心を通いあわせることを極度に忌避して、冷徹ニヒリスティックな人間嫌いの成れ

の果てを気取って、本当にろくでもない日々を送っていたものであった。私の日常生活は目に見えて乱れに乱れていって、食欲もあまりなく、食べ物が喉を通らず、

大してうまくも思わぬ苦い酒ばかりを無理やり呷っては脳みそをしびれさせ、忌まわしい過去の記憶をほんの束の間忘却の彼方へと追い遣り、元々さほど強くもない

酒を睡眠薬代わりに大量に飲んでは気絶するように眠りこけ、真夜中に悪夢にうなされ絶叫しながらはたと目が覚めたり、創作活動もまったくもって行き詰まり、絵

を描く気力をほとんど失い絵筆を手にするのさえ重たく感じられ、絵なんて描いて何になるのだ、そんなことに何か意味があるのか、などと自暴自棄になって、創作

意欲というものがすべて自分の体内から消滅してしまったかのような常に無気力の状態で、髪は伸ばしっぱなしでもうすぐ肩まで届く勢いで、僕の髪が肩まで伸びた

ところで結婚したい相手などもなく、髭も生えるにまかせて滅多に剃らず、頬は病的に痩せこけ、そのくせ目だけは異様にギランギランと不気味な光を放っていて、

一歩間違えれば乞食のような風貌に成り下がるのをギリギリのところでふんばって奇跡的に踏み留まっているかのような印象でもあり、そんな時、風呂場の洗面台の

くすんだ鏡に映るブザマに痩せこけた上半身裸の私の姿が一瞬だけイエス・キリストのように見えたりもするのであった。ようするに、その頃の私の風貌は、乞食と

神の境界線上のほんの少しばかり神よりに位置し、私の人生でもっとも神=イエス・キリストに近づいていたというわけなのであった。そして、私は磔刑のためゴル

ゴダの丘へと連行されるキリストのごとく、もう本当にどうしようもなく人生に草臥れ果ててしまっており、未来に生きる希望や展望をまったく見いだせぬまま、か

といって思い切って死んでしまう勇気などもなく、己の不甲斐のない人生を中途半端に持て余し屈託しながら愚図愚図とくすぶっていたものであった。一般的に、交

際相手を失った喪男にとって、精神問題はさておいて、現実問題として即物的にまっ先に直面する困難は何かと言ったらば、それはおそらく性欲の処理問題であると

思われる。荒んだ生活を送っていたとはいえ、困ったことに、草臥れ果てたキリストであるところの私の小憎らしい性欲は、危機に瀕し死に向かえば向かうほど本能

的に子孫を残そうと努力する人間という生き物の生まれついての哀しい習性によるものであろうか、精神の落ちこみようとは反比例するかのごとく、それをあざ笑う

かのごとく、一向に衰える兆しもみせず、むしろますます増大していき、当時40歳を少し越えたばかりの中年男であり草臥れ果てたキリストであるところの私は俄然

精力絶倫の状態にあり、世間一般の喪男の例に洩れず、あながち冗談でもなんでもなく、思春期の性に目覚めサカリのついた中高生のごとく、風が吹く度に勃起して

しまうほど、皮肉にも己の人生と同じくらい己の性欲をも持て余しているのであった。加えて、私は絵を描きはじめた33歳の頃から、愛を伴わない射精全般を自らに

禁じてきており、つまり自慰行為(センズリ/マスターベーション)の類いはできる限りおこなわないことを自らに義務づけてきており、その理由を話すと長くなってし

まうからここには詳しくは書かないけれども、それは若い頃の放蕩無頼なヤリチン三歩手前の青春(性春)時代の反動とでもいえるものであり、本当に詳しく書くこと

ができないのが残念でならないけれど、ともかく私は絵を描きはじめた33歳の頃から、強い意志をもって愛を伴わない射精行為をできる限り自らに禁じてきており、

さらに加えて、昔から私は特定の交際相手を持たず人肌が恋しく思う時であっても、金で女を買って己の性欲を処理をすること自体にどこか後ろめたさや罪悪感を覚

えるタイプの人間であり、そんなものはちっぽけなこだわりや安っぽいプライドに過ぎず、ケダモノの分際で一丁前に何を気取っていやがるんだという話であるのは

重々承知の上で、金を払えば誰とでもヤル相手と金を払っておこなう愛を伴わない性行為が、絶対に許せないとまで言い切るわけにはいかずとも、やはり若い頃の放

蕩無頼なヤリチン三歩手前の青春(性春)時代を思い出してしまうからであろうか、その悔恨と自己嫌悪からどうにもしっくりこなくて気持ちが悪く虚しさを覚えてし

まうがゆえ、愛を伴わない悪所通いの類いもできる限り自らに禁じていたという事情も相まって、結果的にまるで自らの手で自らの首を絞めるかのごとく、体内で膨

れ上がってゆく己の性欲をどうすることもできずに持て余す他になすすべを持たないという非常に面倒くさい状況に陥ってしまっていたというわけであった。そのよ

うに己の性欲を持て余し草臥れ果てたキリストのような私の姿を哀れに思ったものか、事情を知って交際相手としての女を世話してやると申し出てくれる心やさしい

親切な知り合いも何人か現われたものだが、何度もしつこいようだけれども、当時の私は男女問わず人間という生き物自体と心と心を深く通いあわせることに対して

恐怖にも近い感情を抱いており、人間という生き物全般を意図的に避けていたため、また、人はそんなに容易く人を好きになったり嫌いになったりはできるはずもな

く、そのためには膨大なエネルギーが必要になるわけであるが、当時の草臥れ果てたキリストであるところの私にはそのエネルギーがまったくと言っていいほど足り

ていなかったため、ごにょごにょといい加減に返事をはぐらかしてやんわりと断ったり、申し訳ないが今は恋愛などに現を抜かしている心境ではないのだとハッキリ

と断ったりなどして、甚だ畏れ多くもったいなく残念なことではあったが、せっかくの彼らの善意や好意が報われることは決してないのであった。そんな荒んだ日々

を送るなかで、寂しいひとり寝の眠れぬ夜などに、私は大好きなジョン・カサヴェテス監督の傑作映画『ラヴ・ストリームス』を観賞しながら、映画の中でジーナ・

ローランズ演ずる孤独な女が発する「愛は絶えず流れ続けて、止まることはない」というセリフに「そう思いたい気持ちはわからなくもないけれども、永遠に続く愛

なんてどこにもないんだよな」と今まで付き合った女たちの顔を頭に思い浮べては切ない気持ちになったり、ジョン・カサヴェテス演ずる孤独な男が発する「大人の

男はひとりでは寝れないんだ」というセリフに「まったくその通りだ」と不意に人肌が恋しくなったりもするのであった。そんなふうに、他人と深くかかわることを

意識的に避けているにもかかわらず、誰か他人のぬくもりを強く求めてしまうというなんとも人間らしい矛盾を自覚しながら、時折私は「どこかに私の心に空いたで

っかい穴ぼこを塞いでくれる最高の女はいないものだろうか」などと都合のいい奇跡を求めて、夜の場末の飲屋街を酔いどれた足どりでふらふらとうろつきまわって

みたりもしたものであった。「オニーサン、マッサージ、3ゼンエン、キモチー」「オニーサン、マッサージ、3ゼンエン、キモチー」女に声をかけられたのは、そん

なある夜のことであった。随分と昔から赤羽駅南口あたりには深夜になると違法ボッタクリマッサージに従事する中国女たちがうようよと現われては道行く酔っぱら

いたちに片っ端から片言の日本語で声をかけまくっていて、過去に私も何度も声をかけられたりいきなり腕を引っ張られたりした経験があり、その都度一切無視して

通り過ぎたり無理やり腕を振りほどくなどして、一度たりとも中国女たちと目を合わせることすらしなかったのだが、その夜の私は、自分自身が神=キリストの風貌

を持つにもかかわらず、また、常日頃、神なんているわけがない、もし本当に神がいるのならば、世の中もう少しはマシになっているはずだ、と冷徹ニヒリスティッ

クな人間嫌いの成れの果ての無神論者を気取っているにもかかわらず、なぜだかは知らぬがその夜だけは、それがまるで神の思し召し/お導きとでもいうように、声を

かけてきた中国女に不覚にも足を止め振り返ってしまったのだった。言い訳がましく聞こえるかもしれぬが、その時の私はもう本当に心底弱り切ってしまっており、

やさしく声をかけてくれさえすれば、藁にもすがるようにどこへでも誰にでもついていってしまうようなそんな精神状態なのであった。そんな私が振り返った先には

スタイル抜群の美しい天使が笑顔で立っているのだった。酔いどれた私の濁った目には、年の頃20代後半であろうか、昔日本でも売れていて有名だった香港の女優歌

手のケリー・チャン(ググってみてください)という女にそっくり、いや、ケリー・チャンを2割引して80%ケリー・チャンといった塩梅の私好みのとても美しい女に

映ったのだった。Tシャツにジーンズというラフな出で立ちではあったが、170cm近い長身のモデル体型でスラリと伸びた長い手足を持ち、ピッチピッチのTシャツ

の下には推定E~Fカップであろうか、普段「女の乳房は大きさではなく柔らかさだ、触り心地がすべてであり、形や大きさなど見栄えは二義的なものである(そして、

男の陰茎も大きさではなく硬さがすべてだ)」という主義を信奉しているがために、巨乳と呼ばれる大きな乳房にはそれほど熱心に興味を示すことがないこの私が、珍

しく驚いて目を見張るほどに形の美しい乳房の持ち主なのであった。その美乳に釘付けになっている私に、ケリー・チャンはすてきな笑顔で「オニーサン、マッサー

ジ、3ゼンエン、キモチー」「オニーサン、マッサージ、3ゼンエン、キモチー」と片言の日本語で何度も繰り返しながら私の肩をやさしく抱いて、あたかも私とケリ

ー・チャンは交際中のカップルであるかのような仲睦まじきごく自然な所作で、近所の怪しげな雑居ビル2階にあるマッサージルームへと誘ってゆき、私は、下心が

一切なかったといったら嘘になってしまうが、麗しき美貌を持つケリー・チャンに3千円そこらでマッサージされて心を癒されるならば、まあ3千円そこらはそんなに

高い出費ではなかろうと腹をくくり、とにかく美しい女に心を癒されたいという一心から、一切抵抗することもなく、気づいた時には雑居ビルの薄暗い部屋の中のカ

ーテンで仕切られた診察台のような簡易ベッドの上に仰向けに寝そべっているのであった。その部屋には照明設備がほとんどなくほぼ暗闇に近かったが、同じような

ベッドが何台も設置されている様子で、隣のベッドからはすでに先客がいる気配も伝わってきて、なにやら男が中国女と言い争うヒソヒソ声が聞こえてきたりなどし

て、一瞬だけ私は「もしかしてヤバい店なのかも?」と危険な香りを察知したものの、すでに料金3千円も支払ってしまっていたため、とりあえずは私好みの美女で

あるケリー・チャンに心を癒されることだけに全神経を集中させて、まわりの雑音は一切無視することに決めたのだった。それからすぐにケリー・チャンはおざなり

に私の全身を服の上から触ったりつまんだり擦ったりしはじめたのだが、その手つきはお世辞にもマッサージと呼べるような代物ではなくて、私はまったく肉体的な

満足感を得られなかったわけだけれども、好みのタイプの美しい女に全身をまさぐられているというその客観的な事実のみによって自分自身を興奮させ「料金3千円

そこらならこの程度が関の山だろう」と無理やり自分を納得させながら、片言の日本語を操るケリー・チャンと時折たわいのない世間話を楽しんだりして、その話に

よれば、ケリー・チャンは2週間前に知人を頼って上海から来日したばかりで、すでにわかりきったことではあったがマッサージの経験などは皆無であり、上海では

モデルのような仕事をしていたそうであり「だからものすごくキレイなんだね」と私が決してお世辞でもなくその美貌を褒めそやせば、ケリー・チャンは「アリガッ

ト、ゴザマス、ウレシデス」と暗闇にうっすらと白い歯を浮かべニッコリと微笑むのだった。それから10分ほど経過した頃合だっただろうか、突然ケリー・チャンは

何の前触れもなく私の股間に手を伸ばし私のペニスとキンタマをズボンの上からまるで農婦が畑の芋でも触るような全然エロティックでないガサツでぎこちない手つ

きでマッサージ同様おざなりにまさぐりはじめたと思えば、私の耳元で「オニーサン、スペシャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチー、3マンエン」「オニーサン、

スペシャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチー、3マンエン」と私の股間をまさぐるガサツな手つきとは逆になんともエロティックな嬌声でいやらしく囁きはじめる

のであった。そのエロティックな嬌声に酔いどれた脳みそを心地よく刺激されながら私は「ふうむ、3万円で最後までか」とケリー・チャンと追加料金3万円を支払っ

て「スペシャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチー」する(つまりSEXする)可能性について用心深く思案を巡らせてみるのだったが、その可能性を否定するには私には

ケリー・チャンがあまりにも美しすぎて、そして、何度も言い訳がましいけれども、その可能性を否定するにはその時の私はもう本当に弱り切ってしまっていたので

あった。あいにく財布の中には手持ちがなかったため、私とケリー・チャンは、まるで同棲中のカップルが買い物に行くかのように仲睦まじく連れ立ってすぐ近くの

コンビニATMへと向い、私はおろしたてホヤホヤの3万をその場でケリー・チャンに手渡し、再びまるで同棲中のカップルが買い物から部屋へと帰るかのように仲睦

まじく雑居ビル2階にあるマッサージルームへと戻ると、すぐさまケリー・チャンは私に「シタ、ヌイデクダサイ」といきなり指示して、私は「いよいよお楽しみの

はじまりだな!」と期待に胸を膨らませながら素早くズボンとパンツを脱ぎ下半身丸出しになって再び仰向けに寝転ぶと、ケリー・チャンはその時まだ完全には硬く

なっていなかった3分勃ち程度の私のペニスに白いパウダーみたいな謎の粉を乱暴に振りかけたのち、再びまるで農婦が畑の芋でも触るかのような全然エロティック

でないガサツでぎこちない手つきで私のペニスを握りしめたかと思えば、いきなりものすごい勢いでぞんざいに超高速手コキをはじめるものだから、私はあまりの痛

さにビックリ仰天して飛び上がってしまって「ちょ、ちょっ、ちょっとタイム!すんごく痛いんですけど」と手コキを強制的に中断させた上で、仕切り直しにケリー

・チャンの美乳にさりげなく手を伸ばして触れようと試みたのだけれども、ケリー・チャンは「ダメデスヨ!」と私の手をものすごく強い力で振り払い頑なに美乳に

触れさせようとはせず、私はめげずに何度も試してみたものの、その都度乱暴に拒絶されるのでとうとう諦め、今度はケリー・チャンのジーンズを脱がそうと試みた

のだけれども、それも「ダメデスヨ!」と再びものすごく強い力で手を振り払われてしまったため「えっ、ちょっと待って、なんでダメなの?脱がないとSEXできな

いよね?」「SEXダメデスヨ!」「えっ、なんで?なんで?なんで?スペシャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチーって言ったよね?」「テデ、スペシャル、サイゴ

マデ、スッゴイ、キモチー、デス」「えっ、何、もしかして手コキで最後までなの?手コキで3万って意味だったわけ?」「ソーデスヨ!」ここでようやく間抜けな

酔っ払いの私も完全にボッタクリ被害の真っ只中に自分がいることを否が応でも悟ったわけだが、一気に酔いが醒めてしまった私は、愛と憎しみは紙一重、ケリー・

チャンに対する興味も一気に失せてしまって、そのかわりにダマされていたことに対する激しい怒りがフツフツと私の心の中で湧き起こり、それに溜まりに溜った日

頃の鬱憤やら、はなっから違法ボッタクリマッサージ店だとわかりきっていたのに自分だけはボッタクリ被害などには遭わぬという根拠のない驕った過信でもあった

のであろうか、こんな中国女に間抜けにもダマされてホイホイついて来てしまった自分自身の不甲斐なさに対する怒りも混ざり合って、とうとう大爆発「てめえ、ふ

ざけんなよ!金返せ、金、3万返せ、3万、返さなかったら、ただじゃおかないぞ、すぐそこの駅前の交番に駆けこむぞ!」と怒鳴りつけてやると、一瞬たじろいだケ

リー・チャンは「チョト、マテクダサイ」と言い残して、一旦カーテンの外に姿を消したかと思えば、数分後、おそらく違法マッサージ屋のラスボスの元締めらしき

60がらみの女装したサモ・ハン・キンポー(ググってみてください)にそっくりなコワモテやり手ババアを伴って再び現われたので、私は今度は怒りの鉾先をサモ・ハ

ン・キンポー婆に向け「あんたが親分さんかい、あのさあ、スペシャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチーでなんで手コキなわけよ?この女おっぱいすらも絶対触ら

せねえし、手コキで3万なんていくらなんでも高すぎだろうよ、世間の一般常識的に考えて、スペシャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチーって言ったら、SEXでスペ

シャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチーだろうがよ、俺のコレを女のアソコに入れて、スペシャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチーって意味だろうがよ、日本人

なめんなよ、今すぐ金返せ、3万返せ、3万、返さないと駅前の交番に駆けこんで、警察沙汰にするからな」とさっきケリー・チャンに言ったこととおおむね同じ主旨

の言葉を繰り返し凄んでみせるも、サモ・ハン・キンポー婆、おそらくこういった類いのトラブルは日常茶飯事で慣れっこなのであろう、さして動じた素振りも見せ

ず、ケリー・チャンよりは幾分達者な片言の日本語で「オニーサンノ、イーブンモ、ヨーク、ワカルケドネ、コッチモ、ショーバイナンデスヨ、ハラッテモラッタ、

オカネハ、カエセナイノヨ、コノコモネ、ニホンキタバカリダシ、カワイソウデショ?」と情に訴えてきたりしたが、私は一切妥協はせず「可哀想なのはこっちのほ

うだろ、こんなふざけたインチキ商売しやがって、酔っ払いダマくらかして、卑怯な手段で金まきあげて、おまえらそれで良心は痛まないのかよ?」「リョウシン、

シニマシタ」「えっ、死んだの?」「ハイ、アタシノ、オトーサン、オカーサン、トックニ、シニマシタ、チューゴクイルトキ、シニマシタ」「その両親じゃねえよ

!つまり、誠意とか、真心とかさ」「ムツカシイコトバ、ワカラナイ、デモ、タブン、ソレモ、シニマシタ」「悪いことして、胸が痛まないのかって聞いてんだよ」

「アタシ、オッパイ、ゼンゼン、イタクナイ」狸婆わざとすっとぼけてやがるのか、推定G~Hカップの無意味にデカイ爆乳に手を当てて軽く揉むマネしてみせたり、

トンチンカンな会話がまったく噛み合わず、その後も「金返せ」「カエセナイ」「良心は?」「シニマシタ」「金返せ」「カエセナイ」「良心は?」「シニマシタ」

「金返せ」「カエセナイ」「胸が痛まないのか?」「オッパイ、イタクナイ」「金返せ」「カエセナイ」「良心は?」「シニマシタ」「金返せ」「カエセナイ」「良

心は?」「シニマシタ」「金返せ」「カエセナイ」「胸が痛まないのか?」「オッパイ、イタクナイ」と不毛な押し問答が延々と続き、次第にカーテンで仕切られた

狭い密室の空間をサモハンキンポー婆の凄まじく強烈な口臭が充満しはじめてきて、私は飲み過ぎた酒のせいかもしれぬが、吐き気を催すほど心底気持ちが悪くなっ

てきてしまったところに、サモ・ハン・キンポー婆がトドメの一撃「ジャア、ワカッタ、オニーサン、トクベツ、アタシヤラセテアゲル、アタシトSEXシマショウ、

オニーサンノコレ、アタシノアソコニイレテ、スペシャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチー、メデタシ、メデタシ、コレデドウデスカ?」と私の想像のはるか斜め

上を行く突拍子もない妥協案を示してきたものだから、さあ大変、一応私はサモ・ハン・キンポー婆と「スペシャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチー」する(つまり

SEXする)可能性について用心深く思案を巡らせてはみるも、その可能性を肯定し受け入れるにはサモ・ハン・キンポー婆の口臭ががあまりにもキツすぎたため、一刻

も早くそんな空間からは一目散に逃げ出して便所に飛び込んで喉に指突っ込んで嘔吐してスッキリしたいと心から願いはじめていた私は「何がメデタシ、メデタシだ

よ、全然めでたくなんかねえよ、何が哀しくてこんな夜更けに60過ぎの口の臭い狸婆とスペシャル、サイゴマデ、スッゴイ、キモチーしなきゃなんないんだよ、アホ

らしいったらありゃしねえよ!」とサモ・ハン・キンポー婆の口の臭さと執念深さに私はとうとう白旗を揚げてしまって、3万はバカ高い授業料だったと渋々諦め、

私は我に返って私の心を代弁するかのように謎の白い粉にまみれてダラリと垂れ下がってすっかりションボリしてしまっていたむきだしのペニスを軽くはたき、その

時になってようやく今まで下半身丸出しだったことにも気づきさらに恥ずかしくなって、慌ててパンツとズボンを履き、幕引きの準備にとりかかるのだった。去り際

に雑居ビルの玄関先で、私は、最後におっぱいの一つくらい触って帰ってやろうかな、少しくらい元を取ってもバチは当たらんだろう、と不意に思い立って、演技か

もしれぬが少しだけ悪びれているようにも見受けられる神妙そうな顔つきでしおらしく俯いていたケリー・チャンの隙を突いて、ケリー・チャンの美乳にTシャツの

上から一瞬触れたところが、な、な、なんと!それは分厚く硬いゴム製の氷嚢を触ったかのような、もしくは、バスケットボールのようなゴツゴツゴワゴワとしたと

にかく不自然で嫌な感じのするハードコアな触感であり、どうやらケリー・チャンの美乳はハリボテみせかけの見事な入れ乳(偽乳)であったことが判明、どうりで触

らせねえわけだよ、もしかしたらそのケリー・チャンもどきの整った顔面も作り物の全身整形サイボーグ詐欺女なんじゃねえのか、とすっかり夢から醒めてもう笑っ

てしまいそうなほどアホらしくなった私は「ホントニゴメンナサイネ、ヨカッタラ、マタ、キテクダサイネ、コレ、マゴコロデス」と子供に小遣いでも手渡すかのよ

うに5千円札1枚裸でペロッと返してくれたサモ・ハン・キンポー婆に「来るわけねえだろ、バカ!」と一言吐き捨て、弱り目に祟り目、泣っ面に蜂、もう踏んだり蹴

ったり、最悪の気分で家路につくのであった。それからのち、しばらくの間は、あの夜のボッタクリ被害による屈辱感と敗北感が、サモ・ハン・キンポー婆の吐き気

を催す強烈な口臭とケリー・チャンの入れ乳のごついハードコアな触感とともに呼び覚まされてきて、四六時中私を悩ませ続け、たまに夢に見てうなされたり、また

最初に3千円払って次に3万円払って最後にマゴコロで5千円返してくれたから結局のところ合計いくらの損害になるんだ?えっ2万8千円の損害じゃねえか!ふざけん

なよ!詐欺師ども!チクショー!とひとり毒づきながら、この悪運の連鎖は何としても断ち切らなければ私の人生はもう本当に破滅へと向かって行ってしまいかねん

ぞ、と危惧した私は意を決して、あの悪夢のような夜から数えてほぼ1週間後に当たるある晴れた日の午後、サモ・ハン・キンポー婆の吐き気を催す強烈な口臭とケ

リー・チャンの入れ乳のごついハードコアな触感を未知なる新たな女体の記憶によって上書きするべく、世間で言うところのいわゆる口直しとでも呼べばいいのだろ

うか、山手線の某駅から徒歩2分にある天国みたいな名前のソープランドへとそそくさと向かったのであった。前述の通り、私は絵を描きはじめた33歳の頃から、愛

を伴わない射精行為を可能な限り自らに禁じてきており、さらに、昔から金で女を買って性処理をすること自体にどこか後ろめたさや罪悪感を覚えるタイプの人間で

あったため、私がソープランドという形態の性風俗店に赴くのはおよそ10年ぶり人生通算3度目であったが、私は今の切羽詰まった悲惨な状況から抜け出せるのであ

れば、手段は二の次、金で何とかなるのであれば金ならいくらだって惜しみなく捻出いたしましょう、この最大の窮地にあっては愛があるとか愛がないだとかそうい

ったことはこの際まったく問題ではなくなってしまうほど、何度も言い訳がましくなってしまうけれども、私はもう本当に本当に弱り切ってしまっていたというわけ

であった。さらにしつこく言い訳を重ねるならば、金に糸目はつけぬとその時金銭的に多少余裕もあり総額10万の高級ソープランドに行くことも十分可能であった私

が、その天国みたいな名前の安ソープランドを選んだ理由は、まず単純に私の家からわりかし近かったこと、そして当時草臥れ果てたキリストであるところの私が、

キリストゆえにその天国みたいな店名に無意識に惹かれていたこともあながち否定はできないけれども、実際のところ最大の理由は何かと言ったらば、その当時の草

臥れ果てて心の荒み切った自分には場末の総額2万のうらぶれた安ソープがお似合いだな、といささか自嘲気味のやぶれかぶれな選択の結果とも言えるのであった。

その天国みたいな名前の安ソープランドは、駅前商店街の外れに位置し、周囲にスーパーマーケットや学校などがあるため、店前の道路は主婦や学生やら常に往来が

激しくて、おまけに真昼間だったものだから、年甲斐もなく羞恥心を感じてしまった私は、いささか入店にも難儀したわけだけれども、店の前をウロウロと10往復し

てもなお店に飛び込むタイミングがつかめず、景気付けに近所のコンビニで缶ビール500ml1本一気飲みして再び店の前をウロウロと5往復したのちにようやく、もう

どうにでもなれやと思い切って飛び込んだすぐ店頭の受付にズラリと並べられた写真の中から私が指名したのは、マリアという源氏名を持つ自称24歳の女で、たとえ

るならば、映画『バッファロー'66』出演時のクリスティーナ・リッチを和風にアレンジした感じの肉付きがほどよく少し太め(ポチャ)だけれども可愛らしい顔をした

気さくでやさしげでなんとなく母性を漂わせる女であった。今思えば無意識にマリアという慈愛に満ちたその名前に惹かれたのかもしれぬが、でもそれでは話がなん

とも出来過ぎで無理やりのこじつけになってしまい、それにその時の私にはまだキリストとしての自覚がハッキリとあったわけではないから、店の受付に並んでいる

たくさんの写真の中からただ単純に好みのルックスの相手を選んだ結果にすぎず、正直に言ってしまえば、場末の安ソープランドにいる女の容貌に期待などまったく

していなかった私は、実際に実物と対面した際には、写真よりも格段にかわいくて驚き、今時の安ソープにはこんなにも若くてかわいい女がいるものなんだな、世の

中一体どうなってしまっているのだ、と良い意味で期待を裏切られたような気分がしたものであった。女に案内され、4畳半に風呂とベッドを無理やり押し込めたよ

うな陰気な部屋に入るとすぐさま初対面の挨拶もおざなりに「あれれれ、おにいさん、あの人に似てるよねー?」女は私の顔を見るなりそう呟き「名前なんだっけな

あー、兄弟でバンドやってる人で、えーっと、えーっと、えーっと、思い出せないなー」「もしかしてチェッカーズ?」「違う、違う、そんな昔の古いバンドじゃな

くってねー、ちょっと前に流行ってた若者に人気のバンドでねー、その人ドラマとかにも出てて、名前なんだっけかなー、すっごーく気になるから調べてもいい?」

そう言って女は自分のバッグからスマホを取り出して5分ほどチクチクといじくり回して、その間に私は服を一枚一枚ゆっくりと脱いでいき生まれたままの姿になっ

たのち、両手で股間にぶら下がっているペニスとキンタマを隠しながら、時間もったいないなー、とか、もしかしてこの女わざと時間稼ぎしてるんじゃないのか、と

か、少しイライラしはじめた頃になってようやく「あ!わかったー!この人」と女は突然叫び声をあげて、素っ裸の私の鼻先にスマホの画面を突きつけてきて、その

スマホの画面には長髪髭面のギラギラと眼光鋭いチンピラヤクザみたいなイカツイ男の写真が表示されてあって、どことなく明治大正時代のアナキスト大杉栄を彷彿

とさせる、私は名前をまったく知らなかったけれどTVドラマやCMや映画で何度が見かけたことのあるそのKという男の顔は、ただ単に私と髪型と髭が似ているだけに

すぎないようにも思えて「この人ってバンドやってたんだ?でも俺には全然似てないと思うけど、俺こんなオラオラ系のイカツイ顔してないよ」「えー、すごく似て

るって、よく見てみなよー、そっくりだよー、自分でもなんとなくわかるんじゃない?」「うーん、言わんとしてる方向性はわからんでもないんだけど、やっぱり俺

こんなチンピラ風情のコワモテじゃないと思うけどなあ」と少し困惑して答えながら私は、もしかしたらここ最近の荒んだ生活が私の風貌まで荒ませてしまったので

はないか、と正直なところ少なからぬショックを受けてもいたのだけれども、女は「あー思い出せてスッキリしたー!」と言ってすぐさま自分も服を脱ぎ生まれたま

まの姿になり、それから、私をスケベイスと呼ばれる空間(隙間)を無駄なく巧妙に生かした特殊な形状のイスに座らせて、私の頭顔以外股間を含めた全身余すところ

なく石鹸の泡まみれして自分の手や体を使って時間をかけゆっくり丁寧に洗いあげそして流しながら女は「おにいさん、お仕事なにやってるんですかー?」とか「今

日はお休みなんですかー?」とか「おにいさん、すっごく細いけど、ちゃんとごはん食べてるのー?」とか「おにいさんのお尻、上向きにキュッて引き締まってて、

いいお尻だねー」とか「でも、おにいさん、裸になるとキリストにも似てるよねー、てか、いったんキリストに見えたらもうキリストにしか見えなくなっちゃったよ

ー」とか「私、今キリストとブッダがおんぼろアパートで同棲するマンガにハマってて面白いから今度読んでみてよー」とか、当たり障りのないことを気さくに私に

話しかけてきて、その後二人でベッドに移動して、私が「恥ずかしいから部屋の照明を少し暗くしてくれないかな」と頼むと、女は「おにいさん、かわいいねー」と

茶化してきて「おにいさん、彼女とかいないのー?」「いたけど半年前に別れてね、それ以来誰ともSEXしてないよ」「そーなんだー、じゃあ半年ぶりだねー」「そ

う、久しぶりだから、やさしくしてよ」「うん、わかったー、やさしくするねー、キリストさんにはやさしくしないとねー、バチ当たっちゃうもんねー」そう笑いな

がら女はキリストである私の不健康で折れそうなほど細い体を石鹸くさい甘ったるい匂いのするプニプニの柔らかい体でやさしく包み込むように抱擁してきて、私は

約半年ぶりに人間のぬくもりというものを肌で実感して、それから女はうがい薬くさい口で同じくうがい薬くさい私の口をやさしく塞いできて、決して愛などはない

はずだけれどもなぜだか慈愛に満ち溢れたようなどこかしら母性を漂わせるキスがはじまり、最初やさしくそのうち激しく互いの舌の根元の奥までしっかりねっとり

絡め合ってジュボジュボんごんごジュボジュボんごんご吸い合ってもう窒息寸前みたいなお子様にはとてもじゃないが見せられないようなもうとんでもなくエロティ

ックでエゲツナイものへと変わっていって、女は時折悩ましげな吐息を漏らしはじめるようになり、その濃厚なキスの間中、私は女の推定D~Eカップのいわゆる世間

でマシュマロ乳と呼ばれる種類の乳房を一心不乱に揉みしだき続けて、その文字通りマシュマロを揉んでいるかのようなとても柔らかくて心地のよい触感に溺れる私

の頭の中には、一瞬だけあの悪夢のような夜のケリー・チャンの入れ乳のごついハードコアな触感が、サモ・ハン・キンポー婆の吐き気を催すほど強烈な口臭を伴っ

て呼び覚まされてきたりもしたけれども、私はその悪夢を振り払うかのごとくさらに力を込めて激しくしつこくじっくり丁寧に女のマシュマロ乳を揉みしだきながら

「やはり女は柔らかさだよな」とうっとり夢見心地で再確認していると、女は矢庭に私の口から自分の口を離して「キリストさん、ごめんねー、それちょっとだけ痛

いかもぉー」と少しだけ興奮し上気してはいるが慈愛に満ちたやさしい笑顔と、どこかしら母性を感じさせるやさしい口調で私のいたずらっこな指による狼藉を諭し

てくれて、それから、女のいやらしい口は、ごく自然な流れで私の首筋から両乳首を中心に上半身を念入りに這うように舐めまわしていき、だんだん下へと下りてい

き、腹やへそを経由して、そして最終目的地であるその時すでにギンギンに反り返るほど硬くなっていた私のペニスの麓に辿り着くと、その先っぽから早くも先走っ

ていたガマン汁に指で触れ糸を引かせ亀頭の輪郭をゆっくりいやらしくなぞっていきながら「すっごくおっきくなってますねー、それになんだかいやらしい不思議な

お汁までお漏らししちゃってますよー、キリストさんはいけない子ですねー」と幼稚園児を諭すかのような口調で言って私のペニスをパクリとくわえたかと思えば、

熟練の技巧的な舌づかいで丁寧に舐めはじめ、その女のフェラは、決して愛などはないはずだけれどもなぜだか慈愛に満ち溢れてどこかしら母性を漂わせてもいて、

私は、今まで色んな女に散々フェラしてもらってきたけれども、この女のフェラのやさしさはおざなりな商売柄のやさしさなんかではなくて、おそらくこの女は本当

に性根のやさしい子なんだろうな、とかぼんやり考えながら、私の性欲はもうすでに絶頂寸前まで高まってしまっていて「あ、ヤバいかも、イってしまいそうだよ」

と決して愛などはないはずだけれどもなぜだか慈愛に満ち溢れたようなどこかしら母性を漂わせるフェラを中断させ、女は「キリストさんは早漏なんだねー」といた

ずらっぽく微笑んでから、私の勃起したペニスにコンドームを慣れた手つきでスルっとピタっと瞬く間に装着して、私は「久しぶりだからすっかりやり方忘れちゃっ

たんだけど、どこに入れればいいんだっけ?」と私が初めての相手とSEXする時いつも照れ隠しで披露するお約束のボケをかまして勃起したペニスの先端を女の尻の

穴にあてがい冗談で挿入しようとすれば、女は「コラコラ、キリストさん、ダメですよー、そこはお尻の穴ですよー、入れるのはこっちの穴」とこれまた大抵の女が

するありきたりなツッコミで返してきて、そのまま仰向けの私の体に騎乗位と呼ばれる体位で馬乗りになって、私のペニスに手を添えながらゆっくりと体重をかけお

尻の穴ではないほうの穴の中へとやさしく導き入れて、私は挿入してほどなくすでに射精しそうな気配を感じたため、つながった状態のまま一旦上半身を起こし騎乗

位から正常位へと体位を切り替える途中、不意に私のペニスがヌルっと抜けてしまったので、あらためて入れるべき穴をきちんと目と指で確認した上でゆっくりと正

常位で挿入していくやいなや、私はクライマックスの瞬間がもうすぐそこまで近づいていて一刻の猶予もないことを察知して、腰を動かすスピードをどんどんどんど

んあげていき、私のペニスが女の穴の奥深いところまで届くたびに女は「キリストさんのオチンチンすっごく硬くてとっても気持ちいいー!すっごく当たってるー!

すっごく当たってるー!すっごく当たってるー!すっごく当たってるー!すっごく当たってるー!」と絶叫して、正直どこに当たっているのか当ててるはずの私には

さっぱりわからなかったけれども、たとえそれが女の演技であったとしてもお世辞であったとしても言われたこちらは嬉しく思うような艶かしい喘ぎ声をあげてくれ

て、私は「すっごく当たってるー!すっごく当たってるー!すっごく当たってるー!」といやらしくやかましく喚き続ける女の口を私の口で乱暴に塞いで一旦黙らせ

たのち、そのまま、その口を女の耳元へとスライドさせていき、少し鼻にかかる甘ったれた切なげな声で「あああ、イキそうだよ!あああ、イってもいい?あああ、

イってもいい?あああ、イってもいい?」と何度も囁くと、女は「いいよ!イっていいよー!いっぱい、いっぱい、イっていいよー!」と艶かしいけれどもどこかし

ら母性を漂わせる喘ぎ声で何度も何度も答えてくれて、そして、私は射精する瞬間に女の耳元で「ああああ、アーーーーーメン!!!」と大絶叫し果てたのだった。

私のペニスは女の中でドクドクと脈打ちながら約半年間溜まりに溜った精液を排出し続けて、久しぶりだったからそのドクドクの数が通常よりも倍増いや3倍増いや

いや5倍増くらい長くなっていて、その長くなった分だけドクドクドクドクと気持ちよさまで増大しているようにも感じられて、私はそのドクドクドクドクという脈

動が永遠に続くかのような錯覚にも囚われていたのだけれども、やがてドクドクドクドクは静かに終わりを迎えて、そして、ドクドクドクドクが終わるのを見計らっ

たかのようなタイミングで、突然女は火がついたように笑い出したのだった。「ギャハハハハハハハハ!受けるんだけどー!ギャハハハハハハハハ!アーメンって!

ギャハハハハハハハハ!アーメンって!」女の笑いはいつまでもいつまでも続き、その女の笑いの渦の波動が女の性器に接触する射精を終えたばかりの私のペニスを

プルプルプルプルと振動させたため、私はこそばゆくてこそばゆくて仕方がなくてクネクネと身をよじったりしていたのだけれども、そのうち女の腹の底からマグマ

のように絶え間なく湧き上がる笑いの渦の波動が、女の性器に挿入された私のペニスを通じて私の腹の底にまで伝染してきたかのように、とうとう私までもが火がつ

いたように腹の底から笑い出しはじめて、二人つながったままの状態で抱き合い涙まで流しながら5分もの間笑い転げ続けるのであった。「ギャハハハハハハハハ!

ほんと受けるんだけどー!ギャハハハハハハハハ!アーメンってー!ギャハハハハハハハハ!イク時にアーメンなんて言ったお客さん初めてなんですけどー!ギャハ

ハハハハハハハ!アーメンって!ギャハハハハハハハハ!ああ、お腹痛いよー!」「俺だって生まれて初めてだよ、そんなこと言ったの!ギャハハハハハハハハ!な

んで俺アーメンなんて言ったんだろ?ギャハハハハハハハハ!何がアーメンだよ!腹痛えー!ギャハハハハハハハハ!」私はこんなふうに腹の底から思いっ切り笑っ

たのなんてのは本当に久しぶりのことであったから、ここ最近の草臥れ果てた私の四六時中寒風が吹き荒みまくりだった心に空いたでっかい穴ぼこに一瞬だけあたた

かな風が吹きこまれて、私の心の穴ぼこの大きさが小さくなって、枯れ地に水をやったようにしっとりと湿り気を帯びて息を吹き返すような、なんだか心が洗われて

少しだけ軽くなったようなそんな気もしてくるのであった。私の心の穴ぼこが小さくなり少しだけ心が軽くなったような気がしたのは、久しぶりに腹の底から声を出

して笑ったからなのか、それとも約半年間溜まりに溜った性欲を女の中にすべて吐き出しキンタマが軽くなってスッキリしたからなのか、はたまたその両方だったの

か、その時の私には正直判別つきかねたけれども、ともかく私の心が約半年ぶりに軽くなったということだけは紛れもない事実であり、その後もシャワーを浴びたり

歯を磨いたり服を着たり帰り支度を整えながら、時々二人でアーメンを思い出しては顔を見合わせプッと吹き出したり笑い転げたり「たぶんアーメンの使い方間違っ

てるけどな」「うん、たぶん間違ってるけど、いいんじゃないのー、面白ければー」「別にいいよな、面白ければな」などとくだらぬ会話を続けて「キリストのおに

いさん、私より髪の毛長いよねー」「キリストだからね、キリストがハゲてたら全然キリストっぽくなくなっちゃうよ、でもさすがに鬱陶しいし、そろそろ切らなき

ゃなとは思ってるんだけどね」「キリスト辞めちゃうんだー?」「ああ、うん、辞めちゃう…かも…しれない、わかんないけどね、なんか正直もうキリストであるこ

とに疲れたっていうか、別に好き好んでキリストやってるわけでもないし、なんか知らんけど気づいたらいつの間にかキリストになってました俺みたいな感じでさ、

何言ってるかわかんないと思うけど」私は日頃の荒んだ生活とそのきっかけとなる忌まわしい出来事を一瞬だけ思い出して冗談だか本音だかわからぬような複雑な心

境を思わずしんみり吐露すれば「よくわかんないけど、キリストさんも色々大変なんだねー」「まあ色々あるんだよ」「あのさー、もしほんとにキリスト辞めるんだ

ったらさー、私が髪の毛切ってあげようかー?」「は?、何言ってんの、もしかして昔美容師やってたとか、勉強してたとか?」「ううん、全然違うけど、前にお客

さんの髪の毛ここで切ったことあるんだよー」「マジで?」「うん、マジだよ、でもねー、あんまり上手くいかなくって自信なかったから、そのお客さんには帰りに

1000円渡したんだけどねー、気に入らなかったら1000円カットで切り直してちょうだいねーって」「今切るの?」「今は無理だよー、時間ないでしょ、でも、今度

ハサミ持ってきてくれたらちゃんと切ってあげるよーん、この次来る時ハサミ持ってきなよ、ほんと切ってあげるからさー、でもなるべく長い時間で入ってよねー、

髪の毛切っただけで終わっちゃうんじゃ、こういうお店に来る意味なくなっちゃうでしょ、あ、そろそろ終わりの時間来ちゃったかもー」「わかった、そうするよ、

でも、受付の人にバレないかな、来た時はキリストで、帰る時はキリストじゃなくなってるわけだよね」「別に平気じゃなーい、うちの店員アホだしー」「まあ大丈

夫か、今日はなんだかすごく楽しかったな、久しぶりに心の底から笑った気がするよ、ありがとね」「どういたしまして、私もすごく楽しかったよーん、あ、ハイこ

れ」別れ際に女は私に名刺を手渡してきて、その名刺には「マリア」という名前と「また会いたいな?キリストのおにいさんへ」という文字が、いつの間にやら描い

ていたのか、幼稚園児が描いたようなキリストとおぼしき長髪髭面のおっさんの稚拙な似顔絵イラストとともにサインペンで書きなぐられてあって、私はあらためて

自分自身がキリストであることを自覚し、また目の前で微笑む女の源氏名がマリアであることも思い出して「キリストとマリアがSEXしたらまずいんじゃないのか?

キリストとマリアがSEXしたら近親相姦になってしまうよな?」とふと思いついたその考えを女に伝えると「ほんとだねー、近親相姦だねー、ヤバいねー、ヤバいね

ー」と女はまったくヤバそうでもなくむしろ大喜びしながら「また近親相姦しようねー」「ああ近親相姦しよう」文字にすると結構すごい内容の会話を交わして「約

束だよーん」「うん、約束する」「あっ、ハサミも忘れずにねー」「わかってるって、楽しみにしてるよ」再会を約束し、最後に指切りして「キリストさん、じゃあ

ねー、アーメン!」「それじゃ、アーメン!」と笑顔で別れたのだけれども、結局その約束はついに果たされることはなく、私と女とは二度と会うことはなく、再び

アーメンすることもなく、近親相姦することもなく、もちろん女が私の髪の毛を切ることもないのであった。ことの次第は以下の通りである。場末の天国みたいな名

前の安ソープランドでアーメンした日からというもの、私の頭の中は常にマリアという女のことで占領されてしまって、上手く説明できないけれども、その感覚は、

私がそのマリアというソープランドの女に惚れてしまって恋愛感情を持ってしまったとか、ハートを鷲掴みにされてしまったとか、マリアという女の肉体に溺れてし

まったとかいう色恋沙汰の猥雑な感覚などでは決してなくて、なんというか、好きな趣味ができたとか、人生に目標ができたとか、真剣に打ち込める何かを見つけた

とか、今まで放っておいた持病の治療のための予約を入れて自分の健康を前向きに改善していこうと俄然やる気が出てきたとか、おそらくそっちの方面に近い健全な

感覚であり、ここ最近半年以上に渡る私の荒んだ日常生活において、なんらの楽しみや希望や展望を見いだせずにいた私の未来に、ほんとうにほんとうにかすかでほ

のかでちっぽけだけれども、たしかな確実な明るい小さな希望の光が灯ったとでも言えばいいのだろうか、実際はそれほど大層なものではなく、ほんとうにほんとう

にちっぽけな希望の光に過ぎなかったけれども、アーメンした日からのちも引き続き相変らず荒んだ日常生活を送る中で私は「次回はもっといっぱいアーメンアーメ

ンしまくろうかな」とか「いやいやあれは薮から棒にアーメンしたからこそ予想外に大爆笑を誘ったのであって同じ手は二度使えないから次はなんて言おうかな」と

か部屋でひとりニヤニヤ考えている自分に気がつき、そして、そんな自分の心境の変化に驚いたりもするのであった。ここ最近半年余りの荒んだ生活において、部屋

でひとりニヤニヤするほど愉快に思うような感覚は一度たりとも私の中では起こり得なかったことであり、その心境の変化の最大の要因は、おそらくその頃の孤独な

私のどんづまりの退屈な人生における近未来に新たな心躍るお楽しみの時間の予定ができたということに対して私は密かな喜びを覚えていたからというのが一番しっ

くりとくる説明のように思われるのだった。もしかしたら、この私の奇妙な感覚は、誰一人として理解してくれる者などいないかもしれぬが、あの名作『墨東綺譚』

を書いた永井荷風ならばおそらくきっとこの感覚を理解してくれるに違いないと私は密かに確信するのであった。そんな具合に私は毎日必ず天国みたいな名前のソー

プランドのホームページでマリアという女のスケジュールを確認し、そのモザイクのかかった女のプロフィール写真を目を細め凝視しながら、次はいつ予約を入れる

べきであろうか、本当はすぐにでもアーメンしに行きたいのは山々なんだけれど、あんまり早く予約を入れて女に飢えてガツガツしているように思われたり、キリス

トさんは色キチガイのドスケベの変態だと思われても印象が悪いだけだしなあ、などとニヤニヤ思い悩んでみたり、もらった名刺に描かれた稚拙なキリストの似顔絵

イラストを眺めては顔をほころばせたり、さらには草臥れ果てたキリストの風貌を持つ私としてもっときちんとキリストとして生きるための自覚や素養を身につける

べく足繁く図書館に通ってはキリスト教関連の本をたくさん借りてきて読み漁ったりし、キリストとして生きる決意を徐々に固めながらも、でも髪を切ってしまった

ら自分はキリストではなくなってしまうのではないのか?という矛盾に不意に突き当たり、結局自分はキリストを続けたいのか、キリストを辞めたいのか、どっちな

のかわからなくなってきてしまって、まるでイエス・キリストのように頭を抱えて苦悩してみたり、女が言っていたキリストとブッダがおんぼろアパートで同棲する

マンガ本を1巻だけ試しに買って読んでみるもちっとも面白くなくて途中で放り出したり、そして決して忘れてはならぬ約束を果たすべく、近所のホームセンターで

結構値段の張る散髪用のハサミを散々迷った末に購入したり、そうこうしているうちに時間は流れて行って、そろそろいい頃合だろうと見定めた私は、初めてアーメ

ンした日から数えてちょうど2週間後に当たる平日の午後に2度目のアーメンをするべく店に予約を入れたのだった。予約を入れてその日が来るまでの間の私は、まる

で遠足前の小学生のような気分で、大人げもなくウキウキしたりワクワクしたりソワソワしたりドキドキしたり、前回のアーメンを反芻し改善点を見つけ、次回のア

ーメンのタイミングを頭の中でシミュレーションしてみたり、アーメンの言い方のバリエーションを色々考えて発声練習してみたり、髭は剃ったほうがいいのか、剃

らないままがいいのか、どっちがいいのか、散々迷ったあげく、髭剃ったらキリストじゃなくなってしまうと結局剃らなかったり、何か食べ物でも差し入れすべきか

悩んでこんなことならば何が好きか聞いておけばよかったと悔いたり、端からみれば40男が一体全体何をバカなことで浮かれあがっているのだろうかという感じの浮

かれあがりようであり、前夜はあまりにも興奮しすぎてしまって勃起したままほとんど眠れずに夜が明けて、そして、とうとう待ちに待ったその日が訪れたわけだけ

れども、だがしかし、運命は時に残酷なものであり、いや常に残酷といってもよかろうか、なんと当日私が確認の電話を入れるとアホっぽい声の店員から「申し訳あ

りません、マリアさんは本日お休みになられました、またのご予約お待ちしておりまーす!」と無情に告げられ、つまり私はドタキャンというヤツを食らってしまっ

たわけであり、その後も私は日に何度も店のホームページを確認するも、女は一向に出勤予定がなく、やがて、初めてアーメンした日から数えて約1ヶ月後、気づい

た時にはすでにホームページから女の名前が、まるで元からそんな女など存在しなかったかのように、忽然と消えてしまっていたのであった。女が私と指切りまでし

て交わした約束を反古にして店を辞めたという予想外の動かしがたい事実を突然目の当たりにした私の心は、ほんの少しだけ傷つき乱れ「やはり女という生き物いや

人間という生き物は決して信用してはならぬのかもしれないな」と一瞬暗い気持ちに陥りながらも「でも、まあ仕方がないのかもしれないな、人にはそれぞれ色んな

事情ってもんがあることだしな、もしかして辞めた理由が俺とアーメンするのが嫌になったからだとか、やっぱり近親相姦するのはいけないことだと気づいちゃった

とかだったとしたらそれはやっぱりちょっと嫌だけど、あの時あれだけ大爆笑して涙まで流してたわけだし、近親相姦にもノリノリだったから、やっぱりそれが理由

だとはとても考えられないし、きっと何かのっぴきならない事情が生じて致し方なく辞めてしまったのだろうな」と不思議なことにマリアという女に対する怒りはま

ったくと言っていいほど湧き上がっては来ずに、私はむしろなんだか奇妙な清々しさすら覚えはじめていて、それどころか、さらには、あの悪夢のような夜のボッタ

クリ被害や、ケリー・チャンの入れ乳のごついハードコアな触感や、サモ・ハン・キンポー婆の吐き気を催すほど強烈な口臭や、半年前に別れた女とのいざこざに付

随する忌まわしい記憶の数々や、爾来荒んだ日々を送るもう本当にどうしようもないほどに草臥れ果てた人間嫌いの成れの果てのような自分自身に対する嫌悪感や、

あらゆる人間という生き物に対する不信感や、今まで私の心の奥底に巣食って渦巻いていたネガティヴな感情の一切合切が不思議なことに霧が晴れていくかのように

みるみると薄らいで心の視界がクリアになっていって、今ならばこの世に存在するすべての物ごとを許し肯定できるようなそんな前向きで大きなあたたかくやさしい

気持ちに束の間私は包まれていくのであった。今の自分は人生でもっとも神に近づいている、つまり神がかっている、なんてったって自分はキリストなんだからな、

近い将来必ず奇跡を起こす、必ずや起してみせる、もう何だってできそうだ、完全無敵だ、もう恐いもんなんて何もないぞ、なんてったってキリストなんだもんな、

アーメンだ!アーメンだ!アーメンだ!アーメンだ!アーメンだ!アーメンだ!アーメンだ!アーメンの雨霰を貴様らにお見舞いしてやるぞ!これでも喰らえ!クソ

喰らえ!アーメンだ!アーメンだ!アーメンだ!アーメンだ!アーメンだ!アーメンだ!アーメンだ!本当にろくでもねえ世の中だ、まったく、てめえら、このやろ

う、ばかやろう、くそやろう、いんちきやろう、ひょっとこやろう、いたちやろう、てめえら、こんちくしょう!少しふざけたように私はそう呟いてみる。でも、も

しかしたら奇跡なんて起せやしないかも知れないし、そもそも私は本当にキリストだかどうかもかなり怪しいし、正直なところキリストがアーメンって言ってたかど

うかも、アーメンって言葉の本来の意味も正確には知らないし、私はキリスト教徒じゃないどころか、常日頃、神なんているわけがない、もし本当に神がいるのなら

ば、世の中もう少しはマシになっているはずだ、と冷徹ニヒリスティックな人間嫌いの成れの果てを気取っている無神論者で、神や仏の類いは一切信用してないし、

そもそも未来に何が起こるかなんてことは誰にも予想はつかないし、すべてのことが思い通りにいくなんてそんな夢みたいな詐欺みたいな話なんてあるわけないし、

世の中なるようにしかならないし、生きていれば当然面倒くさいことだってまあ色々とたくさんあるけれども、これからも、こんなふうに、時の流れに身をまかせ、

なすがままに生きていれば、根拠なんてものはまったくなくて、口からでまかせで、本当に無責任で適当だけれども、なんだろうか、まあ、なんとかなるんじゃない

のかな、もちろん過ぎ去って行った過去を変えることなど決してできるわけもないけれど、今この時点のこの一瞬を始点として、これから先の未来は、今の自分が作

っていくものだから、たぶん、まあ、なんとかなるんじゃないのかな、なんとかなると思わなければ、やってられんもんな、そう思うと、なぜだか、私は、私の未来

に対して少しだけ希望の光が垣間みられるような、そんな明るい気持ちがしてくるのだった。アーメン!未来に希望を見いだす魔法の言葉、アーメン!運命に奇跡を

起こす言葉、アーメン!たぶん使い方間違ってるけど、アーメン!そして、私は、ソープランドに使うはずだった金でちゃんとした美容室に行って髪を切って髭も剃

ってきれいにしてもらって、そのあと久しぶりに何かおいしいもんでも食べに行くかな、そんでもって、その帰りにソープランドに寄って、いやいや、ダメだろ、ソ

ープランドに寄ったらまずいだろ、もう十分だろ、それから、とにかく寄り道せずに家に帰ったら久しぶりに絵でも描いてみるかな、もうずいぶん描いてないから、

もしかしたら絵具にカビが生えてるかもしれないけど、あ、でも、その前にホームセンターにハサミを返品しに行かないといけないな、もう必要ないし、たかがハサ

ミのくせにして結構いいお値段しちゃってたからな、あれ、領収書どこやったっけかな、もしかして捨てちゃったのかもしれないぞ、そう、ぶつぶつとひとりごちな

がら、領収書を探すため部屋のゴミ箱をひっかき回し、ひっくり返し、とうとう部屋中ゴミ屑だらけにしてしまって、しまいにその中を阿呆の子みたいに懸命に這い

ずり回っている、そのブザマに痩せこけた間抜けな私の姿は、まるで卑しい乞食のようでもあり、また、たしかに神=イエス・キリストのようにも見えるのだった。

2020. 8

 

 

 

 

 

11.『Exorcist / 黒い悪魔 (仮)』

 

 

ある夏の日の昼下がり、午睡を貪っていた私の携帯電話に一本の電話が入った。せっかく気持ちよく眠っていたところを突然起こされた私は、いささか不機嫌になり

ながら寝ぼけまなこでぶっきらぼうに電話に出てみれば、電話の相手は当時交際していた年下の女からであったが、女は、ぎゃあー!とか、うわあー!とか、きゃあ

ー!とか、でたあー!とか、たすけてえー!だとか、意味不明で素っ頓狂な叫び声を繰り返し喚き散らし続けるばかり、まったく埒が明かず、もっともこの意味不明

な埒の明かなさはこの女にとっては十八番、ごくありふれた日常茶飯の光景であったわけだけれども、当時女の住まっていたおんぼろアパートは新宿富久町の昔刑務

所だった跡地に建てられてあって、普段から真夜中に上階の部屋から麻雀でもしてるようなジャラジャラと牌をかき回す音がするだとか、一晩中床を家具か何か重た

い物を引きずり回す音が聞こえてきてよく眠れなかっただとか、朝方寝ていると決って窓の外から呻き声じみた不気味な声がしょっちゅう聞こえてくるだとか、真夜

中に玄関のドアを突然ガチャガチャとこじ開けられる音が聞こえてくるだとかを訴えており、さらに女の精神状態も常に良好という訳にはいかず頻繁に乱れまくって

いたという事情もあって、さすがに心配になった私はてっきり幽霊でも出たのかと思い、とにかく一旦落ちつきなさい、一体全体何が出たというのか、と尋ねてみれ

ば、女は、ゴ、ゴ、ゴ、ゴ、ゴキブリィがでたぬぅおおー!!!と叫び答え、その後は再び、ぎゃあー!とか、うわあー!とか、きゃあー!とか、でたあー!とか、

たすけてえー!だとか、意味不明な素っ頓狂な叫び声を繰り返すばかり、一気に拍子抜けがしてしまった私は、ゴキブリ一匹ごときで何を大げさな、と気持ちのよい

午睡を突然邪魔された苛立ちからか、女に対して無性に腹が立ってきてしまって、そんなくだらないことでいちいち電話してくんな、バカ、アホ、トンマ、マヌケ、

白痴!と吐き捨てて乱暴に電話を切れば、すぐさま女から何度も何度も折り返し電話がかかってきたものの、それを一切無視しておると、しまいには女からメールが

1通届き、眠い目を擦りながらしぶしぶ確認してみれば、そこには一言「役立たず…」と書かれてあるのだった。私は苦笑を浮かべながらも、メールを打って送って

寄越すことができるくらいの余裕はあるのだな、とひと安心した上で「気休めにしかならないかもしれぬけれど、ゴキブリは決して人間に襲いかかってくることはな

いのだから、それだけを救いにして一人でがんばってみてください、Good Luck!はーと」と打ってメールを返信し携帯電話の電源を落としたのち、再び気持ちのよ

い午睡の続きへと落ちていくのであった。それからどれほどの時間が経ったのであろうか、私は私の体にある異変を覚えて午睡からはたと目が覚めたのであった。そ

のある異変とは、その時私が着ていた汗まみれのTシャツの中で起こっていたのだった。それは、何かチクチクする謎の物体が私の上半身(Tシャツと素肌の間) をあち

こちごそごそと這いずり回っているような、なんとも気味の悪い感触であったのだけれども、私はその感触を以前にどこかで確実に経験したことがあるのだった。そ

して、すぐに私はそれが子供の頃に飼っていたカブトムシの手足が人間の素肌に接触する時のあの粘っこく吸い付くようなチクチク・フィーリング(感覚)であること

を思い出すのであった。家ではカブトムシなど飼ってはいないし、ここ何十年という間カブトムシなどいっさい目にしたこともないのに、私のTシャツの中では今一

体全体何が繰り広げられているというのであろうか、カブトムシがTシャツの中を蠢き回るような謎のチクチク・フィーリング(感覚)は依然止むことなく続いており、

恐怖におびえて半ばパニック状態に陥った私は、ぎゃあー!とか、うわあー!とか、きゃあー!とか、でたあー!とか、たすけてえー!だとか、意味不明で素っ頓狂

な言葉を喚き散らしながら、そのまま一目散と、とりあえずは便所に駆け込むことにしたのであった。この私にとってかつてないほど恐ろしい緊急事態を処理する場

所として便所がもっともふさわしい場所であると私はそのとき咄嗟に判断したのであった。そして、便所に駆けこんだ私は念のため内側から鍵を掛けた上で、意を決

して、それこそ清水の舞台から飛び降りるような気持ちで、謎のチクチク・フィーリング(感覚)に襲われた忌まわしいTシャツを、とりゃあー!とか、おりゃあー!と

か気合いを入れて一気に脱ぎ去ったのちに、その脱ぎたてほやほや汗まみれのTシャツを上下に激しく揺さぶってみれば、何やら黒い物体がちょうどうまい具合に洋

式便器の水たまりへポトリと落ちたのだった。ゴキブリであった。そのゴキブリは目測で体長およそ6~7cmもあり、私が今までに目にしたゴキブリの中では最大サイ

ズの大物であったが、洋式便器の水たまりで溺れかけながら水中で必死に手足を掻きむしりまるで命乞いでもするかのようにもがき続けるぬらぬらと黒光りする巨大

なゴキブリを眺めているうちに、次第に私の頭の中にはある突拍子もない奇妙な考えが浮かんでくるのであった。もしかしたらこの巨大なゴキブリは先ほど女の部屋

に現われたゴキブリが私のTシャツの中へと瞬間移動(ワープ)して逃げてきたものではなかろうか。すぐさま私は、いやいや、そんなSF映画みたいなことが実際に起

こるわけがないではないか、そんなことがあってたまるか、とその突飛な考えを頭の中から振り払うかのごとく、いささか芝居がかった大仰な動作で首を左右に振り

ながらも、依然としてその疑念は完全には払拭されぬまま、ともかくその2匹のゴキブリが同一であるかどうかは皆目不明だけれども、気持ちのよい午睡を邪魔され

た上に私を恐怖のどん底にまで陥れた黒い悪魔に対して溢れあがる憎しみをどうにも抑え切れず、映画『エクソシスト』で悪魔払いする神父にでもなったかのように

「地獄へ堕ちろ!」とかなんとか叫びながら、私は便所のレバーを「大」の方向へといつもよりも幾分力を込めて傾ければ、気のせいかもしれぬがいつもよりも幾分

勢いよく水が流れ出して、忌まわしく巨大な黒い悪魔は竜巻に飲み込まれるかのごとく跡形もなく遥かかなた奈落の底へと消え去って行くのであった。がしかし、そ

の後も、おそらくは私の肌がしっかりと記憶してしまったものであろうか、私のTシャツの中で蠢いていたあの不気味なチクチク・フィーリング(感覚)だけは決して消

え去ることがないのであった。もしかしたら女からSOSの電話をもらったあの時もっと誠意を持って優しく対応し助けてやっていたならばこんなにも恐ろしい目に遭

わずに済んだのかもしれず、女に対して「ゴキブリは決して人間に襲いかかってくることはない」などと適当な気休めメールを送ってしまった自分がひどくマヌケに

思えてきて、何が「Good Luck!はーと」なんだろうか、まったく寝言は寝て言えだな、もう穴があったら入りたい、などと私は後悔の念に苛まれるのだった。後日

ネットで調べて得たところの豆知識によれば、ゴキブリという姑息な生き物は、隙あらばマヌケ面して大口開け眠りこけている我々人間の口元のヨダレをこっそり舐

め啜って水分補給をおこなうようであり、爾来、私はゴキブリに対して決して心を許してはならぬと肝に命じ、部屋でゴキブリを見つけた時はいつなんどきでも、た

とえそれが真夜中であったとしても、それこそ映画『フレンチ・コネクション』のジーン・ハックマン演じるポパイ刑事のごとく、映画『ダーティハリー』のクリン

ト・イーストウッドのごとく、地獄の果てまで追いかけて行くような気持ちで、丸めた新聞紙片手に執拗に追いかけ追いつめそして叩き潰し、さらに死人に鞭打つよ

うに脳天目がけこれでもかと何度もトドメを刺し続けるのであった。なんとか無事に巨大ゴキブリ退治に成功した私は、上半身裸のまま便所を後にし穢れたTシャツ

を洗濯機に投げ入れ、ついでに全裸になってシャワーを浴び、いまだチクチク・フィーリング(感覚)の残る上半身を石鹸できれいさっぱりと洗い清めたのち、ようや

く生まれ変わったような新鮮な気持ちで部屋へと戻り、ベッドの枕元に切りっぱなしでほったらかしておいた携帯電話に電源を入れてみれば、そこには、なんと驚く

ことには、女から500通ものメールが届いているのであった。その内訳は、まず「どうして電話にでてくれないの?」といった内容のことをぐだぐだ訴えかけている

非難囂々メールが100通。そのあと「バカ」「アホ」「タコ」「人間の屑」「殺すぞ」「ざけんな」「オイコミかけっぞコラ」「いますぐ首くくれ」「トンマ」「マ

ヌケ」「クズ」「カス」「クソ」「フニャチン」「強姦魔」「タマナシ」「タネナシ」「タニシ野郎」「マザコン」「チンカス以下だな」「早漏」「短小」「包茎」

「死ね」[マジ死ね」「さっさとビルから飛び降りろ」「変態」「ウンコ」「ロリコン」「スカトロ野郎」「インポ野郎」「穀潰し」「甲斐性なし」「人でなし」「ハ

ゲ」「イクジナシ」「ろくでなし」「根性なし」「スットコドッコイ」「キチガイ」「アル中」「へたれ」「性病持ち」「糞漏らし」「地獄に堕ちろ」「インキンタ

ムシ」「お袋とやってろ」「ゴキブリ野郎」「ひょっとこ野郎」「泣き虫」「ウジ虫」「カメムシ」「便所虫」「便所コオロギ」「乞食」「この人痴漢です」「ダン

ゴ虫食ってろ」「糞蠅」「ケツ舐めろ」「ケツの穴から手突っ込んで奥歯ガタガタ言わしてやろうか」「チンポ吸い」「オカマ」「歯抜け」「足が臭えんだよ」「ズ

ラなんじゃねえのか」「風呂入る時はちゃんとズラ外すのかよ」「ソープランドでハッスルしすぎてズラふっ飛ばしてんじゃねえよ」「脳味噌にウジでも湧いてんじ

ゃねえのか」「いっぺん精子から人生やり直せ」「肥溜めで溺れ死ね」「我慢汁の海で泳いでる途中に波に飲まれて溺れ死ね」「イナゴの大群に襲われろ」「ザリガ

ニにアソコちょん切られろ」「交尾中にメスカマキリに食い殺されろ」「クワガタにアイアンクローされて悶絶しろ」「カラスにつむじを蹴飛ばされてろや」「ケツ

の穴にカブトムシ突っ込むぞコラッ」「前戯が長いんだよ」「前戯がしつこいんだよ」「前戯がねちっこいんだよ」「前戯が変態っぽいんだよ」「前戯がフランス人

っぽくてドスケベすぎるんだよ」「こっちが黙ってりゃ調子に乗っていつまで前戯やってんだよ」「前戯が長くてしつこくてねちっこくてフランス人っぽいくせに、

いつも入れた途端イクイクってあっという間にイっちまいやがってよ、この超高速みこすり半野郎がよ」他、おそらく女が知り得る限りの罵詈雑言を感情に任せ思い

つくままに1通につき1個ずつ書かれたブチ切れメールが100通。そのあと再び「お願いだから電話に出てちょうだいよ!」といった内容のことをぐだぐだ訴えかけて

いる泣き落としメールが100通。そのあと「もう別れたい」と書かれたもう別れたいメールが100通。そして最後にもう書く気力も尽き果てたのか内容がまったく書

かれていない無言メールが100通。合計500通であった。私は「前戯が長くてしつこくてねちっこくてフランス人っぽくて短小包茎で早漏なのはたしかにそうかもし

れないけれども、いや正確にいえば真性の包茎ではなくて仮性包茎なんだけどな、まあ、でも、こっちは相手にもっとたくさん気持ち良くなってもらいたいという一

心からこそ自然と前戯が長くてしつこくてねちっこくてフランス人っぽくもなってしまうわけであり、そっちだって気持ち良くなってアヘアヘよがり声あげてるくせ

に、何もそこまでハッキリと言うこともなかろうに、まったくデリカシーのないクソ女だな」と何とも言えぬ哀しい気持ちになってきて、そして「ゴキブリよりも何

よりもまずまっ先にこのどうしようもないクソッタレな変態女に取り憑いているドス黒い悪魔をどうにかして始末してやらないといけないかもしれないな」と今まで

生きてきた中で最も憂鬱で暗いため息を何度も吐き続けるのであった。そして、その後もこれと似たようなこの交際相手の女にまつわるキチガイ沙汰がとにかくもう

呆れるほど頻繁に途切れず次々と起こるものだから(女はひとたび頭に血がのぼったら最後もう本当に何をしでかすかわからなくなるほど乱れまくり、特に自分の意見

が通らなかったり自分の立場が危うくなったりするとただちに都合良くキチガイに変貌したものであったが、それは女が意図的にキチガイを演じて急場を凌いでいる

だけのか、はたまた、ホンモノのキチガイなのか、正直その見極めは私にはつきかねたわけだけれども、ともかくキチガイ沙汰が起こる度に私は身の危険を感じて震

えあがってチビりそうになっていたものであったが)、私はそういった自分が普通の人とは少し変わっているという事実をなんとかして女に自覚させようと、もっと言

ってしまえば「お前は頭のいかれた変態女なんだぞ」とハッキリ自覚させようと、悪魔払いの一環として、まず手始めに頭のいかれた女が登場する小説(例えば、島尾

敏雄『死の棘』、谷崎潤一郎『痴人の愛』、古井由吉『杳子・妻隠』他)を女に貸して読ませて、小説の中に登場する頭のいかれた女と同様に女自身も頭のいかれた人

間だということをそれとなくさりげなく気づかせようと試みるのだったが、一向に効果は顕われず、一度、古井由吉『杳子・妻隠』を返してくれた時などは、ねえ、

怒らないで聞いてくれるかな、とかなんとか前置きしてさも神妙そうな面持ちで何か言いたげにモジモジしているので、私は、おっ!とうとう効果が顕われたのか、

と女が自分が他の人たちとは少し違っていて、ようするに頭のおかしい人間だという事実を自覚してくれて、今までの私にしでかしてきた数々の突拍子もない失礼な

狼藉を反省し謝ってくれて、二度とこんな同じあやまちは繰り返さぬと約束してくれるものとばかり期待して、女の次の句を嬉々として待っておると、女は、本当に

ごめんなさい、ズボンのお尻のポケットに本をつっこんだ時に表紙カバーがビリッと破けちゃって、ほら、こんな感じ、本当にごめんなさい、ごめんなさい、と予想

をあっさり裏切る告白をしてきて、私はズッコケながらも、お気に入りの本を破られたことと、女に私の意図がまったく通じていないことと、おそらくこれから先も

延々と繰り返されるであろう私に対する女の突拍子もない理不尽なキチガイ沙汰を思って、なんだか無性に腹が立ってきてしまって、むすっとした表情でずっと無言

のままいれば、さらに女は本当に反省しているのかどうか甚だ疑わしきおざなりな調子で、本当にごめんなさい、ごめんなさい、と平謝りを続けて、しまいに嘘くさ

い泣きまねまでする始末、私は、古井由吉『杳子』に出てくる杳子の恋人の男のように、己の無力さを虚しく感じて絶望的な気持ちに陥りながら、嘘くさい泣き声が

延々と響き渡る夏なのに薄ら寒くすら感じる女の部屋で、何とも言葉にもならずに、今まで生きてきた中で最も憂鬱で暗いため息の記録をその都度更新していきつつ

何度も吐き続けるのであった。かような特殊な事情ゆえ、私の所有する古井由吉の『杳子・妻隠』は表紙カバーが3cmばかしビリリと破れているというわけである。

2020. 7

 

 

 

 

 

10.『Seventeen / 明日に向って撃て! (仮)』

 

 

私が文学の世界の泥沼へと本格的に足を踏み入れズブズブとハマり込んで沈み込んで行くようになったのは、たしか20歳になるかならないかの頃であったと認識して

いる。その頃の私は、一浪の末に都の西北に位置する某バカ田大学に(浪人中に読んだ五木寛之『青春の門』がきっかけで)入学したものの、人が大勢いて息苦しいか

らという理由からほとんど通うこともなくあっさりと中途退学したのち、たしか大学に合格した時に「自分の人生はこれでもう終わったな」となぜだかは知らぬが漠

然と私はそう思ってしまって、それに対して映画『キッズ・リターン』のように「まだはじまってもいねえよ」と答えてくれる親切な友もおらず「これから先は自分

の好きなことだけをやってのんびりと生きていこう」と20歳そこいらの身空で端からみれば何とも意味不明でチンプンカンプンな、まるで役場を定年退職するサラリ

ーマンのセリフみたいな決意をしたのだったが、世間知らずでぼんくらだった私は、自分が一体何をやりたいのかすらもまったくわかってはおらず、やりたいことだ

けをやって生きていくと威勢のいいトンチンカンな覚悟を決めたはいいけれども、そもそもその自分のやりたいことが何なのかわからないのだから、どうにもこうに

も仕様がないではないか、自分は一体全体何がやりたいのだろうか、と自問自答しながら、その自分の「やりたいこと」とやらを探して、飢えた野良犬のごとく街を

フラフラとあてどもなくうろつきまわっては、たまにセンズリをかいてみたり、時にセンズリをかいてみたり、気分転換にセンズリをかいてみたり、隙あらばセンズ

リをかいてみたり、夜になっても目が冴えて全然眠れないからと自分に言い訳するように睡眠薬代わりにセンズリをかいてみたり、センズリをかくことで自分の中の

何かが変わるんじゃないかと仄かな期待を胸に抱きながらセンズリをかいてはみたものの結局何も変わらずそんな状況に絶望しながらも再び今度こそきっと何かが変

わるんじゃないかと仄かな期待を胸に抱きセンズリをかいてみたり、しばらくセンズリをかくのはやめておこうと固く心に誓ったその舌の根も乾かぬうち気づけばセ

ンズリをかいていたり、誰かがセンズリをかくこと自体は決して悪いことではなく若者にとってはごく当り前の自然な行為だから大いにセンズリをかきなさいと本に

書いていたからと安心してセンズリをかいてみたり、どこかの偉い外国の博士が「(変態)青年よ、大志を抱け、(センズリもかけ)」と言ってたような気がしたから左

様ですかならばお言葉に甘えましてと大いにセンズリをかいてみたり、当時の性欲が服着て歩いているかのような若き野獣であり若き変態でもあった私にとって、た

しかにセンズリという行為は最もやりたいことの一つであったかのようにも思えたが、でもそれは「やりたい」の意味が少しばかり違うような気がしないでもなく、

たとえセンズリがやりたいことであったとしても、センズリして金になるわけでもなく、センズリだけして生きていくわけにもいかず、そもそもセンズリばかりかい

ていては、もうすでに頭がバカになりかけているというのに、そのうち本当に頭がバカになってしまうのではないかという危惧も世間知らずでぼんくらの私にも少し

はあったと見えて、街をうろつくかセンズリするかそれ以外の時間には、とにかく時間だけは目の前に無限大に広がってあったものだから、少しばかり背伸びをして

小難しい哲学書や小説などを大して理解もできないくせにファッション感覚で手にとってせっせと読んで暇をつぶしては行き詰まりの青臭い退屈をやり過ごしていた

ものであった。そんなふうにセンズリ以外には特にやりたいことも見当たらず、将来に対する希望も展望もまったく見い出せぬまま、来る日も来る日もただやみくも

になすがままの自堕落な生活、より前向きな言葉で気取って言い回すならば「自由な生活」を送っていた私は、ある日、本屋で立ち読み中、1冊の本をたまたま手に

取ったのであった。それは大江健三郎の『性的人間』という奇妙な書名を持つ文庫本であった。おそらくは山下菊二が表紙カバーに描いた不気味な人物像と運命的に

目が合ってしまったのと、さらには『性的人間』というそのなんとも胸躍らせる刺激的で奇妙な書名に心惹かれて、センズリの手助けになればよいかなくらいの軽い

気持ちと軽い期待から手に取ったと思われるが、実際に読んでみると期待していた内容とはまったく異なっていて、私が期待していたのはもっとより直截的に股間に

訴えかけてくるような、即効でセンズリの役に立つような実用的な、つまり私に勃起をもたらしてくれるようなエロティックな作品であったわけだけれども、大江健

三郎『性的人間』はそういう私に勃起をもたらしてくれるような種類のエロティックな作品ではなくて、もっと別の種類のよりドロドロと深みのある、私の股間では

なくて私の中の別の深い場所に訴えかけてくるような変態性に特化した作品なのであった。私に勃起をもたらしてくれるエロティックな作品という意味においてなら

ば、むしろほぼ同時期に読んだ村上春樹の『ノルウェイの森』のほうがより私の股間には即効でビンビンに訴えかけてきたものであったが、ともかく大江健三郎『性

的人間』は、期待していた内容とはまったく異なっていたわけだけれども、不幸中の幸いというか何というか、結果として良い意味で期待を裏切られるような刺激的

かつ魅惑的な作品であり、当時性欲が服着て歩いているかのような若き野獣であり若き変態であった私もまんまとやられて魅了されてしまったというわけであった。

『性的人間』には3篇収録されており、中でも『セヴンティーン』という作品は、冒頭17歳の高校生が風呂場でセンズリをかくシーンからはじまるわけだけれども、

17歳の高校生がセンズリをかいているだけなのに、独特なビートの効いた饒舌的文体の効果によるものであろうか、私にはやたらめったらとカッコよく思えてしまっ

て読む度に痺れまくっていたものであった。「今日はおれの誕生日だった、おれは十七歳になった、セヴンティーンだ。家族のものは父も母も兄も皆な、おれの誕生

日に気がつかないか、気がつかないふりをしていた。それで、おれも黙っていた。夕暮に、自衛隊の病院で看護婦をしている姉が帰ってきて、風呂場で石鹸を体じゅ

うにぬりたくっているおれに、《十七歳ね、自分の肉をつかんで見たくない?》といいにきた。姉は強度の近眼で、眼鏡をかけている、それを恥じて一生結婚しない

つもりで自衛隊の病院に入ったのだ。そして、ますます眼が悪くなるのもかまわないで、やけになったみたいに本ばかり読んでいる。おれにいった言葉も、きっと本

の中からぬすんできたのだろう。しかし、とにかく家族の一人はおれの誕生日をおぼえていたのだ、おれは体を洗いながら、独りぼっちの気分からほんの少しだけ回

復した。そして姉の言葉をくりかえし考えているうちに石鹸の泡の中から性器がむっくり勃起してきたので、おれは風呂場の入口の扉に鍵をかけに行った。おれはい

つでも勃起しているみたいだ、勃起は好きだ、体じゅうに力が湧いてくるような気持だから好きなのだ、それに勃起した性器を見るのも好きだ、おれはもういちど坐

りこんで体のあちらこちらの隅に石鹸をぬりたくってから自涜した。十七歳になってはじめての自涜だ。おれは始め自涜が体に悪いのじゃないかと思っていた、そし

て本屋で性医学の本を立読みしてから、自涜に罪悪感をもつことだけが有害なのだと知って、ずっと解放された気持になった。おれは大人の性器の、包皮が剥けて丸

裸になった赤黒いやつが嫌いだ。そして、子供の性器の青くさい植物みたいなやつも嫌いだ。剥けば剥くことの出来る包皮が、勃起すれば薔薇色の亀頭をゆるやかな

セーターのようにくるんでいて、それをつかって、熱にとけた恥垢を潤滑油にして自涜できるような状態の性器がおれの好きな性器で、おれ自身の性器だ。衛生の時

間に校医が恥垢のとり方についてしゃべり、生徒みんなが笑った。なぜなら、みんな自涜するので恥垢はたまらないからだ。おれは自涜の名手になっている、射精す

る瞬間に袋の首をくくるように包皮のさきをつまんで、包皮の袋に精液をためる技術までおれは発明したのだ。それからというものは、おれはポケットに潜り穴をあ

けたズボンさえはいていれば、授業中でも自涜することができるようになったのだ。さて、おれは、婦人雑誌の特集カラー・ページで読んだ結婚初夜に性器で妻の膣

壁をつき破り腹膜炎をおこした夫の告白のことを思いだしながら自涜した。青い翳りをおびた白く柔軟な包皮にくるまれたおれの勃起した性器はロケット弾のようで

力強い美しさにはりきっているし、それを愛撫しているおれの腕には、いま始めて気がついたのだが、筋肉が育ちはじめているのだ。おれは暫く茫然として新しいゴ

ム膜のような自分の筋肉を見つめていた。おれの筋肉、ほんとうに自分の筋肉をつかんでみる、喜びが湧いてくる、おれは微笑した、セヴンティーン、他愛ないもの

だ。(引用1)」「ああ、ああ、おお、ああ、おれは眼をつむり、握りしめた熱く硬い性器の一瞬のこわばりとそのなかを勢いよく噴出して行く精液、おれの精液の運動

をおれの掌いっぱいに感じた。そのあいだ、おれの体のなかの晴れわたった夏の真昼の海で黙りこんだ幸福な裸の大群衆が静かに海水浴しているのがわかった。そし

ておれの体のなかの海に、秋の午後の冷却がおとずれた。おれは身震いし、眼をひらいた。精液が洗い場いちめんにとびちっていた。それは早くもひややかでそらぞ

らしい白濁した液にすぎなくて、おれの精液という気がしなかった。おれはそこらじゅうに湯をかけてそれを洗い流した。ぶよぶよして残っているかたまりが板の透

間に入りこんでいてなかなか流れない。姉がそこに尻をぺったり付けたら妊娠してしまうかもしれない。近親相姦だ、姉は汚らしい気ちがいになるだろう。おれは湯

を流しつづけた、そしてそのうちに体がひえきって震えがきそうなのを感じた。おれは湯槽に入り、音をたてて湯をはねちらしながらすぐに立ち上った。あまり永い

あいだ風呂に入っていたら、母親があやしみはじめるにちがいない、そして嫌味だ、《この子は去年まで烏の行水だったのにねえ、お風呂のどこがおもしろくなった

んだか》おれは音をたてないように苛いらしながら鍵をはずした。風呂場を出るのと一緒に、オルガスムの瞬間おれの体の内と外からひしめきあうように湧きおこっ

ていた幸福感や、どこの誰とも知れない人たちに感じた友情、共生感、それらの残り滓のすべてが、かすかに精液の匂いのする湯気のなかに閉じ込められた。(引用

2)」今読み返してみても実にホレボレとするカッコイイ文章であるけれども、当時大江健三郎の『性的人間』特に『セヴンティーン』にまんまとやられてしまった若

き変態の私は、さっそく大江健三郎の初期作品、特に新潮文庫の山下菊二のよい意味で不気味でそしてカッコイイ水彩画が表紙のシリーズを買い揃えていっては、時

間を忘れて読み耽っていたものであった。もちろんすべての作品を完全に理解することなど当時20歳前後の私の頭では当然のごとく難しかったわけだけれども、作品

に流れる表紙同様に不気味で不穏な空気感やうねりまくった独特の饒舌的な文体で描かれる変態チックな若者たちの生態や芝居がかったそのセリフ回しやその突飛な

行動が、当時の私の心境/心情にピッタリとハマって、たとえ理解には至らなくとも読んでいる時間だけは得も言われぬ幸福な気持ちを味わえるので、とにかく無我夢

中で読み耽っていたものであった。その時、高校生がセンズリをかきまくる小説なんてものを今までついぞ読んだためしがなかった私は、実際に自分がセンズリをか

くのではなく、センズリをかいている場面を描いてきちんと小説として昇華させて表現すれば文学作品になるんだな、つまり、変態を描けば藝術作品となり得るんだ

な、と安易に大喜びして興奮し勇気をもらって、そして自分の将来に対してまだまだ吹けばすぐに消えてしまうようなほんのちっぽけでかすかではあったが希望の光

みたいなものが灯ったようにも思われるのであった。当時性欲が服着て歩いているかのような若き野獣であり若き変態であった私は、もしかしたら自分のやりたいこ

とというのはこういうことなのかもしれないなと、もちろん具体的な職業までは思いつかなかったものの、本当になんとなく薄ぼんやりとではあったけれども、将来

は自分の中の変態性を思う存分に生かせるようなそんな職業に就こうと心に決めたのだった。そのように文学の世界にハマるきっかけとなったのが大江健三郎『性的

人間』特に『セヴンティーン』であったものだから、爾来、それが私の中では文学作品ひいては藝術作品における標準仕様いわゆるデフォルトとなってしまったよう

で、つまり、私は変態成分の濃度が高めの作品でなければ心からの満足が得られない体になってしまって、その後、私は何かの間違いから広告業界に足を踏み入れて

しまうわけだけれども、その頃の広告業界(CM業界)は、ちょっと奇抜な変なことをやってその変なことやっている自分に酔い痴れて気持ち良くなって勘違いしている

ような、ファッション変人気取り、ファッションキチガイ、凡人のくせして変態を装ったインチキ変態気取りの傍ら痛いタイプの軽薄で心ないCMクリエイターたちが

跋扈しはじめてきて、世渡り上手なお利口さん連中が、他人のための広告制作物の中の匿名の安全圏において、ハメを外しておちゃらけて内輪で喜んでおり、それは

たとえて言うならば、SMAP他アイドルタレントに変なことさせちゃってますよ的なフジテレビのバラエティ番組のノリ、大げさなバカっぽいセリフ回しで面白いこ

とやってますよ的な宮藤官九郎ドラマの超絶劣化版なノリ、もしくは、大学広告研究会のチャラいサークルのノリとでもいおうか、バブル崩壊後の時代の空気がそう

させたのかもしれぬが、広告で本気なんか出してどうすんの、所詮広告は広告なんだからテキトーにおちゃらけて楽しければいいんじゃないの、本気だすなんてカッ

コ悪いよ、と言わんばかりの、何かに真剣に熱中することやその熱中している人々を小バカにするような突き抜けない寸止めの軽薄さであり、私は、そんなものはホ

ンモノの変態じゃないぞ、変態をナメるな!と彼らのことが鼻について仕方がなく、彼らイカサマ変態気取りのCMクリエイターたちに対してどうにもこうにも胸クソ

が悪くてたまらず我慢がならなくなってしまっていたものだが(かくいう私自身も広告の中で変態的な企画の実験を幾度となく試してみたものの正直至難の業であり、

なかなか実現には至らずにクサクサと腐っていたのも恥ずかしい事実であったが、次第に私は広告制作物の中でそれらを実現させるのは邪道なことであり、きちんと

自分の名前を前面に出した自分の作品の中でそれらを実現させるのが道理であろうと思い至るのだった)、さらに加えて、そもそも広告の世界は、センズリそのものズ

バリを描けないのは致し方ないにせよ、出演するCMタレントたちは皆一様に、私たちはセンズリなんて一度もしたことはありませんよ、センズリどころかSEXもしな

ければクソもしないし屁だってこかないし、なんならペニスもキンタマもついてはおりませんよ、といった子供騙しの陳腐な表現ばかりがもてはやされる低俗愚劣な

世界であり、結局のところ、人間をまったく描いていない、描けていない、描こうともしていない、いや描こうと努力はしているのだろうが描く才能がないのか、徹

頭徹尾、きれいごとだらけの薄っぺらな世界であり、そのような上っ面だけ取り繕った世界である広告業界に私は心底うんざりと飽き足らなくなってしまっていて、

センズリは描けないにせよ、人間には人間なんだから人間としてもう少しその内面には何かがあるだろう、そんなくだらないものしか作れないのだったらいっそのこ

とロボットにでも作らせればいいのではないのか(もうすでにCMクリエイターそのものが心のないロボット人間か、クライアントの犬みたいなものだとも言えるが)、

人間をバカにするのも大概にしやがれよ!と怒り心頭となってもいたものだが、広告表現としてセンズリを描けない彼らCMクリエイターのやってることといえば、

皮肉にも結果的に自己満足なセンズリ(マスターベーション)に陥ってしまっているという、もう笑うに笑えない冗談みたいな救いようもない世界なのであった。そん

な風に広告業界に対して大いなるフラストレーションを心に抱きながら、時折私は若き野獣であり若き変態だった20歳前後の頃を思い出しては、あの時これから先は

やりたいことだけをやって生きていくって決意して大学を辞めたんじゃなかったのか、これが自分の本当にやりたいことなのか、CMタレントに変なことさせてそれで

心の底から満足できるのか、そんなものが変態だと本気で思ってるのか、しかしそもそも自分が変態であると自覚したのはいつの頃だろうか、何かきっかけがあって

変態になったわけでもないし、生まれついての変態であったのかもしれず、嗚呼、変態とは一体何ぞや、などと会社勤めの多忙さにとうに忘れかけていた己の変態心

にむなしく問いかけてみたりもするのであった。かように広告業界で私の変態性を100%生かすことは残念ながら根本的に甚だ難しいことであって、常に心に抱え込

んだフラストレーションを宥めすかしつつ悶々と不似合いな会社勤めを続けるうちに、やはりこのまま広告業界なんかに居続けていては自分がダメになってしまうの

ではなかろうか、このままでは自分の中のもちろん良い意味での変態性が萎えて淘汰されていってしまうのではなかろうか、心の男性器(心のチンポコ)が去勢されて

しまうのではなかろうか、などと危惧しはじめるようにもなってきて、そして27歳の時たまたま読んだ坂口安吾の『白痴』(なにせ隣のキチガイの奥さんである白痴

の女とヤッてしまうというとんでもなくスゴイ話である)にそそのかされ背中を押されるかのごとく、私は意を決して会社勤めを辞めたのだった。そして20歳前後の

当時性欲が服着て歩いているかのような若き野獣であり若き変態であった私の変態心に突然まんまと火をつけた大江健三郎『セヴンティーン』に匹敵するような『私

のセヴンティーン』をいつの日か自分も表現したいという強い思いを胸に秘めつつも果たせずにズルズルダラダラと生きてきてしまって、気づけば40を過ぎもうすぐ

50に手が届く年齢となった今現在の私は、若き変態から変態心はそのままに中年の変態へと成り果て、いささか草臥れ果ててはいるものの、決して枯れ果てたわけで

はなくも、センズリをかくことはほぼなくなり、とっくの昔に大嫌いな広告業界からは完全に足を洗っていて、どういう風の吹き回しか、絵を描いて生きているわけ

だけれども、結局自分の「やりたいこと」とやらは見つかったのかどうか、ちゃんとやりたいことをやれているのかどうか、少なくともやりたくないことだけはやっ

ていないと言えるような気はしなくもないが、残念ながらいまだ『私のセヴンティーン』を表現するには至っておらず、いつの日か実現できる日を夢に見ながら、相

変らず将来に対する希望も展望もほとんど見い出せぬまま、来る日も来る日もただやみくもになすがままの自堕落な生活、より前向きな言葉で気取って言い回すなら

ば「自由な生活」を送りつつ、つい先日、酔っ払った勢いで、私が17歳だった頃を思い出し恥ずかしげもなく書いた「死ぬほどくだらない話」が以下の通りである。

……

死ぬほどくだらない話である。私は今まで生きてきて顔射(つまり女性の顔に向って射精する行為)を実際には一度も経験したためしがなく、それはなぜかと言うと、

なぜ女性の顔に向って射精しなければならないのか、その理由を見いだせないがため、意味のないことはできることならばしたくないと考える私はあえてしないので

ある。もしも顔射をすると運気が上昇するだとか、商売繁盛するだとか、絵が上手くなるだとか、そういった縁起の良い言い伝えが大昔からあって、顔射になんらか

のやりがいを見いだせるならば私も今すぐにでも顔射をしようというものだが、残念ながらそういった言い伝えなどは存在せずやりがいも見つからぬがゆえに私は顔

射をしないのである。遠慮なんてしなくていいんだから、お願いだからかけてちょうだい、お願いよ、お願いよ、お願いよ、としつこく懇願されて、そこまで言うの

ならばお言葉に甘えていっぺんかけてみようかな、と思ったことも正直に言えば過去に何度かあったけれども、その時も散々悩んで迷った末に、かけてもいいと言わ

れてもそもそもかける意味がないのだから、大変申し訳ないけれどやはりかけることはできないよ、と結局丁重にお断りしたものであった。私は「人にされて嫌なこ

とは人にもしてはならぬ」と親に厳しく躾けられてきたので、私は自分が顔に射精されるのはできれば御免被りたいと思うので(目に入ったりしたらもう大変だ!)、

私も人にしないだけの話であるとも言えようか。人の嫌がることをして性的な興奮を覚えたり、人の嫌がることをして征服欲が満たされて性的な興奮を得ることに対

して一定の理解はあるものの、それを相手が望んでいるならばいざ知らず、相手がまったく望んでいないのにわざわざする意味を見いだせないのはもちろんのこと、

たとえ相手が望んでいたとしてもやはり私にはその行為にどうしても意味を見いだせなければする意味もないのである。さらに男という哀しい生き物は射精がはじま

ったそばからすでにもう気持ちがさめていってしまっているようなとんでもなく冷酷で身勝手な生き物(ケダモノ)であるからして、射精の後に必ず訪れるあのいつも

のやるせなく気怠い虚無の中で、精液に塗れた女の間の抜けた顔など見てしまえば、なおさらその沈鬱さに拍車がかかることはどうにも避けられず、それにそもそも

そういう行為はあまり美しいと私には思えないのである。私は常に生きることに対して真摯な態度を貫くことを美意識としており、一見だらだらと自堕落に生きてい

るように見えて、その実、真剣に自堕落に生きているのであって、決していい加減な気持ちで自堕落に生きているわけではないのである。そして、それは性的な行為

に対しても同様で、私は常に真剣そのものであり、例えば食べ物でふざけて遊んだりすることが命を粗末にしているような気がしてためらわれるように、私には顔射

がふざけた行為にしか見えず、神聖な愛の儀式でおふざけをするのはよろしくないと私は考えるのである。と、ここまで散々顔射を一度もしたことがないだとか、意

味のないことをする意味がわからないだとか、調子に乗って偉そうにだらだらと書いてきておいて今さら何をか言わんやであるけれども、実を言えば私には過去に一

度だけ、天地神明に誓って本当に一度だけ、意に反して誤って他人の顔に向って精液を発射してしまった経験があるといえば、あるのであった。もっともあの時は不

可抗力で仕方がなく決して意図的におこなったわけではなく、相手もきっと気にしていないと思われ、とっくに忘れているかもしれず、もしかしたらあれは夢か幻で

あって現実には起こってはいないのかもしれず、実際に相手の顔にかけてしまったのか、実際にはかけてしまってはいないのか、どちらなのか、自分自身でも判別が

つかないというのが正直なところなのだけれども、もしかしたらその相手がこの文章をたまたま読む機会があって、ああ!覚えてるわよ、あの時私の顔にぶっかけて

くれちゃった男の子ね!あの時は本当にビックリしたんだから!と笑いながら思い出してくれる可能性もなきにしもあらずなので、もうとっくに時効も過ぎているこ

とでもあり、せめてもの罪滅ぼしとして、恥ずかしいことこの上ないのだけれども、その時のことを思い出して書いていくことにしようか。私は絵を描くようになっ

た33歳の頃から思うところがあって愛を伴わない射精をできるかぎり自らに禁じてきており、加えて現在に至っては40過ぎもうすぐ50に手の届くもういい歳をした

立派な大人であるから、マスターベーションなど手慰みの類いは年に数回片手で数えるほどあるかないか、それもやんごとなきのっぴきならぬ理由からおこなうもの

であり、もちろんそのやんごとなきのっぴきならぬ理由をここでいちいち説明することはどう考えてもやはりするわけにもいかないが、さらにその年に数度のやんご

となきのっぴきならぬマスターベーションも想像力のみを頼りにおこなう神聖なる儀式であるわけだけれども、私が17歳で高校生のむっつりスケベで多感な青春時代

には、同世代の一般男性のほとんどがごく当り前のようにおこなうようなごく普通の頻度でマスターベーションをおこなっていたものであった。当時は現在のように

AV(アダルトビデオ)がまだまだメジャーな存在にはなってはおらず、インターネットもなく(もしもあの時代にXvideosなどあったらもう大変な騒ぎであったに違いが

なく)、当時の性に飢えた若者たちはTV映画の中のエロティックなシーン(濡れ場)や、深夜のTV番組のエロティックコーナーで申し訳程度に流れる女性の裸などを、

豚がトリュフを見つけ出すかのような貪欲な嗅覚で新聞の番組表の文章から嗅ぎ分けては夜中にごそごそと起きだしてせっせとマスターベーションに勤しんでいたも

のであった。その日も私は深夜に(といっても23時台に)家族のみんなが寝静まったのを見計らってこっそりと起き出してリヴィングルームに置いてあるTVの前へとは

やる気持ちを抑えながら向ったのだった。リヴィングルームは1階にあり家族の寝室は2階にあったため家族の誰かがトイレにでも起き出して来ない限りは安心してマ

スターベーションに勤しむことが可能なのであった。トイレは1階にあったが、万が一家族の誰かが起き出して来たとしても階段を下りてくる足音ですぐさま危険を

察知できるような便利な仕組みになっていたのが、私にとっては非常に好都合な環境ではあった。TVの正面にイスを持ってきて座り、ティッシュペーパーの箱を手の

届く距離に据え置き、手早く準備万端整えたのち、パジャマのズポンとブリーフパンツを一気にガーッと下ろし、ただし念のため足首の部分に引っ掛けておいて万が

一の緊急事態に備えることも決して忘れずに、下半身だけ生まれたままの姿になった私は、はやる気持ちを抑えながらTVのスウィッチを入れ「11PM」という当時人

気のあった深夜バラエティ番組(東京だと4チャンネル)にチャンネルを合わせたのだった。だがしかしその夜は運悪く「11PM」のエロティックなコーナーは待てど暮

らせどはじまらずあっという間に番組はエンディングを迎えてしまったのだった。 そんな殺生な、こんなことがあってたまるか、たまるわけない、とTVの前で下半

身だけ生まれたままの姿になってスタンバイしていた私はどうにもこうにも心の収まりがつかず、TVのチャンネルをガチャガチャとひねくり回してどこかのチャンネ

ルでエロティックな映像が流れてはいないかとそれこそ血眼になって探し回ってみたものの残念ながらエロティックな映像は一切見つからず、私も私の心も私の息子

(ペニス)もさっきまでの元気がどこかへ吹き飛んで行ってしまったかのようにしょぼくれてしぼんでだらりと垂れ下がってしまっているのだった(特に私の息子が)。

深夜に一人TVの前で下半身だけ生まれたままの姿で茫然自失となった私は、何とかしてこの苦境を切り抜けて私と私の心と私の息子(ペニス)の落としどころを見つけ

てやらねば新鮮な希望に満ち溢れた光り輝く明日を無事に迎えることができないなどと勝手な屁理屈をこねくり回してTVのチャンネルをガチャガチャとひねくり回し

続けるのであった(念のため説明しておくと当時のTVのチャンネルは現在のようなリモコン方式ではなくてツマミを時計のように360度ひねくり回すような形式であ

った)。その時チャンネルが偶然NHK総合(1チャンネル)に合わさってテニスの試合の衛星中継が映り、TVの画面の中では外国人の女性選手2人がテニスコートで互い

にかわりばんこにボールを打ち合っている最中であった。片方の女性選手はブロンドのおかっぱ頭で銀縁眼鏡をかけた体つきだけ見れば筋骨隆々のまるで男性のよう

な引き締まった風貌をしていたが、おそらく好みからは外れていたためであろう、私はこの女性にはまったく性的な欲望を覚えることはなかった。このまるで男性が

女装したかのようにも見えるおかっぱ頭の銀縁眼鏡の女性選手のことをアナウンサーと解説者は「ナブラチロワ」「ナブラチロワ」としきりに呼んでいた。もう片方

の女性選手はおかっぱ銀縁眼鏡に比べると格段に女性らしいブロンドのポニーテール頭の長身で比較的整った美形な部類に入る風貌をしており、私はこの女性になら

ばなんとか(欲を言えば切りがなくまあ背に腹は代えられぬから今日のところはこの女で勘弁してやるけれども次に会った時どうなるかは実際その時になってみないと

わからないけれどなハハハ!と)ギリギリのところで性的な欲望を覚えることができそうな気がした。もちろん女性の好みにも個人差があるのは当然であるが、おかっ

ぱ銀縁眼鏡と長身ポニーテールを比べた場合におそらく世間の男性のほとんどが長身ポニーテールの女性のほうにより性的な魅力を感じることであろうと思われた。

この長身ポニーテールの女性選手のことをアナウンサーと解説者は「クリス・エバート」もしくは「エバート」としきりに呼んでいた。ようやく念願の獲物を見つけ

てまさに血に飢えたケダモノと化した私は、TVの前で下半身だけ生まれたままの姿で、このチャンスを絶対に逃すものか、ここで会ったが百年目、ここぞとばかりに

それこそ血眼になって長身ポニーテールのスカートの裾から時折チラリと顔を覗かせるフリルの施された純白の見せパンツに全神経を集中させていくのだった(もちろ

んおかっぱ銀縁眼鏡のスカートからも見せパンツが嫌でもチラリと顔を覗かせたが私はそれを極力見なかったことにしてやり過ごした)。私がこんなにも何か物事に熱

心に集中するのは他には学校のテスト中くらいのものであった。私と私の心と私の息子(ペニス)が新鮮な希望に満ち溢れた光り輝く明日を無事に迎えることができる

ようにと願いながら、明日に向って撃て!明日に向って撃て!明日に向って撃て!と心で念じながら、テニスコートで互いにボールを打ち合う選手たちと同じくらい

激しく激しくさらに激しく、明日に向って撃て!明日に向って撃て!明日に向って撃て!と私は私の息子(ペニス)に対してリズミカルな刺激を与え続けるのだった。

そしてその時だった。私と私の心と私の息子(ペニス)に待ちに待ったその瞬間がもうすぐ訪れようとしていたまさにその時だった。私が感極まり射精する瞬間のその

ほんの数秒前、おかっぱ銀縁眼鏡が見事なスマッシュを決め試合に勝利したため、その決定打となった力強いスマッシュと同じくらい勢いよくそしてティッシュペー

パーも間に合わぬほど素早く発射された私の新鮮な精液は、TV画面の中でガッツポーズを決めるおかっぱ銀縁眼鏡の顔面に向って見事命中するのであった。そしてそ

の時その瞬間を見計らったかのように2階から家族の誰かが階段を下りてくる足音が聞こえてきて、私はいつもお決まりのやるせなく気怠い虚無に襲われながらも、

TV画面の表面にねっとりたっぷりとこびりつき流れ落ちてかかっていた私の新鮮な精液をティッシュペーパーですばやく拭き取り、次に私の息子(ペニス)の特に尿道

付近にまだ少し残っていた私の新鮮な精液を(牛の乳搾りなど実際は一度も経験したこともないけれど牛の乳搾りをするような要領で)ティッシュペーパーで丁寧に搾

り出したのち、これまたすばやく下半身を生まれたままの姿ではない状態に戻し、TVのスウィッチを消し部屋を真っ暗にし、そして静かにゆっくりと目を閉じるのだ

った。その時私の瞼の裏側には私の新鮮な精液がたっぷりねっとりとこびりついたおかっぱ銀縁眼鏡のとびっきりの笑顔がしっかりと焼き付いたままいつまでもいつ

までも永遠に消えることがなく、いつもよりもドクンドクンドクンと幾分速めに私の体内を流れ渡る私の血液の脈動と、階段を下りてくる家族の誰かの足音とが徐々

に重なり合い響き合うのを全身で感じながら私は、新鮮な希望に満ち溢れた光り輝く明日がもうすぐそこまでやって来ている気配をひしひしと感じているのだった。

……

大江健三郎と比較するのも恥ずかしい、まさに「死ぬほどくだらない話」であるが、変態道は果てしのない茨の道であり、お利口さんばかりのきれいごとの世界にあ

って変態はとかく住みにくいけれども、私は変態として生まれたからには、私の中の変態性つまり自分が変態であるという紛れもない事実から卑怯にも都合良く目を

そらしたりはせず、変態心を決して蔑ろにせず、へこたれもせず、あの20歳前後の若き野獣であり若き変態であった頃の私自身に決して恥じることのないよう、これ

から先も変態として胸を張り堂々と生きていくつもりである。そしていつの日か『私のセヴンティーン』を完成させるつもりである。嗚呼、素晴らしき哉、変態人生!

ちなみに、大江健三郎先生にはもう大昔神保町の本屋に立ち寄った際たまたま出版記念サイン会をやっているところに遭遇したことがあったが、遠目からでも頭が異

様に不自然に大きくて、私はあの巨大な頭の中にぎっしり詰まった脳みそを使って『性的人間』や『セヴンティーン』を書いたのだなと嬉しく思ったものであった。

2020. 7

 

 

 

 

 

09.『Pixies / 妖精たち (仮)』

 

 

昔から創作活動に行き詰まる度に私はよく銭湯やサウナへ行って汗を流しては日頃の鬱憤を晴らしていたものであったが、常に行き詰まってばかりの人生ゆえに自然

と汗を流しに行く頻度も高くなってくるわけで、もしかしたらそれは創作活動で自分の中の何かを外に吐き出して表現する代わりに全身から無理やり汗を噴き出させ

ては何かを表現したような気になって気持ち良くなっているにすぎぬようにも思えてくるのだけれども、ともかく体の中から何かを外に吐き出すという行為は、心と

体がスッキリしてなんとも気持ちの良いものなのであった。もっとも、吐き出して気持ちがよいのは何も汗に限った話ではなく、他にも大便とか小便とか精液とか基

本的なものにはじまり、涙を流したり、屁をこいたり、怒りをぶちまけたり、好きな相手に愛の告白をしてみたり、今まで内緒にしていた秘め事を思い切ってみんな

の前でカミングアウトしてみたり、断食で宿便を排出させたり、ため息ついたり、深呼吸したり、出産で子供を生んだり、ただ単におしゃべりするだけであったり、

他にも例をあげれば枚挙にいとまがないけれども、さらには、おそらく文章を書いたり絵を描いたり歌を歌ったりするのにもほぼ同等の効果があるに違いがなく、自

分の中にある何かを外に吐き出して表現するからこそ、出したあとにスッキリと爽快な気分になれるのであろう。人々が嬉々として、時に匿名や偽名で、SNSなどに

文章を書き込みたがる理由は、第一に、人は皆それぞれ心に孤独を抱え込んでいるため、他人と言葉によって触れ合い慰められたいからだと考えられるが、他にも、

やはり書き込むことによってスッキリと壮快な気分になれるからに違いなく、もしかしたら、それは支配層/権力者が、民衆の鬱憤の捌け口が自ら(政府)に向かわぬよ

う巧妙にガス抜きさせたり、情報操作や印象操作の道具(駒)として使用していたり、つまりはSNS全体が大きな意味では支配層/権力者のプロパガンダであると言える

のかもしれない。私がツイッターなどSNS全般(HPは除く)に利点や効能があることを十分理解した上で、それでも現時点では決して参加しないのにはいくつか理由が

あって、まず前述の通り、無意識的にであるとはいえども、支配層/権力者の情報操作や印象操作の道具(駒)として利用されるのではないかという疑念を払拭できずに

いるからであり、時に右や左に別れて論争しているのも分断統治政策の一環、つまりはプロレスであり、右も左も元をただせば実は同根であるのかもしれず、また、

常々私はインターネットにおける匿名の書き込みはすべて禁止すべきだという意見に賛同しており(匿名掲示板などにおける書き込みの中に漂う人間という醜悪な生き

物の本質的な一面が垣間見られるという唯一の美点があるにはあるけれど)、やはり己が何者であるかについての情報を何ひとつ明かさずに、己の考えを表明する資格

など一切ないと考えており、そういった表現者としての覚悟のない卑怯者の表現する便所の落書き以下の取るに足らぬ言葉に心動かされることなどはほとんどなく、

そのような輩は大抵己のことは棚に上げて他人を批判したり、己の報われない苦境を嘆いて愚痴ってみたり、本人を面としては絶対に言えぬことや匿名でなければと

てもじゃないけれど言えぬようなことまでも平然と書いてしまえていたりと、見ているだけで胸クソが悪くなるばかりで益体もなく、己の中に表現したいことがある

ならば、正々堂々と氏名か出自か顔写真の中のいずれかを最低限晒した上で表現するべきであると考えているがゆえに、それらの個人情報を一切明示しないどこの馬

の骨ともわからぬような匿名希望の卑怯な輩とコミュニーケーションを取ること自体が億劫というか正直気味が悪いからであり、それから、時折見かけられる、寂し

さを紛らわせるためであろうか、10秒に1回息を吐くかのように呟き続けている、いわゆるツイ廃(ツイッター廃人)と呼ばれる哀れな存在に自分も成り果ててしまい

かねない恐れがあるからであり、さらには、日頃の鬱憤を晴らすかのごとく怒りにまかせ全方位的に喧嘩売りまくりの状態に陥ってしまう危険性がかなり高いと自覚

しているからでもあり、さらにもう一つ、これこそが最も重要なのだが、SNSに書き込むことにより「いいね!」され承認欲求が満たされ何も表現してないのにもか

かわらず何か表現したかのような気になって満足してしまって、本来自分がやるべき仕事である「己の表現欲求を藝術作品へ昇華させた上で世間に発表する」という

創作活動を疎かにして怠ってしまう可能性があり、それは自らの望むところではないからであると自己分析する。とまれ、些か話が脱線したけれども、自分の中にあ

る何かを外に吐き出すと、どうしてスッキリと爽快な気分になれるのかという話に戻るならば、銭湯やサウナの場合、同性同士とはいえども、生まれたままの姿を互

いに見せ合いっこすることで自分自身をさらけ出し合ってスッキリするという効果も、人にもよろうが、もしかしたらあるのかもしれぬと思ったり、そう考えていく

と、なんでこんなに若くて綺麗なのにと驚くような女性が恥ずかしげもなくAVに出演したり、年増のババア女優が誰も望んではいないのに年甲斐もなくヘアヌード写

真集を出版したり、道端でおっさんがいきなり局部を丸出しにしたりするのもすべては同じ原理であり、スッキリと爽快な気分を味わえるからかもしれぬなどと思っ

たりもするのだった。昨今はホモセクシャルや同性愛者の人たちをいじって笑いものにすること自体が難しい世の中になってきているが、私は互いに合意の上で合法

的におこなわれるすべての物事に対しては否定をしたりバカにしたりするつもりなど毛頭もなく、もちろん彼らに対して差別意識は微塵も持ってはおらず、好き者同

士が好きなことをして楽しむことに何らの問題はないと考えているのだけれども、ただしそれは互いに合意の上で合法的におこなわれる限りにおいての話であり、何

事にもルールというものがあって、互いに合意の上で合法的におこなわれるという点が非常に重要なポイントになってくると思われるのだった。神なんているわけが

ない、もし本当に神がいるのならば、世の中もう少しはマシになっているはずだ、と常日頃から現実世界に対して懐疑的で不満を抱いている冷徹ニヒリスティックな

人間嫌いの成れの果てを気取った無神論者の私であるが、一応神に誓って私はストレートであり、ホモセクシャルではないと宣言しておく。ただし若い頃ホモのおっ

さんに襲われそうになった経験ならば何度かある。映画館で隣に座った見知らぬおっさんに触られたりすることもさして珍しくなかったが、いきなり触られれば触ら

れたこちらは当然ビックリするし、触られた途端もう映画にはまったく集中できなくなってしまうのがとにかく困ったものであった。一番最初に触られたのは、忘れ

もしない、新宿南口にあったミニシアター系映画館にて橋口亮輔監督『二十才の微熱』(主人公がゲイ)鑑賞中だったのは今も印象深い。当時たまたま新宿2丁目のメイ

ンストリートを一本横道にそれた辺りに住んでいて、深夜にタクシーで帰宅して自宅マンションへと向って歩いている途中などに「お兄さん、これから飲みに行かな

いかい」とか「送っていくわよん」とか、彼らにとっては聖地である場所柄ゆえであろうか、そっち系の人たちに頻繁に声をかけられたりもしたものであった。今で

はすっかり草臥れ果ててしまっているものの、20歳を少し過ぎた若かりし頃の私は今よりもずっとオシャレでかわいらしかったので、そういう目に何度も遭遇したも

のであった。もちろん今でも内面のかわいらしさを維持しているつもりではあるが、中年以降は寄る年波に逆らえず、哀しいことに老化の一途を辿るばかりである。

今から四半世紀以上も前、ちょうど私がTV-CM制作会社に就職が決まって一人暮らしをはじめてまもなくの頃の話である。住みはじめたばかりの家賃7万のワンルーム

マンションのユニットバスの狭苦しい風呂に早くも飽き足らなくなってしまった私は、たまには大きな風呂に手足を伸ばしてのんびり浸かりたいなと思い立って、あ

る土曜の晩、新宿歌舞伎町のサウナ風呂(トルコ風呂ではないですよ)を一人ふらりと訪れたのだった。某大手映画館と同じビルディング内にあるカプセルホテルも併設

した比較的規模の大きなごく普通のサウナ風呂であった。受付で料金を支払いロッカールームで衣服をすべて脱ぎ去り生まれたままの姿になった私は、備え付けの例

のお馴染みのオレンジ色の小タオルで股間にぶら下がっているペニスとキンタマを器用に隠しながら、いそいそと浴場へと向い、洗い場のシャワーで全身を軽く流し

たのち、再び例のお馴染みのオレンジ色の小タオルで股間にぶら下がっているペニスとキンタマを器用に隠しながら、サウナルームの重たい扉を引き開け中へと入っ

て行くと、サウナルームの中は一度に20人ほどを収容可能な、どこにでもあるごくありきたりなウッド調の造りになっており、私の他には誰一人として先客は見当た

らず貸し切りの状態であり、昔から人が大勢集まって密集する空間が大の苦手であった私にとっては甚だ好都合な環境であった。さっそく私は3段あるうちの2段目の

ちょうど中央部分にどっこらしょと独りごち腰かけて、例のお馴染みのオレンジ色の小タオルで股間にぶら下がっているペニスとキンタマを隠そうかどうしようか、

他に客は誰一人いないから別にわざわざ隠さなくてもいいっちゃいいんだけど、後から客が入ってくる可能性もあるしな、でも実際に後から客が入ってきた時はその

時で、その時になって隠せばいいのかもしれないな、でもそんなことにいちいち気を奪われていたら汗を流すことに全神経を集中できなくなるしな、わざわざサウナ

風呂にやってきた意味がなくなってしまうよな、いやはや、どうしたものであろうか、と散々迷った末に結局オレンジ色の小タオルでペニスとキンタマを隠すことに

決め、そして目を閉じ全身から自然に汗が噴き出てくるのを静かに待ち続けていると、それから5分ほど経過し私の全身から少しずつ汗が噴き出しはじめてきた頃合で

あっただろうか、目を閉じた状態のままの私は、誰かがサウナルームの重たい扉を開け中へと入ってくる物音と、やがてその入ってきた人物が私のすぐ左隣に座る気

配を感じたのだった。他にも座る場所ならいくらでもあるというのになぜ私のすぐ隣に座るのであろうか、まったく迷惑千万な話だ、と訝しく思いながら、私は薄目

を開けすぐ左隣に座っていた人物へと顔を向けてみれば、その横顔から判断するに年の頃40~50代のどこにでもいそうなありきたりな冴えない中年の男であった。男は

最初しばらく黙ったまま前方を見つめていたが、私が再び目を閉じそれからさらに5分ほど経過した頃合であっただろうか、何の前触れもなく自分の太股を私の太股

に、まるでそれがサウナルームにおける当たり前のしきたりであるかのようなごく慣れた自然な動作でゆっくりと静かにそしてねっとりといやらしく密着させてくる

のであった。痴漢に遭遇した女性が恐ろしくて身動きも取れず声も出せなくなるという話をよく聞くが、その時の私がまさにその状態で、まるで全身が金縛りにあっ

たかのように固まってしまいまったく身動きが取れず声も出せないのだった。それからそのまましばらくは時間の感覚が麻痺してしまったようで、正確にはどれほど

の時が流れたのか私には判断のしようもなかったが、思い切って私は金縛りを振りほどくような要領で全身に一気に力を込め、もちろん例のお馴染みのオレンジ色の

小タオルで股間にぶら下がっているペニスとキンタマを器用に隠すことも忘れずに、男とは逆の方向つまり自分の右側へと一席分体をスライドさせると、すぐさま隣

の男も同様に体を右側へと一席分スライドさせてきて、再び自分の太股を私の太股に、まるでそれがサウナルームにおける当たり前のしきたりであるかのようなごく

慣れた自然な動作でゆっくりと静かにそしてねっとりといやらしく密着させてきたため、さらにもう一度、私は例のお馴染みのオレンジ色の小タオルで股間にぶら下

がっているペニスとキンタマを器用に隠すことは決して忘れずに、男とは逆の方向つまり自分の右側へともう一席分体をスライドさせたものの、逃げても逃げてもそ

の度に男は執拗に追いかけてきては、自分の太股を私の太股に、まるでそれがサウナルームにおける当たり前のしきたりであるかのようなごく慣れた自然な動作でゆ

っくりと静かにそしてねっとりといやらしく密着させてくるのだった。その間、私と男二人ともに終始無言のままであった。やがてとうとう右端の壁まで追いつめら

れて袋の鼠となった私は、このままこんなイタチごっこを延々続けていても埒が明かぬと意を決して、 心の底から湧き上がる恐怖と戦いながら、もちろん例のお馴染

みのオレンジ色の小タオルで股間にぶら下がっているペニスとキンタマを器用に隠すことは決して忘れずに、サウナルームの外へと一目散と逃げ出し水風呂に飛び込

んだのだが、しかし、やはり予想通りといおうか、男は執念深く私を追いかけて水風呂に飛び込んでくるのであった。その水風呂は10m×5mのまるで小型プールほど

の大きさがあって、そして私にとっては不幸中の幸いであったが、他にも客2~3人が水風呂に浸かっていたため、男は他の客の目を気にして大胆な行動に出ることがで

きずに、何食わぬ体を装いつつも、私のほうへとチラチラと時折怪しげな視線を投げてよこしながら、水風呂の中を泳ぎはじめるのであった。平泳ぎで泳ぎながら男

は私のすぐそばを通り過ぎる度、その泳ぐかき手の指先で私の体に、最初はあたかも故意ではありませんよと言わんばかりにさりげなくいやらしく撫で摩るように、

そのうちアクシデントを装いつつわざと乱暴にぶつけるように、何度も何度も触れてくるのであった。男の執念深さに心の底から恐ろしくなってきてしまった私は、

もちろん例のお馴染みのオレンジ色の小タオルで股間にぶら下がっているペニスとキンタマを隠すことは決して忘れずに、ロッカールームへと続く通路を小走りに逃

げ出す始末であったが、やはり予想通りといおうか、男もロッカールームまで私を小走りに追いかけてきて、私から2mほど離れた場所にあるロッカーの陰に身を潜め

顔だけ覗かせ、ただ無言のまま私に怪しげな視線を投げてよこしてくるのであった。その時初めて私は男の顔をじっくりと見たのだが、その目はどこを見つめている

のかわからぬような、虚空を見つめるような、どこか虚無的で哀しげな鈍い光を放っているのだった。もう本当に本当に恐ろしくなってきてしまった私は、備え付け

の例のお馴染みのオレンジ色の大タオルで大急ぎで全身にしたたる水滴を、特に股間にぶら下がっているペニスとキンタマを重点的に拭き取ったのち、脱いだ時とは

逆の順番で衣服を身に着けていき、一応忘れ物がないかだけは入念にチェックした上で、濡れっぱなしの髪の毛をドライヤーで乾かすことも、綿棒で耳の穴を掃除す

ることも忘れて、いまだ私をロッカーの物陰から怪しげにそして哀しげに見つめ続ける男には一切目もくれず一目散と出口へと小走りで向かうのであった。外の空気

に触れた瞬間、私のキンタマ袋がブルッと震え引き締まるような気味の悪い寒気を感じて、それが恐怖によるものなのか、ただ単に寒かっただけなのか、どちらなの

か私には判断つきかねたが、とにもかくにもトラウマティックな致命的被害だけはどうにかこうにか免れたことに心から安堵した私は、もう二度と新宿歌舞伎町のサ

ウナには近づいてはならぬと固く心に誓うのだった。冬と春の境目の少し肌寒い夜の出来事であった。そして、以降も、私はサウナで汗を流すことで得られる得も言

われぬ快楽を若くして知ってしまったがゆえ、新宿歌舞伎町はなるべく避けながらも、サウナ風呂には暇さえあれば通い続けて、それからかなりの時間が流れ、数年

前のある日のことであった。33歳で絵を描くようになってからのちも相も変わらず創作活動に行き詰まりまくっていた私は、溜まりに溜った心と体の垢を削ぎ落とし

洗い流し、積もりに積もった日々の鬱憤を晴らすべく、近所のスーパー銭湯へといそいそと出かけて行ったのだった。その行きつけのスーパー銭湯は風呂とサウナが

セットで1000円程度の良心的な料金設定であったが、受付でたまにはアカスリでもしてみようかと唐突に思い立った私は、別料金4000円を支払い、私にとっては生ま

れて初めてのアカスリ・エクスペリエンス(体験)となる「アカスリ全身30分コース」を選んで予約を入れたのだった。ロッカールームで衣服をすべて脱ぎ去り生まれた

ままの姿となった私は、小さいタオルで股間にブラブラぶら下がっているペニスとキンタマを器用に隠しながら浴場へと向かい、まずは全身を軽くシャワーで流し、

まだアカスリの予約時間までいくらか時間が余っていたためサウナで10分ほど軽く汗を流し、そして予約時間が来ると私は浴場に隣接する小部屋であるアカスリルー

ムへと小さいタオルで股間にブラブラぶら下がっているペニスとキンタマを器用に隠しながら、生まれて初めてのアカスリ・エクスペリエンス(体験)であるため少しば

かり胸をドキドキさせつつ向かい、予約している旨と自分の名前とをアカスリレイディに伝えたのだった。私にとって生まれて初めてとなるアカスリ・エクスペリエ

ンス(体験)を担当してくれることとなったアカスリレイディは、怪しい片言の日本語を操る、おそらくコリアン系の年増のBBA(55~60歳くらい)であったが、そのアカス

リBBAは挨拶もそこそこに私の股間の小さいタオルをいささか乱暴に剥ぎ取ったかと思うと代わりに紙オムツのような薄っぺらなパンツを私に手渡し「キガエテクダ

サイネ!」と指図するのであった。アカスリBBAから小さいタオルを乱暴に剥ぎ取られたため、私の股間にブラブラぶら下がっているペニスとキンタマは当然のごと

く生まれたままの姿となって、そのあらわになった私の股間にブラブラぶら下がっているペニスとキンタマを見つめながら、アカスリBBAは、怪しい片言の日本語で

「オニイサン、スッゴク、オッキイネ!」などと卑猥な言葉をとびっきりの笑顔で投げかけてくるのであった。私の股間にブラブラぶら下がっているペニスとキンタ

マを無遠慮に見つめるアカスリBBAのいやらしくねばりつくような視線から逃れるように、私は180度回転し後ろを向きアカスリBBAに尻を向けるような格好でそそ

くさと手渡された紙オムツのような薄っぺらなパンツを身に着けるのだった。そしてアカスリBBAから備え付けの小型ベッドにうつぶせに寝転がるよう指図を受けそ

の通り寝転がった私の全身にいきなりホースからいささか乱暴に容赦なくお湯をぶっかけたのち、アカスリBBAは「イタカッタラ、イッテクダサイネ!」と怪しい片

言の日本語で私に語りかけながら私の全身を紙ヤスリのような特殊なタオルでゴシゴシと擦りはじめるのであった。 正直に言えばアカスリBBAの擦り方は少しばかり

乱暴過ぎて痛かったのは事実だったが、私にとっては生まれて初めてのアカスリ・エクスペリエンス(体験)であったため、アカスリとはこういうものであると私は自

分自身に言い聞かせながらアカスリBBAのゴシゴシ擦りまくる痛みを堪えるのに精一杯なのであった。アカスリBBAは私の全身を乱暴にそして執拗に擦り回しながら

「オニイサンノカラダ、ゼンゼン、ケガハエテナイネ!」 とか「オニイサンノハダ、シロクテスベスベネ!」とか「オニイサンノオシリ、プリット、ヒキシマッテ、

イイオシリネ!」とか「オニイサン、ホント、アカイッパイネ!」とか「ホント、スッゴイヨ、アカ、スッゴイ、スッゴイ、ホラ、オニイサン、スッゴイ、モウ、ス

ッゴイ、スッゴイ、アカ、スッゴイ、アカ、スッゴイ、ホラ、ミテゴラン、オニイサン、スッゴイ、アカ、スッゴイ、スッゴイ、モウ、スッゴイ、ホラ、スッゴイ、

スッゴイ、アカ、スッゴイ、アカ、スッゴイ、ホラ、ミテゴランヨ、オニイサン、スッゴイ、アカ、スッゴイ、スッゴイ、モウ、スッゴイ、ホラ、スッゴイ、アカ、

スッゴイ、スッゴイ、スッゴイ!」とか、とにかくペラペラペラペラと口じゃなく手だけ動かしとけよと文句を言いたくなるほどにペラペラペラペラと口やかましく

怪しい片言の日本語で熱心に私に語りかけてきたが、私は最初こそアカスリBBAのゴシゴシ擦る刺激がが少しばかり痛く感じたものの、しばらくするうちに痛みが快

感(エクスタシー) へと徐々に変化していき、アカスリBBAの超絶絶妙なアカスリテクニックに翻弄され、そのうち気がつけば股間のあたりがなんだかムズムズとしは

じめてくるのであった。 決して性的に興奮しているわけでもなく、ましてやアカスリBBAに欲情しているわけでもなく、アカスリBBAに全身をくまなく擦り回される

物理的な刺激により恥ずかしながら私の股間(つまりペニス)はマヌケなことにすでに半勃ちの状態になってしまっているのであった。「これは非常にマズいことにな

ったぞ」と必死に「勃つな! 勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!勃つな! 勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!」

と念じてみたり、今までの私の人生における最も忌まわしい過去の記憶を懸命に呼び覚ましてみたりなど、なんとかして私はペニスの勃起を萎えさせる努力を必死に

試みようとするものの、「勃つな!勃つな!勃つな!勃つな! 勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!勃つな!」と念じれば念じるほど私のペニスの勃

起は、親の心子知らずではないけれども、逆にさらに激しくなっていくばかり(おそらくこれは「緊張するな!緊張するな!」と思えば思うほど人間という生き物は緊

張してしまう作用とほぼ同じ原理であろうか)、そして、その時最悪のタイミングでアカスリBBAが怪しい片言の日本語で「ジャア、オニイサン、コンドハ、アオムケ

ニナッテクダサイネ!」とか言い出すものだから、仕方なく仰向けになった私の股間のペニスはすでに半勃ちを通り越してギンギンにフル勃起してしまっているので

あった。そして、それを目ざとく察したアカスリBBAはと言えば、何食わぬ顔で平然と「オニイサン、スッゴク、ゲンキイッパイネ!」などと言い放つのであった。

アカスリBBAの発する怪しい片言の日本語に羞恥心をひどく刺激されながら私は「これは何かの罰ゲームか何かなのであろうか?」とか「この言葉攻めも4000円の

コース料金に含まれているのであろうか?」とかふと考えてみたりもするのだったが、アカスリBBAの言葉攻めはいっこうに止まる気配もなくさらに勢いを増してい

き、「ダイジョウブ、オニイサンダケジャナイヨ、ミンナ、ギンギンヨ!」とか「デモ、オニイサンガ、イチバン、オッキイネ!」とか「ホント、スッゴイネ!」な

どと心にもないであろうお世辞まで言い出す始末なのであった。その後も私の全身(精神的にはペニスも含む) はアカスリBBAによる激しいゴシゴシテクニックと羞恥

心を絶妙にくすぐる言葉攻めにもてあそばれるかのようにいじり倒され、やがて気がつけば30分という私にとって生まれて初めてのアカスリ・エクスペリエンス(体

験)もそろそろ終わりを迎えようとしていた頃、最後にアカスリBBAは「ドコカ、モットイッパイゴシゴシシテホシイトコロアリマスカ?」と怪しい片言の日本語で尋

ねてきたので、私は鼠蹊部(つまり足の付け根、ペニスとキンタマの両脇)を指差してお願いすると、おそらく私が、その時すでにフル勃起ではなく半勃ち以下にまで

収まっていたペニスを指差したものと勝手に勘違いしたのであろうか、アカスリBBAはさっきまでのノリノリだった激しい言葉攻めがまるで嘘のように真面目な声の

トーンに変わって澄ましたように「オニイサン、ソコハ、ダメデス!」と冷たく言い放ち、私はペニスを擦って欲しいとお願いしているわけではないのだということ

を必死に説明し誤解を解こうと試みるも、アカスリBBAは「ソコハ、ダメデスネ!ソウイウ、オミセ、イッテクダサイネ!」と頑として聞く耳を持たず「モウオシマ

イ、ジカンデス!」と私の全身にいきなりホースからいささか乱暴に容赦なくお湯をぶっかけたのち、「パンツヌイデ、トットト、デテイッテクダサイネ!」と預け

ていた小さいタオルを投げてよこし、その後は私とは一切口もきかなければ目を合わせようともしないのであった。「最後に鼠蹊部(足の付け根)を擦ってくれとお願

いしただけでペニスを擦ってくれとお願いしたわけではないのにな」と釈然としない思いを胸に引きずったまま、私は紙オムツのような薄っぺらなパンツを脱ぎ捨て

小さいタオルで股間にブラブラぶら下がっているペニスとキンタマを器用に隠しながらアカスリルームを後にしてサウナルームへと向かうのだった。かように、私に

とって生まれて初めてとなるアカスリ・エクスペリエンス(体験)は散々な幕切れとなってしまったわけだけれども、サウナルームではおそらくアカスリの効果がさっ

そく現われたものであろうか、普段よりも汗の出方が半端なく良くなっており、すぐに私の全身から玉のような汗が次から次と噴き出してきて、それらが結合し、ま

るで私自身がナイアガラの滝にでもなったかのごとく夥しい汗が私の全身を止めどなく気持ちよいほどに流れ落ちていくのであった。そして、我慢の限界まで(およそ

25分ほど)サウナルームにとどまったのち、私は水風呂へと飛び込み一息つき、次にジェットバス(ジャグジー)と呼ばれる水流を利用して体全体をマッサージすること

ができる一人専用の小型風呂へと向かい、目を閉じて水流に身を預け任せ全身が心地よくほぐされていく感覚を味わいながら、ふと目を開ければ、いつの間にやら私

の入っているジェットバス(ジャグジー)の湯船の端っこに見知らぬ一人の小さな男児が突然ちん入してきているのであった。おそらく4~5歳くらいであろうか、少なく

とも私にはそう見えたが、その小さな男児は湯船の端っこ私の足元に立ちつくしたまま私のほうをただ無言で見つめるばかりなのであった。通常ジェットバス(ジャグ

ジー)というものは一人専用で入るものであるため、最初は私のことを父親か何かと間違えているのかと疑ってみたが、その4~5歳くらいの小さな男児はただ私の足元

に黙って立ちつくし私を見つめ続けるばかりなのであった。そのまま5分ほどが経過したであろうか、ジェットバス(ジャグジー)の水流に身を預け任せ心地よい気分に

浸りながら、「もしかしたら私には実は子供がいて今目の前で私を無言のままじっと見つめているのは私の子供なのではあるまいか?」とか「この子供はおふろの妖

精か何かで私にしか見えていない存在なのではなかろうか?」とか、突拍子もない考えが私ののぼせふやけきった頭の中に次々と浮かんでくる頃合になって、私の目

の前で私をじっと見つめ続けている「おふろの妖精」が私に向かって必死に何かを訴えかけていることに私は気がつくのであった。ジェットバス(ジャグジー)の水流に

掻き消されてしまうほど、その「おふろの妖精」の声は小さかったため最初はよく聞き取れなかったが、耳をこらし必死に聞き取ろうと全神経を集中させ心を澄ませ

ば、かすかに「おふろの妖精」の声が聞き取れるのであった。その声は私にこう訴えかけているように聞こえるのであった。「つぎはいらせてください…」どうやら

「おふろの妖精」はただ単にジェットバス(ジャグジー)の順番待ちをしていただけにすぎなかったようで、私はなんだか一気に拍子抜けしたような気分になって「次入

らせてくれも何もさ、もうすでにちゃっかり入ってきてるじゃねえかよ」とか「こわっぱの分際でジェットバス(ジャグジー)に入ろうなんて、10年、20年、いや30年、

40年、50年早いんだわ、陰毛がしっかり生え揃って、アソコがズルムケになって、女と散々ヤリまくって、人生の酸いも甘いも噛み分けて、すっかり草臥れ果ててか

らにしろってんだい、おととい来やがれだよ!」などと内心思っていたのだけれど、その時の「おふろの妖精」の声のトーンとその言い方、ついでに股間にぶら下が

っている超小型サイズのペニスとキンタマが私にはとてもキュートでかわいらしく思えたため、私は口元に笑みを浮かべながら、どうぞ!と一言「おふろの妖精」に

声をかけ頭をひとつポンとやさしく撫でてやりジェットバス(ジャグジー)を後にするのであった。そして、私は「おふろの妖精」の「つぎはいらせてください…」と

いうかわいらしい言葉を思い出しては一人ニヤニヤほくそ笑みながら、その時すでに小さいタオルで股間にブラブラぶら下がっているペニスとキンタマを器用に隠す

ことなどすっかり忘れてしまった状態、つまり下半身丸出しで、ロッカールームへと向かうのであった。私の生まれて初めてのアカスリ・エクスペリエンス(体験)は不

幸にも散々な幕切れとなってしまったわけだけれど、しかし、それを補って余るほどに、私には「おふろの妖精」がとてもキュートでかわいらしく思えたのだった。

神なんているわけがない、もし本当に神がいるのならば、世の中もう少しはマシになっているはずだ、と常日頃から現実世界に対して懐疑的で不満を抱いている冷徹

ニヒリスティックな人間嫌いの成れの果てを気取った無神論者の私であるが、一応神に誓って私はストレートであり、ホモセクシャルではないけれど、もしかしたら

ホモセクシャルの人たちにとってこのスーパー銭湯やサウナのような場所はまさに地上の最後の楽園なのではなかろうかなどと不埒な考えを頭によぎらせながら、私

はアカスリBBAのことなどはもうすっかり忘れて晴れ晴れとした気分となって家路につくのであった。そして、今にして思い返せば、あのアカスリBBAもある意味で

は妖精だったに違いないし、大昔新宿歌舞伎町のサウナで私に襲いかかってきたあのおっさんもある意味では妖精だったに違いない。妖精は水辺に集まりやすいのか

もしれない。英語で「妖精さんたち」という意味を持つ「Pixies/ピクシーズ」というバンドのアルバム『サーファー・ローザ』(1988年/スティーヴ・アルビニ録音)は

彼らが吐き出した瑞々しい初期衝動が生々しく記録されており、「妖精さんたち」というバンド名でこんな音を出されてしまってはたまったものではないと誰もが思

わず腰を抜かすほどに荒くれてざらついたサウンドが疾走する素晴らしいアルバムであるが、そもそもPixies/ピクシーズのメンバーたちにしたところで、どこからど

う見ても「妖精さんたち」にはまったく見えないわけだけれども、聴く度に私は今までの人生で出会ってきた「妖精さんたち」をふと思い出したりするのであった。

2020. 7

 

 

 

 

 

08.『Nothing / 夜の果ての旅 (仮)』

 

 

私は昔から人が大勢集まる場所が大の苦手であり、幼稚園に通うことが決まった時などは幼心に、もうこの世の終わりだ!と思うくらいに絶望的な気持ちになって悲

嘆に暮れたものだったが、今思い返してみればその時こそが私の物心がついた瞬間であったのかもしれない。また、小学校の朝礼の時に全校生徒が一堂に集まり並ん

で立っている時などはもう地獄の沙汰であり、校長先生のありがたい言葉などはいっさい耳に入らず、いつも気絶しそうになるのを必死に堪えることで精いっぱいな

のであった。そして、これも私が小学校に入学して間もない頃の話であるが、とにかく私は学校へ行くことが嫌で嫌でたまらず、それが原因かどうかはわからないけ

れども、真夜中にはたと目が覚めてしまって、それからしばらくの間はまったく眠れなくなってしまうということがとにかく頻繁に起こるようになって、そんな時い

つも私は頭の中で「無/Nothing」について考えを巡らせるのであった。もちろん6歳そこそこのガキンチョの私が「無/Nothing」などという言葉や概念を明確に理解

できているはずもなく、ただガキンチョの感覚で「無/Nothing」すなわち「なんにもない」という状態を頭の中で想像していたに過ぎないのであったが。当時の私は

家に個室などは与えられてはおらず、就寝時は家族全員が同じ和室に布団を敷き川の字になって雑魚寝しており、他の家族が規則的に立てる寝息や誰かの寝言をうす

ぼんやりと耳にしながら、私は頭の中で静かにゆっくりと「無/Nothing」について想像を巡らせていくのであった。まず私は頭の中ですぐ横で眠っているもっとも身

近な存在である私の家族たち、父親、母親、1歳上の兄、5歳下の妹を一人一人何の躊躇もなく次々と消滅させていき、次に祖父は1人すでに他界していたため、残り

の祖父、祖母、祖母、親戚のおじさんたち、親戚のおばさんたち、いとこたち、学校の先生、友達、駄菓子屋のおばちゃん、風呂屋のおっさん、飼っていたミドリガ

メ、近所の野良犬、野良猫、いつもうるさいカラス、蟻んこ、そして街を歩く見ず知らずの人々など思い出しうる限りに片っ端から何の躊躇もなく、むしろどちらか

と言えば愉快な気分で次々と消滅させていき、しまいには私自身の肉体すらも消滅させて、私の頭の中には人間を含めたすべての生物がまったく存在しない摩訶不思

議な世界が想像/創造されていくのであった。ただしその世界にあっても私の意識だけは決して消滅することはなく、私の意識はこの人っ子一人いない摩訶不思議な世

界の中を静かに自由にそして少しばかりの興奮を覚えながら、いや、より正確に、そして正直に告白してしまうならば、少なからぬ性的な興奮に胸をときめかせなが

ら、その自らがつくりあげた摩訶不思議な世界をあてどもなく彷徨い続けるのであった。それから決って私は興奮と衝動を抑え切れずにパジャマのズボンさらにパン

ツの中へと自分の手を差し入れ、自分の白いアスパラガスのような当時まだ皮の剥けていなかった小さなペニスの先っちょを利き手である右手の親指と人差し指の先

でちょこんとつまんでは小刻みな規則的な刺激を繰り返し与え続けるのであった。あとに大人になって読んだ太宰治の小説の中でこの作業のことを按摩と書いていた

けれども、当時の私はこのペニスの先っちょに刺激を与える作業のことを、他にどう呼んでよいかわからなかったためにティコティコと名づけて呼んでいたのだが、

私の白いアスパラガスのような小さなペニスはティコティコにすぐさま敏感に反応を示してきて、6歳のガキンチョのペニスのくせして生意気にもみるみる硬く芯を

持ったように少しだけ大きくなっていき、それにつられて私自身の気持ちもなんだか少しだけ大きくなっていくようにも感じながら、私の意識は引き続き私の頭の中

の人っ子一人いない摩訶不思議な世界を静かに彷徨い続け、私の右手の指先はペニスの先っちょにティコティコと規則正しいリズムで繰り返し刺激を与え続け、その

うち私の意識はゆっくりと空へと向かって上昇していって、さらにスピードをぐんぐん上げてみるみる上昇を続け、それに同調するかのように私のペニスの先っちょ

をつまむ私の右手の指先のスピードもティコティコティコティコぐんぐんぐんぐん上がっていって、私の意識はさらにさらにスピードをぐんぐんぐんぐん上げてどん

どんどんどん高く空へと上昇していって、それにさらに呼応するかのように私の右手の指先のティコティコする動きもさらにさらにスピードをティコティコティコテ

ィコぐんぐんぐんぐん上げていって、ティコティコティコティコどんどんどんどん激しくなっていって、やがて私の白いアスパラガスのようなペニス全体が車がエン

ストを起こす時のような要領で一瞬だけビクンと大きく波打って震えたかと思えば、すぐさま私のキンタマ袋と尻の穴のほぼ中間地点あたりから得も言われぬ快感の

波動がものすごいスピードで背筋を伝って駆け抜けて脳天まで達して、そのままつむじあたりから頭上へと一気に突き抜けていって、その後も続くその得も言われぬ

快感の余韻とともに、私の意識はそのままその惰性を借りたスピードを保ったまま、さらにさらにぐんぐんぐんぐん空高く上昇していって、やがて気がつけばいつの

間にやら私の意識はすでに宇宙空間へと到達しているのであった。そして少しだけ気怠いけれどもさほど不快でもなくむしろどちらかといったらば清々しく爽快とい

ってもいいような、なんとも不思議な感覚で宇宙空間をふわふわと漂い続け、青く丸い地球全体を俯瞰しながら、私の意識はその地球をとっても美しいと思うのであ

った。もっとも、その青く丸く美しい地球のヴィジュアル・イメージは少し前に図鑑の中で見た地球のヴィジュアル・イメージをそっくりそのまま拝借してきたもの

に過ぎなかったが。それから私はすでに硬さを失ってぐったりといつもの大きさに戻ってしまった白いアスパラガスのような私の小さなペニスから名残惜しそうに指

を離してからも、しばらくの間は少しばかりの罪悪感をともなったふわふわと得も言われぬ快感の余韻にうっとりと浸り続け、それから私の意識は宇宙空間をふわふ

わと漂いながら最後の力を振り絞るかのようにその青く丸く美しい地球を、えいや!と消滅させた上に、さらにこの際ついでと言わんばかりに数多の星が光り輝く無

限に広がる宇宙空間そのものまでもを、えいや!と消滅させて、私の頭の中には完全なる暗闇、すなわち「無/Nothing」が訪れて、その時、一瞬だけすでに消滅させ

たはずの家族の誰かの寝言が聞こえたような気がしたけれど、私の意識はそんなものにはもう耳を貸している暇などはもはやなくなってしまっていて、やがて私の意

識さえも完全なる暗闇にゆっくりと飲み込まれるのように静かに消滅していって、そして私のすべてが跡形もなくなって、ようやく私は深い眠りに落ちるのだった。

この幼少時の私の淫らな『夜の果ての旅』はその後もしばらくの間毎晩続けられたが、人間という生き物はどんな環境にもすぐに馴染んで染まっていってしまうもの

であり、次第に私は学校生活にも慣れていって、夜中に目が覚めて眠れなくなることもほとんどなくなるわけだけれども、大人になった今でもごくたまに夜中にはた

と目が覚めて眠れなくなっては昔を思い出し、久方ぶりの淫らな『夜の果ての旅』をはじめようと試みるも、どういうわけであろうか、どんなにがんばってみても、

幼少時のような完全なる「無/Nothing」を再び私の頭の中に想像/創造することが難しくなってしまっており、おそらくそれは消滅させるにはあまりに多くの人や物

事を私は知り過ぎてしまったからに違いないのであった。ちなみに、ルイ=フェルディナン・セリーヌ『夜の果ての旅』は20年前に買って一度も読んだことがない。

2020. 7

 

 

 

 

 

07.『Wet Dream / 人間椅子 (仮)』

 

 

私は人生の酸いも甘いも経験し世の中の薄汚い裏側も散々目にしてきて、いささか草臥れ果ててはいるものの、いたって健康な現在40過ぎもうすぐ50に手の届く、

もういい歳をした立派な大人であると自認するところであるけれども、これまで生きてきた間に夢精を3回経験したことがある。過去に他の男性たちと夢精について

の熱い議論を戦わせた経験が一度もないため、実際のところ、この3回という数字が多いのか少ないのか私にははっきりとしたことは言えぬが、何の根拠もないけれ

ど、おそらく私は夢精をしにくい体質の人間であると思われるのだった。私の人生における生まれて初めての夢精はある日突然やって来たのだった。あれはたしか中

学3年の時だったと記憶しているが、当時の私は陰毛がチラホラと生えかけてはいたものの、現在のようにモジャモジャと生え揃っていたわけではなく、精神的には

まだまだおそろしく未熟であったけれども、もうすでに精通はしており、つまり射精をすればしっかりと精液がドピュッと分泌される、肉体的にはもうすでに大人の

体になりかけてはおり、マスターベーションにも人並にせっせと勤しんでいたものであった。私がマスターベーションを覚えたのはたしか小学校1年の頃からで、精

通したのがだいたい小学校6年くらいからチョロチョロ液体(つまり精液)が漏れ出しはじめてきて、それと時を同じくして陰毛もチラホラと生え出してきて、14歳の

中学3年だったその当時もペニスは完全なるズルムケ状態というわけにはいかなかったが、剥こうと思えばいつでも剥けるといった状態、いわゆる仮性包茎と呼ばれ

る状態で、皮はかぶっていたりかぶっていなかったりと、とにかくいつも気まぐれで、それは大人になった今現在でもたまに精神的にショックなことが起こったりす

ると皮がかぶった状態に突然逆戻りしてしまうことも多々あるわけだが、でもその話はここではあまり関係ないのでひとまず置いておくことにして、とにかくその頃

の私は大人ぶったり子供ぶったり中途半端で不安定な思春期と呼ばれる季節のまっただなかにあって、風が吹けば勃起してしまうほど繊細で敏感で健康的で、性に関

してはとにかく異常に興味津々のむっつりスケベな14歳の中学3年生であり、そして、当然のごとく童貞でもあった。そんなある日の午後、学校から帰宅し受験勉強

に励んでいた私は勉強の息抜きに読書をはじめたのだった。読んでいた本は近所の区立図書館で借りてきた江戸川乱歩の『人間椅子』という小説であり、それはまさ

しく私にとっての生まれて初めての江戸川乱歩エクスペリエンス(体験)なのであった。その頃すでに学校の悪友たちとよく江戸川チンポとか江戸川マンポとかエロガ

ワチンコとかエロガワマンコとか本当にどうしようもなく卑猥でくだらない低レベルの冗談を言い合って遊んでいたり、また、天地茂が明智小五郎役の江戸川乱歩シ

リーズ『黒蜥蜴』という2時間TVドラマを家族揃って見ている時に、謎の仮面男がマダムに襲いかかるエロティックなシーンが突然TV画面から流れてきて、家族全員

がシーンと黙ってしまうという誰しもが一度は経験するであろう気まずい瞬間もすでに済ませており、その江戸川乱歩という一風変わった奇妙な作家の名前だけはか

なり以前からよく知っていたものの、英文学作家のエドガー・アラン・ポーをもじってパクった名前であったと知ったのはかなり後になってからで、ルパン三世のモ

ンキー・パンチが日本人だと知るよりももっとずっと後のことであったが、ともかく私が実際に江戸川乱歩の作品を読むのはその時が生まれて初めてなのであった。

これまた一風変わった題名を持つ『人間椅子』という作品は、数ある江戸川乱歩の作品の中でも特に短い短篇小説で、読むとわかるけれど、何というか非常にエロテ

ィックな作品なのであった。直截的なエロティックな描写はほとんどなかったものの、当時14歳中学3年の陰毛も生え揃っていない、皮も完全なるズルムケ状態では

なく皮がかぶっていたり皮がかぶっていなかったりと、とにかくいつも気まぐれで、おまけに受験前で情緒が不安定な思春期のまっただなかにあった私にとっては、

過度にエロティックで精神的に奥深い繊細な部分をドヨーンとやられる感じの内容の話であり、正直に言ってしまうと私はかなりの衝撃を受けてしまったのだった。

その衝撃があまりにも強烈であったせいなのか、はたまた、日頃の受験勉強のストレスや疲れのせいかなのか、よくわからなかったが、あっという間に引き込まれあ

っという間に読み終えた直後に私はまるで気絶するかのように突然短く深い眠りへとストンと落ちていったのだった。そして、私はその夢を見る間もないほどに短く

深い眠りの中で、私にとっては生まれて初めてとなる夢精を経験したのであった。その時の私にとって生まれて初めての夢精は、いまだかつて経験したこともないと

てつもない、もうぶっ飛んじゃうほどの快楽を私にもたらしたのであった。つまりそれは身も心もトロけちゃうくらい、もう腰砕けになってしばらくは茫然自失とな

り起き上がれないほど、ものすごくものすごくものすごーくものすごーく気持ちが良かったというわけであった。それは普段意図的におこなうマスターベーションに

比べても段違い(数値にするとおよそ10倍くらいか)の気持ち良さであり、その後の人生において私は童貞を失い、もう嫌というほどと言ったら少し大げさになるが人

並に幾度となくSEXを経験することになるわけだけれども、もちろんSEXの気持ち良さにも色々種類があって、何も射精だけに限らず様々な要素の組み合せにより快楽

を得ることが可能なわけであり、何が一番気持ち良いとはっきりと言いいづらいのが事実だけれども、あえて射精する際の気持ち良さだけに限定して言うならば、私

の生きている間におけるもっとも気持ちの良い射精であったことに間違いないのであった。つまりお下劣な話だが、あらゆる女性の膣内での射精、口内での射精、掌

での射精も、江戸川乱歩の想像力による射精には勝てないということになるわけであった。また人間が経験し得る射精以外のあらゆる快楽の中でもトップレベルの気

持ち良さであり、これから先の残り少ない私の人生においてこの14歳中学3年の時の私にとっては初めての夢精の際の射精を凌駕する気持ちの良い射精が私に訪れる

のかどうか、射精だけに限らず他の快楽をすべて含めてもこんなにも気持ちの良い経験が今後私に訪れるのかどうか心配になるくらい、それはそれは気持ちの良いま

さにメモリアル的な射精なのであった。そんなふうに、私にとっては生まれて初めて経験した夢精の快楽の余韻にうっとりと浸りながら、精液に塗れたブリーフ型パ

ンツを母親に見つからないようにこっそり洗面所で洗い、今までとはひと味違う少しだけ大人になったような気分で、江戸川乱歩の恐るべきすごさ、ひいては文学の

力、藝術の力を身に沁みて思い知らされていたところ、玄関のほうから母親が外出先から帰って来たような物音が聞こえてきたので、私は少しだけ慌てた様子で洗い

かけのブリーフ型パンツを洗濯機にいささか乱暴に放り込み、2階にある勉強部屋へと少し早足で向かいながら、はたして母親は洗濯機の中に汚れた私のパンツをめ

ざとく見つけ一瞬ですべてを悟るであろうか、とそればかり考えているのだった。それ以後、私は私の人生において後2回夢精を経験することになるのだけれども、

その2回ともに私の14歳中学3年の生まれて初めての夢精の際のあの素晴しいメモリアル的な射精の快楽には遠く及ばず、それ以外のあらゆる快楽の中でもあれほど

の気持ちの良い快楽を私は他に経験したためしがなく、しいて言うならば5年に1度くらい、もしかしたら自分は天才なんじゃないかと自分でもビックリするくらい心

から素晴しいと思う絵が描けた瞬間に感じる快楽があの時の快楽にもしかしたら匹敵するのではないかというくらいではあるけれど、それとこれとを比べるには少々

ジャンルが違いすぎるきらいがないわけでもなく、やはりあの時14歳中学3年の私にとって生まれて初めての夢精にともなう、あの身も心もとろけるような腰がヘロ

ヘロと砕けて脳みそがバーンとぶっ飛んでしまうほど気持ち良かった快楽が、私の生涯におけるベストでメモリアルな快楽であったと私は確信せざるを得ないのだっ

た。その後、私が江戸川乱歩を読んで夢精する機会は二度と再び訪れることもなかったけれども、今でも時々池袋の立教大学横にある江戸川乱歩旧居の蔵の横を自転

車でフラリと通りかかるたび、私はあの時14歳中学3年の私にとって生まれて初めての夢精の得も言われぬ気持ち良さを思い出しては、江戸川乱歩のすごさに思わず

苦笑を漏らしながら、処女を捧げた初めての男を思い出して頬を赤く染めるうら若き乙女のような気分で自転車を漕ぐスピードを上げて足早に走り去るのであった。

2020. 7

 

 

 

 

 

06.『Living Hell / 人生は地獄よりも地獄的である (仮)』

 

 

 

芥川龍之介が35歳の7月の終わりに当時田端にあった自宅で服毒により自殺した時、友人の内田百閧ェ「こんなにも暑いから、きっと腹を立てて死んだのだろう」と

いった主旨の追悼文を書いたことはあまりに有名な話であるが、芥川龍之介の遺書に書かれてあった「僕の将来に対するただぼんやりとした不安」というのが「(性病

に罹っているかもしれない)僕の将来に対するただぼんやりとした不安」であったことはあまり知られていないようである。もちろん生きていれば性病以外にも不安な

要素は星の数ほどもあっただろうと容易に推測されるが、とにかく夏はただでさえ暑くて苦しいところを、さらに性病にまで苦しめられていたとしたならば、そりゃ

なおさら死にたくなるのも無理もなかろうと甚だ無責任かつ他人事ではあるが私もそう思うのであった。今からちょうど13年前、私が、芥川龍之介が自殺した当時と

同じ35歳だった7月の終わりも、うだるような暑さが毎日続き、私も死にたくなるほど暑さに対して腹を立てていたものであった。もっとも、私が腹を立てていた対

象は夏の暑さだけにはとどまらず、仕事関係、人間関係、金銭関係、女性関係など、それまでろくでもない人生を歩んできた私にとっては日常茶飯、毎度毎度のこと

ではあったが、非常に多方面に渡っており、悩みの種は尽きることがなく、私も「将来に対してただぼんやりとした不安」を少なからず抱え込んでいたものだった。

私は27歳の時、たまたま読んだ坂口安吾の『白痴』に背中を押されるかのごとく、芸術家になる!と宣って、それまで6年間勤めてきたフランク・ザッパのバンド名

から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)を辞めたにもかかわらず、その後は放蕩無頼、無為徒食の生活の果て、ブザマにも再び広告業界に舞い戻っ

てしまい、その二度目に勤めた広告映像企画制作デザイン会社、スーパー・デジタル・カンパニーでは社長とケンカをし1年足らずで追い出され、その後は会社勤め

ではなくフリーランスという立場で広告業界の片隅に細々と身を置き続け、その間、藝術家的活動などは一切行わず、絵1枚落書きすらもいたずらに描き散らかすこ

ともなかったところ、27歳で無謀にも芸術家宣言してから6年あまりが経過した33歳の夏になってようやく絵を描きはじめたわけだけれども、私は今まで絵の勉強な

ど一切学んだことがない独学でまったくの自己流であったものだから、すぐさま高くて硬くてぶ厚い巨大な壁にぶち当たってしまって、無知で脆弱な私はその壁にや

みくもに力づくで体当たりしてみたり、どこかに抜け穴はないものかと刑務所からの脱獄をはかる囚人のごとく夜中にコソコソ蠢いてみたり、誰も見てやしないのに

自分には絵の才能なんてないのだと筆をパキッと折り悲嘆に暮れるポーズを気取ってみたり、おまけに、今の世の中では魂を売ることなく純粋に描きたい絵だけを描

いて食べて行くことなど余程の才能がなければ容易いことではなく、絵を描きはじめて藝術の道に足を踏み入れたはいいけれど、これから先の将来どうやって生きて

いけばよいものやらまったくわからず再び路頭に迷ってしまっており、その35歳の夏も相変わらず私は悶々とした日々を送っていたものであった。さらに加えて、と

にかく暑くて暑くて仕方がなかったにもかかわらず、私は昔から自宅では夏でも冬でもどんなに暑くともどんなに寒くとも、基本的にエアコンディショナーの類いは

一切使用しない主義/イズムを貫き通しておって、それはろくでもない罪深い存在であるところの自分自身を痛めつけて罰してやりたいと願うサディズムだかマゾヒズ

ムだかどちらかわからぬような快楽的な主義/イズムなどではなくて、ただ単にエアコンディショナーによる不自然な温度調節が私の体質に生理的に合わないからとい

う理由にすぎなかったというのと、それからもう一つ、夏には汗をたくさんかいてかいてかきまくって日頃体内に鬱積したよくないものたちを汗と一緒に排出してや

らなければならないというデトックス的なる強迫観念に囚われてもいたからであり、その夏も私は安い扇風機1台でそのうだるような死にたくなるほどの猛烈な暑さ

をいつもの夏のようになんとかやり過ごすことに決めていたのだったが、7月の終わりの時点でこんなにも暑くては、これから先この暑さが8月丸々1ヶ月、9月の終

わりまで丸々計2ヶ月以上も続くのかと思うと、自分で自分の首をしめているとはいえ、もう本当にうんざりと絶望的な気分になるばかりなのであった。暑さに腹を

立てて自殺してあの世へ逃げてしまった芥川龍之介と比べて、私の希望(救い)といっては、性病に罹っていないという事実ただその一点くらいしかないのであった。

そんな折、何かの用事があって田端近辺へ出向くこととなった、その当時35歳の私は、この機会に芥川龍之介が自殺した自宅があった辺りを散策してみようと唐突に

思い立ち、死にたくなるほど暑い日差しが照りつける7月の終わりの真っ昼間のアスファルトの道を田端方面へと自転車に乗っかってフラフラと向ったのであった。

田端という街は、行けばわかると思うが、とらえどころがないというか、まとまりがないというか、何というか、複数のJRの線路や幹線道路によって街自体が分断さ

れていたり、同じ街であるのに場所によって高低差が非常に激しく、街を代表する商店街らしきものも駅前バスターミナル脇に飲食店がチラホラと見受けられる他は

ほとんどまとまってはおらず、近辺に何か有名なアイコン的な建物も存在してはおらず、とにかく取り留めがなくとっ散らかったような、街としての体裁をなしてい

ないというのが私の印象なのであった。それゆえに、芥川龍之介の自宅があった場所を散々探して回って辿り着くのにも這々の体であったわけだけれども、7月の終

わりの死にたくなるほどのうだるような暑さの中、中途半端に再開発されたこじんまりとした住宅街の入り組んだ路地の片隅に「芥川龍之介旧居跡」と記された、と

ってつけたような安直な標識を発見した時、私は「情緒もへったくれも何もあったものではないな」と大いに拍子抜けしたものであった。その時、7月の終わりの真

っ昼間の日差しに執拗に照りつけられる35歳の私は、芥川龍之介が35歳で自殺した7月の終わりに、芥川龍之介が自殺した自宅跡にぼんやりと立ちつくし、7月の終

わりの真っ昼間の日差しに目眩をおぼえながら、芥川龍之介が死にたいと思ったほど暑い7月の終わりの暑さと、「芥川龍之介旧居跡」と記された標識の情緒もへっ

たくれもないとってつけたような安直さに対して、死にたくなるほど腹を立てていたのであった。そして、その帰り道、なんとも摩訶不思議な出来事が起こったので

あった。田端と私の自宅のちょうど中間地点辺りに位置する寂れた商店街をフラフラと走行中の私の自転車が、なんと、突然何の前触れもなくバリバリと雷に撃たれ

るかのごとく、もの凄い轟音を立てたかと思えば、たちまちまっぷたつに割れてしまったのであった。その時私の乗っていた自転車はいわゆるミニベロと呼ばれるタ

イヤが20インチの小型折り畳み自転車(ブリヂストン社製)であり、7年以上愛用し乗り続けている間一度たりとも折り畳んだためしがなかったが、その折り畳む時に

折り畳まれる部分、ちょうど自転車の中心部分から、前後きれいにまっぷたつに割れて分離してしまったのであった。突然まっぷたつに割れて分離した自転車を平然

と乗りこなすことができるほどのサーカスの曲芸的な腕前を私が修得しているはずもなく、私は無惨にも焼けつくように暑い7月の終わりのアスファルトの道端へと

放り投げだされ、商店街を歩く通行人たちの好奇のまなざしを一心に集めながら尻餅をつき、さらに、自転車がまっぷたつに割れる瞬間の非常に強烈な衝撃がサドル

から私の股間(とくに二つの睾丸つまりキンタマ)へとダイレクトに伝わってきたため、私の股間(とくに二つの睾丸つまりキンタマ)には気絶するかと思われるほどの

激痛が走り(キンタマに衝撃を受けた経験のある男性ならばきっとこの痛みを想像できるに違いない)、一体全体何が起こったのかすらわからずに、遠のく意識の中、

私はただ股間を両手で強く押さえつけ悶絶しながら、泣きべそをかきオロオロとするばかりなのであった。35歳の7月の終わりの暑さに腹を立てて自殺した芥川龍之

介の自宅跡を、7月の終わりに訪ねたその帰り道、35歳の私の乗った自転車が走行中、何の前触れもなく突然まっぷたつに割れたことと、芥川龍之介との間に何らか

の因果関係があったのかそれともなかったのか、その時の私にも現在の私にも判断のつけようもないのだけれど、その時通行人たちの好奇のまなざしに晒されて火が

ついたように熱く燃えあがった35歳の私の羞恥心と、尻餅をついたアスファルトから35歳の私の尻へとジリジリと伝わってくる7月の終わりの真っ昼間の燃えあがる

灼熱と、自転車がまっぷたつに割れる時に受けたジンジンと焼けつくような股間(とくに二つの睾丸つまりキンタマ)の痛みと疼きが、私の体内で混ぜこぜになってご

ちゃ混ぜになって火に油を注いだかのごとく一気に爆発的に燃えあがり、その相乗効果で私の全身はもう本当にとんでもない状態になってしまっており、そして、そ

の時になってようやく初めて、35歳の私は、35歳の7月の終わりのうだるような暑さに腹を立てて自殺した芥川龍之介の、性病までもをしっかりと含めた、本当の苦

悩を理解できたように思えるのだった。その時、7月の終わりのアスファルトに尻餅をつき股間を両手で押さえつけながらのたうちまわる私の頭の中では、芥川龍之

介のある有名な言葉が、延々とリピート再生され続けるのだった。「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的

である」「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄

よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的である」

「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的である」「人生は地獄よりも地獄的である」、人生に対し中途半端にちっぽけな希望を抱くからこそ、

まんまと裏切られ失望し絶望するのであるからして、初めからすべてをあきらめて生きていくのが得策であるといった意味なのであろうか。最後にこの話とは直接関

係ないけれど、多くの日本人が、部屋の壁に蜘蛛を発見しても決して殺したりはしないのは、おそらく芥川龍之介の『蜘蛛の糸』を教科書か何かで読んでいるからに

違いなく、将来万が一地獄に堕ちた時、姑息にも助けてもらおうと、生きている今のうちから恩を売りつけているのであろう。人間というのは現金な生き物である。

2020. 7

 

 

 

 

 

05.『Shinjuku / 新宿 (仮)』

 

 

私は生まれつき髪の毛の量が異常に多くて、どれくらい多いかといえば、普通の人の平均的な髪の毛の量のおよそ1.5~2倍もあるようで、散髪屋へ行くたびいつも必

ず、お客さんは絶対にハゲませんよ、私が保証しますよ、と太鼓判を押されながらスキばさみで髪の毛を大量にバッサバッサとすいてもらうのが恒例となっており、

帰りがけに、ほおら、お客さん、ほんとすごいでしょう、こんなに、と指さされ、床に落ちている大量の毛髪に目を遣れば、たしかにものすごい量であり、これだけ

これでもかこれでもかというほどすいてもらってもまだ頭に大量に毛が残っているという事実に私はまず驚き、そして人間の体の仕組みでは大事な所に毛が生えるよ

うになっているはずだから、きっと私の頭の中にはとてつもなく大事なものがいっぱいぎゅうぎゅうに詰まっているのであろうと手前勝手に結論づけるのであった。

また、髪の毛の量が多いがゆえに、私はカツラ疑惑をかけられることが頻繁にあるのだけれども、残念ながら、私の髪の毛は正真正銘の自前の髪の毛なのであった。

今から数年前のこと、その時少しまとまった額の金が急遽必要となった私は、ほうぼうへ金策に駆けずり回っていて、その金策のひとつとして、自宅にある大量の書

物を売却処分してしまおうと思い立ち、買い取ってもらえる古書店を色々探し回っていたのだが、実際に買取サービスをおこなう古書店はたくさん存在するものの、

一度で済まそうとすれば悪徳業者に足元を見られて驚くほどの安価で買い叩かれるのがオチなので、私は案を巡らせた末に自宅にある大量の書物をヤフーオークショ

ン!(通称ヤフオク!)に出品し地道に金に換える方法を選択することに決めたのであった。さっそく私は自宅の倉庫部屋に山と積まれた大量の書物の中から、売る本

と売らずに手許に残しておく本とに選別する作業をはじめ、その途中、とある1冊の本が私の目に留まったのであった。その本は森山大道という写真家の写真集『新

宿』の初版であり、記憶を辿れば、たしかその数年前に当時交際していた女から誕生日プレゼントとして贈られたものに違いないのだった。森山大道の写真の特徴は

「アレ、ボケ、ブレ」であることが有名だけれども、その「アレ、ボケ、ブレ」という特徴は図らずも私の絵にもそっくりそのまま当てはまる特徴でもあったため(も

っとも私のほうのボケは頭がボケているという意味でのボケであったかもしれぬが)、33歳で絵を描きはじめるようになった私にとって、森山大道という存在は常に

気になる、畏れ多くも偉大なる憧れの存在であり、さらにおこがましいのを承知で思い切って言わせてもらうならば、よきライバル的存在でもあり、また森山大道の

もうすぐ80歳になろうとは到底見えぬほどまっくろフサフサの髪の毛(この際だからついでに告白してしまうけれども、私は自分のカツラ疑惑を棚に上げておいて森

山大道は絶対にカツラに違いないと疑いの目を長年向けていたものであった) が私の異常に量の多い髪の毛と相通ずるものがあって、とても他人とは思えない親近感

を大いに抱いてもいたために、交際相手の女から誕生日プレゼントとして森山大道の写真集『新宿』を贈られた時、私はもう飛び上がらんばかりに喜んでしまって、

交際相手の女に対して「さすがに付き合いが長いだけあって私のことをきちんと理解しているではないか、大したものだ、褒めてやらねば」とほんの束の間ではあっ

たが好感が増したものであった。そんなこんなを回想しながら、本の整理中たまたま写真集『新宿』を手にした私の頭の中には、次々と、交際相手の女から誕生日プ

レゼントとして写真集『新宿』を贈られた日の光景がまるで昨日のことのようにまざまざと甦ってくるのであった。例えば、誕生日プレゼントとして写真集『新宿』

を渡されたのが二人で鎌倉を訪れた時であったことや、写真集『新宿』は非常に分厚く重たい写真集で重さが1.8kgもあり、渡されたはいいけれども結果として渡さ

れた側の私としては鎌倉を散策中ずっと重たい荷物を一つ余計に背負わされる羽目となってしまって、内心私は交際相手の女に対して「まったく相手の気持ちを思い

遣るという人としてもっとも大事なことができない気の利かぬ鈍感でバカ女だな」と憎々しく思っていたことや、続けて「でも別に悪意があったわけでもないし仕方

がないのかもしれないな、まあせっかくの誕生日だし文句は言わずに今日のところは大目に見ておいてやろうかな」と思ったことや、それから、他にも、鎌倉駅前商

店街入口の喫茶店のホットケーキがチーズケーキみたいでおいしかったことや、銭洗弁天近くの素人が趣味で開いたようなレストランで食べたランチが死ぬほどまず

かったことと店主の感じが異常に悪かったことや、大仏の体内の薄暗闇で人目を盗んで女の尻に手を伸ばしたことや、大仏のすぐ横にある土産屋の奥で場違いに売ら

れていた本格的な古刀剣を女が衝動買いしようとするのを私が必死に説得してやめさせたことや、真冬だというのに女がむらさきいも味のソフトクリームを見かける

たびに何度も(たしか3本ほど)買って食べ歩いていたことや、1月の終わりの真冬の海風は凍えるほどに冷たくてプルプル震えながら女の体温をとてもありがたく感じ

てこのまま二人どこか遠くへ逃げて行ってしまいたいなと私が思っていたことや、江ノ島に行きたいとせがむ女とあんなところは人が多くてがっかりするだけだとう

んざりする私とが少し揉めて結局行かずに女が不貞腐れていたことや、お土産に鳩サブレーを買った女がいきなり袋をバリバリと破いてその場でボリボリ食べはじめ

て、すかさず私が「それ、お土産じゃねえのかよ!」とツッコミを入れたことや、夕飯に女に誕生日のご馳走をしてもらったシラス丼が生シラスではなかったので、

夏になったら今度は生シラス丼を食べに来ようねと女と約束したけれど、それも結局叶わなくなってしまったことや、酔っ払って欲情してしまった私がどこかホテル

に泊まって行こうと提案するも女に明日朝早いからとすげなく断られて帰りの電車の中で性欲を持て余した私が重たい『新宿』(重さ1.8kg)を手に少しイライラしてい

たことや、女が森山大道とおそろいだというコンパクトフィルムカメラでバシバシ撮りまくっていた写真に何が写っていたのか結局確認できずに別れてしまったこと

などを思い出しながら、写真集『新宿』(重さ1.8kg)のページをパラパラとめくり新宿歌舞伎町のざらついたモノクロームの風景に目を遣り「そういや、そもそも、こ

の女と初めて出会ったのが他でもない新宿歌舞伎町だったんだっけな、たしか椎名林檎の『歌舞伎町の女王』が大好きだとか言ってたっけな」と私は少しばかりセン

チメンタルな気分になって遠い目をしたりもするのだった。そのような思い入れの非常に強い森山大道の写真集『新宿』(重さ1.8kg)であったわけだけれども、当時金

に少しばかり困っていた私は、背に腹は代えられぬと泣く泣く断腸の思いで森山大道の写真集『新宿』(重さ1.8kg)もヤフーオークション!(通称ヤフオク!)に出品す

ることに決めたのだった。そして、森山大道の写真集『新宿』(重さ1.8kg)をヤフーオークション!(通称ヤフオク!)に出品してから1週間ほど経ったある日のことで

あった。あいかわらず金策に駆けずり回っていた私が池袋の外れをフラフラと自転車で走行中、ふと視線を向けた3m先をどこかで見覚えのある、私をとても懐かしい

気持ちにさせる、とある人物が歩いているところに偶然出くわしたのであった。その私をとても懐かしい気持ちにさせる人物は、黒いジーンズを履き、黒いタートル

ネックのセーターを着て、おまけにカツラではないかと見紛うほどまっくろフサフサの髪の毛の持ち主なのであった。自転車をこぐ足を止め無遠慮な視線を送る私の

熱いまなざしに気づいたものか、その全身黒ずくめのカツラと見紛うほどまっくろフサフサの髪の毛を持つ人物も一瞬歩みを止め私に熱いまなざしを向けてきたのだ

った。おそらく5秒から10秒くらいであったろうか、我々二人の熱いまなざしは空中で互いに、まるでこれから路上でSEXでもおっぱじまるのではないかと周りの通

行人たちがそわそわと気を揉むほど熱く深くガッチリと絡み合ったのだった。そう、つまり、私と森山大道は池袋の路上で5秒から10秒ほど熱いまなざしを互いに交

わし合っていたというわけであった。そして、その5秒から10秒というほんの短い間に、私は森山大道のまっくろフサフサの髪の毛が決してカツラではないことを一

瞬で見抜いてさとり、おそらく森山大道のほうも私のまっくろフサフサの髪の毛が決してカツラではないことを一瞬で見抜いてさとったに違いないのであった。その

時、互いに言葉は一言も交わさずとも、5秒から10秒間、互いに熱いまなざしを交わし合い、まるでこれから路上でSEXでもおっぱじまるのではないかと周りの通行

人たちがハラハラドキドキと気を揉むほど熱く深くガッチリと見つめ合った私と森山大道二人の間には、奇妙な友情のような感情が確実に芽生えはじめていたのであ

った。その厚い友情を胸に抱え興奮さめやらぬまま自宅に戻った私は、手洗いうがいもとりあえずうっちゃって、ただちにヤフーオークション!(通称ヤフオク!)に

出品中でまだ誰も買い手がついていなかった森山大道の写真集『新宿』(重さ1.8kg)の出品を取り下げたのだった。池袋の路上で5秒から10秒熱い視線を絡ませ合い、

互いに厚い友情と決してカツラではないという紛れもない事実を確認し合った「大親友・森山大道」の熱いまなざしを、今度こそは本当にもう他人とは思えぬような

非常に強い親近感(いやこれはもう愛/Loveと呼んでしまってもよいかもしれないな)を伴って、まるでSEXしたあと相手のことを思い出しては勃起してしまうような、

そんな感覚で何度も鮮明に思い出しながら、私は以前よりもさらに愛着の増した森山大道の写真集『新宿』(重さ1.8kg)のページを丁寧に1枚1枚愛する女の体を愛で

るようにゆっくりとめくっていくのであった。ちなみに私がヤフーオークション!(通称ヤフオク!)に出品した際に森山大道の写真集『新宿』(重さ1.8kg)につけた価

格は10万円であったのだけれども、つまり私は森山大道の写真集『新宿』(重さ1.8kg)を手放すつもりなど初めからさらさらなかったというわけなのであった。今で

も手許にしっかりと残してある森山大道の写真集『新宿』(重さ1.8kg)のページをパラパラとめくる度、私はあの時の森山大道の熱いまなざしと、カツラと見紛うほど

まっくろフサフサの髪の毛と、あの時交わし合った二人の厚い友情と、それから、ついでに私に森山大道の写真集『新宿』(重さ1.8kg)を贈ってくれた女のことを思い

出しては胸を熱く騒がせたりもするのだったが、一方の「大親友・森山大道」のほうはどうかと言ったら、 私と熱いまなざしと厚い友情を交わし合ったことなどはも

ちろんのこと、私の存在すらも記憶に留めているはずもないことは火を見るよりも明らかであり、そして、そのことは、私の誕生日に森山大道の写真集『新宿』(重さ

1.8kg)を贈ってくれたあの気の利かない女に関してもまったく同様で、私のことなど記憶に留めているはずもなく、とっくの昔に忘却の彼方であるに違いないのであ

った。最後に蛇足ながらもつけ加えるならば、森山大道の写真集『新宿』をプレゼントされたことがあまりにもうれしかった私は、後日その返礼として(普段はキリが

なくなるからそんなことは一切しないがその時は特別で)、池袋の古書店で偶然見つけた森山大道のエッセイ『犬の記憶』の文庫本を500円で購入したのち、本の最終

ページ右上に鉛筆で小さく書き込まれた「¥500」という価格に「0」を1個こっそり鉛筆で書き加えて「¥5000」としたうえで、女にプレゼントして返すと、女は

「わー、うれしいなー!でもいいの?こんなに高いのに、なんだか悪いなー、『新宿』と値段そんなに変わらないよー、でもうれしー、すごくうれしいんだけどー、

ありがとー、ほんとにありがとー!」と何にも知らずに大喜びで私に抱きついてきて、そんな間抜けた笑顔を思い出すにつけ、私もつられて笑顔になるのであった。

2020. 7

 

 

 

 

 

04.『Raw Power / 音楽の力、藝術の力 (仮)』

 

 

私が物心つく幼少の頃から家には横幅2mを優に超す巨大なスピーカーアンプ内蔵一体型の四つ脚レコードプレイヤー(犬のマークが付いていたからおそらくビクター

社製)が部屋の片隅をドーンと占領しており、私は1歳上の兄とよく『およげ!たいやきくん』やら『いっぽんでもニンジン』やら『秘密戦隊ゴレンジャーの主題歌』や

ら、他にも少し背伸びして父親のレコードコレクションからこっそり拝借してきた山口百恵『横須賀ストーリー』いしだあゆみ『ブルーライト・ヨコハマ』やらをレ

コードプレイヤーに乗せてはせっせと聴き入って、時にレコードに合わせて歌ったり踊ったりして楽しんだものであった。幼稚園に入ると授業やお遊戯会などでみん

なと一緒に歌ったり踊ったりするのが大の苦手で、私は幼心に、なんでこんな恥ずかしいことをやらされなくてはならないのだろうか、と思いながら、あからさまに

嫌々歌ったり踊ったりしていて、いつも先生からは連絡帳に、もっとみんなと元気に仲良く歌ったり踊ったりできるようになるといいですね、と毎回毎回しつこいほ

ど注意を受けていたものだった。小学校に上がっても学芸会や発表会でみんなで一緒に歌うのが本当に恥ずかしく嫌で嫌で仕方がなく、そんな時はいつも酸欠の金魚

みたいに口だけパクパクさせてみたり、腹から声は出さずに喉から中途半端な蚊の鳴くような情けない声を出して誤摩化してばかりいたものだった。また、音楽の授

業で一人ずつピアノの横に立たされて歌わされることも本当に恥ずかしく嫌で嫌でたまらなかったが、この時はひとりっきりなのできちんと歌わないとバレてしまう

ため、なるべく腹から声を搾り出すようにして歌うと、音楽教師から「君はとってもいい声をしてるんだから恥ずかしがらずにもっと胸を張って堂々と歌いなさい」

と思いがけず褒められたりもして、私は少しばかり照れながらも非常に驚いたものであった。中学校に上がる頃になるとFMラジオから流れてくるヒットソングをカセ

ットテープに録音したり、レンタルレコード店でマドンナとかワム!とかA-haとかマイケル・ジャクソンとかブライアン・アダムスとかティアーズ・フォー・フィア

ーズとかREOスピードワゴンなど当時流行していた洋楽のレコードを借りてきてはせっせとカセットテープにダビングしてテープが伸び切ってピッチが変わってしま

うほど無心に聴き込んでいたものだった。たしか私が高校に上がるか上がらないかの頃にCDプレイヤーというものが登場してきたので、さっそく安物を小遣いはたい

て購入してみたものの、アンプとスピーカーがなければ音が出ないことも知らずにダマされたと大騒ぎしたこともあった。生まれて初めて自腹を切ってCDを購入した

のはちょうど高校1年の頃だったと思うけれども、たしか尾崎豊とか長渕剛とか日本のロックと呼ばれるジャンルの音楽の中から、一度レンタルで借りて聴いてみた

上で気に入ったCDを散々迷った末に、清水の舞台から飛び降りる気持ちになって、なけなしの小遣いをはたいて購入して聴いていたものだった。その当時、というか

今現在もそうだけれども、矢沢永吉が日本のロックのカリスマ的存在として崇め奉られていたから、試しに借りて聴いてみたところ、たまたま借りたアルバムが悪か

ったのかも知れぬが、私には全然ロックを感じなくて何だかしみったれた演歌みたいに聴こえてしまって、それ以降、矢沢永吉は一切聴くこともなくなるのだった。

高校を卒業し一浪の末に某バカ田大学に入学したものの、人が大勢いるのが大の苦手であるという理由からすぐに中途退学したのち、飢えた野良犬のごとく街をフラ

フラとうろつき回っていた頃、ギターでも弾けば自分の中の何かが変わるんじゃないかと突然思い立ち、近所の楽器屋でヤマハ製の安いアコースティックギターを衝

動買いしたものの、残念ながら私には生まれつき音感というものがまったく備わっていなかったようで、弦をチューニングする段階で潔く挫折して、2、3度ギターを

ロッケンローラー気取りで乱暴にかき鳴らし弾く真似をしたのち、そのまま物置にほっぽらかしにし、それからは楽器を弾こうなどという大それた考えを抱く機会は

二度と訪れることもなく、聴く側に徹するのだった。その後、何の因果か間違いからか、TV-CM制作会社に就職し社会人になってから20代半ば頃までは、巷でカラオ

ケが大流行していたため、なるべくカラオケで歌えるような、今考えると本当にクソみたいなろくでもないくだらないJ-POPと呼ばれるカラオケミュージックを若気

の至りで好んでよく聴いたりしていて、週末の仕事終わりに2人とか3人とか4人とか少人数のグループで、若い頃は体力だけは無駄に有り余っているものだから、朝

までカラオケボックスで腹から声を出して喉が嗄れるまで歌いまくっては日頃の鬱憤を発散させていると、時折、誰かから「ヘタクソだけどとってもいい声している

よね、胸に響くっていうかさ、ちょっと感動しちゃったよ」と思いがけず褒められたりもして、またしても私は少しばかり照れながらも非常に驚くのであった。海外

のロックミュージックを本格的に聴くようになったのは、たしか26歳の頃からで、ちょうどその頃の私はTV-CM制作つまり広告の仕事が本当に嫌で嫌でたまらず、も

うすでに我慢の限界にまで達してしまっていて、こんなクソみたいなろくでもないくだらない広告業界に身を置き続けていたら、そのうち自分自身までもがクソみた

いなろくでもないくだらない人間に成り下がってしまうのではないかと危惧しはじめて、さっさと広告業界から脱出を図りたいと考えるようにもなっていた時期だっ

たから、おそらく広告業界と同じうさんくさい匂いを感じるカラオケミュージックみたいなクソみたいなろくでもないくだらない音楽ばかり聴いていたら、そのうち

自分自身までもがクソみたいなろくでもないくだらない人間に成り下がってしまうと危惧したものであろうか、ともかく、他の音楽好きに比べるとかなり遅い本格派

デビューであったのはたしかであるが、それ以降はクソみたいなろくでもないくだらないJ-POPと呼ばれるカラオケミュージックの類いとは一切縁を切って(もちろん

特殊な例外も多々あるけれども)、洋楽邦楽ジャンルは一切問わずに音楽雑誌で音楽評論家など専門家の意見を一応は参考にしながら、いわゆる傑作名作と呼ばれ世評

の高い藝術作品としての音楽を、稼いだなけなしの給料のうち家賃や生活費を除いたほとんどすべてを注ぎ込んで、聴きたいと思ったCDは躊躇なくすべて買いまくり

聴きまくり、当時会社のすぐ近所にWAVE六本木店という音楽好きにとっては天国みたいな素晴らしく魅力的な店があったので、仕事をさぼって入り浸っては延々と

視聴しまくったり、片っ端からジャケ買いしてみたり、有名だろうと無名だろうと、売れていようと売れてなかろうと、他人がどんなに褒めようともどんなに貶そう

とも、どんな能書きを垂れようとも、きちんと自分の耳で聴いて一度確かめた上で、良いものは良い、悪いものは悪い、わからないものはわからないと一丁前に自分

なりの価値基準で評価を下していくという決まり事を自分自身の中に設定し、毎日毎日飽きもせず、頭のてっぺんからキンタマの裏っかわ、尻の穴の細かいシワシワ

の間に至るまで音楽まみれのそれはそれはとてつもなく素晴らしく楽しい充実した時間を過ごしたものであった。そして、それから20年以上経った現在に至るまで、

私の音楽に対する向き合い方はその真摯な姿勢を崩さずそのまま貫き通してきており、金の許す限り、時間の許す限り、できる限りたくさんの良質な藝術作品として

の音楽を聴きまくり、今では洋楽邦楽問わず音楽全般のうち藝術作品としての音楽に関しては多少なりとも詳しい人間であると自己紹介できるくらいまでには(もちろ

ん私よりも詳しい人間は他にも山ほどいるだろうけれども、たとえるならばアバンギャルドでとっつき難いことで有名なキャプテン・ビーフハート『トラウト・マス

ク・レプリカ』がポップでメロディアスに聴こえるくらいには)たくさんの良質な音楽に触れてきたと自負しているのであった。今現在でも私は、自宅の自分の部屋に

いるほとんどすべての時間、電話をする時、映画を観る時、風呂に入る時、寝る時以外は、食事中も読書中も仕事中も絵を描く時も、常に部屋に音楽を流し続けてお

り、ただし外出する時には音楽は一切聴かず、それはひとえになるべく雑音が混じらない静謐かつピュアな環境で音楽に対し真摯に向き合いたいと願う私の音楽に対

する敬意(リスペクト)の表れでもあるのだった。そのように長年に渡って洋楽邦楽一切問わず古今東西の傑作名作と世評の高い良質な藝術作品としての音楽をたくさ

ん聴き続けてきた私が身に沁みてわかったことは何かといえば、それは音楽を聴いた時の感動の大きさは、音楽の演奏の上手下手とは一切関係がなく、とにかく作り

手の熱い思いと、作り手の才能やセンスの有無にすべてよるものだということである。つまり、どんなに金をかけようが時間をかけようが、センスや才能のない作り

手によっていい加減な気持ちで作られたものは所詮聴く価値のないその程度の駄作にしかなり得ず、有名無名問わずセンスや才能溢れる作り手によって低予算かつ短

時間で作られたものの中にも少なからず情熱溢れる傑作名作が存在するということである。音楽の作り手がどれだけその音楽を生み出したかったかという情熱と、そ

の音楽を生み出す人がそれまでに何を見て何を聴き何を思い何を考え何を勉強し何に感動しといったその人の経験値(すなわちそれをセンスや才能と呼ぶのだろう)が

融合された成果としての藝術作品となって聴く者の心を動かすのだと私は考えるのだった。そして、そのセンスや才能というものは、よそからかっぱらってきて事足

りるような、そんな生易しく安っぽいものではなく、もっとより神聖なものであり、自分の中にあるそのセンスや才能を、撫でたり愛でたり舐めたり齧ったり棒で突

いたり洗ったり擦ったり磨いたり宥めすかしたり良い栄養を与えたり、時にはわざと傷つけたり危機にさらして試練を与えたりなどしながら長い年月をたっぷりとか

けて育んでいくものであり、そのセンスや才能の育み方は、そのセンスや才能の持ち主がそれまでにどのような経験を積んできたかにすべてがかかっており、つまり

薄っぺらな人生を歩んできた人間のセンスや才能はそれ相応の薄っぺらなセンスや才能でしかなく、見る人が見れば、センスや才能の有無やその程度は一目瞭然すべ

てお見通しなのである。そして、それは他の藝術に関してもまったく同様であり、例えば、その人の人となりや、その人にセンスや才能があるかどうかを見極めるも

っとも簡単で有効な方法は、歌を歌わせるか、絵を描かせるか、文章を書かせるか、いずれかの方法で確認すれば、それは一目瞭然なのである。音楽、絵、文学、映

画、藝術全般、いずれの場合も上手下手など技術的スキルの有無はさほど重要ではなく(もちろん最低限の基本的常識的な技術スキルはあるに越したことはないのだろ

うが)、そんなことは些末な問題であって、とにもかくにも作り手の熱い思いと、作り手のセンスや才能の有無やその程度によって作品の出来栄えのすべてが決定され

ると言っても過言ではないのである。ようするに、身も蓋もないけれど、魅力的な作品を作る人間はその本人も魅力的であり、つまらない作品を作る人間はその本人

もつまらい人間であると言えようか。さらに、音楽、絵、文学、映画、藝術全般の作品に向き合う時に私が常に心掛けているのは、作品を耳で聴くのではなく、目で

見るのではなく、頭で考えるのではなく、作品を体全体つまりは心で感じるということである。頭では理解できないが心と体が否が応でも反応してしまうといった作

品がたまにあるけれど、そういった素晴らしい作品に出会う度に私は生きていてよかったと決して大げさでもなく思ってしばらくの間は感動の余韻に浸ってとてもい

い気分でいられるのである。そういった作品は世の中にそれほどたくさんあるわけではないけれども、そのような素晴しい作品にできるだけたくさん出会うために、

私は日々時間の許すかぎりできるだけ多くの藝術作品に触れるよう心掛けているのだった。私が33歳の時、初めて絵を描きはじめた瞬間のことを今でも私はまるで昨

日のことのように生々しく覚えている。当時の私はまだ広告業界の片隅でフリーランスという立場で細々とTV-CMの企画や演出などの仕事に携わっており、その前年

中国の上海でTV-CMプロダクションを設立するのでCMプランナーとして手伝ってくれないか、と知り合いのプロデューサーに声をかけられた私は、約半年間に渡り

上海に赴き現地で広告の仕事に従事していたのだったが、その時の報酬のうち150万円がいまだ支払われないまま、そのプロデューサーはトンズラ決め込み音信不通

となり、私はなんとか草の根を掻き分けてでも探し出して意地でも金を支払わせてやろうと四方八方あらゆる手段を講じていた最中であり、すでに裁判沙汰の一歩手

前という泥沼にまで足を踏み込んでしまっており、当時の私は触る者みな傷つけてやるぞと言わんばかりに常にイライラとナイフみたいに尖っては殺気立ち怒り狂っ

ていたものだった。8月の初めの真っ昼間の猛烈な暑さが私の怒りをさらに増幅させていたことはもちろんのこと、それ以外にも私の心を殺気立たせるいくつもの厄

介な憂い事を私は心に抱え込んでいたのも事実であった。私は27歳の時、たまたま読んだ坂口安吾の『白痴』に背中を押されるかのごとく、芸術家になる!と宣って

それまで6年間勤めてきたフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)を辞めたにもかかわらず、その後は放蕩無頼、無為徒

食の生活の果て、ブザマにも再び広告業界に舞い戻ってしまって、その二度目に勤めた広告映像企画制作デザイン会社、スーパー・デジタル・カンパニーにおいて、

社長とケンカをし1年足らずでクビとなり、その後は会社勤めではなくフリーランスという立場で広告業界の片隅に細々と身を置き続け、その間、藝術家的活動など

は一切行わず、というよりも、いまだ藝術とは一体何ぞや?という問いにすらも明確な答えを見つけることができずにおり、絵1枚落書きすら一度も描き散らかすこ

ともなく、そのような不甲斐のないナマクラな自分自身に対しても私は殺気立ち怒り狂っていたのであった。加えて、私を不当に解雇したスーパー・デジタル・カン

パニーの社長に対しても当然のごとく私は殺気立ち怒り狂っており、おまけに、その頃からフリーランスという立場の私の広告業界における営業ツールであった『ぼ

つコンテ集』(今までに私が仕事で提出したものの採用には至らなかったけれども自分自身では面白いと思い非常に気に入って保存しておいた絵コンテ約100枚ほどを

1冊に簡易的にまとめた手作りの冊子)から企画アイデアをネコババ・ヨコドリする何者かが現れて、その未知なる何者か(現在は特定済みである)に対しても私は殺気

立ち怒り狂っていたのだった。さらに加えて、その年の5月から私は思うところがあって、精を放つ行為(すなわち射精)を一切自らに禁じていたのであった。つまり簡

潔に言えば禁欲していたというわけであった。幸いと言っては何だけれども、その当時は交際している特定の相手もおらず、自ら能動的に精を放つ行為(つまりマスタ

ーベーション/センズリ/悪所通い他)をおこなわなければ、結果として誰にも邪魔されることなく自由気ままに禁欲を続けることが可能なのであった。長期間に渡る禁

欲生活を一度でも経験したことがある男性ならば誰しもが実感することであるが、健康的な30代前半の成人男性が長期間禁欲すれば、身体中に精が満ち溢れ全身に得

体の知れぬ力が漲り、脳内には麻薬物質に似た謎の物質が延々と分泌され続け、もうこの世に何も恐いものなんて存在しないような、もう自分には何だってできるよ

うな、神や仏にでもなったかのような万能感を伴った、とにかくやたらめったらとポジティヴかつアグレッシヴな性格に変貌を遂げるのであるが、その副作用として

常に解消することのできない、まるで永遠に続くかのようにも思われるほどの地獄の焦燥感にも苛まれるようになるのであった。にもかかわらず、そうまでしてなぜ

に私が禁欲を決意し実行したかについては、いささか説明に難儀を覚え憚られるのだが、私は特に20代を通して若気の至りから日々の仕事の鬱憤の捌け口として、女

性ならば誰彼構わずというわけでは決してないけれども、私が相手の女性に欲情し相手の女性が拒まぬ限り(もちろん特定の交際相手がある時は話は別で、その間はき

ちんと一穴主義を貫いていたわけだが、その相手たちとも残念ながら1年と長続きはせずに)、その関係に愛があろうが愛がなかろうが、金銭を介そうが介すまいが、

一切構わず、据え膳食わぬは男の恥、来るもの拒まず、隙あらば取っ替え引っ替えSEXしまくりヤリまくり出しまくり、世の平均的な男性たちよりもほんの少しばか

り、本当にほんの少しばかり、下半身が腕白小僧であったというか、あばれはっちゃくであったというか、暴れん坊将軍であったというか、暴君ネロであったという

か、いや、むしろ己の欲望に忠実な忠犬ハチ公であったとでもいったらよいか、あまり好きな言葉ではないけれど、いわゆるヤリチン1歩手前いや2歩手前いや3歩手

前、岩野泡鳴が唱えるところの神秘的半獣主義、大杉栄が唱えるところのフリーラブ、永井荷風が一生涯を貫き通し実践したような、まるでケダモノじみた自由奔放

なSEXライフを恥ずかしながら送ってきてしまっており、20代終盤あたりからなぜだかは知らぬが、端からみても自分自身でも明らかに運気が下がってしまったよう

に感じだしてきて、私の身の周りでは嫌な出来事が立て続けに起こりはじめ、こんなにも不吉な出来事が頻発するのは一体全体なぜなんだろうかと真剣に考え悩んで

いるうちに、ある時、私は、もしかしたら今まで散々好きでもない女性たちと愛のないSEXを繰り返してきたツケが今頃になって回ってきたのかもしれないとふと思

い、そう思い込んだら絶対そうであるとしか思えなくなってしまって、爾来、私は心をあらため、好きでもない女性とはなるべくSEXはしないように心掛けるように

なり(もちろん男という哀しい生き物の哀しい性として絶対におこなわないと断言することは難しいのだけれども)、それと同時にマスターベーションなど手慰みの類

いを含めた愛を伴わない射精全般も厳しく自らに戒めたというわけなのであった。つまり当時の私は前述したようなギャランティの未払いなどの金銭的なトラブルを

はじめ、その他にも不当解雇や『ぼつコンテ集』からのパクリ被害など人間的倫理的なトラブルにも多数見舞われており、かような悪運に付きまとわれるのも元をた

だせば私自身の今までの自堕落な暮らしぶりや普段の放埒なおこないに起因するのではないかと何の根拠もなかったが、その当時ふとそう思ったからであって、生活

習慣や性生活をあらため真っ当な暮らしを送るよう心掛け自身を厳しく律して内面から変えていけば、自然と運も開けてくるのではなかろうかと非常に短絡的ではあ

ったが、とにかくそう漠然と思い込んでしまった私は、思い立ったが吉日とすぐさま禁欲生活を開始したというわけなのであった。そんな願掛けのつもりで開始した

禁欲生活ではあったものの、意外にも長続きをしてしまって8月の初めの時点で逆算すればすでに私の体内には約3ヶ月分の精が満ち溢れていた計算になるわけであっ

たが、30代前半の私の健全な成人男性としての精を放てないことに対する苛立ち(フラストレーション)はすでに我慢の限界をとっくに超えてしまっており、さらに未

払金150万円残して逐電したプロデューサーに対する怒りや、私を不当に解雇したスーパー・デジタル・カンパニー社長に対する怒りや、私の『ぼつコンテ集』から

企画アイデアをネコババ・ヨコドリする何者かに対する怒りや、さらには藝術家になると宣って広告業界から一度足を洗ったにもかかわらず再びブザマにも広告業界

に舞い戻ってしまって、いまだに絵の1枚落書きすらも描き散らかさず藝術的な活動を一切始めようともしない不甲斐ない自分自身に対する怒りも相まって、かよう

に抱え込んだ様々な屈託から生ぜられる怒りの感情がドロドロと複雑に入り混じって、このままでは自分は誰か他人に危害を加えてしまうのではなかろうか、もしく

は思い余ってもういっそ自分で自分をと思われるほど、もう爆発寸前にまで膨れ上がってしまっており、そして、さらにそれらに8月の初めの情け容赦のない猛烈な

暑さがトドメを刺すかのように、もう自分自身でも何が何だかわからぬような、ド壷にハマってタコ踊りをするかのような状態に陥ってもがき苦しみ続けていたとい

うわけであった。そんな当時の私は荒んだ心を慰めるため、荒くれだった音楽、例えばパンク/ハードコア/ジャンクなどと呼ばれる激しめの音楽を好んでよく聴いて

おり、特にPUNKのゴッドファーザーと称されるイギー・ポップの作品、その中でもザ・ストゥージズの3枚目ラスト・アルバムであるイギー&ザ・ストゥージズ『ロ

ー・パワー』(1973)から、イギー・ポップのソロアルバム『イディオット』(1977)、『ラスト・フォー・ライフ』(1977)へと連なるデヴィッド・ボウイがプロデュース

を担当した3枚のアルバムの流れが大のお気に入りであったため、その時も私の部屋にはイギー&ザ・ストゥージズの『ロー・パワー』が至極当然のように、近所迷

惑も一切顧みず大爆音で流れていたのだった。1973年に発表されたデヴィッド・ボウイがMIXも担当したオリジナル版を大人し過ぎるという理由から長年不満に思っ

ていたイギー・ポップが、1997年に自らの手でMIXをやり直したリミックス版『ロー・パワー』であった。オリジナル版と聴き比べるとよくわかるが、ちょっとやり

過ぎなんじゃないかと思われるくらいささくれ立ち荒れ狂った音像が当時の私の怒り狂って荒れ果てた心情とピッタリとマッチしているようにも思われるのだった。

特にアルバム冒頭の「サーチ・アンド・デストロイ」という曲は、当時の私のテーマソングと言ってもよいくらい私は聴き惚れていて、未払い金150万円残して逐電

したプロデューサーを、探し出して、ぶちのめす!、私の『ぼつコンテ集』から企画アイデアをネコババ・ヨコドリしている何者かを、探し出して、ぶちのめす!、

藝術家になると宣って広告業界から足を洗ったにもかかわらず再びブザマにも広告業界に舞い戻り、その罰が当たったのか、不当解雇の憂き目にあった末にも広告業

界の濡れ手に粟のあぶく銭にしがみつき、いまだ藝術活動を一切始めようともしない己の不甲斐なさの根本的原因を、探し出して、ぶちのめす!、その他、私の心を

苛立たせ殺気立たせるあらゆるすべてのものごとに対する私の強い思い「サーチ・アンド・デストロイ」つまり「探し出して、ぶちのめす!」を代弁してくれている

かのように、聴く度に私は心癒されるとともに闘志に火をつけられもしたものであった。まるで危険な麻薬に力を借りたかのような、というよりも、実際に麻薬の力

を借りて生み出されたと噂される、そのひび割れて荒れくれた凶暴なぶっとんだド迫力の音塊をシャワーのように全身に浴びながら、気がつけば私は部屋で一人リズ

ムに身をまかせ汗まみれになって腰をくねくねくねらせて踊り狂いはじめているのだった。この得体の知れぬ激しい苛立ちや怒りを何らかの形で発散させなければ近

い将来自分は必ずや発狂するのではないか、いや、間違いなく発狂するに違いない、いやいや、もうとっくに発狂しかかっているのかもしれないぞ、という恐怖に突

如襲われた私は、その禍々しい狂気を振り払うかのごとく、さらに激しく腰をくねくねくねらせて踊り狂い続けながら、汗を存分に吸ってズッシリと重量感の増した

Tシャツを素早く脱ぎ捨て『ロー・パワー』のアルバムジャケットのイギー・ポップ同様に上半身だけ丸裸になって、さらにさらに激しく激しく腰をくねくねくねく

ねくねらせ、首を上下にヘッドバンギングして音楽に共鳴させながら踊り狂い続けるのであった。真夏の真っ昼間、近所迷惑も一切顧みず音楽を大爆音で鳴らしなが

ら上半身裸になって腰をくねくねくねらせ踊り続ける私は、端から見れば、こいつはもうすでに発狂しているのではないか、と見紛えるほどに、もしもその時、母親

が、もうマーくんったら、ご近所迷惑になるじゃないの、ボリュームを少し下げなさい、とうっかりノックもせずにドアを開けて入ってきたならば、ああ、なんとい

うことでしょう!とうとうこの子は発狂してしまったんだわ!前から少し頭がおかしかったから、いつかは発狂すると思っていたけれど、案の定発狂してしまったの

ね!でもまさかこんなに早く発狂するとは思いもよらなかったわ!本当に哀れな息子マーくん、ああ、私のかわいい息子マーくん!、と慌ててドアを閉めるほどに、

私は、踊って踊って踊って踊って踊って踊って踊り狂い続けるのだった。そして、まさにその時であった。その瞬間は何の前触れもなく唐突に訪れたのだった。その

時、我を忘れ『ロー・パワー』のリズムに身を任せて踊り狂い続ける私の汗の滲んだ目の端に、ぼんやりとそれは飛び込んできたのであった。そう、それは、たしか

昔たまたま衝動買いしたはいいけれど、そのまま埃をかぶったままの状態で棚にほったらかしにしておいた『アクリル絵具初心者セット』であり、その箱に印刷され

た『絵』という文字が、突然私の目の端に飛び込んできたのであった。その『絵』という文字は最初はぼんやりと、徐々にくっきりハッキリと、まるでカメラのピン

トが合うように焦点が合っていって、その瞬間、私の頭の中で何かがポーン!と音を立て、火の玉みたいに弾け飛んで、『ロー・パワー』のリズムにあわせて私の全

身を猛スピードで駆け巡っていって、私の下腹に約3ヶ月分溜まりに溜った私の不穏なエネルギーの源である精力にも火をつけて、大爆発を誘って、さらに勢いを増

しながら目も眩むほどの猛スピードで私の全身を何周も何周もぐるんぐるんぐるんぐるんと駆け巡っていって、そして、そのあと、私は絵を描きはじめたのだった。

やがて『ロー・パワー』も鳴り止んで、私の部屋が静寂に包まれてもなお、上半身裸のまま滴る汗のしずくが画用紙を汚すのも厭わず、絵具を溶く水すらも使わず筆

に直接なすりつけながら私はそのまましばらく一心不乱無我夢中で描き続けたのだった。その時、私の股間のイチモツが、8月の初めの真夏の真っ昼間の目も眩むよ

うな猛烈な暑さよりもさらに熱く燃えあがり、そのうち履いていたジーンズを突き破るのではないかと心配されるほど力強く、もう釘が打てるのではないかと思うほ

ど痛いくらい硬くギンギンに勃起して、そして、もう来るか、もう来るか、もう来るか、もう来るだろ、もう来てもいいんじゃないか、もう来てもいいだろう、もう

来てもいいよね、もう来るしかないよね、もう来たほうがいいよね、もう来るべきだよね、もう来るに違いないよね、もう来なきゃ困っちゃうよね、もう来ちゃった

も同然だよね、もう来ちゃったって宣言してもいいよね、でも来ちゃったらパンツの中は大変なことになっちゃうよね、いわゆるヒア・カム・ザ・ウォーム・ジェッ

ツだよね、と今にも射精してしまいそうになっていたか否かについてはご想像に任せることにしよう。以上、こんな具合に、私は絵を描きはじめ、それから数えるこ

とちょうど15年経った今でもなんだかんだといって絵を描き続けているわけだけれども、時々私がふと思うのは、もしも、あの時部屋に流れていた『ロー・パワー』

が1997年のリミックス版ではなくて1973年の大人しめのオリジナル版だったとしたら、もしも、あの時私の目の端に『アクリル絵具初心者セット』の『絵』という

文字が偶然飛び込んでこなかったとしたら、もしも、あの時未払い金150万円残してプロデューサーが逐電していなかったとしたら、もしも、あの時私の『ぼつコン

テ集』から何者かが企画アイデアをネコババ・ヨコドリしていなかったとしたら、もしも、あの時私の体内に3ヶ月分の精力が満ち溢れていなかったとしたら、もし

も、私が27歳の時坂口安吾の『白痴』を読んで背中を押されるかのごとく芸術家になる!と宣って6年間勤めてきたフランク・ザッパのバンド名から取って名づけら

れたTV-CMプロダクション(頭文字M)を辞めていなかったとしたら、もしも、私がスーパー・デジタル・カンパニーの社長とケンカして会社をクビになっていなかっ

たとしたら、もしも、もしも、もしも、もしもの話は尽きないけれど、おそらく私は今現在絵を描いていることもなく、さらにそれを思い出しながら今こうしてこの

ような文章を書いていることもなく、そう考えれば、あの33歳のひどく暑い夏、その直前まで絵なんて描く気はさらさらなかった私を散々踊り狂わせ、イソップ童話

『北風と太陽』のごとく、私の上半身を裸にさせたあげくの果てに、とうとう私に絵まで描かせてしまった『ロー・パワー』の力!イギー・ポップの力!ザ・ストゥ

ージズの力!音楽の力!すなわち、藝術の力!その藝術の力を私はまざまざと感じずにはおられず、いまだ私は藝術とは一体何ぞや?という本質的な問いにすら明確

な答えを見つけることができずもがき続けており、私の描く絵が藝術かどうかすら自分では皆目見当もつかないわけだけれども、あの33歳の夏『ロー・パワー』を聴

いた私が絵を描きはじめたこと、それだけは、誰も否定することができない紛うことなき事実であり、つまり、あの33歳の夏、私に絵を描かせてしまった音楽の力、

それこそが藝術って奴の正体なのではないか、と今にして私は密かにそう確信するのであった。なお、これは後から偶然知ったことだけれども、1973年日本で発売

された『ロー・パワー』の邦題は、驚くなかれ『淫力魔人』であったそうだ。そう、淫力。みだらな力。藝術は淫力から生まれる。私はそうも確信するのであった。

2020. 7

 

 

 

 

 

03.『Let's Get Lost / おおかみとして生きる (仮)』

 

 

今でも時々TV-CMの撮影現場から逃げ出す嫌な夢を見る。撮影中、何かを探してこいと誰かに命じられて、その何かを探しに行くのだけれども、その何かはどこにも

見つからなくて、手ぶらで帰るわけにもいかずに、どうしようか、どうしようか、どうしようか、このまま逃げてしまおうか、そうだ、ずらかっちまえ!と逃げかけ

るも、やはり撮影現場のことが気にかかってきてしまって、今なら戻ってちゃんと謝ればきっと許してもらえると思うけれども、どうしようか、戻ろうか、逃げよう

か、どうしようか、ぐずぐず考えながら、結局撮影現場の近くまで戻ってきてしまって、撮影現場を遠くに眺めながら再び、逃げようか、戻ろうか、逃げようか、戻

ろうか、でも探していた何かは見つかってないからたぶん怒られてしまうよな、どうしようか、逃げようか、戻ろうか、うだうだと煩悶の末に、ようっし、決めた、

ずらかっちまえ!と思い切って逃げ出す瞬間の恍惚と不安の入り混じった心境になる場面で私はいつもだいたい夢から覚めるのだった。そして、夢から覚めた後も、

ああ、夢だったのか、夢でよかったな、と思いつつも、私は逃げた瞬間の恍惚と不安の入り混じった複雑な心境を思い返しては、しばらくは嫌な罪悪感を引きずった

ままでいるのがいつもお決まりのパターンなのであった。私は、以前TV-CMプロダクションに勤めていた頃、撮影現場が大の苦手で本当に嫌で嫌でたまらなかった。

撮影部や照明部には体育会系や土方系の昔気質のスタッフたちがたくさんいて、撮影現場は常にスタッフたちが下品な大声で怒鳴りあっているような理不尽で前時代

的な空気が漂っていて、文科系で繊細おまけに常にぼけーっと考え事ばかりしてどんくさかった私は、いつも彼らスタッフたちに怒鳴られて怒られてばかりいたもの

だった。さらに生来私は人がたくさん集まる場所が大の苦手であり、みんなで一緒に力を合わせて一丸となって何かを作りあげるという作業も大の苦手だったものだ

から、負の相乗効果で毎回毎回それはそれはもう地獄にいるような気分を撮影現場で味わっていたものであった。おそらくそのトラウマによるものであろうか、TV-

CM制作の仕事から離れ広告業界から完全に足を洗った現在に至ってもなお、私は忘れた頃にまたいつもと同じ夢を見て夢から覚めて、また忘れた頃にまたいつもと同

じ夢を見てまた夢から覚めてという繰り返しを延々ともう20年以上も続けているのであった。私は27歳の時、たまたま読んだ坂口安吾の小説『白痴』にそそのかさ

れ背中を押されるかのごとく、21歳で入社してきっかり6年間勤めたフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)を、藝術

家になります!と宣って突然辞め広告業界から足を洗ったものの、振り返って思えば、おそらくは藝術家になりたいというのは虫のいい口実に過ぎなくて、つまり私

は広告という仕事に心底嫌気がさしていただけだったという可能性もあながち否定もできず、その証拠に、フランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-

CMプロダクション(頭文字M)を退社後も私は藝術的な活動など一切はじめようとはせず、落書き一枚すらもいたずらに描き散らかすこともなく、そもそも藝術とは一

体なんぞや?という根本的な問いにすらも明確な答えを持ち合わせてはおらず、藝術家になるためには一体全体何をしたらよいものやら見当もつかずに途方に暮れ、

そのままズルズルダラダラと自堕落な放蕩無頼、無為徒食の生活をしばらく続けた末に、とうとうなけなしの貯金も底を突き食うのに困った私は、当時一人暮らしを

していた中央線沿線のアパートを引き払い都内の北の外れにある生家へと夜逃げ同然に尻尾を巻いて逃げ出してきたところなのであった。約7年ぶりに帰った生家の

一戸建て住宅は、私が一人暮らしをしている間の数年前すでに3階建ての二世帯住宅へと建て替えられていて昔の面影はほとんど残しておらず、当時、両親、兄弟、

姉妹、家族のすべてがまだ一緒に住まっていたが、突然ふらふらと逃げ帰ってきた私はなんだか居候のような存在とでもいおうか、家族はみんな性根のやさしく温和

な人たちだから一切何も言葉には出さないけれども、それでも久しぶりに顔を合わせるからであろうか、いささか腫れ物にでも触れるかのようなぎこちのない様子の

時もあり、私はなんだか生家に里帰りした(逃げ帰った)というよりは親戚の家にちょこっと遊びに来たかのような奇妙な居心地の悪い感覚に囚われてもいたものだっ

たが、昔の生家の面影といっては、忙しくて帰って整理するための時間を取れなかった私の代わりにおそらく家族の誰かがやってくれたものであろう、建て直す前の

古い生家に残されていた私の私物がひとまとめにされぎっしりと詰まった2箱分の段ボールくらいであり、手持ち無沙汰にその段ボールを開けてみれば、そこには私

が長年に渡って机の引き出しの奥にこっそり隠しておいた数々のズリネタであるエロ本やエロビデオやエロ小説やエロ雑誌の切り抜き、昔の日記や昔授業で描いた絵

や成績表などにまぎれて、ある1冊の古い絵本が残されているのであった。それは佐々木マキの『やっぱりおおかみ』という私が幼少の頃に偏愛しておったハードカ

バーの絵本(1977年第1刷)であり、表紙の裏側には自分の氏名が下手くそなひらがなで書き込まれてあるのだった。幼少時代の私の家にはとにかく膨大な数の絵本が

所狭しとあって、それはなぜかと言えば、母親の弟にあたる叔父さんが福音館書店という絵本業界では知らぬものがないほど有名な出版社に勤めていた関係で、私の

家に福音館書店で出版されたありとあらゆる絵本を送ってくれていたゆえであり、『だるまちゃんとてんぐちゃん』『とこちゃんはどこ』『スーホーの白い馬』『ど

ろんこハリー』『ぐりとぐら』「しょうぼうじどうしゃじぷた』『ママ、ママ、おなかがいたいよ』など、並み居る超有名な絵本たちの中にあっても『やっぱりおお

かみ』というその絵本は私が一番気に入っていた最愛の1冊なのであった。絵本の内容は、ひとりぼっちのおおかみが仲間を探し求めて街をうろつき彷徨うも、仲間

はいっこうに見つからず、他の動物たちからは無視されたり疎ましがられたりして、結局最後はひとりぼっちで生きていくことを決意し、そう決意してみるとなんだ

か不思議と愉快な気持ちになって終わるという、あらすじだけ読むと何が面白いのやらチンプンカンプンではあるが、日本人離れした無国籍タッチのPOPな絵柄で、

おそらく孤独という問題をシュールに描いているものの、にもかかわらず、とてつもなく深い話で哲学的であると言っても過言でなく、幼少時代から人が大勢いる場

所が大の苦手で独り遊びに明け暮れていた私は初めて読んだ時からガツンとやられてしまったようで、幼少時代の私にとってはまさにバイブルのような存在となり、

幼心に絵本の中に流れるニヒリズムやアナキズムに何度勇気づけられ救われたものか筆舌には尽くしがたく、もちろん当時はニヒリズムやアナキズムなどという小難

しい言葉や概念を知る由もなかったけれども、とにかく暇さえあれば自分で読んだり母親にせがんで読んでもらったりして心癒されていたものであった。そして、ほ

ぼ20年ぶりに読んだ『やっぱりおおかみ』もやはり当時零落して荒み切った私の心をしっかりとやさしく癒してくれたのだった。その時私はしこたま酒を飲み酩酊状

態であったため、もしかしたら酒の酔いの力によるものかもしれなかったが、ひとりぼっちで生きていくことを決意したことによって愉快な気持ちになった『やっぱ

りおおかみ』の主人公のおおかみと同様に、ひとりぼっちで生きていくのも案外悪くないかもしれないな、と私もなんだか不思議と愉快な気持ちになってきて、しか

し、それと同時に現在陥ってしまっている己の苦境とこれから先の己の行く末とを案じて突然目から涙がポロポロポロポロと流れ落ちてきて止まらなくなり、一体全

体自分は今笑ってるのか今泣いてるのかどっちなんだかわからないような不思議な感覚であったのだけれども、とにかく本当に久しぶりに私は心が癒されていたこと

だけは紛れもない事実なのであった。さらに、段ボールの一番底には、私が通っていた幼稚園の出席カード(先生と保護者との連絡帳も兼ねた小さなノート)も残され

てあって、それをパラパラ開いて読んでみれば、担任の先生からのメッセージが「ようちえんでも、おおきなこえでおはなしできるようにがんばりましょう、おとう

さんやおかあさんのいうことをよくきいて、なつやすみをげんきにすごしましょう」「おはようございますやさようならのごあいさつがすこしだけおおきなこえでい

えるようになってよかったですね、これからも、もっともっとおおきなこえでいえるようにがんばりましょう、それから、なにかほしいものがあるときはだまってい

たりすぐなかないで、せんせいのところへいいにくるようにしましょうね」「このごろおえかきやおりがみもせっきょくてきにやるようになってきたし、いいたいこ

ともすこしずついえるようになってきてよかったですね、あとは、たくさんのおともだちとたのしくおしゃべりをしたりあそんだりできるようになるともっといいで

すね、がんばりましょう」「おせきのまわりのおともだちとどんどんおしゃべりをするようにして、たくさんのおともだちとなかよくするようにらいがっきはがんば

りましょうね、なつやすみのあいだになわとびのれんしゅうをしておくといいですよ」「まもるくんは、なにかいいたいことがあったら、目でいうのではなく、こえ

をだしていうようにこれからはするといいですね、ふゆやすみのあいだにハーモニカのれんしゅうをしておくといいですね」「いつもおそとでげんきにあそんでいた

まもるくんともいよいよおわかれですね、せんせいとってもさみしいです、ようちえんでおともだちとおうたをうたったりおえかきをしたりしてたのしくすごしたこ

とをいつまでもわすれないでくださいね、しがつからはらんどせるをしょっておにいさんといっしょにしょうがっこうですね、なかずにがんばってね!」などと書か

れてあって、それを読みながら私は、幼稚園の頃から20年以上も経っているのにまったく成長してないじゃないか、自分は20年間一体何をやってきたんだろうか、

と己の不甲斐なさをもどかしく思って、さらに目から大粒の涙がポロポロポロポロと流れ落ちてきて止まらなくなるのであった。そして、落ちぶれて生家に逃げ帰っ

た27歳のあの時からのちも、さらなる様々な悶着や修羅場を無我夢中でくぐり抜けてきて、気がつけばあっという間にさらに20年の年月が経過して40代半ばを過ぎ

もうすぐ50に手が届く現在に至ってもなお、私は幼稚園児の頃からほとんど成長を見せてはおらず、冷徹ニヒリスティックな人間嫌いの成れの果てを気取り好き勝手

にダラダラと自堕落に生き続けており、たまに本棚から『やっぱりおおかみ』を引っ張り出してきて読んではその度に勇気づけられたり救われたり、酒を飲みながら

突然わけもなくポロポロポロポロと滝のような涙を流してみたり、自分でいうのもなんだけれども、それはもう相変らず本当にろくでもないにも程があるといったザ

マであり、その私のろくでもなさ加減はこれから先のさらに10年20年もしも生きているなら30年後に至っても、おそらく改善されそうな兆しは残念ながら露程も感

じられず、人間という生き物の生まれついての本質的な部分(自分らしさ)というものは昨日今日明日でそんなに簡単に変わるものではないのであるからして、これは

もう本当に仕様のないことだと諦めるより他にないようなのであった。かように、私は過去の己の生きる道つまり人生において、途中で横道に逸れたり、何もかもほ

っぽり出して逃げ出したり、身動きが取れずに死んだふりをしてみたり、突然何を思ったか垂直に勢いよく飛び上がったかと思えば直後に落下して地面を突き破った

りなど、幾度となく己の人生を踏み外して生きてきたが、そのような決して人に褒められたものではない、ようするに、ろくでもない己の人生における失敗の連続が

すべて無駄であったかと言えば、決してそのようなことはないと自分では思っているのだけれども、現在40代半ばを過ぎてもうすぐ50に手が届く現在に至って、本

音を言えば、もう少しだけまじめに生きてくれば良かったかもしれないなとほんの少しだけ後悔する瞬間がごくたまに訪れたりもするのであった。そんな時に私は、

世の中には踏み外さなければ見えない景色/風景があり、実際に踏み外したからこそ手に入れることができたものも少なからずあり、むしろ逆に踏み外したことを過去

の自分に感謝しなければいけないなどと強がりを言って自分で自分を無理やり慰めたりもするのだったが、実際に現在こうして私が絵を描いているのだって、過去に

私が人生を踏み外したからこその成れの果てであり、私の苦し紛れの強がりもあながちただの世迷いごととも言えぬのであった。親や先生たちの言うことを良く聞い

て良い学校を出て良い会社に入って良い報酬をもらって、一度も己の人生を踏み外すことなく常に従順な犬のごとくお利口さんとして一見幸せそうに見える生き方を

送ってきた人たちが世の中にはたくさんいるけれども、果たして彼らは本当に幸せなのであろうかと時々私は疑問に思うのであった。本人たちが十分幸せだと思って

いるのならば、外野の赤の他人の私がとやかく口出しすべきではないことかもしれぬけれど、踏み外した時に見える素晴しい景色/風景を残念ながら彼らは決して見る

こともないのかと思えば、少しばかり彼らのことを哀れに思ったりもするが、彼らにしてみたところで、踏み外した私のような人間のことを哀れに思っているに違い

ないであろうから、それはお互い様ということなのかもしれない。また、従順な犬みたいなお利口さんたちの中には狡猾でズル賢い者もおり、一度も己の人生を踏み

外したことがないにもかかわらず、あたかも人生を踏み外すことがかっこいいことであるかのように勘違いをして、ファッション感覚で人生を踏み出したような素振

りで、人生を悟ったかのようなしたり顔して「(偽りの)我が踏み外し人生」を語る者もごくたまに見受けられるが、彼らは既得権益や権力を笠に着て安全圏で中途半

端にお遊びで人生を踏み外した気になって気持ち良くなっているだけに過ぎず、実際にいざ己の身に危険の火の粉が振りかかりそうになれば、元の「お利口さんの世

界(犬の世界)」へと尻尾を巻いて(振って)そそくさと逃げ帰れば良いのであるからお気楽なものであり、また、彼らは人生を踏み出した時に見える素晴しい景色/風景

を実際に見ているわけではないため、彼らの一挙手一投足すべては必然的に空虚な絵空事(絵に描いた餅)に過ぎないのである。ファッション感覚で人生を踏み外せる

ほど「踏み外し人生」は甘っちょろくもかっこよくもないことを踏み外したことのないお利口さん(犬)には理解できるはずもないのであろうが、実際に踏み外してみ

れば容易に理解できることだけれども、踏み外した人生などまったくもってかっこいいものでも何でもなく、ただただ孤独で辛く厳しい道のりであり、みんなと同じ

道を誰かに導かれるように従順な犬のごとくお利口さんとして生きていくほうがどんなに楽であるかを、おそらく一度も踏み外したことのないお利口さん(犬)には理

解できないのであろう。もしも踏み外した人生における唯一の救いや慰めとしてのかっこいい瞬間があるとするならば、それは踏み外した末の煩悶や葛藤の中から自

分にしか見えないとてつもなく素晴しい景色/風景を見つけ出し表現することに成功できた瞬間のみであるが、 それは人生を踏み外した者みなすべてが平等に与えら

れるようなそんな生易しく安っぽい代物では決してなく、人生を踏み外した後に襲いかかってくる数々の試練や困難を死物狂いで乗り越えた末にようやっと手に入れ

ることができるとてつもなく素晴しく尊いご褒美であり、金で買える代物などでは決してないのである。今の世の中金で買えないものはほとんどないと言われるが、

簡単に金で買えるものというのは所詮その程度のものでしかなく、世の中には決して金では買うことができないとてつもなく素晴しく大切なものがあるということを

我々は決して忘れてはならないのである。例えば、月並みな例になってしまうけれども、愛というものは決して金では買うことができないものである。もっとも、大

金をはたけばよりどりみどりで驚くほど見栄えの美しい女の体を好き勝手放題自由にすることはできるが、その金で買った関係には真実の愛/True Loveは一切存在せ

ず、言うなれば、人間そっくり精巧細密に作られた超高級ダッチワイフ/Love Dollを使ってマスターベーションをかくのとほとんど変わりがなく、一時的に欲望が満

たされたような気分にはなるものの、決して心の底から満たされるということなどはなく、かえって虚しさが募るばかりである。これは絵に関しても同様であり、金

をたくさんかければ素晴しい絵が描けるかというと、決してそんなことはないのである。もちろん金をたくさん使ってゴミ同然の絵を何かとてつもなく素晴しく価値

のあるもののように見せかけて絵の価値のわからぬ者たちをダマくらかすことは可能ではあるけれども、そんな詐欺まがいの卑怯な手段を使って絵がたくさん売れた

ところでこれまた虚しいだけのことであり、心の底から満たされるということは決してないのである。踏み外してしまったことを過去にさかのぼって取り消すことは

残念ながらできないけれども、踏み外してしまった人間としての私がこれから先の未来にできること、なすべきことは何かと言えば、それは踏み外した人間にしか見

えない景色/風景や、踏み外さなければ表現し得ないものを表現することであると常々私は思っている。そして、踏み外した人間にしか見えない景色/風景や、踏み外

した人間にしか表現し得ないものを世の中に向けて表現した時に初めて私は、過去の私が人生を踏み外したことに対して嘘偽りなく心の底から感謝することができる

のである。口で言うのはいとも容易いことだけれども、実際にそれを実現することは非常な困難を極める茨の道であり、だからこそ、やりがいの見いだせる素晴しく

尊いおこないであるとも言えようか。ようするに、何度もしつこいけれども、簡単に金で手に入るものなどは所詮その程度のものなのである。ゆえに、なぜ私は絵を

描くのか?と人に問われたならば、私は次のように答えるであろう。それは、踏み外した人間にしか見えない景色/風景を表現するために、私は絵を描くのであると。

また、決して金では買えない景色/風景を表現するために、私は絵を描くのであると。そして、こう付け加えることであろう。その私が表現すべく追い求める景色/風

景は高層ビルディングの展望台から誰もが眺めることのできる薄っぺらな景色/風景ではなく、景勝地、観光名所の絵はがきに収まるような陳腐なインチキ臭い景色

/風景でもなく、TVから悪意とともに無差別暴力的に流れてくる救いようもないほどに薄ら寒く下品な景色/風景でもなく、教科書に載っている毒にも薬にもならない

ようなきれいごとの景色/風景でもなく、子供だましの安っぽい芝居の書き割りなどでもなく、誰か他人の景色/風景をあちらこちらからかっぱらってきて寄せ集めご

ちゃ混ぜにして誤摩化した嘘っぱちの景色/風景などでも決してなく、踏み外した人間である私自身にしか見ることのできない、いわば私だけの唯一無二の心の景色

/風景なのである。晴れて私がその心の景色/風景を表現することに成功できたあかつきには、いつ私に死が訪れようと構いはしない。天国だろうが地獄だろうがどこ

へでもお好きなところへ私を連れて行ってもらって構わない。なぜなら私のなすべきことはもう何一つ残されてはいないのであるから。そして、そのとてつもなく素

晴しい景色/風景を表現する瞬間が私に訪れるまで、私はただひたすら絵を描き続けていかなければならないのである。 もしかしたら、それは絵ではなく、他の表現

手段によって成し遂げられるのやもしれぬが、ともかく、その景色/風景を追い求め私は表現し続けなければならないのである。一度踏み外したが最後、逃げも隠れも

できぬ運命なのである。それが踏み外してしまった人間が救われることができる唯一の道なのである。いつか踏み外してしまった自分を嘘偽りなく心の底から誇れる

日が来ることを私は切に願うばかりである。ところで、私が毎日のように習慣的に酒を飲むようになったのは、今から15年ほど前からのことであり、この15年ほど

前というのはちょうど私が絵を描きはじめた頃とほぼ同機(シンクロ)しているのであった。それ以前の私は酒は飲むけれども毎日のように習慣的に飲むということは

なく、また、私の母親、兄弟、姉妹のほとんどが酒を飲まずというか飲めず、家族の中で父親と私だけが酒を飲むのであるが、 おそらく本来ならば私の体の半分は酒

がほとんど飲めない体質であるはずのところを無理して酒を飲んでいるような気がしないでもないのである。坂口安吾が「酒をうまいと思ったことは一度もなく最初

の一杯目から頭に酔いが回り脳みそが痺れて酒の味がまったくわからなくなるまではとにかくまずいのを我慢してガンガン飲みまくる」といった主旨の話を書いてい

るのを昔読んだことがあるが、私の場合もほぼそれと同じで、良いことがあった時に飲む酒は不思議となんだかうまいような気もするが、それ以外は特別うまいと思

うこともほとんどなく、夏場に飲むビールもなんだかうまいように思ったりもするが、それはただ単に喉が渇いているからうまいと感じるだけであるかもしれず、た

しか中学生の頃だったと思うが、父親が飲んでいたビールを一口もらって生まれて初めて飲んだビールの味は思わず吐き出してしまいそうになるくらいまずくてたま

らず、子供心に何が哀しくて大人はこんなまずいものを毎日飲んでいるのであろうかと驚いたものであった。また、時たま体調がすぐれない時など一時的に酒を飲む

のをやめてみると体の調子が目に見えてすこぶる良くなり、体調が良くなるものだから酒を一滴も飲まない禁酒状態を何らの苦もなくしばらくの間は続けることがで

きるのだが、そのままさらに禁酒状態が2週間とか1ヶ月とか2ヶ月続いた頃になると決って私はふとこう思うのである。こんなにいとも簡単にあっけなく酒がやめら

れるのであれば、再び酒を飲みはじめても何の問題もないのではなかろうか、酒を再び飲みはじめて体調が悪くなったならば、その時にまた酒をやめれば良いのでは

なかろうか、なぜなら私はいつでも簡単に酒をやめられるのであるから、などという悪魔のささやきにも似た甘言にそそのかされるかのごとく、気がつけば私は再び

酒を飲みはじめており、いつまでたっても永久に酒を完全にやめることができないのだった。そして、そんな風に酒を毎日飲み続けながら体調が悪くなれば酒をしば

らくやめ体調が良くなればまた酒を飲みはじめるという変則的な飲酒生活を長年(とはいえ15年ほど)続けていると気づくことが少なからずあるのだった。まず、酒を

やめると眠りがとても深くなり、翌日の日常的な体のだるさ(いわゆる二日酔いと呼ばれる症状)が当たり前のことだけれどもパタリと嘘のように消滅する。そして、

体のだるさが消滅するものだから、当然のごとく日常生活が活性化されていき、結果として心も体も常に前向きな状態となる。さらに、酒をやめると脳みそがクリア

な状態に戻り、本を読むスピードと理解力が格段に上昇する。つまりは、頭が良くなる。では、酒をやめれば心も体もすこぶる健康的になれる、頭まで良くなる、い

いことばかり起こるとわかった上で、なぜそれでも私は酒を飲むのであろうか。誤解を招かずに理由を説明するのにいささか難儀を覚えるが、おそらくそれは、現実

世界があまりにも過酷すぎて、たとえ束の間の酩酊状態の恍惚(エクスタシー)であっても、体に悪いとわかっていても、浮世の辛さや生きる哀しみをたとえ一時であ

っても忘れたいと切に願うから、というのももちろん重要な理由のひとつだけれども、決してただそれだけの理由から私は酒を飲むのではなく、すなわち、私は良い

意味での「酒の魔力」を信じているからなのである。フランスのジャック・ベッケル監督の『モンパルナスの灯』という画家モディリアーニの伝記映画があって、そ

の中でジェラール・フィリップ演じるところのモディリアーニのセリフに次のようなものがある。「ゴッホが言うには 人間には 教会にないものがある それを描きた

いと ゴッホは酔いどれだった それは 苦悩を 忘れるため 絵は苦悩から生まれる 彼は頭を壁にぶつけ 飲酒を責めた人に こう言っています この夏に見た黄色を 表現する

ために飲むのだと」あまりにも都合が良すぎてお前は何を言っているのだと訝られるかもしれぬが、おそらくは私もゴッホとまったく同じ理由から酒を飲んでいると

思われる節があるのだった。「この夏に見た黄色を 表現するために飲むのだ」なんてちょっとなかなか言えないかっこいいセリフではあるけれど、実際のゴッホは全

然かっこよくも何ともなかったようであり、なにせゴッホは生きてるうちに絵が1枚しか売れず、その1枚も友達のお姉さんが買ってくれたものであり、生涯貧乏で弟

の援助を受けていて孤独で酒浸りで喧嘩っ早くて、最終的には頭がおかしくなってピストルで自殺してしまうのである。なんだか私も他人事とは思えないのである。

だけれども、そんな不遇をかこつても不屈の闘志で絵を描き続けたゴッホもそのゴッホの絵も私は最高にかっこいいと思うのである。それから、映画『モンパルナス

の灯』には次のようなシーンもある。こちらはゴッホではなくモディリアーニ本人の話であるが、ある日アメリカ人の画商が絵を買いたいと言ってきて、貧乏で飲ん

だくれだったモディリアーニはこれは千載一遇と奥さんたちと一緒に絵をたくさん抱えてホテルに見せに行き、絵を気に入った画商は全部買いたいと交渉成立しかけ

たところ、ある1枚の絵(女性の肖像画)をうっとりと眺めながら「この絵なんて化粧品のパッケージラベルにピッタリだ」とつぶやき、それを聞いたモディリアーニは

やっぱり売りませんと捨て台詞してさっさと帰ってしまうのである。つまり自分の絵をそんな化粧品のパッケージごときには使われたくありませんという意思表示な

わけだけれども、貧乏でも決して魂は売りませんという創作姿勢が最高にかっこいいと私は思うのである。それから、映画にはまだ続きがあって、金に困ったモディ

リアーニはカフェの客席を落書きみたいなデッサンの絵を持って買って下さいと回るのだけれど、みんなにシッシッと追い払われる中、幸いにも一人の中年女性がお

金を払ってくれて、モディリアーニはどれがいいですかと絵を渡そうとするのだけれど、お金はあげるけど絵はいらないわと言われてしまいショックを受け、そして

最後は野垂れ死に同然で死んでいくのである。実際のモディリアーニは飲んだくれの女たらしのろくでなしだったようだけれども、ゴッホ同様にそんな些末な事情は

重要ではなく正直言ってどうでもよいことであり、もちろん生きている間に認められることに越したことはないけれど、不満足な作品を残すくらいなら、たとえ認め

られずとも己の信念を貫くことのほうがより重要であり、つまり素晴しい作品さえ残せればすべてOKそれでよし、後は何でもありということだと私は思うのである。

この世界には、そういったある種、悲惨な極貧生活の嵐の中や、酒浸りの酩酊状態の恍惚の中や、二日酔いの気怠い頽廃的な堕落の中からしか生み出せ得ない特殊な

美しさというものが、特に藝術の世界には確実にあって、例えば、さっき言ったゴッホの絵やモディリアーニの絵とか、長谷川利行の絵とか、アレックス・チルトン

の音楽とか、エリオット・スミスの音楽とか、ニック・ドレイクの音楽とか、ジョイ・ディヴィジョンの音楽とか、シド・バレットのソロアルバムとか、ジョン・フ

ルシアンテの初期のアルバムとか、チェット・ベイカーの晩年のアルバムとか、The ピーズ(B'zではないですよ)の音楽とか、阿部薫のフリージャズ(最初まったく理

解不能だったが最近ようやく理解できるようになってきた)とか、チャールズ・ブコウスキーの文学とか、太宰治や坂口安吾など無頼派破滅型と呼ばれる作家たちの小

説とか、ジョン・カサヴェテスの映画とか、他にもまだまだたくさんあるけれども、おそらく彼らの作品は「酒の魔力」(一部「麻薬の魔力」含む)なしではあれほど

まで魅力的に美しくはならなかったに違いないのである。そして、私自身が目指そうとしているのもそういった類いの美しさであり、私はこの吐き気がするほど醜く

腐りきった世界に存在する醜いものや自分自身の中に巣食う醜いものから決して都合良く卑怯にも目をそらしたりはせず、その醜さの中から何とかして美しさを発見

しようと日々死物狂いの努力を重ねているのである。この世界やそこに住まう人間やその人間の人生やその心の中にある美しい部分だけを巧妙に切り取って、どうで

す、とっても美しいでしょ、と見せつけるのはいとも簡単な作業だけれども、この世界やそこに住まう人間やその人間の人生やその心の中にある醜い部分までもをき

っちりと描いた上で、その中に埋もれた繊細な美しさを発見して、それでも世界や人間や人生は美しいですよね、と見せつけることこそが私の目指す美しさなのであ

る。そして、そういう類いの美しさは、真っ当な道から踏み外した人間の手によってでしか生み出され得ない美しさであり、もっと上手に世間並みに真っ当に生きた

いと心の底では願っているにもかかわらず、どうしても愚劣にしか生きられず、愚劣に生きざるを得ないがゆえに、とうとう踏み外してしまった人間が踏み外した末

に、偶然なのか必然なのかはどちらかはよくわからないけれども、死物狂いの命懸けで発見した美しさであり、普通の世渡り上手なお利口さんの世界(犬の世界)から

は決して生まれてくることがない唯一無二の美しさなのである。ゆえに、私は「なぜ私は酒を飲むのか?」と人に問われたならば、次のように答えることだろう。私

は「酒の魔力」を信じているからであると。そして、私がいい歳こいて冷徹ニヒリスティックな人間嫌いの成れの果てを気取って毎日毎日まともに働きもせずフラフ

ラして、一体全体何やってるんだか何やってないんだかわからぬような自堕落な生活をダラダラと送って、日が暮れて夜が来れば酒を飲んで酔いどれて惰眠を貪って

いるのも、すべては藝術のためであると。端からみればノンキに酒を飲んでいるように見えるやもしれぬが、その実、私は酒を飲みながらいつか藝術の神様が降りて

くるのを静かにじっと待ち続けているのだと。そして、晴れてその瞬間が私に訪れた時、つまり藝術の神様が私のもとに降り立った時、私がコンビニのレジに立ち客

の弁当を温めていたり、工場で荷物を仕分けしていたり、出前を運んでいたら、傑作をものにできず、傑作が逃げて行ってしまうから、働きたいのは山々だけれど、

特に金に困っているわけでも金がたくさん欲しいわけでもなく、自分自身の可能性/才能を信じているので、私はあえて働かないのだと。神なんているわけがない、も

し本当に神がいるのならば、世の中もう少しはマシになっているはずだ、と常日頃現実世界に対して懐疑的で不満を抱いている無神論者の私であるが、なんとも都合

の良いことには藝術の神様の存在だけは確と信じているのであると。さらに、何度もしつこいけれども、とっても重要なことだから何度だって繰り返せば、「なぜ私

は絵を描くのか?」と人に問われたならば、私は酒の力を借り虚勢を張り次のように答えるであろう。それは、踏み外した人間にしか見えない景色/風景を表現するた

めに、私は絵を描くのだと。それから、さらに酒を呷って虚勢を張りこう続けるであろう、決して金では買えない景色/風景を表現するために、私は絵を描くのだと。

そして、さらにさらにガンガン酒を呷って呷って虚勢を張りこう続けるであろう、踏み外した人間である私自身にしか見ることのできない、いわば私だけの唯一無二

の心の景色/風景を表現するために、私は絵を描くのだと。もちろん、私のこの考え方や価値観だけが唯一の正解であるはずもなく、人それぞれに考え方や価値観が変

わっていて当然であって、誰か他人にそれらを強要するつもりもさらさらなく、なおかつ、健全な体に健全な魂が宿るべきであると言うのはしごく当然でもっともな

考え方であると思ってもいるのだが、世の中のすべてが健全なものやお利口さん(犬)ばかりになってしまったとしたら、それはそれでつまらぬ世の中であって、法律

を犯したり他人に迷惑をかけない範囲における酩酊や放蕩や堕落や無頼は(もちろん心や体を損傷してしまっては元も子もないが)、美しい藝術作品を生み出す上での

必要不可欠な要素なのではないかなどと手前勝手な屁理屈をこねくり回しながら、今日も今日とて日暮れが近づくにつれ、たとえ束の間の酩酊状態の恍惚(エクスタシ

ー)であり、安易な現実逃避であり、体に悪いとわかっていても、私にとってはあまりにも過酷すぎるこの現実世界から一刻も早くさっさとオサラバしてしまいたいと

一心に願いながら、私は大してうまいともなんとも思わぬ酒が無性に恋しくなりはじめ、とうとう仕事もいっさい手につかなくなって、本日も建設的なことは何ひと

つ成し遂げてやしないけれど、そんな自分に乾杯!とお天道様よりも一足お先に今日一日を強制終了させ、そして、その翌日には、この醜く腐り切った現実世界のあ

まりのクソっぷりに再びクラクラと目眩を覚えつつ、『我が踏み外し人生』の来し方を振り返り行く末を案じながら、自分は本当にこのままでいいのだろうか、と大

いに疑念を抱き心が折れそうになっては、すかさず本棚からボロボロの『やっぱりおおかみ』引っ張りだしてきて読み、これでいいのだ、いいに決まってるじゃない

か、他にどうしろっていうんだよ、大丈夫、大丈夫に決まってるだろ、なんてったって俺はおおかみだもんな、と宿酔のガンガンする頭で強がってみせるのだった。

2020. 7

 

 

 

 

 

02.『Dog Shit / 犬の糞 (仮)』

 

 

私は27歳の時、たまたま読んだ坂口安吾の小説『白痴』にそそのかされ背中を押されるかのごとく、それまできっかり6年間勤めてきたフランク・ザッパのバンド名

から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)を、藝術家になる!と高らかに宣言して突然辞めたものの、藝術家になるためのツテやアテなどはなく、そ

もそも藝術系の学校で藝術を学んだためしもなく、ましてや藝術家になるための才能など私は一切持ち合わせてはおらず、さらに最悪なことには、藝術とは一体なん

ぞや?という本質的な問いに対しても、私はまったくもって明確な答えを持ち合わせてはおらず、藝術家というものは明日から藝術家になりますよ、と言ってすぐに

なれるようなそんな生易しいものではなく、また藝術家というものは藝術家になろうと思ってなるようなものでもなく、藝術作品を表現して初めて藝術家と呼ばれる

に値することも知らず、藝術家になる!と能天気に宣言して会社勤めを辞めたはいいが、一体全体自分はこれから先何をどうやって生きていけば良いものやら皆目見

当もつかずいきなり路頭に迷い、こんなことならば藝術家になるなどという大それた妄言を吐いて会社勤めを辞めなければ良かったと勢いにまかせて身の程知らずに

も藝術家への道を目指したことを早くも後悔しはじめている自分に気づくのであった。それから1年半にもおよぶ、放蕩無頼、無為徒食の生活の果て、虎の子、雀の

涙のわずかな貯金も底をつき、金に困った私はブザマにも(どの面下げて)、あれほどまでに忌み嫌い二度とは戻るまいと心に誓った広告業界へと再び舞い戻ってしま

ったのだった。私が28歳の時、再就職先として二度目に勤めた広告映像企画制作デザイン会社(ようするに何でも屋)、スーパー・デジタル・カンパニーの社長・豊中

狂児は、当時40がらみの薄ら禿げかけた短髪を金色に染めあげた人相の悪い関西男で、下品で頭の悪そうな会社名がその脳味噌の程度を如実に物語るかのごとく、と

んでもないバカが居並ぶことで知られる広告業界にあっても類を見ないほどの「極めつけの大バカ野郎」であり、某大手広告代理店(頭文字H)のコピーライター出身、

誰もが成功者を気取りあぶく銭をまき散らし大手を振って歩いていたバブル時代の全盛期に唯一の成功体験を果たした自分自身に才能があると錯覚し調子に乗って、

広告はもう卒業だ!と大見得を切って、後日、病院では決して処方されることのない疲れが一気にぶっ飛んじゃう系の危ないおクスリで捕まることになる某有名出版

系社長と、これまた、後日、病院では決して処方されることのない疲れが一気にぶっ飛んじゃう系の危ないおクスリで捕まることになる某有名作曲家らと(おそらく病

院では決して処方されることのない疲れが一気にぶっ飛んじゃう系の危ないおクスリという固い絆で繋がった仲間たちと)、共同で映画企画会社を独立起業したものの

すぐに失敗して潰してしまった「とんだ勘違い野郎」であり、その後、バブル時代よ、もう一度!とこれまたかつて某大手広告代理店(頭文字H)時代の同僚であった銀

座の呉服屋のバカ息子をうまいこと言ってダマくらかして金を出させて(おそらくは税金対策として)設立させた、なんとも胡散臭い会社、スーパー・デジタル・カン

パニーの社長の座にどっかりとふんぞり返っている「なかなか狡猾で厚顔無恥な食わせ者」であったが、社員の前で堂々と禁煙の成功を高らかに宣言し「お前らも俺

を見習って禁煙してみいや、ガンになってからでは遅すぎるんやでえ」と偉そうに講釈垂れたその舌の根も乾かぬうちに、便所に隠れてタバコを吸いはじめるような

「超ドアホ」でもあり、そのことをタバコの隠し場所(便所のタンクの中、ジップロックの袋にライターと一緒に入れプカプカと浮かべていた)まで含めて社員全員に

知れ渡っていることにすらも気づかぬような「大マヌケ」でもあった。スーパー・デジタル・カンパニーは、社員総勢6~7人そこいらの吹けば飛ぶような小さな会社

であったが、にもかかわらず、バカ社長・豊中狂児は、会社の所在だけには大いに見栄を張り、原宿駅前徒歩1分の一等地に立つ無駄にだだっぴろい金満外国人向け

超高級マンションの最上階を借りていたのだけれども、中味に何もない空虚な人間だからこそ虚勢を張らなければならないのだということもつゆ知らぬ「気取り屋」

でもあった。地方出身の夢見る田舎者ほど住む場所に異常に固執し、メディアでハイセンスだと持ち上げられる街、例えば下北沢だの青山だの麻布だのにやたらと住

みたがり、とかく元から東京の田舎に住む者たちを上から目線でバカにしたがる傾向があるけれども、住んでいる場所によってその人となりとが決定されるというな

らば誰も苦労などはしないはずであり、実際はそんなに単純な話ではないことくらいは、よほどのバカでもない限りすぐにわかりそうなものだけれども、脳味噌がバ

ブル時代で一時停止しているバカな勘違い広告屋風情には何を言っても無駄なのであろう。そのバカ社長・豊中狂児の口癖は「一流クリエイターになるにはとにかく

徹夜をしなければならない、1に徹夜、2に徹夜 、3,4がなくて、5に徹夜、6,7もなくて、8に小室哲哉、9に武田鉄矢、10に渡哲也、11以降はお前ら自分の頭で考え

たらええがな、筑紫哲也、別所哲也、阿佐田哲也、てつやは他にも仰山おるんやし、今夜も徹夜、明日も徹夜、明後日も、明々後日も、とにかく徹夜、徹夜、徹夜、

おまえら絶対帰さへんでえ!」などとそれはまるで徹夜真理教の教祖のごとくであり、さらには「ギリギリまで粘って粘って、ネバネバネバネバ、納豆みたいに粘っ

て粘って、ネバネバネバネバ、糸引くくらい粘って粘って、ネバネバネバネバ、ネバーギブアップの精神で、粘って粘って粘り抜いてこそが、俺たち一流クリエイタ

ーの真骨頂やねん!そやけど、俺は関西人やから、納豆なんて腐った食いもんは絶対食わへんけどな、腐っとるんやでえ、腐っとるもん食ったらあかんがな、ぎゃは

ははあははははあはははああ!」などと腐ってるのは自分の脳味噌だともつゆ知らず、下品に笑い出したかと思えば、その3秒後には「俺はオカンが死んだ時も大事

な大事なプレゼンの直前で、忙しくて通夜にも葬式にも帰らへんかったんやでえ、それが一流クリエイターの宿命っちゅうやつやねんなあ、親の死に目に会われへん

ことが一流クリエイターの真骨頂たるものと言うてええかもしれへんかなあ、むろん、後日、ちゃあんとオカンの墓前には報告したったけどな、オカン、許したって

や、ほんま、すまん、許したって、プレゼン負けてもうたわ、オカン、すまんかった、プレゼン負けてもうた、ほんますまん、プレゼン負けてもうた、堪忍なあ、オ

カン、オカン、オカン、オカンにもう一度会いたいねん、オカ〜ン!オカ〜ン!オカ〜ン!オカ〜ン!カンバック・トゥ・ミィ〜〜〜〜〜〜!!!!!」しんみりと

嘘くさい涙から、だんだん自分の演技に陶酔し、あげくの果てに本気でオイオイ大泣きしだしたりする始末、もしかしてタバコ以外にも病院では決して処方されるこ

とのない疲れが一気にぶっ飛んじゃう系の危ないおクスリを会社のどこか、タバコと同じく便所のどこかに隠してこっそりキメているのではなかろうかと疑いたくも

なるほどに言動が尋常でなく情緒が常に不安定であり、とにかく、バカ社長・豊中狂児の口からは、バカの一つ覚えのように、二言目には「徹夜」、三言目には「一

流」という言葉がポンポンポンポン飛び出てくるのであったが、徹夜するだけで簡単に一流になれようものならば誰も苦労などはせず単に眠らなきゃいいだけの話で

あって、世の中誰しもが一流になってしまうのではないのか、そんなことも理解できないほどのバカなのであろうか、それにそもそも、暇さえあれば一流一流一流、

おそらく寝言でさえも一流一流一流つぶやいていることであろう、一流実現党の党首であるところの、このバカ社長・豊中狂児自身が、実際のところは一流でも何で

もなくって、ただの二流コピーライター崩れにすぎず、一度広告屋から足を洗いかけたもののすぐに失敗したのち、バブル時代よ、もう一度!と金に目がくらんで再

び広告屋へと逆戻りしてしまったという厄介な「広告屋コンプレックス」と、自分が二流であるという現実を頑なに認めようとはせずに闇雲に一流を夢見る「一流コ

ンプレックス」とを、へんちくりんな具合にこんがらがらせて重度に拗らせていることに本人自身は気づく様子もなく、私は「一流コンプレックス」のほうには、脳

味噌がバブル時代で一時停止しているバカな勘違い広告屋風情の考えることはまったくもって理解不能と一切同情も共感もできなかったけれども、私自身も27歳の時

にたまたま読んだ坂口安吾の小説『白痴』にそそのかされ、一度は広告屋から足を洗ったものの生活に行き詰まり再び広告屋に舞い戻ってしまったという恥ずかしい

十字架を背負っているがゆえに、広告が賤業だと重々わかっているにもかかわらず広告がもたらす濡れ手に粟のあぶく銭のため哀しくも広告にしがみついてしまうと

いう厄介な「広告屋コンプレックス」のほうには、一定の理解を示すとともに、そんなバカ社長・豊中狂児の哀れな姿に、時折私は自分の姿を重ねてみせたりもして

いたものだった(ただし私の場合はバブル時代においしい生活を一切経験しておらず、まだまだ「広告屋コンプレックス」の軽度の症状で済んでいたのだけれども)。

また、スーパー・デジタル・カンパニーは実際毎回毎回の打合せがとにかくやたらめったらと無駄に長い会社であり、おそらくはバカ社長・豊中狂児の出身である某

大手広告代理店(頭文字H)の悪しき伝統をしっかりと受け継いだものであったと容易に推測されたわけだが、その打合せの中味のほぼすべてが「俺は、さとうかしわ、

さのけんじろうとも、しょっちゅう朝まで打合せしとったんやでえ、まあ、彼らはある意味じゃ俺が育てたと言うてもええかもしれへんね、ついでにアイツもコイツ

も、それからソイツもドイツもコイツもアイツも全部、俺が育てたと言うてもええかもしれへんよね、今じゃみんなさん、あんなに立派になられてしもうてからに、

お父ちゃん鼻高々やわあ」などなど、くだらぬ無駄話やバブル時代の自慢話や与太話で構成されており、ある時など深夜の打合せ中のテーブルの絵コンテ他書類の上

に、突然気でも狂ったものか、自分の所有している自慢の海外高級ブランド靴のコレクションをすべて運んできてズラーっと並べはじめて「これがイヴ・サンローラ

ンで、あれがサルヴァトーレ・フェラガモ、フェラチオしてるカモやないで、ぎゃはははあははははあはははああ!、お前らもこういう高級な靴履かなならんのやで

え、不思議な話やけどなあ、高級な靴を履いていれば自然と履いている本人までもが高級になってくるもんなんやでえ、その証拠に例えば俺を見てみいや、お前らも

そんな安もんの汚ったならしいスニーカーなんて履いとる場合ちゃうんやでえ」など、延々と説教をはじめるも、社員の誰一人として(絵コンテが社長の靴に踏んづけ

られているという状況にもかかわらず)、文句ひとつも言わず「スゴイっすね」だの「さすが社長っす」だの「フェラ最高っす」などヘラヘラと媚びへつらうヘタレば

かり、会議は踊るされど進まずではないけれど、真夜中にバカ社長一人ハイテンションな打合せはいっこうに進まず、一事が万事とにかく毎日がこんな調子なものだ

から、徹夜が何日も何日も続き、社員全員1週間家に帰っていないことなど日常茶飯事であり、深夜の半端な時間に仕事の片がつく時でさえもタクシー代など出るは

ずもなく、そのまま会社の床に寝転がって仮眠をとって朝を迎える他なく、その連日の徹夜が果たして仕事の成果にしっかりと結びついているのかと言ったらば甚だ

疑問であり、ただ時間と体力を虚しく浪費しているにすぎず、さらに、徹夜真理教の教祖として社員に徹夜を強要しておきながら、残業代などはびた一文支払われる

ことも当然のごとくなかったわけだが、教祖である自分だけはあぶく銭で購入した広告屋芸能人ヤクザのみなさんみんな大好き右ハンドルのドイツ製高級外車を乗り

回し、深夜であろうと「ほな、あとよろしく頼むでえ」と颯爽と帰宅しては、翌日「おはようさん」と昼過ぎに寝ぼけ眼で出社してくるのであった。また、バカ社長

・豊中狂児は「お前たち社員全員を1000万円プレイヤーに育てるのが俺の夢なんや!俺たちはファミリーなんや!」「とにかく俺についてくれば間違いなく1000万

円プレイヤーになれるんやから、大船に乗ったような気持ちで俺についてきんさい!」などと景気のいいことを熱く語ってもいたけれども、社員の誰一人としてその

ような血迷った妄言を信じる者などなく、入れ替わり立ち替わり次々と社員たちは会社を去って行き、新人を補充してもすぐまた去って行き、実際私の月々の給料も

雀の涙程度であり、1000万円プレイヤーどころか500万円プレイヤーですらも夢のまた夢のそのまた夢のそのまた夢といった具合なのであった。そんな時、私は、

以前に勤めていたフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)のことを思い出しては、今思えば前の会社は社員思いのまと

もで優良な会社だったんだな、こんなことならばあそこを辞めずにもう少しがんばっていれば良かったかもしれないな、しかし、何を間違って自分はこんなブラック

な会社に入ってしまったんだろうか、ここまで酷い会社は見つけようと思ってもそうそう見つかりはしないんじゃないか、それくらい絶望的に酷い会社だぞ、そろそ

ろ考えないといけないかもしれないな、しかし、そもそも自分は藝術家になるんじゃなかったっけか、広告なんて二度とやってられるかって啖呵を切って広告屋から

足を洗ったくせに、金に困ってすぐまた戻ってきてしまうなんてまさに愚の骨頂ではないか、絵に描いたようなバカではないか、自分もバカ社長・豊中狂児と同じ穴

の狢ではないか、そういったある意味「広告屋コンプレックス」を拗らせているとも言える自分の中にある嫌な部分がバカ社長・豊中狂児の中にうっすらと見えてし

まって映し鏡のように自分自身を見ているようだからこそ、近親憎悪とでもいおうか、ことさらバカ社長・豊中狂児のことがムカついてムカついて仕方なく憎々しく

思ってしまうんだろうな、まあ実際言ってることもやってることも人間としてどうなのかって思うところも多々あるけれども、やはり広告屋という職業は坂口安吾が

『白痴』の中で言ってたように「賤業中の賤業」なんだよな、そんなことわかり切っていながら性懲りもなくまた広告屋に逆戻りしてしまって、まるで風俗業を忌み

嫌ってるくせに金に目がくらんで辞めては戻り辞めては戻りして結局足を洗えずに気がつけばババアになってしまっているスレッカラシの風俗嬢みたいではないか、

やはり広告みたいに他人の作品を作って金をもらうんじゃなくて、自分自身の内から沸き上がる創作意欲を藝術作品へと昇華させて、ようするに自分自身の作品を作

らないとダメなんだよな、そうしなければ自分は一生救われることはないんだよな、それなのに自分はこんなところで一体何をやっているんだろうか、こんなところ

にいてこんなことしてたらいつまでたったって藝術家になんてなれっこないじゃないか、バカバカバカバカ、自分のバカ、しっかし背中痛えなあ、などと深夜の会社

の硬く冷たい床で寝返りを打ちながら夢うつつに己の不甲斐なさを嘆いたりもしたものだった。また、このバカ社長・豊中狂児は、ごく最近飼いはじめたバカな金持

ちによくありがちな外国産のバカでっかい真っ黒い犬(Big Black Dog)を毎日会社に連れてきては会社内に放し飼いにするものだから、会社内は獣特有の生臭さと糞尿

の臭いの混ざりあったような何とも言えぬ吐き気を催す不愉快な臭気に常に満たされているのであったが、その臭いの原因であるバカでっかい真っ黒い犬(Big Black

Dog)ときたらば、人間の成人男性とほぼ同じくらいバカでっかいペニスとキンタマを優雅に(エレガントに)ブラブラと揺らしながらツンと澄ました顔をして、死物狂

いで働くわれわれ社員たちを横目にあちこちうろつき回っては、突然見えない何かに向かって癇にさわるほど大声で吠えたてたり、バカ息子が母親に甘えるような甘

ったるいバカ犬声でキャイ〜ンキャイ〜ンとバカ社長・豊中狂児とジャレあって延々と遊びまくったりして、犬は飼い主に似ると言うように親子共々迷惑千万以外の

何ものでもないのであった。そのような明らかに労働基準法に違反する劣悪で過酷な労働条件の下で忙しさにかまけて無我夢中に働いているうちに、気づけば私がこ

の会社に入社してもうすぐ1年になろうというある日のことであった。私とこのバカ社長・豊中狂児との間の感情的なもつれから、私の溜まりに溜った日頃の鬱憤が

とうとう大爆発してしまって、私にとっては致命的となる決定的な衝突が起こり、その数日後、私は突然クビを言い渡されたのだった。決して忘れもしない6月のあ

る日、私は会社の自分のデスクで仕事中、バカ社長・豊中狂児の番頭的な役割を担っていた年上の同僚社員の某という小太りな狸男から、ちょっと話があるんだけど

と外へと連れ出され一緒に近くの喫茶店まで行き、そこで私は突然自分が解雇されたという衝撃の事実を告げられたのだった。バカ社長・豊中狂児は、普段偉そうな

ことばかり言っているくせに中身は腐れへたれチキンな小心者ゆえに、その任務をこの某という小太りな狸男に託したわけであったが、たかだか社員6~7人の吹けば

飛ぶような小さな会社の社員一人に対してすら直接クビを言い渡す甲斐性もないバカ社長・豊中狂児のことを、私はひどく哀れに思ったものであった。当時、私は仕

事でとある有名な落語家の巨匠にラップを歌わせるという壮大なプロジェクトの企画および進行を担当しており、そのプロジェクトが頓挫してしまうことを一瞬危惧

したけれども、すでに私はこの会社で働き続けることに対しての我慢の限界をとっくに超えていたため、これ以上このような腐り切った会社で腐り切ったバカ社長・

豊中狂児と仕事を共にしていても得るものなど雀の涙程度の給料以外には何もなく、渡りに船とばかりに喜んで解雇を承諾したのだった。ただし、落語家の巨匠に

ラップを歌わせる壮大なプロジェクトの引き継ぎおよびその後の進行と、解雇後の事務処理手続きだけはくれぐれもつつがなくよろしく頼むという旨をその某という

小太りな狸男に強く申し入れ、狸男は、任せておいてくれたまえと突き出た小太りな腹をポンとひとつ叩き、何度も強く頷いたものであった。そして、私はそのまま

会社に私物を取りに戻ることも許されず、他の社員に別れを告げることもできず、その日のうちに会社を追放される運びとなったのだった。而して、バカ社長・豊中

狂児の会社に入社してから約1年ぶりに自由の身となった私は、まるで無実の罪によって囚われていた罪人が監獄から放たれた時のような晴れやかで清々しい気持ち

に満たされているのであった。もうこれからはバカ社長・豊中狂児のお遊びにつきあって夜を徹することもなければ、犬や奴隷のようにこき使われることもないと思

えば、自然と私の頬には久方ぶりの笑みが浮かんでくるのであった。だがしかし、その後の会社側、つまりバカ社長・豊中狂児の私に対する仕打ちは、今思い返して

も怒りに身を震わせるほど最悪を通り越してあまりにも惨たらしく酷いものであり、それはまるでバカ社長・豊中狂児の心の貧しさや醜さや卑しさがそのままバカ社

長・豊中狂児の行動に体現されているようにも思えるほど、とにかく冷静に客観的に見ても、あまりにも醜悪なものなのであった。そもそもの話、今度の私の解雇の

原因は私とバカ社長・豊中狂児との間の感情的なもつれやいさかいによるものであり、それだけでは会社側が一社員の私を一方的に解雇できる正当な理由とはなり得

ず、本来ならば不当解雇に相当するものであり、通常私が拒否すれば解雇は撤回されなければならないはずのところを、今回は解雇通達方法が曖昧模糊であったとは

いえど、仮にも私が解雇を承諾したため、その場合は、私が会社側の都合によって離職するという形をとることとなり、その際には会社側はその旨を社員の私に対し

て1ヶ月前までに通達しなければならないことが労働基準法では定められているところを、今回の私のケースでは解雇を通達されたその日に即刻解雇されたわけなの

で、会社側は社員の私に対して1ヶ月分の給料を余計に支払わなければならないことが法律で決められているのだった。また、失業保険を受け取る手続きをするため

に会社側から離職票という書類を通常10日前後で迅速に元社員に送らなければならないことにもなっているのだった。しかし、私が解雇されてから1ヶ月が経過して

もなおのところ、会社側から離職票が送られてくる気配はまったくなく、1ヶ月分の給料が支払われることもなく、痺れを切らした私は退職時に事務処理をくれぐれ

もよろしくと頼んでおいたバカ社長・豊中狂児の番頭的な存在である某という小太りな狸男に電子メールで問い合せてみたところ、返信はなく、何度電子メールを送

ってみても同様に返信はまったくなく、ケータイ電話にも出ようとしなかかったため、あの時、任せておいてくれたまえと突き出た腹をポンとひとつ叩き何度も強く

頷いたのは一体全体何だったのであろうか、やはり狸男など信用してはならなかったのかもしれないな、と訝しく思いながら、次に、私は会社の所在地を管轄する渋

谷区にある労働基準監督署へと相談に出向き、そこでもらったアドバイス通りにバカ社長・豊中狂児宛に内容証明郵便で、離職票を早く送れ、1ヶ月分の給料を振り

込め、さもなくば法的機関に訴えるぞよ、と記して送ったのだった。しかし、その後も会社側からは何らのリアクションはなく、私は仕方なく、その2週間後、1ヶ月

後、2ヶ月後にも、合計4回にわたりバカ社長・豊中狂児宛に内容証明郵便で、離職票をすぐに送れ、1ヶ月分の給料を振り込め、さもなくば法的機関に訴えるぞよ、

会社経営はガキのママゴトではないのだぞよ、まともな大人だったらばきちんと誠意ある対応をしたまえよ、こちらは絶対に泣き寝入りなどはせぬからな、なんなら

解雇自体を不当なものとして撤回させることもできるのだぞよ、法廷で3年くらいじっくり時間をかけて争う所存であるぞよ、覚悟しておきたまえよ、と記して送っ

たのだけれども、回を重ねるごとに内容証明郵便の中の文言は、私の抑え切れぬ激しい怒りによって、どんどん過激になっていくのであった。ちょうどそんな頃だっ

たであろうか、ある日、私は、労働問題に関する本を物色するために立ち寄った本屋で偶然1冊の本を手に取ったのであった。それは『大杉栄自叙伝』という文庫本

であった。私は、大杉栄という人物に対して昔から名前だけはよく目や耳にしていたものの、実際にどういった人物なのか詳細についてはほとんど知らず、アナキス

トで、テロリストで、なんだかちょっと恐そうな危険人物という印象を持っていたのだけれども、実際に『大杉栄自叙伝』をペラペラと読んでいくうちに、私自身は

右翼でも左翼でもネトウヨでもパヨクでもなくて、ただのPUNKSの一人としてそれまで自由勝手気ままに生きてきたため、当時も現在も恥ずかしながら政治的な問題

にはさほど高い関心はなく、その時も結局何が言いたいのかよく理解できなかったというのが率直な感想であったものの、その文章は特別難解というわけでもなく、

大杉栄という人物の内面にある強さややさしさや人間とくに弱い者に対する慈愛が滲み溢れ出ているかのようなとても力強い文体で書かれてあって、偶然手にしたと

はいえ、その時会社側と労働問題で揉めに揉め孤軍奮闘していた孤独な私にとっては、やさしくそして力強く背中を押され勇気づけられるような、なんとも頼もしい

仲間ができたような、そんな気がしたものであった。その『大杉栄自叙伝』の中でも、私が特に惹き付けられたのは冒頭に収録されていた『生の拡充』という文章の

一節であった。「被征服者の生の拡充はほとんど杜絶せられた。彼らはほとんど自我を失った。彼らはただ征服者の意志と命令とによって動作する奴隷となった。器

械となった。自己の生、自己の我の発展をとどめられた被征服者はいきおい堕落せざるをえない、腐敗せざるをえない。征服者とてもまた同じことである。奴隷の腐

敗と堕落とは、ひいて主人の上にも及ぼされずにはやまない。また奴隷には奴隷の不徳があれば、主人には主人の不徳がある。奴隷に卑屈があれば、主人には傲慢が

ある。いわば奴隷は消極的に生を毀ち、主人は消極的に生を損ずる。人として生の拡充を障害することは、いずれも同一である。(引用1)」「今や近代社会の征服事実

は、ほとんどその頂点に達した。征服階級それ自身も、中間階級も、また被征服階級も、いずれもこの事実の重さに堪えられなくなった。征服階級はその過大なるあ

るいは異常なる生の発展に苦悩しだしてきた。そして中間階級はまた、この両階級のいずれもの苦悩に襲われてきた。これが近代の生の悩みである。(引用2)」「ここ

においてか、生が生きていくためには、かの征服の事実に対する憎悪が生ぜねばならぬ。憎悪がさらに反逆を生ぜねばならぬ。新生活の要求が起きねばならぬ。人の

上に人の権威を戴かない、自我が自我を主催する、自由生活の要求が起きねばならぬ。はたして少数者の間に、ことに被征服者中の少数者の間に、この感情と、この

思想と、この意志とが起こってきた。(引用3)」「われわれの生の執念深い要請を満足させる、唯一のもっとも有効なる活動として、まずかの征服の事実に対する反逆

が現われた。またかの征服の事実から生ずる、そしてわれわれの生の拡充を障害する、いっさいの事物に対する破壊が現われた。そして生の拡充の中に生の至上の美

を見る僕は、この反逆とこの破壊との中にのみ、今日生の至上の美を見る。征服の事実がその頂点に達した今日においては、諧調はもはや美ではない。美はただ乱調

にある。諧調は偽りである。真はただ乱調にある。今や生の拡充はただ反逆によってのみ達せられる。新生活の創造、新社会の創造はただ反逆のみである。(引用4)」

それからほどなくして、おそらく私が最後にバカ社長・豊中狂児宛に送った内容証明郵便の中の「ガキのママゴトではないのだぞよ」という文言が功を奏したのだと

私は今でもそう思っているが、私が解雇されてから数えること約3ヶ月後になって、ようやく、バカ社長・豊中狂児から私の元へ待ちに待った離職票が送られてきた

のであった、が、が、しかし、その離職票が入れられた封筒を目にした私は思わず愕然としてしまったのだった。まず、その封筒は、会社専用の封筒が存在するにも

かかわらず、私の勤めていた会社のものではなく、どこか知らない別の会社の使い古しのクシャクシャでボロボロの小汚い封筒であり、そこに印刷されたどこか知ら

ない別の会社名や住所やロゴマーク(富士通なんちゃらという文字がうっすら読み取れた)が、まるで私の心をもてあそび、私を小馬鹿にするかのごとく、マジックイ

ンクで故意に汚らしく乱暴にいい加減に塗りつぶされており、おまけに、封筒全体の至るところには薄茶色の謎の物体(液体)が不自然に塗りたくられているのであっ

た。私は、不穏な気持ちを抑えながら、おそるおそる封筒に鼻を近づけて臭いを嗅いでみれば、そう遠くはない過去のどこかで嗅いだ覚えのある、吐き気を催すよう

な不快で生臭く、そして、少しだけどこか懐かしくもある臭いがかすかに漂ってくるのであった。すぐさま、私の頭の中には、バカ社長・豊中狂児の愛犬であるバカ

でっかい真っ黒い犬(Big Black Dog)が、人間の成人男性とほぼ同じくらいバカでっかいペニスとキンタマを優雅に(エレガントに)ブラブラと揺らしながらツンと澄ま

した顔をして歩く姿が鮮明に浮かびあがり、やがて、私の全身は突然わなわなと震えはじめ、私は、こみあげる猛烈な吐き気を必死に堪えながら便所に駆けこみ、便

器に向ってオエオエッと嘔吐くも何も吐き出されず、それから、その強烈な悪意と犬の糞に塗れたクシャクシャでボロボロの禍々しい封筒を、激しい怒りと憎悪を込

めてその場で素手でビリビリッと乱暴に破り、木っ端みじんにし、そのまま便所に流したのだった。便所の水たまりの穴に渦巻く水流の中に、一瞬バカ社長・豊中狂

児のあの薄ら禿げかけた金髪の人相の悪い醜い顔が浮かびあがり、私にニヤリと笑いかけ、そして、あぶくとともに消えていった。勢い余った私は、危うく離職票ま

でも破りかけたものの、そこはなんとか冷静さを取り戻して思いとどまって、それから、私はそのまま便所に居座り続け、しばらくの間茫然自失と便座にへたりこん

で、怒りやら、憎しみやら、哀しみやら、悔しさやら、虚しさやら、惨めさやら、それから自分でもなんと呼んでよいのかなんだかよくわからない不思議な感情やら

の入り混じった複雑な気持ちのまま、小1時間ばかり涙を流し続けたのだった。私の心の中にあるすべてのものが、涙とともに吐き出され、私の心が空っぽになるま

で、私は涙を流し続けたのだった。私の心も体も、この世界に存在するすべてのものも、私の涙とともにすべて流されて、きれいさっぱり消えてしまえばよいのにと

願いながら、私は涙を流し続けたのだった。そうして、そのうち気がつけば、私はまるで幼い子供に戻ったかのように脇目も振らず大声をあげて嗚咽し涙をボロボロ

と流しはじめているのだった。私の手にするしわくちゃになった離職票に激しく降り注ぐ、涙の雨音(The Rain Song)が、暗く閉ざされた便所の個室にボタボタボタボ

タうるさく響き渡っていた。そうして、さんざん泣きつくし、泣きはらし、泣き疲れ、涙もすっかり涸れ果てた末に、ようやく、私は闘うことを決意するのだった。

2020. 7

 

 

 

 

 

01.『Idiot / 白痴 (仮)』

 

 

私は、20代の初めから40代の手前まで、途中に空白期間もいくらか存在するけれども、広告業界の片隅に身を置き、TV-CMなど映像の仕事に携わりながら細々と生

きてきたが、33歳で絵を描きはじめるようになってからは、広告業界とは徐々に距離を置きはじめ、そして、40歳を機に、身の程知らずにも、今後は絵一本で生き

ていく決意を固め、腹を括り、現在に至っては広告業界からは完全に足を洗った状態にいるのだった。決して長いとは言えない期間ではあったが、一時期身を置き、

また、生まれて初めての正式な生業として就いた仕事である広告および広告業界に対して、私は相当に強い不信感不快感および嫌悪感を抱き続けているのであった。

もっとも、それは私が広告業界において成功を収めることが叶わなかったからという理由ではなく、また、様々な人間関係および金銭関係のトラブルなどに巻き込ま

れ手ひどい仕打ちにあったからという理由でもなく、もちろん、それらも私が広告業界を忌み嫌う理由にまったく入らないと言えば嘘になってしまうが、あわせても

全体のおよそ30%の割合に相当する副次的な理由に過ぎず、私が広告業界を忌み嫌うのには、それらとはまた別にきちんとしたもっと根深い本質的な理由があるのだ

けれども、その理由を説明するにあたって、まずは、私の広告業界における華麗なるとは決して呼ぶことのできない略歴を書いておかなければならないのであった。

少々長くなるが我慢して読んでもらえるとありがたい。私は、都内の進学校としてそこそこ名高い公立高校を卒業後、予備校などには一切通わず家で独学して一浪の

末に合格した都の西北に位置する某バカ田大学をほとんど出席することもなくあっけなく中途退学したのち、飢えた野良犬のごとく街をふらふらとうろつきまわって

いた時に本屋で立ち読みしていてたまたま求人広告を目にした、広告業界では非常に名の知れた、フランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダ

クション(頭文字M)の入社試験をなんとなく軽い気持ちで受けてみたところ、なんとなくわけもわからず合格してしまったため、21歳の若さで、そのフランク・ザッ

パのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)に入社したのだけれども、入社まもなく1週間足らずで、すでに就職したこと自体を後悔しはじ

めるほど、私には会社勤めというものがまったくもって性に合っていないのだった。入社後、会社のある重役の一人に、なぜ私のようなぼんくらを好き好んで採用し

たのか?と冗談まじりに尋ねてみたところ、その重役が真顔で答えるところによれば、私の筆記試験の成績は最低最悪の出来であり、本当に世の中のことを何一つ知

らない大バカ野郎だから、こういう仕事にはそういう何物にも染まっていないまっさらな状態の人間(つまりバカ)のほうが馴染みやすく向いているのだそうであり、

私は、なんだか褒められてるのだか貶されてるのだかどっちなんだかわからず複雑な心境で苦笑をこぼす他なかったが、さらに、これは後になって自然と漏れ知れた

ことだったけれども、そのフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)は、一昔前ならば、内田裕也がスーツ姿で海だか川

だかを泳ぐデパートのCMや、ジェームス・ブラウンがゲロッパ!ゲロッパ!歌う同じくデパートのCMや、勝新太郎がコカインをパンツに隠してるところを空港で捕

まり一瞬でお蔵入りしたビールのCMや、井上陽水が車の助手席からカメラに向って、お元気ですかー?と不敵に笑う車のCMをはじめ、有名なCMを多数手掛けていた

会社であったが、私が入社する前年にプロデューサーである社員の一人が大麻だか麻薬だかの所持か何かの咎で逮捕され、一時期仕事がまったくなくなってしまって

倒産寸前だったところをなんとか恢復したばかりだったらしく、そういった気まずい会社の雰囲気を払拭するためにも私のようなぼんくらを入れて空気を入れ替える

必要があったようなのだった。また、その重役が付け加えるところによれば「お前は本当に何を考えているかわからぬような世間知らずのバカだけれど、作文だけは

なかなか面白かったよ」とのことであり、記憶を遡ってみれば、私は入社試験の作文で、今もっとも興味があることを書きなさい、という課題に対して、アダルトビ

デオの危険性、つまり、昔はみんな想像力を駆使しながらせっせとマスターベーションをかいていたわけだが、昨今のアダルトビデオの急速な普及によって、みんな

想像力を働かせなくなり、このような状況がこれから先もずっと続くようならば、日本中はおろか世界中がバカばかりになってしまって、それは甚だ由々しき問題な

のではないか、と警鐘を鳴らす内容の文章であり、私は、なぜそのような文章を書いたのか自分でもよく覚えておらず、おそらくはその時の気紛れであったとしか考

えられず、TV-CM制作会社の入社試験の作文にアダルトビデオの弊害について警鐘を鳴らす私は一体何を考え、そして、一体何がしたかったのであろうか(そもそも

アダルトビデオもTVも広告も結局は人間から自分の頭で考える能力を奪って人間を白痴化するための媒体であるとも言えるのにもかかわらず)、と今にして苦笑まじ

りに思い返すわけだけれども、そんな何を考えているのかさっぱりわからぬような、ぼんくらの私を思い切って採用した会社の懐の深さに感謝するとともに、あらた

めて驚きも隠せないのであった。また、入社早々、新人研修と称した無駄話の中で、私が「世の中をアッと驚かせるような画期的に面白いCMを作りたいんです!」と

意気揚々と熱く語った言葉に対し、その重役が「アッと驚かすのはお前の両親だけでもう十分過ぎるんだから、もうこれ以上は勘弁してくれたまえよ」と冗談半分に

前置きした上で自嘲的に語った言葉をそのまま引用するならば「広告という仕事とは、他人のために、他人の金を好き勝手に使って、好きなタレントに好き勝手なこ

とを言わせたり、好きな勝手なことをさせたりして、自分の好きなものが作れて、おまけに、こんなにもらっては申し訳ないと恐縮するくらい結構な金額のギャラン

ティまでもらえるわけだから、なんともボロい商売ではあるけれども、所詮広告は広告であり、結局それ以上でもそれ以下でもなくて、ようするに、ただそれだけの

ことであるから、あまり過度な期待などするなよ」とのことであり、それを耳にした当時入社まもなく広告およびTV-CM制作という仕事に対して並々ならぬ期待に胸

を膨らませていた世間知らずでぼんくらの私は、まんまと出鼻をくじかれて、この人は一体何を言っているのだろうか、と何だか肩透かしを食らったような、狐につ

ままれたような気分を味わってもいたのだけれども、その後、実際に広告という仕事の具体的な作業に携わるようになるにしたがって、徐々に私はその言葉の真意を

骨の髄まで身に沁みて理解するようになるのであった。例えば、私が夜を徹して考えた渾身の企画アイデアを絵コンテに描いて打合せで自信満々に発表すると、その

重役は「うーんとね、いっぱい考えてきてくれたんだけど、すごく面白いんだよ、面白いとは思うんだけどね、何ていうかさ、広告としてはいささか高級過ぎちゃう

んだよね、面白過ぎちゃうわけなんだよ、広告なんてものはさ、もっと世間のバカが喜ぶようなくだらないもので十分なんだよ、どうせTVなんてバカしか見てないん

だからさ」と一蹴されてしまったりなど、私はホロ苦い経験を味わい続けることになるのであった。その重役はTV-CMの演出家として一昔前の80年代に一世を風靡し

た鬼才/奇才として広告業界では知らぬ者がいないほど有名な傑物であり、私が入社した当時すでに全盛期を過ぎキレが鈍くなってはいたものの、たしかに話を聞いて

いると突拍子もない言葉が次から次とポンポンと飛び出てくるので、この人はやはりただ者ではないなと私もその才気を素直に認めざるを得なかったわけだけれども

(例えば、切手を貼るためには切手の裏側を舐めなくてはならない→それはいちいち面倒くさいので切手を舐めることだけを仕事とするバイトの老人を1人会社に雇っ

たらどうだろうか→採用の面接ではやはり実際に切手を舐めてもらって唾液の量で決めないといけない→どんなに人柄が良くたって唾液の量が少なければ雇う意味が

まったくない→とにかく唾液の量がすべてだ→そして元郵便局員の老人の採用がもちろん唾液の量が半端なくすごかったという理由から決まる→老人は一般的に朝が

異常に早いからいつも社員たちより早く一番乗りで出社してきては会社の玄関前で正座して待っている→老人は普段は入れ歯だけど切手を舐める時だけは必ず外して

舐めるのが流儀→老人は唾液の量が不安定だから暇な時はデスクで常に舌をペロペロ動かしてウォーミングアップして唾液の分泌を促している→日によって切手を舐

める仕事量にムラがあり昼休みなしで一日中切手をペロペロ舐め続ける日もあれば1枚も舐めないでただデスクで虚しくエアペロペロするだけで終わる日もある→老

人には本当はちゃんとした名前があるけれど社員はみんなペロペロさんというニックネームで呼んでいる→ペロペロさんの勤務時間は朝9時半から夕方17時半までで

夜に急遽切手を貼らなければならなくなった緊急事態にはペロペロさんに「悪いんだけど、すぐ会社に来てくれないか」と電話する→電話には奥さんが出てまだ夜の

8時だというのに「ごめんなさい、主人はもう休ませて頂きました」と言われる→「そこをなんとか叩き起こしてタクシー使ってもいいから来て下さいよ、切手舐め

るのはペロペロさんじゃないとダメなんですよ、残業代もきっちり払いますから」と無理やり来てもらうよう頼む→そして首を長くして待っているとパジャマ姿のペ

ロペロさんがタクシーで現われ切手1枚ペロッと舐めてもらう→「ペロペロさん助かったよ、やはり切手舐めるのはペロペロさんじゃなくちゃダメだよな」→それか

ら「そうだ、せっかく来てもらったんだし、この後みんなと一緒に一杯飲みに行きませんか」と誘う→ペロペロさんは「せっかくですが、明日も朝早いし、それにお

酒を飲むと唾液の分泌に影響でちゃうから、また今度誘って下さいな」と再びタクシーで帰って行く→「さすがペロペロさんだな、仕事に命掛けてるよ、それがプロ

フェッショナルってもんだよな」とみんなで感心する、だとかいう架空の人物ペロペロさんについての与太話を延々と小一時間ほど語り出して止まらなくなったりす

るのを聞きながら、私は、この人一体いつまで話してんだろ、頭ヤバいんじゃないのか、ペロペロさんて誰だよ、切手なんて誰が舐めたって一緒じゃないかよ、と内

心思っていたものだが、他にも、編集作業中に昼飯を食べながらニュースで阪神淡路大震災の映像が流れてくるのを見て、ここにゴジラのカットを一瞬でもインサー

トしたら全部ゴジラの仕業になるのにな、だとかを本気なんだか冗談なんだかわからないような口調で真面目な顔して延々と話し続けていたりなどなど)、また、その

重役はTVのバラエティ番組にレギュラー出演していた経験もあり、入社後しばらく経ったある休日に私が都内の外れにある実家に里帰りした際、たまたまそのバラエ

ティ番組の特番がTVから流れていて、それを実家の茶の間で家族たちとともに眺めていた時のこと、その特番は春の運動会と称して出演者たちが各種競技に挑戦し、

私の会社の重役もトラック一周を競い合う400m走に出場していたのだけれど、スタートの合図のピストルが鳴り響くと同時に、何を血迷ったものか、アラン・シリ

トー『長距離ランナーの孤独』の主人公でも気取ったものか、重役はいきなり踵を返し他の競技者とは真逆の方向へとひとり疾走しはじめて、その後しばらくの間は

TVの画面に一切映らなくなり、中盤で他の競技者たちと一瞬すれ違ったかと思ったら、また消え、ゴール地点で再び逆方向から走ってきて一瞬だけ映ったかと思った

ら、また消えるという突拍子もない芸当を成し遂げたのだったが、にもかかわらず、その重役の体を張った暴挙はTVの中では一切触れられることもなく無視されなか

ったことにされてしまって、実家の茶の間に気まずい空気が流れる中、今まで無言でTVを眺めていた母親が一言「大丈夫かい?」とぽつりと心配そうに尋ねてきて、

その「大丈夫かい?」というのは、つまり「こんな変てこなことを突然しでかす頭のおかしい人の会社で働いていたら、そのうちお前まで頭がおかしくなってしまう

のではないのかい、まあお前は今でも十分すぎるほど頭がおかしいけれどね、せっかくいい大学に入ったのにすぐに辞めてしまって、毎日フラフラしてばかりで、こ

の先どうやって生きていくつもりなのか、お父さんもお母さんもずいぶん心配してたけど、とりあえず自分で仕事見つけてきて就職したから、まあやりたい仕事をや

るのが本人にとっては一番幸せだって、お父さんもお母さんも少しは安心してたんだけどね、でも、やっぱり、きちんと大学を卒業して、まともな会社に入って、ま

ともな人生を歩んでいくべきだったんじゃないのかい、自分の人生なんだから自分で決めればいいことなんだけど、お父さんもお母さんも、あまり口うるさく言わな

いし、お前のことを陰ながら応援していきたいとは思ってるんだけどね、でもね、なんて言うか、こういうの見ちゃうとね、いきなり他の人たちとは逆の方向へ走っ

て行っちゃうなんて、やっぱりちょっと普通じゃないと思うし、絶対に頭がおかしいと思うし、なんだかまるでお前の人生を見ているような気がしてね、お前もきっ

とお母さんと同じように思ったに違いないけど、お父さんは何も言わないし、でも何だろうね、今ならまだ若いんだし、そんなヤクザみたいな仕事じゃなくって、あ

んな頭がおかしくなっちゃうような仕事とかじゃなくってね、何というかお兄ちゃんみたいに堅い仕事に就いて、銀行員とか公務員とか普通の仕事に就いて、まだま

だやり直しもきく年齢なんだし、なんとかなると思うんだけどね、どうだろうね、お前は今のままで本当に大丈夫だと思ってるのかなあって、それならそれで構わな

いんだけどね、自分で決めたことなら、それで構わないんだけど、でもね、さっきの見てたらお母さんなんだか心配になってきてしまったから、ついつい言いたくも

ないことを言ってしまうわけだけど、お前、本当に、本当に、大丈夫かい?」という意味の「大丈夫かい?」であることは、長年一緒に暮らしてきた血の繋がった親

子ゆえ容易に推測されたわけだけれど、私も本音を言えば内心は全然大丈夫だなんて思ってはいなくって、なんとなく入社試験を受けてみたらなんとなく受かってし

まったから就職しただけで、今の仕事が本当に自分のやりたいことなのかどうか確信はまったくなくって、もしかしたら自分は社会人生活のスタート時点でいきなり

踏み違えてしまったのかもしれないな、と突然トラックを逆走する重役の奇行を眺めながら、また、先日重役が、広告に過度な期待などするなと自嘲的に語ったその

言葉をぼんやりと思い出して考えていたりもしたのだけれど、でも、そんなことよりも何よりも、その時はとにかく重役の突然の奇行が気恥ずかしくてたまらずに、

凍りついた茶の間から一刻も早く逃げ出したくて仕方がなくて、私は「まあ、大丈夫なんじゃないの、こういう仕事は少し頭おかしいくらいがちょうどいいんだよ」

と強がりながらも少し赤くなって答えてから、そそくさと便所に立つふりなどする始末なのであった。かように、本来会社勤めにはまったく不向きであるはずの世間

知らずのぼんくらであった私にとっては、何もかもが初めてづくしの慣れない日々がある日突然はじまってしまったわけだけれど、そもそも、私は何かを表現すると

いう行為に対しては並々ならぬ強い関心があったものの、私には社会生活および集団生活においては絶対に欠かすことのできない協調性というものが先天的に備わっ

てはおらず、大人数でみんなで力を合わせて何かを作り上げるという作業にはまったくもって向いていない人間というわけなのであった。そのフランク・ザッパのバ

ンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)は、もしかして脳味噌まで筋肉でできているのではないかと疑いたくなるような体育会系の体力勝負

だけが取り柄の制作会社が跋扈する広告業界の中にあっては大変珍しいことに、文科系プロダクションとでもいおうか、そこはかとなくアカデミックな香り(そんな高

尚なものでもなかったが)が漂う温厚で誠実な社員が数多く在籍しており、フランク・ザッパのバンド名から取って会社名にしていたにしては、例の重役一人を除き、

ほとんど変わり者は見当たらず、私はそれを少しばかり物足りなく残念に思ってもいたものだが、ともかく、決して居心地が悪いというわけでもなく、むしろ私にと

っては大変居心地がよく感じられ、小さな会社ではあったものの金銭面など福利厚生の待遇も一流企業並みにしっかりとなされていたため、それでも、何やかやとい

って、そのフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)に、私は21歳から27歳までのきっかり6年間在籍していたことにな

り、その6年間に様々な有益な経験も重ねたものであったが、やはり、私にとってTV-CM制作つまり広告という仕事は、例の重役がかつて自嘲的に語ったように、金

のために他人に成り代わって他人のために他人のものを制作しているという認識でしかなくなってしまっており、広告つまりTV-CM制作という仕事においては、私の

持てる力を100%すべて出し切った100%私自身を投影させた藝術作品を作ることは根本的に難しく、そんなことは広告なのだから当たり前だろ、バカ!と指摘され

れば、ハイその通りです、私はバカですね!と答えるほかなく、100%私自身を投影させた藝術作品を身を賭して生み出したいと心の底から願う私と、100%私自身

を投影させることが根本的に難しい広告という仕事との間に、軋轢や葛藤が生じてきてしまうのは至極自然のなりゆきなのであった。また、別のある日、例の重役が

語ることには「広告の仕事というのは広告の中だけから学ぼうと思ったらダメであり、世の中に溢れる広告以外の藝術作品にできるだけたくさん触れて吸収し昇華し

た上であらためて広告という仕事に吐き出して還元しなければならないのであるから、さしあたっては映画をたくさん観ろ、過去の名作をたくさん観ろ、何を観れば

いいか教えてやることは容易いことだけれど、良い作品というのは自分の足で探して自分の目で確かめなければならない、そして、良い作品だけではなくダメな作品

もたくさん観て、どこがダメなのかを自分の頭で判断できるようにならなければ意味がない、自分も映画なんてほとんど観ない人間だったが、会社入ってすぐ銀座の

名画座に毎日通って小津安二郎など一通り観まくって勉強したものだよ」とのことであり、爾来、私はなるべく時間が許す限り映画館に足を運んだりレンタルビデオ

店で過去の名作を漁ったりなど、次第に映画三昧の日々を送るようになり、会社で重役と顔を合わせるたび「何か映画観た?」と問われるようにもなり、私が「この

あいだ『ゴッドファーザー』と『タクシードライバー』を観ましたよ、『ゴッドファーザー』は上下2巻組で、なかなかタイトル出てこないし、人物設定が曖昧で不親

切だなとか訝しく思いつつ、でも面白いからぼんやり観てたら、呆気なくエンドロールがはじまって、そこでようやく間違えて下巻から観ていたことに気づいたり、

それから『気狂い(キグルイ)ピエロ』っていう映画がなんというか、かなり衝撃的でしたね、延々と意味のわからないシーンが続いて、最後はダイナマイト頭に巻いて

爆発しちゃって、こんな終わり方ってあんのかよ?何じゃこりゃー!って感じで、タゴールって監督は絶対頭おかしいですね」と返せば「おっ、懐かしいね、なかな

かイイ感じのラインナップだよ、でもさ、あれは『気狂い(キグルイ)ピエロ』じゃなくて『気狂い(キチガイ)ピエロ』って読ませるんだよ、キグルイじゃなくてキチガ

イ、キチガイが正しいんだ、キチガイ、キチガイ」「ええええっ!本当ですか、キチガイが正しいんですか?なんだ、キチガイだったのか、そうか、キチガイか、キ

チガイが正しいのか、キチガイなのか」「そうだよ、キチガイが正しいんだ、キチガイ、キチガイ、それから、監督もタゴールじゃなくってゴダールだよね、ジャン=

リュック・ゴダール、ジャン=リュック・タゴールじゃなんか語呂が悪いだろ」「そうでした、そうでした、監督はゴダールでしたね、タゴールじゃカレー屋になっち

ゃいますもんね」「そうさ、ゴダールが正しいよ、それと細かいことを言うようだけど、カレー屋はタゴールじゃなくって、おそらくタンドールだと思うぞ」「そう

でした、そうでした、つまり『気狂い(キチガイ)ピエロ』を監督したのはゴダールで、カレー屋はタゴールじゃなくてタンドールってわけですね、ついでに、コーヒー

屋はドトールで、ド・ゴールはフランス大統領で、ダカール・ラリーは自動車レースで、自転車レースがツール・ド・フランスでしたね、危うく外で赤っ恥かくとこ

ろでした、危ない、危ない、でも、キチガイって言葉はたしか放送禁止用語でしたよね?タイトルにキチガイなんて堂々と付けちゃって大丈夫なんですか?」「いい

んだよ、キチガイで、キチガイなんだから、キチガイ、キチガイ」「でも、さすがにキチガイはマズいと思うんですよ、本当にキチガイなんて付けて大丈夫なんです

かねえ?」「だから、いいんだってば、キチガイなんだから、キチガイ、キチガイ」「でも、さすがにキチガイは倫理的にマズいと思うんですよ、本当にキチガイで

いいんですかねえ?」「だから、いいんだってば、キチガイで、お前もしつこい奴だなあ、何度言わせりゃ気が済むんだよ、とにかくキチガイでいいんだよ、キチガ

イなんだから、どいつもこいつもみんなキチガイ、キチガイ、キチガイ、映画撮ったりモノ作ったり何かを表現する奴なんて大抵はどこかしら頭のネジがぶっ飛んだ

キチガイばっかりなんだからさ、キチガイじゃなけりゃ、あんな最後に爆発しちゃうようなわけのわからん頭のイカれた映画なんて作りっこないんだよ、キチガイ、

キチガイ、もちろんお前もキチガイに違いないし、キチガイだからこそ、こんな会社に何かの間違いから飛び込んで来ちゃったわけなんだよ、キチガイだからこそ、

他の人とは違う自分の中の何かを表現したいと思ったり、キチガイだからこそ、自分の中の欠落部分を埋めるべく何かを表現したりするわけなんだよ、つまりだ、キ

チガイであることは、あらゆる表現活動や創作活動においては立派なアドバンテージとなり得るってわけなんだよ」「もうキチガイ最高っすね!」「そうさ、もうキ

チガイ万歳だよ!」「キチガイ万歳!」「キチガイ万歳!」「キチガイ万歳!」「キチガイ万歳!」など、キチガイ絶賛オンパレードのトンチンカンな会話が延々と

続く中で、私は、ふと一瞬冷静になって、ここは一体全体何をする会社なんだっけか、自分はこのままここにいて大丈夫なんだろうか、そのうち本物のキチガイに成

り果ててしまわぬだろうか、などとまたしても不安になってきたりもして、とまれ、そんな具合に会社の外で過去の素晴らしい名作映画に触れれば触れるほど、感動

すれば感動するほど、現実に私が日々携わる広告およびTV-CM制作という仕事における凡庸さや低俗さに対してさらに疑念を抱くようにもなっていくのだった。ちょ

うどその頃、私が広告業界に入った1990年代初頭から半ばあたり以降にかけては、SMAPに代表されるアイドルタレントにちょっと変なことをさせておちゃらかして

失笑を買うCMや、とにかくタレントを大量に使って学芸会をさせるかのような出来損ないのコント崩れドラマ風CMが、広告業界における大潮流となっていき(残念な

がらその悪しき傾向は今現在も脈々と続いているが)、一流クリエイターと呼ばれる者たちが競い合うかのようにそのような低俗なおちゃらけCMを次々と手掛けるよ

うになるわけだけれども、私に言わせれば、そんなものはユーモアでも何でもなくって、ただ悪ふざけして内輪で喜んでいるだけの代物であり、こんなにもレベルの

低い世界に身を置き続けていたらば、いつか自分も染まってしまってレベルの低い人間に成り下がってしまうのではないかと危惧するようにもなっていき、たまに外

で「お仕事は何をされているのですか?」と人に問われる度、私は「映像関係だ」と答え、さらに「どんな映像ですか?」と問われれば「TV-CMとか…」と少し小声

になり、ここで大抵の相手は「スゴイですね!」だの「カッコイイですね!」だの「芸能人に会えたりするんですよね?」だのと些か大げさな反応を返してくるのだ

けれど、私は実際の日々の凡庸で低俗な仕事を思い返してはいつもなんだかうんざりとした複雑な心境になってきてしまって「一見華やかそうに見えますが中身はそ

んな大層な仕事ではありませんよ」と一瞬口をすべらしかけるも、説明しても決して理解してはもらえぬだろうと諦め、慌てて言葉を濁したりもするのだった。その

ように、広告という仕事を金を稼ぐための手段と割り切ってこなすことに対して、日々大事な何かをすり減らし生きているような罪悪感や違和感を心に抱えながら、

自分自身にとってはまったくもって不向きな会社勤めもそろそろ丸6年に近づき、気がつけば私は27歳という年齢になっているのであった。そんな私が27歳になって

しばらく経ったある日のこと、私はある1冊の本を偶然何気なく手に取ったのだった。それは坂口安吾の『白痴』の文庫本であった。 坂口安吾の作品は以前20歳前後

の頃、すなわち、私が都の西北に位置する某バカ田大学をほとんど出席することなくあっさりと中途退学したのち、飢えた野良犬のごとく街をふらふらとうろつきま

わっていた頃に『堕落論』というエッセイを1冊読んだことがあったが、今はなんとなく理解できてきたものの、その当時は何が書かれてあるのかチンプンカンプン

でまったく理解できず、とにかく人間は堕落しなければならないと言われてみたところで、その当時すでに堕落に片足突っ込んで奈落の底へと向かって堕っこちはじ

めていた私ですらもまったく歯が立たず、爾来、私は坂口安吾の本からはしばらくずっと遠ざかっていたのだったが、しかし、私が27歳で読んだ坂口安吾の小説『白

痴』は滅法やたらに面白く思えたのだった。私が何に特別惹き付けられたかといえば、まず『白痴』の主人公、もちろん坂口安吾本人の経歴などが色濃く投影された

男が、当時の私とまったく同じ27歳であったこと、また、仕事も文化映画、つまり戦意高揚のためのプロパガンダ映画の演出家であり、私の仕事であるCM制作とほ

とんど変わらなかったこと、おまけに私と同じ演出助手という微妙な立場であったこと、さらには、これこそ私が最も強く惹き付けられた核心的な部分であったが、

その27歳の文化映画の演出助手である主人公が、自らの仕事を「賤業中の賤業」とみなし不信感不快感および嫌悪感を抱きながら忌み嫌い散々ボロクソにこき下ろし

まくっていることであった。「新聞記者だの文化映画の演出家などは賤業中の賤業であった。彼等の心得ているのは時代の流行ということだけで、動く時間に乗遅れ

まいとすることだけが生活であり、自我の追求、個性や独創というものはこの世界には存在しない。彼等の日常の会話の中には会社員だの官吏だの学校の教師に比べ

て自我だの人間だの個性だの独創だのという言葉が氾濫しすぎているのであったが、それは言葉の上だけの存在であり、有金をはたいて女を口説いて宿酔の苦痛が人

間の悩みだと云うような馬鹿馬鹿しいものなのだった。ああ日の丸の感激だの、兵隊さんよ有難う、思わず目頭が熱くなったり、ズドズドズドは爆撃の音、無我夢中

で地上に伏し、パンパンパンは機銃の音、およそ精神の高さもなければ一行の実感すらもない架空の文章に憂身をやつし、映画をつくり、戦争の表現とはそういうも

のだと思いこんでいる。又ある者は軍部の検閲で書きようがないと言うけれども、他に真実の文章の心当りがあるわけでなく、文章自体の真実や実感は検閲などには

関係のない存在だ。要するに如何なる時代にもこの連中には内容がなく空虚な自我があるだけだ。流行次第で右から左へどうにでもなり、通俗小説の表現などからお

手本を学んで時代の表現だと思いこんでいる。(引用1)」「演出家どもは演出家どもで、企画部員は企画部員で、徒党を組み、徳川時代の長脇差と同じような情誼の世

界をつくりだし義理人情で才能を処理して、会社員よりも会社員的な順番制度をつくっている。それによって各自の凡庸さを擁護し、芸術の個性と天才による争覇を

罪悪視し組合違反と心得て、相互扶助の精神による才能の貧困の救済組織を完備していた。内にあっては才能の貧困の救済組織であるけれども外に出でてはアルコー

ルの獲得組織で、この徒党は国民酒場を占領し三四本ずつビールを飲み酔っ払って芸術を論じている。彼等の帽子や長髪やネクタイや上着は芸術家であったが、彼等

の魂や根性は会社員よりも会社員的であった。(引用2)」「伊沢は芸術の独創を信じ、個性の独自性を諦めることができないので、義理人情の制度の中で安息すること

ができないばかりか、その凡庸さと低俗卑劣な魂を憎まずにいられなかった。(引用3)」その当時27歳の私の広告という仕事およびそれにかかわる人間に対する不信

感不快感および嫌悪感と『白痴』の27歳の主人公、つまり坂口安吾本人の文化映画およびそれにかかわる人間に対する不信感不快感および嫌悪感とが、ピタリと重な

りあって同調し、気がつけば互いに共鳴しあってさえいるのであった。さらには、『白痴』の27歳の主人公は藝術の独創を信じて疑わず、個性の独自性を決して諦め

てはおらず、その一本筋の通った反骨精神/パンク・スピリットは当時27歳であった私および今現在40過ぎの私の反骨精神/パンク・スピリットともピタリと重なり

あい、つまり私も生来首尾一貫して藝術の独創を信じて疑わず、個性の独自性を決して諦めない反骨精神/パンク・スピリッツの持ち主なのであった。そして、坂口安

吾の『白痴』との運命的な邂逅からほどなくして、私は、坂口安吾に背中をどつかれせっつかれるかのような形で、きっかり6年間勤めたフランク・ザッパのバンド

名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M) を意を決し、突然辞めたのだった。その時、私は、藝術家になるために会社を辞めます!と偉そうな啖呵

を切って会社を辞めたわけであったが、藝術家になるも何も、私には『白痴』の主人公同様に藝術の独創を信じて疑わず、個性の独自性を決して諦めないという一本

筋の通った反骨精神/パンク・スピリットを持つばかりで、それ以外には藝術家になれるようなツテやアテましてや才能など何一つとして持ち合わせてはいないのであ

った。また、フランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M) を去り際に、会社の例の重役が言い放った言葉が今でも私の耳と

心に痛いほど強く刻み込まれているのであった。「広告業界で成功できないような人間が藝術の世界で成功できるわけがないだろ、バカか、お前は!白痴か、お前は

!」私には心の中で「ハイ、その通りです、私はバカですね!白痴ですね!」と答えるより他にすべもなく奥歯をグッと噛みしめ堪えるばかりであった。ただし、そ

の時重役の口からまさか白痴という言葉が飛び出てこようとは思いもよらず、私はなんだか自分の心の奥底までもすっかり見透かされているような一種の気味の悪さ

も感じていたものだった。なぜならば、私は坂口安吾の『白痴』にそそのかされて会社を辞めることを心に秘めたまま誰一人に対しても口外していなかったからであ

った。もしも私が27歳のあの時あのタイミングで坂口安吾の『白痴』に出会い読んでいなかったとしたら、もしも私があの時27歳ではなく26歳や28歳だったとした

ら、もしも『白痴』の主人公が文化映画の演出助手ではなかったとしたら、もしかしたら、私は今でも広告業界の片隅に身を置き続け、何かの大間違いで大成功を収

め、あぶく銭でベンツやポルシェやフェラーリなど高級外車を乗り回し、愛人を何人もはべらせて、都会のタワーマンションのベランダからシャンパングラス片手に

夜景を眺めていたのかもしれないと想像すれば、ほんの少しばかり惜しい気持ちにもなるけれど、あの時、27歳の私が無謀にも藝術家になると宣言して会社を辞めて

いなかったならば、今現在の私は絵を描いていることもないだろうという非常に強い確固とした信念だけは私の心の中心にしっかりとあって決して揺るがず、また、

残念ながら現在の私は藝術家として大した成功を収めているわけでもなく、また、そもそもの話、藝術家と名乗ることすらもおこがましいことなのかもしれず、40を

過ぎもうすぐ50に手が届きそうになってもなお、いまだ何一つ成し遂げてはおらず、何者にもなってはいないわけだけれども、あの時の27歳の私や『白痴』の27歳

の主人公、つまりは坂口安吾自身と同じく、藝術の独創を信じて疑わず、個性の独自性を決して諦めないということだけは、嘘偽りなく心の底から胸を張って高らか

に宣言することができるのであった。 重ねて、27歳の私が、坂口安吾の『白痴』を読んだことにより、あたかも坂口安吾に背中を押されるかのような形で、思い切っ

て会社勤めを辞めて藝術家への道を目指す決意を示したことは、たとえそれが若気の至り、バカだ白痴だと蔑まれようとも、私の40数年もうすぐ50におよぶ、ろく

でもない人生における数少ない他人に誇ることのできる、とてつもなく素晴らしく尊いそしてかけがえのない経験であり、40数年もうすぐ50におよぶ私のろくでも

ない人生において、まさに掃き溜めに鶴のごとく、燦然と輝き続けるのであった。以上が私が広告や広告業界に対して不信感不快感および嫌悪感を抱き続け忌み嫌う

多くの理由の中でも本質的な根っこの部分を担うほぼ大筋に当たるわけだけれども、おそらく坂口安吾の『白痴』を一読されると、より深く私の言わんとするところ

が理解できるのではないかと思われるがゆえ、まだ坂口安吾の『白痴』を一度も読んだことがないという人たち、特に広告業界に身を置きクリエイターなんちゃらと

呼ばれて持ち上げられて調子に乗っていい気になっている人たちには、是非とも熟読の上、坂口安吾先生に時空を越えてボロクソにこき下ろされ罵倒され、こん棒で

頭をガッツンとぶん殴られるかのような衝撃を受けて身の程を知っていただきたいと強く願うばかりである。と、ここまで散々偉そうなことを並べ立てておきながら

今さらなのだけれども、実は私はフランク・ザッパのバンド名から取って名づけられたTV-CMプロダクション(頭文字M)を藝術家になると高らかに宣言して辞めたも

のの、私には藝術家になるためのツテやアテなどは一切なく、そもそも藝術系の学校で藝術を学んだためしもなく、ましてや藝術家になるための才能など、私は一切

持ち合わせておらず、さらに最悪なことには、藝術とはなんぞや?という本質的な問いに対しても、私はまったくもって明確な答えを持ち合わせてなどはおらず、藝

術家というものは明日から藝術家になりますよ、と言ってすぐになれるようなそんな生易しいものではなく、また藝術家というものは藝術家になろうと思ってなるよ

うなものでもなく、藝術作品を表現して初めて藝術家と呼ばれるに値することも知らず、藝術家になる!と高らかに宣言して会社勤めを辞めたはいいが、一体全体自

分はこれから先何をどうやって生きていけば良いものやら皆目見当もつかずにいきなり路頭に迷い、こんなことならば藝術家になるなどという大それた妄言を吐いて

会社勤めを辞めなければ良かったと勢いにまかせて身の程知らずにも藝術家への道を目指したことを早くも後悔しはじめている自分に気づくのであった。そして、案

の定その後すぐに金が尽き生活に困窮し再び広告業界に戻ってしまったのであるから、カッコ悪いことこの上なく、また、今さら何をか言わんやかもしれないが、嫌

よ嫌よも好きのうちという言葉もあるように、もしかしたら私は広告という仕事が好きで好きでたまらないのかもしれないとふと思ったり、そのすぐそばから、そん

なことがあるわけがない、そんなことがあってたまるものか、絶対あるわけがないだろ、と強く否定してみたりと、私の心はいっこうに定まらず、本音を言えば、私

自身すらもどちらなのかよくわからないというのが心偽らず正直なところなのであった。そして、今でも私は、フランク・ザッパのバンド名から取って名づけられた

TV-CMプロダクション(頭文字M)を辞める際に会社の例の重役から言われた言葉を夢の中で思い出しては、真夜中に突然叫び声をあげながらパンツの中まで汗びっしょ

りになって目覚めるのであった。「広告業界で成功できないような人間が藝術の世界で成功できるわけがないだろ、バカか、お前は!白痴か、お前は!」私はひとり

夜の真っ暗闇の先の先、そのまた先の先の先の先、いるはずもない誰かに向かってこう答えるのであった、「ハイ、その通りです、私はバカですね!白痴ですね!」

2020. 7

 

 

 

 

 

00.『Search and Destroy / スタークリエイター連続殺人事件 (仮)』

 

 

 

 

2000年代初頭、私はまだ絵を描きはじめてはおらず、広告業界の片隅にひっそりと佇み、つつましやかに暮らしていた。2001年夏の初め、当時勤めていた会社の社

長と喧嘩をし会社を追い出された私は、やむにやまれず、その後はフリーランスで仕事をしていくことに決めたのだった。フリーランスで仕事をはじめるにあたり、

色々な会社に持ち込み営業をかけるため、今までに携わってきた仕事映像を1本のテープ(約10分)にまとめ、さらには、今までに仕事で提出したものの採用には至ら

なかったけれど自分自身では面白いと非常に気に入って保存しておいた絵コンテ約100枚ほどを1冊に簡易的にまとめ『ぼつコンテ集』と冠した手作りの冊子を作成

したのだが、特にこの『ぼつコンテ集』には、私の広告業界における血と汗と涙が滲む苦闘の歴史、情念や執念、すなわち今までの私自身のあらゆるすべてがぎっし

りと詰め込まれた、見る人によっては胃もたれや胸焼けや消化不良を引き起こしかねない、非常に濃ゆいディープな内容になっており、私はその時点でまだ絵を描き

はじめてはいなかったのにもかかわらず、人に読ませるとみな口を揃えて、絵がすごくいい味出してますね、漫画家にでもなったらいかがですか、など特に絵コンテ

の絵を褒められる機会が非常に多くて、決して自画自賛するつもりなどないが、仕事で使えるかどうかは別の話として、自分で何度読み返してみても、非常に面白い

と思える読み物になっているのであった。そのような仕事で使えるかどうかは別の話として、私の広告業界におけるすべてがぎっしりと詰まった最強の自信作『ぼつ

コンテ集』を主な営業ツールとして携え、私は勇んで持ち込み営業をはじめたわけだったが、持ち込み営業を開始してまもなく、私の周囲では摩訶不思議な現象が立

て続けに起こるようになるのだった。その摩訶不思議な現象とは、前述したように私が営業ツールとして持ち込み営業に常に携え配って回っていた『ぼつコンテ集』

から何者かが私の企画アイデアを盗用し自らの仕事に流用し勝手に映像化した上で、その映像がTV-CMとしてTVの画面から頻繁に流れてくることであった。すなわ

ち、私の『ぼつコンテ集』を何らかの方法により入手して読んだ何者かが、私に企画を依頼はせず、私の『ぼつコンテ集』の中から企画アイデアをネコババ・ヨコド

リして盗用し、あたかも人の褌で相撲を取るがごとく、自らが考え出したかのような素振りで自らの仕事に流用し、クライアントはじめ多くの関係者は言うに及ばず

世間までもをまんまとダマくらかして、その見返りとして少なからぬ報酬および名声を得ているということになるわけだった。常々私は自ら企画アイデアを考え出す

際、自らの腹を痛めて自らの子供を産み落とすかのような感覚で仕事と向き合ってきており、その仕事への過剰な向き合い方が広告業界において本当に正しいのか正

しくないのか、正直私にはわからないけれども、とにかく自ら腹を痛めて産み落とした企画アイデアか否か、その見極めに関しては、一目見れば直感的に天啓を受け

るかのごとく、すぐに見抜けてしまうのだった。もっとも、当初は、直感的に「何か嫌な予感がするな」と思いながらも「偶然似てしまったんだろう」とか「世の中

には同じようなことを考える人間もいるものだな」とか、あえて楽観的に考えていたものだったが、普段日常的にTVを見ていて、あまりにも直感的に「盗まれている

な/パクられているな」と天啓を受ける機会が頻発してくるようになってきてようやく私は、決して「たまたま」だとか「偶然」だとか「気のせい」だとか「錯覚」だ

とかではなく「意図的に」「故意に」「悪意をもって」何者かが私の『ぼつコンテ集』を読んで『ぼつコンテ集』の中から私の考え出した企画アイデアをネコババ・

ヨコドリして盗用していることを疑う余地のまったくない現実問題として認識せざるを得なくなるのだった。それは例えば、作詞家の卵が自作の歌詞をレコード会社

に持ち込み営業した直後に自分の歌詞が丸パクリされたりところどころ切り貼りされて使用された秋元康作詞のAKBだか何KBだかの歌がラジオから流れてくるのを偶

然耳にするような、例えば、イラストレーターの卵が出版社に作品ファイルを持ち込み営業した数ヶ月後に自分の絵のアイデアや構図や色使いなどそっくりそのまま

丸パクリな表紙を有名イラストレーターが手掛けた書籍のシリーズが本屋に平積みされているのを偶然目にするような、例えば、脚本家の卵が映画会社に自作のシナ

リオを持ち込み営業した数年後に自分の書いたシナリオそっくりそのまま丸パクリな川村元気プロデュース/新海誠監督の新作映画の予告編を映画館で偶然目にするよ

うな、乱暴にわかりやすく説明するならば、つまりそういうことになるわけであった。自らの腹を痛めて産み落とした企画アイデアを何者かにネコババ・ヨコドリさ

れ盗用され勝手に映像化されて、TV-CMとしてTVの画面から突然流れてくる瞬間を目の当たりにした時の私の気持ちをどのような言葉で表現したらよいものだろう

か、とにかく摩訶不思議な感覚であることは間違いなく、その後に必ず背筋がゾクッとするような、ストーキング被害にでも遭っているかのような、卑しい乞食にゴ

ミ箱を漁られているかのような、小学生の頃育ちのよろしくない下品なクラスメイトに家の冷蔵庫を勝手に開けられて中の食べ物を漁られた時のような、なんとも気

味の悪い感覚に襲われ、そしてその後ようやく激しい怒りが私の心に沸々と湧き起こってきて、そしてその激しい怒りが収まっていくにつれて、私の心はゆっくりと

深い哀しみに満たされていくのであった。なぜ哀しくなるかといえば、何者かが私の『ぼつコンテ集』の中から私の考え出した企画アイデアをネコババ・ヨコドリし

て盗用し勝手に映像化されたTV-CMのクリエティヴのレベルが、見ているこちらが恥ずかしくなり、そして哀しくなるほど、もう救いようもなく絶望的に低いからで

あった。それらのほぼすべてが、私の絵コンテに流れているある種独特な面白さを20%すらも反映させてはおらず、ただ上っ面のみを表層的に掠め盗り体裁を整えて

お茶を濁しているに過ぎず、つまり、わざわざカンニングまでしておきながら、12点か17点しか取れずに落第するアホな劣等生のごとく、もう惨憺たる有り様で目

も当てられず、もしかしたらそれは、私に対する「あなたさまの面白さだけは決して盗んだりはいたしませんよ」という心遣いなのではないかと勘ぐってみたりもし

たけれど、そもそも、そのような他人に対する繊細な配慮のできる人間ならば、はなっから他人の企画アイデアをネコババ・ヨコドリするなどという、羞恥心の麻痺

した鈍感で図々しい、人間として恥ずかしい愚かな行為など到底できるはずがないだろうと思い至り、それでは、一体全体なぜみんながみんな揃いも揃って私の『ぼ

つコンテ集』から面白さだけは盗めていないのかを煎じ詰めて真剣に考えてみたところ、おそらく、私の『ぼつコンテ集』が面白くて魅力的であるのは、私の企画ア

イデアが面白いのはもちろんのこと、加えて、私の絵にも相当な魅力があって、その絵の魅力によって私の『ぼつコンテ集』の面白さが倍増されているからではない

かという結論へと辿り着くのであった。さらに、人間の持つユーモアという素晴らしい感覚は、常に余裕から生まれ出てくるものであり、他人の企画アイデアを盗む

ような人間は他人の企画アイデアを盗んでいる時点で余裕などあるはずもなく、それ自体がまさにその人間の心の貧しさを如実に物語ってしまっているわけであり、

心が貧しいからこそ盗まなければならないのであって、そのような貧しい境遇からは面白いものなど生まれ出てくる余地など期待するだけ無駄なのであろうとも、あ

らためて私は思い至るのであった。それからというもの、私は普段日常的にTVを見ていて私の『ぼつコンテ集』から何者かが私の企画アイデアをネコババ・ヨコドリ

して盗用し勝手に映像化していることに直感的に気がつくたびに、どこの組織に所属するどこの何者が私の『ぼつコンテ集』のどのページどの絵コンテのどのカット

からどのように私の考え出した企画アイデアや言葉やセンスや構成を盗用して、時にどのように形を少しばかり変えたりなど小賢しい姑息なまねまでして、どこのク

ライアント企業のどの商品のどのTV-CMに流用しているかなどについての情報を逐一克明詳細に記録に残すことを心掛けるようになっていったのだった。通常広告と

いう活動の根本的な成り立ちの性質上、広告制作物そのものには作り手の名前が明記されることはまずないが、広告業界の専門誌や各種年鑑にはスタッフ・クレジッ

トが明記されており、この時の私にとってそれらの情報は大いに役に立ち、それらを片っ端から買ったり借りたり立ち読みしたりなど最大限に活用しながら、時に本

屋で立ち読み中に沸き上がる怒りにまかせて雑誌のページを破りかけたり、時に図書館で分厚い年鑑を床に叩き付けたくなるほどの衝動を必死に抑えたりなどしなが

ら、私はあたかも子供を嬲り殺された親が復讐を誓い卑劣な凶悪犯人を執念深く地獄の底まで追いつめていくかのごとく、執拗かつ丹念に事実関係を徹底的に調べ上

げ精査検証し、逐一克明詳細に記録に残していくのであった。その『記録』は現在分厚いファイル5冊目の途中であり、いまだ完成には至っていないのであるが、そ

の未完成という事実は、驚くことに2001~2003年頃に私が『ぼつコンテ集』を携えTV-CM制作会社などに持ち込み営業に回った当時から数えすでに20年近くという

長い年月が経過しているにもかかわらず、また、すでに私が広告業界からとっくの昔に足を洗っている現在に至ってもなお、いまだに何者かが私の『ぼつコンテ集』

から企画アイデアをネコババ・ヨコドリし続けているという動かぬ証拠でもあるのだった。もしも、その『記録』を読んでもらう機会があるならば、誰もが一目瞭然

であろうが、私の『ぼつコンテ集』からほぼ特定の何者かが常習的かつ頻繁にパクリ行為を繰り返していることにすぐさま気がつくことであろう。その中には社会的

な地位や名声もある超がつくほど有名な者も多数含まれており、「え、あの人が?」「え、この人も?」「あの有名な人が?」「嘘、信じられない」「そういうずる

いことする人には全然見えないんだけど」ときっと驚くことであろう。人は見かけによらぬものであると私も当初は少しばかり意外に思ったりもしていたものだが、

もっとも、彼らは広告業界で知らぬ者がいないほどの有名人であり、誰もが知る有名な仕事を数多く手掛け、数々の有名な広告賞も受賞しているので、彼らの名前は

嫌でも目や耳に飛び込んできて前々からよく存じ上げてはいたものの、私は彼らに対して何らの魅力も才能も好意も感じた試しは一度もなく、これは決して負け惜し

みとかではなく、洗脳が解け自分の頭を使って考えることができる人間ならば私が言わんとしているこの気持ち悪さを共有してもらえると思うけれど、なんとなく彼

らは身分不相応に無理やり持ち上げられているのではないか、何か裏で特殊な力が不自然に働いていて、つまり何らかのドス黒いカラクリがきっとあるに違いないと

うっすら勘ぐってもいたので、さもありなんなのだった。そのように私にとっては何らの魅力も才能も好意も感じぬ相手から執拗につきまとわれるという、その構図

がなんとなく私にはストーキングの被害に遭っているかのようにもだんだん思えてきて、もちろん私はストーキングの被害に遭うのは生まれて初めての経験であった

けれども、ストーキングの被害というものは実際に遭ってみると想像以上に気持ちの悪いものだと身をもって骨の髄まで思い知らされたものの、直接やめてくれと抗

議しようにも彼らと接触することを考えるだけで吐き気がするほど気持ちが悪くなってしまって(この時私はストーカー被害に遭う女性の気持ちが痛いほどわかったも

のだ)、警察に相談するわけにはいかずとも、法律事務所には何度か相談に行ってはおり、担当の弁護士曰く、こういう案件は法律では裁けないので、直接話し合って

解決するか、もしくは、世論に訴えて民意を動かすほかないでしょうね、これだけ十分に証拠が揃っているのであれば、何らかの手段で世に問うてみたらいかがでし

ょうか、今の時代個人でも情報を気軽に発信できますので、ツイッターやブログなどSNSを使ったり、週刊誌やWEBメディアに情報を売るのも一つの手ですね、いく

らでも方法は考えられます、やり方次第では相手に大きなダメージを与えることも可能です、もしかしたら、逆に名誉毀損などで訴えられる可能性もなきにしもあら

ずですが、その時は正々堂々と戦えばいいんです、こちらは悪いことなど何一つしてないんですから、あきらかに非は相手側にあるのですから、とにかく声を上げな

ければ何も解決しません、何か事が起こった時は是非ご一報下さい、一緒に戦いましょう、とのことであったが、実際に行動に移すのが非常に億劫であったのと、や

はり何らの魅力も才能も好意も感じぬ、おまけにストーキングまがいのまねまでするような人間と直接関わり合いになるのがどうにもこうにも気持ちが悪くて仕方が

なく、二の足を踏み続け、その間にも私の『ぼつコンテ集』から企画アイデアをネコババ・ヨコドリし勝手に映像化された、相変らず面白さだけは盗めていない出来

損ないのTV-CMがTVの画面から頻繁に流れ続けてきて、まったくもってタチの悪い相手に目を付けられてしまったものだ、こんな状態がずっと続くのだろうか、一

体全体どうしたものであろう、気持ち悪いったらありやしない、などと思い煩っているうちに、彼らのストーキングに類する行為はみるみるエスカレートしていき、

彼らのパクリの対象が私の『ぼつコンテ集』や私の過去に携わった映像作品だけにはとどまらず、次第に私が自分のホームページに載せている絵の作品などにまで及

ぶようになっていき(それらの被害もすべて逐一克明詳細に記録に残してある)、彼らはどんだけ私のことが大好きなんだろうか、こっちはまるっきり興味がないとい

うのに、とあまりの気色の悪さに身震いするほどであった。その超がつくほど有名な者の中でも、特に悪質なのが3名ほどおって、さしあたって言葉で表現するなら

ば、その3名ほどは「殺意を覚えるレベル」で悪質であり、人はそんなに容易く人を殺してやりたいなどと思ったりしないということを大前提として考えてもらうと

わかりやすいけれど、こんな下品な言葉はできることならば口にしたくはないとわかった上でも、思わず殺してやりたいと口にしてしまうくらい、そう口にせざるを

得ないくらい、それほどまでに悪質なのである。『記録』を読んだ誰しもが、殺してやりたいと思うのも致し方のないことですね、手足を押さえつけるお手伝いをい

たしましょうか、何なら私が代わりに…と思わず申し出てしまうくらいあまりにも悪質なのである(一応冗談めかして書いているが、この殺意は正真正銘ホンモノの殺

意であり、それほどまでに私のハラワタは煮えくり返っているということである)。また「乞食も三日すれば忘れられぬ」と諺にもあるように、一度パクって成功体験

した者はその成功に味をしめ、その味が忘れられず、その後もパクリ行為を何度も繰り返すという習性があることがわかり、それはあたかも私には、見知らぬ女の部

屋に忍び込み脅して卑劣な行為をしたものの、女はいっこうに被害届を出す気配もなく、その後も何度も繰り返し女の部屋に忍び込んでは卑劣極まる行為を繰り返し

逮捕されたあげく取り調べに対し「受け入れられていると思った」などとマヌケな供述をする強姦魔を連想させるのだった。一度パクリ行為が確認されパクリ野郎で

あると特定した者を執念深くさらに偵察を続けていくと、彼らは必ずといっていいほどすぐさま再びパクリ行為をおこなうというわけである。そして二度あることは

三度ある、三度あることは四度あるといった具合に延々とパクリ行為を繰り返すのである。なぜ社会的な地位も名声もある者たちが道義的倫理的に問題のある悪辣非

道な行為に簡単に手を染めてしまうのであろうか、なぜ善悪や美醜の区別すらもつかなくなってしまうのであろうか、卑劣な手段で他人を踏み台にして自分だけおい

しい思いができればそれで満足なのであろうか、まさかバレていないとでも思っているのであろうか、たとえバレても権力を笠に着れば何とでもなるとでも思ってい

るのであろうか、パクった仕事で有名な賞まで獲って穢れたトロフィー飾って一体全体どんな気持ちでいるのであろうか、良心は痛まないのであろうか、そもそも良

心なんて高尚ものは持ち合わせてもいないのであろうか、もしも子を持つ親であるならば、子供が万引きで捕まった時に親としてどのような顔をしどのように躾ける

つもりなのであろうか、クリエイター・オブ・ザ・イヤーだか何だか知らないけれども、頭にきちんと「パ」をくっつけて、パクリエイター・オブ・ザ・イヤーがお

誂え向きなのではなかろうか、そんな品性をした者たちがトップクリエイター面して上位で偉そうにふんぞり返っているから今の日本の広告業界(特にCM業界)はもう

本当に洒落にならないほど底知れず救いようもなくダメになってしまったのではなかろうか、などと私はなんだか哀しい気持ちにもなってきてしまうのだけれども、

このようなパクりパクられといった企画アイデアの盗用問題はどこの業界においてもさして珍しい話でもなく、本来企画アイデアというものは著作権が認められてい

ないがために法律で保護されているわけではなく、盗用しようがパクろうが法律で罰することができないので、倫理や仁義や良心といった法律では決して裁けない、

けれども人間としての尊厳を維持するために非常に重要な領域に属するデリケートな部分を一旦麻痺させてしまえば、罪悪感を覚えることなく容易に悪徳を為してし

まえるのが人間という生き物の哀しい性であり、だからと言って法律に触れなければ何をやってもいいということにはならないわけで、企画アイデアの盗用はあきら

かに社会的倫理という意味でのコンプライアンスに違反する、道義的、倫理的には確実に問題のある愚かで恥ずべき悪質な行為であり、何かを表現する仕事に従事し

企画アイデアを生み出した経験のある者ならば、その生み出す際の艱難辛苦、懊悩呻吟を伴う困難を知らないわけがなく、その困難を知っておきながら他人の生み出

した企画アイデアを安易にネコババ・ヨコドリしてしまうその無神経さに対してはもう言語道断であり、一度でも自分の腹を痛めて子供を産んだ経験のある母親なら

ば、誰か他人が腹を痛めて産んだ子供を何らの罪悪感もなく攫うことなどは到底できないはずであり、それを簡単にできてしまうというそのこと自体が、すなわち、

常日頃何かを表現するという行為に対して不誠実な態度で臨んでいるというまぎれもない証左となり、さらに、百歩譲って、何かを表現する上でまったくのゼロから

まだ誰も見たこともないまったく新しいものを生み出すという作業は、過去からすでにたくさんのものが生み出され尽くしてきた現在においては甚だ難しいことであ

り、先人の成し遂げた偉業から少なからず影響を受けるのは致し方のないことであるというのはもっともな話であるけれども、だがしかし、その際にも必ずや先人に

対する敬意や配慮というものが欠かせぬものであり、また、何かを表現する者ならば誰しも過去に何度かは無意識のうちや出来心から、もしくは、罪悪感を覚えなが

らも恥をしのんで泣く泣くパクリ行為およびそれに類する行為に手を染めてしまったというほろ苦い経験があると思われ、私自身も一度もないと言ったら嘘になって

しまうから、完全なる清廉潔白を宣言することは難しいのだけれども、私の『ぼつコンテ集』に対するパクリ問題に限って言えば、盗用されている分量が尋常でなく

膨大、常習的ゆえ、非常に悪質で犯罪的、かつ『ぼつコンテ集』の発案者である私に対する敬意も配慮も微塵も感じられず、さらに、社会的に有利な立場を利用して

弱い立場のフリーランスの人間の権利を侵害するという、その構図がパワーハラスメント行為とみなすこともできなくはないため、決して看過することはできず、私

は泣き寝入りするつもりなどはないのである。とまれ、他人の成果や才能に対して最小最低限の敬意を表したり配慮を示せぬ人間に何かを表現する資格などはなく、

そういった他人の気持ちや後先のことはまったく思い遣れずに、己の目先の欲を満たすことだけに汲々とするような、まるで犬、豚、猿、畜生、乞食のような、下劣

でくだらぬ品性の持ち主がこしらえるものは、いかに巧妙狡猾に情報操作や印象操作を駆使してあたかもすぐれたものであるかのように見せかけようとも、やはり本

質的には下劣でくだらぬものにしかなり得ないことは自然の摂理であり、何かを表現する者としての矜持が欠落し羞恥心の麻痺した、よこしまで悪賢く鈍感で図々し

い人間ども(豚ども)の、よこしまで醜く卑しい欲望は果てしのない底無し沼であり、私はただただ呆れ果て、底無し沼の畔にどんよりと佇み、その深淵を覗き込もう

として思わず怖じ気づき震えあがり、かつて坂口安吾が『白痴』の中で「賤業中の賤業」と痛快痛烈に看破して批判したように、広告業界というもう救いようもなく

醜く腐り切った世界に対する私の不信感不快感および嫌悪感は、よりいっそう底知れずドロドロに深まっていくばかりなのであった。悪の報いは針の先。恥を知れ。

2020. 6

 

 

 

 

 

00.『Young and Foolish / くそつたれのうた (仮)』

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 

部屋を整理整頓中、絵を描きはじめた15年くらい前に、衝動的によく書(描)きなぐっていた、腐ったポエムのようなヤバいブツが大量に発掘された。へっぽこのくせし

て、一丁前に言葉と絵の融合を目論み、世に蔓延る相田みつを的な忌まわしき存在に対する反骨精神を大いに炸裂させ、便所の落書き的なものを目指し書いていたと

記憶している。感情の起伏によりタッチにムラがあり、いい加減に書いているようで、その実、文字の縁取りまで無駄にきっちりとやり、1枚仕上げるのに4-5時間、

文字が多いと7~8時間、そんな時間を費やして自分は一体どこへ向っているのだろうか?意味あるのか?と心に問いつつも、書かずにいられぬのだった。そこはかとな

い厭世観と諦念がブコウスキーを彷彿とさせなくもないが、当時まだブコウスキーとは出会っていなかった。そんな腐ったポエムを書いていた自分自身を、過去もろ

ともすべて葬り去ってしまおうと、随分前にてっきり捨てたとばかり思っていたものだったが。湧き上がる羞恥と格闘しながらも、その腐ったポエム群をあらためて

丹念に読み返してみれば、すべてを読み終えた後に不覚にも感動している自分がいた。大昔にどこかに隠しておきながら、その存在すらもすっかり忘れてしまってい

た、へそくりを偶然発見した時のような、もしくは、15年前の自分から、今のお前は全然イケてないよと駄目出しを食らっているような、なんとも不思議な体験であ

った。正直、何を書いてるのだろうか?頭大丈夫か?と目を疑う部分も多々あったが、昔の自分のほうが、得体の知れない獰猛なエネルギーが渦巻き、不穏なパワー

が漲り、良くも悪くも尖っていたように思える。当時の自分は、クソ、ケツの穴、金玉といった猥言がお気に入りで、常に何かに憤り、時に涙していたようだが、そ

れは今も昔もなんら変わりやしない。他人の顔色をジロジロと窺って、何も表現してないのに何か表現しているかのような気になって作られるものなど、所詮その程

度のものにしかなり得ない。人に何を言われようとも、自分の才能を信じ、信念を貫き、本当に自分の表現したいことを、表現したい方法で、表現されたものにこそ

真の価値がある。15年前に書いたポエムを、15年後に自分が読んで心揺さぶられるくらいだから、もしかしたら、他にも感動する人が少なからずいるのではなかろう

か。小説を本にする前に、まずはこの腐ったポエム群を、自らを再び先鋭化させるために、なおかつ、過去の弔いもかねて、本にするのも悪くないとふっと思った。

2020. 5

 

 

 

 

 

00.『Prologue / 藝術と創作と分泌と排泄にまつわる15篇 (仮)』

 

最近になって、ようやく創作意欲が湧いてきて、せっせと今書いている。以下、自分を鼓舞するために書く。50歳(2022年予定)までに小説を20篇くらい書いて、その

中から15篇くらいを選んで、本という形態にまとめる。売れようが売れなかろうが、そんなことは一切おかまいなしに、とにかく自分が書きたいものを、書きたいよ

うに書く。自分が面白いと思うことを、面白いと思うやり方で書く。常々、私は、生きることそれ自体が自分の作品だと考えており、金銭的な成果はそっちのけで、

その折々に自分が最高に面白く魅力的だと感じる生き方を模索してきたという自負があるため、今までの自分の体験を本質的な核として、大小様々な演出を加えなが

らも、できるだけ正直に書けば、必ず面白くなると信ずる。上手くても魅力を微塵も感じぬつまらない絵があるように、下手くそでも味わい深く面白い絵もあり、そ

れは生き方もまったく同様で、絵が下手くそな私は、生き方も下手くそで、きっと書く小説も下手くそだけれども、最高に面白く魅力的に違いないのである。もしか

したら、自分が死んだ後に、見知らぬ誰か他人が読んでくれて、もしかしたら、共鳴し感動してくれるかもしれない。ずっと長いものを書こうと思っていたけれど、

いっこうに書ける気がしないので、短いものをたくさん書く方向性に決めた。太宰治の第一創作集『晩年』が15篇、ラモーンズの1stアルバムが14曲なので、14~15篇

でサクッとまとめる予定でいる。短いものをさらに伸ばして中長篇にするかもしれないし、たくさん書けずに10篇以下でまとめるかもしれない。どこかに発表するか

もしれないし、発表しないかもしれないし、そもそも書けるかどうかすらもわからない。この先何が起こるかなんて誰にもわからないし、自分がいつまで生きていら

れるのかもわからないけれど、自分がこの世に生を受けた証しとして、今までの自分のあらゆるすべてを惜しみなく作品に注入する。もう誰も何も私を止めることは

できない!というのは虚勢だけど、目標ができたことを嬉しく思う。何はともあれ、絵に描いた餅は食えないので、とにかく書いて書いて書いて書きまくる他ない。

2020. 4